捨て石
窓の外からさあさあと聞こえてきたのに気づいて、髭切は盤面から顔を上げた。薄暗さはそのままに、とうとう雨が降り出したらしい。空は朝から雲に覆われていたから、やっとという心持ちでもあった。
「この明るさならば、すぐ止むだろう」
向かいに座る弟は髭切とは対照に盤面から目を上げず、ひとりごとのように言った。しかしその言葉が髭切に向けられているのは明らかだったので、髭切は微かに笑うと、ゆるりと視線を盤上に戻した。
ふたりの間の勝負はまだ序盤、それぞれが思い思いに布石を打っている状態である。
「洗濯物とかは大丈夫かな」
「朝からこうだっただろう、外には何も出しておるまい」
「それもそうだね」
膝丸は自分の碁笥から黒石を取り出し、盤に置いた。かつ、と小さな音は静かに、だが確かに響いた。
ふたりは、兄弟に与えられた部屋で碁を打っている。昼食も終わり、しかし夕飯まで時間があるのを持て余した髭切が膝丸を誘ったのだ。膝丸はそれに快く応じた。ふたりはそろって非番であり、今はこなすべき仕事を持っていなかった。
髭切も静かに白石を打つ。ふたりの勝負に細かな規則はない。膝丸の方がわずかに長考する向きがあるだけで、それでもふたりとも手が早い方だ。鶯丸と三日月宗近の勝負は、大概一日では終わらない。
髭切は碁盤の隣に置かれた盆から急須をとって、中身を手元のガラスでできた湯飲みに注ぐ。水出しの緑茶は膝丸が用意したものだ。今の時期は、こういうものがちょうどいい。
「これ、美味しいね」
「それは良かった」
膝丸は盤から目を逸らさず、わずかに口元だけを緩めた。髭切は湯飲みを置くと、脇息に左腕を預けて、この弟をじっと見つめた。膝丸にも同じように脇息が傍にあるのだが、それはただの置物と化している。膝丸は盤を挟んだときから変わらず、潔癖なほどに背筋を伸ばしたままだ。無理なく伸ばされた首筋の上の顔も、同じような潔癖さで盤面を見つめている。
その清廉な佇まいは弟の美徳であることをわかっていても、髭切は面白くない気持ちになって、碁笥の縁を指でなぞる。手に入れたときから、白石にはいくつか瑕があるものがあったから、中身をかき回す不作法はしないようにしていた。
膝丸が右手で那智黒の石を置いたのを見ると、髭切も白石を取り出して指で少し遊ばせ、すぐに盤に打つ。以前鶯丸と対局したとき、彼はこの石を見てひとつ大きな瞬きをすると、良いものじゃないか、と微笑んだ。この白石、欠けや瑕のあるものを含むが、それでも目の詰まった上等の物らしい。今となっては珍しいという蛤で作られたこれを万屋から見つけて、さらに吟味して買ってきたのは、膝丸だった。
「君の弟はなかなかの目利きだな」
「そうだね、僕もそう思うよ」
そのときの勝負は、鶯丸の手が遅いのに合わせて髭切も随分ゆっくり打ったと思う。朝から始めて、昼に休憩を挟み、夕飯の頃に終わった。
「盤も大きいのを買ってきたんだな」
「こうじゃないのもあるのかい?」
「もっと薄い板でできているものも、折り畳めるものもある。それに、これは榧だろう? 随分奮発していると思うが」
髭切と膝丸はあまり私物を必要としないから、部屋は与えられたときと大きく変わらず、簡素なままだ。顕現してしばらく経ち、審神者から貰える給金をどうしたものか、ふたりそろって持て余しそうになったとき、「碁盤でも買うか」と膝丸が言ったのだ。ふたりとも腕に覚えがあったから、髭切はその提案に頷いた。
「膝丸は君と打てるのが大いに嬉しいと見える」
鶯丸が事も無げにそう言うのを聞いて、髭切の手は止まった。そういうふうに考えたことがなかった。
「君と使う物に、単に金をかけるのではなく、ちゃんと逸品を選んでいる。君との時間を大切にしたいのだろう」
脇息にもたれて体を傾けていた鶯丸は、髭切を上目で窺った。その目に少しからかいの色が潜んでいるのを、髭切は気づかないふりをした。
「しかし悪いことをした、それではこれは俺と浮気をしているようなものだな」
「面白いことを言うね、君は」
「謝ってもいいが、嫉妬させるというのは得策ではないな。黙っておいた方がいいか」
鶯丸は白い手を盤の下に伸ばした。髭切はわざわざ覗かなかったが、何に手を伸ばしているのかはわかった。盤の足だ。
「色恋にこそ、他人の口出しは野暮だろう」
鶯丸が長い指で触れたであろう足は、髭切の知る碁盤の例に漏れず、梔子クチナシの実の形をしている。
「兄者」
碁盤に目をやりながら、その弟の不在に行われた対局を思い出していると、膝丸が髭切を呼んだ。とっくに自分の手を進めたのに、兄が緩い微笑をたたえたまま動かないのを不審に思ってだった。
髭切はその声に、今の勝負に帰ってきたが、その沈思をおくびにも出さずに白石を取り、打った。膝丸はそれに、顔色を窺うように、しかし無表情のまま兄を見たが、すぐに盤に目を戻した。膝の上に行儀良く揃えられていた手が、碁笥に伸びる。
膝丸の、髭切とよく似た形の手が黒石を取り出し、恭しさを思わせるほどの美しい手つきでそれを盤に置いた。膝丸が黒を、髭切が白を取るのは、兄弟での暗黙の了解だった。そのため、いつも先手になる膝丸の有利については、人間たちの規則に倣って、後手に対して六目半のコミを出すことにしている。盤上にない目の、その中でもこの半目が、兄弟の勝負にも引き分けを赦さない。
髭切は自分の石を打つと、変わらず真っ直ぐな背筋を保つ弟を見る。引き結んだ口元は清廉で、髭切との勝負に感情を滲ませたりしない。普段、周りに過剰と言われるほど兄を立てることを厭わないこの弟は、髭切がこの碁に何を求めているのかをよくわかっていて、下手に手を抜いたりしなかった。膝丸は髭切との勝負を誤魔化さない。人間のように兄を哀れに思って、安い同情で勝ちを譲ったりしない。
いつの間にか盤にかかる光の暗くなったのに気づいて、髭切は視線だけで窓を見た。日は沈もうとしているらしい。軽い音をたてていた雨も、知らぬ間に止んでいた。
膝丸はやはり美しい手つきで、石を置いた。髭切はそれに少し考えた後、黒石に接触するように白石を打った。ここから勝負が始まるのを、ふたりは知っていた。
打ち合う間も、膝丸は表情を崩さない。髭切が、脇息に預けた左手で口元を覆ってしまうほどの頑なさで、その背筋を伸ばしている。——髭切は時々、その頑なで潔癖な背骨を折ってしまいたくてたまらなくなる。
膝丸は盤から目を上げず、表情も変わらず精緻で静かなままだ。この精緻さが、鶯丸の言うところの「浮気」で崩れたりはしてくれないかと何度か考えたが、膝丸を鬼にしてしまいたいわけではないから、やはり言わないことにしている。ただ、もし鬼になってしまうなら、それを斬るのは自分がいい。自分だけが、この弟に相応しい。
盤上の陣取り合戦は、どちらが優勢ともつかぬまま、ただ盤に石が増えていった。白い石と黒い石が、それぞれの領域を定めようと入り乱れている。髭切はこの盤上の攻防に、盤の外での勝負を重ねている。膝丸の潔癖な背筋を、正しい弟であろうとするその頑なさを、髭切はずっと崩してしまいたかった。そして崩した先、どういう目で自分を見るのか、どうやって自分に触れるのかを、今は知りたくて仕方がない。盤上と同じく、この勝負に引き分けがあるのを、髭切は赦さない。
勝負も佳境に入った。髭切は体をゆったりともたれかけて微笑のまま、膝丸は真っ直ぐな背筋と静謐な顔で、盤面に相対している。
「お前は、他の誰かと碁を打ったりしないのかい?」
髭切は、自分の布石は十分だと感じていたから、膝丸にそう話しかける。膝丸は動揺するでもなく、静かに「打たないな」と応えた。
「せっかくこんなに良い碁盤があるのに」
「俺は兄者と打てればいい」
「そうかい?」
「ああ」
膝丸の一途さは、それを言う声が静かであっても、髭切の胸の内に甘く残る。そういう意味では、髭切はとっくにこの勝負に負けている。そしてそれは、おそらくこの弟も同じなのだと、そのことにも髭切は気づいている。髭切との勝負に、膝丸はいつも完璧なほど静かだった。静かで、潔癖で、しかしその完璧さは、余りに完璧過ぎた。完璧過ぎて、不自然なのだ。
髭切は勝負どころを間違えないように、逸る気持ちを抑えて言葉を選ぶ。不自然な器用さで、自分に気持ちを悟らせまいとするかわいい弟に、ぼろが出るのを待っている。ふたりとも、この勝負には既に負けが見えている。だから、投了する時機が肝要なのだ。髭切はずっとそのときを窺ってきた。
「僕も、お前と打てればいいかな」
「そうか」
「うん」
髭切は自分の石を無難なところに打つと、そのまま盤の側面に右手を滑らせ、その下方をこつこつと人差し指で叩いた。その下には、盤の足があるのだ。
「僕とお前の勝負に、他人の口出しは無用だよ」
髭切は弟の聡さを知っていたから、これだけで十分だろうと思っていた。その目論見通り、膝丸はそこにある梔子クチナシに思い至ったらしい。
「そうだな」
黒石を置きながら、膝丸は笑い混じりに応えた。大きい変化ではなかったが、いつもは精悍な両目は緩み、声の響きはわずかであれど確かに甘かった。髭切は、長らく待ち望んだそのほころびを見逃さなかった。
「——投了だ」
言いながら、髭切は盤面に右手を置いて、膝丸の方へ身を乗り出した。石がいくつも、黒いのも白いのもぱらぱらと落ちていったが、今の髭切にはどうでもよかった。髭切が囲いたいのは盤面ではなく、佳境で断ち切られた勝負に目を丸くして固まる弟の心だからだ。
引き分けのない勝負を自分の手で終わらせるため、髭切は左手で弟の襟首をしっかりと掴むと、何か言おうとしたその唇に、そのまま噛りついた。