青の雫一、
「お気に入りだったのに」
シーツの上に散らばったボタンの一つにソロが手を伸ばす。その声はなんとも悲哀に満ちていた。そんな声を耳にすれば、思わず「悪かった」と謝ってしまいそうになるだろう。が、イリヤ・クリヤキンはそうはしなかった。まあ正直なところ、自らの行動に全く非がなかったとも思わない。現にソロが肩に羽織っているお気に入りだと言うシャツは、イリヤの手によって大半のボタンが弾け飛んでしまい、皺だらけで見るも無残な有様だ。補正をすれば着られないこともないだろうが、ソロはそんなことまずしない。犠牲となってしまった服には申し訳ないが、ソロが謝罪の言葉なんか求めていないとイリヤはわかっていた。
「俺は悪くない」
「ペリル、お前ねぇ」
「元はと言えば、お前が――」
「僕のせいにするのか?」
イリヤの言い訳を遮り、心の底から「呆れてます」と言わんばかりの声をあげ、じっと睨むような目つきのソロだが、その口元は緩んでいて実に楽しそうだ。実際のところ、ソロにとってはシャツがどうなってしまおうがどうでもよくて、襤褸切れになってしまった事実のほうが重要なのだ。
「じゃあ、煽らなければいいだろ」
「まったく、素直じゃないな」
自分だって素直に欲しいと言えないくせによく言う奴だ。どうにか言い返してやりたいところだが、どうせ上手く丸め込まれるだけだ。これ以上は沈黙を貫くことが正解だとイリヤは知っている。認めたくはないが素直になれないのはお互い様なのだ。
意地を張って素直に欲しいと言わないのなら、音を上げるまでとことん付き合ってやろう。イリヤはひどい格好のままで拗ねてみせるソロの口を奪うように塞いだ。
二、
「(見つめられている…?)」
普段から口数の少ないイリヤが、今日はいつにも増して大人しい気がして、ふと資料から顔を上げる。ソロの向かいに腰を掛け、ひたと視線を寄越す張本人は、食い入るように一点見つめていた。
「(いや、これは睨んでいるな...?)」
イリヤの伏し目がちの目の奥、普段の突き抜ける青空のように澄んだ瞳が鈍く光って見える。ゆらゆらと得体のしれない濃い緑色の炎を灯した瞳は、ソロの左手の薬指を捕えて離さない。
「(自分がどんな目つきをしているかわかってるのか、此奴…)」
イリヤはソロが自分の様子を窺っていることに気がついていないようで、瞬きを忘れてしまったのではないかと思うほど、煌くシルバーのリングに釘付けになっている。ソロはそんな一心不乱に視線を注ぐイリヤの姿に、なんだかむくむくと悪い心が芽生えてしまい、ちょっと面白半分でひらひらと視線を弄ぶように左手を宙に漂わせてみる。
「おーい、聞いてるのかペリル?」
「――悪い、何の話だった?」
びくっと肩を揺らしたイリヤが顔を上げる。ハッとした表情でこちらに向けられる顔は、いつもとあまり変わらないようで、その実、ソロの左薬指に輝くモノを追っている。
「今回の設定どう思う?似合うか?」
「…知らん」
これ見よがしに左手の甲を掲げてみれば、嬉々としたソロの表情が気に食わないのか、それとも、今回の任務の既婚者というソロの設定が気に入らないのか、イリヤはムッと眉間に皺を寄せ視線を逸らす。あまりにも素直な反応をされ思わず頬が緩んでしまう。イリヤが不機嫌になった理由が後者だったらと思うと、なんだか悪い気はしなかった。
三、
ドリッパーにフィルターをセットし、そのままお湯をかける。ソロが言うにはこの作業をするしないで、味に違いが出るらしい。とりあえず毎回言われたとおりにやっているが、どう違うのか正直よくわからない。サーバーに溜まったお湯を捨て、今度はフィルターにコーヒーの粉をセットし、そろそろと細くお湯を注げば、粉がゆっくりと膨らみはじめた。もこもこと盛り上がるのを合図に一旦手を止めると、コーヒーの豊かな香りがイリヤの鼻腔をくすぐる。お湯をなじませるようにドリッパーをゆっくり回す。すると、辺りにはさらに香りが広がった。少し間をあけて、再びゆっくりとお湯を注ぎだす。静かなキッチンに朝の空気が漂いはじめた。
「いいにおいだ…」
ケトルを置いて声のする方へ振り返れば、ナイトガウンを身に付けたまま、ふわふわと逆巻く髪を揺らすソロが立っていた。僅かに眠気を纏った顔は髪型も相まってどこか幼く見える。
「ようやく起きたか」
ソロは返事をせずに、こくりと頷きながらイリヤに歩み寄る。どうやらまだ完全に目が覚めてないらしい。寝起きのソロはいつもと違って口数が少なく、普段よりちょっとだけ素直に感じる。時折見せるそんな無防備な姿は、正直なところ嫌いじゃなかった。
「ん、うまい」
イリヤから受け取ったコーヒーを口にしたソロがぽつりと呟く。イリヤも後を追うようにコーヒーを口に含む。うん。確かに、うまい。これがソロの言う違いなのか自信はないが、悪くないと我ながら思う。
いつものナポレオンソロが出来上がるまでのひととき。イリヤの日課となりつつある朝の風景がそこにはあった。
四、
ぼそぼそとした、か細い声を耳が拾う。その声によってぼんやりとソロの意識が覚醒していく。微かに聞き取れた言葉はどうやらロシア語のようで、ぽつりぽつりと紡がれる内容はあまり耳を傾けないほうがいい、そんな気がした。
ゆっくりと目を開き、あたりの様子を確認する。声の主はソロの隣で眠るイリヤで間違いなかった。此方に顔を向けて眠るイリヤは、眉間に深い皺を寄せていて、とても穏やかとはいえない表情だった。
「イリヤ、それは悪い夢だよ」
目元にさらさらと落ちた前髪にそっと指を通し、なだめるようにイリヤの額に触れる。こんなことをしたって無意味かもしれない。それなのに気がついた時には、自然と手が伸びていて、慰めずにはいられなかった。イリヤの様子を窺いながら、繰り返しそっと撫で続けた。
それからどれぐらいの時間が経ったのか。うなされ続けるイリヤの瞼から、ふいに透明な雫がこぼれ落ち、一筋の線となって流れていった。もうすぐ夜が明ける。ソロはイリヤの流した涙が枕に染み込んでいく様を、じっと見守ることしかできなかった。
五、
右手にアタッシュケース、左手の小指には印章指輪。グレーのスーツを纏いサングラスをかけて颯爽と歩く姿は、そこがチェックポイントチャーリーだと忘れてしまうほど優雅で堂々としていて、任務とはいえ目を奪われてしまったのを憶えている。こんな奴がスパイだなんて、どうかしている。それがソロを初めて目撃した時の率直な感想だった。
「悪い、待たせた」
白のシャツに、黒いスラックスというラフな格好で現れたソロがイリヤに声をかける。いつもの艶やかに撫でつけられた髪は、軽く梳かしただけのようで、緩くウェーブを描いて風にそよいでいる。二つほど開けられたシャツの胸元にはサングラスがかけられており、謝罪のつもりか軽く挙げられた左手には、あの時と同じように印章指輪が光っていた。
「遅い、いつまで待たせるつもりだ」
「ちょっと声をかけられてね」
軽くウインクしておどけてみせるソロは茶目っ気たっぷりで、こんな人通りの多い場所でさえ、人目を惹くような人物がスパイだなんて、いったい誰が信じるのだろう。一緒に任務をするようになって、多少はソロのことを理解したつもりでいるが、こんな奴がスパイだなんて、やっぱりどうかしている。あの時と同じように目を奪われてしまったことは棚に上げ、心のうちにしまっておくことにした。
六、
イリヤが盤上を鋭い目つきで睨んでいる。ソファーにやや浅めに腰を掛け、右の太腿に右ひじを置き、同じく右手の親指と人差し指で摘まむように唇に触れながら考え込む。これはイリヤが長考するときの癖だ。どうやら現在の局面はそれなりに難解のようで、随分長いこと同じ姿勢のままでひたすら唇をいじり続けている。
この癖のことを一度指摘したことがあるが、イリヤ本人はどうやら言われるまで知らなかったようで、無言で自分の親指と人差し指をじっと眺めていたのを憶えている。ひとり、チェスに勤しむイリヤの姿を眺めるのも悪くはないが、今日はさすがに長すぎる。見つめるだけの一方的な状況に飽きてしまったのでソロは盤外戦術を試みる。
「ほら、またやってるぞ」
「何の話だ」
「唇を触るその癖のことだよ」
「それがどうした」
「だからいつも唇がかさついてる」
「いいだろ別に」
「キスするときにひりつくって言えばわかるか?」
「それは――」
ようやく視線を此方に向けたイリヤが唇に指を当てたまま固まる。指摘されたことを気にしているのか、指先を微かに動かして確かめている姿がなんともいじらしい。
「悪い、気をつける…」
「リップバームならバスルームに僕のがあるぞ」
ソロの一言に頷いたイリヤはゆっくり腰を上げると、とぼとぼとバスルームへと向かう。どうやらソロの作戦は効果があったようだ。ついでに唇に優しい口づけも期待できそうで、イリヤが見ていないのをいいことにソロの口元は思わず緩んでしまうのだった。
七、
「またか…」
ため息の混じった声が思わず口から零れる。夜の帳が淡く霞み出した時間、イリヤは目が覚めてしまうことが度々あった。元々、自分が眠りの浅い体質なのだと重々承知しているが、こんなことが頻繁に起こるとなると正直、気持ちがよいものではない。まあ、自分が属する組織の性質上、ぐっすりと熟睡できるのもどうかと思うが、それぐらいの図太さもこの職業においては大切なのかもしれない。隣で寝ている人物なんてまさしくそんな奴だ。
「相変わらず、よく寝れるものだ」
ソロの心地よさそうな寝息が夜のしじまに儚く響く。イリヤの些細な悩みなんてこれっぽちも知らなさそうに寝顔を晒すソロは、嫉妬を通り越して羨ましく思えるほど安らかだ。一緒に任務をこなすようになった最初の頃は、ソロの眠る姿なんて全く想像できなかったが、今となってはすっかり見慣れたものになってしまった。
「どんな夢をみたら、そんな寝顔になるんだ?」
人の手で作り上げられた彫刻作品と言わんばかりに、表情を変えないソロの鼻先を興味本位で指で突いてみる。むず痒かったのかソロは眉間に僅かな皺を寄せると「んんっ…」と密かな唸り声を漏らした。流石に起こしてしまったかと思ったが、一つ身じろぎをすると、ソロはすぐにまた寝息を立てはじめる。まったく、幸せな奴め。規則正しいソロの呼吸音がイリヤを夢へと誘うには、もうしばらく先になりそうだった。
八、
右腕に痺れを感じる。そして、なんだか妙に熱い。自分の身に起きた謎の違和感に、ソロの目がさえていく。変に力でも入っていたのだろうか。徐々に浮上していく意識の中、痺れの走る腕に力を入れてみるも、少しも動かすことができない。これは流石におかしい。左手でシーツを捲り、腕を確かめるべく恐る恐るその中を覗いてみる。
「原因はお前か、ペリル」
思いもよらぬ原因にじわじわと体の力が抜けていく。なんて力をしているのかこいつは。ソロの腕にしがみつき、がっしりと締め上げるようにして眠るイリヤの姿に思わず苦笑いをしてしまう。
「まったく、逃げられないじゃないか」
まあ、逃げるつもりなんてこれっぽっちもないのだが、あまりの力強さについついそんな言葉を漏らしてしまう。ソロの言葉なんて全く耳に届いていないのだろう。イリヤの寝顔は変わることなく、目を覚ましそうな気配もない。
「明日、右腕が使い物にならなかったら、お前のせいだからな」
朝になって目が覚めて、自分の行動に気づいたイリヤはどんな顔をするのだろう。いっそこのまま寝ずに眺めていようか。甘え下手な相棒の少々、力任せな愛情表現にソロは目を細める。
「ずっとここにいるから、次からはもっと優しくしろよ」
朝の気配はまだまだ遠い。ふわふわと眠気が霞がかる意識の中でも、ソロの腕を包む込むイリヤの力は少しも緩むことはなかった。
九、
「…うまい」
それはいつもと変わらない夕食の時間、自然と口からこぼれた一言だった。何気なく放った言葉のせいか、部屋は沈黙に包まれる。食事中に出てくる言葉として、おかしなものではないと思うが、どこかまずかったのだろうか。不意に訪れた無音に違和感を覚え、一緒に食事をとるソロへと目を向ける。イリヤの視線の先には、鳩が豆鉄砲を食ったかのようにきょとんと目を丸くしたソロの姿があった。
「なんだ?変なことでも言ったか]
「ペリル、お前熱でもあるのか?」
不思議そうな顔をしたソロが手を伸ばし額に触れてくる。もちろん、熱なんてない。むしろ、添えられた手の方が熱いくらいだ。思いもよらない言動に、こっちのほうが困惑しながら、ソロの手を払おうと手首を掴む。親指に伝わる脈拍がやけに早く感じた。不審に思ってソロを見つめれば、先ほどの驚いた表情とは打って変わって、ほんのりと頬を赤く染め、目を伏せてなんともいじらしい顔をしていた。
「熱などない。お前の方こそ熱があるんじゃないか?」
「ないよ、そっちが急にらしくないこと言うからだろ」
「らしくないこと?」
「突然『うまい』とかそんな、今まで言ったことなかっただろ」
ぼそぼそと言い訳でもするようにソロが口を尖らせる。ああ、そうか。自分はこれまで、散々ソロの手料理を食べてきたのに、ちゃんと口に出して感想を言ったことなどなかったのか。ほんのりと拗ねたようなソロの表情に、今まで大事なことをちゃんと伝えてこなかったのだと気づかされる。
「すまん。うまいのが当たり前で、言うまでもないかと…」
「ペリル、言葉にしないとわからないことだってあるんだよ」
「悪い。いままでもずっと、うまかった」
「そっか、それはよかった」
ふわりと柔らかくほほ笑むソロの瞳が青く揺れている。なんで、もっと早く言わなかったんだろう。いまさら後悔したってしょうがないが、心の奥がキュッと締め付けられた気持ちになる。もっと伝えたいことはたくさんあるのに、どれも後付けのような気がして、うまく言葉で表現出来ない。せめて気持ちぐらいは伝えたくて、掴んだままのソロの手をそっと自分の口元に近づける。ちゅっと可愛らしいリップ音が二人だけの空間に小さく響いた。
十、
「ほら、これを持っていけ」
単独での潜入任務に向かうため、セーフハウスを出ようとしたところ、突然イリヤに呼び止められる。思わず振り返り、問いかけるようにイリヤに目をやる。すると、不意に手を取られ、いきなり何かを押し付けてくると、そのまま大きな手にぎゅっと握り込まれてしまった。あまりに唐突すぎて、頭が追いつかずきょとんとした表情でイリヤを見つめてしまう。目の前のイリヤは顎で「開いてみろ」と促すだけだ。押し付けられたものを確かめようと徐に握りこぶしを開く。ソロの掌には盗聴器がころんと一つ乗っていた。
「なんだこれ」
「盗聴器だ。見てわからないのか」
「いやいや、そういうことじゃなくて」
「何が言いたい?」
「必要ないだろ、すでに持ってる」
ソロは自分のジャケットの胸ポケットに手を突っ込み、お目当てのものを探ると見せつけるようにイリヤの目の前に差し出す。イリヤはソロの手にあるもう一つの盗聴器を見るなり、ふっと一つ鼻で笑ってきた。
「こんなローテク、持ってても意味がない」
「ローテクって、お前。今はそんな争ってる場合じゃないだろ」
「争ってなんかない。そもそも争うまでもない。いいから黙ってこれを持っていけ」
イリヤはソロが初めから持っていた盗聴器を取り上げると、自分が押し付けた盗聴器を再びぎゅっと握らせてくる。どっちだって変わりはないのだろうが、これ以上のやり取りはめんどくさいので渋々持たされた盗聴器をしまい込む。やれやれと呆れた表情で目を向けると、イリヤは眉を一つ上げて満足そうな表情をしてきた。子どもかお前は。まあ、これぐらいのことで機嫌を取れるのなら、容易いことだが。
「それじゃあ、行ってくるよ。もしもの時はよろしく頼んだ」
イリヤは返事をせずに「うん」と力強く頷くだけだ。少々荒っぽいが相棒の頼もしい姿に思わず笑みがこぼれる。これらの言動がイリヤなりにソロのことを心配した上での行動だったとソロが気づいたのは、もうしばらく後になってのことだった。