【サンプル】A little Trip of Azul Ashengrotto(冒頭部)
国際転移装置ターミナルには、珊瑚の海への入国を待つ人魚たちがひしめき合っていた。北方の海が氷に閉ざされる季節、それも地方都市であるというのに、ウィンターホリデーをここで過ごそうと考える者の数は少なくないらしい。さして広くもないホールの中を審査ゲートより続く列が何度も折り返し、長大な蛇腹を描いて入り口近くにまで及んでいる。溶岩づくりの無骨な壁は家庭用のイルミネーションでまばらに飾り付けられ、分厚い海氷へ挑む勇者たちをぎこちなく歓迎していた。粘着テープの跡のおびただしい円柱で、密輸防止を訴えるポスターの破れた片隅が水流にはためいている。
進行方向の反対、転移装置の方を眺めていると、人魚がまた一人現れて体を震わせる。真冬のこの海は暗く冷たい。転移装置をくぐった者は途端に全身を冷えた水に包み込まれ、もしその人がかつてここで生まれたのであれば、たちまち自分が故郷に戻ったことを肌身で思い知るだろう。
順番待ちの退屈ゆえだろうか。この懐かしくかつ厳しい水温に曝されて、僕もまた否応なくかつてを思い起こしていた。何かあるごとに蛸壺へと逃げ帰っていた、弱く幼い子供の記憶だ。
吹っ切ったつもりではいたけれど、アトランティカ記念博物館へ写真を戻したことについて、その選択が正しかったのか分からなくなることが未だにある。今の自分自身から過去を切り離すことについて、僕は未練を捨てきれないでいるらしい。いつも自分の吐いた墨で体を黒く汚していた少年の名前がアズール・アーシェングロットであることを、僕は博物館の説明パネルを読むかのように、どこか現実味を欠いたまま理解する。彼と僕との間には眠りのような断絶があった。僕でないのであれば、あの少年は誰でもない。ならばどうしていなかったことにしてはいけないのだろうと、知性から置いてきぼりを食らった誰かが頭の中でぼやき続けている。心象風景の中、泣きじゃくる少年はまるで他人のように、僕から少し離れた場所でうずくまっている。
ふと足元の覚束ない感覚に襲われて、僕は俯き額を抑えた。退屈はいけない、今更詮無いことに思いを巡らせてしまう。指の隙間から行く手を覗くも、列は遅々として進まず、入国審査ゲートは遠かった。間延びした時間が思考のための神経系を拡散させ、スマートフォンを開く気分にもなれない。壁掛け時計の秒針を眺めるうちに、半ば漂流していた意識は半年前のサマーホリデーへと流れ着く。
弟のダイビングギアを開発したイデアさんが、その弟に請われるがまま実地試験地として選定したのは、僕の故郷よりずっと暖かな海にある遊園地だった。同行を求めてくるにあたり、告げられた表向きの役割は案内役兼非常対応係であったものの、二週間後にイデアさんのインターンを控えてナイーブになっていた二人の関係への慮りもまた、彼の中にはあったのだろう。
穏やかな記憶に胸を撫で下ろし、浮かんだビジョンの尾びれを手繰り寄せる。そこでは作り物のくじらやクラゲが規則正しい上下運動を繰り返し、イルカ一頭を隔てたところで、ペンギンにまたがったオルトさんがゆっくりと回転盤の上を遊泳していた。メリーゴーランドだ。彼の兄は遊具の上にはおらず、僕らの周回軌道の外側に佇んでいてその表情は分からない。
録音されたオーケストラ音楽が僕らの冒険を彩り、機械仕掛けの生き物たちは楽しげにダンスをする。音楽が一小節鳴るごとに僕らは数十センチメートルを旅し、豪奢な装飾の施された回転軸の陰からまだ見ぬ世界が現れる。遊具の円周は僕らを世界から切り離す。僕の乗るウミガメは規定された円環を泳ぎ、彼または彼女の背から眺める外の世界は、そこにいた時とまるで違ったものに見えた。
やがて音楽は鳴り止み、五周二分間の冒険は終わる。完璧であった世界は急速に円の外側に接続され、人々は開かれた安全柵からぞろぞろと吐き出されてゆく。彼らは皆一様に夜明け頃眠りを中断されてしまったかのような顔をしていて、時折思い出したように、入れ替わりに乗り込んでゆく者たちへと羨望の一瞥を投げる。
僕もまたその一団に紛れて、到達点の無い(x-a)2+(y-b)2=r2状の二次元平面旅行から三次元世界へと復帰する。イデアさんの燃える髪は海の中でもよく目立ち、難なく彼のもとへ泳ぎ寄ることができた。
「お待たせ、兄さん」
「うん、お帰り。楽しかった?」
「もちろん!」
でしょう? と水を向けられて、おそらく完璧であろう笑顔とともに僕は首肯する。
「メリーゴーランドなんて、本当に久しぶりです。最後に乗ったのは、ええと」
ふいに口をつぐんだ僕を奇妙に思ったのだろう。イデアさんが視線で先を促してくる。不自然に生んでしまった空白は、とるべき表情を選びあぐねたがためのものだ。結局僕は眉をしかめ、やや深刻そうな具合に視線を外すことにした。オルトさんが手を握ってくれて、茶番に巻き込んでしまったことを少し後悔する。
「あの頃はまだ、両親が一緒にいて」
案の定イデアさんはすぐに体を引き、戸惑ったように目を泳がせてそれ以上何も尋ねてはこない。臆病なのは困ったものだけど。僕は思う。勝手にストーリーを語られるよりは、よっぽど誠実な態度だ。本当に久しぶりだったんだね、楽しかった? オルトさんの明るい声が沈殿しかけた空気を浚う。
「ええ、とっても。イデアさんも乗ればよかったのに」
彼は眉を下げて微笑んだ後、答えを期待する僕の目が他に向けられる様子のないことに気付くと少し声を潜めて言った。メリーゴーランドって、あんまり好きじゃない。ぼそぼそと呟くような低い声は、きっとオルトさんの興奮に水を差さないための彼なりの気遣いだったのだろう。
「どこにも行けないって感じじゃん、いかにもさ。予め歯車が決めた回数だけその場をくるくる回って、時間が来たらはい、おしまい。僕らは追放されて、なのに楽しい場所は僕たちなしでまた回り始めてるってわけ」
その時僕は、彼とのデート相手兼開発助手として自分が選ばれたことを誇らしく思い、大いに高揚していた。なので天の邪鬼というにはあまりにも陰鬱なイデアさんの口ぶりは何となく裏切りのように感じられ、そして彼の言わんとするところに一定の共感をしたことにより、僕のうちに灯った小さな怒りは凪ぐよりもむしろ反発心へと転じて、うなじのあたりをちりちりと刺激したのだった。
「次の方、どうぞ!」
審査係に呼ばれ、パスポートを握り直すと待機線から足を踏み出す。大きく動いたことでエラに流れ込んできた冷たい海水は、循環器を巡って僕の体を少しだけ新鮮にした。
「学生、黎明の国からね。帰省?」
「そんなところです」
「オーケー、良いホリデーを」
半年前のあの小さな緊張は、しかし幸運にもいさかいにすらならないまま平穏に収束した。なんとなく腕時計に目をやった僕が、不似合いにのんきな調子でおやと声を上げたからだ。昼食はもう随分前に済ませたはずだというのに、ガラス盤に守られた円の中、短針は十一の辺りで居心地悪そうに身を竦ませていたのである。どうしたの。イデアさんが後ろから手元を覗き込んでくる。彼の利き手は僕の左手首を掴んで軽く引き寄せ、尖ったあごが肩に預けられていた。僕たち二人の関節と筋肉はまさに、僕らが自分たちを定義するものとして選んだ言葉――恋人――にふさわしい形状をとっていた。言葉は身体を促し、身体は精神に輪郭線を与える。
腕時計は母に譲られたものだった。繊細でややもすれば優美にすぎるそれは、しかし僕によく似合っていた。すぐに手を打たなかったのは、彼と離れてすっかり物寂しくなってしまった心の一部を埋めるため多忙に明け暮れていたからだ。半年に渡って半ば忘れ去られていたそれは、去年よりも少しだけ手持ち無沙汰なウィンターホリデーを迎え、部屋の整理のために物入れを開けるに至って再び見出された。そしてあれきり止まったままであった古い腕時計を、ふと修理しようと思い立ったのだった。
到着ロビーには義父が待っていた。バスを使うからよかったのに。言うと、彼はいかにも心外そうにひれをすくめてみせる。
「ホリデーに暇を持て余しておろおろしている仕事人間から外出の口実を奪おうっていうのか? 君の寮は慈悲の精神を掲げていると聞くけれど、とんでもない。 なんてひどい息子なんだ!」
周りは皆親しい者との再会を思い思いに歓び、あるいは早足でどこかに向かおうとしていて、僕たち親子の大袈裟なじゃれ合いに気を留める人はいなかった。行こう、車で来ているんだ。忙しい名門校寮長殿に何十分もバス待ちをさせたとあっては、我らがCEOを怒らせてしまう。
「そのママは今日も仕事ですか?」
「相変わらずね。本当、よくやるよ」
愛情よりは呆れを多分に滲ませた口ぶりは、僕にも馴染みのあるものだった。僕が部活動を切り上げてラウンジに向かおうとする時、サイコロをねじ伏せることに心血を注いでいる時、あるいは寮長兼支配人の役を務める益を説いて聞かせる時、折に触れイデアさんはそれを言う。今日ばかりは本当に休暇を過ごすつもりでいるというのに、尚その言葉を聞くことになろうとは。奇妙な巡り合わせのこそばゆさを味わっていると、僕の口角をかすめる笑いの気配が伝わったのだろう、義父がこちらへと一瞥を寄越す。
「私はおかしなことを言っただろうか?」
「いえ、すみません、同じようなことを僕に言う人を思い出してしまって」
「へえ。君の友達の話なら、後で是非私やママにも聞かせておくれよ」
泳ぎの早い連中に何度か追い越されながら、二人でゆっくり海底を歩く。駐車場で義父が指し示したのは、見覚えのない水中車だった。迎えに来た本当の理由はこれかと横目で見遣れば、得意げにえらを開閉させている。休暇前の雑事に忙殺されてすっかり忘れていたものの、記憶を手繰り寄せてみれば確かに先月辺りの通話でそんなことを言っていた。
「もう納車されたんですね」
「君が急に帰ってくるって言うから、ディーラーをせっついたんだ。良いだろ? デュアルジェットと八十の人工関節フィンによる推進力! 海の繋がってる場所ならどこへだって行けそうじゃないか」
また誰かが頭上を泳ぎ去り、巻き起こった水流が二人分の髪をそよがせる。僕たちは頑なに上を見なかった。速く泳げない種族のための第二のひれ。車で良いじゃん。地上に暮らすあの人も、言うことを聞かない箒に散々翻弄された後長い前髪の隙間から太陽を睨んでそう言っていた。彼も義父も正しい。どこかに行くのに、手段は一つきりではない。旅行鞄を荷物入れに収めながら、僕はそっと顔を上げる。薄暗く打ち沈んだ先にあるのは海面を覆う分厚い氷で、それは僕らにとっての天井だ。けれども時期が来れば白く濁った海氷は砕け、南へと下る怒涛を生む。色々なものがすっかり洗い流された後の海面から顔を出せば、飛行機の信号灯の瞬きが誰かの落としたイヤリングのように夜空を滑って行くのが見えるだろう。
ああ、アズール! おかえりなさい! 僕たちが店に顔を見せるなり、飛び出してきた母が勢い良くハグを仕掛けてくる。その歓待ぶりは僕の顔中へ口紅の痕を残したため、義父は苦笑いののち義理の息子に手鏡を差し出さねばならなかった。本当は今すぐパーティーをしたいくらいなんだけど。奥の部屋は予約が無いから、悪いけどしばらくそっちで待っててくれる? ご予約のお客様のお出迎えが終わったら、後は任されてくれるって支配人が言ってるの。眉を下げる彼女に通されたのは会食用の個室で、道すがらには顔見知りの従業員が何人も待ち構えていた。やあ、元気? 成績は今期も十位以内なんだろ? ラウンジは順調? 掛けられる一言一言に挨拶を返しながら居心地の良いソファに収まると、見る間に皿が並べられてゆく。
「長旅で疲れてるだろうから、先に食べててとオーナーが」
「前菜の量には見えませんが」
「はしゃいでるんだよ、あの人も」
ウインクをして引っ込んだ給仕係の後にも、客の目を盗んだ従業員たちがひっきりなしに顔を出す。ようやく母が現れたのは僕らがスズキのゼリー寄せをあらかた片付けてしまって、義父による来年度民法改正のもたらす影響についての講義が本格化し始めた頃合いだった。また仕事の話なんかして! 母の叱責に自称仕事人間は肩をすくめて見せる。
「アズール、ちゃんと食べてる? 厨房みんな、あんたが帰ってくるからって張り切ってたのよ」
「もう、誕生日でもないのに」
「誕生日を祝わせてくれないのは誰なの! それにアズール、体調はもうすっかり元通りなの? 今は無理してない?」
「ねえママ、もしオーバーブロットのこと言ってるなら、もう一年も前のことだよ」
「そうは言うけどね、体って一度壊すと癖になるんだから。あなたはまだ若いからいいかもしれないけど……ほら、もっと食べなさいな」
カロリーがと口走る間もなく、目の前に新たな皿が差し出される。小海老のプディングに、ヒラメのカルパッチョ。珊瑚のリキュールは、遅れてやって来た祖母の手土産だ。更にはどんな魔法を使ったものか、巧みに調理された陸風唐揚げまで用意されていた。
昔一度だけ、学校であったことを泣きながら母に話したことがある。僕がエレメンタリースクールの子供で、まだ母と実父が一緒に暮らしていた頃だ。季節は冬で、丁度僕の誕生日から一週間が過ぎた時期だった。耐えきれなかったのだ。歳をひとつとっても何も変わらなかったことに、僕は絶望していた。夜遅くまで母親が家にいない生活は、その絶望をいよいよ深くした。あの日も、母の帰りは二十二時を過ぎていただろうか。連日父と深夜まで話し合っていた彼女の目の下には、真っ黒な隈が居付いていた。リストランテで働くための濃い化粧は既に崩れ、くぼんだ眼窩が示す疲労を一層際立たせる。
「アズール、ごめんねアズール。どうにかしてあげたいけれど、それはあなた自身がどうにかしなければいけない」
彼女はひどく傷ついた顔をして、優しく僕の背を撫でてくれた。今になって思えば、母親である彼女にできることはいくらでもあったのだろう――実際、何か月か経つといじめは少しだけ収束していた。その頃母と義父との間には弁護士とクライアントとの仲を越えた親密さが生まれ始めていたらしいから、彼が何かしらの法的な働きかけを助言してくれたのかもしれない。しかし少なくとも、涙を流す僕の背を母が撫でたあの夜は、彼女自身も疲れ果てていた。母はしばらくの間二本の腕と八本の肢で僕を抱きしめてから――それはまるで、僕が彼女の卵胞に戻ったかのようだった――ゆっくり体を離すとこう言った。何か食べましょう。膨大な業務を必要とする人気リストランテの経営に加え、夫との修復不可能な不仲は彼女を徹底的に消耗させていた。だからそれは、もしかすると母が自分自身に言い聞かせる言葉でもあったのだろう。
「ベイビー、あなたの問題を解決する方法は、今のあなたにもあたしにも分からない。何もかも真っ暗闇に見えるかもしれないけれど、何かを食べることだけは本当なの。それはきっとあなたの力になる」
あの夜のことを思い出しながら、僕は結局最後まで適切な摂取カロリーの話題に触れることをしなかった。時間が経つと仕事を終えた従業員たちが増え、個室はすっかり満員になる。食卓は終始賑やかだった。最後のお客様を送り出した支配人と料理長が現れ、僕と握手をする。ラウンジのことを訊かれ、一年間の計画を話す。ホリデーギフトだと言って母がドルチェを配り、従業員たちがサプライズに喜ぶ。祖母が時計を指して一喝するまでパーティーは続き、人々が三々五々去った後には心地よい疲労感ばかりが残っていた。
蛸壺を這い出ると、夜道を横切る野良猫のように僕は身じまいを整える。真冬の珊瑚の海に太陽は届かない。半地下になっている寝室の窓も、今は真っ黒に塗りつぶされていた。目を眇めてアナログ式時計を確かめると、短針は朝の七時を指している。
いつからか、物音を厭うことは習い性となっていた。跳ね上げ戸を押し開けると、両親の話す気配が届く。ひそめた声でゆっくりと言葉を選ぶ口ぶりは、母が不安を宥めようとする時の習慣だ。
「オーバーブロットって聞いた時、本当にこの世の終わりかと思った。それからずっと、あたしのせいなのかって考えてるの。長いこと放ったらかしにしてしまって」
「だとしても、あの子はあなたを恨んでなんかいないよ」
「あたしが許せないの。一人で抱え込むようになってしまったんじゃないかって」
僕はダイニングに姿を現す前に、母の言葉について考えてみることにした。直感はこう言っていた。そんなこと、認められるか。次に僕はこう考えた。僕の失敗は僕だけのものだ。
僕は母が世界の全てを知らないことを既に知っていた。彼女は優れた経営者であり、十七年もののベテランの母親ではあるけれど、かつてすすり泣く息子を前にその子を抱きしめることしかできなかった一人の人魚でもある。母は完璧ではないのだから、僕の失敗までもを所有することは当然できない。おまけに、僕の人生には既に母以外のたくさんの人々も出入りしている。昨日のパーティーのように。
気持ち勢いよく寝室の戸を閉める。くぐもった音は両親の元にも届いたのだろう、会話の気配が一瞬途切れ、次いで椅子の軋みが微かに伝わってきた。ダイニングに肢を進めると、義父が椅子を引いて待っている。
「おはよう、アズール君。よく眠れた?」
「はい。久しぶりに蛸壺を使いましたけど、次に陸で寝る時苦労しそうなくらいです」
残り物で悪いけど、と義父が指す先には、なるほど見覚えのある料理が並んでいた。パーティーの次の日ってちょっと朝ごはんが楽しみじゃない? そう言って母が笑う。僕はフォークを手に取りながら、両親の注意深い視線が自分に注がれているのを感じていた。海の中にいるのにつむじが焦げ付きそうだ。ナイフとフォークの間に横たわる蒸し芋から視線を外し、顔を上げて母の目を見る。
「ママ」
紅茶のゼリーにスプーンの形の穴を穿とうとしていた彼女は、その手を止めて目を瞬かせる。そして僕がカトラリーを置いていることに気付いたのだろう、彼女もまた皿を押しやって、何? 簡潔に問う。
「次はもっと上手くやるよ」
母は一瞬虚を衝かれた顔をした後、小さく頷くと立ち上がり、僕の隣に立つ。そして両腕を広げ、けれどその腕を僕に回すことはしなかった。代わりに片手で僕の肩を叩き、ふと微笑む。
「そうね。次は上手くやれる。あたしもそうだったもの」
そう言うと母は優雅に身を翻し、椅子の上のバッグを掴むとあっという間にリビングを出て行ってしまった。
「ねえオットセイさん、今何時?」
「そのあだ名やめてくれよ。七時三十分!」
「嘘でしょ⁉ なんてこと」
廊下で悲鳴が響き、遅れて玄関ドアの音が聞こえてくる。振り向くと、義父が苦笑いで肩をすくめていた。
「相変わらず忙しい人だねえ、君のママは」
「え、ええ。久しぶりに見ましたけど、本当に相変わらずで」
「私の仕事のある日なんか、こんなものじゃないよ。毎朝シャチの大群が襲ってきたみたいな大騒ぎをしてる。君はどうだろう、寮では毎朝起きられている?」
「当然ですよ! 寮長として他の寮生に舐めら、失礼、規範となるよう行動しないと」
「頼もしいね。とはいえ、私が言えるのはこのくらいしかないが、あまり無理はしないでくれ。君のママが悲しむところを見るのは本当に辛かった」
「ええ、僕も身に沁みました」
応えの声は、自分で思っていたより幾分か低かった。一年前の、僕のベッドの脇で目の下の隈を濃くしていた何人かの顔を思い出す。本当にもうたくさんだった。膨張しすぎた物語の破綻も、その結果自らすべてを暴いてしまうことも、誰かの口で僕自身を語り直されてしまうことも、二度とごめんだった。
ほぐされた蟹の身がボウルに落とされる。一匹剥き終わると母は次の一匹に手を伸ばし、再び鮮やかな手際で殻を割る。そのうちにボウルは朱色の肉で満たされ、僕は立ち上がりそれを保冷庫に収める。母は既に次のボウルに取り掛かっている。
ボウルが二つと半分を数えたところで、とうとう僕は読むのを諦めた教科書を閉じて脇に押しやった。何人もの従業員たちが使ってきた古い折りたたみ式の小テーブルには、ところどころにナイフの当たった跡や拭いきれない何かの染みがついている。幼い頃には背丈が足りずしがみつくようにしていたそれも、今や丁度良い高さで使うためには八本肢を少したわめねばならなかった。
「それで、ママ。実は腕時計が壊れてしまって、実のところ帰省したのも修理のためなんだ。ほら、ミドルに上がるときに貰った、シルバーの金属ベルトの」
「ああ……あれね」
奇妙に生まれた無音を、蟹の殻の砕かれる音が不規則に埋めてゆく。悪いんだけど。母の声は低く平坦だった。
「あれね、実は陸で買ったものなの。ここからもそう遠くはないんだけど、輝石の国の、汽笛の街。知ってる?」
その街の名前は、ごく個人的な事柄のタグを添付して僕の記憶ライブラリに保存されていた。それによって、先程彼女が言いよどんだ理由に思い至る。
「知ってるよ。汽笛の街って言ったら、ママの」
「そう、最初の結婚をした場所」
「時計、ママが二十歳の時に自分で買ったって」
「嘘は言ってない。ママのキャリアが陸にあった時期に、陸の時計店で買ったの。その店で修行してたのがドン・ポセ、つまり」
「僕の父親だ。嘘でしょう?」
「生憎ほんと。その時計、あなたの血縁上の父親に直してもらうのが一等確かよ」
次いで語られた店の名前は十数年前の記憶と思えないほど流暢に発音され、母の精神に根を下ろす記憶の濃密さが知れた。まだあったらいいんだけど、そう言う母に応えてスマートフォンを手繰れば、幸いその店は変わらず営業を続けているらしかった。画面を示すと、蟹の汁に汚れた手を水中にぶらつかせた母が体を捻ってこちらに身を乗り出し、しげしげと僕の手元を覗き込む。
「そうそう、ここよここ。斜向かいにパン屋があってね、あの時計を買った後に寄ったんだけど、席に座ってみたら今度は紙袋を汚しやしないかドキドキしたのよね。まだちゃんとあるのねえ。あたしたち親子の過去は、まだあの街に健在ってわけだ」
しきりに頷きながら作業台に戻ると、母は再び蟹の山に取り掛かり始める。親子の? 僕が尋ねる。ママだけじゃなく?
「あなたにとっては残念ながら、あたしたちの。写真よ。あなたが全部無かったことにした。あの男が捨ててなければ、多分それなりの量が残ってる。小さい頃のもそうだし、別れてからも送ってたから、写真だけは」
は、とこぼした声が、それきり言葉の形を取ることはなかった。殴られたかのように視界が揺らぐ。二年生の、中間試験前のあの日が脳裏に蘇る。過去への復讐を完遂しようとして、まんまと返り討ちに遭ったあの日だ。鰓を通る水が急に重く濁った気がする。あれ以来すっかり切り離したつもりでいた過去が僕に食らわせた不意打ちは、あまりにも強烈だった。
「どうして、よりによって、パパの」
「だってそりゃあ、父親だもの。写真を持ってる権利くらいはあるでしょ」
僕を横目で一瞥した母が小さく呟く。斜め後ろから見る彼女の、引き結ばれた唇の端は深く落ちくぼんでいた。振り向かないでくれと僕は咄嗟に念じる。母が僕に向ける目に浮かぶものが憐憫であったならば、きっと僕は叫び出してしまうだろうと思われた。
果たして、母はただ次の蟹を手に取ることしかしなかった。ボウルが取り替えられ、新しい空白が半透明の肉で満たされてゆく。彼女の手でほぐされた身を受け止めるボウルから視線を外し、僕はゆっくりと上半身を伏せた。古いテーブルの凸凹が、体を覆う粘膜越しに僕の肌を摩擦する。端へと追いやられた教科書がバランスを崩し、床に落ちたらしい鈍い音が聞こえた。二本の腕でこしらえた枕に顔をうずめ、片目だけを隙間から覗かせて母の背を伺い見る。
「ママはさ、パパとのこと、後悔してる?」
「一緒になったこと? それとも別れたこと?」
「両方」
蟹の身から目を離しもせず、そうねと母が言葉を継ぐ。さっぱりと短く切りそろえた後ろ髪が、彼女の仕事に合わせて小気味良く揺れている。
「一つ一つは最良の選択じゃなかったかもしれないけれど、帰ってきた結果にはベストを尽くして対応してきたつもりだし、今の自分には満足してる。だからやっぱり、無かったことにしたいとは思わない」
「パパはどういう人だったの? つまりその、ママにとって」
「はあ、あの男ねえ。 あれは未練がましくて、それに鼻持ちならないクソ野郎だよ」
それまで手元から視線を離さなかった母が、ゆっくりとこちらを振り向く。僕たち二人が父について話すのは初めてのことだった。あの時期の母の憔悴ぶりを知る僕にとって、その話題を持ち出すことは彼女への裏切りに他ならなかったし、今より幼くものの分からない時分にあっても直観によって僕はそれを知っていた。けれども今の母の口ぶりは、少なくとも僕に読み取れる範囲において屈託なく滑らかであった。母がスプーンを手に取り、蟹身を山盛りにすくってこちらに差し出す。体を起こし従順に口を開ければ、濃厚な風味が両頬に広がった。にやりと笑った母が用済みのスプーンをシンクに投げると、鈍い音と共に小さな水流が巻き起こる。
「あの男とのことはもうほとんど全部終わったことだし、感謝することがあるとすれば、あなたとオットセイさんに会わせてくれたことね! あなたや彼がいる以上あたしにとって過去は切り離せないけど、同時に未来ももたらされてるの」
蟹の身よりもむしろ宝石で飾られたピストルやナイフの方が似合いそうな母の微笑みは、不思議なことに僕の口吻を軽くした。ふと僕は彼女に、僕自身の恋の話もしたいと望んだのだ。
口を開き、さあどうしたものかと考え込んだ一瞬で、しかし果たして僕の発しようとした言葉は扉の音に取って代わられた。
「ああ、やっぱり二人ともここにいた」
現れたのは義父で、その手には小さな包みが握られていた。クライアントから頂いてね、休日出勤のお詫びだと言って。そんなようなことを話しながら僕の使っている机に包みを置くと、母にキスをしてから壁際に寄せられた折りたたみ椅子を持ってくる。
飾り結びの施されたリボンを解くと、包みの中から顔を覗かせたのは黄金色をしたケーキだった。いつの間にか近くに来ていた母が、あらと声を漏らす。リボンに結び付けられていた貝殻の説明書きを義父が読み上げたところによれば、翡翠海嶺産ホエールチーズのケーキだという。
「へえ、おいしそうだね。待ってて、今皿を」
「ああいえ、悪いんだけど」
食器棚の方へ水を蹴ろうとした義父に、母が声をかけて制止する。
「本当においしそうなんだけどね、あたし来週コンテストの審査員として呼ばれてるの。メディアも入るから、今ウエストを絞ってて」
「すみません、僕も遠慮します。家にいるとただでさえ食べ過ぎてしまうので」
「ええ、そうなのかい……」
肩を落とした義父を哀れに思ってか、母がフリーザーからノンシュガーシャーベットを取り出す。僕が食器を取ってきてやると、箱の中のケーキは三切れとも一度に皿へと移された。まさか、全部。小さなうめき声は母のものだ。盛り付けも何もなく皿の上でぎゅう詰めになったケーキへ、義父が魚料理用の大きなフォークを突き立てる。
「ねえ、あなたのその食欲、やっぱりオットセイさんだわよ」
「君たちが食べないって言うからじゃないか……。二人とも全く太ってなんかいないのに」
巨大な黄金色の塊が義父の口へと運ばれてゆく。さらに落ちた欠片さえ輝いているように見えて、僕は湧き上がってきた唾液を無理矢理飲み下した。テーブルの上の楽園から目を逸らすと、その下で母が義父の腹を摘まんでいる。
「またそういうこと言う。もういい歳なのに、太りにくいからって油断して……憎らしいったら」
「ああ、わかる。僕の彼氏もよく深夜に食べてるんだよね」
「……彼氏!」
義父の脇腹を狙う母の手がぴたりと止まる。オットセイさん、やっぱりあたしもそれ頂くわ。そう言って皿を取りに立った母の背に、笑みを含んだ義父の声が飛ぶ。ウエストはもういいのかな?
「びっくりしてカロリー使ったからいいの! アズールそれって、前に珍しい場所から映像繋いできてたじゃない、もしかしてあの時の部屋の?」
「ええ、あの時の」
「おやまあ。そんな気はしてたけど、改めて言われると驚くわね……」
学校の人? 同い年? 陸出身? 優秀な人? イエス、ノー、イエス、イエス。両親からの矢継ぎ早な質問に一つ一つ答えてゆく。年上の部活仲間で、天才的な頭脳とひねくれた精神を持ったギークであることまで説明し終えたところで、最後に一つだけと断って母が口を開いた。
「その人、あなたにとってのどんな人?」
僕は少しだけ黙り込み、頭の中でイデアさんの姿を再構成する。青白い肌、広くて薄っぺらい背中、僕の野心に耳を傾けてくれて、苦笑いしながらも止めようとしない人。
「呆れるところも多いけど、僕の目指す先にいてほしいと思う人だよ」
素敵じゃないのと母が破顔する。チーズケーキを二つ胃に収めた義父が大きく息をついた。
「年寄りにこんなことを言われても君には興醒めだろうが、いやあ、青春って感じだね」
「そのうちに連れていらっしゃいよ、何も取って食いやしないから」
「そのうちにね。何しろ床下のテナガエビより臆病な人なんだ。それに癖の強い人だから、ママたちの気に入るかどうかも分からないよ」
「だとしてもよ。あなたの物語なんだから、あたしたちが気に入るかどうかは問題じゃないの。まあ、口の一つ二つは出すかもしれないけど」
「いや、あるいは私なら気が合うかもしれないぞ。私が君のママに言うのと同じことを君に向かって言う人なんだろ?」
「おや、気付きましたか」
「珊瑚の海一の民事弁護士の頭脳ってやつだ」
やだ、あたしの知らない所で何の話してたの? なんでもないさ、天気の話みたいなものだよ。またも母が夫の脇腹を狙い始めたところで、ぽんと間の抜けた音を立ててパーソナルコンピューターがメッセージの受信を告げた。水ひとかきの元にテーブルを離れた母は、マジカメを立ち上げて小さな歓声を上げる。
「ねえボーイズ、今すぐスケジュール帳を開いてちょうだい。三日後の予定は空いている? 急で悪いけど、素敵なディナーのお誘いよ」