謝罪なんて乞えやしない『可哀そうに』
もう何度も言われ、聞きなれた台詞が耳を滑る。
昔から自分の境遇を知られれば、誰もかれも、口にするのは同じ言葉だった。
親に捨てられた子。拾われ、軍に身を預けるしかなかった人生。
選ぶ道が限られた哀れな子どもだと、大人らは訳知り顔で痛ましそうに眉を下げては、けれど決してこちらに手を伸ばすことをしなかったくせに。
どちらが、残酷なのだろう。
なにが、違うというのだろう。
捨てた親と、哀れみながらも顔をそむけた他人と。
ただひとつ。わかることは、少なくとも、手を伸ばし、拾い上げ。育ててくれたひとに、それらはどれほど言葉を重ね、哀れんでみせたところで敵わないということだ。
洗脳だ、と。思うのならそれでいい。
そう生きるしかなかったせいだ、と。罵られるのも別にいい。
所詮、赤の他人が吐く言葉だ。
なにも知らぬ者が宣う戯言だ。
聞き流す方がよっぽど利口。同じ舞台に立つ必要もない。
――そう教えてくれた存在は、もうここには居ないけれど。
『ほら、あのひとだよ』
『ああ、本当に災難よね』
『可哀そうに』
耳に胼胝ができるほど、聞かされた言葉が足音の向こうに掻き消える。
憐れむなら、当人のいない場所でささやけばいいのに。
どうして悲劇のヒロインに仕立て上げられなければならないのか。
他人の心というものはてんで理解できない。したくもない。
普段なら、そんな風に向けられる眼差しには、立ち止まり笑顔を見せることにしている。
気にかけてくれてありがとう。大丈夫。ほら、仕事の手を止めないで。やることは山積みでしょう。そう言って、手を叩き。慌ただしく背を向けてかけていく彼女らを見送る。その程度の『同情』だ。
ままある日常だった。
話題の中心が、アタシであれ、別の誰かであれ。身を置く組織の都合上。いくらでも『悲劇』は生まれる。彼女らが思い描くヒロイン像を演じることなど容易い。
だども、今日は――今だけは、取り繕う余裕など、まるで持ち合わせていなかった。
低いヒールを打ち鳴らす。押し黙る気配に、視線を寄こす暇などない。
ただ噛み殺し損ね、薄く開いたくちびるから零れ落ちた嘆息だけが、未だ悲壮感を漂わせた仄暗い廊下に落ちた。
固く閉ざされた扉の前で、肩を喘がせた呼吸を止める。
忙しないほど胸を打ち付ける鼓動を宥めるようにゆっくりと息を吐き出して、吐息の尾を追いかけ手のひらを握りしめた。
ノック音をみっつ。静寂に響かせたところで、応える声はない。
想定の範囲内だ。
もう一度、深く深く息をする。
痛む心臓は、きっと乱れた呼吸だけの所為じゃない。
そんなことくらい、もうちゃんとわかっていた。
それでもアタシは『悲劇のヒロイン』になるわけにはいかないのだ。
握りしめた手で、再び扉を打ち鳴らす。
やっぱり返ることのない声に、ひとつ頷いてドアノブへ手をかけた。
深呼吸にほど近い呼気を解き、息を止める。
「入るよ」
返事はない。でも、もう躊躇いはしなかった。
意を決した勢いのまま、手をかけたノブを回し扉を開く。
主を失くしたばかりの部屋は、まだ彼の面影を色濃く残したままで。ほんの少し、踏み込む足に、新たな躊躇いが顔をだした。それでも。
――立ち止まるな。
立ち止まってくれるな。
くちびるに歯を立て、食いしばる。
痛みは不思議となかった。
それでも情けなく震える指先を嘲笑っては、また心に刻み込むように言葉を繰り返した。
立ち止まるな。ためらうな。
ここでアタシまで逃げたら――あの子から、目をそらしてしまったら。それこそ自ら進んで『悲劇のヒロイン』になるようなものだ。
軽く頭を振り、前を向く。
すっかり太陽が顔を出した時間だというのに、短い廊下の先にある部屋は暗い。
でも、やっぱり。主を失くした部屋に『あの子』がいる確信は消せないままだった。
「律命くん」
たったひとつきりの部屋と廊下を隔てる扉を開く。
寝台に腰かける影を認めて、ああ、やっぱりいた、と。ようやっと胸を撫でおろした。そうやって撫でおろせたことに、少しだけ肩の力が抜けた。
自然と頬がほころび、口角が持ち上がる。
不謹慎な顔だろうか。でも、今はそれが正解であってほしい。
ほぅと解いた吐息は、その姿を見せることのないまま、暗がりに溶けて消えてゆく。
「ダメじゃない。まだ傷も治ってないんだから」
病室から律命くんが姿を消したと聞かされたのは、ほんの十数分前のことだ。
まだ身体の傷も癒えぬうちに、彼が向かう場所など、深く考えるまでもなかった。
俯いたかんばせがおもむろに持ち上がる。暗がりに慣れ始めた視界に、月に似た眼差しが絡んだ。
反射的に半歩足を引きかけて、重心が傾くに留める。
続けるべき言葉は、見当たらなかった。
病室に戻ろうと誘うのも。救護班を困らせないでと叱るのも。なんだか違う気がした。
もちろん。探したよ、とうそぶくのも。
もしかしたら、返すべき『答え』なんてものは、はじめからなかったのかもしれない。
「――アンタ、俺を……恨んでねぇの」
「っ」
だから、静かな声でそう尋ねられて、息が詰まった。
形だけ作られかけていた言の葉が、その途端に霧散する。
おもむろに解かれた台詞は、まるで剣で胸を突き刺すような痛みを連れて。ひゅっと小さく喉が鳴いた。
考えも、しなかった。
恨むだなんて、頭にもなかった。
そう言えたら、どれほどよかっただろう。
それほどできた精神でいられたら、どんなによかっただろう。
なにかが少しでも違っていたら。変わっていたら。『彼』はいなくならなかったかもしれない。
誰かが囁いた。アタシが立つことのなかった戦場の話を。
誰かが語った。あの光景の悲惨さを。
その中心にいた『ふたり』を――くだされた決断を。蚊帳の外に置かれたアタシが何を言えるわけもない。
――ああ、そうか。
「律命くんは、アタシに恨んでほしいんだね」
不意に、合点がいく。
自然とくちびるは動いた。思いのほか、優しい声だった。
先のアタシを習うように、彼が息を詰めるのがわかる。
残酷なことを問うているだろう。酷いことを口にしている。その自覚はあった。
と、するのならば。これはきっと、アタシの復讐なのだ。
音もなく。暗がりでくちびるが戦慄く。くしゃりと崩れた眼差しを見て思い出すのは、はじめて彼に出会った日のことで。
あぁほら、やっぱり。恨むことなどできもしないのだと思い知らされる。
一歩。床を踏みしめた。カツンと鳴る靴音に、華奢な肩が跳ねる。
いくら鍛えてもあまり筋肉がつかない性質なのだと、いつだったか。彼とふたりで眉を顰め合っていた日常が懐かしい。
もう二度と見られない光景だ。
その覚悟は、もうずっとしていたはずなのに。いざ、その場に立ってしまうとどうしようもなく心が掻き乱される。
置いていかないでほしかった。
アタシもつれていってほしかった。
知らない場所で、いなくならないでほしかった。
――アタシのいないところで。手の届かない場所にいかないでほしかった。
「ごめんね」
手を伸ばす。
痛々しい傷を残した頭をそっと胸に抱き寄せれば、零れたのは小さな嗚咽だった。
寄る辺のない子供のように、震えたその背を手のひらで撫でつける。
「っ、ぁ」
「ごめん。ごめんね、律命くん。アタシが君を責めてあげれれば……恨んで、あげれれば、よかったんだけどね」
泣いて。嘆いて。怒って。憤って。腹の煮え立つような感情を。行き場のない想いを。なにもかも吐き出せたなら。ぶつけられたなら。どれほど、よかっただろう。
恨んであげられればよかった。
恨めるような存在なら、きっとアタシたち二人は、こんなに苦しむことなんてなかった。
けれど、そんなこと、できるはずもなかった。
そんなこと、したくもなかった。
ほろりと揺れ崩れた視界を瞼裏に閉じ込める。抱きしめた指先が震えた。
「どうしても、できないのよ」
それは、きっと自分自身が望んだ道だった。
そうして、ここにいない『彼』が選んだ道でもあった。
震えた身体が、それでもすがる先を求めるようにアタシの背に腕をまわす。
まさしく親にすがる子供のような。居所を求めて、兄姉に手を伸ばす弟妹のような。至極年齢に見合った姿だった。
だから、本当にごめんなさい、と。謝罪を重ねることはやめる。
口を噤んで、そのくちびるをそっと彼のつむじに埋めて。それから、震える彼の身体を強く抱き締めた。