タマトア夢ちゃん短編集 プロローグ
事の発端は、コアからの手紙だった。
その日、村長の娘モアナは次の島へ向かう為、村人達と船出の準備をしていた。今日の彼女は食糧調達を担当している。そこへ空から大きな鷲が現れ、姿を変えて彼女の前に降り立った。大柄な体格と全身に彫られたタトゥー、手には巨大な釣り針。半神半人のマウイだ。かつて、モアナは平和な世界を取り戻す為、彼と共に女神テ・フィティの心を返しに旅をしたことがある。その時から二人は堅い友情で結ばれ、今もこうして時々会って話をしたり、村へ招いたりしている。
彼のもう片方の手には手紙が握られていた。小さな木の入れ物に入っている。中には更に一回り小さい木版が入っており、その面に文字が書かれているのだ。ここ最近、旅立った友人からの手紙だ。それを読むのがモアナの楽しみになっていた。
「お久しぶりね、マウイ。またコアからの手紙かしら」
手に持っていたココナッツの籠を置いて、頭の花冠を少し整えながら笑いかけると、マウイも快活な笑みを見せる。
「久しぶりだな、モアナ。会えて嬉しいよ。今回もちゃんと届けたぜ。ほら」
そう言って自慢げな顔でモアナに投げ渡す。それを危なげない手付きで受け取り、中を開いて読み始めた。マウイも彼女と同じく楽しみにしているようでその場で釣り針に寄り掛かって聞く態勢になる。
「今日はどんなことが書いてあるのかしら。えーっと……モアナへ。私は元気にやっています。モアナはどうですか? ふふっ。あの子、いつも書き出し同じね」
コアの手紙を書いている姿を思い浮かべて、モアナはくすくすと笑った。コアは元気で好奇心が強く、怖いもの知らずな子だった。それ故、時にはちょっとした不祥事を起こしたりしたけれど、モアナにとっては妹のように大事に思っている友人だ。歳が近かったということもあり、幼い頃からずっと姉妹のように育って来たコアが一人で長い航海をしていると思うと、胸に込み上げてくるものがある。コアらしい少し拙い字の癖は抜けていない。それが彼女を安心させてくれた。
「こっちは天気も良く、絶好の航海日和です」
「あいつ、確か大時化の時もそう書いてたぞ」
「あはは。あの子にとってはいつも航海日和ってことね。えっと、それで……今回の航海では、ある島に到着したので登ってみました。へぇ、標高の高い山でもあるのかな。崖みたいな石でできてる島で、頂上には面白い顔をした床があります。どこだと思う? そう、前にモアナが……話してくれた……」
徐々に尻すぼみになっていく彼女の語尾と聞き覚えのある島の特徴に、マウイと共にミニ・マウイも嫌な汗をかいていた。
「ラロタイの……入り口です! って、あの子なんで場所を知って――」
「じゃ、じゃあ、手紙も届けたし、俺はこれで。また会おう、モアナ」
「あなたがあの子に教えたんでしょう。ラロタイへの道を!」
ぎくり、と立ち去ろうとしたマウイは動きを止めた。大鷹に変身できるまで後ほんの少しだった。振り返ると、モアナがこちらを睨んでいる。その真剣な眼差しと彼女の性格を知っている彼は嘘や誤魔化しは効かないと分かっていた。その証拠にミニ・マウイも脂汗をハンカチで拭っている。彼女を宥めつつ、マウイは事情を話した。
「いや、俺も最初は教えるつもりなんて無かったんだよ? 本当さ。お前には散々言われてたし、俺も……うん。コアは絶対行きたがると思ってた。だから、言わないでいたんだよ」
「でも、言ったんでしょ? どうして?」
「……うん、まぁ。物の弾みっていうか……。でも、あれは俺が言わされたようなもんさ」
「教えたのはいつ、どこで?」
「あー……えっーとぉ……二回くらい前の手紙の時かな。あいつがたまには俺と飯を食いたいって言ってたから、それに乗ったんだよ。その時、楽しくてつい盛り上がっちゃってさ。あの旅のことを話してたら、コアに凄いとかさすが英雄! とか、もう言われまくっちゃって――」
「それで、良い気分になって教えちゃったって訳?」
「……まぁ、最終的に。そうとも言うよな」
モアナは盛大な溜め息を吐いた。本当はもっとマウイを責めてやりたいところだが、ここでいつまでもぐずぐずしていたって仕方ない。コアの身が危ない。ラロタイは海の底に広がる魔物の国。人間が一歩踏み込めば、忽ち魔物達に食われてしまう恐ろしく、危険な場所なのだ。そんなところに少女一人が入って行くことは自殺行為に等しい。
「マウイ、ついて来て。コアを連れ戻しに行くわ」
そう言うとモアナは籠を持って浜辺へ走り出した。マウイも慌ててその小さな背中を追う。向かう先は皆がいる浜辺だ。
浜辺では村人達が着々と準備を進めていた。その中にはモアナの両親の姿もある。父トゥイがマウイの姿を認めた途端、喜色満面に溢れて駆け寄って来た。
「おお、モアナ。遅かったじゃないか。マウイも来てくれたんだな。またコアの手紙か?」
「それなんだけど、お父さん。大変なの!」
事情を説明するとトゥイはさっと青ざめ、慌てて妻であるシーナとコアの両親を呼ぶ。トゥイから話を聞いた三人はそれぞれ驚き、混乱した。コアの母に至っては気絶寸前まで追い込まれてしまった。トゥイが三人を宥めている中、モアナは険しい表情で口を開く。
「私達が連れ戻して来る。ラロタイへは前の旅でも行ったことあるし、少人数で行った方が却って探しやすいわ。だから、お父さん達はこのまま次の島へ行って。後からコアを連れて追うから」
「だけど、モアナ。ラロタイへだなんて……」
「大丈夫よ。私を信じて、お父さん」
いくら過酷な旅を経験したとはいえ、やはり一人娘をまた送り出すのは心配だろう。しかも、行き先は魔物の国だ。何が起こるか分からない。モアナもそれは分かっていた。しかし、彼女は行かなければならない。今度は友達の為に。暫しの間見つめ合っていた二人だが、先に折れたのはトゥイの方だった。
「……そうだな。お前は海に選ばれて世界を救った子だ。必ず、コアを連れて帰るんだぞ」
「ありがとう! お父さん」
熱い抱擁を交わした後、モアナとマウイは出港準備に取りかかった。村人達から食糧を分けてもらい、ナイフや裁縫道具等の航海に欠かせない物を積んでいく。迷いなく積み終わり、二人で船を押して出航する。帆を広げると、テ・フィティの心の紋章が顔を出す。前の旅で乗った船だ。
「待ってて。コア」
ラロタイへの航路を思い出しながら、モアナは方角を確かめる為、太陽を見つめた。
タマトアは切れた息を整える為、一度全身を脱力させた。テ・フィティの心を手に入れようと、モアナとマウイを襲った彼は二人に間欠泉で逃げられた上、その時の衝撃でひっくり返ってしまった。本人はヤシガニだが、甲羅に沢山のコレクションを乗せていたせいで山のようになっており、そのせいで起き上がれないでいた。彼が起き上がろうと身をよじらせる度、辺り一面にコレクションが散らばる。その軽い音に顔をしかめて彼は大きな溜め息を吐いた。
「シャイニー……俺はシャイニー……」
せめてこの惨めな状態を慰めようと自分で自分を鼓舞してみるが、ますます惨めになるだけなので止めた。ふと、タマトアはどこからか視線を感じた。正確には顔の横からだ。ちらりとそちらへ片目を向けると、そこには一人の小さな人間がいた。長い黒髪に褐色の肌、それだけで取り逃したあの二人を思い起こさせるので嫌だが、せっかくの餌を逃す訳にはいかない。魔物の国ラロタイでは滅多に来ない餌にタマトアは内心喜んだ。その少女はモアナに比べると少し小柄で、体の厚さもどちらかというと薄い方だ。口元には人懐っこい笑みを浮かべ、黒い瞳には好奇心の塊みたいな光を宿していた。まぁ、そんなことはタマトアにとってはどうでもいいことなのだが。じっとこちらを頬杖をついて見ている彼女に、タマトアは猫撫で声で話しかけた。
「なぁ、そこのお嬢ちゃん」
「なぁに? カニさん」
逃げる素振りも無い。それどころかすぐに返ってきた返事にタマトアは面食らった。お前逃げないのかよ、と。正直期待はできないが、タマトアはダメ元で頼んでみた。
「起こしちゃくれないか? 俺はもうひっくり返ってんのは飽き飽きなんだ。もちろん、礼はするよ。なぁ、良いだろ?」
「いいよ」
「えぇー……」
思わずそんな声が出た。本当に大丈夫かこいつ。俺みたいなモンスター、信用できる訳無いだろ? 正直そう思いはしたが、タマトアにとっては好都合だ。これで起き上がれたらラッキーだし、おやつも手に入る。タマトアはその素直な少女を存分に利用することにした。
それから二人は――正確には一人と一匹だが――数日間に渡り、ロープや周りの物を利用して色々と試してみたが、如何せんタマトアの体は規格外に大きい。どんな方法を使っても最終的に少女が一人飛んでいく結果になる。しかし、タマトアがずっと観察していると、彼女について少し気になることがあった。彼女は異様に素早い。吹っ飛ばされても十五分もすれば、けろりとした顔で戻って来る。時には一時間待ったこともあるが、それにしたって早い方だ。捕まえる時は細心の注意を払おうとタマトアは密かに決めた。
「ねぇ、カニさん。そういえば、あなたの名前ってなんていうの? 私はコアっていうんだけど」
最早無理だと思ったのか、少女はタマトアの顔の前に立ってそう訊いてきた。
「おい、お前。まさか諦めるつもりか?」
「だって、あなた大きいんだもん。私一人じゃ無理だよ。だから、友達に手紙を送ったの。手伝ってくれないかなって」
「お~ぅ。お前バカか? 人間がこんなところにほいほい来る訳無いだろ」
「来るよ。それより、名前! ねぇ、教えてよ」
「俺は……タマトアだ」
「やっぱり!」
彼が名乗った途端、コアは満面の笑みを見せた。その様子に不思議そうに目を細めるタマトア。
「きらきらしてる凄く大きなカニのタマトアって、やっぱりあなたのことだったんだね! 私ずっと会いたかったの!」
「そうなのか? まぁ、俺はそういう物を集めるのが好きだしな。きっかけは……聞きたいか?」
「聞きたーい! なんでそんなきらきらなのー?」
無邪気なコアに褒められて気分を良くしたタマトアは、得意気な顔をしてつらつらと語り始めた。昔は小さくて冴えない蟹だったが、海底に沈むきらきらした物をその身に纏うようになってから毎日が幸せに満ちたことや自分が如何にきらきらした物が好きかとか、そんな話をすると、コアはますます期待に満ちた眼差しを向けてくる。
「早く見たいなー。タマトアの甲羅!」
「まぁまぁ、それは後のお楽しみに取っておけよ。ところで、お前の友達って――」
「あ、あの方法なら行けるかも!」
そう叫ぶと、コアはさっさと降りて地上へ向かって行ってしまった。置き去りにされたタマトアはあっという間に小さくなる背中に呼びかけた。
「おい、聞けよ! ったく……」
ここ最近、コアと話していてタマトアは彼女には悪癖があると分かった。人の話を最後まで聞かないのだ。一度突っ走ると止められないのも既に学習済みである。自分が動けない今、タマトアはぼーっと待つことしかできなかった。
やがてまたコアが目の前にひょこっと現れ、嬉しそうに笑う。タマトアが不思議に思っていると、首をできるだけ引き上げるように言われる。素直に言うことを聞くのは彼にとっては癪だったが、今は仕方ないと割り切って彼女に従う。すると、コアは首を一周するようにロープを巻き付けて間欠泉の噴射口へ向かった。嫌な予感を覚えたタマトアは慌てて身を捩る。
「おいっ、待て! 何する気だ!?」
「だいじょーぶ! タマトアは楽にしてて!」
ロープを持ったまま噴射口を過ぎ、その向こうにいる巨大なモンスターへ突進していくコア。彼女が何をするのか分かったタマトアは青ざめ、必死にもがいて逃れようとした。
「おいおいおいおい、冗談じゃないぞ!」
このままロープを引っ張られれば、首が絞まって殺される! 別の意味で楽になっちまうぞ! しかし、彼女は止まる気配も無ければ、彼の意見を聞き入れる様子も無い。巨大なモンスターの棘の一つにロープが括り付けられる。まずい。彼女がモンスターをその辺に落ちていた骨の先で傷つけるのと噴射口から水が思い切り噴き出したのは同時だった。
「ぐぇええっ!?」
「やったぁ! これで起き上がれ……タマトア~!?」
可哀想なことに走り出したモンスターと間欠泉の衝撃で瞬間的に強い力が首に加わり、タマトアは全身を青くさせて白目を剥き、泡を吹いていた。その姿を見てコアは慌てながら内心、カニらしいなとどこか呑気な感想を抱いた。
このままでは彼が死んでしまう! はっと我に返り慌ててロープをナイフで切ると、タマトアはがくりと脱力した。一瞬だけ気絶しすぐに意識を取り戻した彼は、謝りながら近寄って来たコアを睨みつけて地を這うような声音で脅した。
「次、同じようなことしたら問答無用で食ってやる。よく噛んでな!」
「ごめんなさい。大丈夫?」
「大丈夫に見えるか」
「本当にごめんなさい。次は気を付けるから」
「……もういい。お前にはもう頼まない。どこにでも行っちまいな」
両の鋏を組んで拒否の意を示すタマトアにコアは何度も頭を下げて謝った。しかし、彼から返って来るのは無言の圧力だけだ。黙り込んでしまったタマトアにコアが困り果てていると、聞き覚えのある声がした。
「コア! そこにいたのね!」
「え? あ、モアナ! マウイ!」
「マウイ!? おい! お前の友達ってもしかして……!」
マウイの名を聞いた途端タマトアは驚愕し、狼狽し出した。そんな彼に構わず、コアは二人の許へ駆け寄る。
「こんなところで何してるの!? 危ないから帰るわよ!」
「今ね、タマトアを起こそうとしてたところなの!」
「はっ……え?」
「タマトアだと?」
コアの指差す方を見て、二人は「ああー」と声を漏らした。聞き覚えのある声にタマトアも「最悪だ」と一人ごちた。双方の様子にコアは大変嬉しそうで、タマトアを起こすのに二人に協力を求める。
「はぁ!? 嫌だよ! コア、前にモアナから聞いただろ!? こいつは俺達を襲って来たんだ!」
「そうよ。助けたって食べられるだけよ。さぁ、コア。帰りましょう」
「でも……このままずっとひっくり返ってるなんて可哀想だよ」
「コア。お前は話でしか聞いてないからこいつがどれだけ危険な奴か分かってない。そもそも、こんなところ人間が何度も行き来していいもんでもないし、時間の無駄だ」
「自信無いんだろ? デミ・ミニ・ゴッド」
「……何だと?」
「ちょっとマウイ、相手にしないで」
「お前は黙ってろ」
見ると、タマトアはにやにやと厭らしい笑みを浮かべてこちらを見ていた。その後も大袈裟に溜め息を吐いて彼は続ける。
「そうだよなぁ。いくら神の釣り針を持っててもできないことは山ほどあるよな。いや、いいよいいよ。俺は自分でも起き上がれるからな。お前と違って」
「ハッ。俺はもう以前の弱っちい俺とは違う。釣り針があっても無くても俺は俺だ」
「へぇ。じゃあ、その偉大なデミ・ゴッドさんがなんで赤ん坊二人のお守りなんか任されてるんだ? しかも、良いように顎で使われてるじゃねぇか。ははは。神の名が泣いてるねぇ。マウイちゃん」
頭に来たらしいマウイが釣り針で軽くタマトアの甲羅を叩き上げると、タマトアの体は一回転し、起き上がることができた。喜ぶコアとは対照的にモアナは血の気が引いていく。のっそりと立ち上がったタマトアの威圧感は物凄いものがあった。足の一本だけでも大型船一隻ほどの大きさがあるというのに鋏と甲羅はそれ以上だ。コアは彼の足の一本が何故か千切れているのに気付いた。あまり考えずに彼女は疑問を口にした。マウイとタマトアがお互いに構え、剣呑な雰囲気を醸し出しているのにも関わらずにだ。
「ねぇねぇ、タマトアの足はなんで一本千切れてるの?」
「あ゛あ゛?」
反射的に二人は同時に声を上げてコアを睨んだ。二人の間にあった事件を知っているモアナは、彼女の一言に死を覚悟した。マウイとタマトアはおよそ千年前にも戦っており、マウイが言うにはその時タマトアの足を一本捥ぎ取ったらしい。そんな確執のある二人がいがみ合っているという今の状況だけでも危険だというのに、コアは無邪気に火に油を注いだのだ。しかも大量に。
先に手を出したのはタマトアだった。巨大な左の鋏を振り上げ、一直線にマウイへ振り下ろされる。それを小さな虫になって避けたマウイは一気に飛んで元の姿に戻り、釣り針による渾身の一撃を打ち込もうとしたが、タマトアは見向きもせずにコアを掴み上げた。
「コア!!」
モアナの悲鳴にも似た叫びが上がるが、どうにもできない。摘み上げられたコアは不思議そうな顔をしている。その呑気な様子にタマトアは益々苛立った。
「何なんだ、お前は。どうしてそんなこと知りたがる?」
「教えてくれるの?」
「俺の質問に答えろ」
急に矛先を変えられたマウイは暫し呆然としていたが、すぐに我に返るとタマトアの背後から飛びかかったが、振り向き様に振られた鋏に釣り針ごと吹き飛ばされてしまった。その間にもコアとタマトアの話は進む。
「マウイのこといじめないで!」
「お前が俺の質問に答えたらな」
「むむぅ……だって、色んなこと知りたいから。私、昔からそうなの。何でも知りたがるの」
「いいか、お嬢ちゃん。好奇心ってのは時に身を滅ぼすってことを学ぶんだな。まぁ、来世ではそこんところ上手くやれよ」
それだけ言ってタマトアはその大口を開けてコアを食べようとした。筈だった。
「わぁ! これがタマトアの甲羅なんだね! きれーい!」
いつの間に飛び移ったのか、目の前にいた筈のコアは輝く甲羅に乗っていた。タマトアの甲羅には山のように輝く物達が積み上げられているのだ。それらは彼が海底で見つけた漂流物達で、彼はその中から光り輝く物を発掘しては身に着けるのが堪らなく好きだ。もちろん、その姿を褒められるのも。海から差し込んでくる光を反射してぎらぎら輝いている漂流物の中で、コアは同じように目を輝かせながら歩き回っていた。バランス感覚も抜群のようで足取りは危なげない。
「なっ……降りろ!」
タマトアはコアを振り落とそうと左右に甲羅を揺すってみるが、彼女は甲羅の端に捕まって揺れが治まるのを待っている。その後、いくらタマトアが上下に揺すっても遠心力で吹き飛ばそうとしてもコアは落ちなかった。正確に言えば、何度も落ちているのだが、その度にいつの間にか甲羅に上っている。この一連のやり取りが何かの遊びだとでもいうのか、彼女だけは終始とても嬉しそうだ。すっかりコアに気を取られているタマトアを見てモアナとマウイは唖然としていた。かつてハワイの半神半人を手こずらせた巨大蟹が一人の少女に振り回されている。それも力などではなく、態度だけでだ。
やがて、きゃあきゃあとはしゃぐコアに疲れ切ったタマトアはその場に蹲った。その様があまりにも憐憫を誘うので、モアナは思わず声をかけた。
「ねぇ、大丈夫?」
「ぜぇ……はぁ……ぜぇ……。もう本当に、何なんだこいつは。はぁ……はぁ……。連れて帰るなら、早くしてくれ……」
「だいぶ参ってるな」
「ほら、コア! タマトアも疲れてるし、帰るわよ!」
モアナは未だ甲羅の上で跳ね回っているコアに呼びかけるが、彼女は不満そうに口を尖らせる。
「えー、まだタマトアと遊んでたいよー」
「遊んでた訳じゃないんだけど……。村のみんなも心配してるし、一度戻って旅の話でもしてあげたらどうかしら?」
あなたのお母さんも心配してたよと言うと、コアは少し悲しげな顔をした。母の顔を思い出したのだろう。
「あ、そっか。じゃあ……帰る」
「分かってくれて嬉しいわ、コア」
降りて来たコアの手を引いて――掴んでおかないとどこに行くか分からないのが彼女だ――モアナはマウイにも声をかける。マウイは自分達を見逃がそうとしているタマトアを見上げた。
「食うんじゃなかったのか?」
「疲れた。今日は見逃してやる」
「そりゃこっちのセリフだ」
「もうあのガキ、連れて来るなよ」
「頼まれたってしないさ」
「あ、そうだ!」
出口へ向かっていたコアはそう叫ぶと、モアナに先に行くように言って戻って来た。再び自分の許へ来た彼女にタマトアはうんざりする。
「なんだ? まだ何か用か、お嬢ちゃん」
「昨日、見つけたんだけど、タマトアにあげようと思って」
そう言って彼女がポケットから取り出したのは、小石だった。光に翳すと青色にきらきら輝いている。光っている様を見た途端、彼女の手からふんだくるようにして小石を受け取ったタマトアは、そのぎょろりとした両目を近づけて観察している。
「綺麗でしょ? 入り口のとこで見つけたんだ」
「ほうほう。こいつはなかなか……。お前、見る目はあるようだな」
「ほんと!? じゃあ、またきらきらした物見つけたら持って来るね! じゃあね、タマトア!」
言い残してコア達は間欠泉に押し上げられて帰って行った。残されたタマトアは小石を甲羅に乗せてから彼女の言葉の意味を理解した。
「ちょっと待て。あいつまた来る気か!?」
その後、タマトアは散らばった宝物をかき集め、地上に戻ったコアはモアナとマウイにこっぴどく叱られたのは言うまでもない。これがコアとタマトアの最初の出会いだった。
1.
「タマトアー!」
今日もラロタイの一画でコアの叫び声が響く。しかし、肝心の相手にはここからでは声は届かないと知っている。それに構わず、コアは何度も彼の名前を叫びながら住処へ入って行く。今日は手に銀食器を持って来ていた。彼の大好きなきらきらした宝物だ。
住処に入ると、いつものようにタマトアは地中に顔と足を埋め、突き出ているのは金色の山だけだ。眠っているのだと分かると、コアはますますその上で騒いで起こしにかかった。やがて、地響きと大きな揺れを起こしてタマトアは地中から出てきた。その時に甲羅から落ちそうになったコアを鋏で摘まむのももう慣れたものだ。最後に顔をコアの前に出すと、開口一番に呆れたように言った。
「お前も毎度毎度飽きないなぁ。今日は何を持って来た?」
「今日はねぇ、銀の食器持って来たの! こないだ行った島で貿易をしてたからタマトアにあげようと思って買って来たの!」
「お~ぅ。お前は相も変わらずポンコツだな。この俺が一つで気が済むとでも?」
「ふふふ~。そう言うと思って、今回は……じゃじゃ~ん! コアちゃんの手料理付き大皿だよ~」
そう言うとどこに隠し持っていたのか、コアは焼き魚が乗った銀の大皿を差し出した。タマトアは一瞬、嬉しそうに目を瞠ったが、すぐにその笑顔は消える。
「食器はもらう。お前の料理はいらねぇ」
「なんで!? せっかく一生懸命作ったんだよ!? タマトアの為に!」
「お前が作ったもんなんて何が入ってるか分かったもんじゃねぇだろ」
「ああ、確かに。って失礼な! 焼いただけだもん! 何にも味付けとかしてないもん!」
「それはそれでどうなんだよ」
「だって、タマトアはヤシガニだから濃い味はダメかと思って」
「それにお前なぁ、こんな小魚一匹で腹は膨れねぇよ。というか、生憎と俺は餌には困ってない。この輝く甲羅に目が眩んだ魚共の方から寄って来てくれるからなぁ」
そう言った直後に正に彼の言う魚達が落ちて来て、彼の口に入って行った。
「ほらな?」
「うう~……魚なんかに負けないんだから!」
「お前は一体何と戦ってるんだ」
「自分と戦ってるの! だって、これ花嫁修業だし!」
「へぇ。お嬢ちゃんも誰かのとこへ嫁ぐのか? まだ赤ん坊の癖に」
「うん。タマトアのとこ」
「へぇ~、それはそれは喜ばし――はあっ!!??」
衝撃的な一言にタマトアは思わず、コアを放した。垂直に落ちて行くコアに構わず、驚愕の勢いのまま続ける。着地に成功したコアはしゃきーんと体操選手のようなポーズを決めた。
「誰が誰に嫁ぐって!?」
「え? 聞いてなかった? 私が、タマトアに」
顔を赤らめるコアにタマトアは愕然とした。この阿呆な少女の旦那とはまたどんな阿呆な人間かと思って訊いてみたら、ヤシガニの自分だった。今一度頭の中で整理してみるも、理解に苦しむ。軽い頭痛と眩暈にタマトアは倒れそうになるが、寸でのところで踏み止まる。
「大丈夫? 気分悪いの? あなた」
「やめろ」
どさくさに紛れて既に新婚気分のコアの一言をタマトアはぴしゃりと跳ね除けた。気を取り直して今度は首根っこを摘まむと、タマトアは問いただした。
「なんでそうなった?」
「なんでって……えっと、一目惚れ、ってやつかなぁ。タマトアと一緒にいると楽しいし、ドキドキするし。これが恋かぁって思って」
「それは食われる緊張からじゃないのか?」
「でも、最初は私もすごく迷って、タマトアに迷惑じゃないかなとかちょっとだけ考えて……」
「ちょっとだけかよ」
「ああ、でも! もうこの気持ちは止められなくて! 村のみんなといても、航海中でも、気づいたらタマトアのことばっかり考えてて……」
「航海中は集中しとけよ」
「私も考えたんだよ! 人間の私とヤシガニのタマトアが結ばれる訳無いって。でも……でも、しょうがないじゃない! 好きになっちゃったんだから!」
途中からコアをその辺の岩の上に立たせて頬杖をついて聞いていたタマトアは、彼女の言い分が終わると見るや、乾いた拍手と嘲笑を送った。使ったのは両の鋏だが。硬い甲羅同士がぶつかってごんごんと物凄い音が響くが、二人共気にしていない。しかし、タマトアに全く相手にされていないと分かったコアは、彼女にしては珍しく俯いて表情が見えない。落ち込んでいるようだ。
「ねぇ、タマトア。真面目に聞いて欲しいの」
「……くっくっく。あのなぁ、お嬢ちゃん。俺はヤシガニ、お嬢ちゃんは人間。俺達は元々相容れないんだよ。お分かり?」
鋏の先でこんと小突かれて額を押さえるコアは悲しげな顔でタマトアを見上げた。
「ねぇ、タマトアは?」
「あ?」
「タマトアはどう思ってるの? そういうの抜きにして、私のことどう思う?」
「……はぁ。はっきり言っておく。俺はお前をそういう対象として見ないし、迷惑だ。お前のことはパシリくらいにしか思ってない。ガキのままごとに付き合ってる暇も無いしな」
「分かった。じゃあ……そういう対象に見られれば私のこと意識してくれるんだね?」
「え」
「私頑張るから見てて! じゃあね、タマトア。また来るね!」
元気良く言い放ってコアは住処を後にしようと出口に向かった。彼女を引き止めようと伸ばされたタマトアの脚が運悪く当たり、コアは躓いた勢いで住処の下へ落ちて行った。彼女の素早さを知っているタマトアはそのまま戻って来るのを待っていたが、いつまで経っても彼女が戻って来る気配は無い。辺りにはモンスターの唸り声や大きな足音が響くだけだ。
「チッ……」
痺れを切らしたタマトアは彼女が落ちて行った場所から覗き込んでみるも、出っ張った岩壁が邪魔してよく見えない。またひっくり返らないよう慎重に降りて行くと、小さなモンスター達なんかは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。足元は柔らかい砂地でタマトアが歩く度、砂埃が舞う。砂に沈むようにごつごつとした岩がそこかしこから顔を突き出している。そこに彼女の姿は無かった。入れ違ったか? きょろきょろと辺りを見回してみるも、それらしい小さな影は無い。ふと、視界の端で動くものを捉えた。そちらへ目を向けてみると、岩陰からコアがぱたぱたと走り出て来た。どうやら隠れながらこちらへ向かっているらしい。恐れを知らない彼女にしては珍しいと思っていると、その背後からぬっと彼女の三倍はあろうかという大きな魚が顔を出した。追われているようだった。
「あいつ、また厄介なことになっていやがる」
よく見ると、コアの左足は赤く腫れて走りにくそうだ。正に手負いの獲物。追って来た魚にとっては格好の餌だろう。彼女がタマトアの姿を見つけて嬉しそうな声を上げると共に、足がもつれて転んでしまう。すぐに立ち上がろうとするが、足が痛むのか顔を歪めて動けないでいる。タマトアは動かなかった。どのみち、人間がこんなところに迷い込んで来るのが間違っているのだ。他の奴らの餌になってもおかしくない。今までが少しおかしかったのだ。
「あばよ、ベイビー」
去り際に一言だけ言い残してタマトアはその場を後にする。しようとした。コアの悲鳴が聞こえるまでは。
「やだ、やだ、いやぁああああっ!」
「こいつは俺のだ」
気が付くと、タマトアは今にもコアに食いつかんと大口を開けた巨大魚を鋏で叩き飛ばしていた。突然視界から消えた巨大魚に呆然としているコアをひょいと摘まんで住処へ向かう。摘ままれた彼女は至極嬉しそうにタマトアを見上げた。その表情は安堵と素直な喜びが溢れていた。その顔を見るとタマトアはいつもうんざりするのだ。特に着飾ってもいないくせに幸せそうな顔しやがってと、憎たらしいようなむず痒いようなよく分からない感情が込み上げてくる。
「助けてくれてありがとう! タマトア。それと俺のだって言ってくれたの、凄くドキドキし――」
「ふん。お前が俺以外の奴に食われるのが気に入らないだけだ。お前は俺のおやつだからな」
「oh……」
見る間に脱力した後、頬を膨らませるコアにタマトアは意地悪く笑ってみせた。しかし、その胸中では焦りと混乱の嵐が吹き荒れていた。確かに見捨てるつもりだった。誰に食われようが構わなかった筈だ。なのに、あの一瞬妙に胸の辺りがざわついたのは何なのか、タマトアには全く分からなかった。こいつがここに来るようになってから変な気持ちになることが多くなった。はっきり言って心地が悪い。もうこの感情を早くどこかへ放り出したくて彼は話題を変えた。ふと、彼女の左足が目に入った。必死に逃げようとして無理をしたらしく腫れは酷くなっており、少し紫がかってしまっている。
「心配してくれるの?」
彼の視線に気付いたのか、コアはまた嬉しそうな表情を浮かべる。それに少し苛立ったタマトアは鋏の先で左足を軽くつついてみた。痛みに顔を歪めるコアを見て今度はタマトアが嬉しそうに目を細めた。
「痛いか?」
「……うん」
「くっくっく。そうかそうか、痛いか。ほれほれ」
尚も傷をつついてくるタマトアにコアは更に顔をしかめ、次第に涙が滲んできた。鋏の先とはいえ、彼の力の強さが加わるのだから実際は痛いなんてものではない。それはタマトア自身分かっていた。しかし、コアは必死に痛みに耐えている。それでも放せだの、やめてだのなんて絶対に言わない。ただ耐えているだけだ。つつくのを止めると、彼女は何故かくすくすと笑った。
「おい、何がおかしい?」
「だって、タマトア。本当に助けてくれたから嬉しくって。そのまま行っちゃうかと思ったから。だから、つつくぐらい別にいいよ。痛いけどね」
その一言にタマトアは正直戸惑った。そんなこと言われたことが無いからだ。尚もコアは続けた。
「私、タマトアと結ばれるまでは誰にも食べられたくないの。だから、さっきは本当に怖かった。まだ何にもしてないのにって」
そう笑顔で言い放つ彼女に、タマトアは驚き、呆れた。どこまでこいつはバカなんだと思ったのだ。溜め息を吐きながら間欠泉へ向かい、噴射口の少し前にコアを下ろした。
「お前は本当に毎度毎度食う気を失わせるやつだな。もう今日は帰れ。次こそ食ってやる」
「じゃあ、食べられる準備しておかなくちゃ。足怪我したまんまタマトアに食べられるのは嫌だし。どうせ食べられるんなら、最高の私を食べてもらいたいもん」
「お前はいつ会っても最高でもねぇだろ。そういうことは俺以上にシャイニーになってから言いな」
「ふふ。そうだねー。じゃあ、またね。タマトア」
背を向けたままのタマトアと別れ、コアは地上へ帰って行った。タマトアはその場に留まって小さくなっていく彼女を見ていた。未知の感情に見ない振りをしながら。
2.
タマトアは困惑していた。否、困惑というよりは笑いを堪えるのに必死だった。まだ、まだだ。まだ、笑うな。懸命に自分に向かって言い聞かせるも、その努力は無駄に終わった。
「ぶ……はーっはっはっはっはっ!!」
「もう! 何笑ってんのよタマトア!!」
大きな鋏を振って笑いこけるタマトアにコアは怒りを露わにした。持っていた楽器を地面に叩きつけて地団駄を踏むコアを見て、漸く収まったタマトアが声をかける。しゃんしゃんと落とされた楽器が鳴る。
「今のがよっぽど踊ってるように見えたぜ」
言いながら彼はここに来た時の彼女の様子を思い出していた。今日はいつもの貢物と一緒にタンブリンなる楽器を持って来た彼女は何を思ったのか「今日は踊りでタマトアをメロメロにする!」と意気込んでその場で踊り始めた。のはいいのだが、彼女が知っている踊りはタヒチアンダンスのみ。タンブリンの扱いもまだたどたどしい。慣れない楽器に悪戦苦闘しながら踊る彼女の姿は、まるで鰻がのたうち回っているようにしか見えなかった。我ながらよく後半まで耐えたとタマトアが自画自賛するほどに可笑しかったのだ。
頬を膨らませるコアの頭を軽く小突くと、細い腕で大鋏を叩いてくる。タマトアにとってはそんな攻撃は痛くも痒くも無いのだが、彼女の反応が面白くてやらずにはいられないのだ。一通り彼女で遊んだ後は、ゆっくりとその口に持って行く。いつものように手足を突っ張ってタマトアの歯にしがみ付くコアと、無理矢理押し込むことも容易なのに敢えてそうしないタマトア。代わりに舌先でべろりと舐めると「ひゃあ」と面白い声を上げた。
「タマトアのえっち!」
「何言ってんだ、お前。そういや、このがしゃがしゃ煩ぇのはどうしたんだ?」
「前行った島で買ったんだよ。その時ちょっとそのお店の人と仲良くなって、一緒にご飯食べたり、買い物行ったりしたんだよ!」
「へぇ。お前みたいなのでも友達できるんだな」
「うん! 男の人なんだけど、すっご――うぇええ!?」
男の人、と言った瞬間、コアは投げ捨てられた。まるでゴミでも投げるかのように無造作に。柔らかい砂地に強かに体を打ち付けたが、たいしたダメージは無い。下が砂地で良かったと彼女は心底思った。振り返るとつまらなさそうな顔をしたタマトアが、先ほど彼女が叩きつけたタンブリンを拾い上げる。軽く振るとしゃんしゃんと軽快な音がする。普段の彼なら自慢の歌を披露する場面だが、今の彼はとてもじゃないがそんな気分にはなれなかった。面白くない。タマトアは急に興が冷め、返してと騒ぐコアを無視してタンブリンを壊そうと少しだけ力を入れた。ばきっ、と嫌な音を立ててタンブリンは潰れた。太鼓部分の革や周りの木枠を粉々にすると、残ったのは周りに付いていた銀の小さな皿だけだ。それらを器用に一枚一枚拾い上げてワンポイントのように甲羅に刺した。ばらけて配置しておけば、もうあの耳障りな音は聞こえない。
ふと、コアの方を見やると彼女は目に涙を溜めてこちらを見つめていた。彼女が泣くところなど見たことが無かったタマトアはぎょっとした。俯いて何か呟く彼女だが、タマトアにははっきりと聞こえない。
「なんだ? 言いたいことははっきり言えよ」
「……タマトア。私の踊り、そんなに嫌だったの?」
「は……」
どうやら彼女はタマトアがタンブリンを壊したのは、自分の踊りが気に障ったのではと思ったようだ。こいつは何を勘違いしてるんだ? 否定しようと口を開きかけたタマトアだが、いつも振り回されている仕返しをしてやろうと悪戯心が頭をもたげた。にやにやと嫌な笑みを浮かべてタマトアはコアを見下ろした。
「そうだなぁ。見るに耐えねぇもんだった。いや、あそこまでいくと最早天才の域だな」
「え、ホント!?」
「は」
どうせなら泣かしてやろうと思っていたタマトアの思惑とは全く違う反応に、今度は本当に困惑した。皮肉って天才と言ったのがまずかったらしい。悲しげな顔から花が咲いたような笑顔を浮かべて彼女は喜んだ。
「いやぁ、嬉しいなぁ~! タマトアにそこまで褒められちゃうとは思わなかったなぁ。えへへ。帰ったらみんなに自慢しよう」
なんでこいつこんなにバカなんだろう。最早、呆れを通り越して感心するタマトアとは対照的にコアは跳ね回って喜んでいた。ちょこまかといつも通りに動き回る彼女を見て、何か思いついたらしいタマトアは鋏の先で彼女のつむじをちょんと押さえ、その小さすぎる手を摘まんだ。
「お~ぅ。お前の手はまるで砂粒みてぇだな。気を付けないと折っちまいそうだぜ」
「なに? へし折るの?」
「それも良いが、お嬢ちゃん。踊りってのはこうするんだよ」
そう言うと、彼は摘まんでいる手を引っ張ってコアにステップを踏ませ始めた。くるくると軽やかに運ばれる彼女の足取りにどこか満足そうな笑みを浮かべる。彼の鋏に導かれて踊る彼女はさきほどとは打って変わって可憐なものだった。海から降り注ぐ光が二人を照らす。
「あ、ちょっと待て」
ふと、そこで彼は手を放して住処の奥へ行き、何やら探し始めた。よく見ると、隅に積み重ねてあった収集物を一つ一つ見ているようだった。
「タマトアー? 何してるのー?」
「これも違う。これは……ああ、違う。なら、こっちか?」
コアが呼びかけるも、タマトアは集中していて聞いていないようだ。仕方なく、そのまま待っているとやがて戻って来た。じゃらじゃらと音を立てて、彼女の目の前にいくつかの装飾品達が落とされる。どれも彼が好きそうなきらきら光っていて綺麗な物だ。
「なに? これ」
「どうせなら、俺のように着飾れよ。お前には洒落っ気が無ぇ」
コアはその中の一つを手に取ってみた。宝石こそついていないが、細い金の頭飾りだ。他には腕輪、足輪、首飾り等がある。どれも金色に光っていて美しい。
「腕輪と足輪は片っぽずつにしろよ。そっちの方がバランスが良い」
「ねぇ、タマトア。これきつい」
「それはそう付けるもんじゃねぇよ。こうだ」
頭飾りの位置を調整してやると、彼女は嬉しそうに口元を緩ませる。ついでに首飾り、腕輪、足輪とそれぞれ付けてやると、これまた装飾品に負けないくらいのきらきらした瞳で見上げてきた。
「これで踊れば、少しは見られるようになるかもな?」
「タマトア、すごい……! 私もきらきらになった! もう一回踊る! 踊りたい!」
はしゃぐコアにタマトアの鋏が差し出される。
「じゃあ、お手をどうぞ? お嬢ちゃん」
「はい!」
「バカ。そういう時は黙って握るんだよ」
はしっと掴んできたコアに注意するも、当の彼女は全く聞いていないようだ。早く早くと急かす彼女の手を取ってまたくるくると踊らせてやる。彼女が身に着けた装飾品達が光を反射して煌めき、輝く。タマトアはそんな光景に満足そうに笑った。
「良いねぇ。お嬢ちゃんもシャイニーになれたじゃねぇか。まぁ、俺以上って訳にはいかないがな」
「何やってんだ、俺は」
後に我に返った彼が自分の行動を後悔したのはまた別の話。
3.
雲一つ無い夜空に星々が瞬いている。その下には複数の船。その中でも一際大きな船の中で、コアはこれまでの冒険譚を同年代の友人やその下の子供達に語って聞かせていた。殆どがタマトアの話で、子供達はラロタイの巨大蟹についてやたら詳しくなっていた。
「ねぇ、コア。あまりラロタイの話はしないでくれる?」
少し離れたところで聞いていた誰かの母親がそう言った。
「どうして?」
コアがそう問い返すと、彼女は自分の腕を擦りながら嫌そうな顔をする。
「魔物の話なんて縁起が悪いでしょう。もっと楽しい話をしてあげて」
いつもそう言われて彼女は口を閉ざしてばかりいた。彼女にとってはいつものことだった。他人と違うところに興味を持ち、一人突っ走る彼女は村では珍しく、孤立することもしばしばあった。しかし、彼女はそれで良いと思っていた。自分と他人は違うのだから、違うことに興味を持っても不思議ではないと。
「コア、またタマトアに会って来たの?」
不意に背後から声をかけられて振り返る。そこには会議から帰って来たモアナがいた。彼女の姿を認めると、コアは表情を輝かせて飛びついた。
「モアナ、おかえりー!」
「ただいま。ねぇ、コア。あれからどのくらい通ってるの? 食べられそうになったりしない?」
「大丈夫! あのね、前に私が焼き魚作って持って行ったことがあるでしょ?」
「ええ。タマトアは喜んでた?」
「最初は文句言われたけど、最後は食べてくれたの! たまには焼き魚も悪くないって言ってくれたよ! あのタマトアが! すごくない? ねぇ、モアナ。すごいよね! 私、一歩前進したよ!」
「……ねぇ、コア。あなたは本当に……えっと……タマトアのこと……」
「好きだよ」
歯切れの悪いモアナに対してコアはきっぱりと言い切る。まるで自分に言い聞かせるようにしている彼女にモアナはそれ以上何も言えなかった。
「あ、モアナの手。何それ?」
何のことかと思い、モアナは自分の手を見た。そこには前の島で学んだ爪紅が付けられている。爪を磨いて花の色を付けただけだが、淡い赤色に染まっていて気に入っているものだ。
「ああ、これ? 前の島で教えてもらって自分でやった――」
「教えて! それ、私にも教えて!」
ぎゅっと手を握ってきたコアに驚くも、モアナは喜んで教えることにした。
◆◇◆
「タマトアー!」
今日も彼女コアはやって来た。今日は何を持って来たのだろうと振り返ると、その小さな手には何も無かった。
「なんだ、今日は土産は無しか?」
「ううん。ちゃんと持って来たよ」
そう言い、彼女はその小さな手を差し出してきた。タマトアがその両目をよくよく近づけて見てみると、コアの爪には赤色の下地にきらきらした石の細かい欠片が散りばめられていた。
「ほう。こいつは見事なもんだな。人間も面白ぇことを考える」
「でしょ? これ、タマトアにあげる!」
「あ? この爪をか?」
「ううん。この手、あなたにあげる!」
タマトアは耳を疑った。今、こいつは何と言った? 呆然としている間にもコアは両手を差し出し、笑顔で言い放つ。
「聞こえなかったの? 両手全部タマトアにあげるって言ったんだよ」
今まで彼女がそんなことを言ってきたことは無かった。これは何かあったなと当たりを付けたタマトアだが、敢えて知らない振りをした。
「お前の両手を捥ぎ取ったら多分死ぬと思うが、それでも良いのか?」
生きている者は全て死という恐怖と戦っている。皆一日でも生き延びる為に必死に生きている。彼女も例外ではない。そう思っているタマトアはそう脅しをかけた。彼は殺す相手を肉体的・精神的に追い詰め、食うことが堪らなく好きだからだ。恐怖に慄け。絶望した泣き顔を見せろ。そう思った彼だが、どうにも上手くいかないのが彼女だ。
「うん、いいよ! あ、でも、やっぱりタマトアには全部食べて欲しいなぁ」
満面の笑みでコアはそう言い放った。今度こそタマトアは言葉を失った。明らかに今の彼女は異常だ。とても正気を保っているとは思えない。俺も狂ってると思うが、こいつも大概だな。ある種の親近感じみたものを感じるが、今はそれどころじゃない。タマトアはそこで考えた。こいつを殺して食うのは簡単だが、こいつがいなくなってしまうと光物は自分で探さなければならない。自分で探すのも好きだが、それではあの退屈な毎日に戻ってしまう。
「退屈、な……」
可笑しな話だとタマトアは心中自嘲気味に笑った。この俺が退屈を厭うようになるとは変わったもんだな。今のところ、こいつは見ていて飽きないし、土産も必ず持って来る。まだまだ遊べそうだ。食ってしまうのは少々勿体ない。それに生憎と、彼は人の言う事を聞くのが何より嫌いな天邪鬼だ。
「いらねぇ。生ものなんかすぐ腐っちまうだろ」
言い捨てるとコアは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに納得したように「ああ」と声を上げた。
「そうだね。私の手でタマトアの甲羅が汚れちゃうのはダメだもんね」
そう言うと、コアは笑顔を浮かべた。いつもの彼女に戻った。そう確信を得ると同時に、タマトアは心のどこかでほっとするのだった。
4.
いつものように住処へ来たコアはタマトアの顔を見るなり、その場に倒れてしまった。持って来た貝殻が地面に落ちた。タマトアがいつものように首根っこを摘まんでみても、ぐったりして反応が無い。
「おい、死んでないだろうな?」
もう片方の鋏で彼女の前髪を撫で上げると、僅かに呻き声が返ってきた。どうやら、生きてはいるようだ。観察してみると、息が荒く顔も赤い。鋏からはじんわりと熱が伝わってくる。声をかけてみてもつついてみても、片足を舐めてみてもまるで反応が無い彼女をタマトアは持て余していた。こんな彼女を見たのは初めてだ。
「おいおい、ここを死に場所にすんのは止めろよ」
どうしていいか分からず、そのまま目の上に彼女をぶら下げていると、鋭い声が響いた。見ると、神の釣り針を持ったマウイが入り口に立っている。どうやら、今日は彼も一緒に来ていたらしい。面倒で最悪の奴に会ったと思っていると、何を勘違いしたのかマウイは釣り針を構えた。
「コアに何をした!」
「おうおう。人ん家に押しかけて来ていきなりそれかよ。言っておくが、俺は別に何もしちゃ――」
最後まで言い終わらないうちにマウイの釣り針が振るわれ、タマトアは寸でのところで避けた。タマトアが動く度、摘ままれているコアの体は左右に激しく揺れて苦しそうだ。
「おいおい、人の話を聞けって……」
「お前の話なんて聞かなくても分かる! コアを食う気だろ!」
「いや、食う気ではあるが、今はまだその時じゃないっていうかだな……」
「やっぱり食うんじゃねぇか!!」
繰り出されたタマトアの足を避け、マウイがその足を釣り針で切断しようとしたその時だった。コアの呻き声が聞こえる。
「コア! 待ってろ! 今助け……」
「頭痛い」
「え」
「寒くて熱い……」
「多分、風邪だな」
戦いを止めたマウイはコアの様子を見てそう判断した。前にモアナに人がかかりやすい病気だとして教えてもらったことがある。半神半人のマウイや魔物のタマトアには縁の無い病気で、酷くこじらせてしまうと最悪、死に至ることもあると言われている。
取り敢えずタマトアはコアをマウイに任せ、マウイは魔界の草で簡易的なベッドを作ってやり、そこに彼女を寝かせた。未だ息の荒い彼女の額を汗が伝う。
「なんで病気なのに、来たんだ。こいつは」
「お前に会いにだろ?」
「俺は頼んだ覚えはねぇ」
「相変わらず、素直じゃねぇなぁ」
ミニ・マウイと一緒ににやにや笑いを浮かべるマウイに苛立ったタマトアは、軽く舌打ちをした。
「お前に言われたかねぇよ」
「で、風邪ってどうすれば治るんだ?」
「俺が知るかよ。お前こそ何か知ってんじゃねぇのか、みんなの英雄マウイちゃんよぉ」
「生憎、俺は昔から病気とは無縁でな。地の底を這いずり回ってるお前と違って、毎日日光浴びてるから健康なんだよ」
「そうだな。バカは風邪引かねぇって言うしな」
そうして盛大に笑い合った後に殺し合いの喧嘩になるのがこの二人だ。いつもならモアナが止めに入るところだが、今回はコアの苦しげな声で止められた。
「コア、大丈夫か?」
「熱い……熱くて、苦しい」
食いたい。薄らと涙を滲ませ、マウイに答えるコアを見てタマトアは真っ先に思った。この弱り切った娘を嬲って遊んで頭から食ってしまいたいという衝動に駆られた。しかし、今そんなことをしようものなら、この半神半人が黙ってはいないだろう。今度は足一本では済まないかもしれない。タマトアとしてもそれは不本意だ。心の中で舌打ちをして平静を装っていると、不意にマウイは彼女を抱き上げた。
「おい、そいつをどうするつもりだ?」
「話聞いてなかったのか? コアを船へ連れて帰るって言ったんだ」
「おいおい、マウイ。そいつは病気なんだろ? 無暗に動かしていいもんなのか?」
「ここにいるより地上に戻った方が遙かに安全だろ。船にはモトゥヌイの村人達がいるしな」
「確かにそうだ。だが、こうも考えられないか? そいつは病気なのにわざわざ俺のところに来た。何故だと思う? 俺に用があるからだろ。そして、お嬢ちゃんはまだその用事を済ませてない」
「これを渡したかったんだろ」
そう言って呆れ顔のマウイは彼女が落とした貝殻を拾ってタマトアに見せた。貝殻の中が光に反射して虹色に光っている。それをタマトアに渡すと、彼はさっさとその場から立ち去ろうとした。
「おいおい、待てよ。これもそうだが、お嬢ちゃんは他に用がある筈だろ。いつも俺と楽しくおしゃべりして帰るんだからな」
「お前、コアを食べたいんだろ」
マウイの鋭い一言にタマトアは一瞬、閉口した。そんな彼を見て、マウイはコアを抱えたまま、タマトアを睨めつけ釣り針を構えた。
「俺の友達に手を出すな。次は足一本じゃ済まないぞ」
二人の間に剣呑な空気が流れる。殺気に満ち溢れ、今にもお互いに攻撃を仕掛けそうな雰囲気の中、先に折れたのはタマトアの方だった。
「……チッ。好きにしろ。さすがに足を全部折られるのはごめんだ」
「分かればいいんだ」
「偉そうにすんじゃねぇ。ヘボ半神が」
悪態を吐く彼に構わず、マウイはコアを連れて住処を出ようとした。入り口まで辿り着いた時、不意にタマトアに呼び止められ、振り返る。彼はこちらへ背を向けたまま、一言呟いた。
「治ってから来い。そいつに伝えろ」
「…………へぇ~」
「なんだ、その返事は! 分かってんだろうな、マウイ! じゃないと食っちまうぞって言っとけ!!」
「はいはい。ラロタイの巨蟹ちゃんからコアに愛のメッセージね。了解」
「死ね!!! 色ボケ半神!!」
その辺に落ちていた巨大魚の骨を投げつけられ、当たる直前にマウイはタマトアの住処を出て行った。
「相変わらず、ムカつく野郎だ」
マウイが去った後、しばらく思いつく限りの悪態を吐いていたタマトアだが、頭の中ではいつかのコアの様子を思い出していた。突然、彼女は自分に向かって両手を差し出そうとしたのだ。あれはどういうことだと首を傾げる。あいつはバカに見えて何かあるのか?
「…………ってなんで俺が真剣に考えてやってんだ」
彼女がどう接して来ようと自分には何の関係も無い筈だ。それより、あの計画をそろそろ実行に移さねば。計画が上手く行けば、あの半神半人の英雄がどんな顔をするだろう。
「絶望ってやつはある日突然やって来るもんだよなぁ、マウイ」
その時の彼の顔を想像し、タマトアは一人ほくそ笑んでいた。
5.
小さな体で精一杯暴れるモアナをぽいと檻に放り出す。今度は逃げられないように骨を継ぎ足し、簡単には出られないようにしている。柔らかい砂の上に落ちた彼女はさながら罠にかかった小動物のようで、こちらを敵意の込もった目で睨みつけてくる。「おお、怖い怖い」とタマトアは大袈裟に怖がる真似をして見せた。その様子に苛立ったモアナは更に眉を寄せた。
「私を捕まえてどうするつもり?」
「お前を攫えば、英雄様が釣れるだろ? 今、最高に調子に乗ってるあの半神をな。そうすりゃああいつをぶちのめして釣り針を奪い、テ・フィティの心を悠々と取りに行ける。お前はその為の餌だ。もちろん、二重の意味でな」
マウイを倒したらお前も一緒にあの世に送ってやる。にやにやと笑うタマトアにモアナは叫んだ。
「そんなこと、させて堪るもんですか!!」
骨の隙間から出ようと伝って登ろうとするも、檻に叩きつけられたタマトアの鋏によって全身が痺れるほどの振動がモアナを襲った。成す術なくその場に蹲る彼女を見て、タマトアは更に笑みを深めた。
「大人しくしてろ。あんまり言う事聞かないとマウイが来る前に食っちまうぞ」
「タマトア……?」
聞き覚えのある高い声にタマトアは動きを止めた。振り返ると、入り口にコアが立っている。足元にきらきら輝く小石が散らばっていた。おそらく今日の土産に彼女が持って来たものだろう。目の前の光景に彼女の黒い瞳が驚愕で見開かれる。ただならぬ空気を感じ取ったのか、震える唇を開いた。
「なに、してるの……?」
「コア、来ちゃだ――」
「見て分からないか? こいつをダシにお前らの英雄を誘い出して捻り潰そうって訳だ」
「……モアナじゃなきゃ、だめなの?」
俯き、それだけ呟く彼女にただならぬものを感じたモアナとタマトア。そんな中、タマトアは冷静に思考を巡らせていた。最近になって時折、コアの様子がおかしくなる時がある。彼女がそうなる時は決まって村に帰った時が多かった。それどころか二人きりの時は殆ど無いと言ってもいい。しかし、今はモアナがいる。そこまで考えてある一つの結論に辿り着いた彼は口元に厭な笑みを浮かべた。こいつはモアナに何か後ろ暗いところがある!
「お前、この嬢ちゃんが気に入らないんだろ?」
「え?」
「私の質問に答えてよ、タマトア」
「おうおう。今日は随分ご機嫌ナナメだな。そんなに気になるか。ああ、もちろん。この嬢ちゃんでなけりゃあ、マウイは釣れねぇ。お前も分かりきってることだろ?」
「タマトア、あなた何を……?」
困惑しているモアナを置いて二人の話は進む。次第にコアの体はかたかたと震え始めた。
「海に選ばれた勇敢な航海士。テ・フィティの心を返し、お前の村に航海術を伝えた。その上、あの半神と厚い友情で結ばれてるときた。これだけで人質にするにゃ十分な〝価値〟がある」
タマトアは態と『価値』という部分を強調した。彼が辿り着いた結論。それはコアがモアナに劣等感を抱いているのではないかということだった。それも並々ならぬものを、だ。これがきっかけでこいつらが混乱し、友情にヒビが入る様を見るのはとても愉快だろうと思った彼は更に彼女の心を傷つけ、その迸る鮮血を見てみたいと追い打ちをかける。
「かち……」
「そうだ。一方で、お前はなんだ? いつも他人に迷惑をかけて生きてきたんだろ? この優秀な嬢ちゃんの手を煩わせて、他のやつらを困らせて。一体、お前は何の為に生きてるんだ? なぁ、教えてくれよ」
「タマトアやめて!! やめなさいっ!!」
態と真上から覗き込むようにしてタマトアはコアを見下げた。モアナの悲痛な叫びもへたり込んでしまった彼女には聞こえていないようだった。さきほどからずっとぶつぶつと何か呟いている。タマトアの読みは的中していた。こいつは『自分の価値』というものに敏感だ。啜り泣く声が聞こえる。見ると、コアの膝をぽたりぽたりと水滴が濡らした。
「わた、私、私は……」
「もういい! もういいのコア! 何もしゃべらず逃げて!! そいつの言うことに惑わされないで!!」
「だから……私は……あなたに食べてもらいたかった……」
重い沈黙が訪れた。顔を上げたコアの目からはぼろぼろと大粒の涙が溢れているが、彼女は意に介した様子も無くそのまま続けた。感情が削げ落ちたような表情の彼女に二人はただただ唖然としていた。
「モアナのことは、大好きだし、お姉ちゃんみたいに思ってる。だから……だから、私はどんどん霞んでみんなの記憶から消えちゃうの……。このままじゃ私、消えちゃうんだ……!! 消えていなくなっちゃうんだ!! 消え、消えちゃうくらいなら……」
「いっそ俺に食われて死んだ方がましだって? つまりはこうだ。お前は嬢ちゃんに物凄ーく劣等感を持ったまま生きてきた。第一の逃げ道はバカの振りをすることだった。バカを演じてれば誰もがお前から目を離さないし、いつも気にかけてもらえる。そして、嬢ちゃんがあの旅から帰って来た時、ただでさえ特別なものを持っていた嬢ちゃんはお前じゃ決して届かないところに行っちまった。お前は耐え切れなくなってラロタイに来た。嬢ちゃんから、果ては自分の無価値さから逃げる第二の逃げ道って訳だ。その先で都合良く魔物の俺に食われることで自分諸共、今までのことを無かったことにしたい。俺のことが好きだとか言っていたのも全ては自分の為だったって訳だな。前に両手を俺に差し出そうとしたのも、自分の感情は本物だと証明したかったんだろ。その為に俺を使おうと考えた。俺なら快く受け取ってくれるとでも思ったか? 生憎、そんな気持ちの悪いプレゼントはいらねぇ。俺を馬鹿にするのもいい加減にしろよ」
タマトアは自分でそう結論付けていくと、何かががらがらと音を立てて崩れていくような感覚を覚えた。しかし、それが何なのかは分からない。それと同時にコアにこれ以上無い怒りと憎しみが湧き上がってくる。いつもならこんなことくらいで怒る自分じゃない。何が起こっている? 込み上げてくるものに戸惑い、理解する前にタマトアはそれを吐き出した。気持ちが悪い。それもこれも全てこいつのせいだ!
「ちが……!」
「何が違うんだ? 卑怯者。お前は図々しくもこのタマトア様を利用しようとした。その罪は重いぞ」
怒りを露わにしたタマトアは爪先でコアを蹴り飛ばした。壁に叩きつけられ、擦り傷だらけで息も絶え絶えな様子の彼女を、まるで虫でも見るかのような表情でタマトアは尚も吐き捨てた。
「お前がいると目障りだ。もうここに来るな。金輪際な! お前の顔なんて一生見たかねぇ。お前みたいな奴、食う価値も無い」
ふらふらと立ち上がったコアは表情を歪め、堪らず出て行った。酷く傷ついた顔だった。初めて知ったコアの本心に衝撃を受けたモアナは、その小さな後ろ姿をただただ見送ることしかできなかった。
◆◇◆
卑怯者。お前の顔なんて見たくない。タマトアに言われた言葉が自分の中で反響している。コアは出口へ走りながらいつの間にか泣いていることに気付いた。傷が痛むのでは決して無い。自分の隠していた思いをよりによって好きな相手に悟られ、暴露されてしまった。彼を裏切った。モアナを置いてきてしまった。その事実だけが彼女の背に重く圧し掛かり、足を重くさせる。だが、止まることはできない。ラロタイの風景を目にしているとたまらなくなるのだ。それほどまでにここへは何度も訪れ、タマトアと過ごした時間は彼女の中で大きなものとなっていた。
地上へ戻っても高い空を見上げても、彼女の気持ちが晴れることは無かった。慰めにもならず、それどころか彼女の心を絞めつけるだけだった。浜辺に座り込み、荒れ狂う自分の感情と混乱、押し寄せる恐怖や悲しみに必死に耐えていると、彼女の頭上を大きな影が過った。見上げると、見覚えのある大鷹が旋回していた。変身したマウイだ。マウイは彼女の前に降り立つと人の姿に戻った。
「どうしたんだ? コア。こんなところで」
「マウイ……」
「モアナを見なかったか? あいつの船がここに流れ着いてたからてっきりコアに会いに行ってるもんだと……」
モアナの名前を聞くと、何かが溢れ出したコアはわっとその場に泣き崩れた。彼女の心を罪悪感と後悔が洪水のように飲み込んでいく。私はなんてことをしてしまったのだろう。あの時、何故すぐにモアナを助けなかった? 自分のことしか考えていなかったからだ。今頃、モアナはどうしているだろう。酷い目に遭っていないだろうか。マウイに彼女のことだけは伝えなければ。思いのままに口をついて言葉が溢れ出す。何とかまとめようとしたが、気が動転しているのかどうにも上手くいかない。
「マウイ! モアナが……! モアナが! 私、何にもできなくて……私、私……」
それ以上は言葉にならず、涙と嗚咽に消えていった。そんな彼女の肩に手を置いてマウイは優しく言葉をかけた。声を上げて泣き続ける彼女の背を大きな手で摩ってやる。その温かさが却って彼女を追い込み、胸を絞めつける。
「大丈夫だ、コア。落ち着いて話してみろ。モアナは俺が助ける」
マウイの優しい眼差しに諭され、コアはこくりと頷くと深呼吸をしてぽつりぽつりと今までの経緯を話し出した。その間マウイは言葉を挟むことなく、ただ頷いて話を聞いてくれた。話し終わって再び泣き出す彼女の頭を撫でて慰めると、マウイは厳しい表情で崖を見上げた。その目は覚悟に満ちている。コアの方へ振り返り、にっこりといつもの得意げな笑顔を浮かべた。
「お前はここで待ってな。心配ない。モアナと一緒に元気に帰って来るよ」
明るい歌でも歌ってな、気分が晴れるぞ。コアが少し笑ったのを見ると、マウイは釣り針を持ち直して再び大鷹に変身するとラロタイの入り口へ向かった。
◆◇◆
コアの姿が完全に見えなくなってふつふつと湧き上がってくる怒りに、モアナは身を任せた。未だ入り口の方を見ているタマトアを呼びつけ、骨の隙間からできる限り身を乗り出して叫んだ。
「あの子はあなたが思ってるほど弱くもないし、卑怯者なんかじゃない!! 卑怯なのはあなたの方じゃない! あの子の本心を引きずり出して好きなだけ責め立てて……!! 何も悪いことをしていないように振る舞って自分のことは棚に上げる!! 本物の卑怯者よ!!!」
「そうだ。今頃、気付いたか?」
振り向いたタマトアは凶悪で残忍な笑みを湛えていた。一瞬、どきりと戦慄したモアナだが、彼女は屈しなかった。
「あの子は本当にあなたのことが好きだったのに……」
「ほう? そりゃあ、光栄なことだ。まぁ、それも昔の話だがな」
骨に触れている手に力が込められる。タマトアのあんまりな言い草にモアナの怒りは頂点に達した。歯を食いしばってきっと彼を睨み上げる。
「心を、分からせてやらなきゃ。あなたには人間の心を理解してもらわなきゃダメよ!」
「ははは。何を言うかと思えば、訳の分からないことを――」
「おい、カニ玉。お喋りはそこまでにしといた方がいいぜ」
声のした方へ目を向けると、釣り針に寄り掛かったマウイが不敵な笑みを浮かべていた。その手にはモアナの船のオールもある。彼の姿にモアナは表情を輝かせた。
「マウイ! 丁度良いところに来てくれたわね! タマトアをテ・フィティのところへ連れて行きたいの!」
「はあっ!?」
「お? 話の分かる嬢ちゃんじゃねぇか」
「勘違いしないで。テ・フィティのところに行く目的は、あなたを人間にしてもらう為よ」
「人間!? おい、待て。冗談じゃねぇぞ。なんでそうなる!」
「とにかく今はここから出なくちゃ! マウイ!」
モアナが檻の天井を指すと、合点がいったマウイは気合の込もった雄叫びと共に飛び上り、釣り針で檻の天井を突き破った。ばらばらと骨の欠片が飛び散り、その中から大鷹に変身したマウイが飛び立った。その背にはオールを持ったモアナの姿もある。モアナに言われたことに暫し呆然としていたタマトアだが、二人が飛び立つ姿を見るとすぐに我に返ってその大鋏で捕まえようとした。それを読んでいたらしいマウイは器用にぎりぎりのところで躱しつつ、時折頭のみ鮫に変化したりして煽ってくる。
「ふざけるなよ! チビ半神!!」
「お前に言われたかねぇなぁ、能無しガニ」
頭に血が上り、鋏を振り上げたタマトアはふと動きを止めた。モアナの姿が無い。あの少女は腕力こそ無いものの、その分頭が働く。二度も同じ手は食わないとタマトアは辺りを捜し始めた。
「あら。何か探し物かしら?」
頭のすぐ後ろで声がした。がつん、という鈍い音と共に片目に衝撃が走る。音と感触からしてモアナのオールで眼球のすぐ下を叩かれたのだろう。神経が集中している目の周りを攻撃されては、いくら魔物の彼でも堪ったものではない。痛みに悶え、打たれた片目を鋏で押さえていると不意に足全体に紐のような物が絡みついてきた。そのままバランスを崩したタマトアの体はまたもやひっくり返ってしまう。もう片方の目で自分の体を見やると太いロープが巻かれて身動きを封じられていることが辛うじて分かった。
「痛ってぇ。やりやがったな!! 嬢ちゃん!」
「今よマウイ!」
モアナの合図でタマトアの体が引きずられる。見ると、ロープの先はマウイの釣り針に括られており、半神の腕力と釣り針の力で以って彼の体は入口へ一直線に向かっていた。甲羅に積まれているコレクションがまたしても音を立てて散らばっていく。今度は彼が引きずられた後に点々と残される形でだ。ああ、また集めんの面倒だな。こいつらが手伝ってくれたりしねぇかな。しねぇだろうな畜生。頭の片隅でどこか冷静に考えながらタマトアは抵抗するが、ロープが邪魔して思ったように動けない。もがくうちにあっという間に間欠泉の前まで引きずり出され、甲羅を打たれて噴出口に覆い被さる形になる。慌てて後退しようとしたタマトアだが、それより早く水が噴き出され、彼の体諸共三人は地上へ上がって行った。
目の前の海面が爆発した光景にコアは目を丸くし、固まっていた。飛沫が降りかかって来るも、そんなことは問題ではない。
「げほっ、げほっ。成功したの?」
「モアナ……?」
意外に近くでモアナの声がし、そちらへ目を向けると咳き込んでいるモアナとマウイ。その後ろには、幾重にもロープが絡まったタマトアの姿があった。その光景に呆然と立ち尽くしていると、タマトアの怒号が辺りに轟いた。
「お前ら、いい加減にしろよ!! 今度という今度は……!!」
「コア!」
「っておいっ! 無視するな!」
駆け寄って来て抱き付いてきたモアナをそのまま受け止め、コアは目をぱちくりして二人と一匹の顔をそれぞれ見つめた。どういうことか訳を聞こうと口を開きかけるコアを遮って、彼女と目を合わせ、髪を撫でつけるモアナが先に口を開いた。
「コア、タマトアを人間にしてもらうわよ!」
「……ええっ!? ど、どういう、こと……?」
思わずマウイとタマトアにも視線を送るコアだが、マウイには肩を竦められ、タマトアには威嚇されてしまった。もう一度モアナへ視線を戻そうとするも、いつの間にか彼女は自分の船をこちらに回してきていた。
「私とコアの船をくっつければ何とか引っ張っていけるんじゃないかしら?」
「あ、え……あの、モアナ。私も、行っていい、の?」
「もちろんよ! それにあなた達、まだ仲直りしてないでしょ」
そう言ってタマトアとコアをそれぞれ見やるモアナと気まずそうに目を逸らすコア、やさぐれた態度のタマトア。そんな彼女に手伝うよう背中を押し、モアナ、マウイ、コアの三人は二隻の船をロープで繋げる作業に移る。最後にマウイが船上でジャンプしてロープの耐久性を見る。親指を立ててOKのサインをもらうと、今度はタマトアのロープを何本か船に結ぶ。ーー何度も逃げようとしたので終始マウイに押さえ込まれていたーー万一のことを考えて最小限の数に抑えた。
「これ俺がお前らを引っ張って行った方が速いだろ」
「まぁな。でも、お前は信用できないからな」
大人しくしとけ、と念を押してくるマウイにタマトアはこれ見よがしに舌打ちしてみせた。それに得意気に鼻を鳴らすマウイ。そんなことをしているうちに出航準備が整い、モアナが声をかける。
「マウイ、こっちは準備できたわよ」
「よし。じゃあ、行くか。テ・フィティへ!」
「まさか、こいつらと直々に女神の御前に出向くことになるとはな……」
誰にともなく独りごちるタマトアはちらりとコアを一瞥すると、目を逸らした。コアもすぐ傍にいるタマトアが気になるのか気まずそうにしながらも、時折ちらりと振り返ってはすぐ前を向くを繰り返している。それに気付いたモアナは密かにマウイに教えると、くすくすと笑い合った。この二人、実に似ている。
「コア、傷を見せて。応急処置だけど、手当するから」
二人が仲直りをするのはもう少し時間がかかる。そう踏んだモアナはまずは彼女の傷を治し、落ち着かせようと声をかけた。素直に傍に寄って来る彼女を座らせ、海に足を入れさせると、モアナは海水を掬って彼女の傷口にかけてやる。傷に海水が沁みるらしく、顔を少し歪ませる彼女の様子を窺いながらモアナは水をかけていく。
「痛かったら言ってね、コア」
「……うん。……あの、モアナ」
「うん? なに?」
「………………」
「大丈夫よ、コア。言いたくなったらでいいの」
彼女が何か言いたがっていることはモアナも分かっていたが、どうにも言い出せない様子に優しく声をかけて頭を撫でてやる。そうすると、いつもなら気持ち良さそうに目を細める彼女だが、今回は悲しげな顔で頷いただけだった。タマトアに言われたことが当たらずも遠からずといったところらしい。傷が癒えるのはもう少しかかるだろうと思い、モアナは話題を変えようと空を仰いだ。