月の光 目を覚ますと、そこは布団の中だった。暖かくて柔らかい。とても居心地の良い手触りで、起き上がろうとも思わない。でも、ここはどこなのか少し気になったので、そのまま辺りを見回す。部屋は和室だった。今は夜のようで、開け放たれた障子窓から差し込む月光が眩しい。
「……夜なのに、昼みたい」
窓から見える月は青白く、大きい。真っ黒な空にはいくつもの星が瞬いている。窓の向こうには縁側があって、そこから枯山水が見える。月光と星の光を受けた砂利が仄かに光って、美しかった。もっと近くで見てみたい。そう思って起き上がろうとするけど、力が入らない。月光を避けるように敷いてある布団から出なければ、あの景色は広がらない。動かそうと思っても、体が重い。鉛でも上に伸し掛かっているようだ。それに加えて、ひどく眠い。どうしてだろう。ただ、起き上がろうとしているだけなのに、上から誰かに押さえつけられているようだった。私はただ、起き上がって広がっているであろうあの景色を見たいだけなのに。
「……眠い」
重い瞼と体を無理やりに動かして布団から這って出る。月光が差し込む縁側は随分遠く感じた。布団から出ると、しんと凍るような空気に触れる。今は冬らしく、吐く息も白い。刺すような冷たさの中でも布団に戻ろうとは思わなかった。ただ、あの光の中へ行きたかった。ずりずりと這って行く。足が動かしにくいと思ったら、いつの間にか自分は真っ白な着物を着ていた。煩わしい。いっそ脱いでしまいたい。しかし、この寒さの中で服を脱ぐのは憚られる。それに、今は一刻も早くあの景色を見たい。その一心で手足を無理矢理に動かす。少しずつ、少しずつ進んで行くにつれて、ある疑問が浮かんだ。
「私、なんでこんなところにいるんだろう」
そもそも、自分はここに来る前、何をしていたのだったか。思い出そうと考えてみるも、頭がぼうっとしてどうしても思い出せなかった。あの月の下に出れば、何か分かるかもしれない。何となくそう考えて、また這い出した。眠い。怠い。眠い……。這う力も無くなりかけてきて、それでもあの光に触れようと手を伸ばす。もう少し、後少し。この手が届けば、何かが変わる。予感がする。
「主、起きたのかい?」
低く優しい声に、伸ばしていた手は止まった。どうということも無いのに、大変なことをしてしまったと思った。
「だめじゃないか。冷えてしまうよ」
その声はどこまでも優しい。優しいのに、怖い。摺り足で近寄って来たその人に、軽々と抱き上げられて布団へ戻される。緑色の着物と刀の絵が描かれた紋が目に入る。どこかで見たような……。
「もう少し寝ているといいよ」
膝に布団を掛けられる。這い出すのにかなりの時間を費やしたと思っていたけれど、実際はそうでもないらしく、布団はまだ温かかった。月の光を背にして座るその人は、とても綺麗な藤色の瞳をしていた。夕の瞳だ。そう思うと一瞬、眠気も怠さも吹き飛びかけたが、すぐにまたそれらに襲われる。沼の底に沈むように。
「…………あの」
「ん? どうしたんだい? ……ああ、まだ頭がはっきりしていないんだね。私は石切丸。君の唯一の刀だよ」
石切丸。ああ、そうだ。この慈愛に満ちた笑みを浮かべているのは、私の刀石切丸だ。なんで忘れていたんだろう。
「ここは寒いから、火鉢を持って来るよ。待っていておくれ」
そう言って、彼はあやすように布団を軽く叩いて出て行った。襖の向こうに消える彼の姿をぼうっと見る。あんなところに襖があったなんて、気が付かなかった。首を回して襖とは反対の、縁側を見る。やはり、そこから見える庭は見事なもので、どうしても心が惹かれる。あの光の中に行かなくちゃ。
「え?」
はた、と気づいた。今、どうして私はこんな使命感に駆られているんだろう。そのことに気づいてから改めて、縁側の方へ目を向ける。相変わらず、枯山水が月光を反射して鈍く光り、目の覚めるような光景が広がっている。何かがおかしい。でも、その何かが分からない。そんなことを考えているうちに、石切丸が戻って来た。火鉢を抱えて入ると、布団の傍に置いてくれる。お礼を言うと、嬉しそうな笑顔を向けられた。
「このくらい、たいしたことではないよ」
邪気の無い眩しい笑顔に少し戸惑う。その端正な顔と誠実な態度に、嫌な感じはしない。むしろ、頬が熱くなったような気さえする。こんな綺麗な人と二人きりになって、緊張しない方がおかしい。恥ずかしくなって視線を逸らすと、目の端に映った月光に引き寄せられた。今は少し意識もはっきりとしてきたし、体の怠さも少し無くなった気がする。今なら、あの景色を見に行けるかもしれない。そう思うのと縁側へ続く障子が閉じられたのは、ほぼ同時だった。
「……え、あの」
「君が寝ていた時、暑そうだったから開けておいたのだけれど。冷えてきたからね。そろそろ閉めてもいいだろうと思って」
石切丸は一息にそう言うと、障子から離れて目の前に座った。かと思うと、抱きすくめられる。まるで、私の視界から縁側を隠すように。まるで何かを恐れているように。
「いきなりこんなことをして済まないね。けれど、どうしても君に触れたいと思ってしまったんだ」
見上げると、優しい光を宿した藤色の瞳とかち合う。その目から、背中に感じる腕の温もりから暖かな感情が読み取れる。いや、そんなまさか。こんな綺麗な人が私を好きだなんて、有り得ない話だ。自惚れてはいけない。それより気になることがある。
「あの、石切丸。ここはどこなの?」
「ここは本丸だよ。主、大丈夫かい? まだ記憶が混濁しているのかな」
「記憶? 何があったの?」
「本当に覚えていないんだね。それも仕方ないか。本丸が襲撃を受けたんだよ」
石切丸はひどく言いにくそうにしながらも、順を追って説明してくれた。本丸が時間遡行軍の襲撃を受けたこと。その時、目の前で刀を折られて気を失ったこと。そのまま私は三日も目を覚まさなかったこと。彼の口から次々明かされる事実に、体が震える。体から力が抜けて倒れそうになると、彼が受け止めてくれた。
「みんなは? 折れた人がいても、生き残った人達がいるよね? ねぇ、石切丸。手入れを必要としている人は……?」
「…………他の刀は、全て、折れてしまった」
もう私しかいない。その言葉が重く伸し掛かってくるようだった。無力。閃いたのはそんな言葉で、一度思えば堰を切ったように頭の中はその言葉で埋め尽くされた。涙が止めどなく流れる。私は、何もできなかった。それだけが全身に渦巻いて苦しくて、痛い。私はそのまま彼に縋りついて、泣いた。
「落ち着いたかい?」
涙も声も枯れてきた頃になって、石切丸の優しい声がした。重くて痛い頭を上げると、彼の狩衣が少し染みになっていた。申し訳なくて、恥ずかしくて彼の顔を直視できない。
「あ、ご、ごめんなさい。染みに――」
「いいんだよ。それより、主はもう少し眠った方がいい。一度に色々話してしまったから、疲れただろう?」
そう言われると、急にまたあの気怠さと眠気が押し寄せてくる。眠い。怠い。私、迷惑かけてばかりだ。石切丸に寝かせられて布団を首まで掛けられる。うとうととする中、以前の本丸を思い浮かべる。ここはいつも短刀達の楽しそうな声がしていて、ご飯の良い匂いがして、周りの景色は綺麗で、特に庭にある池なんか――
「……池?」
どくん、と心臓が跳ねた。石切丸は確かにここは本丸だと言っていた。なのに、私の思い浮かべる本丸の景色とここは微妙に違う。景趣を変えたと言えばそんな風に思えるけれど、どこかが決定的に違うと違和感を拭えない。彼の方へ視線を向けると、目を見開いたままこちらを見ている石切丸がいた。しまった。本能的にそう思ったけれど、遅かった。石切丸は微動だにしない。何を考えているのか分からなくて、怖い。ふと、見開かれていた目が緩んでいつもの優しい色が戻ってきた。髪を梳くように撫でられる。いつもなら気持ちいいと感じるその手に、不安を覚える。彼は何かを隠している。それがとても重要なことに思えて仕方ない。
「相当疲れているんだね、主。今日はもう休んだ方が良いよ。私が傍にいるから、安心してお休み」
「石切丸……」
どこか悲しげなような、寂しげなような彼に頭を撫でられる。眠い。怠い。でも、ここは何だかおかしい。石切丸に申し訳ないと思いながらも、私は違和感と少しの好奇心に勝てなかった。彼の手を掴む。掴むと同時に彼の動きがぴたりと止まった。ここから彼の表情は見えない。否、見られない。一気に空気が凍るのが分かった。
「石切丸、ここは――」
「主」
たった一言。たったこの一言で、警告されているのだと分かった。それ以上言えばどうなるか分からない。でも、もう止まる気は無い。
「ここは、本丸じゃない」
その瞬間、あの異常な眠気も怠さも吹き飛んだ。次に浮かんだのは「ここにいてはいけない」ということ。その衝動のまま布団を跳ね上げ、縁側へ走る。必死に縋り付いてこようとする石切丸を避けて、障子に手を掛けた。
「主っ、だめだっ。君に月の光は――」
何か言っている彼を無視して、障子を開けた私は月下へ飛び込んだ。
♦♢♦
外へ飛び出した彼女を襲ったのは、青い炎だった。
「熱い! 熱いよぉ! 石切丸!」
そういったことを叫び続け、次第に明滅するだけの魂に戻るだろう。いつもそうだ。月下に燃え、踊り狂う彼女をただ見ていることしかできない。何度も手を差し伸べても変わった試しなど無く、私はいつも自分の無力さに打ちひしがれる。欲しいと思ってしまった。願ってはいけないのに、願ってしまった。私は主を誰にも渡したくない、見せたくないという自分勝手な思いで隠してしまった。ここに来てから彼女にとって月の光は毒だった。誰にも見せたくないという私の願いが叶ってしまったからだ。
無理矢理引き剥がした魂は本能的に体を求める。それはここ常世にいても変わらない。彼女はまだ死ぬ時ではなかったから。もっと生きたいと魂が訴え続けている。しかし、彼女の体はもう無い。私が奪ってしまった。現世では彼女が亡くなってから何十年経っただろう。体を失っても彼女は求め続けている。
「それでも、私は……」
これは罰だ。彼女の未来を奪ってしまった罰なんだ。炎に撫ぜられ、痛みと熱に狂うかつての主の姿に涙を流しながら、私は自分の過ちを呪った。