いつかを託す手紙を帰宅してポストを確認した菅波は、数通のダイレクトメールに紛れて1通の茶封筒が届いていることに気づいた。安堵を持ってそれを取り出して自室に向かう。日勤当直明けの疲労の中、いつもの帰宅ルーティンの手洗い・着替えを済ませ、適当に買って帰った弁当を食べる。百音がいくらか作り置いて冷凍していった食事もあらかた食べきった頃合いで、いつもふとその寂しさがあるタイミングでもあった。
とはいえ、以前にもったいない気持ちで食べきらずにおいていたら、次に百音が来た時にまだ残っていて、冷凍でも美味しいうちというのがあるので、早めに食べてください、と叱られていて。いかにもありきたりなおかずで大して美味しくない白米を食べるのも、それはそれで言いつけを守っている感があるな、とあっという間に食べきって茶を飲みながら、菅波はここにいない人を思うのだった。
弁当ガラを始末して、茶封筒を手にデスクチェアに座る。カッターナイフで封を切って中を改めれば折りたたまれたA4の書類が1枚と、涼し気な色柄の一筆箋が入っていた。
『ご依頼の書類送ります。百音さんにもよろしくお伝えください』
母親の手跡にわずかに目を細め、書類を広げれば、菅波が加入している生命保険の受取人を変更するための被保険者の同意書が漏れなく記載・押印されている。
内容に問題がないことを確認し、デスクワゴンから別の書類を取り出す。生命保険の受取人変更申請の書類には、証券番号や加入者の菅波の情報が一式プリントされていて、下にいくつかの記入欄が設けられている。ボールペンを手に取った菅波は、ひとつひとつ、記入欄を埋めていく。
受取人変更理由欄は「結婚」にチェックを入れ、婚姻届けを提出した日付を書き。被保険者との続き柄には「妻」にチェックがはいり、氏名欄に「菅波百音」と初めて自分で書く4文字を丁寧に書いた。最後に印を押し、被保険者の同意書と共に封筒に入れて糊付けをすれば、あっという間に手続きの準備は整った。
準備のできた封筒を、ふと両手でくるくると何度かもてあそぶ。この生命保険に入ったのは大学を卒業した年だった。大した金額の保険ではない。自分に何かあった時に、葬式と私物の始末、つまり死後整理金ぐらいは自分で賄うべしと入ったもので、ゆえに受取人も親にしていたものである。
今回、婚姻届けの提出を期に、受取人を百音に変更する書類を整えたわけだが、妙に感慨深いものがある。百音に「自分の生殺与奪を預ける」という言い方をしたこともあり、こうして、自分の万一の後を託せるパートナーとなったという事実が、より輪郭を得たような感覚がある。あぁ、本当に結婚したんだなぁ、とふとしたことでしみじみする自分が、なんだかじわじわと面白くもあり。
ふっと笑いを漏らしたところで、ピコンとスマホにメッセージが届いた。見れば、ちょうど思いを馳せていた百音からである。アプリを開くと、自動車登録証の写真が届いている。ん?と画像を拡大しようとするともう一つピコンとメッセージが届き、『名義変更、これで全部完了です!』との追送が。口許を緩めた菅波は、百音に電話をかける。果たして、2コールで百音が出た。
「先生!当直明けですか?お疲れ様です」
「うん。百音さんは?」
「仙台出張にくっつけて陸運局に寄って、これから新幹線で一ノ関に向かうとこです」
「おつかれさま」
お互いのねぎらいが耳にやさしい。百音の方から聞こえる外の雑踏とおぼしき音も、適度な活気が好ましく感じられた。
「名義変更、たくさんで大変だったでしょ」
「結構なんだかんだあって、あれもこれもってなっちゃった。ほんと終わってよかった!って思います。って言ってたら、他にも出てきたらもう笑っちゃうけど」
「その負担をあなたにだけ強いてしまったのがやっぱり心苦しい…」
「だからって、やってみて分かりましたけど、これ、先生がやるの無理でしたよ」
「え?」
百音のセリフに、菅波が思わず声をあげると、電話の向こうからくすくすと笑い声が聞こえた。
「あちこち出向かなきゃだし、平日じゃないと手続きスムーズじゃなかったりすることもあるし。私はほら、日中に出先がいろいろあるから、ついでに動けたりもしたけど、先生がこれで来たかって言うと…うーん。ムリでしたね」
「えぇえ。そこまで断言されると。まぁ、否定もしづらいけど」
「だから、いいんです。これを先生にやらせずに済んでよかった、って改めて思いましたよ」
「うん。じゃあ、そうだね。ちゃんと言わなきゃ。ありがとう」
「はい」
まだくすくすと笑っている百音に、そうだ、と菅波が手許の封筒を手に取った。
「今、僕も書類仕事一つ終えたところです」
「どんな?」
「生命保険の受取人を百音さんに変更する手続き。今日投函する」
「せいめいほけん」
「うん。大した額じゃないけど、ちゃんと百音さんに託せるように。そうできるのがうれしいな、って思いながら書類書いてた」
「そっか」
「うん」
「とはいえ、あなたがこなした書類の量に比べれば微々たるものだけど」
こめかみに手をやりながら言う菅波に、百音が首を横に振った気配を感じる。
「こうやって、ひとつづつ手続きやってって、夫婦になるもんなんですね」
百音の言葉に、そうだね、と菅波も柔らかく相槌を打った。ちょうどそのタイミングで百音が仙台駅に着いたようで、じゃあ、駅に着いたから、また、と電話が切れる。スマホをデスクに置いて立ち上がった菅波は、自分の背中を託すための封書を投函すべく、晩夏の日差しの中、近所のポストを目指すのだった。