Out of Control一、
この世界に落ちてから珍しく平和な束の間のひととき。
振る舞った料理が気持ちのいいくらいに胃の腑に収められ、満足感に浸りながら片付けでもしようと席を立つ。食器を片付けようと目線を下げたその時、窓辺から差し込む昼下がりの穏やかな陽光に照らされた、収穫前の麦穂のようにきらめく髪に思わず目を惹きつけられた。触れてみたい。ただ、そう思った。迷いもなく求める手を前に、ふわりと黄金が揺れる。
「何をしてる」
伸ばしかけていた手が宙を彷徨う。向けられる視線と発せられた声は、いつもと変わらないはずなのに、自分の欲望が見透かされたようで、ひどく冷たく感じた。「触れたい」そう素直に言えたらどれだけ楽か。拒絶されてもいつものように「冗談」と笑ってみせれば、今まで通りに振る舞えたかもしれない。そんな、できもしないことを考えて黙り込んでしまう。
「どうかしたのか?」
「いや、食後にコーヒーでもどうだ?」
「いいな、俺が淹れる」
「ありがとう」と口を動かして、食器を片付ける。コーヒーを淹れようとキッチンへ向かう背を見送ることは後ろめたさでできない。
嘘をつくことがこんなにも苦しいなんて、思いもしなかった。
二、
目覚め端のベッドの中、隣で眠る人物を目の当たりにして後悔の念が渦巻く。「また、やってしまった」と。
いや、正しくは「ヤってしまった」か。だなんて、くだらない訂正を脳内でいれてしまうほどには慌てている。そこに追い打ちをかけるように、ドクドクと脈打つような頭痛がする。酒のせいだなんて、言い訳ができる段階は遥か昔に過ぎてしまった。すべて、無かったことにできればどれだけ楽なのだろう。回数を重ねるたびに、この関係に嫌気が増していくのに、何度も繰り返してしまう。こんなことをしたって、繋ぎ止めておくことなんかできないのに。
「お前はどうなんだ、カウボーイ」
問いただしたところで、答えなど返ってこない。そんなことわかりきってる。それなのに、問わずにはいられなかった。じっと答えを待つかのように見つめる視線の先、シーツの隙間から痛々しい歯形のついた肩が覗く。本当に馬鹿だ。あんなにくっきりとした痕だって、いつかは消えてなくなるのに、毎回つけずにはいられない。酒の勢いで犯してしまうこの関係も、行為の痕も。どうせならいつまでも、消えずに残り続ければいいのに。そんな苦悩を露とも知らない寝顔は、腹立たしいとさえ思ってしまうほど、清らかで美しかった。
三、
月に数回、ソロは寝坊をする。
その寝坊は、いっても任務に支障を来さない程度、ちょっとした寝坊だ。遅刻しているくせに、いつもとなんら変わりない格好でやって来るソロはある意味、ナポレオン・ソロらしいとさえ思える。そんなソロの悪癖をウェーバリーやギャビーは特に気に留めていないようで、イリヤも深く問いただすようなことはなかった。今日までは。
いつものように「寝坊した」と颯爽と現れたソロが、足早に自分の席へと向かう。自分の隣に腰を掛けるその瞬間、いつもの香水にほんの少し違う香水、そして煙草の匂いがした。ただ単に、自分の勘違いかも知れないのに、何故だか心がざわつく。知らない気配を纏ったソロにそわそわと落ちつかないまま、ミーティングは淡々と何事もなく終わってしまった。
別件があると言ってウェーバリーとギャビーが去った部屋は、イリヤとソロだけを残して沈黙に包まれた。資料を片手にじっと動かないソロは、いつもと変わらない様子で、それが余計にイリヤを苛立たせた。
「なんで遅れた」
「朝は苦手なんだ、知ってるだろ」
「ふん、そんなくだらない答えが理由になるとでも?」
「じゃあ、どう答えたら納得してくれる?」
「質問を質問で返すな」
「だったら、最初から質問するなよ。お前が納得できる理由なんてないんだから」
ソロの声が静かな部屋に冷たく響く。こちらを伺いもせず、資料を見つめたままのソロの横顔は、いつもと変わらないように見え、それが余計に突き放されたような気持ちにさせられる。
自分は何て言ってほしかったのだろう。納得できる理由が聞けたところで、それが何になるというのか。心の中を見透かされたようなソロの言葉に、何も言い返せなかった。
四、
「もう、やめにしよう」
目を閉じたまま、あくまでもそっけなく響くように。与えられ続ける快感に思わず、零れ落ちてしまいそうな吐息を、なんとか飲み込んで、声を低くして冷静に言い放つ。緊張のせいか声が掠れてしまった気がしたが、そんなこと、今更どうでもよかった。ソロの口から唐突に放たれた一言に、ベッドの軋む音が止む。ふいに訪れた静寂に恐る恐る目を開けば、ソロの眼前には欲しくてほしくてたまらない、夏の海のように輝く瞳が静かに燃えていた。
「さすがに疲れたか」
汗ばんで額にかかった前髪を撫でるように梳かれる。ソロの緩くウェーブがかった髪に、触れるイリヤの手つきは慈愛の言葉そのもので、この?偽りないやさしさに勝手な期待を膨らませてしまう、そんな自分が嫌になる。この逢瀬はただの気まぐれで、そこには意味なんてないのだから。もっとぞんざいに物のように手荒く扱ってくれたら、こんな気持ち抱えなくて済んだのに。時折見せるイリヤの素のやわらかな表情に心が締めつけられ、ただただ苦しくてしょうがない。
「終わりにしよう」
「そうだな、たまにはゆっくり休もう」
ソロの唇に柔らかく触れるだけの口づけが落とされる。喉元まで出かかった言葉は、またしても言えずじまいで、全てをうやむやにしたまま夜が更けていく。「今日でおわり」その一言が言えない自分を軽蔑する一方で、心のどこかで安堵している自分がいることに心の底から嫌気がさす。
このくすぶり続ける思いにイリヤが気づきませんように。神様なんて信じていないくせに、縋るように祈りながら、隣で聞こえる安らかな寝息に耳をよせひとり眠りに落ちた。
五、
夜明け前の室内、ベッドの上。隣で眠るソロの寝顔を眺める。それがイリヤの密かな楽しみだ。数時間前までの行為を微塵にも感じさせないその顔は、呆れるほどに清々しい。普段とは違う渦巻く髪も相まって、いつもとは違う幼さがありながら、神話に出てくる神々のように厳かな寝顔は誰にも見せたくない。そんな、身勝手な思いを抱いてしまうほど惹きつけられるものがあった。
窓の向こう、どこか遠くで鳥のさえずりが聞こえてくる。あと数時間、目を覚ませばいつものソロに戻ってしまう。艶めく眼差し、しなやかな肌、熱を孕んだ嬌声。それら全てを過ぎたことにされる前に、すべてを余すことなくしっかりと脳裏に焼き付ける。この関係がただの気まぐれというのなら、せめてこの時間だけでも、独り占めにしていたい。そんなイリヤの細やかな願いと裏腹
に、夜明けの気配はすぐそこまで迫っていた。
六、
熱の籠った吐息がソロの顔にかかる。見上げた視線の先の表情は余裕がなさそうで、堪らず身体が反応してしまう。「欲しい」心の底から、素直にそう思った。与えられるすべてを、余すことなく受け止めようと、イリヤの背中に腕を回す。ぐっと鼻先まで近づいた瞳は、いつもよりも濃く、ギラギラと輝いていた。太陽のような髪を振り乱す頭、額から顎へと伝って落ちる汗、くぐもった呻き、濃い匂い。全部が愛おしくてしょうがない。揺さぶられる力が次第に強くなる。イリヤの背中にしがみつくソロの手にも力が入る。高まる熱はすぐそこまできていた。
「んっ、ああっ…!」
ソロの嬌声を合図にお互い、息も絶え絶え弾ける。瞼の裏に星が舞うような快楽に揺蕩う。ようやく登りつめたが最後、幸福の絶頂はあっという間、潮のように引きはじめる。これで終わりだと分かっているのに、繋がりを解いてほしくない。そんな気持ちからつい、足を絡めてしまう。
「ソロ、もうこれで――」
終わりにしよう。続く言葉が聞きたくなくて、顔をすり寄せ無理やり口づけを強請る。イリヤは困ったと言わんばかりに眉を寄せ、ソロの唇にそっと触れるだけのキスを落とす。ああ、なんて、優しくて残酷なんだろう。そんな顔するぐらいなら、突き放せばいいのに。イリヤの優しさに付け込んだ行動をとっておきながら勝手に感傷に浸る。
何もかも終わってしまうなら、せめて痕ぐらいは残ればいいのに。ソロは自らにくすぶり続ける感情をイリヤの背中に深く食い込ませた。
七、
密やかな甘い時間は深夜にこっそりと、人目を盗んで食べるアイスクリームのように儚いものだ。恐る恐る舌に乗せれば瞬く間に溶けだして、すぐに無くなってしまう。口内には仄かな甘さだけが残り、いつまでも消えない余韻は、新たな渇きを呼び覚ます。どうにか忘れ去ろうとしても、舌先から喉奥まで焦がれる思いが、より鮮明になるだけだ。
青白い月明かりに照らされたソロの前髪を指で掬う。濡れて逆巻く束ををくるくると指に巻き付ければ、くすぐったかったのだろう、ふっと鼻をひとつ鳴らされる。手を伸ばせばすぐに触れられるほど、こんなにも近くにいるはずなのに、イリヤには何故だか、ソロが遠くに感じてならなかった。
「おまえはおれをどうしたいんだ」
ソロのしっとりと汗ばんだ胸板にそっと手を置いて尋ねる。答えは当然のように返ってこない。鍛え上げられた体は温かく、見た目以上に柔らかい。イリヤの手のひらに伝わるこの体温のように、ソロの心のうちも触れただけで確かめられたら、どれだけ楽なんだろう。
「おれはどうしたらいい」
薄暗い部屋にイリヤの本音が漏れる。しばらく待ってみたところで、ソロの規則正しい寝息が聞こえるだけだった。
八、
手に入れたいと思ったものは手あたり次第、自分のものにしてきた。今になって思う、どれも別に欲しくなんてなかったのだと。自分の手元にあることで、安心したかった。ただ、満たされたかった。生きるためだと自分に言い聞かせ、何度も繰り返した。たくさんのもので埋め尽くされても、満足することはなかった。気がついた時には、何のためにやっているのかわからなくなっていた。そうして手にしたものをほとんどを失って、ようやく気がついた。自分が心から満たされることなんてないのだと。
「聞いてるのか、カウボーイ」
むすっとした表情のイリヤが此方を見つめる。訝し気に寄せられた眉、瞬くたびに煌くまつげ。心の奥底に秘めた思いをを見透かすような冷たいブルーの瞳。その全てが、ソロの心を掴んで離さない。今ここで、すべて欲しいと口にしたら、どんな音を立てて歪むのだろう。
「悪い、それで何だった?」
「これだから、三流スパイは――」
確かに、三流かもしれない。敵国のスパイに恋い焦がれるなんて。どうかしていると言われても、冗談の一つだって言い返せやしない。でも、こんなに近くにいるのに、気づかないとは、お前も三流だよ。なんて言ったら、いったいお前はどんな顔をするのだろう。
九、
外の喧騒から切り離された部屋に紙をめくる音が静かに響く。イリヤの向かいで真剣な面持ちで資料に目を通すソロの撫でつけられたブルネットが、窓の外から降り注ぐ陽光によって艶やかに光る。つい数時間前までのベッドの上での表情など、微塵も感じさせない完璧な姿がそこにはあった。
「なんだ?顔になにかついてるか?」
イリヤの視線に気づいたソロが見つめていた資料から顔をあげる。何気なく上げた眉の角度でさえ、腹が立つほど完璧だ。「見惚れていた」なんて言えば、どんな表情をするのだろう。まあ、こんな陳腐な言葉、言われ慣れているソロにはこれっぽちも響かないに違いない。
「相変わらず、ムカつく顔だなと」
「まったく、乱暴な褒め方だな。ありがたく受け取っておくよ」
ブルーターコイズに一雫、コッパーを落としたような瞳が軽く閉じられ、イリヤの口先だけの嫌味など、ウインク一つで簡単にあしらわれてしまう。ああ、本当にムカつく。憎たらしいと思うのに、その表情すら目が離せなかった。
十、
「ほんの戯れだ」
そう言ってイリヤを嗾けたのは自分だった。どうせ叶わないのなら、一度だけなら求めたって許される気がした。それなのに、どこで間違えてしまったのだろう。
視界が滲んで目の前のイリヤがどんな表情をしているのか、はっきりとわからない。頬に生暖かいものが伝い、落ちていく感覚に初めて、自分が泣いているということに気がついた。ゆっくりと瞳を閉じ、両手で顔を覆うが、あふれ出した雫が止まることなどなかった。
「どうした?」
ソロの異変に気がついたのだろう。目を閉じた真っ暗な世界の中、聞こえるイリヤの声はとても優しかった。イリヤがどんな顔をしているのか、この目で確かめたくてしょうがないのに、顔を見てしまったら、あふれ出る想いが余計に止まらないような気がして、怖い。何とか返事をしようと試みたが、声が震えて上手く喋れる自信がなかった。
「泣くほど嫌だったか?」
心が締めつけられるようなイリヤの声に、ソロは慌てて首を横に振る。自分が求めたんだ、嫌なわけがない。それなのに、苦しくて堪らない。イリヤは悪くない。悪いのは全部、僕なんだ。そう言いたいのに、嗚咽にもならない声だけが溢れ続けた。