祈りの寄る辺に、あなたの名を控えめな所作で差し出されたそれを、少女はどのように形容すべきかわからなかった。一向に結びつかぬ言葉を地へと零し、代わりに湧き出る困惑を視線に注いで主を仰ぐ。
「ミカズラ様」
眼前の主はわずかに巨体を傾げると、緩やかに口を開いた。木漏れ日にせせらぐ小川のように澄んだ声音が、少女の頭上に水縹の煌めきを落とす。
「ちょこれいと、だ」
首を傾げた少女に、主は曇り無き瞳で答えた。
「真冬の月の凍る日を、十四回数えた時に。人の子は、己が慈しむ者へ、ちょこれいとを、贈ると聞いた。そうして、自らの心の在り方を……その者に捧げる祈りの形を、示すのだと」
花が綻ぶように弾んだ声音は、岩間に射す光に晒されて過去へと白む。どこかから舞い飛んできた蝶が主の鼻先へと留まり、柔らかに紡がれる水縹の声の底に、煌めく金粉を撒いていく。
「ミズハが、ここへやってくるより、ずっと、ずっと前に。わたしに、そう教えてくれた、人の子がいた」
主は目を細めた。陽に瞬く極彩色の翅を透いて、憧憬の日々を少女の元にも手繰り寄せるかのような。夕闇の星の影のもとで、この世にただ一つの宝玉を、少女にのみそっと見せるような、無邪気な声色だった。やがて蝶が鼻先から岩間へ飛び立つと、主は少しだけ寂しげに顔を伏せる。
「ちょこれいとがどういう形のものだったかは、忘れてしまった。あまりにも、あまりにも遠い日のことだっから。匂いは、少し……そう、黄昏にそよぐ花々に、似ていた、気がしたけれど。それ以上のことは……よくは、思い出せない」
主は小さく息を零した。金の粉が眦に淡く影を落とすように、追憶の雫へと散る。
「ただ。特別な日に、祈りを指し示す代物なら、きっと。それにふさわしい、己の持つ、大切なものが。人の子たちの言う、ちょこれいとになるのではないかと、思って」
不意に主は言葉を切った。少しの間を置き、再び少女に向けられた瞳には、夜の端に揺らぐ幼子の影が湛えられていた。
「わたしは、間違えて、しまっただろうか」
少女は目の前にあるものを見た。翠玉の鱗と乳白色の花が混ぜられた、泥土の塊。そして体の至る所に呪符を貼り付けられ、片角の折れた龍のなり損ないの子を。
人がこの国から滅び去ってから、随分と永い時が経つ。八雲に祀ろう神々を無くし、揺らいだ国の基盤を、人の手で作り出された神々の影で補わんとした果てのことだった。
少女は鱗の眩さに、瞳の半ばまで瞼を引きおろす。バレンタインデーなど、人であった頃には大した思い入れもなかった。他者への愛を謳う一方で、他者を嬲り、時に殺しさえする人間の性が余計に際立つようで、疎ましくさえあった。現にかの日の由来となった異国の聖者は、時の王に命を奪われたのだから。
けれど。けれど、あなたが。人の手で作り出され、人が滅びてもなお、迷える人を守護しようとしたあなたが。あの日怯えていた私に、ぎこちなく触れてくれたあなたが、そう言うのであれば。
「いいえ。いいえ、違いません、ミカズラ様。ミズハは嬉しく思います」
言いながら、少女は焼け爛れた呪符の焦げ付いた首筋に、両手を回した。そうして安堵に緩む翠玉の鱗を、嬉しげに華やぐ水縹の声音を胸に抱くように、少女は静かに目を閉じる。
先程差し出した茶に添えることのできなかったチョコレートが、ポケットの中でかさりと音を立てた。