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    幕間恋愛 さざめきの満ちる店内になかなか威勢の良い厨房、ドリンクリストは充実しているけれど、テーブルのニスは安っぽく光って所々傷ついている。そういう店で、僕は学生時代から親交の続く後輩と食卓を共にしている。数週間前に会った時は軽いジャケットでやり過ごせる気候であったのが、いつの間にか街はすっかり寒風に背を丸めてしまっていた。ドアのこちら側で使い古された空気は団欒に火照り、揚げ物油と電子煙草の臭いを含んで穏やかに間延びしていた。
    「アズール氏もこういう店使ったりするんだね、意外」
    「あなたの中でどんなイメージになってんですか、僕」
    「いやなんかこう……薄暗あいシャレオツ空間で……クソデカい皿にクソみみっちく乗ったウサギのエサみたいなの……チマチマ食べてる……」
    「さすがは天才のイデアさん、なんて豊かなイマジネーション」
     大仰な身振りで皮肉を言う姿は、多分あの頃から殆ど変わらない――もとより彼は、十代の時分から年寄り臭い、もとい早熟な理知を携えていたが。とはいえ、そう見えるのは他ならぬ僕自身が、彼との関係という一点において長い停滞の中にいるからかもしれない。彼は間違いなく成長している。今のアズールは、柔らかで繊細な体を大人の服に押し込めずとも、彼の心が何者にも毀損され得ないことを知っている。であればこそ、上等のシャツの上にニットプルオーバーを着てタイを緩めてしまえばこんな店にもしっくり溶け込めることを理解し、周囲の喧騒に紛れてリラックスした顔を晒しているのだ。
    「こういう店って、誰も彼も自分たちにしか興味が無いでしょう。僕も時々はそんな風に扱われたいんですよ」
    「誰でもない人みたいに」
    「ああそう、それです。やっぱりイデアさんは、僕のことよく分かってくださいますね」
    「そ、そう? ヒヒ……あでも、君のこと一番分かってるのはリーチの二人なんじゃないの?」
    「あいつらの好きな僕は、ステージの上で踊ってる僕ですよ」
     双子の名前を出したのは多少の礼儀、そして浅ましい願望ゆえのことだった。僕は彼が、目の前にいる先輩に気を遣ってリップサービスを加えてくれることに期待をしていた。そしてそれがどの程度の真実を含むかに注意を向けず、まるきり彼の本心であると受け取って悦に入りたいのだ。
     マスターベーションに等しい誘導尋問にほんの少しだけ恥じ入り、呷るグラス越しに彼の表情を伺う。皮肉っぽく口の端を歪めて笑うアズールの様子からは、彼が僕の問いをどう思っているかは一切読み取り得なかった。
    「そう、それで……そのダンスの調子の方は、最近どうなの」
    「概ね順風満帆と言って差し支えないでしょう、おおよそありふれたトラブルに目を瞑ればね。あなたは?」
     大衆酒場の店内は程よく暖かく、食事の味は申し分なかった。水を向けられるがまま最近の研究内容、それからついでに趣味の開発品について適当に噛み砕いて話してやる。しばらくぶりの生身での発声であるにも関わらず僕の口はよどみなく回り、対するアズールは酷使されがちな舌に休暇をくれてやる気分であるのか、薄っすらと微笑んで僕の話にひたすら耳を傾けている。時折挟まれる「おや」だとか「へえ」だとかの相槌は適度にぞんざいで適度に熱っぽくて、僕はすっかりその居心地の良さに酩酊していた。
    「あなたって人は、会う度に違うことしているんですから。最適トポロジーの変形による魔導エネルギーの極限凝縮と無の発生については、もうご興味を失われたんですか」
    「それもう先月のブームだからね。スピード感が命なのはビジネスだけじゃないってこと。アップデートは我らの命ですぞ」
    「ええ、全く本当に、あなたの仰る通りです。停滞など僕らには許されない」
     大層居心地が良かったものだから、アズールの眦に一瞬ひらめいた青白い影を、僕は見間違いだろうと考えて気にも留めなかった。何しろ僕から見たアズール・アーシェングロットという人魚は大層優秀で抜け目なくて、常に万事好調でしかあり得ないのである。少なくとも彼が自身をそう見せることに成功している限りは、アズールは僕にとって完全無欠であり続けるのだ。
    「んで今遊んでる技術から作った試作品がこちらになります。いる?」
     ポケットから小さなパーツを取り出す。一瞬目を輝かせたアズールは、すぐにわざとらしく咳ばらいをし、対価は、とのたまった。実に彼らしい反応で愉快な気持ちになる。対価なんかいいよ、と僕はいつもの台詞を返した。
    「忙しい君がまたこうやって遊んでくれたら」
    「そんなのじゃ対価になりませんよ、この時間は僕にとっても必要なものなんですから」
    「そう言ってくれるだけでいいよ。とにかく対価とか気にしないで。君が上手いことやって金儲けして喜んでるの見るのが一番楽しいからさ。どうしてもってんなら、あー、じゃあ特許取得の代行とか」
     それならとおずおず伸ばされた彼の手に半ば無理矢理パーツを握らせ、その機能や優位性について説明してやる。これほんとならでかい会議室で話すことだよね。そう言って笑ったら、アズールも瞬きの間の後に噴き出した。本当だ、全く居酒屋でする話じゃない。それでも彼は僕の話によく耳を傾けてくれたし、興が乗って来ればお互い夢中になって、その小さなパーツをいじり回した。
     アズールがさり気なく腕時計に目を走らせ、おやと声を上げる。時刻は深夜に差し掛かっていた。
    「結構な時間ですよ。そろそろ帰らなくては」
    「明日休み?」
    「ええ」
    「じゃあいいじゃん、もうちょっと……あ、それか何ならうち来る? こっから近いし、それにほら、さっき話したボドゲあるし」
     未練がましい僕の誘いに、アズールはきっぱりとかぶりを振った。駄目ですよ、何を言われたって駄目。僕はちゃんと家で寝る主義なんです。彼は決して自堕落に夜を過ごすことはせず、僕もまた深追いはしない。この手のやり取りだって初めてではなかった。僕は分別ある大人の顔をしてスマホを取り出し、きっかり二分の一に計算された飲食代分のウェブマネーを、彼のアカウントへと送金する。
     別れ際が歯がゆいのなんて、今に始まったことじゃない。彼の背中を見送る一番古い記憶は学生時代にまで遡る。アズールはいつでも、部活動終了の鐘と同時にきっちりゲームを畳み、鮮やかに経営者の顔へと着替えて部室を後にしたものだ。
     毎回のようにゲームを引き延ばそうとしていた僕の姑息な思惑は、ついに実を結ぶことはなかった。遊んでいたのがちょっとしたゲームなら、現在持ち点で勝敗を決することにした。(タイムアタックです、と君は笑っていた。攻勢のタイミングを誤れば逆転より先にタイムアップだ。確かにその特別ルールは面白くて、僕は嘆息するほかなかった。新しい遊びを見つけるのはこっちの領分の仕事だと思っていたのに、君を引き留めたいばっかりだった僕は完全に後れを取っていたわけだ)あるいは、重めのゲームなら記録をして次回に持ち越すこともあった。そういう時、僕はいつもよりほんの少しだけましな気分だったはずだ。アズールはやりかけのゲームをそのままにするような、不義理な子ではなかった。彼とまた遊べるというだけで、僕は対面授業も苦じゃない程度には浮かれていられた。未成熟な情緒を抱えた学生時代の僕は、彼と離れがたく思う気持ちの正体をついぞ認めることはなく、その背中を見送ることばかり上手くなってしまった。初めてできた友人と呼び得る存在に少し強めに執着しているだけだと、純粋なまでに信じ込んでいたのだ。
     今僕がアズールとの親交を絶たずにいることは、幸運の女神のお目こぼしを貰ったか、もしくはあの頃の彼の言葉のおかげだろう。それが発せられたのは例のごとく部活動時間中で、丁度僕が当時入れ込んでいたゲームのガチャを引いていた折だった。
    「来るまで回せば来る! 来るまで回せば来るんだよォッ!!」
    「あなた部活に来てまで何やってんですか」
    「ちょっと黙っててアズール氏、今拙者指先にチャクラ集めてるから、一世一代の大勝負だから」
    「はいはい、今年入って何週間ぶり何度目の大勝負ですそれ?」
     その後見事爆死して椅子に引っかかる炎上毛玉に成り下がった僕を、アズールは無慈悲にも鼻で笑ってのけた。そして続いた言葉を、僕は今でも覚えている。
    「あなた、ゲームではそんなに素直になれるのに」
    「エア? ナニ? 推しピの前では何人たりとも虚飾の皮を脱ぎ捨て億万の言葉を尽くしその尊みを称えることからは逃れえませぬが? あいやしかし拙者の言葉なんかどれだけ重ねたところで推しの4%も表現できませんし何なら言葉失ってただ泣くしかないまである……」
    「絵だかボイスだかはそうやって必死で欲しがるというのに」
    「無視じゃん。さすアズしびあこ」
    「本当に欲しいものは、あなた最初っから諦めてるんですよ、いつも。ですのに欲しがりもしないくせ、時々ひどい顔をする。……僕はねえ、イデアさん。欲しいものは全部、欲しいと言うようにしているんです。求めもしないで勝手に傷つくなんて、虫が良すぎるでしょう」
     僕は多分その時、表情の抜け落ちた顔をしていたことだろう。アズールの言うことは、ガチャ爆死直後の僕の情緒には少々辛辣が過ぎた。嘆息した彼は立ち上がると僕のスマホに手を伸ばし、そして「ラウンジの時間ですので」といつもの台詞と共に去って行った。彼の慈悲の指先が一撫でした画面では虹色の確定演出が踊っていたけれど、僕は口を半開きにしたまま、廊下の向こうに消えるアズールの背中をぽかんと見つめるばかりだった。
     あの頃に一年かけて飲み込んだ彼の言葉を、今の僕は注意深く守ろうとしている。定期的な連絡、率直な言葉、素直に伝える好意。お陰で僕は今日に至るまで、彼と遊ぶ時間を辛うじて手元に繋ぎとめていた。まさしくそれは僕が心底欲するものに違いないのだ。
     タクシーの着く時間を見誤り、僕らは少しだけ時間を持て余した。無数の針のような風は安物のダウンジャケットを貫き、アルコールに緩んだ体から熱を奪ってゆく。けれども気候への怨嗟を延々吐き出す口先とは裏腹に、彼との夜に僅かなロスタイムが得られたことを僕は喜んでいた。
     この感情が手に余るものだと判断した僕は、自身の心と一つ取引をした。これを恋と定義すること。それにより僕は叶わぬ恋に絶望することになり、けれどそれと引き換えに一つの客観を獲得した。メロドラマティックな恋に陶酔する男と言うのは平凡さにおいて申し分なく、その平凡さを嘲笑することによって、僕はある種の平穏を得ることに成功した。どこからか盛大なくしゃみの音が聞こえる。少し引きこもっている間に、世界は勝手に冬を迎え入れていたらしい。
     寒い寒いと大騒ぎする僕に流し目をくれて、アズールは平然と笑っている。果たして、と僕は普段の幾分かの一にまで回転数を落とした頭で考える。果たして今こそこの煮詰まりすぎてタールのようにこじれた恋心に、ガス抜きの機会をくれてやる時ではなかろうか。僕はそれなりに酔ってはいたけれど、自分の行いを酔いのせいにできると判じられる程度には悪知恵が働いた。半歩分、体をアズールの方に寄せる。何ですかと笑いながらいなされるので、ここぞとばかりに寒い寒いと泣きごとを重ねる。我ながらこの世の終わりのような声が出た。陸の人間は軟弱ですねえと、アズールは上機嫌だ。僕はもう一段階調子に乗ることにして、腕を素早く彼の腰に回した。
    「ちょっと、もう、そんなに寒いんです?」
    「寒い以外の感情が無い。助けてアズール氏」
    「全く、仕方のない人」
     腕は振り払われず、彼は逃げ出さなかった。コート越しの体温は淡くて、とても暖を取るには足りない。けれど僕はもう、先程までの半分も寒さを感じていなかった。気付かれないよう慎重に、彼の腰に回した腕に力を込める。巡る血液と強靭な骨、静かに躍動する内臓と筋肉。何枚かの布を隔てたその下に、アズールの体を生かす質量があった。
     微笑む唇の曲線に見入っていたところでふいに強烈なヘッドライトがアズールの頬を白く照らし、頼んだタクシーの到着を知る。一緒に乗り込もうとしたりなんかしたら、果たして彼はどんな顔をするんだろう。馬鹿げた妄想を繰り広げる僕の目の前で、そのドアが音を立てて閉まった。笑顔のアズールに笑って手を振り返す。目線を進行方向に向けた彼が口を動かして、恐らくは住所を運転手に告げる。既に甘ったるい笑顔は失せ、自立した男の顔をしていた。僕らの間には何の約束もなく、タクシーのテールランプは街の光に紛れてすぐに見失われてしまう。ダウンジャケットの襟をかきあわせて、僕はしばらくの間その様子を見つめ続けていた。

     ◆

     そろそろ会いたいですと、彼の言葉はいつだって真っ直ぐだ。スマートフォンがそのメッセージを受信したのは、彼と最後に会ってから3週間ほどが経過する頃だった。
    “そろそろ会話らしい会話をしないと、僕陸の言葉を忘れてしまいそうです”
    “八枚舌のデビルフィッシュがよく言う”
    “干からびそうなのは本当です。それで、空いている日は?”
     こんなにも明け透けな好意を差し出されるというのに、あくまで君のそれは友人に向けるものなんだ。そのことを思い知る度、僕は狂おしい気持ちになる。そして約束の日までの数日間、僕は不埒な妄想に耽る。今度こそ僕らは、言い訳が立つくらいには酒量を過ごすかもしれない。グラスを重ねる彼を僕は黙って見過ごす。足元のおぼつかなくなった僕は彼の肩にもたれかかって、その髪の香りを胸一杯に吸い込むのだ。
     妄想に割り入って、スマートフォンがぽろんと鳴る。
    “18時には着けるかとは思いますが、また当日連絡します”
    “りょ そんくらいに向かうね”
    “すごく楽しみです”
     メッセージを映し出す画面が煌々と光る。胃のあたりで、怒りのようなものが渦巻いた。僕はいつだって彼の言葉に勝手に浮かれるし、でも彼は手に入らなくて、それで勝手に不満の炎を燻ぶらせる。
     キスくらいしちゃだめかな。しぶとい妄想の中で、心地良い酩酊に浸った僕はアズールにキスをする。彼は何もかも知っていたって顔で笑って、されるがまま目を閉じる。シティホテルって夜に押しかけても部屋は取れるのかな。真っ白いシーツの上で君を甘やかしたい。そうなきゃこの部屋に連れ込んだって構わない。タクシーの中で手を握っている時間はさぞかし幸福なのだろう。見知った自室にアズールがいて、僕はその肌を暴くことを許されて……
     目を開き、大きなため息をつく。うんざりするほど馬鹿げた妄想だ。スマホの画面がソシャゲのデイリーミッション更新通知を表示し、時刻の夜更けに至ることを告げる。全部分かっていた。今度も彼はきっと正気のままで家に帰る。彼の失望を何より恐れる僕はキスなんてしない。できてせいぜい、盗むようにしてコート越しの肩を抱く程度。尊厳ある彼に、僕は一切何の権利も持たない。僕が彼に劣情を抱くのも、それが果たされず苛立つのも、すべて身勝手で理不尽な逆恨みだなんてことは自分が一番分かっていた。
     事態が悪くなったのはその約束の僅か二日後だった。スマートフォンが再び彼からのメッセージの受信を告げる。それは謝罪の言葉で始まっていた。
    “急に会食の予定が入ってしまいました。申し訳ないのですが、食事の約束は繰り延べさせてください”
     了解を得るつもりもない、決定事項の一方的な通知だ。職場にいた僕はうめき声を上げて体をのけぞらせる。はずみで強かに実験器具に頭をぶつけ、派手な音に驚いた同僚が物凄い顔でこちらを見てきた。
     同僚に謝り、まばたきをして浮かんでいた涙を払う。これはレバーのとこに後頭部がめり込んだ痛みのせいであって、断じてショックだったわけではない。理解ある友人のロールプレイを脳内で一通りシミュレートし、僕はスマートフォンを持ち上げた。
    “今この瞬間一週間分の気力を使い果たした”
    “本当にすみません。埋め合わせは必ず”
    “彼ピみたいなこと言うじゃん草 じゃあ次おごってクレメンス”
    “できるだけ安い店にしてくださいね”
     まあ上出来じゃなかろうか。トーク履歴をざっと見直し、僕は今度こそ体中の空気を半開きの口から押し出した。凝り固まった背中が破壊的な音を立てる。思い出したように首が痛みだして、自分の年齢を思い出す。ティーン向け雑誌の読者欄でしかお目にかかれないような傷心を抱えていたところで、胸より先に痛むのはすり減った背骨なのだった。
    「どうしたシュラウド、サ終でもあった?」
    「セックスしたい……」
    「え、ほんと何。徹夜した?」
    「2徹……いやアレっすわ、色々拗らせてる人にドタキャンされた」
    「普通にかわいそうで草。え、好きなの? いつから」
    「めっちゃ好き……カレッジ時代から……」
    「やば、一途じゃん。それはもうよくない? こう、酒とか飲ませて上手いこと持ち帰ったら」
    「普通に犯罪で草。やてか、陰キャがそんなん出来るわけないんだよなあ」
     そのまま両腕に顔をうずめてしまった僕に、同僚は何も言わず栄養ドリンクを供えて去って行った。
     運命というのは惨めな人間をもっと惨めにするのを趣味にしているようで、僕はその数時間後、もう一通のメッセージを見ることになる。
    “ホタルイカ先輩振られたらしーじゃん”
     今も変わらずアズールの脇を守る双子の破天荒な方は、哀れなホタルイカの心境を慮ることを知らないらしい。珍しく連絡を寄越したと思ったら、人の傷口に嬉々として塩を擦りこんでくる。自宅のベッドの上でどう返したものか考えあぐねていると、間を置かず新たなテキストが画面に現れた。
    “したらその日暇じゃん? ちょっと付き合えよ”
    “申し訳ないのですがその日は業務が”
    “ハ?来いっつってんじゃんお前んとこの会社行くからな”
    “謹んで参上いたします”
     ギャングの知り合いがいると噂が立つのはさすがに不名誉この上ない。掌を返した僕に、フロイド・リーチは簡潔に時間と場所だけを送って寄越した。そこで彼お得意の気まぐれが発動したのか、用向きを聞いても返事はまるで返って来なかった。
     指定されたのは大通りのダイナーだった。蛍光灯の明かりの白々しい店内を見渡せば、長身の彼はすぐに見つかる。大きな窓に面した席につき、長い脚を窮屈そうに折りたたんでいた。にじり寄る僕に気付くと気怠い仕草で手を振って見せ、近寄ってきた店員に勝手に二人分のコーヒーを注文する。
    「おっせぇよ」
     僕の尻がスポンジの飛び出た丸椅子につきもしない内に刺々しい罵声が飛んできた。肩が跳ねるのを隠すのはさっさと諦め、細々とした抗議を述べる。いや、時間通りですが、あと拙者コーヒーはあんまり。
    「あ? 何か文句あんの?」
    「ないでしゅ……」
     果たして僕の全精神力をかけた反駁は一蹴され、更に舌打ちの追撃までもが飛んでくる。すっかり委縮した僕はそれきり一言も発さず、熱いばかりで味も香りも分からないコーヒーを行儀悪くすすった。ダイナーは雑居ビルの二階にあって、それゆえ通りを行く人々の姿がよく見える。太陽が微睡み始める時刻だ。光は急速に色を変え、街路樹に絡みつくイルミネーションがその後を引き取って灯り始める。それには目もくれず、人間たちは沈みゆく太陽を追いかけるかのように早足で通り過ぎてゆく。こうして眺めていると、まるで皆同じ人間であるように見える。時折所在なげな人が変則的な軌道でその流れを乱していて、きっとあの人も誰かとの約束を失ったのだろうと、僕は勝手にそう決めつけて同情を寄せた。
    「あ、来た」
     好きでもない人間観察にもいい加減に飽きてきたころ、隣で無言を貫いていたフロイド・リーチがふいに声を上げる。何が、と訊く必要はなかった。雑踏の中一際目を引く人に僕の目は吸い寄せられる。夕暮れの街の中、朝靄の色の髪をした人を僕が見間違えようはずもなかった。
    「アズール、と、あと誰、あれ」
     アズールの隣に、彼にぴったり寄り添って歩く人がいる。それは殆ど独白に近い問であったけれど、答えは隣に座る人魚によってもたらされた。あれね、アズールのパパ活相手。首が折れるんじゃないかって勢いで振り向いた僕を一笑して、フロイド・リーチが補足する。アイツね、最近アズールにまとわりついてる雑魚、そんで今日のパーティー主催のシャチョーさん。
     二人は親し気に何事か話しながら、僕らから見て真向いのホテルへと消えて行った。なるほどこれを見せたかったのかと、フロイド・リーチの一見ちぐはぐな誘いにとりあえずの納得を与える。
    「てかさァ、ホタルイカ先輩アズール一瞬で見つけんじゃん。ウケんね」
     前のめりになった僕の後ろ頭に、フロイド・リーチの飛び跳ねるような声が飛んでくる。振り向いて確認する余裕はないからどんな表情をしているか分からないけれど、不機嫌は直ったのだろうか、声は先ほどまでよりワントーン高くなっていた。
    「いや……パパ活ってか、仕事でしょ? フロイド氏が拙者を呼んだ意味が分からんが」
    「だからさァ、雑魚だっつってんじゃん? 今更アズールが飯食う必要もないわけ。意味わかんねーって思うっしょ。あれタコちゃんの悪い癖なんだよね。ホタルイカ先輩アレのせいですっぽかされたんでしょ?」
     舌打ちの代わりに、すっかり冷めたコーヒーを煽った。舌を刺す苦みが広がり、Fワードが口をついて出る。フロイド・リーチの弾むような笑い声が頭蓋骨の内側を揺さぶった。
    「アッハァ、先輩イラついてんじゃあん」
    「……いつもあんな調子なの?」
    「んー、時々ね。でもさぁ、アズールああなった後すげぇ落ちるわけ。んでクソつまんなくなんの」
     這いつくばらんばかりだった上体をカウンターから引き剥がし、緩慢にフロイド・リーチを振り返る。見上げる彼は大きな口を三日月型に歪め、歯を剥き出しにして笑顔らしきものを浮かべていた。いつの間に注文していたのか、どぎつい色のケーキへ手掴みでかぶりつき、食べかすが落ちるのも構わずこれ見よがしに咀嚼する。
    「だ、だからってなにゆえ? なにゆえ拙者にアレ見せたので? 拙者には関係な」
    「んー? だぁってさあ、ホタルイカ先輩に遊んでもらった後のタコちゃん楽しそおだから。先輩のお迎えあったらあ、プラマイでなんかおもしれーことんねっかなって」
     ケーキの最後の一口をその大きな口に放り込むと、まっじぃと呟きながらコーヒーの残りも流し込む。喉仏が大きく上下し、ばねのような脚を伸ばして彼が立ち上がるのを、僕は呆然と見つめていた。
    「んじゃオレ帰っから。先輩あとヨロシク」
     置き去りにされた僕はギシギシ音の鳴りそうな首を回し、再びホテルの出入り口を睨みつけることにした。首の付け根でぶすぶすと、水気を含みすぎた紙の燃えるような音が聞こえる。憎たらしい頭の炎は、きっといつもより一回り大きく膨らんでいることだろう。きっとフロイド・リーチも僕のこのザマを見て面白がって、あるいは安心して席を立ったに違いない。いい気はしなかったけれど、僕はフロイド・リーチの掛けた橋を渡ることにした。嫉妬の大義名分を得たわけだ。アズール・アーシェングロットの腹心が、僕に彼への干渉を求めた。ポケットから取り出したデバイスを起動し、バーチャルディスプレイを一面に展開する。SNS上の痕跡から法人登記情報、権利回りもすっかり隈なく調べ尽くそう。僕は請われるがまま手を出すに過ぎない。店員を呼び、コーラフロートを注文する。甘ったるい液体をずるずる啜り、僕は口の端を吊り上げた。きっと今僕は醜く歪んだ笑顔を浮かべているのだろう。引きつる顔面の筋肉は、久しぶりにあるべき場所に戻ったことに歓喜してピクピクと痙攣をおこしていた。
     三時間も経っただろうか、出揃った情報に概ね満足した頃、ようやくアズールがホテルエントランスから姿を現した。彼がひとりであることにそっと胸を撫で下ろし、大急ぎで会計を済ますと雑居ビルの階段を駆け下りる。金曜の夜でよかった。タクシーを捕まえあぐねているところに立ちはだかると、表情に疲れを滲ませるアズールが信じがたいものを見るように顔を強張らせた。
    「名刺コレクションは潤った?」
     できるだけ悪辣に見える表情を繕って、アズールの顔を覗き込む。彼の眉が忌々し気にひん曲がった。何故、と呟く声は低くしわがれている。
    「言っとくけどストーカーじゃないからね。君んトコの怪獣に呼び出されたの」
    「どっちのですか」
    「手づかみでケーキ食べる方」
    「フロイドか……」
     巻き込んだ下唇を噛むのが痛ましくて、伸ばしそうになる手を握りこむ。できるだけさり気なく見えることに注力しながら、彼の腕にそっと手を当てて歩道の端から下がらせた。記憶をひっくり返して歩いて行けそうな店をどうにか思い出す。彼と囲む月に一度の食卓は、僕の生活にレストランの選択肢をいくつも与えていた。学生の頃には想像もしない未来だった。
    「とりあえず僕お腹空いてるからさ、付き合ってよ。君も大して食べてないでしょ」
     胃がむかむかするのは飲み慣れないコーヒーと、大して旨くも無いくせ乳脂肪分ばかり高いアイスクリームのせいにすることにした。前にあの店を使ったのはいつだっけ。並んでアスファルトを踏みながら僕はその日を思い返す。あれは確か駅前のシネコンで話題の映画を見た帰りで、二人とも半袖シャツを着ていた。つまりもう半年以上前と言うことになる。ステーキへの信頼篤かった主人公に敬意を表し、僕らも普段の自分たちでは考えられないポンド数のステーキを注文したのだった。彼との記憶はどれも皆異なる色合いを持って堆積し、まるで地層のようだった。いつかそこから目に見える何かを発掘するとき、それが思い出と呼ばれてしまうのだろう。一人で集めて眺める日が来るとしたら、それは多分とても寂しい。けれど今僕と彼との間に存在するメッセンジャーひとつきりをよすがとする繋がりが、永遠に続いて行くと思うには少し悲観の習い性がつきすぎていた。インプリンティングのようなものだと思う。あの部室で出会って、アズールは僕にとって殆ど唯一の友人であり続けた。ほかに信頼に足る人間を見つければ、あるいは彼は僕にとって唯一絶対ではなくなるのかもしれない。けれどそう言い聞かせたところで、彼以上に僕にしっくりくる友人を得る未来はまるで想像できなかった。
     辿り着いたレストランで、さあ何をどう切り出したものかと迷いながらメニュー表をぼんやり眺める。無言の僕が不機嫌に見えたのだろう、いかにも居心地悪そうに眉根を寄せるアズールは大層哀れだった。いくつか目についた料理を注文してから、あとはよろしくとメニューを目の前の男の方に押しやる。そして彼がリストの下から二番目のワインを注文するのを待って、僕はすかさず口を開いた。
    「あんなこといつもやってんの?」
     アズールの眉がぴくりと痙攣した。あんなこととは、と、よく抑制された声が追って発される。半眼になり顎をつんと上げて、多分彼は開き直ろうとしている。
    「ダサい名刺コレクションだよ、分かってんでしょ。例の社長さんはクリーンで堅実なそこそこの経営者。悪い人じゃないよ、でも実力も交友関係も申し訳ないけど二流止まり。分野も、ええと住宅用建材の流通販売? ハハ、まーじで興味な。興味なさすぎて分かんないけど今更君の利益になる人間じゃないでしょ。おまけに、これはとっておきのネタなんだけど」
     アズールにも見て取れるよう、大袈裟に肩を竦めて見せる。僕がライアン・レイノルズだったら口笛も添えてあげるところだったけど、陰キャに口笛は難しければジミニー・クリケットも来てくれないので代わりに派手な動作で仮想ディスプレイを展開する。アズールの固く引き結んだ唇の端が小さく震えた。
    「歴代パートナーね、いやあ分かりやすくて結構ですわ。見事なまでに細身の綺麗系揃い! 君、このカタログに加わろうってわけ?」
     アズールの口が開き、真珠のような歯の並ぶ先で小さな舌がひらめいた。胸が膨らみ、シャツの生地がぴんと張る。さあどんな反撃が飛んでくるのかねと身構えたところで、ふいにその体が小さくなった。吸い込んだ息は声にされず、眉間を抑えて俯いてしまう。小さな溜息の音がした。フロイド・リーチが僕を呼びつけた事情が腑に落ちる。椅子に座りなおし、用意していたいくつかの追撃を僕は腹の中にしまい込んだ。
    「謝罪と、それから埋め合わせでしたら……」
    「ああいや、ストップ。信じてもらえないかもしんないけど、別に責めようってわけじゃなくて……ごめん、八つ当たりだなこれ。いやさ、僕は君を結構買ってるんすわ、それはもう割と最高の男だと思ってるわけ。君の黄金の誇りを君自身で削ったり損なったりされんのはさ、いや、うん、拙者にどうこう言われる筋合いはないでござろうが、でもさ、悔しいじゃんって思うのよ」
     アズールが大仰に眉を上げて見せて、ああこれは響いていないなと僕は悟った。自己肯定感の一部を錆びつかせたまま大人になったこの青年は、今も時折こうやって過剰で野放図な努力を捧げ欲しくも無い対価をむしり取ろうとする。
    「はは、まあ確かにあなたに貢、失礼、頂くパーツやなんかと比べれば安い繋がりかもしれませんね。ですが生憎僕にはこの顔と利に敏い浅知恵とよく回る二枚舌しかございませんので。これで食ってんですよ」
     重ねて言い募ろうとした言葉は丁度運ばれてきたワインに遮られた。アズールは注がれたそれを一息にあおり、目を剥く僕の前でボトルを鷲掴みにすると再び、今度はグラスいっぱいまで注ぐ。バターソテーにされたほうれん草を口に詰め込み、そして間髪おかずまたグラスを持ち上げると、絶句する僕に見せつけるようにしてその嵩を一瞬で減らした。
    「それで?」
     アズールが厭らしく片頬を吊り上げる。あなたはどうなんです。尚も何も言えないでいれば、業を煮やしたのだろう、恋愛ですよと補足が飛んでくる。
    「恋愛!」
    「いやうるさ……」
     最近じゃ会う度二回に一回はこれを訊かれる。薄ら笑いの僕が否定するところまでがお決まりの流れだ。
    「いやだって恋愛って、アズール氏今拙者に恋愛っつった? 拙者陽キャ仕草断固拒否であるが」
    「そうはおっしゃいますけど、あなたももうカレッジ生じゃないんですから。働いていれば色々な方と会うでしょう?」
    「いやいやアズール氏、研究職の生活ナメすぎ。人間の声よりスパコンの駆動音聞いてる時間のが圧倒的だからね。相変わらずがけもとゲームとアニメと漫画一色っすわ。遊び相手も君くらいだしさ」
     アズールは大きな目ぱちぱちさせて、そして先ほどまでの不機嫌を一時忘れたかのように、心底おかしそうに破顔した。
    「そうですか。……ふふ、それはそれは、ふふ、変わりませんね、あなた。……そう、そうですか」
    「あー……君こそどうなの。さぞモテ散らかしてんでしょうなあ」
    「僕としても恋愛よりは仕事に専念しているので……と、言いたいところですが、いますよ最近は。デートしている方」
     え、と間抜けな声が喉から漏れる。身体の裏側が急に冷えて、指一本動かせなくなった。お決まりの流れじゃなかったのか。視界がかすむ。角膜に痛みを感じて、それで自分がまばたきを忘れていたことを知った。力を振り絞って瞼を引き下げる。そして再び開いた目に映ったのは、眉を下げて曖昧に微笑むアズールの姿だった。
    「そ……れって、今日の社長さん?」
    「今日のをデートに含めるとすれば、彼もそのうちの一人ですね」
    「複数!」
    「ええ。でも今のところ、今ひとつ決め手に欠けて……手、痛めますよ。商売道具でしょうが」
     言われて視線を落としてみれば、フォークを握る指が真っ白になっていた。ああとかうんとか不明瞭な相槌を打って、慎重に拳をこじ開ける。少し力加減を誤れば、きっとグラスを倒してしまっていただろう。どうにかフォークを無事解放して、大急ぎでその手をテーブルの下に隠した。
     ふざけるなよ。そう思う自分の頭を押さえつける。アズールだっていい大人なんだから、自分の人生があるのは当たり前のことなんだ。勝手に幸せになればいい。僕がすべきことは分かっている。適当に応援して、茶化して、まあ振られたりしたらその時は慰め役に立候補させてもらうくらいだ。
     話の接ぎ穂を取り落とした僕は、皿の上の牛肉の煮込みを曖昧な相槌ごと奥歯で磨り潰す。冷めはじめたそれはとても食べられた味ではなかった。
     気詰まりな空気を引きずったまま減らない料理をつつき回し、しまいには皿ごと押しやって首を振った。アズールはため息を付き、けれどまだ飲み足りないというので珍しく二軒目にも足を伸ばす。案内をしたのはアズールで、雑居ビルの鉄階段を降りた先、半地下になったドアを開けると暗がりの中で女が微笑む。アズールは彼女をマァムと呼んだ。親しげに引き伸ばされたaの甘い音。マァムは驚愕を隠しもしないで口をすぼめ、僕をさり気なく一瞥したのちそそくさと椅子を勧める。間をおかずテーブルに置かれたスナック菓子のボウルを僕の方に押しやり、アズールはキャロットラペと白ワインを注文した。視線に促されてバドワイザーを頼むと、こんな時間にそんな水みたいなのと苦笑を向けられる。こんな時間だからでしょうがと返したところで、注文の品を持って現れたマァムが僕の方に同意を示した。
    「アズール君ときたら洗い物を増やす名人なんだから。そんなのばっかり食べてて、その内人魚じゃなくてウサギの獣人になっちゃうよ」
    「だからってこんな時間にスナックなんて! マァムこそ年中ウエストのサイズの話してくるじゃないですか」
    「はいはい、今日はカウンターじゃないの?」
    「ええ、ご覧の通り連れが居ますので」
    「積もる話もってやつね。じゃ、ごゆっくり。飲み物のお代わり、そこの冷蔵庫ね」
     曖昧に微笑むマァムに小さく会釈を返し、詰めていた息を吐く。座り直した拍子に撫でたソファの座面が、擦り切れたビロードのざらついた手触りを伝えた。テーブルの隅のカードホルダーには統一感のないショップカードがぎゅう詰めになっていて、その中にはモストロ・ラウンジの名前も見える。壁際のローテーブルにはディスプレイと言うには些か乱雑すぎる具合でレコードが積み上げられていて、その近くの壁には少し前に流行ったラップ・ミュージシャンのポスターが貼られていた。小さなブックシェルフには地域のグルメ雑誌とVOGUEのバックナンバーが並んでいる。僕の好みにも、ましてやアズールの流儀にもそぐわない店であるように見えた。縮こめた肩の強張りが、過日のモストロラウンジを思い起こさせる。ついぞ克服できなかった双子への苦手意識の理由と共に、あの頃僕を惨めにしていたのがきらびやかな空気だけではなかったことを、ふいに僕は思い知った。
    「あ、し、知り合い?」
    「ええ、まあ、友人の友人のような……ねえ、そう露骨に帰りたそうにしなくても」
    「や、そ、そんなつもりじゃ」
     僕らの他にはカウンターに座る一組しか客はいない。先程からちらちらこちらを値踏みしてきていたけれど、じきに飽きたのか会話に集中し始めたようだった。マァムがステレオのツマミをひねり、音楽のボリュームを上げる。数年前に流行った曲だった。
    「ああねえ、懐かしい。覚えてます? ほら、あなたの前の代のプロムアフターパーティー。この曲流れたあたりで調子に乗ったハーツラビュルのお客様が暴れだして、いえ彼としては踊ってるつもりだったのでしょうけど、あんまり下手だったものだから乱闘かと思って、僕ったらフロイドをけしかけてしまって、ふふ」
    「いや知らん知らん。拙者きみに拉致られてずっと裏方やってたじゃん」
    「ふふ、そうでしたね、ふふ」
     アズールの視線がグラスを撫で、テーブルを斜めに横切ってどこか中空に投げ出される。浮かされたような目をしていた。遠い視線は溶融するクリスタルの熱をはらんでいる。摂氏千度の輝き。空回りする言葉が喉に詰まっているのか、唇が音もなく震える。彼の白い指がワイングラスのふちをなぞった。
    「アズール氏、もしかして最近忙しかった?」
     青白く燃焼するアズールの眼差しが一つ揺らぎ、次の瞬間には確かな焦点を取り戻して僕を捉えた。そこにあの怖気を震うような熱膨張はない。薄暗いバーの照明の下で陰り、硬質な燐光をちらつかせている。それは針状結晶を形成して僕の思考へと潜り込むものだから、僕は慌てて視線を落とし毛玉の浮いたセーターの袖口を弄り回した。
    「まあ、忙しかったと言えば、そうですね。時期的にそろそろプライベートのステージを変えていった方が、仕事の方にも良い影響があるかと思いまして。というのも最近ね、ちょっと、あいつらの」
     息継ぎの為に言葉を切ったアズールが、手探りで引き寄せたグラスで唇を湿らせた。腫れたように赤い舌が咥内をひらめく。ふいに弾かれたような勢いで彼が両手を広げ、皿に取り落とされたナイフが甲高い音を立てた。
    「そう、最近、僕のウツボたちの調子が、すこぶる良くて。やはりフロイドの動きには爆発力がありますし、ジェイドのフォローは完璧です。今は僕の手足にしていますが、耳目として……指揮系統一つ任せてしまっても、良いかと考えていまして。ここの所はその根回しに時間を取られていたんですけど、ふふ、フロイドが寂しがって泣いていないといいんですが」
     泣いてんのは君でしょ、疲れてるなら婚活なんてやめにしなよ。喉から出かかった言葉を僕は辛うじて飲み込んだ。そんな風に言って眼前に差向う溶鉱炉の青年の苛烈な燃焼に水を差すことは、気が引けるばかりかほとんど罪悪であるように感じられた。夕日を睨みつけるフロイド・リーチの横顔を思い出す。
    「双子は、離れたがんないと思うけど」
    「さあ、どうだか」
    「だからって、仕事の為に結婚なんてさ、それ、いいわけ?」
    「いいんですよ。僕のプライベートなんて、せいぜい有効活用してやれたら儲けものなんだ。どのみち僕もあいつらも、停滞してる暇はないんですよ。僕は進まなくては」
     つまるところ、彼の仕事や生活のやりように踏み込む勇気を僕は持たないのだ。それから僕らは、というよりアズールはよく食べ、よく飲み、よく話した。
     さすがに飲ませすぎたと気付いた時には、果たしてアズールは完全に正体を失っていた。彼の杯の重なる勢いが常ならざるものだったことには気付いていたけれど、僕はそれを素知らぬ顔で見過ごしていた。それでも洗面所から戻ってきた彼がテーブルに突っ伏してしまった時には、ちょっとした後悔が僕の胸に萌した。時刻は二十五時手前だ。マァムが目を円くしている。呼吸の深くなり始めた彼に顔を寄せると、酒と油の臭いに混じって消えかけたコロンと彼の汗が香った。とりあえず深めに息を吸い込んでおく。
    「氏~、アズール氏、応答せよ~あずにゃ~ん、あずぽよ~」
    「んぐ……ふざけた呼び方、しないで……」
    「あずめろたんそろそろ起きるでござるよ、帰るんでしょ」
    「う……帰る……」
    「じゃあほら、おっきちて~」
    「やだ……」
     ため息をついて背を伸ばす。関節が盛大に鳴り、顔を顰めたところで肩をすくめるマァムと目が合った。流し台を拭き上げたダスターを掲げられる。閉店だ。
    「アズール氏ぃ、会計しとくから帰りますぞ」
    「嫌ですってば……帰りません……」
    「えぇ……拙者もう帰りたいが……」
    「嫌だ! 帰らないで! 置いて行かないで……」
    「んん、じゃあ僕んち、来る……?」
    「だめです……帰ります。……あなたの厄介には、なりません……」
    「支離滅裂ゥ。やでもほら、店閉まっちゃうから、マジでおっきですぞアズール氏。ああそうだ、双子ね、君んとこの双子呼ぶから指紋貸して、ね」
     アズールの手を取り、スマートフォンに押し当てる。殆ど触れたことのない彼の手だ。脱力した指先は僕の知らない細さで、皮膚の下の骨の感触が頼りない。真っ白で、僕の指の当たっていたところが薄っすら赤くなっていた。乾いた唇を舐め、通話履歴からフロイド・リーチを見つけてコールする。
    『ア? なんアズールオレめっちゃ寝てたんだけどぉ』
    「アッハイ、ヒォ、こちらアズール・アーシェングロットの携帯ですがぁ」
    『は? 誰……んあー……ホタルイカ先輩かぁ……なぁにい?』
    「あ、その、御社のボスが酔いつぶれてしまいまして、回収にお越しいただきたく、あっ」
    『っどくせ~、知らねえし。てか先輩持って帰ってよ』
    「はっ、エッ?」
    『んじゃね~、よろしく~』
     沈黙するスマートフォンを眺め、僕は呆然とした。マァムとまたも目が合い、そして逸らされる。彼女はアズールのことをそれなりに好ましく思っていたはずだ。その人の黙認を得た僕は息を一つ吸い、そして吐くと同時に殺風景なホーム画面から配車アプリを見つけ出す。他人のデバイスってどうしてこう使いづらいんだろうね。
     到着した車の運転手がブックスマートの校長みたいなガンギマった陽キャでないことを祈りつつ、ぐったりしたアズールを運搬する。抱え上げる筋力なんか当然あるわけもなく、殆ど引きずるみたいになってる姿は全くスマートではないが知ったことじゃない。鉄階段に滅茶苦茶に打ち付けられる彼の革靴がとんでもない音を立てていて恐らく傷だらけになっているんだろうけど、それもやっぱり知ったことじゃない。コートを二枚着て首からリュック下げて燃えてる頭に似合わない帽子を乗っけて肩に男一人ひっかけた僕にさすがに同情してくれたのか、あるいは相場より多く置いたチップのお陰か、呆れ顔のマァムはペットボトル入りの水とプラスティックバッグを恵んでくれた。
     ひとつ気になっていたことを思い出し、タクシーに体半分突っ込んだところで見送りに立ったマァムを見上げる。
    「あの、アズール氏って、結構よく来るんですか」
    「そうね。二月に一度ってところ」
    「えっと、じゃあこういう風に……潰れちゃうのは」
    「二年ぶり三度目かね」
    「……そうですか。それはご迷惑を、いやこれは僕じゃなく、アズール氏の代わりに」
    「はいはい、じゃあその坊やをどうぞよろしく。あとね、あたしと幼馴染のウツボくん以外の前でこうなったのは、あなたが初めてだから」
     マァムがタクシーのドアに手をかけたので、慌ててはみ出したコートの裾を引っ込める。彼女は多分気を回してくれたんだろうけど、やっぱりこの場所はあまり好きじゃない。運転手の苦笑いの圧力を耐え抜き、少し考えてアズールの自宅の方面を告げる。君んちでいいよねと傍らの人魚をつついてみたけれど、むずかるようなうめき声が返ってくるばかりだった。
    「ねえしょうがないから僕もついてくからね。フロイド氏もそうしろって言ってたし、ね、しょうがないからね」
    「んうぇ……駄目です、あなたもちゃんと家に……フロイド、フロイドどこですか、なんでいないんですか、ジェイドは、ねえジェイド」
    「なんでっておま、おま、君さあ……すいません、グルナッシュ通り18番に」
     大変だねえお兄ちゃん。アッいや別に……。あっそう? ハイ。無言。日中の混雑を忘れた幹線道路は、僕らがありきたりな非日常の中にあることを否応なく意識させた。沿線の店は軒並みシャッターを降ろし、一定間隔の街灯の下でいやによそよそしかった。三十分超に渡る気づまりな旅は愉快であろうはずもない。運転手はラジオをかけてくれたけれど、僕の首元に顔をうずめる人が腹心の双子を呼ぶ声はかき消されなかった。車窓から差し込む対向車のヘッドライトに照らされたアズールの頬は青白くて、眉根を寄せた面持ちをなお一層苦し気に見せる。酔いを醒まそうと窓を細く開けたら、吹き込んできた風が滅法冷たくて僕は思いきり鼻をすすった。
     アパートに到着するとアズールの懐を探ってキーケースを見つけ出し、いよいよ重さを増した彼を引きずってエントランスを抜ける。四苦八苦しながら部屋に辿り着き、廊下に放り投げたところで僕は一度力尽きた。ドアに背を預けてへたり込み、アズールのいかにも高級なジャケットを剥ぎ取る気力をかき集める。頭痛に苛まれながら七割まで充填が済んだところで、ふとか細い声が耳に届いた。聞き間違いでなければ、それは泣き声だった。落ちかけていた瞼を跳ね上げ、目の前の暗がりに身を乗り出す。清潔だがそれだけの冷たい床に、アズールが丸くなっていた。出したままのバスマットを縋るように握り締めている。先ほどその柔らかさを知った五指と食い締めた歯ばかりが、暗闇の中で白くほの光るようだった。すすり泣く声はいよいよ無視できないほどになっている。明かりをつけて彼の手をとると、アズールは弾かれたように僕を手繰り寄せしがみついた。頬が僕の鎖骨のあたりに押し付けられ、温かく濡れた感触を伝える。何人かの、彼を取り巻く親しい人たちの名前が繰り返し叫ばれた。その人たちが今ここにはいないことを伝えるのは、僕にとっては面白くない作業だった。時折僕の名前も呼ばれて、その度に彼の肩を抱く手に力を込める。そう、イデアさんだよ、ここにいるからね。繰り返し言い聞かせる。それは僅かな罪悪感を伴う、甘美な行いだった。
     力任せに抱き寄せられた肩が軋む。不自由な腕をどうにか回し、彼のジャケットを引っ張った。とうに皺だらけになった洋服の、その織が上等であるがために、彼は一層哀れだった。一刻も早く脱がしてやりたい気持ちになって、袖をぐいぐい引っ張りながら寝室へと促す。せめて柔らかいベッドで寝かさなければ、明日目を覚ました彼の絶望はいよいよ計り知れない。それなのに、アズールはしゃくりあげながら首を振った。
    「駄目です、シャワー、シャワー浴びる」
     足元は今にもくずおれそうにおぼつかないというのに、言葉ばかりはひたすら強情だった。泥酔した彼を水場に行かせる危険を思えば気は進まなかったけれど、どうしたってアズールに甘い僕は、短い押し問答の末自分を浴室に同行させることを条件に希望を叶えることに決める。途端に彼は少しだけ体の力を抜き、僕に体重を預けた。上着をハンガーに持っていくことは早々に諦め、出来るだけ慎重に床に投げる。ネクタイをほどくため少しだけ体を押しやって隙間を開ける。眼前に現れた頬はファンデーションがまだらに落ち、彼が重ねた年月と辛苦相応にくたびれていた。艶のあるシャツをボトムから引っ張り出し、つるつる逃げようとする生地に舌打ちをしながらボタンを外してゆく。露になった頸椎は顔貌に浮いた疲労とは裏腹に、いつか飛行術の補講で盗み見たときのまま、あどけない骨の形を浮き上がらせていた。ようやく服を剥ぎ取ることに成功し、僕は彼の無防備に生白い体を両腕に抱えてバスルームへと向かった。
     なまめかしい膝を折りたたみ、未だすすり泣く青年をバスタブに収納する。蛇口をひねるために体を離すと、たちどころにアズールは悲鳴を上げた。ぎょっと振り返った僕は再び彼の両腕に肺を締め上げられる。それでも、僕は彼を引き剥がす気にはならなかった。顎の下にある白い肩を撫でる。柔らかく、想像以上にいとけない肌だった。意中の人の素肌に触れる日がこんな形でやってくるなんて思ってもみなかった。マジッターに書いたら10いいねくらいつくんじゃない? いやまあ書かんけど。僕はアズールの信頼を裏切ることなく、彼の名誉を守るべきなのだ。とはいえこれは、さすがに、誰かに愚痴くらい聞いてほしい。かれこれ十年近い付き合いにもなるフレンドのプレイアバターを思い浮かべる。マッスル紅氏明日インして来るかな。あの人時々、何百年も生きてるんじゃないかってくらい的確なこと言うんだよな。差し出された肌を味わおうとする不埒な手を握り締め、僕は下唇を噛んだ。助けてオルト、兄ちゃんを兄ちゃんの顔でいさせて。
     ぐずるアズールを宥めながら現実逃避に励んでいるうちに、バスタブに湯が溜まっていた。適当な入浴剤を投げ込んでいたので、白い泡がもこもこ立っている。バスタブの内外に分かれて引き寄せられる形になっているので、タブのふちがみぞおちに食い込んで痛んだ。深呼吸をして自分も服を脱ぐ。少し迷って下着は残すことにした。隣に滑り込むや否や、丸裸のアズールががむしゃらに抱き着いて来て僕は息を詰まらせることになる。正直な所を言えば、今ほど女の身を欲したことはない。股間でターン無制限バトル始めようとする奴がいなければ、それを落ち着かせるのに神経をすり減らす必要もないってことだろ。
    「アズール氏、アズ、いい子だからちょっと離れようか」
    「いやだ! いやです、一人にしないで、いや……」
    「そうね、仕事の時間まではね……はいシャンプーつけますぞ、目ぇ瞑ってて」
    「んぶ……」
     どこにも行かないで、ここにいて。繰り返されるうわごとに逐一応答を返しながら、アズールの細い髪にシャンプーを揉みこんでゆく。汗や整髪料や飲食店の油煙に塗れた髪は簡単には泡立たない。一度流してから改めてシャンプーを取り、できるだけ丁寧に頭皮を撫でてやる。トリートメントも塗ってやり、時々水を飲ませながら洗顔まで済ませる。黙々と介護に勤しんでいればいくらか気も紛れるようだった。それでも歯を磨いてやるにあたっては、僕の歯冠エナメル質から幾ばくかの犠牲が支払われた。されるがまま口を開き僕に咥内を明け渡す姿は、もうこれは観念して認めざるを得ない所であるのだが、激しい情欲を惹起するものだった。
     肉体と神経の疲労は累積し、僕の心をかき乱す。全く僕は概して紳士であった。必要最低限を僅かに超過して彼の肌を撫で回してしまったこと(何と言っても彼は泣きじゃくっていたし、自宅のラックに並ぶ漫画や同人誌やブルーレイディスクは、泣きじゃくる人を宥めるのに抱きしめ肩を撫でる以外の方策を教えてくれてはいなかった)及び二、三度その肩や頬に唇を落としてしまったことは、ちょっとした駄賃として大目に見てほしい。少なくとも紳士たらんとする努力の下、言い訳の余地のなくなる一線は確かに守っていたはずだった。
     ボディスポンジ(多分そうだ。掃除用ではないはず)にシャワージェル(と書かれたラベルのそのボトルが何なのかは知らないが、消去法で行けばボディソープに相当するものに違いない)を垂らす頃には、内なる嵐に擦り減った僕の内面は凪と言って差し支えない程平らかになっていた。バスタブから湯を抜き、彼の白い体が露になってももう動じない。いつしかアズールは時折静かにしゃくりあげては肩を震わせるまでに落ち着いていて、その様の痛ましかったことも僕の我欲を鎮火した。火照る肌に泡立てたスポンジを滑らせようとしたとき、ふいに彼と目が合う。
    「あ、あー、オハヨー……? あ、っと、じ、自分で体、洗う?」
    「……それ、掃除用です」
     マジかよ。掃除用であったスポンジをバスタブの外に放り正しいボディウォッシャーを求めて浴室内を見回しているうちに、次第にアズールの目に正気の光が戻ってくる。立ち上がろうとして滑る彼を何とか押しとどめ、体をひねってさり気なく股間を隠しながら、家主の指し示す先に手を伸ばす。改めてシャワージェル(こちらはどうやら正解であったらしい)を含ませ手渡してやれば、彼はのろのろと自身の体をこすり始めた。
    「ええと、念のため言っておくんだけど、誓って盛ったり混ぜたりはしとりませんゆえ」
     アズールは無言で手を止め、数秒ののち理解が及んだのだろう、ああとかうむとか一人で唸る。そして身体を洗う手付きを僅かに緩慢にしながら、頭痛薬を服用していたことを口早に述べた。それほんとに危ないやつじゃん、気を付けて。咎めるような音を含んでしまった僕の言葉に、いよいよアズールはバツが悪そうに眼を伏せる。
    「はい、今後はよく注意します……その、本当にすみません、つまり僕は泥酔して、あなたに送り届けさせたん、ですよね。ご迷惑をおかけしました。その、あなたに会うんだと思って、多分浮かれていて」
    「あ、そ、そう、あいや、気にしないで」
     ふと、肩に塗れた質量が触れる。アズールの手だった。えっと思う間に、僕の肩に片手をかけたアズールがボディスポンジを押し付けぬるぬると滑らせる。
    「え!? 何!?」
    「泡が勿体ない……」
    「アズール氏もしかしなくてもまだ酔ってる……?」
     確かにアズールの目は茫洋として、彼が未だ完全な覚醒には至らないことを示していた。覚束ない手が僕の体を撫でる。役得に甘んじているわけではないと、僕は視線を斜めに逸らした。よく手入れされたシャワーヘッドが蛍光灯の光を反射して銀色に光っている。僕はあくまで、さっきまで泣きじゃくっていた酔っぱらいを下手に刺激しないよう、なすがままに徹しているだけなのだ。
     素数を数えるひとときののち、アズールの背が洗えていないことに気付いてスポンジを取り返す。許されそうな範囲を急いで洗い上げながら、僕はこっそりと存在しない未来を思い描いた。いつか素面の彼の足元にかしずいて、その足の指の爪の隙間まで丁寧に洗い清める権利を授けられてみたい。益体も無い夢想に浸りながらも、手だけは勤勉にシャワーのコックをひねる。甘い匂いのする泡を洗い流した僕らは、揃って浴室を後にした。
     出張用にストックされていた使い捨ての下着を拝借し、アズールらしい生真面目なパジャマを着せられ髪を乾かして、手を引かれるままに僕は寝室へと連れ込まれた。
    「じゃあ僕はソファ借りるけど、アズール氏一人で寝られる?」
     無害を装ってそう尋ねた僕の胸に期待があったことは否めない。可哀そうなアズールは僕の袖を指先で摘まみ、小さく首を振って俯いた。馬鹿な男はにんまり笑い、彼のベッドへの招待を得る。
     当然僕は愚かなのだった。好きな子のベッドに居場所を与えられたからと言ってそれが何もかもの免罪符にはならないことを、僕は十分に承知していた。既にいくつも際どいことをしでかしているとはいえ、それでも彼の信頼を失うことは、僕にとって大きな痛手なのだ。恐らく僕は彼の寝息に胸を高鳴らせたまま、まんじりともせず太陽を待つのだろう。そこまで分かっていたとしても、眠る彼の気配を隣に感じることの魅力には抗いがたかった。常より信奉する合理性の一切を、彼に関して僕はすっかり失ってしまうのだ。
     寝台に潜り込んだアズールの呼吸は、ややもせず深いものへと移り変わった。広いベッドだ。贅沢に取られた寝室の面積の半分以上を埋めるそれは恐らくクイーンサイズと呼ばれるものだろう。だだっ広いマットレスの上で、しかしアズールは端の方につくねた寝具に埋まるようにして寄る辺なく丸まっていた。片手を彼に預け、仰向けになって天井の小洒落たペンダントライトを眺める。この家には何度か来ているけれど、寝室に立ち入るのは初めてだった。彼の趣味を随所に反映したインテリアに囲まれ、だだっ広いマットレスの上に転がって、僕はふいに寒さを感じた。少し迷ってから毛布をねだる。声は届いたようで、僅かに逡巡の気配があった。アズール。重ねて呼びかけた声が思いのほかか細く響いて、僕は心の内でたじろいだ。
     人間一人ゆうに収まるだけの隙間を隔てたところから衣擦れの音がして、見れば寝具の小山に洞穴が空いていた。アズールがブランケットを持ち上げたことで作り出された穴は、重力に従って見る間に小さくなる。それがすっかり閉じてしまう前に、僕は寝返りを打って暗く暖かな隙間に滑り込んだ。
     毛布の中は、彼の素肌とベッドファブリックの清潔で親密な匂いに満ちていた。狭い場所で少しでも具合をよくするため体の角度を調節していると、もぞもぞ動くものがある。アズールの手だ。自分の左手を差し出してやると、間髪おかずに握りこまれる。条件反射をする赤ん坊のようだった。手はうっすら汗ばんでいて、随分暖かかった。彼の顔面は僕の目の前にあり、軽く顰められた眉の下で両目は静謐に閉じられていた。彼は殆ど眠っているのだろうと僕は考えた。
    「こんなことまで許すくせに、どうして君は僕のものになんないの」
     独白であったし、心のどこかでは聞かせてやりたいという気持ちもあったに違いない。いずれにしても僕はそう呟き、呟くや否やそれを後悔した。確かに僕の内部に長く渦巻いていた問いではあったけれど、口に出してしまえばあまりにも悲劇ぶって馬鹿馬鹿しかった。
    「慈悲深い男ですからね、僕は」
     無理にでも眠ってしまおうと瞼を下ろしたところで、低い声が聞こえて僕は身を固くした。再び開いた視界で、僕の髪に照らされたアズールの虹彩が爛々と光っていた。海の朝靄を連れてきたような彼の双眸が、今は青白色の高温に燃え盛っている。
    「あなたのすることならおおよそ何だって、僕は許して差し上げます。許して、甘やかして、夢中にさせて蛸壺の中に誘い込んで、けれど、あなたがご自身を差し出す覚悟を決めるまでは、あなたのものになんかなるもんか。僕だけがあなたのものになって、それであなたは自由なままだなんて、気に入らない」
    「アズール、きみ、起きて」
    「まずいですか、起きてちゃ。いつも、いつも自分の安全領域で僕を待つばかりのあなたがやっとここまで来たってのに、呑気に寝ていろって言うんですか」
     身を起こした僕の手が、骨の折れそうな強さで握り締められる。毛布がずり落ち、むきだしになった体が急激に冷える。逃げることも敵わなくて、中途半端な角度に上体を傾けたまま僕は息を震わせた。
    「欲しいって言ってください……言えよ。あなたって人はまともに欲しがりもしないくせ、時々ひどい顔をする。そう、その顔ですよ、この期に及んであんたはそうなんだ! なのにどうして安心してあんたのものになんかなれるってんです。欲しがれよ! でなきゃあんたがゴミのように扱うパーツと同じじゃないか!」
     顔を真っ赤にして言い立て、そのままアズールは二、三度激しく咳き込んだ。目に涙を浮かべ大きく息をする様はおそろしくなまめかしい。こみ上げた唾液を慎重に飲み込み、空いた方の手で顔を覆う。
    「僕が、どんな顔してるって?」
    「はっきり口説く勇気もないくせに、与えられないのが不満だって言いたい甘ったれの顔です」
    「絶対ちゃんと家で寝る主義の君が、実は口説かれ待ちでしたって? なかなかいいご身分じゃん。陰キャにンな高等コミュニケーション分かるかよ」
    「分かってくださいよ、先輩」
     己の面を覆う手をずらす。ベッドに背を預けたまま、アズールは見開いた両目でもってひたむきに僕を見上げていた。確かに僕は、この不遜な人魚の先輩なのだった。
    「はいはい分かりましたよはい後輩くんに免じて拙者が悪かったはい、でもちょっと認識の擦り合わせを。多分、君はいくつかの点が分かってない」
    「言い訳なら」
    「まあ聞きなって。まずさあ、拙者が週8の勢いでメッセやり取りしてんのが君だけだってご存知? あとね、部屋から出るようになったの、成長しましたね~とか思ってるでしょ。はい残念、我拙者ぞ? そう簡単にお外大好きマンになるわけないじゃん。君だけなんですわ僕がわざわざもの食べるために家から出るなんてさあ。んでね多分これが一番君が間違えてることなんだけど、パーツが何て? いや何が不安なのか知らんけどさあ、拙者スター・ローグ2を何年待ったか教えてあげよっか。てかそも君よ。君と何年つるんでると思ってんの。しかもね」
     彼は呆気に取られているようだった。当然だ。彼曰く何も言わない先輩が、急にネタバレ解説を始めたんだから。体を沈め、アズールに覆いかぶさる。意地の悪い気分になって、真っ直ぐ上から彼を見下ろした。勝手に回る口はそのままに、アズールの目の中を注意深く観察する。恐怖や不快感のないことを確かめ、僕は少し笑って見せた。
    「今日、僕は君の代償行為に付き合わされた挙句介抱までさせられて、それでも君のこと呑気に可愛いなって思ってるし、何なら君のゲロ浴びても多分嫌いになんない確信があるんだけど。ねえ、これってどう思う?」
    「……僕のこと、大好きだなと思います」

    (一度だけ、アズールとキスをしたことがある。カレッジ二年生だった彼がオーバーブロットを起こした後の、幕間の季節のことだった。夕暮れの部室で、まだやるの、と僕は訊いた。まだやりますよと彼は答えた。その答えが気に食わなくて、僕は尚も食い下がった。なんで、どうして、そんなになるまで、第一もう君の残り時間は半分きりしかないのに。アズールは、何かが覚束ないような目をしていた。部室は四階にあって、その窓は開いていた。だからというわけではないけれど、僕はどうしてか彼の手を掴んだ。アズールは振り払わなかった。彼が几帳面に整列させたチップが滅茶苦茶になっても、彼は微動だにせずただ茫漠たる目を僕に、あるいは僕のいる先の中空に向けていた。今思えばあの時彼は、頓服薬の類に酩酊していたのかもしれない。手のひらに汗が滲むのが分かったけれど、いつもなら我慢ならないはずのそれがまるで気にならなかった。ぬめる手で彼の腕を握り直す。二人の間に聳える机に、僕はすっかり身を乗り出していた。どうしてそれをしようと思ったのかと言えば、むしろ僕はずっとそれをしたかったのだ。そして今ならそれができると、冷静で狡猾な左脳が判断を下していた。顔を傾け、彼の上下の唇に自分のそれをぴったりくっつけた。あ、と、僅かに空いた隙間から彼のあえかな声がほんの一音溢れた。その声を僕は今もはっきり覚えている。顔を離した時、そこでは既に溶鉱炉の青年が息を吹き返していた。遅すぎることなんかありません。そう彼は言った。何かを欲しがるのに、遅すぎることなんかない。窓から風が入り込み、引いたままだったカーテンが大きく膨らむ。再び幕は上がった。次の日から彼は日参していた部活動の頻度を週に一度、つまり事件前と同程度にまで落とし、暫くのち、モストロラウンジにポイントカード制度が導入された。僕のしたことの意味を彼は問わなかった。それが遠回しな拒絶であるように思えて、僕もそれきり何も言うことができなかった。そして今日に至るまで、幕間の出来事が舞台の上で回想されることはなかった。繰り返される意気地なしの恋愛談義を除いては)

     アズールの声が僕の名前を呼ぶのが聞こえる。僕が彼を心底好いていると、そう認めたアズールの声色は、絶望に似た恍惚を纏っていた。凍えそうな寝室で、熱をはらんだその声は上空へと立ち昇ってゆく。そして天井にぶつかると、それは僕らの上に火の粉のように降り注いだ。イデアさん。アズールの唇が僕の名前をつむぐ。今度、あなたのご自宅にもお邪魔させてください。あなたの暮らしに入りたい。
    「それでその時は、僕、あなたに抱かれます。思い出しました。欲しい物は欲しいと言うことを、僕は信条にしていたんだった」
     部屋の掃除と彼を満足させ得るデリカッセンの検索、それからもしもの為に、2LDK以上の家探し。タスクリストを頭に叩き込んでから。無防備に横たわるアズールの鼻に自分のそれをすり寄せる。心臓の音が彼にまで聞こえてしまいそうだった。僕が今より1秒でも若かったら、血流の暴れまわる舌が情けなく震えるのを抑えきれてはいなかっただろう。
    「あ、あのさ。今日、キスだけでもいい?」
     一瞬の後、アズールが花のように笑みこぼれた。何度も焦がれた彼の唇は記憶よりも妄想よりもずっと柔らかくて湿っていて温かくて、瞬く間に夢中になった僕の頭からは、つい今しがた覚えたはずのタスクリストはすっかり滑り落ちてしまっていた。
    鶏肉 Link Message Mute
    2022/07/11 22:42:51

    幕間恋愛

    #二次創作 #BL #イデアズ #ツイステッドワンダーランド
    付き合わないまま卒業した後アズールの飲み友達に落ち着いたイデアさんが、アズールの婚活を応援しなかったりする話です。
    ※相手の酩酊に乗じて性的な接触を試みる行為は倫理に悖る行為であり、犯罪です。本作はそのような行為を是認する意図は一切ありません。
    初出:2021年3月14日(Pixiv)

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