世界の果てとふたり旅
玄関を出て「おお、さむ」と兄が呟くのを聞きながら、膝丸も肩を震わせた。ちょっとした祭のような騒々しさを引き連れ訪れた年明けは、夜明け前にはいつもの静寂を取り戻していた。まだ空に星が光るのを見てから、膝丸は車に乗り込んだ。髭切は既に助手席に納まって、身体を縮こめている。
暖房を全開にして、車を出す。走るうちに、小さくなっていた兄も普段のゆったりした佇まいを取り戻した。
「まだまだ暗いね」
「ああ。さっき、まだ星が見えていた」
途中コンビニに寄ってコーヒーでも買おう、と言うと、髭切は頷いた。兄がどうやら楽しんでいるらしいことを感じ取って、膝丸も嬉しくなった。
初日の出を見にいこうと誘ったのは膝丸だった。いつかふたりで星を見上げた海が、初日の出も見られる場所だと知り、それなら兄と行きたいと思ったからだ。
この街にふたりで移り住んでから三年が経つ。三度目の年越しを前にしてこれまでとは違う誘いを受けた兄は、どこか落ち着かないように見える。兄なりにはしゃいでいるのを、膝丸は微笑ましく思っている。もっともそれは、自分もはしゃいでいるからかもしれない。
兄弟ふたりでの暮らしは静かなまま、時を積み重ねている。この間に、髭切と膝丸は互いの仕事仲間の顔も知ったし、新しく知り合いも得た。ふたりの暮らしはこの土地に馴染み、深く根を張りつつある。
「――静かだと思ったけど、結構車が走っているね」
「ああ。皆同じことを考えるらしいな」
「あの海は、初日の出を見る名所なのかい?」
「どうだろう。俺も聞いただけだからな」
頭の隅で、目的を同じくする車がこれだけ出ているなら時間に余裕があるだろう、と考えながら、膝丸は時計を見る。出発前に調べた日の出時刻は七時を過ぎる頃だった。少し時間を持て余すくらいの到着になるかもしれない。
「……コーヒーだけではなく、軽い食べ物も買った方がよさそうだ」
「おや」
「どうも早く着きそうだ、外に出る前に車でつまんでおこう」
「いいね」
髭切の笑った気配がする。コンビニで細々した菓子を物色するのが好きな兄だから、何を買うかは兄に任せようと算段をつけながら、膝丸はハンドルを切る。買い過ぎないように注意した方がいいかもしれない。
「ねぇ、弟よ」
「なんだ、兄者」
兄が何かねだるときの声色だった。視線を一瞬助手席に向けると、兄はゆったりとシートにもたれさせた身体の、顔だけを膝丸に向けていた。
「日の出を見た後も、少しドライブしないか」
「それはいいが……」
「なんだい?」
「いや、意外に思えてな。いつも、家で過ごすだろう」
「そうだね。うん、家もいいよ。だけど」
ちょうど赤信号に捕まった。膝丸はもう一度視線だけを助手席に向けると、髭切の顔は前を向いていた。視線の先にあるのは、何の変哲もない道のはずだ。けれども、膝丸が兄と共に進んでいこうとしている道でもあった。
「今までは、挨拶回りも何もしなくていい正月というのが割と落ち着かなくて大人しくしていたんだけど、好きに時間が使えるなら、お前とどんどん新しいことをやっていきたいと思ってね」
この人が世界の中心であり、同時に果てだと、膝丸はいつも思っている。辿り着きたい場所はいつだってここだった。だから、今さらどこにも行かなくていい。そして、兄が一緒なら、どこへ行ってもいいのだ。
信号は青に変わった。膝丸は静かに、車を滑り出させた。
「いいな、なら、行き先はあなたが決めてくれ」
絞り出した声は震えていた。何故だか愉快な気分で、笑ってしまったからだ。
「そうだね。どこでもいいのだけど」
「うむ、どこでも、どこまでも行こう」
「うんうん、一緒に、ね」
「ああ。今年も、来年も、その先もずっと」
膝丸の言葉に、髭切が楽しそうに声をあげた。
「そりゃ、僕とお前はどこまでも一緒だけれど」
来年の話なんてしたら鬼が笑うよ、と兄は笑った。