先生のお迎えと書類提出その日の百音の退勤は定時通りで、お疲れさまでした、と社屋を辞した百音は、信号を渡って大通りに向かってワンブロック進む。道から少し入った建物の角に、菅波の姿を見つけて百音が駆け寄ると、菅波は読んでいた文庫本を閉じて百音に向き合った。
「先生、こんにちは!お待たせしました」
「いえいえ、予定通りの時間で待ってないですよ、永浦さんが定時通りでよかった」
「莉子さんとかが気を遣ってくれてて」
退勤後に菅波と予定があると聞いた莉子や内田が、あとはやるっておくから今日は帰れ、と百音を追い出した話を聞き、菅波はありがたいことですね、とほほ笑む。こういう折にサポートを得られるのも、百音の普段の仕事ぶりがあってのことであろう、とその厚意を菅波が受け止めて見せれば、百音もそれに過度に委縮することなく。
「先生は何読んでたんですか?」
百音が首をかしげて菅波の手許の文庫本に目をやる。
「リスクリテラシーと統計的思考の本です。統計の入門書なのだけど、医療もそれ以外のトピックも幅広に取り上げているのが逆によいなと思って買ってみたとこで」
頭上にクエスチョンマークを5個ほど並べつつ、百音が、後で詳しく聞きます、と言うと、菅波は口許を緩めて、はい、と頷きながら、本を右肩に提げていたリュックに仕舞った。
「とはいえ、まずは移動しましょうか。ちょっと寄りたいところもあって、月島方面でもいいですか?」
菅波の言葉に、強いていきたいところがあるわけではない百音はもちろんです、と頷く。電車だと半端だし…バスはどのルートかな…と百音が呟きながら頭をめぐらせたところで、菅波がワンメーターちょっとですし、タクシーで行きましょう。二人でバスに乗るのと大差ないです、と大通りを指し示した。歩き出した菅波の横に並んだ百音が、歩きながら見上げるので、菅波が疑問顔で目を合わせる。
「なんか、せんせい、オトナだなーって思って。仕事じゃないのにタクシー使うって発想がないです、私」
ふむー、という顔の百音に、思わず菅波がかわいいなぁと笑顔になる。
「僕もそんなにしょっちゅう使うわけじゃないですよ。でも、公共交通機関を使う時間も含めたコストと比べて見合う時には使うことにしています。ましてや今日は二人だし」
それに、永浦さんは仕事明けで疲れてるでしょ、と菅波は言うが、そんなの先生いっつもお仕事明けで疲れてるのに、と菅波のふとした甘やかしに百音が唇をとがらせ、それにまた菅波がほのかににやける。大通りに出れば、常に一定の交通量のある湾岸エリアのこと、タクシーはすぐに捕まえられる。百音を先に乗り込ませ、自分も体を後部座席にねじ込んだ菅波は、近くですが、月島区民センターまでお願いします、と行先を告げた。
なんかバスのルートじゃなくて車から街をみるのが新鮮、と百音が話し、確かに、と菅波が頷いていれば、ものの5分ほど、あともう一度メーターがまわるかというところで目的地に到着する。釣りはいいです、とさっさと千円札を出して清算を済ませた菅波がレシートを受け取って降車し、それに百音が続く。去っていくタクシーを見送って、百音が菅波を見上げる。
「先生、タクシー代…」
「あぁ、気にしないでください。僕の用事につきあわせてこっち方面にしたわけだし」
「またそうやって」
そこで話を終わらせた顔の菅波に、百音は唇をとがらせながら、後でコーヒーをご馳走するんだ、と謎の決意を心中で固めるのだった。
菅波の用事を問えば、転出届の提出と転出証明書の入手だという。なるほど、と百音が頷き、もうずっと後回しにしていて、と菅波が情けない顔で白状する。区民センターの一階にある区役所の出張所に足を踏み入れれば、まさに小さな役所という雰囲気のカウンターが並んでいる。書類記入台の脇には各種申請書が差された棚があり、菅波が見つけるより早く、百音が転出届に当たる住民移動届を見つけてこれですね、と1枚取り出して菅波に渡した。
ありがとう、と菅波が礼を言いながら受け取って、ふとその視界に入ったのは、茶色の書類。いやいや、なんの気の早いことを、と菅波はそれが目に付いたことを自分でサイレントにつっこみをいれつつ、結果としてどのようなかたちになるかは別としても、もう百音の手を離す気は毛頭ないことを改めて自覚する。百音はもちろん菅波がそんなところに目線と心が一瞬飛んだことには気づかず、いろんな書類があるものですねぇ、と書類ラックを眺めている。
記入台の前で、菅波が背中を丸めて転出届を書くのを百音が横で見守る。スマホで確認しながら記入される新住所に、あ、米麻町長沼ってことは登米夢想から近いとこにしたんですね、と百音がよく見知った森林組合の事務所住所を思い浮かべて声をあげると、結局そのあたりに落ち着きました、と菅波が頷く。範囲はできるだけ広げていくつか紹介してもらったんですが、なかなか帯に短したすきに長しで。と記入しながら菅波が言うのを、百音がふんふんと聞く。書類を書き終わった菅波が、百音と目を合わせた。
「最初は、もう少し狭くて古いところにしようかと思っていたのですが、途中で条件を変えたので、世話を焼いてくれた佐々木課長などには随分とからかわれました。結局、この比較的新しい2DKのここに」
それに首を傾げた百音が、しばしの間にその言葉を咀嚼して、頬を赤らめ、菅波が頷く。百音が登米に来た時に快適に過ごせるように、と言う意図に、ふと昨日の夜に交わした会話もよぎり、二人してしばしはにかみあい。
「あ、ああ、せんせい、とどけ、ださないと」
と百音がわたわたと窓口を指し示せば、菅波も、そうですね、出してきます、とそそくさと動く。壁際の待合のベンチに座った百音は、菅波がいつもの猫背で窓口の担当者に書類を提出し、その確認を受けている様子をみつめた。そっか、先生の新しいおうちはあのあたりか、と森林組合の仕事で車を走らせた米麻を思い出し、そっか、そこにいる先生に会いに行くことになるんだ、と、漠然と知っていたはずの数週間後の未来がよりくっきりとした輪郭をもつ。多分バスでも行けるな、などとたどり着き方を考えていれば、楽しみが一つ増えるような。
程なくして戻ってきた菅波が、手にした書類をクリアファイルに挟んでリュックに突っ込みみながら百音に声をかけた。
「お待たせしました」
「いえいえ」
「じゃあ、どっかにメシ、いきますか」
「はい」
ベンチからぴょんと立ち上がった百音が右手で菅波の左手を捕らえた。へへっと笑ってみせる百音に、菅波の口許がほころぶ。
「永浦さんは何か食べたいものある?」
「うーん、なんでしょ…。月島だと、もんじゃ焼きがベタですよね。そんなに食べたことないけど」
「そうですねぇ。まぁ、大学病院からも近いんで、僕は時々連れられてますが」
「じゃあ、ほかのもの?」
「うーん」
話しながら区民センターから道路に出たところで、「菅波先生?」と声がかかった。思わず百音がぱっと繋いでいた手を離す。菅波が声の方を見れば、数名の男性と女性のグループだった。
「あぁ、工藤先生に横田先生に。恒例のメシ会ですか」
「そう。菅波先生こそ、この辺で見るの珍しい」
「転出届を出しに」
「そっか、もう来月からだ」
「えぇ」
ちょうど、百音の姿は菅波に隠れて見えづらく、連れがいるのに気づいていない様子。菅波も当たり障りなく応対して会話を切り上げようという様子に、百音はそれにそっと沿うように佇む。菅波の仕事関係のことは、菅波が判断することだ、と百音が思うところ、ふと相手の続きの言葉に百音の心が動いた。
「菅波先生も来ます?宮城の話も聞かせてもらえれば」
それを聞いて、百音は、離していた菅波の左手の小指に無意識に手を伸ばしてちょんと握った。それに気づいた菅波が、手元を見ずに百音の手をぎゅっと握り返す。
「悪いけど、今デート中なんで、それはまた今度」
菅波の言葉に、グループがざわっとどよめき、菅波の影に隠れていたような百音に視線が集まる。その視線から百音をかばうように、菅波が手を繋いだまま立ち位置を変えた。予定してもらってる壮行会にはでるからそこで、じゃあ僕らはこっちだから、と、菅波は会話を切り上げて、百音にいきましょ、と声をかけて歩き出すのに、百音は慌てて顔だけ振り返ってぺこりと頭をさげ、すぐに菅波に並ぶ。
振り返らずに歩く菅波を、手を繋いだまま百音が見上げれば、耳元はすこし赤く。百音が見上げているのに菅波も気づいて、口を開いた。
「せっかくあなたと昼メシにでてきてるのに、彼らと一緒には行きませんよ、もちろん」
百音がきゅっと手を握り返すと、菅波も同じ強さでこたえる。
「きちんと紹介させてもらいたい気持ちもあったのですが、永浦さんの意向を聞いてなかったし、それにそうしたら余計に解放してもらえなかっただろうから…」
繋いでいないほうの手でこめかみをかく菅波の意図は百音にもよく分かり、だいじょぶです、と笑う。
「あちらのみなさんのご飯会では、菅波先生の話題で持ちきりになるでしょうね」
「まぁ、好きに言わせておけばいいです。僕は、永浦さんとゆっくりメシを食べたい」
とはいえ、彼らと出くわさない方面と言うと、と朝潮運河の方に足を向けていた二人は、もんじゃ焼きのアテが外れはじめていて、さて、じゃあ結局どこにしましょうか、と百音がスマホを取り出して二人でマップを覗き込む。そんな時間もまた二人にとっては当たり前のようであたりまえでない時間で、春の日差しがその様子をあたたかく包んでいるのであった。