【ゆく妖/腐】微妙な19のお題:16【柏秋】
【16. なかしたい。ないてほしい、ぼくだけのために】
「ありがとう」
彼はそう言って、泣きながら笑った、のだと思う。自身もぼやけた視界の中だったから確信は出来ないけれども。
それから、今にも消えてしまいそうなほどに小さな声が聞こえた。
「 」
あまりにも小さなその声は、プログラムと化した自分でさえも正しく単語として聞き取ることは出来なかった。
聞き返そうにも、肝心の彼は笑みを象ったままゆっくりと目を閉じていき。
そしてそのまま、彼の口から息が吐き出されることはもうなかった。
*****
電脳の海の中、今は亡き親友を想い、涙する。そんな日々を、何度繰り返しただろうか。
「…やらない夫…」
その名を声にのぼらせるだけで、泣き出しそうになってしまう。
あいつと出会ってからは、楽しくなかった日なんて一日たりとも無かった。ただ話をしているだけで、並んで歩くだけで、笑いかけてみせれば向こうも笑顔で返してくれて…それが、どれほど楽しかったか、どれほどに幸せだったか。喧嘩だって数えきれないほどにしてきたけれど、それだって楽しかった。だって、喧嘩ができるということは、プラスばかりじゃなくてマイナスの感情もぶつけ合って、それでもなお友達でいられるほどに、仲良くなれたということで。それだけ心の距離が近づけたという、どんな言葉よりも確かな証拠じゃないかと、そう思っていたから。
……それが、途方もなく独りよがりな勘違いでしかなかったと気づいたときには、もう何もかもが遅かったのだ。
いや、勘違いというのも少し違うかもしれない。きっとあいつがやる夫を友達だと思ってくれていたのも、大切に想ってくれていたのも、きっと真実で。ただ、やる夫に向けてくれていた優しい笑顔の中に、氷点下よりも冷たい仮面を貼り付けていたこともまた、真実だということなのだろう。どこまでが「フリ」で、どこまでが「真実」だったのかは……今となってはもう証明する手段なんてどこにもないし、証明したところで何の慰めにも償いにもならないだろう。
そこまで考えたらまたじわりと涙が浮かんできて、ふるふると首を振りながら、気を取り直して、最早日課となってしまったアメリカのサーバに潜り込む作業に移る。初めは北米三合会についてもっと調べ上げ、いつかは滅ぼしてやりたい、そんな気持ちで始めたことだったが――潜り込めば潜り込むほど、日本のサーバ内に残っている情報よりもずっとずっと多く、柏崎やらない夫という男の情報に触れることができてしまって――それがどうしようもなく苦しくて、本当に遣る瀬無くて。
だから、一つでも多くの情報を拾い上げて、どんなハッキング能力を持った奴でも、どんな魔術の類をもってしても、触れることもできないほど奥深くに、何重にもロックをかけた上で、柏崎やらない夫にまつわる情報を「保護」できないだろうかと思った。すべて、とはいかないのはわかっている。情報生命体となった自身をもってさえ、ひとかけらも取り零すことなく「保護」するなどということは不可能だ。
それでも、それでも。これまで何もできなかった情けなく頼りない自分でも、今からだって彼のために何かできることがあるならと。たとえそれが自己満足にしかすぎないとしても、ただ、ただ、何もせずにひたすら日々を過ごすなんて、そんな木偶のような真似は死んだってごめんだから。だから、やる夫は――――
「……? …あ、これ…」
ふと、見覚えのある「情報」に触れたような気がして、手探りで引っ張り出してみる。と同時に、バチ、と全身を襲う、強い電流を受けたような感覚。
「いっだ! …あちち、なんだおこれ? すっげー強いプロテクトかかってんお」
何の意味もないことだとわかってはいるものの、自分の手をぶんぶんと振ってみたり、ぴりぴりと痛む手に息を吹きかけてみたり。そうして落ち着いてから改めてプロテクトを解析し、暗号をほどきながら奥へ奥へと進んでいく。これほどに強いプロテクトがかかっているとなれば、もしかしたら奴らに関する重大な情報が隠されているかもしれない。
慎重に、ひとつ、またひとつ、と何重にも掛けられたプロテクトを解いていくと――
「え? これ、まさか……」
そこには膨大なデータが入ったフォルダがあり、試しにとその中のファイルの一つを開いてみる。ヴン、という音とともに電子の海に表示されたものは――やる夫が昔、あいつに送ったなんでもないメールだった。まさか、と次から次へとデータに触れてみると、あの几帳面だった親友らしく、時系列順に並べられた大量のメールがあり――それらすべてが、やる夫と交し合ったものだったことに気がつく。
「……こりゃ、見覚えがあるはずだお」
思わずふ、と笑いを零す。――ずっと、残していてくれたのかと。そう思ったらまた泣けてきてしまって、ぐっと涙を拭ってから改めてデータの海に向き合う。ざっと目を通してみただけでも、新作のゲームについてだとか、日本食を送るとか、やる夫が大学や会社のことについて話したことだとか、高校時代に撮った写メだとかが次々と流れていて……初めてメールアドレスを交換した日から、やる夫が送ったメールはどれ一つとして消していなかったことがわかる。こんなにもたわいない、送った自分ですら覚えていないようなくだらないメールを…ずっと、残していてくれたのだ。
読んでいくたびに、次々と懐かしい思い出が蘇ってくる。高校時代、狙っているゲームを買うために二人で朝早くから店に並んだこと。確実に手に入れるために、二人でいろんな作戦を練って、「やらない夫隊長」「やる夫一等兵」なんて呼び合って、まるで軍人にでもなったようにメール交換したり、その後無事にゲットしたゲームをほぼ徹夜でプレイして、翌日当たり前のように授業中に爆睡してしまって、二人して親や先生から大目玉くらったことだとか。
イタズラをしかけてやろうと、URLを削除したうえで自分風に改変してみた迷惑メールを連続して送りつけてみたら、「次に会ったときが貴様の最後だ」とだけメールが届いて、次の日拳骨を頭の上に落とされたことだとか。ちょっとしたイタズラだったのに殴ることないじゃないか、と訴えたら「やっていいイタズラと悪いイタズラがあるわボケ! 俺はパケット使い放題のサービスは加入してないから、メール受信するだけで金かかんだよ! ただでさえ少ない小遣いを無駄に消費させやがって」とさらにお説教されてしまったことだとか。
ある時期、嫌なことや悪いことばかりが続いて、柄にもなくずいぶんと落ち込んでしまっていたことがあって。あいつも気にしてくれていたんだろう、可愛い猫の写真に「元気出してニャー」なんて吹き出しが書き込まれたデコメールが送られてきたこともあったっけ。あの生真面目な男が、どんな顔をしてこんなかわいらしいメールを作ったのだろうと思ったら、自然と笑いがこみ上げてきて――そして元気になれたこと、だとか。
――ああ、本当に、泣けるほどに懐かしい――
「……あれ?」
流れていくメールの中に、一通だけ「感触」が違うものがあった。何となしに目を向けると、昔一度だけ、たった一度だけ、彼が送ってきた不可解なメールが映る。件名もなしに、ただ数字の羅列が並んでいるだけで他には何も書いていないメール。
From:やらない夫
件名:やる夫
本文:
1112324493
To:やらない夫
件名:さっきのメール
本文:
数字ばっかだったけど、どしたお? 文字化け? 間違いメール?
仕事関係のやつだったら、やる夫のとこに残ってたらまずいおね? 消しとくかお?
あ! それともナゾナゾとかかお?
From:やらない夫
件名:ごめん
本文:
何でもないだろ。すまん、忘れてくれ。
俺何やってんだろうな。
削除してくれだろ。できれば削除ソフトとか使って
どうやっても復元できないように、跡形もなく消してくれると助かるだろ。
「なっつかしーお…でも、これって結局、なんの意、味………………ぁ?」
もしも今の自分に肉の体があったのならば、今のこの感覚を「全身を氷の海に浸からせたような感覚」と表すのだろう。「体」が一瞬のうちに冷えていき、指先が震える。
コンピューターの中で「生きる」電子プログラムと化したからだろうか、メールが送られてきたあのときは全くわからなかったその数字の羅列の意味に、いともたやすく気がつくことができた。
その、「言葉」に込められた想いが、どんなものであったのかも。
「……っ、ぁ、あっ……! やら、やっ…やら、ないお……」
全身の震えが止まらない。ただ呆然と、壊れた張り子の虎のように、かくんと首を落とし、かちかちと歯を噛み合わせる。
……あいつは何も言わなかった。アメリカにいた間も、何一つとしてやる夫には悟らせまいとしていたのだろう、おかしな様子なんてまったくなかったのだ、あの一通のメール以外は。
日本に戻ってからだって、ルームシェアをしていた間だって。あいつは何も話してはくれなかったし、きっと何かに気づいたとしても、記憶をすべて消されてしまっていたのだろうと思う。
だから。だからこそ、そんな、自分の身に起こった何もかもを、己の抱いていた感情のすべてを、ずっとずっとひた隠しにし続けていた、あいつが。たった一度だけ送ってくれた、数字の羅列を書き綴ったメール。
あのメールにどれほどの想いが込められていたのか、あのメールの送信ボタンを押す瞬間にあいつの心にどれほどのものが渦巻いていたのか。…そして、あのメールをやる夫に送ったこと、その事実がどれほど大きな意味を持っていたのか、なんて。きっと、この世の誰にもわかるはずがない。きっと、想像できるのは、自分だけなのだろうと。そして、その自分であっても、「想像」しか出来ないのだと。そう思うと、もうあるはずのない心臓に激しい痛みが走り、目からはとめどなく電子の涙がこぼれ落ちて止まらない。ただ、彼の名を呼びながら泣き続ける。
「…っ、……ら、…ない、お……や、らない、夫ぉ……」
彼の名を呼ぶ声がひどくかすれる。
大袈裟なことなんて必要なかった。ただ、そこに生きていてくれればそれで良かったのだ。武骨で細長い指先が頭を撫でたり背中を叩いたりしてくれるとか、歩幅を合わせて隣を歩くとか、朝起きたときにおはようって言ってくれて、仕事から帰ればただいま、おかえりと言い合えることだとか。それだけで良かったんだ。ただ、なんてことないありふれた日常を、一緒に過ごせるのなら、ただそれだけで。
もう二度と戻ってこないあの日々が、どうしようもなく眩しくて仕方ない。当たり前みたいに一緒にいて、他愛のない会話を交わして、くだらない冗談を飛ばしては笑い合って、ゲームしたり、時には喧嘩もして、仲直りして、徹夜続きでクマだらけになったひどい顔を見合わせて笑い合うだとか、新作ゲームの予告編を見て一緒に盛り上がるだとか。…そんな日々が。そのひとつひとつが、どれほどに愛おしいものだったか…今更ながらにつきつけられて、目眩がした。
じっと己の手を見やる。電子の粒で構成された今の体さえ、今はひどく憎らしい。どうせ人ではないナニかへ変貌してしまうのなら――いっそ、彼がいないと生きていけない体になればよかったのに。彼が死んだ瞬間に「削除」されて、彼と一緒に消えてなくなる自分であれたのなら、どんなにか――…
電脳体となったせいで、最後の最後であいつに触れることも叶わなくて、あの戦いの際に身を張ってあいつをぶん殴ってやることもできなかったのだと、そう考えればさらに己が憎らしくて堪らなくなる。
ああ、でも、だけど、電脳体となったからこそ、あの時戦いに身を投じることができて、彼を看取ることができて、彼の姿も、彼と過ごした日々も、何一つ忘れずにいられて、そして、今……彼の、最後の言葉を…………
「ッ…め、ん、ごめん…!! ごめんだお、やらない夫……ごめん、ごめんお、ごめんなさいお…」
今更、謝罪なんて意味がないことはわかっていた。だってその言葉を告げるべき相手はもうこの世のどこにもいなくて、だから永遠に届くこともなくて、償う方法だってどこにもないのだから。
それでも謝りたかった。謝らずには、いられなかった。どうして気がつけなかった。どうして、こんなにも深くて、こんなにも直向きな想いに、今の今まで気がつけずにいたのだろう。
彼は考古学者なのだから、それにまつわる何かだろうと思い込んで、深く考えることもなく「消しておこうか」などと聞いてしまった自分に腹が立つ。
自分はいったいどれほどまでに、あいつの心を踏みにじってきたのかと。なにもかもが後悔でしかなくて、今すぐにでも自分を殺してやりたくなる。
「ごめ、ん……本当は、わかってたんだお。聞こ、えなかった、のは、ほんとだけど、でも、解析は…でき、た、から…だから……!」
彼が、最後に自分に残そうとしたのだろう言葉。聞き取れなかったことが悔しくて、悲しくて…音声データとして取り込んでいたそれを、あの戦いの後、必死に解析していたのだ。
だから、知っている。少々時間はかかってしまったけれども、今の自分は、彼がほんとうに伝えたかったのだろうその一言を、正しく理解している。
なのに今までずっと知らない振りを続けてきたのは、いかに彼の願いであろうとも、それだけは叶えてあげられなかったからだ。だって、彼は。
『幸せに、な』
そう、言っていた。そんなことが叶うわけもないのに、馬鹿じゃないだろうかと思う。彼が、自分の隣どころかもうこの世のどこにもいやしないのに、どうして幸せになんてなれるというのか。
自分が、これまでの人生の中で、ほんの少しでも「幸せ」だと感じた瞬間を思い出そうとすれば、いつでもそこに彼がいた。今だって、自分の幸せとは何だろうか、自分の幸せはどこにあるのだろうと考えれば、すぐに思考が彼へと飛んでしまうのに。一緒に過ごした高校時代の三年間と、ルームシェアをしてからの一年間と。あの日々以上に尊く幸せなものなんてどこにもなかったし、これからだって永遠に見つけることはできないだろうと、確信できるのに。なのにどうして、そんなことを言い残した。
「やら、ないおっ……」
涙が溢れて溢れて止まらない。自分の願いは、そんなにも大それたものだっただろうか? ただ、ただ、いつまでも一緒にいたかっただけだったのに。
そりゃあ、本気でいつまでも何も変わらないままずっと一緒にいられるなんて思ってたわけじゃない。だけど、いられるものならばずっと一緒にいたかった。彼が隣にいてくれさえすれば、いつだって自分は幸せでいられるのだから。
あいつが隠してきた何もかもすべて、知ってしまった今でも…何の感情も滲ませない張り付いた笑顔で、なんの躊躇いも戸惑いもなく人を殺す、あの姿を知った今でさえ、一ミリだって変わらない、自分の中の彼の位置。自分に笑いかける彼の姿が、自分を優しい目で見つめる彼の姿が、今ですらこんなにも鮮明で。それが、どうしようもなく苦しい。
「バカ……本当に本当に、お前は大馬鹿野郎だお……」
彼より世界を選んだこと、後悔はしていない。あのときに五郎さんに告げた言葉は、紛れもなく自分の本心なのだ。
あいつはあまりにも人を殺しすぎた。だからどんな悲惨な死に方をしたって文句は言えない。あいつが殺してきた相手がマフィアだけだったのならば、説得を考えられたかもしれないけれど…そうじゃないと、わかっているから。
やる夫の前ではいつだって優しい笑みを浮かべて、昔と何一つ変わらない、やる夫のよく知る「柏崎やらない夫」でいてくれて、だけどやる夫の知らないところでは、人の情を利用して操り、用がなくなれば口封じにと……氷点下よりも冷たい笑みを浮かべながら、机の上の埃を手で払いのけるかのように簡単に――笑顔で人を殺していた。それがマフィアだけではなく、何の罪もない一般人相手にも、態度を変えることもなく。そして、何の罪もない母娘を化物にし、操り人形にしようとした挙句に世界を滅ぼそうと企んだ。それを、知っているから。
そこにどんな理由があったとしても、あいつがどれほどまでの痛み苦しみを、世界そのものに憎悪を向けてしまうほどに深い深い絶望を抱えていたにしても…それらをぶつける相手は、世界ではなくトライアドであるべきだった。何の関係もない、何の罪もない人々まで巻き込むべきじゃなかった。あいつのやったことは、絶対に絶対に、間違っているんだと、やる夫は心から言い切れる。
そう、だからこそ、後悔はしていない。後悔しているのは……何よりもまず、あいつがアメリカという異国でたったひとり、言葉にするのもおぞましいような拷問を受け続け、十四年もの間――あの日命を落とすその瞬間まで、只々苦しみ続けていたことに気がつけなかったこと……それだけだ。
もしも、もっと早くに、あいつが隠していたすべてとは言わない、そのほんの一握りで構わないから、知ることができていたなら。
もしも、ルームシェアをしている間、あいつの心の内に広がる憎悪に、怨嗟に、絶望に、一端でも気がつき、触れることができていたのなら。
幾度となく考え、嘆き、後悔し続けているけれど、何度繰り返してもただただ遣る瀬無くなるばかりで、この心の澱みを払拭させるきっかけすら掴めない。そう、何度、考えても。
「っ……どん、だけっ…思い出させるんだお! 幸せに、とか……んなこと、言い残す、ぐらいなら…もっと、徹底的に、忘れさせてけおっ!! バカ、野郎っ……」
今ならば、痛いほどに理解できる。あいつが、どれほどにやる夫を苦しめまいと尽力していたのか。どれほどに、やる夫を気遣い続けてくれていたのか。どんな気持ちで、やる夫と一緒にいてくれたのか。
そして、理解してしまったからにはもう、あいつのいない世界で幸せに生きることなんてできない。否、理解できないままだったとしても無理だっただろうけれど……今よりは、可能性はあったんじゃないかと思うのだ。
アメリカから帰ってきた後、会いになんて来なければよかったのに。会ったとしても、もうやる夫のことなんか知りませんって顔していればよかったのに。ルームシェアなんて、しなければよかったのに。そもそも……学生時代と何一つ変わらない仮面を被ったままやる夫に接するなんて、しなければよかったのに。あんなにも優しい顔で、声で、側になんていなければよかったのに!
なのに、それなのにどうして――こんなにも思い出させる。どうしてこんなにまで強烈に、鮮明に、お前の存在をやる夫の中に植え付けていったんだ。最初から何も与えずにいてくれたなら、何も知らずにいられたなら……そしたら、そしたら思う存分お前を嫌えたかもしれなかったのに。もしかしたら、本当に離れている間に完全に変わってしまったんだと失望して、お前以外の誰かと幸せになる道を、選べたかもしれないのに。
……結局のところ、自分はどこまでいっても独りよがりな想いしか持つことができないのだろう。こうして泣いているのだって、あいつのためじゃなくて、何も気がつけなかったことが悔しいからで、あいつに相談どころか愚痴を聞かせてもらうことすら出来なかった自分自身が憎いからで、…あいつを永遠に失ってしまったことがあまりにも悲しいからで。全部全部、自分のためなんだ。自分のために、泣いているだけ。
「…………なあ、やらない夫……」
はらはらと流れ続ける涙をそのままに、電脳の海の中、ぽつりと言葉を零す。返事は、あるはずもなかったけれど。
「やる夫は、お前に泣いて欲しかったお」
相談することも、お前が抱えてきた憎悪や絶望を吐露することすらもできなかったというのなら。ならばせめて、泣いて欲しかった。
涙すら枯れ果てていたのだろうけれど。嘆くことすら、疲れてしまったのだろうとは、思うのだけれども。それでもせめて、その心に渦巻く絶望のままに、泣き叫んでくれたのならと――それすらも独りよがりな想いにしかすぎないと、わかっているけれど、そう思わずにはいられなかった。
こんな終わりを迎える前に、泣いてくれたのなら。辛い苦しい助けてと、そう叫んでくれたのなら。そしたらきっと、その時こそお前のためだけに泣くことができたのに。抱きしめて、胸を貸してやることだってできたのに。
「………………」
のろのろと、取り憑かれたように電子の海に映し出されたメールを見上げる。次々とスライドさせていけば、添付された写真もいくつかあり、その写真に映っている彼の笑顔を目にして、また、泣いた。
「……やらない夫、やらない夫、やらない夫ぉ…………」
まるで呪文のように、何度も何度も繰り返しその名を呼び続ける。いつもならばすぐに振り向いてくれる姿も、返事をしてくれる声も無く、只々静寂だけが電子の海の中、はびこり続けていた。