漣の夜
潮騒ばかりが耳に入る。
明かりもつけない部屋で、清光は聞き慣れたその音を追っていた。茹だった鍋の底のような空気で刀たちを苦しめた季節は終わろうとしている。今夜は窓から涼しい風が入って、それに乗って近くの浜に打ち寄せる波の音が届くのだった。
この本丸は片手では足りない数の夏を超えてきた。刀たちは毎日すぐそばにある海を目にして、波音を聞き、潮風で錆びない身体にも慣れていた。
明かりもつけない、というのは清光の部屋に備え付けられている照明についてであって、光源はひとつ、清光の前に用意されていた。こんな時間に訪ねてきた則宗の持ってきた一本の蝋燭だった。
その蝋燭の向こうで、則宗も波音に耳を傾けているらしい。窓からの風に蝋燭の火が震え、壁や天井に這いつくばるように伸びた則宗の影も揺れていた。淡い色の髪は赤い火を受けて濃く輝いている。来客のために用意してある椅子に腰掛けた姿は寛いでいるように見える。
いつも持っている扇子でゆったりと自分を煽ぎながら、何が見えるわけでもない窓を眺める横顔に、そろそろ眠ろうとしていた清光の頭はすっかり冴えてしまった。訪ねておきながら何も話さない則宗に焦れる気持ちがあるのは事実だが、それを責めるのは野暮にも思えた。招き入れたのは自分で、言葉もなく暗い部屋でいつもと違う色に映る髪を見つめるのも悪くなかった。
長い睫毛が下りて、また持ち上げられるのを、数えていたわけではないが結構な時間眺めていたように思う。微かに揺れていた則宗の前髪が動かなくなった。煽ぐのをやめたのだ。
「ここの夏はいつもこうやって終わるのか?」
随分と曖昧な問いだったが、清光はそこについては何も言わなかった。
「そーね、夜が涼しくなって、虫の声が聞こえて、そうしたら短い秋が来るよ。ま、まだしばらく昼間は暑いだろうけど」
「そうか」
大体、夜に訪ねてくるのに蝋燭一本を頼りにだなんて、それ自体が不思議なのだ。もっと明るい光を出す道具は本丸にある。こうして心許なく揺れて、消えないように気を遣う明かりを持ち歩くこともないのだ。
「暑さには参ったが、夏というのも楽しいものだな」
「そ。よかったじゃん」
「ああ」
ようやく開かれた口で語る言葉が穏やかなのに、清光は少し安堵していた。
「何が楽しかった? いろいろやったでしょ。西瓜割り、流し素麺、花火、怪談会……」
「どれも楽しかった。はしゃぐような歳ではないんだがなぁ」
「それはここにいる奴ら皆そうでしょ」
清光の軽口に笑うと、則宗は改めるように清光の目を見つめた。いつも凪いだ水面のように薄い色をした瞳は暗い部屋の中では色そのものがないように映って、そこに蝋燭の火の赤さが浮かんでいた。
「今夜は、やり損ねたことがあると思ってお前さんのところへ来た」
「へぇ? 怪談会の続きでもしにきたわけ?」
わざわざ蝋燭まで用意して、と清光が顎で示したのに、則宗は喉を鳴らすように笑った。震える身体の向こうで、実物より大きく広がった影も蠢いた。
「そういうわけじゃあない。だが、ある意味怖い話かもしれない」
蝋燭は随分と短くなってしまっている。部屋には蝋の溶ける匂いが満ちて、夜風を入れるために開けた窓だけでは匂いを逃せそうになかった。
それでいて清光は窓を閉めたくなっていた。今から則宗が話すのを、潮騒に邪魔されたくない。そして誰にも聞かせたくない。自分以外の、何物にも。
しかし則宗は待ってくれなかった。
「お前さんを口説き損ねていた」
光を細く返す睫毛の間で細められた目、そこに映る火が滑ったようにも見えた。そこまで見えてしまって、無視はできない。
そもそも招き入れたのは自分だ。分かっていた。
「……ぜんっぜん怖くないし、いつ来るのかと思ってた」
清光の減らず口に、則宗の笑みが愛嬌のあるものになった。燃え尽きようとする蝋燭の火の中でも、真昼の日の下で見る笑みと変わらなかった。
風に波の立つように、今、確かにふたりの間で動くものがある。
則宗が近付いてくるわずかな時間を清光は動かずに待った。窓を閉める時間はあるだろうか。さすがに涼しくなったとはいっても、閉め切ってしまうと暑いが——頬に手が触れたから、そこまでだった。
火が消えた。