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    信頼の代償
     雨が降っていた。

     酷く、強い雨だった。
     ざぁざぁと鼓膜を打つ騒音が、すべての音をかき消していく。
     曇天を見上げた双眸に雫が落ちた。眦から零れたそれが頬を伝って、幾重もの筋と共に雨に流れる。
     いっそ、自分の存在すらも流してくれればいいのに。そんなことを本気で願った。
     散々酷使した膝が限界を訴えるようにカクリと折れ、泥にまみれる。水分を含んだ布地が肌にまとわりつく感覚を厭いながらも、どうこうする気にはてんでなれなかった。
     もう、どうだっていい。どうなったっていい。
     なにもかも、後悔したところで――嘆いたところで、もとに戻れやしないのだ。
     ただ喉元に昇った嗚咽だけは零しはしまいと、喉元を手のひらで押さえつけて鈍色の空に背を向ける。
     土と、水の匂いが鼻腔を通った。まるで、溺れているみたいだ、と。そうどこかまだ冷静さを残した脳が言う。
     なんでもいい。流されるでも。さらわれるでも。溺れるでも。
     私を私で無くしてくれるなら。こんな想いをすべて奪い去ってくれるなら。なんだって。
     そのくせ固く目蓋を閉ざせば、瞼裏に浮かぶその姿に胸が痛んだ。
     好きだった。ずっと、彼女だけは私を大切にしてくれているのだと思っていた。信じていた。信じて、いたかった。
    「ぅ、っぁ」
     熱を持った眸から雫が溢れる。
     裏切られてなお、その希望を捨てきれないのは、愚かな私のエゴだ。
     信じていたから。愛していたから。あの家でたったひとりの拠り所であったから。
     並びたてた理由は、どれもかれも根底から覆されたばかり。
     ああ、なんと愚かしいことだろう。そのすべてが企てに過ぎなかった事実を突きつけられたいまでも、『裏切られた』と宣う自分を鼻先であざけた。
     なら、どうして逃げたのだ、と。心の内で誰かが蔑む。
     おとなしくそのまま命を絶ってしまっていれば、こんな思いもせずにいられただろう、と。
     その通りだ。
     本当は、そうするつもりだった。
     その覚悟だけは、あの瞬間。絶望と共に確かに胸に芽生えていた、はずだった。
     母のいないあの家で。私の命を脅かす者ばかりがいるあの屋敷で。たったひとり、気を許していた姉に、すべては偽りであったのだと突き付けられて。すがるものなどなにもなくしてしまった私は、きっとそうする方が楽であることはわかっていた。
     だのに気づけば、足はどうしてか心に反して駆け出していた。
     まるで、生を望むように。死を恐れるように。
     走って。逃げて。思い出も。母の遺したものも、すべて捨てて。
     そうしていま、ここに居る。醜くもまだ、息をしている。
     いつのまにか、後ろに続いていたはずの足音は聞こえなくなっていた。
     諦めたんだろうか。
     こんな雨の中。森にはいれば、助かりはしないだろうと判断されたのだろうか。
     どちらにせよ、姉にとって――あのひとにとって。私はもう不要の存在なのだ。己の立場さえ脅かさなければ、死んでいようと生きていようときっとどうだっていい。あのひとからしてみれば、私の生死などほんの些末なことに過ぎないだろう。
     そう、わかってしまった。知ってしまった。
     冷ややかな眼差しを思い出す。
     妹と思ったことなどただの一度もなかったと嘲笑う台詞が蘇る。
     ふるりと背筋を震わせたのは、彼女の言葉が。それとも雨に奪われた体温の成果。
    「は、ハハ」
     バカみたい。絞り出した声で吐き捨てる。
     信じていた。愛していた。別に、その立場を脅かすつもりなんて、私には微塵もなかったのに。彼女にとって私は、目障りな存在でしかなかった。たったそれだけの現実が胸に突き刺さり、傷口をえぐる。
     致死量に至らなかった毒が、まだ咥内に残されている気がして、浮いた唾を濡れた地面に吐き出した。

     何も知らぬまま、殺してくれればよかったのに。
     その方が、きっと『幸せ』なままでいられた。
     何も知らず。気づかず。そうして生を終わらせることができたのなら。
     その方が、ずっと『幸い』だった。

    ――あぁ、だからきっと姉様はそうしなかったんだ。

     幸せなまま、殺してやりたくなどなかった。
     絶望の谷底に突き落としてしまいたかった。
     私が彼女のすべてを奪ったから。
     彼女の求めるものを、生まれながらに持っていたから。
     
     そこに『仲の睦まじい姉妹』などどこにもありやしない。
     すべてが幻――今日、この日のために入念に仕込まれた『まがいもの』でしかなかった。
     たったひとり。頼れたひと。
     たったひとりの、よりどころ。
     それらを奪い取る絶望を、あのひとははじめから私に与えるために用意されたもの。
     そんなものに寄りかかって、信じて――愛して。疑うことをしなかったのは、きっと私の怠慢だ。
     本当はずっとわかっていた。
     ただ、認めたくなかった。
     欠けてくれた優しい言葉を。与えられた暖かな体温を『本物』だと信じていたかった。
    「ばかだなぁ」 
     雨音に見合わない乾いた嘲笑がくちびるを震う。
     ふらりと見上げた空から降り落ちる雫は、ざぁざぁと鼓膜を打つばかりで。灰色に塗り潰されたそれはいまにも落ちてきてしまいそうだ。
    「もう、つかれたや」
     深く。息を吸う。
     喉が引き攣り、肺が痛んだ。
     ツンっとした鼻の奥に、雨の匂いが潜り込む。
     本当に、溺れているみたいだ。
     息の仕方を忘れたみたいに、いくら空気を吸い込んでも肺が満たされずに喘ぐ。
     もう、いいよ。もう、疲れたでしょう。休もうよ。誰かがそう囁いた。
     どうせ居なくなったところで、喜ぶものばかりだ。誰にも心配はされず。誰かに探されることもない。
     おもむろに瞼を下ろす。
     意識してゆっくりと吸い込んだ息は、やっぱりうまくいかない。
     か細く鳴く喉を鼻先で笑い飛ばしていれば、ふと振り落ちる雨が音を変えた。
    「こんなところで雨をながめていては、風邪をひいてしまいますよ」
     柔らかな声が、それでも確かに耳に届く。
     ぽつぽつと跳ねる雨粒が、暗い色の向こうに姿を隠して。一筋残った雫がもたげた睫毛の先から頬を滑った。
     影に覆われた世界の中。声と同じ柔和さを宿した眼差しが私の姿を映す。交わった赤い双眸がふと、脳裏に過った。
     懐かしい声が共に蘇る。
     ああ、そうだ。あの子だけは、もしかしたら私の死を悲しんでくれるかもしれない――なんて。未練がましくも浮かぶ希望を、まるで拒絶するかのように、ふつりとそこで意識は途切れた。
    空蒼久悠 Link Message Mute
    2024/03/27 8:48:42

    信頼の代償

    ##pkg ##キャラバン隊
    マリネがソルトに拾われるまでの話

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