おもわぬトラップにご用心「こんなに落ち着かないランチ、初めてかもしれません」
百音が眉根をハの字に寄せてそわそわしているのを、向かいに座った菅波は、そうですねぇ、とその様子をにこにこと見守っている。二人でふらりとランチに入った初見のパスタ屋で、テーブルの上に開かれていたメニュー表を覗き込んでメニューを決め、オーダーを通すと、ウェイターがメニュー表を引き上げられた。そこで、セッティングされていた紙のランチョンマットが目に入ったのである。
それぞれの前に敷かれたランチョンマットには高層天気図がデザインされていて、特に気象に興味のない人間には、いつもニュースでみかけるアレだろう、ぐらいなもののハズである。が、それが目に入った瞬間、百音が「あ」と声をあげ、それにつられて菅波もそれを見て「あぁ」とつぶやいている。
「これは、東京に大雨が降りますか?予報士さん」
菅波の質問に、百音は、むしろ大雪の恐れがあります、と深々頷き、ランチョンマットの下の方に、トン、と指を置いた。
「日本列島の南を低気圧が進んでいます。関東地方に雪が降る『南岸性低気圧』のパターンです」
百音の話に、菅波はふむふむ、と身体を乗り出して聞く姿勢。
「特に、これはもう関東に近づく前に低気圧が非常に発達してしまっているし、北から寒気を引き込んでいるから、雨じゃなくて雪が降り続きそう」
ランチョンマットの端の四角いエリアに目をはしらせた百音は、12000UTC MAR 1969の表記を見つけた。
「1969年3月12日。0000UTCだから、朝9時でこれかぁ」
「3月ということは、冬支度しまいかけなころあいなのがまた厄介ですね」
「東京はただでさえ雪に弱いですから」
あぁ、こんなの見てるとそわそわする、と百音が落ち着かなげで、その職業病っぷりが、菅波にはほほえましくもあり。じゃあ、裏返す?と聞くと、それはそれでお店の人に申し訳ない気もするし、見なかったことにする感も落ち着かないし、と百音が二律背反か三律背反のようになっていて、早く料理がくるといいですね、と菅波は笑った。
じきに、大きな皿のパスタとセットのサラダがサーブされ、ほぼランチョンマットが見えなくなると、百音は切り替えて、いただきます、と元気よく手を合わせ、それに倣って菅波も手を合わせる。ペスカトーレとジェノベーゼに舌つづみを打てば、過去の天気図のこともやっと笑い話に。食後のコーヒーを飲んで、店を出ると、手を繋いだ二人は次の目的地への移動を目指して駅の方面に足を向けた。
「さっきのはまさに天気図だったけど、そうじゃなくても等高線みたいな図柄見たら気になったりする?」
菅波の言葉に、百音はそうなんですよ、とまた困り顔で、これはもう職業病ですね、という。
「将棋の棋士なんかも、ブロック塀のマス目が盤面に見える、なんていいますしねぇ」
「それはまた大変そう」
百音がくすりと笑い、ですね、と菅波も笑う。
「先生は?そういうのある?」
百音が菅波を見上げると、うーん、と問われた方は首をひねった。
「そうですねぇ、多分、人から見たら職業病だと言われるような言動もあるだろうけど、自分では特にないかなぁ」
「ハサミの持ち方とか?」
あぁ、まぁそれは確かに、と菅波が相槌を打ちつつ、二人はのんびりと歩く。
「さっきのランチョンマットも、天気図はああして図柄に使われるようなことはあるだろうけど、胸部レントゲンに街中ででくわすってこともな…」
と話を続けながら歩いていた菅波が、言葉の途中で、うぉっと声をあげて足を止めた。足を止めた菅波が見ている方向を百音もみて、へ?と同じく声をあげた。二人の目線の先には、B1サイズの大きな胸部レントゲン写真。よく見ると、背骨が鉄道の線路になっていて、鉄道貨物輸送会社の広告であることが記されていた。
「ありましたね、レントゲン」
「ありましたね…」
百音の言葉に菅波は頷きつつ、一瞥したとたんにつかつかとポスターに歩み寄り、それにつられた百音も隣にたった。うーん、とうなりだす菅波を、百音がそっと見上げる。
「せんせ?」
「あぁ、うん。これ、まぁ、背骨が線路なのはさておき、右肺が明らかに病気なんです」
菅波がこのへん、と指さし、百音がふむ?と頷く。
「胸膜肥厚でアスベストかともみえるけど、メインは液貯留かな。うーん、慢性膿胸の治療痕か…。ビューアーで見たい…。CT撮りたい…」
うーん、と本格的にポスターの前で首をひねり始め、こんな明らかに病気の肺の画像使わないでくれ、気になる…とブツブツ言い続ける菅波を百音はそっと見守る。
結局、菅波がポスターの前を離れたのはそれから10分してからで、菅波がつい気になってスミマセン、と百音に謝ると、百音は、先生は根っからのお医者さんなんですねぇ、と嬉しそうに笑うのだった。