副官くんの憂鬱
空の英雄、神の目を持つ男と派手な二つ名を持つ上官が引退して二ヶ月。様子はどうだと部下らにせっつかれ、手土産を持たされ、(果物カゴだぞ重いわお前ら)とぼやきながら元上官の住まいを訪れたラケシュは、盛大にため息をついた。
もちろん事前に連絡を取り都合を合わせた。在籍中に緊急その他用で預けられた合鍵は、セキュリティ意識の低い最後の指示「そのまま持ってていいよ」により、確かに手元にある。それにしても「鍵持ってんじゃん?留守でもいいから勝手に入ってていいよ」はないのではなかろうか。
3度目の呼び鈴で、モバイルにメッセージの着信。上官そのひとではなく現在の同居人、元・海軍少佐殿からだ。
『連絡が遅くなってすまない。今動けないのだけど、家にはいるから、入ってきてください』
真っ最中じゃないだろうなと光の消えた目で思ったが、あのまじめな少佐殿がそんな状況で返事をする、させるとは思えないし、最悪うちの上官…元上官が代わりに打ったなら分かる、と実に虚しい推測の元、握りしめたままぬるくなった鍵を差し込んだ。
「何やってんです」
「ひるね」
「へえ」
「いーでしょ」
「はあ」
「貸したげないからね!」
「不要です」
重い果物カゴをサイドテーブルに置いて、ラケシュは二人を振り返った。
3人がけソファに並外れた長身を横たえた元海軍少佐がすまなさそうに見上げ、表情で謝罪してくる。それには丁寧に会釈で返したが、彼の上にべったり重なって、樹上で昼寝中の猛獣よろしく体重を預けている元上官とは先程の会話だ。
どうぞ、掛けてと向かいの1人掛けを勧められ、ゆっくり腰を下ろす。はあ、とため息が出た理由はいくつもある。
「大佐、起きて下さい。お茶を淹れますから」
「えー。いいよ、お前お水でも飲んでて」
「親しき中にも礼儀あり、ですよ。さあ」
「んー」
有事にはあれほど頼もしかった上官が見る影もない。ただのダメ男…もしくは子供だ。それを増長させているのがこの、私生活においても有望有能な元海軍少佐殿というのは頭の痛いところであるが。
しぶしぶ同居人の上から身を剥がし、席を立つついでにクッションを与えられ抱える。そのままふかっ、と顔を埋めてどんどん斜めになって結局ソファに横たわってしまった。
「ねてもねてもねむい」
「そのまま基地のみんなに伝えますよ」
「やだ。かっこよかったって言っといて」
「虚偽の報告は懲罰対象ですので」
「ねむいのは、『体が疲れを認識出来始めたということなんですよ』って雄牛ちゃんが言ってたもん」
おれ、つかれてたんだなーとクッションの向こうから声がする。甘やかされすぎて退行してるじゃないか、と大変率直な意見を抱いた有能な副官だが、確かに、こんなに警戒心なくゆるゆるの姿を見られたのは初めてだとも思っていた。
自分が知っている彼が無防備に近い姿を見せたのは、無茶をした後の点滴中だとか、倒れる寸前の気力だけで歩いてる時だけだったのだ。
それを思えば。
まあ、いいか。
「お待たせ。チャイをどうぞ」
丁寧な暮らしのプロが、チャイだけでなく持参した果物を実に美しくカットし、垢抜けた皿に華やかに盛り付けて持ってきてくれた。なぜ人間は足して割れないのであろうと、ラケシュは何度目かの虚しさを味わう。
「大佐も起きて食べましょう」
あーんはするなよ!?と思ったが遅かった。大佐がねだるより早く少佐が、ほら、起きてあーんしてくださいと言ってしまった。
「甘やかしすぎでは」
「そうかな」
自覚がないのか!?
「子供ではないのですから」
「どうにも、つい構ってしまうんだよ。…おいやですか?」
「んーん」
出来る限りの忠告も、この甘やかし魔人には効かなかった。恐ろしく整った顔で愛しそうにはにかまれてしまっては黙るしかない。これからは海軍少佐殿ではない、甘やかし魔人とお呼びしようと決意を固めた現役空軍は、これ以上目の前でいちゃつかれては敵わないと退散することにした。
「ラケーシュ!」
玄関の扉に手をかけたところで後ろから張りのある声で…懐かしささえ感じる上官の声で呼ばれた。
「は」
「お前も皆も元気そうでよかった。体に気をつけ、よく飛べと伝えてくれ」
先程までとは打って変わった凛々しさと、あの、人を魅了する笑顔がそこにあった。
「英雄なんてな、追い越してなんぼだぞ」
「伝えます」
「ああ。…信じている」
万感。
ああ、これをいつも聞いていた。
この声で、信頼を告げられて、応えないなんて、ない。
「全力を尽くします」
敬礼し、くるりと背を向けた。感動で潤んだ目など見せられない。
「絶対からかわれるからな」
言いながら、顔が綻んでいるのを自覚する。
来た時とは逆に、副官の心は軽く、晴れやかだった。