空白の怪物ちょうど前を通りかかろうとした時食堂の扉が開き、中からコンバットブーツの踵を床に叩き付けるような足音を響かせながらエコーが出てきた。相手の顔を見るまでは半身で避けるつもりでいたのだがエコーの余りの剣幕に思わず淀みなかった歩調を緩めてしまう。
余計な反応をしたことで切れ長の目がじろりとこちらを睨み付ける。視線と言わず表情と言わず、全身から不機嫌さが滲み出ているエコーに対しこれ以上逆撫ですまいとリージョンは軽く肩を竦めて見せた。
「……、」
苛立たしげに小さく鼻を鳴らし、エコーは何も言わず対峙したリージョンを大きく避けてすれ違うと荒々しい歩調で廊下を歩いていった。暫く聴覚のみで気配を追っていたが、それも出来なくなって漸くリージョンはゆったりと歩みを再開させる。好奇心から今し方彼が出てきた食堂を覗き込んだ先でいくつかの見知った顔と目が合った。軽い口調で挨拶しながら室内へ入ってきたリージョンに、彼らも苦笑しながら応える。
「喧嘩か?」
親指で出口を指し手短に問うと一番近くに座っていたヒバナが首を振った。
「違うわ。そんなに深刻な話じゃないの」
「エコーの癇癪だ。いつものことさ」
ヒバナの言葉を引き継ぐように、テーブルに腰掛け腕を組んだ体勢でテルミットが述べる。
「へえ……?」
相槌を打ちながら任務や訓練でエコーとチームを組んだ時の様子を思い返す。最低限情報伝達の為の連絡はしていたが彼の人となりを推察するに足る会話はしたことがなかった。たまに他隊員に対し斜に構えたような言動をしていたような気がするが記憶は曖昧だ。しかしあそこまで直情型の男だったとは。
先程間近で見たエコーの触れれば火花の散りそうな苛烈な表情を思い出す。白目は充血し、つり上がった目尻も色を刷いたように赤く染まっていた。
「ストレスを溜め込むのよ、彼。それが些細なことで一気に爆発しちゃうみたい。しばらくしたら落ち着くから大丈夫」
エコーとの付き合いが長いだけあって、ヒバナは冷静に一口コーヒーを啜ってそう言った。
「割を食うのは周りに居る俺たちだぜ。ああいう時のエコーは何がきっかけでキレるか分かんねえから地雷原歩いてる気分になる」
辟易とした顔で舌を出すスモークが今回地雷を踏み抜いた張本人のようだ。
「ふうん、難儀なもんだな」
他にはない優れた技術を考案し更にそれを望む形で実現することのできる類まれな頭脳を持った男は、随分と不器用な生き方をしているらしい。
エコーは普段詰めている研究室のある棟の中の、研究室とは真反対に位置する場所に居た。施設の端の窓辺に設けられた休憩スペースにはベンチと灰皿が備え付けてあるだけで、ベンチも窓から差し込む日光で焼けて色褪せている。
もっと便利の良い場所にここより新しく設備も整った休憩所がある為この休憩スペースをわざわざ利用する者も少ない。例えば人気を避けたいと思っている者が選ぶにはうってつけの場所だろう。
足音も気配も隠さず近付くが、年季の入ったベンチに腰掛け項垂れた顔はこちらを見もしない。力なく投げ出された指の先には煙草が挟まれていたが火は付いていなかった。
「煙草はやめておけ。余計眠れなくなるぞ」
声を掛けると煙草と指先がぴくりと跳ねる。弛緩していた空気がじわじわと張り詰めていく気配にはわざと気付かない振りをして、野生動物と距離を詰める時のようにゆっくりと歩みを進めた。
「薬もその場しのぎにしかならない。頼り過ぎればそのうち薬なしじゃ眠れなくなる」
「……わざわざくだらない説教でもしにきたのか」
床を這って足元から響くような低い声は酷く掠れて聞こえた。ふつふつと、未だ熱を失わない怒りが彼の中で煮え滾る音さえ聞こえる気がする。顔が僅かに持ち上がり、些細なきっかけ一つで爆発してしまいそうな危うさを内包した視線が正面に立ったリージョンを下から鋭く睨み付けてきた。敵意と言って過言ではない拒絶の色を帯びた視線を静かに受け止める。
どうにも、彼の苛立ちは外的要因ばかりではなく思い通りにコントロール出来ない己の感情に対するもどかしさも少なからず含まれているようだった。眼前に問題は既に提示されているにも関わらず適切な解が見付からない焦燥が、苛立ちとなって表面化している。
既にエコーの機嫌は爆発まで秒読みの段階にまで降下しており、ちょっとでも迂闊な事を言おうものなら食堂の時の二の舞になるのは目に見えていた。だがエコーの異変に気付いてしまった以上、その異変が部隊の調和を乱すというのならば無視はできない。
リージョンはエコーの苛烈な感情に自分が引き摺られないよう、緩慢に瞬きをした後徐ろに口を開いた。
「オーバーヒートした銃を使い続けると何が起こる?」
余りに突拍子のない問いであった為か、一瞬だけエコーの顔から怒りが消えた。ぽかんとした表情は次いで目の前に立つ男を訝しむものへと変わり、エコーはこちらの真意を見透かすようにうっすらと目を眇める。
「藪から棒に、何の話だ」
「なんだ知らんのか」
問い返す言葉尻に被せるようにして挑発すると、鬱陶しさをありありと表情に浮べながら溜め息混じりに問いの答えを口にした。
「……砲弾発射時に発生する熱が、運用想定範囲の温度を超過したり何らかの原因で砲身冷却システムがうまく作動しなかった場合、過熱によって銃砲身の強度や射撃制度の低下、砲身そのものの摩耗が早まるなどの影響が出る。砲身がかなりの高温になることで最悪の場合、腔発やコックオフが起こり使用者や周囲に危険が及ぶ」
教科書を読み上げるような機械的で淡々とした声で一息に述べ、エコーが立ち上がろうという素振りを見せた為その鼻先に手を翳し行動を阻害する。
「なんだよ、答えただろ」
「まだ話の途中だ」
「これ以上何話すって言うんだ。正論撫で擦るだけの説教なんかもうたくさんだし、長話に付き合ってられるほど俺は暇じゃない」
突き放すように冷たく言いつつも、エコーはリージョンを押し退けてまでこの場を去ろうとはしなかった。あくまでこちらが自分を解放する意思を見せるのを待っている。無意識に従順な行動と辛辣な発言の矛盾は何処か彼を不安定で脆く見せる。
そこまで考えて地雷原と知りながらもエコーと関わることを止めない面々の顔を思い出し、嗚呼成程とリージョンは声には出さず一人得心した。
警戒しつつもこちらを気にしている野良猫を皆構わずには居れないわけだ。
「次の問題だ。オーバーヒートを回避するためにやるべきことは?」
エコーの言葉を丸切り無視して次の問いを投げ付ける。特大の溜め息が休憩スペースの空気を揺らした。
「いつまでやる気だ」
明確に答えず肩を竦めるリージョンを諦念の混ざった目で眺め、やはり大人しく問いに答える気のようで記憶を探る為にか視線が下方へ逸れる。
「銃身を冷却する、或いは一定時間で予備と取り替えて休ませる」
「做得好」
広東語が耳慣れなかった為かエコーは無言で片眉を持ち上げる。眉間には皺が寄りっぱなしで、その内取れなくなりそうだなと深く刻まれた縦線を見ながら思った。
「まあ常識だな。でだ、問題はそれが今どこで起こってるのかっていうことだ」
「はあ?」
怪訝な顔をするエコーの、前髪で半分程隠れた額にリージョンは前触れなく触れた。びくりと眼下にある肩が小さく跳ねて強ばる。接触は数秒に満たず、驚きから立ち直ったエコーに振り払われるより一瞬早く手を引っ込めた。エコーの額に触れていた手を、試しに自分の額にも当ててみる。比べてみると瞭然で、先に触れたエコーの方が明らかに体温が高かった。
「――微熱だな。いつからだ?」
「……、」
「答えたくないならいい。まあ、もう言うまでもないだろうが、オーバーヒートした銃ってのはお前自身のことだ。適度に休むことを覚えろ、過熱した銃を使い続ければ待ってる結末は腔発かコックオフだ。分かるな?」
子供に言い聞かせるようなリージョンの口調にエコーはまた俄に眦を釣り上げ、恐らく高ぶる感情をそのまま言葉として吐き出そうとした。しかし直前になって彼の気力は唐突に途切れ、色のない唇から感情の塊が放たれることはついぞなかった。エコーは忌々しげに、舌の上に乗ることのなかった言葉を投げ捨てるように顔ごと視線を逸らす。
疲れ切った老人のように背を屈め、俯けた顔を両の掌で覆う。手と手の隙間から細く頼りない溜め息が漏れ聞こえた。
「やることは山積みだろうがまずは寝ろ。そうした方が効率がいいこともある」
「……ない」
安易な同情や心配は彼の神経を良くない方向に粟立たせるのだろう。出来る限り平坦に聞こえるよう注意を払いながら投げかけた言葉に対し、手の平で覆われた向こうから不明瞭で弱々しい声が返ってきた。聞き漏らさないよう、リージョンはエコーの前にしゃがみこみ顔を近付ける。
「眠れないんだ」
「脳の酷使で覚醒状態が続いてるだけだ。何も考えずに、目を閉じてじっとしてれば嫌でも寝れる」
「無理だ、できない」
細い手指の隙間から黒瞳が覗く。白目は充血し、目の下には薄く隈も出来ている。感情の発露が去るとその顔色はただただ青白い。
「いいやできる。頭が忘れても体はそう簡単には忘れない」
口角の片方だけで笑い、リージョンは目を閉じることすら拒むエコーの両目を手の平で塞いだ。触れたそこは額同様慢性的に熱を帯びていて、特別体温が低い訳でもないリージョンの手の平はその過度な熱を僅かに奪い取る。
「何も考えるな、ゆっくり息をすることだけに集中するんだ」
リージョンの手を振り払う事すら忘れて、エコーは怯えた子供のように小さく首を振る。
「なにも、考えないなんてできない、そんなこと、俺には」
リージョン、と喉の奥から絞り出すような声で名を呼ばれた。
今明確に彼の方から縋られたのだと、額や目元とは対照的にひんやりとした手で彼の視界を覆う掌から続く手首を弱く掴まれた時になって漸く気付く。
こんな、よくも知らない男に縋る他ない程に弱った状態で、それでもエコーは自身に休息を与えることを良しとはしなかった。目を閉じ頭を休めれば途端に思考の空白に棲む怪物が鎌首を擡げ、自分を捕え噛み砕き跡形もなく飲み込んでしまうのだと頑なに信じている。
彼の思考を苗床に、彼の半生を餌にして肥え太ったそれを取り除くことはリージョンには出来ない。きっと誰にも不可能だろう。
だが出来ることもある。幸い、リージョンは寝床の下にいるおばけが怖いと怯えて泣く子供を寝かしつけるのは昔から得意だった。
「お前の故郷に綺麗な湖はあるか?」
二転三転する話題について来れず困惑する様が手の平越しに伝わってくる。どうなんだ、と促すと少しの間の後短く肯定が返ってきた。
「実際に行ったことは」
「……小さな頃に一度だけ。家族とキャンプをしに」
僅かな逡巡の後吐き出された家族、という言葉が乾いているように感じ、リージョンはそこに触れることを止めた。
「そうか、キャンプはいいな。心も体も解き放たれた気分になる。湖で釣りをしたり、ハンモックで昼寝をしたり」
「ハンモックは……あんまり」
「そうか?」
「振り落とされるから……」
当時のことを思い出しているのか、訥々と呟く声はリージョンの耳に幼く響く。
「はは、そうか。じゃあ釣りだな。ボートに乗ってのんびり釣り糸を垂らして待つ」
話を続けながら慎重に体勢を変え、目を塞いだ男の首の裏側に反対の手を当てる。さすがに警戒されるかと思ったが、急所に触れられたことへの反応は酷く鈍かった。
「湖の水は澄んでいたか?」
「……ああ、魚の影がよく見えた。空が反射して、真っ青で、魚が空を飛んでいるみたいで」
「そりゃいい。釣りに飽きたら、そのまま寝転がって空を見ながら昼寝するのも悪くない」
ゆっくりと強制的にならないように、顔に当てた手に力を込めて前傾していた姿勢を後ろへ押し戻す。背もたれに重心が移ったことを確認し、首の後ろに回していた手で強張りの残る肩を摩る。何度か続けていると徐々にではあるがエコーの体から余分な力が抜けていくのが分かった。
余りに容易くこちらへ体を預けてくる姿が痛ましくて、リージョンはエコーを安心させる声色は変えないまま眉を顰める。こんな自傷じみた方法でしか彼は自衛出来なかったのだろう。恐らく血の繋がった家族ですら、彼の寄る辺になり得なかった。
「そこはいいところだな、なにも考えずに休むには持ってこいの場所だ」
「……、…」
エコーの唇が微かに動き何か言おうとしたようだが言葉は形にならず、リージョンもわざわざ聞き返すことはしなかった。リージョンに縋っていた手は力を失いだらりと投げ出されている。
エコーの呼吸が深く規則的なものに変化した頃合を見計らってそっと手を退けても、その向こうの瞼は閉ざされたままだった。音を立てないように、敵に忍び寄る時と同様に慎重な動きで距離を取る。
本来なら寝室や医務室等の然るべき場所で横になって眠るのが最良なのだろうが、睡眠という行為に対し極度に緊張している今の彼が『眠るための場所』でそれをするのは難しいだろう。漸く意識を眠りへと落とせたのだ。今更起こして移動させるのも酷に思え、リージョンは暫くの間傍からあどけなさすら滲む無防備な寝顔を眺めていた。
件の出来事の後エコーと何らかの形で関わる機会は巡ってこず、ひと月程経った今も尚結局彼の不眠が解消されたのかどうかリージョンは知らないままだ。
彼が倒れただとかまた誰かと衝突しトラブルを起こしただとか、彼に起因する不穏な噂は聞かない為上手く自分自身と折り合いを付けることが出来たということなのだと思うことにしている。安らかな眠りとまでは行かずとも、最低限疲労を取る為の休息位は自発的に出来るようになっているといいのだが。
そんなことを考えながら歩いていると、廊下の向こうから思考の渦中にいる人物が歩いてきて思わず足を止める。間もなくあちらもリージョンに気付き、ぱちりと目を瞬かせると小走りにこちらへ駆け寄ってきた。
何か用向きでもあるのかと軽く手を上げて挨拶するリージョンに対し、エコーは挨拶もそこそこに開口一番問いを投げかけてきた。
「あんたの手は魔法の手か何かなのか?」
「何だって?」
無駄な前置きのない単刀直入さは嫌いではないが、問いの内容が予測不能過ぎて少々面食らう。いつかとは逆の立場だと思いながら視線を見返しているとエコーは自分の突拍子のない発言を自覚してか居心地悪そうに身動ぎした。
「いやその、あの時、特別なことはされた記憶がないのに不思議と眠ることが出来たから……何か秘訣があるのかと」
「ああ成程」
エコーの認識通り、あの休憩所でリージョンは何も特別なことはしていない。エコーが眠ることが出来たのは魔法の手のお陰でも何でもなく、彼がその程度で眠れてしまう程に限界まで追い詰められていて、尚且つ状況がそれを許したというだけのことだ。
もしあそこが医務室なり仮眠室だったり、或いは他の隊員のいる食堂だったりしたならエコーはあそこまでリージョンに対し心身を明け渡す真似はしなかっただろう。人気がなく、誰もくる気配のない休憩所で、お互い特別親しくもない間柄だったからあの結果に行き着いたのだ。
「別に秘訣なんかないさ。少しばかり寝かしつけるのが得意なだけだ」
あの時のエコーなら間髪入れず怒っていたであろう言葉を返すと、彼は思わずといった様子で溜め息に似た笑みを零した。皮肉の色のない、限りなく彼の素に近いと思しき笑い方一つ取っても不器用さが滲む。笑うと目尻に皺が寄り、彼の印象をぐっと柔らかなものに見せた。
そういう顔を普段から他でもよく見せれば何事ももっと円滑に進むだろうに、と視線より少し上にある顔を眺めながら思うが言葉にはしなかった。こちらが口を出すことではない。
「ちょっとは眠れるようになったみたいだな」
前回会った時よりも人間味のある血色を取り戻した顔色を見やり、リージョンは鷹揚に頷く。
「おかげさまで」
「それは重畳。また眠れなくなったら俺のところに来い。あんな方法で良ければ寝かしつけてやるぞ」
なんてな、冗談だ。子供扱いして悪かったよ、そう続く筈だった言葉は、想定外に嬉しそうな顔をするエコーと目が合ってしまったことにより喉の奥に引っ掛かって出て行き損ねた。
「ほんとうか?またしてくれるのか」
しかしリージョンの表情を見て自身の早合点を悟ったらしいエコーは体ごと表情を強張らせ、うろうろと分かりやすく瞳を揺らした。
「あ……、ええと、悪い、早とちりしてしまった。昔から、冗談とか建前の区別がつかなくて……すまない、今のは忘れてくれ」
ともすれば考案される作戦が狡猾とすら評される男が自分の表情一つで酷く取り乱す姿を見る内、リージョンは腹の底の方に馴染みのない感覚が湧き上がるのを感じた。腑を掻き分け胃の裏側を這い上がり、脳裏に到達したそれはリージョンの思考に耳打ちしてくる。
この男は他でもない自分にだけ心の内の取り分け脆い部分を見せているのだ。求めるものを与えてやれば、彼はすっかりこちらに身を預けてくることだろう。これまで仲間の誰も――もしかすれば彼の人生の中でただの一人も――勝ち取ることの出来なかった彼からの信頼を、拠り所としての立ち位置を揺るぎないものにすることが出来る。
その優越が欲しくはないか、独占の悦楽に浸りたくはないか。
その声はリージョンの思考に酷く甘く響いた。
「別にいいぞ、お前さんがそれで眠れるってんなら。その程度構わんさ」
脳裏で何を考えているか等おくびにも出さず軽い口調を意識して告げると、エコーは強ばらせていた表情を安堵に緩めて息を吐いた。その顔を見て腹の底の声が満足そうに唸る。
――かわいそうに。
頭の中の理性を持つ部分が彼を憐れむ。不器用な生き方しか出来ない男への憐憫ではなく、己の広げた罠の中に誘われ自ら足を踏み入れてしまった獲物の悲劇をリージョンはどこか他人事のように憐れんだ。
かわいそうに、もう逃がしてはやれんだろうな。