モネちゃん、天気予報する外科専攻医として、知識や技術は当然ながら体力も相応に備えていなければならないと分かっているし、それなりに意識はして体力もあるつもりだった。が、これは毎日なぁ、と、菅波がげんなりしているのが、登米夢想の駐車場から建物までの長い階段である。裏側から階段を使わないルートもあるが、森林組合のトラックの出入りや、宿舎からのアクセスなど諸事情を勘案するとこちらを使う方が合理的なこともあって、今日も今日とて車を降りた菅波は、さて、と小さく気合を入れて階段に足をかけた。
数段上ったところで、足元にジャガイモが転がってくる。今日は久しぶりにジャガイモか、と思いながらそれを拾い、見上げると、野菜が詰まった箱を持った『椎の実』の里乃と『米麻町森林組合』の百音の姿があった。
「せんせい、すみませーん」
里乃の声に、軽く会釈して、そのままジャガイモを持って階段を上がる。階段を上がり切ったところで待っていた里乃と百音が持つ木箱の野菜の山の一番上に菅波がジャガイモを置くと、里乃と百音が礼を言い、菅波はまたペコリと頭を下げた。里乃が、モネちゃんもありがとね、と言って、箱を独りで持ち直して『椎の実』の裏手の方に回る。里乃を見送った百音が、菅波を見上げる。
「先生、おはようございます」
「おはようございます」
「今日、お昼から雨が降りますよ」
「そうですか」
こないだやった、運動方程式を使ってみました!と出勤前に自習をした成果の報告がてら、何やら自信ありげな様子で話す百音に、菅波は端的に答える。今日は配電線下伐採の下見に同行予定なんですが、午前中の予定だからよかったと思って、と百音が話続け、菅波が相槌を打ちながら『登米夢想』までの短い距離を並んで歩き、それぞれの職場に出勤する。
果たして、百音が電力会社の電線にかかる支障木の伐採計画を立てるための下見から戻り、菅波が受付終了間際の駆け込みの患者の診察をすべて終え、それぞれ少し遅い昼飯にとりかかった頃合いに、パラパラと雨が降り始めた。『椎の実』に食器を下げに来た菅波が、コーヒーをテイクアウトしたところで、中庭で空を見上げる百音を見つけ、掃き出し窓から中庭に出た。
「先生、ほら、降り始めましたよ」
と、自身の『予報』があたったと得意げな様子に、菅波は頷いて小さく口許を緩めた。天気の基本、から一歩進んで、体系だった気象予報士の勉強を始めて数か月。知識の蓄積が一定量を超えて、分かる、が楽しいフェーズに入ったか、と、拙いながらも学んだことを生かそうとする姿勢や、それに喜びを覚えている様子に、日々の勉強会の成果を感じる。が、そこで手綱を緩めないのが菅波の菅波たるところである。
「では、この雨はいつまで続きますか?雨脚の変化は?」
菅波の問いに、うっ、と百音が詰まる。雨が降る、というところまでで時間切れだったのもあるし、そこから詳細までは考えていなかった、というのも本当のところだろう。てへ、という顔で、百音が菅波を見上げ、菅波は真面目くさった顔をしてみせる。今日は昨日やった解析雨量と補正係数のおさらいからですね、と菅波が言うと、百音はこくこく、と頷きつつ、気づいた!と表情を変えた。
「あ、でも、今日は前髪がぺたんってなる感じがすくないから、雨はそんなに続かないと思います!」
百音の言葉に、菅波が瞬発力高くチベスナ顔をしてみせ、また百音は、てへ、という顔になる。
「天気予報を出すときに、前髪が浮かないから一時雨です、とは言えませんよね?」
はーい、と百音は言いつつ、首をかしげて菅波の髪を見上げた。
「先生はくせっ毛ですけど、雨の日と晴れの日で違いますか?」
「どうでしょうか…。自分では特に気にしていないです。仕事の時は適当に撫でつけてますし」
「仕事の時は、ってことは、お休みの日は爆発してたり?」
「ばくはつ?」
「こう、ほら、あっちこっちに跳ねたり。あ、今もちょっと右が跳ねてますよ」
「…えぇ?」
『椎の実』のキッチンから里乃が、『米麻町森林組合』の窓からサヤカたちが見守る中、凸凹な師弟は、小雨ぱらつく登米夢想の中庭で、嚙み合うような噛み合わないような会話を続けるのだった。
こんにちは、と菅波が汐見湯の暖簾をくぐって顔を見せ、すぐ横の番台にいた菜津が、こんにちは、と応じるのと、リビングのテーブルで読み物をしていた百音がぴょんと立ち上がるのが同時だった。本を閉じた百音が、とことこと菅波に駆け寄り、先生、こんにちは、と笑顔を向けると、菅波もまた笑顔で答える。
笑顔で菅波を見上げていた百音が、?と首をかしげるので、菅波もシンクロするように首をかしげると、百音が、あの、と声をあげた。
「外、雨降ってきてます?」
「急激に曇ってきてますが、雨はまだ降ってないですよ」
「そっか…ちょっと予想より雨が早くなりそうです」
百音がふむ、となり、菅波がどうして?と問うと、百音がそっと手を伸ばして、菅波の前髪を一束とり、その柔らかな指で撫でた。
「先生の前髪が、晴れの日よりくるんってしてます。こんな感じの時は、大体500hPAに気圧の谷がすぐ近くに並んでる時です」
先生の髪を見れば、大体の天気は分かります、と笑う百音に、菅波は真っ赤に頬を染めて右手で口許を覆い、番台の菜津はなんとまあご馳走様、と自らの気配を押し殺して二人を見守る。
登米夢想で二人が中庭で小雨の空を見上げた数年後の事であった。