命の残量
時折、命の残量を考える。
どれほどの時間が残されているのか。
どれだけ、この世界に居ることができるのか。
――あと、どのくらい耐えれば、彼女の傍にいってしまえるのか。
そんなことを考えて、次の瞬間には小さく鼻を鳴らした。
バカバカしい。そもそも、彼女と同じ場所に行ける確証など、この世のどこにもないのだ。
「だいたい、俺が行きつくなら地獄だろうが」
あざけ、吐き捨てる。焼けて四隅が茶ばんだページの一片――言葉にしたばかりの単語のひとつを指先でなぞった。
古語で綴られているのは、なんとも凡庸で――そうして幻想的な死後の解釈だ。
死した魂はどこへ至るのか。還るのか。
そんなことを古の賢者とされたものが綴り残し、後世へと後生大事に語り継がれているとは。実に愚かしいことこの上ない。
死した後、魂がどうなるのか、なんて。生者が知るすべもなければ、死者が語る口をもつはずもないというのに。
それでも、賢者はくちびるを縫い留めやしなかった。
これが正しいのだ、と。これが、魂の行きつくところなのだと。傲慢にも言い切っては、悦にひたる。
それが無機質な文字越しでもよくわかる。
まったく、馬鹿な話だ。
天国も、地獄も。そうして、輪廻転生ですら。すべては空想の域を出ないというのに。
それとも、なんだ。この賢者はかつて『死』を体験し、『輪廻』をめぐり。この世に産み落とされたそんな記憶を有していたというのだろうか。
でなければ、結局のところ、すべては生きて残された側の願望に過ぎない。こんなものはただ古いだけの価値しか持たぬ、後世へ残す意味もないものに違いないだろうに。
それでも、生者は夢を見る。
死後の世界を望む。
天国に焦がれて、地獄を恐れる。
「……本当に、くだらない」
空の上で星になって見守ってくれている。そんなものは、ただ子供を慰める方便に過ぎない。
普段よりもいくらか乱雑に開いていた本を閉ざした。古紙の香りが鼻腔を抜ける。
臓腑の働きを確かめるように嘆息を吐きながら仄暗い部屋を見遣れば、壁面に埋め込んだ本棚に並ぶ背表紙と目が合った。
随分と増えたものだ。
ここに身を寄せた頃は、がらんどうとしていた本棚にはいつのまにか隙間なく本が押し込められている。それはそのまま、この世界に自分が未練がましく縋りついた時間を思わせて。瞼を伏せ、視線を閉ざした。
馬鹿らしい。なにを後ろめたく思う必要がある。
なにも、間違っていないじゃないか。
正しく、生に縋りついた証拠だ。これは。
かつての自分であれば手にも取らなかった文献が並んでいるのが、その証拠。
鼓膜に張り付いた懐かしい声が蘇るのを振り払うよう、深く長く息を吹く。
臓腑から呼気を絞り出して、息苦しさを垣間見た吐息の尾に、ふとノック音が重なった。
三度。叩かれた扉がおずおずと開かれる。光の筋と共に除いた空色の髪に、努めて眉間の皺をとく。
「どうした。ルセ」
柔らかく呼びかければ、交わる眸に微かな光が差し込んだ。
表情の乏しいこの子の感情を汲み取ることができるようになったこともまた、共に時間を重ねた証と言えるだろう。
揺れた空気に華やかな香りが混ざる。まだ少し便りのない足取りでこちらへ寄るその子供が両の手に包んだそれを見止めて、今度は自然と頬が緩んだ。
「お茶、そろそろなくなる頃かと思って」
「ああ、そうだな。丁度いい頃合いだよ」
つま先で床を蹴る。腰を上げて傍に寄る子を迎え入れれば、どことなく得意げな様子で両の手を――そのまだ幼い手のひらに包んだマグカップをひとつ差し出された。
ほんのりと湯気の立つそれを受け取り、卓上の上ですっかり冷めてしまったままたっぷりと中身の残ったマグを背で隠す。
こちらを見上げてくる眼差しに目を細め返し、そっと空いた右手でその頭を撫でた。
「お前の分は?」
尋ねれば、静かに首が横へ振られる。
こういうところがあるのは、いったい誰に似たんだろうか。少なくとも、彼女でも自分にもない気遣いだ。
短く嘆息を吹く。こちらを見上げる不思議な色を湛えた眼差しに、笑みを渡してならちょうどいいとその背を扉に促した。
「はかせ」
「休憩にしよう。確か戸棚に菓子が残ってたはずだ」
もちろん。お前の分の紅茶も淹れて。付き合ってくれるか。言いながら一歩、前へ踏み出した子に合わせて半歩足を踏み出す。こちらを振り返る眼差しに浮かぶ微かな戸惑いの色へは、その頭を撫でて返した。
行こう、と。マグに温められた指先を感じながら再度促す。ゆっくりと確かに進められていく命はきっと、まだこの身体に流れる血潮を止めるわけにはいかない理由の最たるもの。
あぁ、そうだ。
まだ、死ぬわけにはいけない。
この子供をひとり、この世界において。自分はくたばってはいけないのだ。
それが、生かされた自分にできる。たった唯一の償いであるのだから。
「はかせ?」
「いや、なんでもない。ほら、いこう」
歩みを止めたこちらを訝しむ声が数歩先から響く。抑揚の持たぬそれに、痛む胸には気づかぬふりをして。開いた距離を大股で詰めた。