サメキーキャッチ 前後二景「ちょっ!聞いて!」
と東成大学附属病院呼吸器外科のナースの栃野が、休憩室に入って戸を閉めた途端に同僚のナースに声をかけたのは、年度末を控えた日曜の昼だった。
「どうしたの?」
同僚が問うと、栃野は信じられないものを見たという顔で声を潜めた。
「さっき、小カンファレンスルームの前通ったの。病理部の検査結果届けに行った帰りに」
「あぁ、しばらく菅波先生が使うって籠ってたけど」
そうよね、今使ってるの菅波先生よね…と栃野が咀嚼するようにつぶやくので、同僚も身を乗り出す。
「どしたの?」
「それがね、小カンファレンスルームの利用予定知らなかったから、電気つけっぱなしかなと思ってドアに手をかけかけたんだけど、そしたら電話で話してるっぽい声がしてて」
「まぁ、菅波先生、三日帰れてないし、なにか用事あればこういう時間に電話するしかないよね」
「それがさ、『そんなことをさせるために鍵を渡したわけじゃないんですから』とか言ってるわけ!」
栃野の言葉に、同僚もへぇえ!と声をあげた。
「どうもさ、菅波先生にカノジョできたんじゃないかって話はドクターの間でも話題になってたけど、へぇえ~。菅波先生、カノジョに鍵渡しちゃうキャラなんだ」
「ね、意外よね。自分のテリトリーには積極的に入れないタイプっぽいのに」
「というか、来週から宮城に専従でしょ?」
「遠距離になる…のよね?」
「たぶん…」
何て言ってどうやって鍵渡したんだろね、と栃野と同僚の間でひとしきり話が弾む。一緒に鍵作りに行ったり?いやいや、意外と何かのプレゼントと一緒に、とか?などあーだこーだと盛り上がるものの、まさかその二人も、病院の裏手の古めかしいコインランドリーのドアに激突しながら床にスライディングして渡したとは、夢にも思わないのであった。
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「今後、何を投げられても。あなたが投げるものなら、僕は全部取ります」
と宣言した菅波の胸元に、百音自身が飛び込んで。ぽんぽんと百音の肩をやさしく撫でる菅波の左手が百音には何より心地よく。菅波の右手には木のサメのキーホルダーがぶら下がり、「取れてよかった」とほほ笑み合う。
ふつふつと楽しい気持ちが湧いて、しばらく笑いあっている時に「あっ」と声をあげたのは百音である。
「先生、すぐ戻らないとなんですよね。もう、私は大丈夫です。病院、戻ってください」
まっすぐに自分を見上げる百音に、菅波は目を細める。こうして、いつも自分の背中を押してくれて。それに甘えてはいなかったか、きちんとこの人といつも向き合おう、と改めて自分に誓いつつ。
「さっき言ったとおり、送ります、会社まで」
菅波がそういうと、百音がなぜかもじもじとする。
「どうしました?」
菅波の問いに、百音はおずおずと上目遣いで菅波を見る。
「出社の予定、三時間後…なんです」
「え?」
「ずっと会えなかった先生が、『今から会えませんか』って言うから、なんか、こう、意趣返しじゃないけど、意地っ張りな気持ちになっちゃって、『これから勤務で』って言っちゃったんです。けど、ほんとはもうちょっと後で…」
百音のその言葉に、菅波からすれば『かわいい』という感想しか思い浮かばない。
「そうでしたか」
やわらかく言う菅波に、百音は、なので、と胸の前で両手をそれぞれこぶしに握ってみせた。
「また先生のお部屋に戻って、引っ越し準備の続き、しときます!」
「いや、しかし、やっぱり永浦さんにそれをしてもらうのは…」
と菅波が止めかけて、ふと言葉を止めた。百音は首をかしげて菅波の言葉の続きを待つ。一瞬の思考の後、菅波が「あの、」と口を開いた。
「あの、そうしたら、面倒かけるんですが、ひとつお願いしてもいいですか?永浦さんの力を借りたいことがあります」
菅波の言葉に、百音が「なんでしょう」と背筋を伸ばした。
「向こうに行ったら、いくつか挨拶周りに行かないといけない先があるんです。そこに手ぶらで行くわけにもいかなくて、なにか手土産をとも思いつつ、全くそんな時間はとれてないし、何がいいかもわからなくて。いくらか預けるので、見繕って買ってきてもらえませんか?」
今度は菅波が上目遣いに百音を見る。
「もちろんです。今から行って来たらいいですか?三時間あれば東京駅のデパート行って戻ってこれます。どんなところに行くか、教えてください。あ、菜津さんにも相談してみます。おじいちゃんおばあちゃんと、おつかいものに詳しいんですよ」
菅波が自分を頼ってくれることがあった、と百音は腕まくりの勢いで、それが菅波にもうれしい。
「買っておいたら、先生のお部屋に置いといたらいいです?」
百音の言葉に、菅波が首を横に振る。
「汐見湯まで受け取りに行きます。永浦さんに会いたいから」
さらっと言われた言葉に、百音の頬に朱が刷かれる。
東京駅のバス停まで送ります、と菅波が百音の手を取り、先ほど自分が駆け下りた階段に導く。とつとつと登りながら、挨拶先の数と種類を聞いた百音が、じゃあこんな感じで?と提案するのを、菅波がすてきです、と頷いて、二人の歩みは橋にかかる。
最近はお互い一人で渡っていた橋を二人で渡るだけで、なにか心弾む気がする。春の風が髪をなでるのが気持ちよい。橋のたもとにつけば、バス停と横断歩道。
「先生、バスもうちょっとかかるから、病院戻ってください。おつかい、ちゃんと行ってきますから」
「ありがとう。あ、そうだ、お金」
財布をジャケットから取り出した菅波は、ポケットをひっくり返したまま一万円札を数枚、むき出しでごめん、と言いながら百音に預ける。はい、お預かりします、と百音がかしこまって言うと、菅波がくしゃりと笑った。
「ほら、先生、信号まだ青ですよ。行ってください」
百音の言葉に、菅波はさっと百音の頭にキスを落として、点滅を始めた横断歩道を駆けだした。
対岸に着いた菅波は、二度三度振り返りつつ、病院への道をあがっていく。百音が小さく手を振ると、最後に手を一振りして、菅波の姿は植え込みに紛れた。
直後、到着したバスに百音は乗り込み、最後部の席に座って東京駅を目指す。窓から菅波の勤務先の病院を見上げる百音は、不安がすっかり晴れた心で『先生が 全部取りますって言ったから 三月二十六日はだいじょうぶきねんび』などと、今日のことをかみしめるのだった。