#3 あれは別格だ、違うか? 正面入口と書斎をつなぐ廊下から騒がしい気配が近付くのを感じて「今日はここまでかな」と作業を切り上げるつもりでいたのに、普段のドカドカした足音よりもずいぶん重く、遅い気がする。違和感の正体は、書斎のドアが勢いよく開いた瞬間に判明した。
「SAI! 首尾はどうだ?」
「龍水っ! それ、どうしたっ!?」
左腕を肩から吊り、左脚にも重そうな器具がある。腰に装着した外骨格型のパワードスーツが、左脚の腿の動きを補助していた。平素なら必ず随伴しているフランソワもいない。小さからぬトラブルの痕跡を隠す気もなく、龍水は元気いっぱいに笑った。
「はっはー! 大したことはない、気にするな!」
「いやっ、するよ、普通っ!?」
「貴様、俺を心配しているのか?」
「あ、当たり前だろっ! お前はっ……」
SAIの反射的な返答に、龍水はそれはそれは嬉しそうに目を輝かせる。
旧世界のセオリーに従ってのろのろと再建を進める七海グループとは対照的に、龍水は爆速で自分の資産を築き上げ、七海と別格の龍水財閥を完成させつつある。元来の手腕とカリスマをまとった容貌に加えて、初期復活者として世界の復興を牽引し、宇宙にまで飛んでいたという実績を持ち、さらに、龍水自身もそのトロフィーを誇ることに躊躇いがない。現在の龍水は、この全てのルールがリセットされた不安定な世界における「信じるに足る傑物」の1人だ。
市場は信用の上に成り立つものだ。龍水はすでに、世界の仕組みそのものの信頼性を担保する存在になっている。そんな龍水が歩行器具を要するほどの怪我をするのは、SAIに限らず、全人類にとっての一大事であるはずだった。
お前に何かあったら人類はどうなる。そんなSAIの言葉は途中で立ち消えてしまい、兄の絶句を龍水はすこぶる前向きに捉えて言った。
「はっはー! 貴様に心配されるのは快いものだな!」
龍水にそう喜ばれるとわざわざ否定する気も消えてしまい、SAIは今度こそ作業の仕舞いに入ることにする。龍水は、そんな兄の肩越しにモニタを覗き込んできた。
「じゃあ、報告始めるけどっ……お前、本当に大丈夫なんだよな?」
「貴様の心配には及ばん。狩猟中の事故だ」
「……人じゃ、ないんだな?」
「違う。撃ちそびれた鹿が死力を尽くして突進してきてな。それで踏み外して崖から落ちた。本当にただの事故だ。責は、手負いの怖さを侮っていた俺にある」
「フランソワは?」
「もちろん控えていたさ。だが止める間はなかった。……自分を責めているようだったので俺が大人しくしていることを条件に、数日休みを取らせた」
「お前……使用人に甘くなったよな」
「あれは別格だ。違うか?」
「……いーや、違わないよ。僕も同感だ」
老ける様子も疲れた姿も見せないフランソワの、かすかな消耗を見抜けるのは龍水だけだ。フランソワに約束したなら、龍水は本当に大人しくしているつもりだろう。『身動きが取れないなら、兄と一緒にいたい』。龍水の分かりにくい甘え方に、復活後のSAIはだいぶ慣れてきている。
SAIがコンソールパネルを操作すると、旧世界よりはチープな画面に大量の英数字が浮き上がる。全体に手早く目を走らせた龍水は、すぐに眉根を寄せて画面の一角を指差した。
「……このデータは何だ?」
SAIは内心で「さすがだな」と思う。ナマのデータを寄せ集めただけの雑多な情報から本質を見抜くまでが、恐ろしく速い。
「……ロケーションタグでっ、経済活動域を分類したもの」
「この数値はどこのだ、他と傾向が違うようだが」
「これは東アジアの一部地域……つまり、このへんだね。取引がすごく盛んで回線の負荷が高い割にっ、他の市場とのつながりが薄い。内輪でだけ盛り上がってるみたいに見えるだろ?」
「だが、規模は拡大している」
「そうっ。他の市場との取引じゃなくて、自分たちだけでシマを広げるみたいに。実経済とはちょっと違う……」
「架空経済……いや、虚構か。詐欺集団か?」
「いーや、詐欺なら外からの資金流入がもっと目立つはずだよ。もう少し惨めな感じだ。カルトかMLMかも」
「フゥン。変動の傾向が知りたいな。微分できるか? このコンピュータでは難しいかもしれないが」
「……そう言うと思ってねっ、こっちにまとめてある」
「流石だな、貴様」
「言っとくけどっ! ロケット軌道計算ほどの精度は出してないからなっ!?」
龍水の手放しの賛辞を、SAIは慌てて否定する。ちょっと人より計算が早いだけで、やり方が分かれば誰にでもできるものだ。そんな、できて当たり前のことで絶賛されるのは好きじゃない。
手段の整備が追いつかずに人の移動が旧世界ほど円滑にできない中、急ピッチで復興を進めるには健全な経済の活発化が不可欠だった。龍水は「信用を共有して人の心をまとめるものだ」として新たな経済システムの構想をブチ上げ、SAIは龍水の勢いに振り回される形でシステムの構築と実装を担うことになった。結果的に新世界の経済は「ヒトとモノとカネ」が物理で流通する現金ベースの経済と、ネット上で「信用と情報と残高」の数値が流通するデータ経済の2種類で成り立ち、それぞれが密に疎にリンクしながら、世界に2種類の国境線を引いている。そして、七海の異端児だった2人の庶子が、いずれのシステムをも牛耳る世界経済の王になっていた。
王の片割れが自由の利く右手で紙の束をめくる間に、SAIは別の処理を進める。SAIの作業がちょうど終わったところで龍水は紙束を置き、不審そうに鼻を鳴らした。
「フゥン。だいたい分かったが……キナ臭いな」
「だろ? ただ、犯罪の確証もないうちからディセーブルする必要はないと思うけど」
「関連取引を丸ごとダウンさせるという意味か? それは市場に不要な混乱を呼ぶだろう、違うか?」
「まあ、そうだろうね。それにっ、最初が嘘でもそれで皆が豊かになれたら、それはそれで良いと思う。取引が活発なのは良いことだしっ」
「信任の共有で皆が富む、それが通貨の力だ。新しい市場の勃興として見ておけば良いだろう」
「僕もそのつもり。それよりも龍水、」
もっと看過できない件があってねっ。でもこれは事後報告。龍水、お前を騙る偽物がいた。ちょうど今そいつを。
SAIが続けようとした言葉は、勢いよく開かれたドアの「バタン!」という音に掻き消された。先ほどの龍水と似たり寄ったり……もしかしたら、もっとうるさかったかもしれない。SAIどころか、龍水まで少しビクリとして扉を見やる。
視線の先には、細身の体躯を傾けて、ドアに半身を預ける人影があった。ゼェゼェと肩で息をしながら「お…ひさ〜」と声ばかりは軽く、でも平素では見られないほどの焦燥感をまとい、いかにもギリギリといった様子で立っている。
「……やあ、ゲン」
「どうした? 久しぶりにしては随分と」
「あ~、龍水ちゃんもいたの。久々で悪いんだけどさ」
千空ちゃんの居場所、知んない? 急に居なくなっちゃって、さあ!!
龍水の言葉を雑に遮って、刺々しい声を発する。あさぎりゲンの細められた眼の奥は、昏く燃えているように見えた。