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    しおり
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    しおり
    寝目辞禍

     温い水の中に沈み込んでいくような感覚に微睡んでいると、首の後ろに何かが触れた心地がして、大包平は目を見開いた。何度か瞬きするうちに、見えているのは特に珍しくもない木目の天井であること、空気に水の匂いが混じっていることを理解して、漸く体を起こした。
     天井から視線を外して見えたのは一面の文字だった。四方を囲んだ襖は文章で満ちていた。何の変哲もない六畳間の天井から床までの間を、まるで零れた墨が重力に任せて滴るうちに文字の形を取ったかのように、流麗な草書体が埋め尽くしている。大包平は周囲を視線だけで窺いながら、襖の向こうに気配が感じられないのを確認すると、詰めていた呼吸を緩めた。
     そのまま背後も確かめようと振り返ろうとしたとき、床に這わせた右手の中で乾いた音がして、大包平はそっと手を避けた。黒い革手袋とまだ色の若い畳の間には、少しよれた紙が横たわっていた。その薄紙を拾い上げ、中身を覗いて、大包平はぐっと眉根を寄せる。紙には、いろは歌が書かれていた。
     一応背後に視線をやるとやはり同じような襖があった。それだけ確認して、大包平はもう一度右手の薄紙に視線を落とした。襖を上から下まで埋め尽くす文字たちは筆を踊らせたような、流れるような筆致だったが、紙に書かれた文字はどちらかと言えば落ち着いた、一文字一文字を確かめるような手跡だった。
    「いろはにほへとちりぬるを、わかよたれそつねならむ、うゐのおくやまけふこえて、あさきゆめみしゑひもせす」
     たどたどしく声に出してみるが、何が分かるわけでもない。不可解な状況に苛立ちを覚え始めて、大包平は紙から目を上げると、またぐるりと部屋を見渡した。天井、襖、床。それ以外は何もなかった。ただ、襖を埋め尽くす言葉たちのために、室内は簡素とは形容し難かった。装飾として申し分ない美しさで、しかし確かに意味を伴った形がびっしりと書き込まれた襖はどこか不気味であり、見る者を気圧させる空気を放っていた。
     その異様な室内を窺ううち、正面の襖に「はるのよの」という五文字を見つけて、大包平は頭の隅で光った思い付きに片眉を釣り上げた。
    「ねられぬをしひてわがぬるはるのよのゆめをうつつになすよしもがな」
     春の夜の夢を現実にする術はないだろうか。そんな歌だった。誰の歌までかは覚えていなかった大包平は、そのまま隣の文章に目を移していった。
     よのなかはゆめかうつつかうつつともゆめともしらずありてなければ。この世は夢か現実か、あるようでないものだ。
     こひしねとするわざならしむばたまのよるはすがらにゆめにみえつつ。焦がれ死ねというのか、お前が一晩中夢に出てくる。
     そのまま襖に垂れ流された他の言葉たちもすべて歌であることを確信して、大包平は鼻を鳴らした。この不気味な部屋にひとつの統一性を見つけた小さな達成感のためだった。しかし、それが現状を打破するものではないという考えがすぐに追い付いてきた。
     言葉たちは皆、歌であり、さらに言うと夢を詠ったものばかりが書き付けられているらしかった。よくもまぁここまで言葉を尽くせたものだ、と大包平は感心した。歌を詠む人間たちの生こそ、大包平からすれば夢のようだった。瞬きする間に淡く過ぎる時の中でこそ、人間たちは夢を見、それを詠ってきたのだ。そんなことを思って嘆息した後、大包平は長い脚を器用に折り曲げると立ち上がった。この不可解な状況に甘んじて座り込んだままというのは、どうにも居心地が悪かった。
     出口を探して自分の背後にあった襖を勢いよく開くと、そこはまた言葉を書き連ねられた襖に囲まれた六畳間だった。同じく流麗な手による歌で埋め尽くされているのを視線だけで確認し、大包平はずかずかと大股で部屋を横切ると、またさっきやったのと同じように襖を開いた。やはり、同じような部屋だった。
     襖を開け、部屋を横切り、襖を開ける。部屋を横切り、襖を開け、部屋を横切る。何度も何度も何度もそれを繰り返すうちに、床を鳴らす足音を抑える気も失せ、奥歯をぎりぎりと噛み締めるようになった大包平は、苛立ちに指先が滑るせいで上手く開けなくなった襖の先がやはり文字にまみれた部屋であったのを見ると、とうとう「何なんだここは!!」と声をあげた。
     虚しく響くだけかと思われた大包平の怒号は、「騒々しいと思ったらお前か」という涼しい声によって受け止められた。驚いて振り向くと、大包平から見て左の襖から、鶯丸が入ってくるところだった。
    「お前もいたのか!」
    「ああ、そうらしい」
     襖一枚を左手で開け放しながら、鶯丸は部屋に入ってきた。大包平も先程まで覗いていた部屋から離れ、同郷の太刀に向き直る。彼は不可解な状況にも慌てる様子は見せず、うっすらと微笑んでいる。見慣れた微笑に、大包平は少し落ち着きを取り戻した。
    「ずっと歩いてきたのか?」
    「見ての通りだ」
     鶯丸はさっき自分が入ってきた襖を視線だけで示した。一枚分開いた襖の向こうも一枚開いており、その向こうもずっと同じように開いているらしい。
    「お前も真っ直ぐ来たのか」
    「その言い方からすると、お前もか」
     大包平が乱暴に開け放った襖を覗き混んで、鶯丸は肩を揺らした。大包平は道中の襖を両手で開け放ってきたから、鶯丸が通ってきた部屋よりずっと遠くまで部屋を見渡せるはずだったが、奥の方は白んでよく見えなかった。大包平は自分がどれだけの部屋を通ってきたのかを思って唇をぐっと引き結んだ。実際それだけ長く歩いてきたような気もしたし、そんなに遠くまで歩いてはいなかった気もした。自分の記憶と今見えるものが噛み合わない奇妙な感覚が腹の内に鈍く残ったが、思わず握った右手の中で、また乾いた紙が潰れる音がした。
     それに目を覚ましたときのことを思い出して、大包平は鶯丸の顔を見下ろした。落ち着いた緑の目は、大包平の記憶の中でいつもそうだったように、凪いだ静かな表情で大包平を捉えた。
    「お前は目が覚めたとき、何か持っていなかったのか」
     大包平が拡げて見せた手の中のいろは歌を、鶯丸は「ははぁ」と興味深そうに見つめたが、すぐに首を傾げた。
    「俺が持っていたのはこれだけだな」
     そうして右手で摘まんでみせたのは、サインペンだった。大包平はそれにまた眉を釣り上げた。今まで通ってきた六畳間はすべて、こじんまりとした、どこか懐かしい造りだった。襖に書かれているのもすべて筆で書かれた文字で、大包平はこの屋敷は古いものだと思い込んでいたのだ。そこに寄越されるのがサインペンというのは、何だかちぐはぐに思えた。
     大包平が顔をしかめるのに、鶯丸はまた肩を揺らした。何がそんなに面白いのか、大包平は鼻を鳴らして鶯丸を軽く睨む。しかし、鶯丸はお構い無しらしい。
    「お前、これからどうする」
     笑うのをやめない鶯丸に声をかけると、鶯丸は少し目を伏せて考える素振りをした。長い睫毛が、頬に柔らかく影を落とした。
    「特に考えず歩いてきたからな……お前についていくことにしよう」
     真っ直ぐに見上げてくる鶯丸に、大包平は軽く頷いた。何も言い出さないなら、自分から共に移動するのを申し出るつもりだった。
     ふたりはとりあえず今いる部屋の、大包平が開け放った面ふたつと鶯丸が来た面を除き、残ったひとつの襖の前に立った。今度はそちらを真っ直ぐ歩いていくことにした。
     襖を開け、やはり文字で埋め尽くされた部屋を見て、鶯丸は感心した声をあげた。
    「しかし広い屋敷だなぁ」
    「ああ。よくもまぁ、こんなに同じような部屋ばかり作ったものだ」
    「広いだけでなく、贅沢だな。一見同じだが、すべて違う。お前も気付いたか?」
     部屋を進みながら、鶯丸の横顔を大包平は視線だけで窺った。訊ねてきたくせに鶯丸は前を見たままで、長い前髪で表情が分からなかった。
    「この襖に書き付けられているのはすべて歌だが、部屋によって題材にされているものが違うらしい。俺が目を覚ました部屋は梅の歌ばかりだった」
     梅にウグイスだな、と笑って鶯丸は新しく開いた襖の向こうを見渡した。
    「あめのみにくものなみたちつきのふねほしのはやしにこぎかくるみゆ――ああ、この部屋は星か」
     天を海とは豪勢だなぁ、と歩きながら暢気な声を出す鶯丸の隣で、大包平はまた苛立ちが自分の胸をちりちりと焼くのを感じていた。この屋敷は一体何なのか、そもそもなぜ自分はここで目覚めたのか? 鶯丸だってなぜここにいるのか。もしや他にもこの屋敷にいる者があるのか――なぜすぐに思い付かなかったのか不思議なくらいに当たり前の疑問が、堰を切ったように次から次へと沸いてきた。解消されない疑問が次々自分の内から這い出てくる座りの悪さと、これまでそんな疑問に思い至らなかった自分への気味悪さで、大包平はつい軽く舌打ちをした。
    「どうした」
     新しい襖に手をかけた鶯丸は、大包平の横顔を見上げた。先程より落ち着いた、低い声だったが、見上げてくる顔はいつもの微笑だった。
    「何でもない」
     素っ気なく応えて、大包平は鶯丸に代わって襖を開けた。自分でもどこか拗ねたような、子どもっぽい言い草になった気がしたが、鶯丸は何も言わなかった。
     ふたりはそれまでと変わらず部屋を進んだが、何も話さなくなった。黙り込んだままの自分を隣の鶯丸が時折気にかけるように窺ってくる気配を感じながらも、大包平はついさっき覚え出した疑問を考えずにいられなかった。
     目を覚ましたとき、見知らぬ部屋にいることに対する違和感は確かにあった。しかし、当然のようにこの屋敷を行くのが正しいことのように思って、なぜ自分がここにいるのかという根本的な疑問は持たなかった。この屋敷は途方もなく広い。随分部屋を通り抜けてきたが、どこまで行けば外に出られるのだろうか。そもそもなぜ自分が、そんな不可解な場所で目覚めなければならなかったのか? ……いや、この際この疑問はいい。問題は、自分が今どうするべきなのかだ。外に出るためにどうすればいいのか、どこまで行けばいいのか。置かれた状況に「なぜ」を問うても仕方がない。自分の存在に疑問を持つようなものだ。決して答えの得られることのない疑問を――しかし、答えが得られないのなら、どうやってこの出口を求めて騒ぎ立てる猜疑心を静めればいいのか? どうすれば、どうすれば――。
    「おや」
     考えながら黙々と進むうち、新しく開いた襖の向こうから微かに水の匂いがした。鶯丸が短い声をあげたことに促されて、大包平もはっとして部屋を見渡した。ふたりが立っているところから見て左側の襖は開け放たれており、その向かいの襖には「ねられぬをしひてわがぬるはるのよのゆめをうつつになすよしもがな」と書かれている。
     信じられない思い付きが確信をもって迫ってきたことに大包平はぞっとして、部屋の真ん中に立つとぐるりと部屋を見渡した。
     おもはぬにいもがゑまひをいめにみてこころのうちにもえつつぞをる。
     おもひつつぬればやひとのみえつらむゆめとしりせばさめざらましを。
     いのちにもまさりてをしくあるものはみはてぬゆめのさむるなりけり。
     すみのえのきしによるなみよるさへやゆめのかよひぢひとめよぐらむ。
     ゆめよりもはかなきものはなつのよのあかつきがたのわかれなりけり。
     はかなくてゆめにもひとをみつるよはあしたのとこぞおきうかりける。
     するがなるうつのやまべのうつつにもゆめにもひとにあはぬなりけり。
     襖を埋め尽くすのは、夢に言葉を尽くして詠われた文字の羅列だった。大包平が最初に目覚めた部屋で間違いなかった。
    「……俺たちは、お前が通ってきた道の先に行くように歩いてきたはずだ」
    「ああ」
    「この屋敷の部屋はすべて六畳間だった。四面の壁はすべて、襖になっていた」
    「ああ」
    「俺の通ってきた道と、お前が通ってきた、そして今俺たちが歩いてきた道は交わるはずがない!」
    「ああ、そうだな」
     不可解な状況を整理しようと話すことは、その不可解さを一層確かめるだけだった。大包平は唸り声をあげながらその場に座り込んだ。そのすぐ隣に鶯丸もしゃがみ込んだ。
    「本当に何なんだ、この屋敷は……どこに行けば出られるんだ」
    「なんだ、お前、出たかったのか」
     状況に似つかわしくない軽やかな声に、大包平はぎょっとして鶯丸の顔を見つめた。鶯丸は優美な造りの顔を歪めもせずに、大包平を真っ直ぐ見ていた。
    「お前は出たくないのか!?」
    「出たいなど考えもしなかったな」
    「ならばなぜ歩いてきた?」
    「なぜって、それは……」
     言いかけたが最後まで続けることなく、鶯丸は目を伏せた。同じように長い睫毛が頬に影を落とすのは会ったときも見たのに、そのときとは違う少し暗い表情に見えた。
    「お前は、なぜここから出たいんだ?」
     目を伏せたまま、鶯丸が話し出した。微笑を取り払った顔は、整っているからこそ冷えきって見えた。
    「ここを出ることに、はたして意味なんてあるのか? そもそも、俺たちがここにいる意味すら分からないだろう。分からないことに意味を与えられるものか? 意味の分からないものを得て、何の意味があるんだ? すべては、この部屋で詠われている通り、夢のようなものじゃないか。寝て覚めたら終わるように儚いものだ。この世で信じられる美徳も、美しさも正しさも、それに一体何の意味があるというんだ? すべてはただ、起こるべくして起こるだけで、何事も意味なんてない。今俺たちがこうしていることも、考えていることも、俺たちが俺たちとして在ることだって――」
    「意味がないことに何の意味があるんだ?」
     反射的に口を出た言葉に自分でも驚いたが、大包平は勢い鶯丸の肩を掴むと、その視線をむりやり自分の目に合わせた。そのとき、握っていた薄紙が床に落ちた。
    「経読鳥らしく諦念にでもあてられたか? いつか覚める夢には意味がないとは御大層な慧眼だが、意味がないことがそんなに重要なことか? 何事も意味がないなら、意味がないこと自体にも意味なんてないだろう! 美しさに美しさ以外の意味なんているものか! お前は俺を諭そうとしている、確かに俺もこの意味の分からない状況に苛立っている! しかし意味がないなんて理由ですべてを投げ出せるか! 夢など覚めて結構だ、お前こそ目を覚ませ!!」
     興奮して肩を揺すりながら、めちゃくちゃな内心を大声でぶつけるうちに、鶯丸の柔らかい緑の目の中で暗い瞳孔がきゅっと小さくなった。それでも鶯丸は大包平から目を逸らさなかった。
    「なぜここから出たいかなど分かりきっている! 俺がそうせずにはいられないからだ!!」
     鶯丸は震える唇で息を飲むと、大包平を見つめたまま、それまでとは違うやり方で笑った。一瞬泣き出しそうな顔に見えたが、すぐに顔を伏せてしまって、前髪で表情がよく窺えなくなった。
    「……おかしな奴だ」
     声は静かだった。大包平は自分より細い鶯丸の肩を握ったまま、鶯丸の言葉を待った。
    「お前、この状況はおかしいと思いながら、俺には疑問を持たないのか? 俺が本当にお前の知る鶯丸かなんて分からないだろう」
    「……俺にわざわざそんな口をきくのはお前だけだ」
     大包平が憮然として言い返すと、鶯丸が肩を揺らし出した。ここで笑うか、と大包平は面白くない気持ちになったが、鶯丸が彼らしさを取り戻したことに安堵していた。鶯丸という太刀は、こういう奴だった。大包平には掴めない考えを持ちながら、いつも大包平をどこか安心させるのが、鶯丸だった。
    「まったく、お前は本当に大包平らしい」
     親しい関係に赦された呆れ声でそう言いながら、鶯丸は大包平が落とした薄紙を拾って差し出した。大包平がそれを受け取ったのを見ると、自分の持っていたサインペンも差し出してみせた。
     それも大人しく受け取り、紙とペンを交互に見た大包平は、最後に鶯丸の顔を見た。その挙動に鶯丸は吹き出して、口許を抑えながらくすくすと笑った。
    「……笑っていないで説明しろ」
     呆れ返って怒る気力も沸かず、大包平は低い声で促した。鶯丸はひいひい息を引きながら、どうにか笑いを押さえ付けた。
    「なに、お前は夢を見ないんだろう?」
     試すように笑う鶯丸の顔に瞬きして、大包平はまた自分の手の中に目を落とした。薄紙を見、ペンを見、また薄紙の歌を見て、はっと目の覚める心地にそのままペンの蓋を外すと、大包平は床に押さえ付けた紙に小さく点を打ち出した。
    「色はにほへど散りぬるを、我が世たれぞ常ならむ、有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」
    「夢など見るまい、というわけだ」
     鶯丸が呟くや否や、部屋一面の歌たちが音を殺したままずるりと大包平の足許に集まった。大包平が呆気にとられるうちに、蛇や魚のように蠢いていたそれはたちまちひとかたまりの影になった。黒く塗り潰された床には爪先で捉えられる感触もなくなって、大包平はその暗く深い墨溜まりへと音もなく沈み込んだ。
    「おはよう、大包平」
     遠ざかっていく部屋にひとり残った鶯丸がどこか寂しそうに笑うのを見たのを最後に、大包平は意識を手放した。



     温い水の中に沈み込んでいくような感覚に微睡んでいると、爪先に何かが触れた心地がして、その感覚に大包平はすべてを合点して目を開いた。光が散り散り、花びらのように身の周りを舞うのを視界に捉えながら、あらかじめ定められていたように張りのある声で目の前の刀たちに語りかけた。
    「大包平。池田輝政が見出だした、刀剣の美の結晶。最も美しい剣のひとつ。ただ……」
     思わず口をつぐんだが、目の前の刀たちはそれを気にかける様子はなく、現れた大包平にわっと歓声をあげた。
     小さい刀たちに手を引かれ辿り着いた本丸は、海を望む小高い土地にあり、柔らかい風には潮の匂いがした。「潮風を浴びても主がちゃんと手入れしてくれるし、この体は錆びないんだぜー」と赤い髪の短刀が機嫌良く話していた。彼は自分と同じ赤い髪を持つ大包平を一目で気に入ったらしい。
    「この本丸はまだ出来て三ヶ月なんだ」
     初期刀だという蜂須賀虎徹が、こじんまりとした本丸の中を案内しながら教えてくれた。
    「だから、あなたを迎えにいくのも骨が折れたよ。でも、来てくれたらこれ以上に心強い太刀はないだろうからって主が張り切ってね」
     審神者に挨拶した執務室、その隣の手入れ部屋、すぐ近くには手入れ待ちの控え室。外は後で愛染国俊に案内してもらってくれ、と付け加えて、蜂須賀は柔らかそうな藤色の髪を揺らして歩いていく。
    「ここが広間。食事をしたり、集まって会議をすることもある。今日はあなたの歓迎会があるよ。それで、向こうからが俺たちに割り振られる部屋なんだけど、希望はあるかい?」
     まだ数が少ないからできる限り希望は聞くようにしているんだ、と振り返って、蜂須賀は淡い緑の目で大包平を捉えた。同じ緑の目であっても持ち主によって随分印象が違う、と感じながら、大包平は考える素振りをして庭に目をやった。畑の向こうの塀と木々の間から、煙ったように遠く白んではいるが、青い海がちらちらと光を返していた。
    「そうだな……ならば、一番東の部屋がいい」
     大包平の希望に、それなら、と蜂須賀は階段を上がった。昼間の透き通った光の射す廊下の先、一番奥の角部屋の前に辿り着くと、振り返って「ここはどうだい?」と微笑んだ。
     窓の向こうは、先ほど下で見たより海が広く、空を映して青く輝いていた。船がいくつか、白い跡を残してどこかへ渡っていくのが見えた。
    「空気を入れ替えるために毎日窓を開けるようにしていたんだけど、本当にいい景色だよね。広間や執務室まで遠いから今まで埋まらなかったけど、ここが一番東のはずだよ。けれど、どうして東がいいんだい?」
     蜂須賀が訊ねてくるのを聞きながら海を見ていた大包平は、少し間を置いてから呟くように応えた。
    「朝が来るのが早い部屋がいいと思ってな」
     蜂須賀は少し首を傾げたが、思い付いたように声をあげた。
    「鳥啼く声す夢覚ませ、というやつかな」
    「何だそれは」
    「いろは歌だよ。主が短刀たちに教えていたんだ。“鳥啼く声す夢覚ませ、見よ明け渡る東を、空色映えて沖つ辺に、帆船群れゐぬ靄の中″ってね」
     そのとき、窓の向こうから「蜂須賀さーん! 大包平さんまだー!?」と愛染の大声が聞こえてきて、ふたりは目を丸くした後、顔を見合わせて笑った。
    「今から向かう!」
     代わりに大包平が応えて、ふたりはまた来た道を戻り出した。
    「すまないね、愛染はまだ同派の刀がここにいないからか、新しく来る刀に構いたがるんだよ」
    「そうか」
    「俺もまだ、弟が来てなくてね」
    「ああ、浦島だったか」
    「そう!」
     蜂須賀が目を輝かせて顔をぐっと覗き込んでくるので、大包平は驚いて小さく仰け反った。しかし、蜂須賀はお構い無しらしい。
    「あなたも池田の刀だろう? もしかしたらだけど、弟の話が聞けるんじゃないかって、俺も楽しみにしてたんだよ」
     そう話す緑の目は、なるほどたまに見かけた脇差のものとよく似ていた。一応違う家だ、と断りながら、藤色の髪の向こうに懐かしい面影を見つけたようで、大包平は郷愁にも似た気持ちが胸に湧くのを感じた。
     蜂須賀は行儀良くすぐに引き下がって、大包平に少し申し訳なさそうな顔をした。
    「粟田口の短刀と脇差も兄太刀を待っているんだけど、まだ現れそうになくてね……あなたと、同派の太刀も」
    「ああ」
     あいつはいないのか、と声には出さなかったが、改めて思うと不思議な心地がした。落ち着いてはいるがどこか奔放な、兄弟と言っても差し支えない太刀がいないと聞くと、ほんの少し座りの悪くなるような違和感があった。しかし、苛立ちを覚えさせる感覚ではなかった。
     むしろ、さっき蜂須賀の向こうに浦島を見たときに感じたような、ただしそれよりも一層甘い感慨が空いた胸の内を満たし始めていた。いないことが、かえってその存在を尚更強く感じさせるらしい。決して幸福感の代わりになるものではなかったが、悪くない心地だった。
     それに、瞬きする目蓋の裏に浮かぶ微笑は、いつだって不可解ではあるが確かな安心感を大包平に覚えさせるのだ。
    「あいつのことだ、そのうち来る」
     妙な確信をもって溜息混じりに呟くと、蜂須賀はくすりと笑った。それに「何だ」と問おうと大包平が口を開きかけたとき、縁側に上半身を乗り上げた愛染が「大包平さん、早く馬小屋行こうぜ!」と大声を出すので、大包平の疑問は海風と共にどこかへ吹き去っていった。


     大包平を飲み込んだ影は、鶯丸が薄紙とペンを拾うと、またばらばらと文字の連なりに別れて襖へと速やかに戻っていった。左右に揺れながら各々の場所へ戻っていく様は、さながら池を泳ぐ鯉のようだった。そんな考えに、鶯丸はこの部屋に来たときに水の匂いがしたのを思い出した。なんとなく、この部屋の空気はひんやりとしている気もする。
     導かれるように、鶯丸は大包平が最初に開け放ったらしい襖の向かい側、「ねられぬをしひてわがぬるはるのよのゆめをうつつになすよしもがな」の歌が戻った襖の前に立つと、無駄な音を立てない洗練された所作でその襖を横に滑らせた。
     襖の向こうから、湿った空気が一層強く匂い立ち、鶯丸はその匂いと戸の向こうの景色に目を丸くした。
     そこには、板張りの通路に赤く塗られた欄干があり、さらにその向こうは一面の水だった。池か湖か、潮の匂いがしないことに海ではないと判断しながら、鶯丸は清らかな水面を見渡した。透明度の高い水はさほど深くはないらしい。きっと鶯丸の膝ほどまでしかないだろう。すぐ近くに水面に下りる階段があるのを確認し、鶯丸はさらに遠くを見通そうと目をこらした。遠くなるほど薄く青い色を帯びる水面の端は、靄がかって終わりが見えなかった。
     時折柔らかに風が吹いていく、無駄なものの一切ない澄んだ美しさに満ちた場所だった。「まるで夢のような美しさじゃないか」などと考えて、鶯丸は自分の陳腐な言葉選びに苦い笑いを漏らした。
     じっと遠くを見る鶯丸の視界の端で何かが動いて、それにつられて視線を動かすと、そこには黒い蝶が飛んでいた。そしてその蝶が羽ばたく向こう、鶯丸が開けた襖から正面を見通した先をよく見ると、遠く白んでぼんやりとしていたが、微かに門らしきものが見えた。
     ああ、あそこに行けばいいのだ、と鶯丸はこの開けた景色を見渡して理解した。そして「あいつは本当に馬鹿だな」と大包平の不機嫌そうな顔を思い出し、少し笑った。この屋敷を出る方法は、大包平のすぐ近くにあったのだ。彼だけがそれに気付かなかった。
     馬鹿げているが、何とも大包平らしい。そして、それがどうしようもなく愛しい。そう思いながら、鶯丸は遠くに霞む門を見つめたまま腰を下ろした。欄干の隙間から脚を垂らすと、ぎりぎり靴の爪先が水面に触れる高さだった。自分の爪先から波紋が広がっていくのを、鶯丸は凪いだ、しかしどこか新鮮な気持ちで見ていた。
     爪先を浮かせたり、水面に付けたり、そうして波紋が静かに広がっていくのを眺めながら、鶯丸はふと疑問を覚える。大包平はここからすぐに出ることができたのだ。この水の道が、きっと彼を必要とする場所へと導いてくれた。彼は何も持たずとも、外に出られたはずなのである。
     しかし彼はいろは歌の薄紙を持って目を覚まし、鶯丸の方はこの場に不似合いなサインペンを持って目を覚ました。これはどういうことだろう。
     この広く凪いだ水面のように落ち着いた鶯丸の心は、すぐさまその疑問にひとつの仮説を打ち立て、そしてその仮説が彼自身の胸の内を少し苦しくさせた。それを息を吐いてやり過ごして、鶯丸は行儀悪く通路に寝そべる。屋敷の張り出した屋根の裏は木材が複雑に絡み合ってその重みを支えていて、鶯丸はその組み木の見事さに感心した。
     きっと、夢も意味も、この組み木のようなものなのだ。こうした組み木たちを見たときに、屋根を支えるものとしてそこに意味を見出だすか、いずれは崩れてなくなるものとして意味を見捨てるか、すべてはそういうことなのだ。そしてそれは、おそらくどちらも間違ってはいないのである。
     蝶が行方も定めずふらふらと漂う下で、鶯丸は自分の肩を揺すった大包平の手の力強さ、刀身のように澄んだ色をした目を思い出していた。
     夢など覚めてしまえばいいと言ってのけた、あの苛烈さ、頑なさ。きっと彼は、意味のなさがもたらす哀愁にも感傷にも酔うことがないのだろう。大包平はそういう太刀だった。どうしようもない正しさで、痛切に自分の理想を求めてやまないのが、大包平だった。
     大包平を想う度に波立つ胸の内をどうにか押さえ付けようと、鶯丸は意味もなく蝶を目で追った。あてもなく彷徨っているように見えたのに、黒い蝶は不思議と鶯丸の周りを離れることがなかった。
     すべては夢だ。意味などないのだ。それでも、だからこそ、それを理由に投げ出すことにも意味はないと、痛々しいまでの正しさで大包平は言うのだ。夢など見ないと言う者こそが、その正しい両目を開けて、誰よりも夢を見ているのである。諦めや失意に酔うことができないために、望むことを辞められないまま。
     鶯丸が思わず握り込んだ右手の中で、薄紙がかさりと音を立てた。その薄紙を目の前に掲げて、鶯丸は眩しいものを見るように目を細めた。大包平が大きな手で打った小さな点たち、それが寄せられた文字には、不思議と見覚えがある気がした。
     意味がないことにも意味なんてないのだ。夢を見ないことに、夢を見てしまうのだ。ぐるぐると堂々巡りでまとまらない胸の内が、鶯丸の喉や目の奥を焼いていった。大包平を想って、ままならない自分の心をもて余すとき、鶯丸はあの果てしなく続く六畳間、すべて同じように違う部屋の連なりに記された歌たちをもってしても結局は言い表すことができず、それでも詠わずにはいられなかった人間たちの気持ちが少しは分かるような気がするのである。そして、そういうときは、無性に筆が欲しくなるのだ。誰かに、何かを伝えるための筆が。
     力を抜いた手の内から、風が薄紙をさらっていった。床を転がりながら、空中に投げ出されながら、通路の先に運ばれていったいろは歌はふとした拍子に高く舞い上がり、やがて見えなくなった。
     いろは歌を見送った鶯丸は、右手をまた通路に下ろした。力なく投げ出された手の、細長く形のいい指先に、鶯丸の上で惑っていた蝶が留まった。それに思わず微笑みながら、鶯丸はその蝶が柔らかに羽を開けたり閉めたりするのをしばらく見つめていた。
     いつかは、この水の道を渡って、あの遠くに構えている門を潜らねばならないだろう。大包平がこの屋敷から出ようとしたように、自分もここを離れねばなるまい。夢を見るにしろ、見ないにしろ、いつかは行き着くところを見定めねばならないのだ。
     ただ、そのときが来るまで、浅い眠りに落ちることを赦されるのなら――どうか、あともう少しだけ。
     そうして鶯丸は、微睡みに身を明け渡す子どものように目を閉じた。目蓋の裏に、いつか来るべき目覚めを思い描きながら。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/07 12:28:54

    寝目辞禍

    イマジカ、すこしふしぎ
    来歴はあやふやです、ごめんなさい

    #大鶯 ##大鶯

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