あの日のあと / きっと寝言だ、と君は言うあの日のあと
いつもの場所に置いているはずのものが、その場所に無かったとき、当たり前の風景が音もなく崩れていく感覚が体を襲う。ちょうど、そのような感覚がイーサンを包み込んでいた。
イーサンとの壮絶な殴り合い、もとい闘いを終えたその人物は、文字通りぼろぼろだった。再起不能にまで追い込んだ張本人であるイーサンですら、争い後の姿をまじまじと見ることは憚られたほどだ。
一方で当の本人は、イーサンが知る限り以前となんら変わらない様子で、そんな気丈な姿に驚かされたことを今でも覚えている。そんな彼の姿を他の人に見せることが、なんだかたえられなくて、「保護観察」との名目でイーサンが所有するセーフハウスの一つで、監視という名の共同生活を始めて今に至る。それが僕と彼の関係だ。
まあ、そんな思い出話は置いておいて、その曰くつきの人物が姿を消してしまったのだ。いくらイーサンといえど、焦らないはずがない。夕暮れ時のこの時間、窓辺のソファに腰をかけ、眩い夕日を浴びながら読書をしているはずなのだが、いつもの場所に彼の姿がなかったのだ。
一度、眩しそうな表情で読書をしている姿に、「場所を移動したら」と言ったことがある。そうすると、ずっとにらめっこをしていた本から顔をゆっくり上げ、ちょっとだけむすっとした顔つきで、「ここでいい」と言われた。その様子といったら、初めて接した頃となんら変わらなくて、ちょっとだけ嬉しくなったものだ。
しかしながら、イーサンの目の前のソファはがらんとしており、あるべき姿がない。イーサンは思わず舌打ちをした。自分自身に。
あの、表情やしぐさ、今までの共同生活は彼にとって偽りだったのだろうか。まあ、大人しくなったとはいえ、希代のテロリストだ。相手がイーサンとはいえ、騙すことなんて彼にとっては造作もないことかもしれない。
ましてや、完全に油断していた自覚がある。彼と過ごしていく内に、もっと別の出会いがあったはずと幾度思ったことかわからない。きっと、もっと早く出会っていれば、あんなことにはならなかったはずだ、と。
イーサンは主を失ったソファに腰をおろし、深いため息を吐く。ああ、なんて眩しいのだろう。こんなに眩しかったら、本なんて読めやしなかっただろうに。溢れ出そうな感情を抑え込みながら、ふと顔をあげる。ちょうど視線の先には、イーサンが彼を眺める時に座っていた一人掛けのソファが目の前にあった。
全く、馬鹿だなあ。君も僕も。やっぱり、僕らは出会うタイミングを間違えてしまったようだ。きっと、悪くない関係になれたはずだ。あの日、君につけたあの痕がたまらなく恋しくなった。
きっと寝言だ、と君は言う
任務という名の一仕事を終え、自身の隠れ家に帰ってきたイーサンの足取りは、感じている疲労感とは裏腹に、思いのほか軽いものだった。
時刻はてっぺんをのぼった頃。まだまだ、夜更けというには早い。しかし、同居人にとってはそうではないようだ。イーサンは一つも残さず消されてしまった部屋の灯りをつけていき、自分の帰宅を知らせていくが、迎えてくれる人の姿はそこにはない。まあ、わかりきったことであったが、寂しい気持ちは否めない。一緒に生活をしてみて知った彼の性格上、出迎えてくれたことなんて一度もないのだが、それでも毎回のごとく姿を探してしまうのだ。
部屋中の灯りという灯りを散々つけて回って、最後に残った一つの部屋、寝室へと向かう。戸を完全に閉められていない寝室は、一見真っ暗に見えるが。明るい廊下から目を凝らして見てみると、ぼんやりとした光が見える。その光景に少しだけ、イーサンは胸をなでおろす。探していたものが、見つかった時のような安堵感を覚えながら、寝室へそっと入った。
寝室、といってもクイーンサイズのベッドと、その脇に小さなテーブル。そして、その上にテーブルランプが置いてあるだけの簡素な部屋に、イーサンの探している人物はいた。
「もう、寝てしまったかな?」
イーサンは控えめな声で呼びかけながら、ベッドのそばへと近寄る。本来、このベッドはイーサンのものなのだが、まるで自分のものとでも言うようにベッドの真ん中にどんと横になっている彼からは返事はない。イーサンはベッドの脇に腰掛けながら、ベッドサイドのランプを消そうと手を伸ばす。
「消さなくていい」
突然、発せられた声にイーサンの手がぴたりと止まる。ほんの少しだけ心臓が跳ねたのは内緒だ。
「なんだ、起きていたのか?」
イーサンの問いかけに、オーガストは返事をしない代わりに、片方の眉を器用にあげた。
「てっきり、寝ていたのかと思って。これ、眩しくないのか?」
「眩しくはない。それに、別に寝てない」
「そっか、もしかして待っててくれた?」
「まさか!ただ、なんとなく寝付けなかっただけだ」
瞳を閉じたまま、淡々と答えるオーガストのいつもと変わらない様子に、イーサンはふっと笑みをこぼす。いつもの少しだけむすっとした表情に、なんだか安心してしまった。
「ただいま。今日は、どんな一日だった?」
「どんなって、代わり映えのしない、退屈な一日だ」
「ふふ、それはある意味、平和な一日ってことだ」
イーサンはずっと目を閉じたままのオーガストの額に手を伸ばす。イーサンの冷え切った指先に確かな熱が灯る。
「つめたい」
「これは失礼。君の額の皺を伸ばしてあげようと思って」
「なんだその言い訳。誰のせいだと?」
「それって、僕のせいってことかい?それは申し訳ないな...」
「ふっ...!」
イーサンの形ばかりの謝罪に、オーガストがくすっと笑う。やっとちゃんとした会話が出来たようで、なんだか嬉しくてついつい会話を続けてしまう。
「もう、寝てしまうのか?」
「あんたがここから出ていけば」
「そう、じゃあずっと居座っていようかな?」
「迷惑なやつだ」
オーガストは口をとがらせて悪態をつくが、その表情はどこか楽しげだ。イーサンは額に置いたままの指をするりと滑らせ、オーガストの開くことのない瞼にそっと触れる。
「ここ、痛くはない?」
「今更、勝手に触れておいて。痛いといったらどうする?」
「君が痛みを感じなくなるようにする、かな?」
「ふふ、なんだそれ。何をするつもりだ?」
「君が許してくれるのなら、元通りにでもしようか?跡一つ残さず、元の顔に」
「なんだ、手術でもしようっていうのか?」
「そうだね、もし君が望むのなら」
「いや、いい。このままで」
「そっか、残念だな。いい提案だと思ったんだけど」
「別に必要ない。もう痛み、というかもう何も、感じないんだ。だから、なくなってしまったら、忘れてしまいそうで、怖い。それに、あんたのこと―――」
オーガストの言葉が肝心なところで不意に途切れる。しばらく、次の言葉を待ってみたが、イーサンの耳にはすーすーと繰り返される規則正しい呼吸の音しか聞こえなかった。
「なんだ、本当は眠たかったんだろう」
意地っ張りめ、と悪戯っぽく声をかけてみるが、オーガストからの返答は可愛らしい寝息が聞こえるだけだ。彼はいったい何と伝えたかったのだろうか。今となってはもう、知る由もない。どうせ、夜が明けて目覚めたところで問いかけたって、そんなの寝言だとか知らないとか言って、無かったことにされてしまうのだろう。それでも、ほんの少しはオーガストの心に触れられた気がしてならない。
先ほどの言葉が、仮に夢と現実の間で溢した寝言だったとしても、それでもイーサンには、嘘偽りないオーガストの本心に感じられてしょうがなかった。