キャンディはおあずけ 仕事用の部屋にしては生活感があり、寝食を行っている部屋にしては乾いた空気。目立つのは大きな作業台とパソコン、並べられた工具、それからキャンディの入った大きな瓶。
「ディアナ、通達は聞きましたか」
「うん、“ぬいぐるみ”の件だろう? 物騒な話だ」
その作業台の前に座り、片手に持ったスプーンでマグカップの中身をかき混ぜながら、スタンドに置いたスマートフォンに向かって話している若い娘。あくびを一つしてから、ブルーグレーの目がぱちぱちと瞬きをした。
ディアナという名のその“仕立て屋”は、相棒であるジュヌヴィエーヴからの連絡にいつもと同じように、深刻さの感じられない調子でこたえている。
……彼女ら“テイラーズ”が攻撃目標になっている。それは予想でも予感でもなく事実だ。それもエージェントではなくチューナー、中でも戦うすべを持たないような弱者が狙われている。ディアナなどその典型であり、戦うすべもなければ身体能力も人並み、襲われればひとたまりもないだろうことは明白だった。
であるから、ジュヌヴィエーヴが彼女を保護しようとしたのは懸命な判断だったと言える。少なくともこの時点では最善と言って差し支えなかっただろう。
「今日からしばらく私と一緒にいましょう、私が貴方を守ります」
「わかった、じゃあ君のところに行けばいい?」
「ええ……いえ、迎えに行きますので用意だけしておいて下さい」
「Oui.」
歌うように軽く返事をして通信を切ったディアナは、家を出る準備に取り掛かった。あまり大荷物になるわけにもいかないし、必要なものは随時買い足せば良いかと主に入手困難なもの――工具や試作品の類――を鞄に放り込んでいく。なかでも重要度の高いものはジュラルミンケースに収納し、緩衝材を詰めた。
あとはキャンディでもポケットに詰め込むか、となったところでインターホンが鳴る。小走りに玄関へと向かったディアナはドアを開けようとしたが、
「早かったね、もうちょっと遅くてもよかったのに、……」
ふとその動きが止まった。ドアノブを握ったまま少し首を傾げ、ドアを挟んだ向こう側に声をかける。
「……ジュネ?」
向こう側はしんとしている。ゆっくりドアノブから手を離したディアナは一歩後ろへ下がり、妙に大きく冷たく感じるドアを眺めた。
物音が聞こえる。モーター音のような、高い音。不意にドアの下部から何かが生えてきたように見えて目を凝らしたディアナは、それが高速で振動している刃物であり、ゆっくりとドアを切り裂きつつあるということに気付いた瞬間駆け出した。
出入り口は裏にもある。ジュラルミンケースだけを持ってそちらへ向かったディアナは途中で盛大に机にぶつかってコーヒーの入ったマグカップをひっくり返したが、そんなものにかまけている余裕はない。
裏口の前で一度立ち止まり、袖口の発信器[カフス]を指で撫でながらそっとガラス越しに外の様子を窺う。なにもいない、ように見える。ディアナはカフスから発信されるそれをSOS用のものに変えながら、夜の街へと飛び出した。
この発信によって追っ手に手懸かりを残すことになるかもしれない、むしろそちらの可能性の方が高い。新米チューナーをわざわざ助けようと思う物好きな工作員が近くを通りかかるだなんてそうそう無いだろう。が、どう事態が転んだとしても自分は遠からず追い付かれるだろうと判断しているディアナは、可能性が低かろうと救援を呼ぶ方を重視した。
「ここを無事切り抜けられたらお祈りの時間を増やそう」
だから頼むよ神様、とおざなりに十字を切った罰当たりな“女神[ダイアナ]”の後を、小さな影が追いかけていった。