愛よ世界を蹂躙せよ/他3篇とすこしp2:王の独白(2020/08/12イデア・シュラウド寮長就任の経緯について。CPなし)
p3:冷凍庫より僕を込めて(2020/08/15豆イベ時間、ジェイドとイデア。CPなし)
p4:ペットボトル・マーマン(2020/08/30イデアズワンライ(テーマ:炭酸)に寄せてしまった怪文書。死ネタ?)
p5:人工衛星の憂鬱(2020/09/06イデアズワンライ(テーマ:電話)に寄せるには勇気が出なかった怪文書。死……んでるのかこれ?)
p6:愛よ世界を蹂躙せよ(2020/10/18イデアズワンライ(テーマ:ヘッドフォン)に寄せたもの。楽しかった)
p7:忘れえぬ夜(2020/11/14ツイッターで放送したポエム、イデアズ卒業センチメンタリズム)
p8:ALL THAT JAZZ(2020/11/14ツイッターで放送したポエム2イデアズ)
王の独白 誓って、なりたくてなったわけしゃないんだ、寮長なんて。
イグニハイド寮生レアキャラ説は把握している。それはそう。何故って? 数が少ない。引きこもりだらけだからって勿論それもあるけどそれ以前にまず数が少ない。何故少ない? 歴史が浅い。どのくらい浅い? 今年で創立三周年である。FGOよりもバブちゃんなのだ。
一年目と二年目は、イグニハイド寮の戴く王座は空席だった。そして三年目、寮長候補君の無駄な抵抗も虚しく、とうとうその椅子は埋まることになったってわけ。王の名はイデア・シュラウド、嘆きの島の領主の嫡男、冥王に連なる一族の息子。知ってたけどさ。
「寮長にならないだなんて、そんなそんな、困ってしまいますよ! 君を受け入れるためにイグニハイド寮を設立したんですから!」
舌先三寸二枚舌の学園長の言葉も強ち嘘じゃあないだろう。自分に魔法学校が放っておかない程度の魔力があることは知っていたし、この陰険な気質はどう頑張ったってRSAよりは闇の鏡好みだろう。イデア・シュラウド少年が遠からずNRC生になることはフラグギングン難易度星☆1の不可避ルートだった。その上で、僕はどうやら自分が持て余されているらしいことにも気づいていた。魔力も性質も、周りの人たちにとっては割と前例のないタイプであった、らしい。僕を取り巻くさして多くもない人間たちの大部分は、どう付き合ったものか分からないと顔に大書して僕に接した。ヘヘッ、拙者規格外の男ってワケ。一人の自室で片頬を引き上げたところで不通にイタいし虚しい。虚無虚無プリン。
それでも、僕は学園長の要請に徹底抗戦したってよかったのかもしれない、なのにそれをしなかったのは、つまるところ、できなかったのだ。僕の為に寮ごと創られたと宣告された瞬間、いくつもの黒く冷たい手が地面から現れて全身を雁字搦めにするのを感じた。その手は宿命という名を持っている。僕の人生は、この魂の軛なる抗い得ない宿命によって予め決められてしまっているのだ。
かくして僕はこの小さな王国に君臨した。開闢三年の、炎匿う王国だ。
結論から言うと、そう悪くもなかった。僕の王国で、僕は淫奔の限りを尽くした。最初の日にはとりあえず寝床を整えた。次の日に寮全体にwi-fiを張り巡らせた。三日目に談話室と自室に十分な機器を搬入したあたりで、寮生がざわつき始めた。四日目になるともう慣れたもので、僕はさっさと授業のストリーミングアプリを立ち上げた。先生と話ついたんならリモートでもなんでも勝手にして。五日目、寮の入口と自室にセキュリティを整備した。その名もケルベロスシステム。かっこいいでしょ。そして六日目に、僕は弟にアップデートを施した。より高く飛べるように。全部を済ませた七日目、ようやく僕は息をついてはしめの日に整えたベッドへ着の身着のままの体を投げ出した。
「あっオルトさん! 授業出なくていいってほんとですか!?」
「うん! でも、ちゃんと先生に許可を取ってね。でないと兄さんみたいになっちゃうから!」
「え! 寮長みたいになれるんなら本望ですよ」
「あはは! そうだね、なんてったって兄さんはすごいんだから!」
オルト越しに寮生の声が聞こえてくる。オーケーオーケー、リモートでもタイムシフトでも好きにしてよ、逐一僕の許可とかいらないからさ。ディアソムニアに送り込むウイルスを組みながら、僕は考える。良いとか悪いとか、そういうの僕が考えることじゃないんだよね。ここは僕の王国、正しいことも間違ったことも、朝も夜もおはようもおやすみも嘘も本当も無いんだよ。嫌いなんだ、そうやって、生まれた時から強くて偉くて正しいですって顔して決めつけてかかられるのは。
八つ当たりのようにエンターキーに中指を叩きつけて、僕は少しだけ灰になる。醒めた思考が扉の外の現実を少しだけ連れてくる。
この大人と子供の中間地点を通り越したら、僕はきっと正しい世界に連れ出される。そこで僕は死者を導いて、行くべき道を示す仕事をするんだろう。
最初に送るのはあの子の魂かもしれない。嫌だなあ、と呟いて、僕はぼんやりとアプリゲームにログインした。
冷凍庫より僕を込めて「ジ、ジェイド氏はさ、自分の名前を知ったのっていつ?」
業務用冷凍庫の暗闇に微睡んでいた僕を揺さぶったのは、イデア・シュラウドさん、もとい武器商人のスミスさんが気紛れに投げかけた問でした。正直なところ、この人が僕に話しかけて来たのは意外なことです。本当の名前から着替えて気が大きくなっていたのかもしれません。この僕が本意も探らず素直に答えてしまったのは、つまり僕も少々面食らってしまったのでしょう。
「はあ……フロイドを見つげた時ですね」
「あ、即答なんだ」
「ええ。あの瞬問に僕は生まれたも同然ですから」
ひと塊の生命の渦に過ぎなかった僕らが僕になったのは、問違いなくあの瞬問に違いありません。僕は目を閉して、あの頃のことを思い出しました。暗い深海、数も分からない兄弟たち、海流のうねりに溶け込んで、彼我の区別もなかった頃です。
「あなた、と僕が呼びました。その瞬間に、僕は自分がいることに気付いたのです。それからすぐに、僕らは名前を貰いました。僕はジェイド、もう一人はフロイド。それからずっと、僕らは双子です」
そっかあ、と呟いて、スミスさんはそれきり黙りこむつもりであったようです。けれど、そこで僕の胸にむくむくと湧き上がるものがありました。それは好奇心であり、目の前の他人への興味であり、つまり僕らしさ、あるいは自我と呼んでも差し支えないものかもしれません。
「あなたは?」
僕は簡潔にそう問い返しました。冷凍庫の扉というのは案外気配を伝えるものです。ウッポの鋭敏な知覚は、彼が肩を跳ねさせたことまでしっかりと察知しました。
「ぼ、拙者は」
そう紡ぎ始めた彼の声は、どこか茫洋としていました。それで僕はどうにも気になって、そっと冷凍庫の戸を開けてみました。そこには案の定、イデアさんの丸まった背中がありました。ビーンズシューターの外装に使うのでしょうか、糸のようなものを弄んでいたようです。彼の手の中にある糸は複雑に縺れてしまっていたのですが、イデアさんはそれをほぐすでもなく指先に絡ませていました。
「拙者が名前意識したのは、エレメンタリー入るか入らんかの頃ですな」
「随分と遅くはありませんか」
「オルトが生まれたのですな、そんくらいの頃に。それまでは別に、名前なんか呼ばなくて不自由なかったから。使用人はたくさんいたけど、使用人が話しかける相手っつったら僕だけでしょ」
不意にイデアさんは「え寒」と呟き、それで僕が冷凍庫から顔を出していることに気付いたようでした。大きな音を立てて腰を浮かされましたが、僕は無言で笑みを深めてそれを引き止め、続けてください、と告げました。
「とても興味深いお話です。ご子息が貴方しかいなかったので、お名前を意識することもなかった?」
「あー……うん。区別つける相手もいなかったからね。頭燃えてる子供なんて僕だけでしたから」
「なるほど」
なるほど、ともう一度口の中で言葉の響きを味わって、僕は暫く考えました。分かるとはとても言えませんが、ばんやりと想像することはできます。真逆の在り方というのは、いっそ似ているのかしれません。尾を噛む海蛇の頭と終わりが同じ場所にあるようなものです。彼のお話に興味を持った理由が少し分かりました。僕らはどちらも、生まれて暫く他者を持たなかったというわけです。
「どんな肌触りなのでしよう、生まれた時から一人きりであるというのは」
「そっちこそ、生まれた時には全体の一部って、どんな感じなんでしょうな」
「自我が世界に合致しているような感覚でしようか」
「だとしたら、拙者もそんな感じだったかも」
「そして他者を得て、僕らは世界を発見したというわけです」
「ですな。オルトを見て初めて、自分以外にも存在があるって知った」
イデアさんが少し安心したように笑ったのを見届けて、僕は再び冷凍庫に戻りました。庫内は暗く、冷やされた僕の肌は再び輪郭を曖昧にします。さあもう一眠りしましょうと、僕は目を瞑りました。僕の脳裏には、一つだけ口には出さなかった言葉がごろりと転がっていました。幸運にも得たたった一人の存在を喪うことは、どんな気持ちになるんでしよう。さしもの僕も、その質問があの方の致命的な一線を踏み越えることを意味することは理解していました。代わりに、僕は自身で答えを想像しました。それは世界そのものを失うのと同等に、悍ましく恐ろしいことなのでしよう。寒さに強いはずの体が、キリキリと硬直し震え上がるのを感じました。その恐ろしい想像を追い払い、もう一度僕は目を固く瞑りました。眼球に鈍い痛みが走ります。それでようやく少し安心して、今度こそ僕は眠りについたのでした。
ペットボトル・マーマン 人魚の魂は泡になって消えるっていうんなら、陸で死んでしまったきみはどうなってしまうの。その答えを知ることをイデア・シュラウドが拒んだとて、それを責められる者はとうに地上からは一人残らず消え失せていた。我らが王は地底に座し、その息子の反乱を終末の酩酊のあわいに眺める。空のある方へ立ち昇る人魚の魂に手を伸ばす息子を、父が引き留めることはもうない。ものの分別もつかない子どもの駄々は、二度目にしてとうとう世界を転覆させた。
アズール・アーシェングロットの体が墜落した日、イデア・シュラウドの伸ばした指先は魔力を宿していた。唇は知らず呪文を唱えていた。イデアの願いと執着と恐怖と希求が込められた魔法は500ccの水の姿になって、弾けて消えようとしていた恋人の魂を捕らえた。それは薄っぺらい透明なポリエチレンテレフタラート製の皮膚の内側で飽和する。521gプラス容器分、それが今のアズールの全質量だった。
当然、イデア・シュラウドは泡の溶け込んだ小さな容器を加圧室に仕舞い込んで幸福に浸れる男ではなかった。彼は失われた細胞を培養する。必要な機体を構築する。遠からず、オリハルコンとアダマンタイトの子が生まれることだろう。魔力分子と結びついたミスリルがヘモシアニンの代わりに体内を駆け巡る、シュラウドの末子だ。それは既に罪ではなかった。二度目の罪は光明として迎えられた。アズールの知らない幾つもの夜の末、七色の光に呼ばれて目覚めた末子は己の父であり兄でありそして間違いなく恋人である男の姿をその瞳に映す。燃え盛る青い炎は色褪せ、白かった指先はグリスとひっかき傷で赤黒く染まった恋人を。そしてアズールは言う。おはようございます、ところで朝食に使う卵って、まだ残っていましたっけ。
泣き崩れる恋人の涙にキスをして、アズールは笑う。馬鹿な人。僕は海なのに。あんな風に間に合わせのペットボトルに詰めなくったって、あなたがあの水をソーダ水みたいに飲んでしまったって、あるいは船から撒いてしまったって、ちゃんと僕はどこにだっていてあなたを呑み込んであげるのに。それを聞いたイデアは、再び泣きながら必死でかぶりを振る。いや、いや、いやだよアズール。僕は人間なんだもの。きみのいる場所の境目が分からくなるなんて耐えられない。ぼくはきみに触れたい、きみを愛してるってちゃんと分かりたい。
人はイデア・シュラウドを神とさえ呼ぶ。けれど今アズールのゲルボールに浮かんだ合金製の視神経が捉えるイデアは、確かにどこまでも人間であった。人智の時代をもたらした新たな王に、アズールはそっと触れる。そしていま一度、ばかなひと、と囁いてその髪を優しく撫でた。
人工衛星の憂鬱「宇宙はキッズの夢でござろう」
ビデオゲームの話でもするかのようなそれが、僕が最後に聞いたイデアさんの肉声だった。ツイステッド・ワンダーランド共通暦XXXX年、忌み嫌った美しい体をいとも簡単に捨て去り、電子化した自らの頭脳を人工衛星に乗せて彼は宇宙へと飛び立った。
地底に燃える勤勉なる父君は、愛する息子の出奔を引き止めない。マテリアルの王国の子供は、研ぎ澄ました技術をもって、遂に物質世界に別れを告げてしまったのだ。
だから僕は、新月の夜にカーテンを開け、衛星電話の短縮ダイヤルをブッシュする。
太陽と月の引力が重なる夜、僕の目は少しだけ発光する。体の中に海を連れてきている僕たち人魚は、大潮の間魔力が漏れ出てしまうのだ。そして僕は、プラスチックとレアメタルでできた受話器を耳に押し当て、青く明滅するあなたが地上の小さな光を見つけてくれないかと願いながら空の暗闇に目を凝らすのだ。
ああ、でもイデアさん、愚かなあなた。今や電子の海に遍在する寂しがりのかわいい魂。賢いあなたはきっと気付いているのでしよう、結局の所あなたは今もまだ、父君の統べる引力に捕らわれて、星の周回軌道を寸分違わず勤勉に走り続けているんだって。好きだったゲームをプレイするみたいに。
本当のところ、この電気湯沸かし器の中にだってあなたは存在していると知りながら、ロマンチストの僕は電話をかける。あなたの創ったアンテナは今日もそれを受信する。そして卑俗な僕はその度に安心するんです。肉体の痕跡を一切残さず綺麗にグッドバイを言ってしまったあなたのよすがが、今もこの世界に物質として繋ぎ止められていることに。あなたはそれを嫌がるかもしれないけれど。
愛しいあなた、データに拡散した理想の体現者。純粋自我の証明。イデアさん。いつかあなたはその自立思考プログラムのカでその人工衛星を改造し、星間の虚空に旅立ってしまうのでしようか。そうしたらきっと僕の電波はもう届かない。
願わくばそれが、何億年も先のことであればいいと僕は願います。僕は海だから、その頃にはきっと、僕の意識はこの星を満たす水に溶け込んで、世界中に遍在していることでしよう。電子の海に拡散するあなたと同じように。そしていつの日か、今この星の真裏にある太陽は極大まで質量を増して僕とあなたをそっくり呑み込んでしまいます。
どうかその日の来るのが、あなたがこの恒星系の外に去ってしまう前であればいいと僕は思います。そうしたら、その時は等しく融け合いましようね、イデアさん。そしていつか、渾然一体のエネルギーの中から新しい星として再び生まれましよう。ガスと水と金属の流体の中で、僕はきっとあなたを見つけます。その日が来るのを楽しみにしていますね、マイハニー。
愛よ世界を蹂躙せよ ツイステッドワンダーランド共通歴XXXX年十月三十一日、ナイトレイブンカレッジ三年生(ディアソムニア寮所属)のボッティ・ミッターは、彼の所属する学園の敷地内にて奇妙な光景を目撃した。
はじめ彼は、それがハロウィンの飾り付けの類かと思ったという。しかしながら、誰からも忘れ去られたような暗い片隅にあってそれがあまりにも景気よく光っていたことが、ミッター青年の違和感を誘った。
次にミッター青年が考えたのは、それがはぐれゴーストである可能性であった。けれどもゴーストであるにしては、それの輪郭は明瞭であった。それは人の姿をしていて、頭にヘッドフォンをつけていたという。ヘッドフォンつけた幽霊なて聞いたことがないよ、と後にミッター青年は語る。ヘッドフォンからは一本のコードが延びていた。しかしその先端はどこにも接続されず、それがステップを踏むのに合わせてくるくる跳ね回っていた。ワルツだったように思う、とはミッター青年の言だ。ディアソムニア寮生の例に漏れず彼もまた旧家の出身であり、ステップの刻むリズムから概ねその見当をつけられる程度には、伝統的なダンスに親しんでいた。
やがて人影が静かに足を止めた瞬間、一際強い月光が校庭に差し込んだ。十月三十一日は月の力が一年で最も強くなる。月光は空気中に充満する魔力に感応し、その粒子に実体を与え、その場にもう一つの人影らしきものを顕現せしめた。ゴーストと言うよりももっと恐ろしいもの、とミッター青年は語る。例えば何らか、神に類するもの、だとか。ミッター青年の家系には妖精族の血が混じり、それ故に神秘に属する事柄への直感は人並み以上に鋭かった。ダンスを止めた人影が、神らしきものの差し出した半透明の手を取る。次の瞬間、そこにあったのは誰からも忘れ去られたかのような、無人の暗い校庭ばかりであった。
つまりミッター青年の話を総合すると、こういうことになる。ハロウィンの夜、誰もいない校庭の隅にて、青く発光する人影が有線ヘッドフォンのコードをひらめかせながら一人楽し気にワルツを踊っていた。そして不意に人智を超えた恐るべきものが姿を現し、踊りをやめた人影はその手を取って何処へともなく消え失せたのだ。
以降、イデア・シュラウドの姿を見たものはいない。
◆
数日後、所用のためインターン先から学園に戻ったアズール・アーシェングロットは懐かしき部室に立ち寄り、そこで激情に打ちひしがれていた。
イデアとアズールが毎週向かい合っていたテーブルには、二人でせっせと買い集めたボードゲームの箱が丁寧に積み上げられている。それはまるで塔のように高々とそびえ立ち、そしてその頂上には、見慣れぬ箱がひとつ、沈黙のうちに定置されていた。手を伸ばして開いた箱の中身は、アズールにもよくよく見覚えのある、イデア・シュラウドの愛用していた手製のヘッドフォンであった。
箱の中、乱雑に束ねられたコードの端子が秋の光を反射している。どこにも接続されていなければ、このデバイスはホワイトノイズを再生するようになっているとイデアは言っていた。一度、実際に聞かせてもらったこともある。海底のさざめきか、あるいは血液の流れる音のようであった。臆病で過敏症の傾向のある彼らしい、細やかな優しさを搭載したプロダクトだった。
そのはずであったのに、今アズールの耳に添えられた出力装置から流れ出すのは、アズール自身の声であった。身に覚えはある。一度、あの男にせがまれて深海の歌を聞かせてやったことがある。イデアは心地よさそうにそれに聞き入っていた。そして眉を下げておっとりと笑い、不思議な響きだね、とだけ感想を述べた。まさか録音していただなんて。あの時以来、すれ違う人の囁き声からあの男を守っていたのは、アズールの声だったというわけだ。
アズールは怒っていた。激怒していた。勝手に人魚の歌を録られて、あまつさえ繰り返し聞かれていたことに? 否、それは慈悲そしてあの男に捧げた愛によって許しをくれてやろう。アズールが我慢ならなかったのは、そうまでして縋ったこの慈悲をあの男がかくも容易く放り出し、丸裸の身一つで地底の国へ下ってしまったことだった。
◆
柘榴を与えられなかった人魚には、十二か月分の時間がそっくり用意されている。その十二か月を余すところなく費やして、アズール・アーシェングロットは悪徳の限りを尽くす。人を人とも思わぬ非道の名は全大陸全海域をあまねく席巻し、強欲の化身と彼を呼ぶ声は空を行く小鳥の嘴にすら上る有様であった。この世の一切の惨劇は、すべからく彼に繋がっていた。全ての憎悪の中心には、契約書を掲げるアズール・アーシェングロットの姿があった。ありとあらゆる手を尽くして、アズール・アーシェングロットは世界を蹂躙し、何もかもを得た。ばけもの鯨の名を冠する彼の代表法人はその名に恥じることなくぶくぶくと肥大化し、今や小国の一つや二つは牛耳っているとまことしやかに囁かれていた。まるで、アズール・アーシェングロットは彼のうごめく海底よりも尚深く、地の底に建つ王国までもをその欲望でもって飲み尽くさんとするかのようであった。
◆
仕掛けておいた時限爆弾がようやく爆発したのだと、イデア・シュラウドは思った。アズール・アーシェングロットが冥界に現れた折のことである。彼の腕には、イデアが冥府くだりをなした日、懐かしき部室に残してきたヘッドフォンを納める箱が大切そうに抱えられていた。そして彼の双眸は、純粋無垢な憎悪の炎が透き通らんばかりの青色に燃焼していた。まるで生まれたばかりの星のような、苛烈な発光であった。
「さあさあスウィーティー、ここにいるのは分かっているんですよ。さっさと観念して出ていらっしゃいな!」
良く通るアズールの声が地底の大空洞に反響する。暗き覇道を貫いた男の、熱線のような声だ。そこは死者の王国の最も低き、すなわちイデアの座す場所であった。
悪徳の王が、その踵の音も高らかに足を踏み出す。彼の目は煌々と青く燃え盛っている。かつて胸に抱いた男の炎を宿してしまったかの如き、灼熱の更にその先を示す炎色であった。
「ア、アズール氏、その、フヒッ……久しぶり。えっと、来てくれたんだね」
ああ、それなのにイデアの声ときたら、言うなればそれはあまりにもありふれていた。
少し仲良くなれたと思っていた後輩が、ホリデー明けにもまた部活に顔を出してくれた。彼の声はそういう時にこそ発される声音であって、少なくとも断じて、数百の星の巡りの末世界の殆どを飲み込んでようやくそこへ辿り着いた男にかけられる類のものではなかった。
それでも、アズール・アーシェングロット青年はその声一つでいともたやすく陥落する。陰の隙間からゆらりと現れた長身をその瞳に捉え、膝を地につき、千の夜を徹して溜め込んだ万の言葉を吐き出すようにして慟哭するのだ。
「あなたは、あなたはいつもそうやって、僕は、僕は怒っていたんですよ」
「うん、うんごめんね……ありがと、気付いてくれて、来てくれてありがとう」
アズール・アーシェングロット少年は泣き続ける。彼の体の中には海があり、さなれば涙は無限に湧き出した。彼の心にこびり付いた罪と苦悶と怒りと悲しみとがすっかりすすがれてしまうまで、アズール・アーシェングロットはとうとうと涙を流し続けた。イデア・シュラウドはそれを慰めるでもなくまして慌てふためくでもなく、何も言わずただ静かに寄り添っていた。
最後の一滴を瞼の端から搾り切り、アズールは目を開く。そしてその腕の中で大切に守っていた箱の蓋を持ち上げた。取り出されたヘッドフォンは、もう爆弾の役目を負わない。それは既に愛の形をしていた。降り積もった月日の灰は今払われて、生まれたばかりの心臓のような愛が二人の手の中で拍動していた。何もかもを飲み込む貪婪なばけものの、本当に欲しかったただ一つのものはついに奪還された。跪いたイデア・シュラウドの首に、ヘッドフォンがかけられる。
◆
この世の混沌を片っ端から集めて煮詰めたような暗闇にとぐろを巻いて、アズール・アーシェングロットは一つのサイコロを弄んでいる。
「たかがサイコロ一つに人生を決められてしまうだなんて、やはりどう考えても許しがたいことです」
「変わりませんなあアズール氏は。何が起こるか分かんないから面白いんでしょ。予め何もかも見えてちゃさ、試行する気だってどっか行く。生きてる意味だってなくなんない?」
「そんなもの、人事を尽くそうとしない者の言い訳ですね。あらゆる手を打って、その結果望むものを手に入れた時の満足感と言ったらない」
「僕だって手を打たなかったわけじゃない。でもさ、どこまで精度を上げたって、絶対に及ばないことってあるだろ」
「へえ、例えば?」
「タナトス氏のお迎えの前に、部室に形見を仕掛けるだとか。あれ、結構一世一代の賭けだったんだけど。負けたら君の声すら二度と聞けなくなっちゃうし」
「随分と分の悪い賭けに手を出したものです」
「でも現に今、君は僕を見つけてくれた」
「これでも僕、かなり怒っていたんですよ。次からはもっと分かりやすくポストイットの一つも残して、素直に慈悲を請うようになさい」
「仕方ないだろ、そういうルールだったんだから」
「おや、異端の天才がルールを語るとは驚いた」
「君はルールが好きだろ?」
「僕に従っているうちはね、僕を従わせようとし始めたら、そりゃもう覆さなくては」
「さすが初代モストロ支配人様は言うことが違う。どう? 覆せそ?」
「そりゃあね。そろそろ僕の支配の届かない場所も無くなるんじゃあありません? お望みなら、あなたを王様にしてさしあげますよ」
「はーやなこった。やあっとここの王様の椅子降りたんだぜ。またまつりあげられんのなんて絶対にごめんだね。せいぜいガッコの寮長が限界」
「予想通りの答えです」
「きみのベットが当たってよかった。ところでベットついでなんだけど、ここから出るのに僕ら通行料が必要なんだよね」
「橋なんかなかったのに?」
「代わりに船の渡し賃」
「人魚の僕に船に乗れって?」
「まあそう言わないで、大丈夫。対価だったら用意があるから」
「身一つきりのあなたに用意が?」
「僕の秘密と僕の後悔。これを対価に置いて行く」
「何なんですそれ、いいんですか」
「もう必要ないからね」
「……弟さんに関係が?」
「オルトのことなら、後悔なんてするもんか。ヒント秘密も後悔も同じ内容。ねえ、本当に分かんない?」
「これが、僕の自惚れじゃないって言うなら」
「うん、そう。君を自惚れたりさせるもんか」
「あなたが僕を愛したこと?」
「大正解、その通り」
「ひどいな、秘密はともかく後悔なんかしてただなんて」
「だって君も僕も、そのせいでこんなに苦しんだ」
「でもあなたを愛さなければ、僕は一生形の無い欲望のままでした」
「それに僕も自由を貰った。もう秘密でもなければ後悔だってしないよ、誓って。ね、だからさ、上に上がる前に」
「ええ、踊りましょうか、一曲」
「踊れるの、君?」
「馬鹿にしないで。僕に抜かりがあるとでも?」
「それが意外とあるんだよなあ。ま、いいや。今度はヘッドフォンの録音じゃなくてさ」
「ええ、慈悲深い僕の歌声で。それにあなた一人じゃなく」
「うん、君と二人で」
「プロムパーティーのやり直しです」
「最高だね、そりゃあ」
卒業式の日、あなたの唇に重ねられたブルー・リップの輝きばかりを僕はきっと百年先までだって覚えているのだろう。あの日のあなたは、殆ど黒に近いダーク・ブルーに大粒のラメの練り込まれたリップ・カラーに彩られていた。それはまるで、朔の夜の沖合のようだった。あなたは見たことがあるだろうか、凪いだ黒い海面に空の星が映って、上下を覚えなくなるような景色を。見渡す限り陸など無い。ただ星だけが強く輝いて、そこが無限に続く虚無ではないこと、光を受ける僕という存在が今も保たれていることを教えてくれるのだ。
あなたはいつだって僕の星だったんだ。
実家にあるアンティークの多足種用ピアノに誓って、僕があなたの背を追いかけたことなんかこの二年間で一度もない。あなたにはあなたの道理があったし、僕は僕のやり方に従っていた。だから僕があなたのようになろうとしたことなんて本当に一度もないのだ。ただ、僕はいつもあなたを横目で見ていた。殆ど睨みつけていたと言っても構わない。あなたがそこにいることを確かめて、僕は自分の行く先を見定めていたのだ。今日を限りに、僕はあなたのいない人生に戻ることになる。そう、ただ元に戻るだけなんだ。僕はまた無闇矢鱈に財を求め、力を溜め込む日々に見を投ずる。それはきっと嵐の日々だ。海が突き上がり波は落ち、渦巻く風は天地をひっくり返す。星はどこにも見えない。僕はその空に潜り、海を舞う。そして時折思い出すのだろう、かつてあった星の残像を。卒業式の日、あなたの唇を彩った星屑の記憶を。忘れえぬ夜
イデアさんときたら、平素異端の呼び声を享受しているくせに妙なところで視野狭窄だ。僕とじゃ子供作れないしとか、君は幸せな家庭を知っている子だからとか、馬鹿なことを言ってくれたものだから僕も思わず熱くなってしまった。つまりこれはとある放課後、僕が部室で振るった弁舌の一部始終である。
「それは確かにその通りですが、どのみち蛸に限らず人魚はここ百年で徐々に数を減らしていますし……交雑の条件がタイトなんですよ。同じ頭足類系でさえ子はなせないんですよね。海底市場が痩せるのは惜しい気もしますが……まあそういうわけなので、僕一人がどうしようと種としては遅かれ早かれ滅びるんじゃないです?」
「でもそれがどうしていけないんです? 所詮この世はなべて狂騒、46億年前にはこの星だってなかったのに、どうして明日もショーは続くと思えるんでしょう」
「それともあなた、僕のあなた、僕のかわいい神様、あなただけは永遠を知っている? それってとっても面白そうだ……永遠のダンスホールがあるのなら、是非僕をそこに招待してくれません? お任せいただけたならきっとフロアは連日大盛り上がり、売上は二倍、いいえ百倍にだってしてみせましょう」ALL THAT JAZZ