花を咲かす手2月6日 晴れ
今日はハナダの洞窟で、見たことがないポケモンに出会った。人間の大人より背が高くて、全身は真珠みたいに白くて、長くて太い尻尾だけが濃い紫のポケモン。洞窟の奥にうずくまっていたから、怪我をしていないかと思って声をかけたら攻撃されてしまった。
とっさにテオが私を掴んで避けてくれたから、無傷で済んだのけど。私に対する威嚇のような攻撃を終えたら、そのポケモンはまた大きな岩の陰にうずくまってしまった。
あの攻撃はサイコキネシスのようだったから、彼はエスパータイプだったのだろうか。こうして家で日記を書いている今となっては、わからないことだけれど。
2月7日 雨
今日は雨が降っていたから、テオたちと一緒に家にいた。モモンのジャムを作ったり、リュゼがテオにじゃれていたり、イオンがお風呂場でかくれんぼをしたり。(イオンったら、私をびっくりさせようとして、溶けていたお湯から勢いよく飛び出してきたのだ。シャワーズ特有のイタズラに思わず笑ってしまった)
そうやって得意顔のイオの体を拭いていた時、ふとあのポケモンのことを思い出した。彼は大丈夫だろうか。怪我をしていないように見えても、病気だったりしたら……。
2月10日 曇り
悩んだ挙句、もう一度ハナダの洞窟に行くことにした。もしかしたらいなくなっているかもしれないと思ったけど、やっぱり彼は洞窟の一番奥にいた。遠目で見ている分には、身じろぎ一つもしない。だから今度は刺激をしすぎないように、様子を伺いながら近づいた。ぱっと見て、苦しんでいる様子はなかった。傷も一つもない。ただ目を瞑って、少しだけ宙に浮いていた。時々肌が鼓動するようにほのかに白く光ることもあって、寝息を立てて眠っているようにも見えた。
とりあえず、オボンの実を何個か彼の前に置いてきた。役に立てばいいのだけれど。
2月17日 晴れ
ここ数日雨だったから、晴れてくれて嬉しい。テオも久々に空を自由に飛べて喜んでいるので(リュゼのように顔にあまり出さないけれど。テオは喜んでいる時は翼がぱたぱた動く)、嬉しさが二倍になった。
洞窟のポケモンのところには通い続けている。最近は、というより二度目以降は眠っているところばかり遭遇している気がする。オボンの実は減っているけど、実際に食べているところを見たわけじゃないから……どうなんだろう。傍目からそう見えないだけで、やっぱり弱っていたんだろうか。明日また様子を見に行こうと思う。
2月18日 晴れ
驚いた。こんなことがあるんだろうか。
いつもより少し時間を早めてハナダの洞窟へ行ったら、目を開けている彼に出くわした。しかもそれだけじゃなくて、私が置いていったオボンの実を、サイコキネシスでくるくる回しながら眺めていた。360度回転させてる、と言うのが近いかもしれない。まるで手にしているのがルービックキューブのように、彼はじっとオボンの実を見つめていた。
でも、それをぽかんと口を開けて見てしまったのがいけなかったんだと思う。彼は私のことに気付いて、今度はシャドーボールを撃ってきた。慌てて岩陰にしゃがみ込んだから直撃しなくて済んだのだけれど、上半分が吹き飛んだ岩はもう私を隠してくれなかった。それで砂煙が舞う中、ゆっくり宙に浮きながらこちらに近づく彼が見えたんだけど……これはもう隠れてるわけにいかないと思って彼の前に出て行ったら、私が持ってるオボンの実に気付いたらしい。人間でいうなら怪訝そうな、という表現がしっくりくる眼差しを私に向けてから、彼はゆらりと尻尾を動かした。それから少し考えるような仕草をしたと思ったら、私に背を向けてどこかへ行ってしまった。あとでテオに物凄く心配をかけた(結果的に一人で無茶をしてしまったから、モンスターボールから出た途端あんなに怒った唸り声を上げるのも当然だと思う。本当にごめん)し、彼も弱っている様子ではなかったから、当分はハナダの洞窟を訪れない方がいいかもしれない。でも、一つ疑問が残っている。
彼は、あのオボンの実を見て何を考えていたんだろう?
3月13日 晴れ
久しぶりにハナダの洞窟へ向かった。今度はテオを最初からボールから出したまま、地下二階へと降りる。前以上に慎重に足を忍ばせながら一番奥をみれば、やはり彼はそこにいた。しかし、いつもと違って地面に座ったまま、じっと天井を見上げていた。その時は何か天井にあるのかと思ったけど、特に変わったものは何もなかった。上の階のポケモン達の鳴き声が遠くに反響しているのと、ところどころ生えた苔から、時折雫が滴り落ちていただけだ。
そんな時に彼がこちらに顔を向けた。思わず一瞬身を竦めてしまったけれど、今度はちらりと視線を向けただけで何もしてこなかった。何かを見つけようとするかのように、再び天井へ視線を戻して、今日はそれきり。ただほんの少しだけ、まるで遠い記憶を思い出そうとしている子供のように見えた気がした。
この間しきりに見ていたオボンの実と、何か関係があるんだろうか。
3月18日 晴れ
珍しいことに、今日は洞窟の奥に彼はいなかった。その代わりに、奇妙なものを見つけた。
いつも彼がいる場所の周囲に、オボンの芽が一つ生えていたのだ。水をかけられたような形跡があるその隣で、別の種はすでに干からびていた。というより、粉砕されたようなものも混ざっていた。
彼が種を植えたのだろうか。陽の射さない、この地下で。粉砕された種は実を剥こうとした時に、誤って破壊してしまったのかもしれない。いらなければ捨てているだろうから。
でも、そうしたら、何のために?
3月22日 雨
図書館から本を借りた。ポケモンの習性、ポケモンの神話や伝承、あと偶然見つけて懐かしくなったので、昔読んだ絵本を一冊。
つまりは彼の種を蒔く行為について推測できそうなことを調べようと思ったのだけれど、結局納得のいくようなものは見つけられなかった。まあ確かにくさタイプでもある、とかではなさそうだし、当然かと言えば当然だったのだけれど……絵本に目を通したらハッとした。
幻のポケモン、ミュウ。絵本の内容は、主人公のピカチュウがミュウに会いに世界中を旅するといった内容なのだが、私はその挿絵に釘付けになってしまった。
ミュウの姿は、彼に似ている。そして、いつか見た廃墟の手記を思い出した。
……明日、晴れたなら、グレンタウンへ行ってみようと思う。
3月23日 晴れ
ああ、そうか。これは、
※
水路に雫が波紋を描く音に、砂利を踏む音が響き渡る。少女は階段を滑らないように登ると、洞窟の奥を目指した。少し歩けば、すぐにあのポケモンの姿が目に入る。一足飛びに水溜りを飛び越えると、少女は彼へと声をかけた。
「ねえ」
こちらに背を向けていたポケモンは、少女の方へ振り返った。今度は怪訝な眼差しに躊躇うことなく、少女は彼の側まで近付く。そうしてポケモン屋敷から持ってきたものを差し出した。
「……君は、これが見たかったんじゃない?」
紫水晶の瞳が、少女の手が差し出したものに束の間驚いたような光を宿す。
それは、一枚の色褪せた写真だった。陽射しに照り映える浅葱の大河。天を衝くかの如き数多の緑樹。夢幻の灯火を地に広げるように咲く真紅の花々。カントーから遥か遠い、ジャングルの風景を手にしたまま、少女は言葉を続けた。
「ごめんね、君のことを調べたんだ。君がミュウから産まれて、それで……ミュウツーって名前で。前はグレンタウンのポケモン屋敷にいたけど……今は、ここにずっと一人でいるって」
写真を握る指先に、力がこもる。
「あの廃墟の中で、これだけが無傷のまま、君のいた装置に貼られていて。あとは鉢植えの残骸が、何個かだけあって。だから、もしかしたらと思ったんだ。君は……ここで、花を育てようとしたんじゃないかって。この写真に写ってる……君のお母さんの故郷に咲いてる花を、もう一度見るみたいに」
ミュウツーのいた部屋は、他の部屋から厳重に隔離されていた。母親であるミュウや、他のポケモンが自由に出入りできたとも思えない。恐らくあそこに入れたのは、あの手記を書いた誰かくらいのものだろう。もしかしたら、あの誰かはミュウツーへ語りかけたこともあったのかもしれない。それは慈愛というより、怒りを宥めるようなものだったのかもしれないけれど。
そう、実際に、彼があの場所で何を考えていたのかはわからない。光の射さない地下で、色彩の眩い母の故郷をずっと眺めるという行為が、彼の心にいかなる雫を落としたのか。それは彼がポケモンであるという事実を差し引いても、彼自身にしか分からない。わかるのは、今ここにある事実だけだ。彼が人の手によって作り変えられたポケモンであること。攻撃の構えは取らずに、少女の声をじっと聞いているということ。先程からオボンの芽を踏まないように、注意深く避けているということ。
何かを育もうとする心が、破壊を是とする中にもあるということ。
「ねえ、ミュウツー」
柔らかな声で名を呼べば、紫水晶の瞳は不思議そうな色を帯びる。少女は目の前のポケモンに、穏やかに微笑みかけた。
「私も、そのオボンの芽を育てるの、手伝ってもいいかな」
それから少し先の未来。少女はミュウツーを仲間に加え、新たに旅に出ることになるのだが。それはまた、別の物語。