FM――いつものヤツら――(加筆修正中、推敲公開)――カチッ、カチッ、カチッ、カチッ
瞼を開ける。海松茶色(みるちゃいろ)の眼に映る白い壁……。長く眠っていた感覚があり、体全体が心地よく痺れている。
自分の赤い死刑囚服が視界の端に映った。上掛けシーツは就寝中に蹴り落としたのだろう、鈍色(にびいろ)のコンクリートの床に落ちていた。
昨日テーブルに設置しておいた――寝床の足元にある。その隣はステンレス製のトイレユニットがある――置き時計を見ようとして首を伸ばした。
6時まで__分と__秒。
枕に頭を預け、軽く伸びをした。それから、__。針が6時を差した。そろそろと起き、鈍色のコンクリートの厚い板の縁に尻を置いた。無意識に揃えた爪先は次に向かう場所を指していた。寝台の隅に黒いまっを几帳面に畳んで置いた。この隣にはステンレス製のシャワーユニットがある。時間制限つきの。
――几帳面に。
便器と手荒い器が一体となっている。
__を洗面器とした。
洗面器の前に立ち、顔を写す。髭の状態を調べ、歯を磨いた。リチャードは鏡台の前に向きなおり、顎を上に向け、もう一度、伸びきった喉を鏡に写す。剃刀の峰の部分を喉元にあててゆっくり下げていく。
――神経質に。
まわれ右をし、時間を確かめた。――__時__分。
――ニューヨーク
チャウ・ホール(食堂)
独房から出た囚人
小ぶりなパン、チリビーンズ、林檎……
リチャードは凹みや引っ掻き傷のついたファンデーションカラーのプレートを看守から頑丈な鉄製のドア越しから受け取った。汁もひとつのプレートに盛られてあった。
豆の味が酷く、スープが濃い上に中途半端に冷めているので、皆が不味い顔をしている。提供される食事があまりに酷いと食べずに次の食事まで空腹に耐える者もでてくる。
一人だけ嬉しそうな表情でクチャクチャと口を動かしている。
マリオのように豆さえあればここは天国と満足している囚人は彼だけなのだろう。
自分には、食事とは身体に燃料を入れる行為であって、決して楽しむものではない。
――とは思うが、この肉……。
マリオの隣に――とはいえ__離れた――腰をおろし、せっせと豆や芋をを口に運び、皿を__片付けた。ビジネスについて考える。
マリオが口をクチャクチャと動かしながら仲間に言った。「おい、果物やるよ」
「どうも」
「キリー、今日はなんの日かわかるよな?」
「『可愛い女の子』の日」
「ああ、ああはは……!」
「わくわくがとまらない」
「どうして?」
「俺はピンカミーナに、脅迫状を贈ろうと思ってる」
ジェフはマイ・リトルポニーのキャラクター《ピンカミーナ・ダイアン・パイ》の被り物をかぶった。
「せんなことねぇだろ。ダイアンは__には近づいちゃいけねえとか、_、と__は武器取り扱い所だとかガイドブックを作ってやってんだろうが」
キリーは顔をぱっと輝かせた。この男にこれ以上嬉しそうな表情はあるまい。
笑いあった。
「__が狙ってる。」
「まあ、」
――確かに。
ヘイルは子供の頃読んだお使いと怪物を思い出していた。行く手を塞ぐ無機質な表情の獅子。少し戻って回り道をしたって障害物が用意されているアレ。
マリオが身を乗り出した。「」
__は鉄を鋭く研いだ棒に歯ブラシの先端部を被せたものを持っていた。
――彼は君が思っているよりずっとタフな男だぞ。
ニューヨーク界隈で窃盗と誘拐事件で騒ぎを巻き起こしているジェフは手練れの調べ屋だ。事件は四大陸で十件以上。彼が盗んだ物品すべてが逸品ものである。そのなかには私もようく知っている時計も含まれていた――まず、知っておいておかなくてはならないことがある。ひとつは超高度なセキュリティの問題だ。____、もうひとつ、機械時計に特別な強い関心がなければやらないことだということ。
あるいは、この私に。
5……4……3……2……
ブザーが鳴る。__、ランチタイム終了。
ライトグリーンの壁
私の熱狂的なファン。私の手足となった彼はあの男を見事に騙した。彼の弟子と戯れ、「神の平和」を護らんと__に活躍したわけだ。
なあ、ジェフ。あんたから、あの女警官との長距離カーチェイスの感想を聞きたいね。
――彼女……サックス刑事誘拐事件は未解決のままだ。
そうこなくっちゃ。彼は賢く、捕まらない。そんな彼はここニューヨークで、ケチな置引きで捕まった。そう、このイベントも、彼の完璧で優美、まったく無駄ない計画の末端にすぎない。つまり、もっと大きなことを計画している。彼はここに収容されるから、暫くは退屈せずに過ごせるだろう。そして彼は仕事をする。私は、彼の次のターゲットを知っている。
――私さ。
年長の男は嬉しそうにチェス盤を眺めていた。いいぞ。退屈は悪だ。
リンカーン、私は捕まらない。
__に動きがあるようだ。マリオとキリーの甲高い声が聞こえ――静寂した。
心の中でくすりと笑う。
ライトグリーンの壁に__の床の上を長い線が立った。男が__こちらに向かってくる。クッと引き締まった身体、スマートに腕を振って、__に__を踏ませる。足運びは優雅だ、肉厚な唇は自信に満ち溢れていて微笑んでさえいた。
ウォッチメイカーは口の端を持ち上げた。含み笑いも、危うく声にだして笑いそうになった。おや、ナルシストの語源となったナルキッソスもこの男の前では恥じらうかもしれない。
ジェフをじっくりと観察する。
【ジョリー】
リチャードは__に囲まれた__の__の椅子に座っている。ようく陽のあたり、神々しい。テーブルの上にチェス盤が置いてある。海松を褐色がらせた暗い黄緑色の眼の色が見てとれるところまで近づいた。髪の毛はどことなく少年っぽい。
――かわいい、彼。
嘘をついても顔にも、仕草にも出ない。誤魔化しの上手いウォッチメイカーは意味深な眼をジェフに投げた。なにも言わずにただにやりとだけすると、隣へ座れと手振りで誘った。
「ご親切に、どうも」例を言い、ジェフは座った。
チェスの駒を動かした。このチェスは面会の席でリンカーン・ライムと対決をした、__を再現した。
「私はジェフ。会えて本当に光栄です」ジェフは美しい声の持ち主だった。
ウォッチメイカーは、穏やかにジェフを見ると、灰色がかってきた眉毛を海松茶色の瞳の上でぐっと吊り上げた。穏やかな声で聞いた。「神の平和?」
静かに言った。
「ビジネスの話をしようか。さて――」駒を置く。
リチャード・ローガンは、クライアントが被害者を殺す理由を道徳レベルで気にかけたことはない。それでも、動機は必ず知っておくことにしていた。殺害計画を練ったり、事後に逃走したりする時の参考になるからだ。だから今回も、ジェフが長い間刑務所に入らなくてはならない――本当の――理由を丁寧に聞き出した。
ジェフは頷いて手をクロスさせた。「真実を知れば、あなたの身が危うくなりますが、あなたは危険には慣れてる。いいでしょう。私が世界的規模の化け物企業に属していることを仮定したうえでお話しします。」
「ハット・アンド・ケープという組織はご存知では?手練れの傭兵たちです。それもWAP乗り
時は__。彼らは……私の大勢の友人たちをあの対戦車弾で撃ち殺しました……」ジェフはそこで言葉を呑みこんだ。「――あれは、人体の破壊という表現が適切ですよ……。彼らは弊社からパンドラの箱を盗みました。箱を盗まれたからといって中身はでません。
「身元が割れた一人の傭兵から辿り、誰が黒幕なのか突き止めました。企業だった。
もしも、彼らが誤った選択に彼を使ったら、人類にとってもっとも醜悪な結果を迎える……世界は第三次戦争を開戦するかも」
「私は、ふたつの使命を背負っています。仲間の仇を討ることと、Z企業に彼を使わせないと理解させること…」
「さて、それと貴方がどう関わっていくか」
「貴方になにをさせたいか?それは後日お話しします」
「いいですか。ゲームの道はまだ続きます。五十個のステージがあるとします。このステージはステージ五としましょう。どうです?全体から見たらリンカーンなんてちっぽけな存在に思えてきません?実際ちっぽけなんですよ」
おや、パクス・デイはどこへいった。地獄への切符をジェフが売っている。
戦争屋が絡んでくる確率が極めて高い。
「これは絶対に負けられないゲームってか」
地獄行き切符なんか誰が買うか。
「でも、俺に決定権はないんだろ?」
わかったことは少なかったが、案内役の妖精さんは頭ひとつ頷いて脱獄の段取りを話した。
――妖精……まさか、まさかな……
――妖精王が頭をよぎった。
「電気、素晴らしい武器じゃないか」彼は数年前にニューヨーク市全体を数日にわたって機能不全に陥れたことがある。
「勉強させていただきましたよ。リチャードさん」
「私は何ヵ月も勉強した」
「SCADAとアルゴンクインのシステム研修も受けた」
「すっかり魅了されてしまってね。自分でも意外だった。前は電気など馬鹿にしていたから」
「電池を使うと、腕時計の美しさ、芸術性が失われるから」然り気無くクォーツ時計の話を持ち出すジェフ。
ウォッチメイカーは頬に熱をおびた。二度目だ。ああ、リンカーンも同じことを言ったっけな。
「これは心ばかりのお礼」
「ちょっと失礼ですが、時計師さん、これをつけていただけませんか」
「____」
リチャードは含み笑いを浮かべた。頬が熱っぽくなり赤く染まる。湿っぽい目をしている。
差し入れられた淡いブルーのカラーコンタクトレンズをつけた。茶目っ気たっぷりに両方の頬を引っ張る。数年前は丸顔だったのだ。
ジェフはけらけらと笑った。リチャードは笑いでごまかす。――太い鼻と丸い顔、二重顎を作るためにコラーゲンを注入していた――
「なぜ、いまなのか」
「チャンスはいくらでもあった」
「迷っていたんです。ずうっとね……。貴方をチームに迎えいれるかどうかを……」
クイーンを犠牲にしている。
「クイーンは強い駒ではありますが犠牲にできる駒でもあります。貴方ならよくご存知でしょう。チェスは誰かの命に差があると思われていた時代に生まれたものです。」
「誰かの命に価値を持たせてはいけません。犠牲として利用していい人間などいてはいけない」ジェフの目は自由時間をバスケに興じる囚人たちを眺めていた。
リチャード・ローガンの目に好奇心がありありと浮かんだ。
「貴方は駒じゃない」
――チェックメイト。リチャード・ローガンの勝ちだ。しかし、この男はわざと負けた。
「あんたの仲間がいまからやることは……」
「そうね。矛盾してるわね」
――わね?
人は五千年以上前に電気というものを知って以来、畏怖と恐怖を抱いてきた。電気の語源はギリシャ語の""琥珀""だ。古代人は、樹脂の化石である湖畔をこすって静電気を起こしていたからだ。
エジプトやギリシャ、ローマの川や沿岸地域に生息する鰻や魚が発する電気に触れると体が痺れる現象は、西暦紀元のはるか以前に著された科学文献にもすでに詳しく説明されている。
水性生物のなかでもとりわけ気に入っているのは、魚雷の名の由来になった魚、シビレエイだ。""torpedo""の語源はラテン語の""torpere""
で、強ばらせる、麻痺させるといった意味を持つ。
シビレエイの体には言うなれば、何十万個もの発電細胞でできた電池がふたつ入っている。この電池から放たれた電気は、電線が電気を伝えるのと同じように、複雑に配置されたシナプスによって伝えられる。敵から身を守るためにこの電気を利用することもあれば、より攻撃的に狩に利用することもある。エイは海底に伏せて待ち、通りがかりの次の食事を狙って放電して麻痺させるか、放電そのもので相手を殺して捕らえるのだ。大型のエイになると、最大二〇〇ボルトもの放電が可能という。これは電気ドリルも動かすことができる電流に相当する。なかなか興味深い生き物だ……
ジェフが太陽を見た。まさか、__。
汗まみれの囚人。
声が囁いた。「指をクロスして祈っていてください」
突如、視野が真っ白になった。――アークフラッシュ。悲鳴。呻き声。
暗闇のなかをジェフに腕を掴まれるがままに歩いた。
街から灯りが消えた。
――__に切り替わる時間__分。
肌、髪の毛の焼け焦げた悪臭。
w246p
男は怯えた様子も、興奮した様子もない。
__人の痩せぎすな男がバッグを抱えている。彼の血走った目が脱獄を__ジェフの手刀に呆気なく倒れた。喉を潰されたにも関わらず異様に思えるほど大きい熊のような手はバッグを離そうとしない。
リチャードは猿の頭をおもいっきり__を振り下ろして気絶させた。
中には前もって隠しておいた監視服とウィッグ。
「ふっ、素晴らしい」
――灯りが戻る。
監視役に扮したふたりは堂々と玄関から外へでた。もっともらしいことを言って。
ゲートへ向かう。警察車両が集まってきている。ゲートの男は仲間だろう。「幸運を」
車に乗り込み、服を着替える。といっても、マジシャンのプロテウスマジックに習って、簡単に糸が解れるようになっており、一瞬で早着替えできた。監視服の下はカットソーだった。
ジェフはなんと、女物だ。
車を発進させた。横目でジェフを見る。またウィッグを付け替えていた。ただし、女のセミロングヘア。行き先はどこだろう?
「監視の目がない場所」真っ赤なリップグロスまで塗られたぷっくり唇。
警察車両が通りすぎる。
――――――ただのメモ――――
総合格闘技に挑戦、
プロの総合格闘技はこの州(ニューヨーク)では違法
闇では非合法の賭博試合が行われているが。仕切っているのはギャングだ。
――――――ただのメモ――――
葬儀所
手当てをするのに一番近くて必要なものが揃ってるのが葬儀所だった。
「時代は変わったのかも。我々は闇のなかにいる。だが、ひとつ言えることがある。これから行く道の先は――もっと暗くなる」
――五十ステージ
「えぇ、じきに暗くなるし匂うわよ。動くわよ?」
――匂う?
――河。後部座席はトランクに繋がっている。トランクから引っ張り出しだ老夫婦の死体を運転席に乗せ、水中呼吸器を着ける。アクセルを踏む。車は河に沈んでいく。トランクを開けてつっかえ棒で固定しておいた。ふたりはトランクから出て、棒を蹴飛ばした。
トランクから大量の巻きタバコが
河を泳ぎ、海へ進もうと身ぶりで誘った。海へ出る。そのまま沖へ泳いだ。
(__)
刑務所からふたりの白人男性が脱獄した。事件と同時に街では深刻な大停電が発生していた。出口に殺到した囚人たちですし詰め状態だった。それでも感電死しなかった幸運な囚人たちが脱走した。__班は中にリチャード・ローガン、ジェフが紛れてはいやしないかと捜索した。ふたりだけが見つかってないという。
【リチャード】
ふたりは海を泳いでいる。
落ち着く。海は危険に満ちていると思うかもしれないが私にとって海は驚異ではない。それどころか安全といってもよいほど__場所にいる。
またしても魚と電気に考えを巡らせた。サメは、文字通りの第六感を備えている。何キロも先にいる獲物も、まだ視界にも映ってもない獲物の体内で起きている生体電気活動を探知することができる。
タラの群れだ。
一匹のサメが三日月状をした尾ビレを振って優雅に游いでいる。人が思っているほどサメは恐くない。人と距離を置きたがる臆病な生物だ。もちろん、人を襲うことはある。サーファーが餌さと勘違いされた例だ。鮫はアンモニア、血液、微量の電気に。
サメに捕らえられたタラ。サメの方がタラよりもずっと勝率は高いだろうと思われるが、実はかなりの獲物を取り逃がしている。この矛盾に心が揺さぶられる。サメは単なる殺し屋というわけではないのだ。
仲間の支援船だろう。二人は引き揚げられた。ふたりは脱いだ潜水服をかごに入れた。
ドクターから診察を受け、ゴーサインをもらうと、海底探査機に乗り込んだ。操縦席にはジェフが座った。一人で操縦するようだ。
全周がメタクリル樹脂製だ。
耐圧殻のメタクリル樹脂製の窓
海底に向かうらしい。
暗闇を照らす月のプールに深海魚が飛び込んだ。
サメには浮袋がない。泳ぐことをやめてしまうとまるで浮力タンクの壊れた潜水艦のように海底奥深くに沈没してしまう。
深海魚。
あれは沈没船か?――沈んだサメ。
違った。沈没船に似せて造ってある。外部の目を欺くためのカモフラージュなのだろう。
ドッキング。海水で満たされた鋼鉄の部屋から海水を抜く作業を開始した。私にできることといえば成功を祈ることくらいしかない。ハッチを開け、海水ではなく空気で満たされた鋼鉄の部屋に足を踏み入れる。ハッチを開け次の部屋へ入った。部屋というより先程の部屋に似た空間だった。獣の低い唸りみたいな機械音。またハッチ。抜けると高級そうな扉が目の前に。
背の高い男は彼を豪華な部屋に案内するベルボーイみたいだった。
リチャード・ローガンは部屋に入るなり驚いた。超高級旅客船さながらの空間が、__奥まで広がっている。リフトまで。
男は部屋のあちこちを歩きまわって、冷暖房や電灯の__ありかを説明した。
壁には高価な木材である紫檀が使われていた。描かれているのは__の風景。
ヘイルは貼り紙で埋まっているコルクボードのほうに足を踏み出した。
ジェフのチームは、私と宿敵である男を徹底的に調べたようだ。リンカーン・ライム。彼の手足。その関係者に及ぶ些細な細部も入念に。
「散らかっていてすみません。片付けますから」
「殺風景な部屋はちょっと苦手でして」ジェフ
「いい部屋を貰ったな」
高級ソファーに腰を落ちつかせた。
この数分、沈黙が続いていたのは、ただ単にウォッチメイカーが頭のなかで答えを組み立てていたからにすぎない。《リンカーン・ライム誘拐プロジェクト》
ジェフは白い卓上のマスカットをひとつとってまるごと一粒頬ばった。頬がリスみたい。
「私を助けるのは、私のためか、チームのためなのか、これだけは言わせてくれ」
「ありがとう……いま、ジェフと付け加えようとしたんだが、君の本名はジェフでいいんだな?それとも、偽名か」
ウォーターフォールヘアにした女物のウィッグにリボンを追加しているところだ。頬を頬張らせたまま答えた。「私はアンジェリカ」
「ほらな」リチャードは肩を竦めた。
ジェフは口をモグモグ動かしながら女物のウィッグを剥いだ。――ごくん。唇からルージュグロスを拭う。
「私を助ける理由を知りたい」
洒落た眼鏡をかける。変装に忙しい男だ。
「チャールズ・ヴェスパシアン・ヘイル。ここ__号に貴方を保存する。貴方に差し迫る驚異を我々が排除するまで保護します」
低いバリトンの音。
「今更、驚きはしないさ。調べ屋なんだろ」
「貴方の身近な人たちを傷つけていません。深くは」ターゲットに(木へんに契)を打とうとターゲットの家族を狙い欲しい情報を強引に引き出そうとする。
射ぬくような__瞳をまともに見た後、__に歩み寄り、年代物のスコッチを手に取った。
彼は年代物スコッチをグラスにつぎ、彼に手わたすと、自分のグラスにも注いで、喉を鳴らして一気に飲み干し、グラスをテーブルに置いた。そしてヘイルの膝の上に置かれたままの手を見て言った。
「あなたの部屋のバーボンは飾り?」
ヘイルは、手をグラスに持っていき、ちびりと一口飲んだ。静かに。
男は他人事とでもいうような冷めた声でこう話した。
「リンカーン・ライムが担当したニューヨークの悪人たちに興味があります?お聞かせしましょう」
「十年前のニューヨークに…人間の骨に異常な執着を抱いた男がいました。貴方に劣らぬ狡猾で非情な男、ボーンコレクターが引き起こした連続誘拐殺人事件です。彼は犠牲者の周囲に次の犯行現場と殺害の手口を暗示する物を置いていくという、大胆不敵な連続殺人犯で有名でした」
「やっぱりな。あんたが盗んだものリストのなかには、裁判記録とか警察記録も含まれてたんだ」
「スティーヴン・ケイルと""棺の前で踊る男""を知っていますか?ふたりは共にフリーランスの殺し屋です。警察の目をそらさせるためならば何でも利用する。ふたりの目的は__会社経営夫婦とその友人です。警察による厳重な保護網を掻い潜るために棺の前で踊る男がとる手段は、関係者を殺害して衣類や装備を奪い、他人になりすますことでした」
「ゴーストを知っていますか。中国人のクワン・アン。彼は世界で最も危険な密入国凱旋者と言われ、警察官や政府職員を含む十一人の殺害容疑で国際指名手配を受けていました。しかし実際に殺したと考えられる人数はそれ以上、彼は船を沈め、証拠隠滅のために乗客の密入国者たちの命を無慈悲に奪ったのです。騒動に紛れてニューヨーク市内に潜り込んだゴーストは、生き残りの乗船者たちを殺して口を塞ごうとしました」
「どことなく怪人めいた風変わりな犯人です」
「音楽学校の中で女性の命を奪った犯人は、完全に包囲されている建物のなかから姿を消します。その鮮やかな技を、イリュージョニストはハリー・フーディニの脱出マジックになぞらえて〈手持ち無沙汰の絞首執行人〉と呼びました。続いての犯行は〈血の偶像〉〈破壊される娘〉。殺害後に遺体を鋸で切断してみせました。そこが大勢の観客が詰めかけた舞台であるかのように、彼は犯行のショーアップにこだわり、かつ自らの内的独白としてトリックとその意義について解説を加えることを好みました。対抗処置としてリンカーンは、プロのマジシャンに助言を頼んだ」
「プロテウスマジック(早変り)か()」
彼はスコッチを彼のグラスに注ぎ、彼の手前に置いた。
「それらの技よりも注目しなければならないのは、観客の注意を引きつけて間違った方向へと逸らす誤導のテクニックです。リンカーンは彼の仕掛けた誤導の歪みを排除した後に残る真の狙いが何かを見極めなければいけませんでした」
ふたりはグラスを持ち上げて__乾杯をした。
「トムソン・ボイドのお話です。彼は外見に際立った特徴がなく、周囲の群衆に溶け込んでしまえることから〈アベレージ・ジョー〉と異名をとったこともある殺し屋です。すべてのことに対して驚くほどに心が動かない無感覚な感覚の人間なのです。だから騒ぎを起こして群衆の目を逸らそうとするだけのために、平気で人を殺すようなこともできました。彼は子供のころから音楽好きで一時はレッスンに通ったこともあります。しかし指が太いせいで演奏は上達せず、低いしわがれ声しかだせない喉では声楽家になるのも無理だったのです。そのために早々に夢を放棄せざるをえなかったボイドですが、それでも口笛を吹く癖だけは残りました」
一口含む
「リンカーンにとっての真の好敵手となったのがウォッチメイカーです。立て続けにふたつの変死体が発見されました。どちらの現場にも文字盤に月の描かれた時計と、ウォッチメイカーの署名が入った紙片が遺されていた。犯行手口は凄惨極まりないものでした。第一の事件では貴方は、犠牲者を浅瀬につかまらせ、川の上にぶら下がらせて指を切断したものと思われた。もう一件では、死体の喉が錘によって押し潰されていた。
貴方にとって善とは心理的刺激であり、悪とは退屈。そして善とは優美な計画とその完璧な実行のことである。極めて高度に発達した知性が余剰に見えるほどに入り組んだ犯行計画を作り上げ、実行に移す。それが貴方」
得意気な笑みを浮かべた。
「ジェラルドの愛称ジェリーは、__。ひとつの名前にふたつの針」
「続いては力を持つことに取り憑かれた人間のお話です。彼が武器として用いるのはデータです。リンカーンの従兄弟のアーサーが第一級殺人の容疑で逮捕されたことから、リンカーンは事件に関わることになります。従兄弟の容疑を裏づける物的証拠はほぼ完璧で疑問の余地はないように思われました。ですが、その点に不自然な要素があることにリンカーンは気づきました。物的証拠が揃いすぎていたのです。もしも、彼に関するデータそのものが改竄されていたのだとしたら、捜索の結果、リンカーンは世界最大のデータマイニング会社である〈SSD〉内に従兄弟に罪を着せた犯人が潜んでいる可能性に行き当たります。データマイニングの隠語では特定の対象の個人ファイルをクローゼットと呼びますが、彼は自宅内のクローゼットに置いた(草冠に鬼)集品を眺めることで心の平穏を保っていました。展示エリアは十六に分かれていますが、シックスティーンとは人間を意味する隠語でもあります――人間を管理するIDが十六桁であることからきているので――そのコレクションのなかには彼が犠牲者を襲撃した際の戦利品も含まれていたのです。データマイニングは個人についての情報を集めることによって力を得ますが、彼はその滑稽な似姿と言っていいでしょう」
「稀代の天才ウォッチメイカーがメキシコシティに現れたという情報が入り、リンカーンはキネシクスの専門家と連携をとりながら逮捕作戦を練ります。しかしリンカーンは身近で発生した重大事件にも注意を向けなければならなくなったのです。ニューヨークへの送電網に異常が生じ、そのために死者がでる事件が起きたというのです。とある変電所に何者かが侵入し、物理的な破壊工作を仕掛けた形跡がありました。過剰な電圧がかかることによって引き起こされるアークフラッシュという現象が貴方が使う武器でした。」
「現代社会では電気は、水のようにあまねく存在し、当たり前のものとして認識されている。その当たり前のものを、人を害する凶器に転じさせようというのが貴方の狙いでした」
ウォッチメイカーの氷のように冷たく青い瞳に浮かんだ奇妙な表情が、ジェフを__
「」
「国際指名手配されてまでして、__を_にしてまで」
――お互い様
「もちろん、私はイギリスの事件も知っていますよ。インターポールに追われてる、__」
「貴方はメキシコの連邦警察幹部の暗殺を試みました。数年前に貴方が計画したプロジェクトだ。あの事件は封印されたことはご存知で」
「封印された?」リチャードの顔に困惑が浮かぶ。
「ああ、やっぱり。国務省とメキシコ司法省は、貴方の手、アメリカ人の手で、メキシコの捜索機関の幹部が殺害されかけたという事実を歓迎しなかった。そして、そんな事件は起きなかったことにするという選択をしました。だから、いっさい表に出ていないんです」
「それは、知らなかった」ヘイルは苦々しげに呟いた。
「一方で私のほうは、貴方から賄賂を受け取ったメキシコ人を尋問しました。拷問をはじめてものの八秒後には綺麗さっぱり吐きだしましたよ。素晴らしい陽動作戦でした」
「ふん。そんなものだろうな」
「AFFC――白人至上主義のミリシア。貴方はスタントン一家に、有力ミリシアに成り上がる手伝いをしましょうと誘いましたね」
「ボツリヌス菌」
「AFFCの件まで把握しているとはね」
「そうだ。ハリエットとビリーが刑務所に面会に来て、私は計画を立案した。ところで、あのふたりが一緒にいるところを見たか。ハリエットとビリー。叔母と甥以上の関係にあるように見えた。アメリカン・ファミリー・ファーストという組織名には何か隠れた意味があるのかと勘ぐりたくなったよ」
「これを」タブレットに写っているのはガレージ。
「ハリエットは避妊具を極端に嫌いました。性交は月経時に執り行われました。かわいそうなビリー」
ヘイルが続けた。「彼らは名を挙げたがっていた。そこでアイデアを出し合った。飲用水にボツリヌス菌を混入させるというのは私の提案だった。ビリーはタトゥーアーティストだと聞いて、旧約聖書の一部を被害者にタトゥーで刻もうということになった。黙示録だと私は言った。彼らはそのレトリックをたいそう気に入ったようだった。連中の馬鹿げた価値観を世に広める一助けとなる。薬物を凶器に使うという案もしごく気に入っていたよ。社会を毒しているマイノリティや社会主義的価値観を、毒を使って一掃するというわけだ。それはもう乗り気だった。少なくともマシューはね。ビリーとハリエットは、それに比べると大人しかったな」
「で、計画と引き替えに、彼らはゾンビ・ドラッグを貴方に差し入れる手筈だった」
ヘイルは肩をすくめた。
「死を偽装するのは苦しいぞ。毒で心停止を装うからな」
「いいですか、チャールズさん。貴方を脱獄させる目的のために、ビリーをあのままニューヨークに泳がすわけにはいかなかった」
聞くところによると、連中のモディフィケーション〈改造計画〉は実行する隙もなく彼に阻止されたらしい。
「チャールズさん、なぜなら、ビリーは約束を守らないし、貴方はミスを犯したはずですから」そう言ってジェフは一冊のノートをバッグから取り出してヘイルの前に掲げた。
舌打ち。不愉快そうな声だった。
「ビリーの奴。ワープロ文書に転記して、暗号化したうえでネットに接続しないパソコンに保存しておけと言ったのに。オリジナルは破棄しろと」
「驚くに値しないか。イリノイ南部からはるばる来たあの一家は、かなりのアナログ集団と見えたからね」
「それに、頭の出来もいまひとつだったようだ。例えばビリーが使用予定だった毒物。市販されている薬品を使えと貴方から勧められたでしょうに、ビリーは植物にこだわった。彼の部屋から__見つけています。ということで、ビリーは植物由来の毒物しか使わない。しかし貴方はどうだろう?」
「その通り」
「ビリーの奴、どうやら子供のころからひとりで森に行って植物をスケッチするのが好きだったようだ。両親を連邦政府に殺されたうえに、与えられた道徳指針がネオナチのミリシアときたら、タフな子供時代だったろうな」
「書き留めたのはビリーかな」
「計画は口述でビリーに伝えた。ふたりで刑務所に面会に来た。ビリーが私の半生記を書くための取材という名目で」
「モディフィケーション〈改造計画〉貴方が考えた作戦名かな」
「そうだ。ビリーの職業から連想しただけのことだがね。ボディ・モディフィケーション身体改造。連中の黙示録的な価値観にも合致していた。私としては気恥ずかしい呼び名だった。陳腐もいいところだ。だが、連中は気に入っていた」
「是非誰かに書き残してもらいたい話があるが、いまだにふさわしい聞き手が見つからない。あんたなら理解できるだろう、ジェフ?計画を話し終え、ビリーがすべて書き留めると、私は言った。""きみに預けたぞ、モーセ。世に広めるがいい""。ビリーとハリエットはピンときていないようだった。あんたなら知っているだろう。""ウォッチメイカーたる神""という概念が神学にあることを」
「ええ」
「アイザック・ニュートン、ルネ・デカルトら十七世紀から十八世紀の科学革命の中心となった学者は、宇宙の起源について考えを巡らせ、設計には設計者が必要だと言った。機械時計のような複雑なものは、時計師がいなければ生まれまい。同じように、宇宙における人間も――人間は時計以上に複雑だ――神が存在していなければ存在しないはずだ」
「そこから説明しなければならなかったよ。ウォッチメイカーと呼ばれている私が〈モディフィケーション〉を口述するのは、神がモーセに十戒を与えたのに似ているだろう。こっちはジョークのつもりだった。ところがあのふたりはいたく感心したらしいね。それ以降、計画のことを〈モディフィケーションの戒律〉と呼ぶようになった」舌打ち。「皮肉を理解できない連中を哀れに思うよ」
この男の饒舌さときたら。答えは大学教授のそれのように整然としていた。
「それから、__は私から丁重に断っておきました。私がいなかったら貴方は破滅していたでしょう」
「貴方の犯罪プロジェクトは完璧でも」
(ウォッチメイカー)
まったく。この男の背後には誰がいる?さぞかし泣く政治屋も黙る悪魔的な企業。
――やはり、あの一族の者か?
ヘイルの目がわずかに細くなった。そうやって目を細めて質問を真剣に検証したあと、組み立てた答えをすらすらと暗証する。
「どうやって私を見つけたか、そろそろ……教えてくれないか」
「私はハット・アンド・ケープとZ企業を追跡しているというところまでは前に一度、お話しましたね。私は私のチームが欠けているピース、必要とする逸材を各国を巡って探してきました。捜索は思うように進まず、捜すうちに私の精神は消耗してしまった。その折、イリュージョニストの引き起こした殺人事件が耳に入ってきた。科学捜索の鏡であるリンカーン・ライムのことはようく知っていました。彼を翻弄させる、かつ捕まらない人間こそ私のプロジェクトに必要な要素を併せ持つ人間なのではないかと思い至りました。用心深さ、__を必要としますから」
「過去に彼が担当した殺人事件を調べましたよ。息抜きのつもりでね。どの犯罪者も相応しくはなかった。そうして思った。みんな一人でやろうと思うから上手くいかないんだって。古い友人を訪ねたんです」
「その友人に不思議な__を見せていただいたのです。メキシコの新聞です。」
ヘイルはまた目を細めた、ジェフをじろじろ見た。
「リンカーンから貴方を全力でお護りします」
彼は眼鏡を取り、玉葱色のウィッグを剥いだ。金髪ではない、黄色い髪から滴が滴り落ちた。イタリア人にありがちな色味のカラーコンタクトの下から赤みの強い琥珀色の眼が露になる。
「私のジョリ・フィーユといえばお分かりになります」
――私のジョリフィーユ、彼女は世界初のアンドロイド――はアルフレッドの養子ジョリー・バニスターがモデルといわれている。ビンゴ。ヘイルは声をあげて笑った。
アルフレッド・バニスター……やっぱりな。
案内役の妖精のボスが『妖精王の意味を持つアルフレッド』だとは、ずいぶん気の利いた洒落ではないか。
ただし、依頼は悪魔から地獄への切符を買ってからだ。
「あんたはジョリー・バニスターか」独りごとのように呟いた。
ジョリーは肩をすくめた。
「いま?本当にいま気づいたんですねえ、本当は、はじめから気づいていたでしょう」
「私は""ノーティラス""のひとりです。民間軍事会社__に配属しています」
「ですが、いまじゃこの船舶のように」
「沈没している、か……」呟くよう言った。オウム貝の語源は船舶だ。しかも時限爆弾付き。つまるところチームは危機に瀕していて時間がない。
「そのとおり。時間もないんです」
【現代】
双子は対応に迷った。目的はズーイーだろう。
モスマは危機感を募らせていた。公園でつけられたことを両親と双子に聞かせてある。
「女の子を乗せた途端にボクたちの列車が急に方向転換」シャーリー
「いやぁ……」ケヴィン
モスマはヘンリーを問いただすことにした。
ヘンリーはモスマが気に入らなかった。
差し出された名刺を受けとる。知っている。超有名人だ。
「ゴールドリッチ」モスマ
「日本の絵の具みたいな名前かな」ヘンリー
「へぇ、リッチゴールドではないんですね……」「いいえ、なんでもないです」モスマ
ヘンリーは隠しカメラでズーイーを撮った。モスマ、双子も気づいた。
モスマは直ぐにジョリーに連絡を入れた。ヘンリーが娘の情報を抜こうとしたことを報告する。
「アルフレッド企業の__で……インプラントの研究を……」
「彼は彼女に一目惚れしてます。__」モスマ
「公園、彼女にとって馴染みの場所ですから……心配です。ひとりで出かけてしまうこともあるでしょう」モスマ
「不安だからあなたを雇ったの」ジョリー
デート直前にこんな事態に……
双子が預かる。
ジョリーは瓶を胸に――りんご酢に浸したフルーツピクルスを――抱えて、食事、飲み物、水回りの設備についてベルボーイさながらに説明した。
「まだキミは、少年ともいえる年だろ?」
「えぇ、__です」彼の後ろにロフトが見える。なにがあるのか。
彼は__の奥へと歩いていきチャールズを奥のロフト手前に案内し立ち止まった。立派なバスルームシンクだった。ロフト下にある透明な開き戸をジョリーが開けるとバスルームが現れた。
――ハングローエはバニスターと友好関係にあるのだろうか――このメーカーで統一されていた。
ジョリーが浴槽へかがみフルーツピクルスのチェリーをビンから取り出し、バスタブトレーにちりばめはじめた。
湯が彼のくるぶしまで__いた。この水は__技術をつかっている。飲料水は糞からも生み出せる。有名な起業家が支援した。それにバニスターは習った。
バスタブの縁に尻を乗せ、首をのけぞらせた。彼の姿勢は蠱惑的だが口はこう言った。
「____時間しか持ちません」深海潜水艇を見たときに悪い予感を感じたことはずっと伏せていた。
「あなたは、この船について時限爆弾のように扱うべきだとおっしゃるでしょう」
「」
🤔コケットリーが参考になる?
バスルームシンク
__。歯ブラシひとつとっても贅沢な逸品。
超高級旅客船を。
そして__のこの棚の色……。王族が好んだ紫檀を使っている。白琥珀で作られた取っ手を掴んだ。思いきって棚を開け""彼女の""というべき秘密の道具を見つけたとき、ヘイルの思考は停止した。浴槽から上がったジョリーは言った。
「男ですよ」
彼はこれ見よがしにジッパーを下げ、綺麗に剃りあげた下腹部を男に見せた。男のものがついている。
__からナイフを取り出し
ナイフを手に一物を切断し始めた。
「籍はね」
乾いた声で言った。「やめてくれないか…」
「ぜびご覧になってください。これは本物の男性器です。が」
「これには実は消費期限がついていましてね。本体から切除される以前はボーウェンさんのものでした。ボーリング世界選手権__二位の記録を持つボーウェン・__。彼の脳みそは死んだかもしれないが、この中に内蔵されてる生命維持装置のおかげで彼の一部は延命しています。特別な液体が流れているんです」
ヘイルは顔をしかめている。彼のエチケット違反に軽く裏切られた思いだ。
「女性とセックスをしたいと思ったときは__テクノロジーのほうを使いますがね」
「まさか、__」
「考える一物も悪くないですよ、口を欲しいと切望しているでしょうか。まあ、まだそれにそんなことを思いつく頭はないとおもいますけどね」そう言いながら血で汚れた服を脱ぎ、
「意識が世界をつくる?」
男のものの乳房も脚もお腹も引き締まっている。
__をかごに入れ、シャワーの熱い湯を下腹部にあてながら、張った腰骨を見つめた。ライオンを洗う日だと冗談を言っている。
アルフレッド一族は確かに獅子だ。だが、エイプリールフールジョークを知っているウォッチメイカーは眉間に皺を寄せているだけだった。
ロンドン塔には動物が住んでいた。その動物たちのなかでも『ライオンを洗う日』という架空の年間行事がでっち上げられ、ライオン洗いが現物できるという嘘情報のために、4月1日に人々がロンドン塔に殺到した。
ジョリーの肌から水が滴り、床に落ちる音が聞こえる。
再び口を開けたヘイルは__ように__と喋った。
「変なことを言っただろ」
ジョリーは続けた。
「""ブレイン・マシン・インタフェース""」
ヘイルは頸を振った。彼女は水気を身体から取り除きながら続けた。上半身は男のものだ。でも、しりは――
「__・インスティチュート。私たちはブレインとクリスパーの技術、遺伝子操作を組み込んだブレイン・マシン・インターフェースの問題に取り組んでいる」
「
俺の意識が遠退いてくれたら……。
「コンピューターだけを考えるのであれば、意識が宿ることはありません。ただし、ロボットのように、コンピューターを含む、より大きな身体システムに意識が宿る」
「身体の構造や感覚器官のあり方は、なにか意味のある行動を生み出すうえで、重要な役割を担っている」
「身体を持ち、その身体で外界と相互作用しながら学習するロボットならその身体の特徴に基づいた意識が生まれる」
「意識が生まれるには、「身体」を通して周囲の環境と相互作用をしながら脳が発達していくことが不可欠なんだ」
「私たちは日々、__のシミュレーションを行っている。人や動物の体を忠実に再現し、人の脊髄に似せた情報処理の回路や触覚、擬似的な大脳皮質、引っ張られると縮もうとする筋肉の動き伸張反射などを組み込む、ロボットは__や__を自発的にはじめる。プログラムは一切入ってない」
「主観的な意識経験を更に掘り下げながら……生きてきた記憶のことです」
「人工超知能」
「合格した__の動物の遺伝子を組み換えた対象を作る」
「」
「四六時中映像を流して様々な疑似体験をさせる。ブレインはスーパーコンピューターに接続されており、ニューロンの役割をします。データはスーパーコンピューターに蓄積され、またそれが夢の役割を果たします。データマイニングですね。教育もスーパーコンピューターがやります」
「他のブレインと会話、娯楽」
「熟成したブレインは規格にあうチップ、デバイスなどに組み込まれます」
「身体と切り離されたデバイスはあたかも意識、五感があるかのように振る舞う」
「自信」
「他の研究機関のやるように人を犠牲にしません」
彼女は__からピンク色のバスローブをつかみ裸体に羽織った。
「ノーティラス以前に……私はクリスパーに勤めていました」
ヘイルはぽかんと口を開けて呆れ返っていた。この女、イカれてるな。
「巷の科学者たちはヴァンツァー専用B型デバイスに注目していますが、我々からしてみたら過去の産物ですよ。我々は五十年後の未来を生きています。未来の技術を紹介、販売するのが私たちの夢です」
「B型デバイスとは、何かご存知ですか?」
――知らなかった。
「以前から人間の脳を生体コンピューターとする研究は各国で行われており、当初は培養脳、次いで胎児の脳を記憶装置として使用することを模索していました。後に訓練した兵士の脳をデバイスとすることによって、生前の兵士の経験をそのままWAPの制御に生かそうという発想のもとB型デバイスの開発が開始され、現在も研究が進められています」
「ただし、B型デバイスは高い性能を示す一方、製造に熟練兵士を犠牲にせねばならず、また動作が不安定で最悪の場合暴走という欠陥を抱えています。よって、実戦テストの場と多くの被献体が求められています」
「責任者である__・__のもと「B型」「S型」デバイス開発を推し進めてきました。また独立した部隊を持ち、献体の選抜・捕獲を行っています。デバイス候補者に選抜された被験者は、機関の監視のもと泳がされます」
「事件が公表されれば、それまでも闇で行われるしか無かった研究は止めを刺され、人間の脳を使用したB型デバイスは葬り去られるでしょう。しかし、ヴァンツァーの発展はCOMの発展でもあり、間接的であれこの技術の恩恵を受けるものは多いといえるでしょう。我々の製品よりは安価でしょうし。ともかく人間の記憶を機械にフィードバックさせるという発想自体は生きています」
「呆れたことに三大国家が絡んでいるんですよ。戦争を仕掛けると予測しています。B型デバイスにされたくなければハフマン島にお近づきにならないほうがいい」
「先ほども申し上げた通り、私は貴方に危害を加えるつもりはありません」
――地獄……
「疲れたよ。ジョリー」
ロフト上はわからなかった。
ジョリーはキッチン装備されたダイニングへ案内した。業務用冷凍庫がふたつ。冷蔵庫がひとつ。食物庫。
「料理はします?」
チャールズ・ヘイルは手にカップ麺を持っていた。カウンターに寄りかかった。質問には答えなかった。
冷蔵庫を開け、珈琲豆がはいった瓶を手に持った。「いいな、これ」チャールズ・ヴェスパシアン・ヘイルは手袋を外さなかった。いずれこの船舶が爆縮による爆発で吹き飛ぶことになるのに。
彼は珈琲を淹れ始めた。湯が沸くのを待つあいだに冷蔵庫から珈琲豆の入った瓶を取り出し、スプーンですりきり二杯分を計って手動の珈琲ミルに移す。豆がからからと音を立てた。それからハンドルを十二回まわした。豆の音がやんだ。挽いた豆をドリッパーに敷いたペーパーフィルターに空ける。ドリッパーを指先で軽く叩いて粉を平らにする。
「手間をかけないことが美味しさの秘訣で……ぼくは食事に手間隙をかけるほどに不味い料理が作れる」
「朝は忙しい?」
「手間をかけない料理とは?」ジョリー。
「__があげられる」ため息がでる。案の定、彼女に笑われた。彼女はブグッと鼻から息を吹き出すとよく通る笑い声をあげた。
「本当と思わないでくれ」
「一日の三食をそれにしましょう」
ヘイルから淹れたての珈琲を受けとる。ジョリーは礼を言って口に含んだ。不味い珈琲を受け取ったのではないが、最高級品質の珈琲豆でなく、__で轢いた普通の珈琲豆だったら不味いと思ったかも。
「貴方の手料理を食べてみたい。いつか」
「いつか、ね」
「疲れましたね。まだ寝室をご覧になってない。ご案内致します」
寝室はしっかり個別に用意されただろうか?
寝室に案内されて入ったヘイルは小さく笑った。大変なサプライズが仕掛けてあったからだ。ヘイルはマントルピースのほうに__。マントルピースには、__。ミハイル・セミョノヴィチ・ブロニコフの時計。骨だけを使って作られた時計だ。
背中から、ジョリーの声が語りかけてきた。
まもなく彼も部屋に入ってきた。彼は直ぐ隣に腰をおろした。彼はごくたまにしかこちらに顔を向けない。いつもそうらしい。
「あんたの部屋、気に入ったよ。いい部屋を貰ったな」
彼はこの時計にまつわるエピソードを語って聞かせる姿勢にはいるとジョリーは彼の話に耳を傾け、質問はせず、知識を披露した。
「素晴らしい逸品だ。一八六〇年代なかばに製作された。何もかも骨でできてる。百パーセント骨で」
「それには兄弟がいます。」すると彼は木でできた懐中時計の話を聞かせた。ゼンマイ以外は木のみでできている。竹など木のみでできた類似品は数あれど、骨のみというものはこの逸品のみであった。
「君はこれを盗む目的のためだけにロンドンまで行ったのか」
「もちろん」
彼女が盗んだといわれる世界初のクォーツ式腕時計、アストロン(1969年)はどこにあるんだろう。と思いを巡らせた。宝探しをしている気分になった。ちょっと待て、ここはちょっとした""宝船""ではないか?思いついた洒落に心のなかでにやついた。
「では、ヘイルさん、宝探しを楽しんでください」ジョリー・バニスターの蜂蜜色の眼を見てヘイルは小さい笑い声をあげた。
――物凄いハニートラップを仕掛けてくる奴だな。
チャールズ・ヘイルはシャワールームへ向かった。
それから、いつも通りの手順でシャワーを浴びた。タオルでさっと水気を拭う。頬や顎を指でなぞってみて、一日に二度髭を剃るのはよくないという長年の思い込みを捨てることにした。
ガウンを羽織って__部屋に行く。ジョリーがいた。まだガウン姿だった。
(綺麗に剃られた顎を見た。彼女はどこか嬉しそうだった。)
ジョリーはクローゼットから服を取り出した。高級ブランドのストーンアイランド。
「いいな、これ」とヘイルが言った。
「人の目がないからといった理由で貴方にジャージなんて着せられませんよ。貴方はスポーツ選手ですか」
「スウェットシャツもだめか」
「ありますよ。ただし」ただし、ストーンアイランドのだ。それはミリタリーウェア……かつては軍人だったとはいえ
ヘイルはスウェットシャツを選んだ。
「ジャージーの漁師の話は?私が何を求めているかお分かりになります?」
ジャージーの漁師たちが着ていた衣服の素材が由来だ。
沈んだ帆船のなかなのだから着たって構わないだろう。
暫くして彼女はベッドからでて部屋を出た。少し休めば十分活動できる。そこでヘイルも起きだし、宝を探しに部屋を巡りに出掛けた。ヘイルは少年の心をもっていた。
クスクス、と小さく笑って言った。「なんでも知ってるジョリ・フィーユ」
__にありとあらゆる時計がところ畝ましと並んでいた。古ぼけた陶磁器の香時計。中国のものだ。ピンクと青と紫の地に花が描かれている陶磁(とうじき)の時計。置時計が百ほど、腕時計が六十個ほどありそうだ。時計や腕時計は、埃ひとつかぶっていない。紫__に飾られた壁掛け時計もまた、マニアが欲しがる逸品だらけである。最古の時計から最新の技術を搭載した超ハイテク時計まで!――普段は超然としていて容易に感情を露にしないのに、ここの展示物の前ではぱっと顔を輝かせていた。ブレゲの金色の円盤を愛しげに眺めている。
彼女の書斎の片隅に時計を造るための作業スペースまで誂えてある。必要な道具一式。顕微鏡。__まで。どうして、こんなものまで知っている。クォーツ時計の制作に必要不可欠な部品が箱にすべて揃っていた。笑うしかないないだろ。
徐々に表情が曇っていった。
――覗き魔。
彼女の本棚がいくつか、クローゼットに見える。収納棚だろう。開けて中を覗きたいと思うのは彼女のなにかが気に障るせいだ。不快要素を取り除きたい気持ちから収納棚に近づき、例によって白琥珀の取っ手を引くと、機材とありとあらゆる薬品を見つけた。――彼女は他に何を知っているんだろう……
卓上に置かれた機材に白い本がセットされてある。覗いてみると、何桁も暗号が綴られていた。私には読めない。
……なぜだろう。不安を抱くのは。彼女の知識量に嫉妬してしまったか?
さて、稀代の天才はなにをしに行ったのだろう。寝室に戻ることにした。
B248p
こんな夜更けにバルマンで統一された姿で現れた。バルマンとスウェットが__に並ぶ。
「そのカフス、それは、私を意識してつけたのか?」
「私は恋人を作らない」
「知っています」
「ええ、それに、もう今夜は眠れないでしょうから」
ヘイルは心の中でにやりとした。
「こちらへ」
作業部屋には、彼女に案内されて入れた。
小さな笑い声を洩らした。
壁一面に飾ってある時計コレクションを楽しそうに眺める。デジタル時計、クォーツ時計、機械時計
「ヘイルさん、貴方は良い趣味をお持ちですね」「これは、その、私が勝手ながら設けさせていただいた作業台です。貴方の」
「貴方の部屋にもお邪魔したことが何度かありました。貴方は機械時計を作っていらっしゃる」「貴方を箱に閉じ込めてしまったので…叶わないでしょう。__」
「そうすることで、少しでも貴方の慰めになるなら、私は喜んで協力しますよ。私は貴方の助けになりたいと思っています」
「ありがとう、ジェフ」ブレゲにもう一度目をやったあと_
「その時代の時計が好きでね。」w416p
「フランス革命12年のことだ。王政が崩壊したあと、共和政府は一七九二年を起点とする新たな暦を制定した。これがまた興味深い仕組みなんだ。一週間は十日、一月は三十日だ。六年ごとに閏年があって、その年はひたすらスポーツに費やされた。共和政府はなぜか、この暦は伝統的な暦より平等主義的だと考えていた。だが、あまりにも実用性を欠いていた。結局十四年間しか使われなかった。革命的な思いつきというのは大半がそんなものだ。紙の上では名案に思えても、実際的じゃない」
「当時は腕時計は力の象徴だった。ほんの一握りの人々にしか手に入れられない究極の贅沢品だった。時計を持つ人物は、時価をコントロールする人物だ。持ってない人間は、持っている人間のところに行き、約束をした時刻になるのを待つしかなかったからだ。小鎖や時計入れのポケットが発明されたおかげで、ポケットに入れたままにしていても、懐中時計を所有している人物は人目でわかった。その頃の時計師は神だった」ヘイルはここで一拍置いた。
「いまのは比喩だが、見かたによっては真実でもある」
「十八世紀に時計をメタファーに使った哲学運動が起きた。神はグレート・ウォッチメイカーと呼ばれた。信じられない話かもしれないが、この思想を信奉した者は大勢いた。おかげで時計師は聖職者に似た地位を得た」
218p
この男になにか尋ねればリスクがつきまとうことを知っていた。ごく単純な質問ひとつが長いモノローグの扉を開きかねない。
「貴方は、メトロポリタン美術館にはしょっちゅう足を運ばせていたそうですね?」
「デルフォイ機構に興味があって?それとも貴方が興味があるのは、太陰太陽暦、こちらかな?」
「どちらにも興味がある」
太陰太陽暦について語り合う。
「私はグレゴリオ暦も純太陰暦もどっちも憎んでる。いい加減だからね」
「太陰太陽暦はエレガントで調和がとれている。美しい」
「本物だとは信じない人も多い。科学者でもコンピューターを使わないと同じ計算ができないからだ。そんな昔にこれほど洗練された計算機を作った人物がいるとは信じられないんだよ。でも、私は本物だと思う」
「これについては色んな噂がある。中に生命と宇宙の謎の答えが入ってるとか」
「こいつは何か超自然的な力を持ってるのか?もちろん、そんなものはない。それでも、重要な働きをしてる。時間を統一してるんだよ。この機構は一秒だろうと千年だろうと、百パーセント正確に計測することができる」
「古代の人々は、時間は独立した力だと考えていた。他の何ものにも備わっていない力を持った神だとね。この機構はその考え方を象徴するものだとも解釈できる。」
「この世の全員がそういうふうに時間というものをとらえるべきだと思うよ。一秒という時間は銃弾やナイフや爆弾と同じような力を持っているというふうにね。いま過ぎた一秒が、千年年後の出来事に影響を与えるかもしれない。全く違うものにしてしまうかもしれない。全体から見れば……」
「私どもはフェイクニュース用にと__から__制作を請け負うことがあります。私はデルフォイ機構もその例に漏れないのではないかと疑っているんですよ。別に、貴方を非難しているわけではありませんよ。あくまで私の憶測にすぎません」
「田舎の美術館にオブジェクトとして展示されてた。たまたま居合わせた科学者が仰天するってフェイクニュース。ジョークオブジェクトとして各地の美術館を点々と巡るうちに神格化されたんじゃないかってね」
「科学者たちがこのオーパーツをいつまでたっても解析しようとしない理由は、元々本物ではないからじゃないか、とか」
「ほら、言うでしょう?人間が作ったものに壊せないものなどない。とっくに壊れているはずなんです。なのに、壊れた一報とか修繕の一報もない。」沈黙。
ヘイルの心にいくらかの闘争心を生んだ
機材に触れる。白い本がセットされていた。
「詩をお読みになられますか。ああ、それは裸眼では見えないんです」
「そう、それをお使いになって。どうです?私の作った暗号は_に評判がいいんです」
「残念……」
「読み方を教えてさしあげましょうか」
繰り返し読んだせいでページがくたびれている。
彼女は、自分の使う暗号の読みかたを簡単に教えた。今度は詩を読むことができた。ささやかなる安堵を得た。
「あんたには詩人の才能はないようだぞ」ささやかな反撃――ちくり。「これは?」
「認める。それに興味があるなら、ほら、どうぞ」
本棚に目を向けた。背表紙の柄を使ってちょっとした絵画ノーティラスのモザイク画が出来上がっていた。
――おい、絵の才能まであるなんて言わないでくれよ?
――臆病。
「子供の頃から書き溜めてきた雑学。いわば私の辞典です。ね、すごいでしょう」
「私も、同じことをしていたら退屈せずにすんだかもな」この男の好奇心は底なしなのだ。
広い書斎は広い居間より重要だと考えていた。父の留守中はその部屋にあるマホガニー製の机で宿題をしたり、四方の壁に並ぶ本棚をただ見てまわったりして何時間も過ごした。
_の本だけでなく、紙の束が入った封筒を棚から下ろした。
本を引き抜く
本の中にある挿絵や、立ちのぼる年代物の匂いや、封筒の中に入っていたのが私信であったことが、否応なく私の気を引いた。
2、3分本棚の近くに立ったまま、一通目の手紙の最初の一節を読まずにはいられなかった。
ジョリーは棚に歩を進め、厚い一冊の背表紙に指を引っかけて抜いた。手にとった本をヘイルに手わたした。
ヘイルは頁を捲る、見事なギリシア語で書かれていた。手書きの部分にはまったくなんの飾りつけもなく、ただ優美な筆跡でずらずらと文字が並んでいるだけだった。
__するとすぐに違和感に気づいた。各頁に暗号が隠されていて、繋ぎ合わせると詩になった。
「これを……いくつの時に書いた?」
子供時代の話を語って聞かせた。ジョリー・トーマの話を。音楽機器はもちろんのことラジオやテレビ、娯楽本すらない家の中で、父とは監視カメラ付きパソコンを通じて基礎を教わた。入学しなかった。勉強以外の自由な時間といえば、歴史、__、生物学、医学、数学、ありとあらゆる雑学を白い本に書きたしなめることだった。
「あいつは変わっていてね。父は日頃から科学者の論文原稿を娯楽本代わりにくれた。宿題つきでね。私の理解に及ばない時は、私が理解できるよう工面してくれた。追求から追究へ。面白がっていたっけな。そうして書き上げた感想論文を本人に手わたしていたんだ……奇行が、アルフレッドの耳に入ったんだろうね」
――なるほど、彼女の敵は退屈ではない。彼女は退屈する隙もあたえられなかった。彼女の両親は相当の悪者だったようだ。
誰もお前を幸せにしない。幸せになりたければ勝手になれ。と突き放された子供時代をヘイルは思い出していた。同情を示すが、彼は他人の傷を舐めたりしないし、傷を見せたりしない。
「アルフレッドは欲しいものは必ず手にいれる男だよ」
「貴方は、ニコラ・トーマを知ってるんじゃないかな」
「その名前は覚えている。六年前に……私が殺した男だからね」
「私ね、気づいてた。影の好きにさせたのは、なぜだろう。もしも貴方じゃなかったら、アルフレッドや殺し屋を許さなかったかも。それこそ、__とやらで、怒りや憎しみで運命は大きく変わっていたのかも」
ヘイルは怒りは無駄な感情だと言った。全体に目を向けなくてはならないと繰り返す。つねに全体のことを考えなくてはならない。小さな躓きにいちいちくよくよしてはいけない。そんなことにエネルギーを使うのはもったいない。
「時間と同じだよ。時間は百年とか千年とかいう単位になって初めて意味を持つ。人間だって同じだ。命のひとつひとつに重みはない。意味があるのは世代単位で見るときだけだ」
――神様ね。ジョリーは内心にやついた。
そして御遊戯態勢にはいった。
「チャールズ、本を置いて、置きなさい」
「私の友人たちは私の目の前で惨殺された。あなたの言う通り、彼らと共有した時間は一瞬だったかもしれないけれど、あの時に、彼女が腕を引いてくれたから、私はいま貴方と話ができている……」
「彼らが殺されたとき、大切な友人だったと思い知らされたよ」
チャールズ・ヘイルは黙って聞いていた。頬が微かに赤くなっていた。
――うむ、皮肉が理解できないか。高い値を吹っ掛けすぎるのはよくないな。
「あなたの独善的な言葉は不愉快極まりない。科学者だった私を調べ屋に変貌させた力は、紛れもなく怒りと憎しみによって身体じゅう支配されたから。貴方が警察に捕まったとき、私を突き動かした原動力の源もこれだった、怒りと憎しみ……」
――確かに、そうともいえる。
「貴方は自分の首を絞めているわ」「私の神様」
短く息を吸い込むような溜め息をついて言った。
「これ、面白いな。あんたの辞典。暫くのあいだ勉強したい。どうかな、貸してくれないかな?」
ヘイルは彼女の蔵書を自由に読んでいいと言われた。
ふたりとも寝室には戻らず、研究室で一夜を過ごすことにした。ジャズ音楽を聴いていた。
彼は辞典を読み、一枚ごとの頁に秘められた暗号を解くことに時間を費やした。知的好奇心をくすぐるようで時折、くすりと笑った。
彼女はごくたまにしかこちらに目を向けない。いつもなにか思案しているようだった。なのに突然話しかけて、ヘイルと会話を楽しんだ。生物学と遺伝子操作の話。ジョリーは筋金入りのギークだった。そうすることで知識が増えることは嬉しい。
「珈琲でも淹れてきましょう。ロングブラックコーヒーなんてどうですか?」そう呟きながら部屋を出た。ヘイルは、はにかんでいた。
ほどなくして、アメリカーノコーヒーではなく、ロングブラックコーヒーの入ったカップがテーブルに置かれた。なぜアメリカーノではないか、名前の由来が比喩だからだ。アメリカーノはエスプレッソに湯を注いで薄めたものをいう。
「」
いっぽうこちらはカップに用意したお湯にダブルショットのエスプレッソを入れたもの。オーストラリアやニュージーランドで一般的なコーヒーの種類だそうだ。
いつの間にか眠っていた。
ストーンアイランドで統一された。腕章がクールだ。緑のセーターシャツに同ブランドのダークカラーのパンツ。「お洒落」とジョリーの表情が言っていた。今日もバルマンだった。バルマンを着た美人が料理をしている光景は面白い。
「私は何も手伝えないが。料理はまるでできない」彼女の使っている石鹸の香りが鼻をかすめるくらいそばまで、歩み寄る。
「__手伝うから」
見ているだけで幸せな気持ちなる。ほら、ありがたいことに、料理の腕もある。
彼女は肩越しにこちらを見た。見ただけだ。
チャールズ・ヘイルはソファーに腰を落ちつかせた。だが、落ち着かなかった。ちらりとジョリーを覗き見る。
声をかけた。
「なんだか……」ヘイルは首を振った。感極まったとでもいった顔つきだ。
「誰かに食事を作ってもらうなんて、いつ以来だろう……何年振りかだよ、そんなのは」
当然ながらここ何ヵ月もの間口にできたものといえば刑務所の料理だけだ。煮豆、カレー、パスタ、ブリトー、サラダ、旨いとはいえないオレンジジュースかグレープフルーツジュース、私は、菓子はいただけない。
最も戴けない料理はオレオクッキーだったな。とちょっとした冗談のつもりで言った。
彼女は自分はバイセクシャルなのだとカミングアウトした上で、そんなの、見なくて良かった、と彼に対して同情の意を示した。
「貴方って、タコとか、イカとか苦手でしょ」
「食べないほうかもしれない」
「もともと食欲旺盛なたちじゃないからね」
「あんなにお腹まわりをぷにぷにさせてた人なのに?」含み笑い。――二十キロ――
「ヘイルさん、さわってくれてもいいんですよ」__をつくりながら腰をくねくね動かした。
ワインが、次に料理が運ばれてきた。
カリフォルニア州ナパ産のアンオークド・シャルドネを選んだ。
ロケットとパルメザンチーズと洋梨のサラダ、それにいんげん豆と新じゃがを添えたオマール海老のボイル。
「ブォナペティート」たっぷり召し上がれ。
くつろいだ会話が続いた。ジョリーはヘイルのカリフォルニアでの生活ぶりや、育った土地シカゴについて尋ねた。
木登りや山歩きなどをしたりして屋外で何時間も何時間も過ごし、アウトワードバウンド(野外教育専門の国際的機関)が主催する大自然体験コースにも何度も参加し、外に出られないときは、目につくすべての物品を整理整頓して時間を埋めるようになった少年時代、二年間兵役に就き、将校に任じられ満期が来て除隊したあとヨーロッパにわたり一年間ひたすらハイキングや登山を楽しんだこと、アメリカに帰国してからは投資銀行やベンチャーキャピタルに勤め、夜間学校で法律を学んだこと。
今度はヘイルがジョリーの子供時代について尋ねた。
世界遺産チンクエテッレで育ち、__で学んだこと、__クリスパーで遺伝子操作を学んだ。
エスプレッソを淹れた。イタリアの珈琲といえばエスプレッソだ。食事の後に飲む。
彼のすばしこい目は彼女が自分の使ったスプーンを舐めたところを見ていた。
(彼女の見せた綻び。あなたが好き。わざと見せたに違いない。)
(おや、私にその気はないよ。)
「片付けておくよ。私に任せて」
「お願い」
ヘイルの食事の片付けが終わると、ヘイルは研究室に向かい、作業を再開した。
ジョリフィーユは簡単な暗号を書き記していた。おっと、児童扱いはよしてくれ。
彼は時計を制作しつつ、暇をみて彼女の暗号の猛勉強を開始した。小娘に小馬鹿にされたままだから。
「私は恋人をつくらない」
「相手があんたでも」
ジョリーの目に疑問符が浮かんだ。彼は辞書に目を落としたまま顔をあげなかった。
クリスマス前夜、隠されたであろうプレゼントを探しまわる子供のようだ。ただし、彼が子供の時に経験しなかった。
オーク材の机の上に箱が置いてあった。箱をそっと引き寄せ、包みを丁重に剥がし蓋を開けた。世界初のクォーツ式腕時計、アストロン(1969年)が__てあった。
この彼女の頭の中で何が進行中なのか、さっぱりわからなくなることがある。
いつから居たのか、ベッドに彼女が横たわっていた。彼女の癖なのか、痒いのか、ブラウスの上から胸飾りを愛撫していた。
彼女はアストロンには触れず、(彼が、機械時計ではなくクォーツ式時計の作成に着手していることに気づいている)クォーツ式時計の最近の事情に触れた。
「今ではインターネットに常に繋がっているスマホから時報を見ることができるから、クォーツ時計の__だが」相変わらず、胸飾りを愛撫している。
「タイメックス・データ・リンク。いまとなっては定番だ。コンピューターに接続できる」
「電池や大量生産のチップが、ハンドメイドの最高級機械式時計と同等の能力を発揮することがある」なにより、__が、彼の目にはクォーツ時計は安っぽく見えていた証拠だった。
「水晶発振器によって時刻を表示する時計だって、歯車やレバーやばねによって動作する時計に負けないくらい美しい。ああ、それに、コンプリケーション。クォーツ時計はそういった機能を再現したうえに、多数の新機能を追加した。時刻を示すのは、時計が持つ数百の機能のひとつに過ぎなくなった。歴代の宇宙飛行士がそいつを着けて月に行った」
「さあ、__を見て。今日の暗号」彼女はうつ伏せになった。
""クォーツ式時計の誕生月""
彼の口元が綻んだ。
「びっくりさせて悪かったね、ヘイルさん」
ヘイルは淡い青い目で彼女を見つめた。そしてめったに見せない笑顔で答えた。
「次はクォーツ時計を作ってみるつもりでいた。世界一完璧な時計を作りたかった。政府の原子時計より正確な時間をね。ただし、機械式ではなく、クォーツで」
「クォーツ時計の魅力に取り憑かれたからだよ」興奮気味
「残り三つ」
彼は、充実した楽しい一時を過ごし、床についた。が興奮覚めず、ぼんやりとジョリフィーユを見てあれこれ思いを巡らせていた。不死身の一族の味方はどれ程、敵は誰だろう?
自分が後楯に期待していることに嫌でも気づかされた。一族ならリンカーンの魂を刈りとるだろう。
「貴方には、誰かの模範じゃなくて。オリジナルを作って欲しい」
魅力的なアイディアに胸がときめいただけだ。
****
一体なにを期待している?いつから自分から罠に掛かりに行くようになった?
ジョリーのことは単純に好きだ。純粋に恋をしている。口に出すつもりはないが。
ヘイルは異性との交際はなるべく避けた。
平均的な男性のそれよりも困難が多かった。
恋人を持ちにくい背景には、主張が多く、仕事の負荷が高く、常日常から危険と隣り合わせでいるといった事情が影響している。
もっと根本的な問題は、異性に対する関心をとうの昔に失っている__。臨機応変さが求められる上に、不合理に振る舞ってばかりいるだからだ。
チャールズ・ヘイルの__での仕事を具体的に話したら、人によっては、いや、大概の人は好感を抱かない。場合によっては嫌悪さえする。
しかし行きずりの恋以上に発展した女性に限っては、そういった事情のたとえ一部であれ、いつかは打ち明けなければならないだろう。身近な相手に長いあいだ隠し事を続けるのは不可能に近い。人間は、私たちが考えている以上に賢く、観察眼が鋭いものだ。恋人のあいだで、人物の根本に関わる秘密が隠され続けることがあるとすれば、それは相手が秘密を秘密のまま放置することを選択した場合だけだろう。
ところが、ジョリー・バニスターが相手ならその問題は最初から存在しない。夕食のテーブル越しに、あるいは乱れたシーツをはさんで、本当の職業を恐る恐る明かす必要は初めからない。ジョリーはヘイルの経歴や組織内での立場を知っている。
チャールズ・ヘイルは腕時計を確かめた。きっかり__時。朝食を__。
彼女の魅惑的な香りが鼻腔をくすぐった。
チャールズ・ヘイルのすばしこい目は彼女の手首に__気づいた。__。そういう人間なのだ。いつも油断なく、見るべきものは決して見逃さない。
――三つめの時計は、彼女が然り気無く身につけていた。
「あんたの時計は__の時計じゃないか」ゼンマイ以外木でできた懐中時計が袖から覗いた。
彼女の爪だが、爪の形は男のものだ。――ボディ・モディフィケーション。
彼は時計を触ろうと腕をのばして、彼女の手を触った。熱がこもっていて熱い。
「長くて細くて器用そうな指だね。楽器も嗜むんじゃないかな?」
ジョリーは視線を合わせない。くすりと笑う。
「__って言いたかったけど、ドラムを叩くよ。でも__も踊れるし、ドレスもすごく似合うんだ」
「あんたが言ったことを覚えておかなくちゃ」
彼女は身動ぎをした。目は伏せられている。
「サプライズは贈るのも貰うのも好きだけど、ポケットからサイフを抜き取って__を抜き取る_」
「モナコでスリをしてた。ひとの物を盗っていたから、盗みには自信はあるんだ」
「」
「……陸に上がったら一緒に歩かないか」
「人のものを盗み歩くの?」
「それもいいかもしれない」はにかんだ調子で言った。「どこでもいい……ああ、陸に揚がったらと言ったかな、私は人魚の呪い唄にかからない。耳に蝋を詰めるよ。だから私は溺れない」彼は両腕を
「ただほんとうに一緒に歩きたいと思ってね」また、触れる。
視線が絡み合った。相手はキスをしようと視線を重ねるが相手から見る自分はそれを拒んでいる。
「また、くれたね」そう言った彼の表情には甘いとろみがあった。
彼女の顔は困惑した。そして手首から木の時計が消えていることに気づいて驚いた。
チャールズ・ヘイルは左手首を持ち上げた。__の腕時計があった。
――してやったり。
――残り二つ
【現代】
ベッドの中、情事のあと、自分たちの将来の話をする彼女。彼女の夢に同意するモスマ。テーブルの上にはふたりの優しさを表現するなにかを置く。
次のシーンではシャワーを浴びながら彼女と体を重ねるモスマ。
スマホが鳴る。
シャワーを浴びながら双子から連絡にでる。顔は彼女の鎖骨下にあててる。彼女は高い位置にあるシャワーヘッドを伸ばした両手で掴んでる。
「……嫌な予感がする」
「ヘンリー・ゴールドリッチがここに来たら様子をみようとせずに、必ず、先ず警察に連絡して」
「えぇ、そうする」モスマの顔を見つめて、キスはしないけど、
お互い顔を近づけて見つめる。
__の__演奏による__に飽きた。演奏中の__はもはや珍しい聞き物ではなくなった。
信頼は時間と同じくらい貴重なもの……
「貴方は、私の暗号も読み書きできる……」
「お互いなにに詳しく、そうでもないか知りたい」
「……私が知っていて、かつあんたが知らないこと?」
「よし、乗った」はにかむ調子で言った。
交換日記。 ときには謎解き。
ときには願望
『家事を手伝ってもらえる?』
『朝食の後片付けくらいなら任せてもらっても構わない(苦笑い)』
『自炊を覚えなさい』
『努力するよ』
ときにはクイズの答えを求めた…
『白熊の毛の色は?』
『透明』
この日も彼は紙に答えを記した。
素晴らしい、ジョリ・フィーユ。交換日記ならぬ交換暗号は、私が嗜む娯楽のひとつになった。
強者と一緒にいることが実に気持ちのいいことか。刑務所に数年いた程度で忘れてしまうとは。受刑者、とりわけ死刑囚のなかに彼の関心を惹くものはいなかった。
だが、これも充実した日常の一端に過ぎないのかもしれないと考えるようになった。
おっと、もっと、……実りある生活が欲しい、だと?いま、そう思ったのか?
自分もバニスター一族に加わって、一族の繁栄に貢献しよう、などと呑気に考えてはいなかったか?
海底二千〇〇フィートにいて、油断しちゃないか?連中が沈没船に行き着かないとも限らないではないか。相手はあのリンカーンだ。必ず警察の手が及ぶとも。
知っているか?衝動は欲しいからではなく、必要だから起こる。短絡的なほうびだけを欲するのは危険だから、長期的な影響まで考える。
そんな日々を送るうちに、青年時代から締め出したはずの恋という感情が燻り、火をつけそうなことで彼は困惑していた。自分にそんな気はないと言い聞かせているにも関わらず。
ある晩、晩食の後、ふたりはリビングでエスプレッソを飲みながら寛いでいた。
ジョリーからアメリア・サックスのクルマを盗んだときの話を聞いた。わざと__に誘き寄せ、彼女の車をふたつ――ひとつは自宅から戻ったときに、もうひとつは廃棄場から――盗んでカーチェイスをし、数々の技を決めたという話。
ジョリフィーユのこの笑顔。心の底から声をあげて笑っている。ヘイルの心を暖め幸福感をもたらした。彼を安心させ、彼の心に平安をもたらした。
飾りつけない自然な笑顔。本当に優美で調和のとれた顔は完璧だ。特に横顔が人の目を引く。
ふたりは車の動きと戦った。組敷き、ねじ伏せあった。
コブラはぜいぜいと喉を鳴らし、唸り、もの悲しい叫び声をあげた。
金属と肉体を限界まで酷使して、__を疾走する。道路の混み具合、人と自動車両方の密集度合いを考えてルートを選ぶ。蛇行し、横滑りする。
彼女の笑顔に見いる。ジョリーはむせた。ヘイルにむけてはにかんだ。
「そんなにボコボコに打ちのめされたら、彼女はあんたに手錠をかけようと決して容赦しなかっただろ」
「ああ、鬼の形相だった」
心の底から笑った。
愛を交わす行為は、きっと情熱的なものになるに違いない。そのことは、彼女の装いと着こなしからも、彼女の目のきらめきや声の響きからわかる。あの笑い声からも。
「でも、打ちのめした!」
「あんたとアメリアとでは能力の差がありすぎる。__いたんだが、彼女は今はどこにいる」
「島に。今ごろは孤立無援のサバイバル生活をしている」
「さぞたくましい狩猟採集時代だろうな」ヘイルが声をあげて笑う。
彼女の頬にキスをする空想は胸をときめかせた。
――だめだ。
頭を振って振り払った。ヘイルは後片づけをした。
下腹部が痛み、趣味に身が入らない。
考えをめぐらせていた。彼女とセックスしたら気持ちがいいだろう。そうだろう。
そして、やりたいだけやり、セックスの後は気持ちが悪くなる。他にも様々な感情が生まれてくる、ひとつひとつ注意して感じてさえいれば。女を持つことやセックスに満足した気持ちになっていないのだと認識できる。衝動とごほうびではなく、結果を結びつけることで、恋の関心など簡単になくせる。女というものは不合理に振るまう。
⚠️未だにこの辺のイベントが思いつかない……。
ヘイルは淹れたてのカプチーノと菓子を乗せたプレートを左手に乗せて運んできた。彼女はいなかった。
部屋から出た彼は、水音を聞いた。辿っていった先で彼女の不思議な行動をみる。全開きのシャワールーム。ジョリー、シャツを脱がずにシャワーを浴び、胸に熱く肌を刺すような湯に長いこと打たれている。シャツの布地を通して透けた肌、しり。
気づかないふりをしている。
動けなかった。口を三角形にして喘いでいる。苦しそうにして。自分はといえば息を止めているのに気づいた。
コンプレックスをもっているのだ。気づいてほしいんだ。
彼女が振り向いた。視線が絡み合う。彼女が息を呑んだ。手をかざした。顔を半分隠す
ヘイルは踵を返し__。
――彼女の気持ちなんて考えたこともなかった。
あれこれと考えていた。そのうちに彼女が部屋に戻ってきた。熱くて美味しいロングブラックコーヒーを持って。彼に手わたすと自分はヘイルの淹れたカプチーノをがぶりと喉に流し込むように飲んだ。まるでシンクに棄てるときみたいに。おい、俺の淹れたカプチーノはそんなに不味いのか、と疑った。
珈琲を啜った。音をたてずに。薫りも旨い。
彼女は薄い化粧をして誤魔化している。
彼女をちらりと見る。相変わらず顔すらこちらに向けず、先ほどの事などなかったかのように振る舞っている。月の横顔を連想した。彼女こそたまにしか顔を向けないのだから。月と太陽というより、ふたりは双子月という表現のほうがしっくりくる。
「さっきのことは、すまなかった。苦しんでたからどうしたんだろうと思って、すまない……」かぶりを振った。彼女は黙ったまま受け取ると菓子をかじった。
――彼女は乙女だ。
少しのあいだ思い詰めたような表情を浮かべ、押し黙ったまま不意に立ちあがるとヘイルに身体をあずけるようにして抱きついた。頭を背中に押して、彼女の息遣いと布擦れの音のみが聞こえる空間。濡れたシャツが背中にあてられひんやりとした。
腰の骨あたりを触るのが好きなようだ。触ったまま離そうとしない。
「なあ、ずうっと考えてたことがあるんだが、イタリアに有名なサーキット場があるだろ。そこでいつかあんたとF1カーに試乗したいと思う」
「あなたは、行けたらいいねくらいの軽い気持ちね」
「『一緒に街を歩きたい』って言われたときは、ほんと嬉しかった」
「私は、あなたと街を歩きたい……そうしたいから……」
耳元に鼻をつけた。そっと囁いた。
「あなたは私を好いてくれる……」
「……愛してくれる」
「だけど……あなたは、私と一緒になる気はないようだから……あきらめる」
「だって、あなたは本棚のまえから動かない。立ち止まってる」
「本棚に隠された秘密か」
「どうしてもこれに拘りたいのか?」
「お願いだチャールズ……ずうっと……夢に見てきた……歩を進めて……」
――ジョリーなりのコケットリーか……面倒臭い
朝目が覚めると、気分もよく、頭も冴えていた。彼女の寝顔を見てどきりとした。
何故だろう?昨晩のことを思い出した。
彼女はまだ目を覚まさない。匂い立つような美しい寝顔を惚れ惚れと見つめる。
堪えきれなくなった彼女に怒られた。
朝食を食べ終え。いつものようにソファーに腰を落ちつかせて珈琲を飲んでいた。
最近の癖で彼女となにかをする夢を見ようとして諦めた。
髪の毛を長く伸ばした妻を、子供の世話を焼く妻を。
彼女と交際したい気持ちがある。付き合ってもいないうちから、プロポーズの言葉に悩み、思いを巡らし、家庭を築きたいと願い、赤ん坊のことに想いを巡らせていた。私は、貴女にふさわしい男だと__いた。
一族ほど身を隠すのに理想的な隠れ蓑はない。クライアントとしても文句のつけようがない。アルフレッドは非の打ち所がない__だ。彼が何を望んでいるかわからないが、自分は使い捨てにされるだろか。
ジョリ・フィーユの旦那という保険が欲しい。まやかしを見ているだけだろうか。彼女は演目を演じる役者にすぎないのかも。
「ここは__秒後にインプロージョン(爆縮)する」
B116p
はっとして彼は飛び起きた。夢を見ていた。夢の内容を思い出そうとした。しかし、悪夢だったのか、ただ奇妙なだけのものだったのか、それさえ思い出せなかった。不快な夢だったことは確かだ。朦朧としている。頭がはっきりするまで時間がかかった。
彼女の眼が珍しく彼の目を見つめている。しばらく見つめあった。
「うなされてたようだ」ヘイル
彼女の手にタオルが握ぎられていた。汗を吸ったタオルは湿っぽかった。おそらく恐ろしい夢だったのだろう。上掛けのシーツを蹴飛ばして剥いだ。汗で全身がじっとりと湿っていた。
「シーツを取り替えよう」予備のシーツを取りに行こうと立ち上がろうかというとき、首筋に指が触れた。
「待て…」次の言葉を呑み込んだ。
「直ぐ戻る」
いま私の口はなんて言った?まるで風邪を拗らせ母親の足を引っ張る幼子のようだ。自分が信じられない。
ソファーに腰をおろした。額の汗を手の甲で拭った。悪夢を見る頻度は緩やかになったかもしれないが、それでも安眠できない日はあることにはある。禍は取り除いておくにこしたことはない。
「とても怯えている……」
「水圧による金属疲労の心配をしてた?」
彼女は水を差し入れてくれた。隣に据わって、ヘイルが水を飲む間パタパタと扇いで風を彼に送った。
「」
手際よくシーツを剥ぎ、予備のシーツに拵えた。脇に戻って腰をおろし、ヘイル
もしも連中の狙いが私のブレインであるとしたら?ジョリフィーユは私をハニーポットに誘い深みに入り込ませる罠だとしたら?
あまりにも甘すぎる。彼女は演者だという真実をおろそかにしてはダメだ。注意したほうがいいだろう。
「あんたがでてきた。」
「私を悪者にしたような口ぶり」
「あんたとは、暫く、距離をおきたい。頭がどうかなってしまいそうだ」
ジョリーはひとつ頷いてから言った。「わかりました」部屋を出ていく。ヘイルはため息を洩らした
彼女がいない。気配がない。気持ちは彼女を求めていた。駄目だ。
開かない部屋。彼女はここだ。すべての設備が縮小されておさまってるにちがいない。
「ジェフ、いるんだろ?ちょっとでてきてもらえないか?」
「なあ、料理を教えてくれないか。自炊しようとしたんだけど……ほらね、思ったように作れなくて」
彼は失敗した料理を彼女に見せた。
たまには
レシピ、調理法を口述でヘイルに伝えた。
「卵料理くらい作れる」もっと、ほら、チキンを使う料理とか
「なら、卵料理をつくって」
「お金の使い方を知らないまんまお店に来た子供じゃないの」
「なんだって」
「卵料理を作れるようになったら、また来て」
「そのとき教えるから」
扉が閉まる。
心のなかで呟いた。料理は作れる。__だって作れるさ。
料理、それは彼女はまだ知らない、ヘイルの得意技だった。
遠くでハッチが開く音が聞こえ身構えた。
訪問者らしい。
三人の男が部屋に入ってきた。潜水服を脱いだ赤毛の白人と黒人。二人の男に護衛されて進み出てきた男は、見たところ中東出身を思わせる若い男だった。端正な目鼻立ちをしているがかなりのベビーフェイスだった。よくスキャンダル
――チャールズ・バニスター
潜水服を脱いだ。緑色の目がチャールズ・ヴェスパシアン・ヘイルをひたと見据えた。値踏みするような目で。腰の強いおっさんだな、と貶しているように見えた。
アルフレッドの長男
彼女が奥の部屋からでてきた。「チャーリー」
チャールズは彼女の唇に接吻をした。彼女も答えている。
悪寒がぞっと走る。足取りがぎこちなくなる。
嫉妬。
「はい、順調です」ゼノン
黒檀のような肌色の男は何の反応も示さない。
赤髪のほうは愛想よい笑みを浮かべている。
「我々の一員としてノーティラスの活動に__し__と誓うか?」チャールズが言った。
――あなたは地獄行きへの切符を買いますか?
――はい、買います。
「いいだろう」
「リチャード・ローガンは死体袋のチャックを開いた。下手な組織に頼って無駄死にせずにすんだな。いいぞ、敵の始末は我々に任せてくれ。レンジでチンの時代だ、あんたは待つだけでいいんだ」
「いま、リンカーン・ライムを翻弄してるのは、家電製品を武器にする連続殺人鬼だよ」声に艶のあるエリオットが添えた。
「アメリア・サックスは無人島でサバイバル生活を楽しんでいるよ」
「大勢の命がこれにかかってるんだぞ」
打ち合わせ。
エリオットがリンカーンハウスの図面を開いてテーブルに広げた。
ゼノンが艶のある声で言った。「どちらから手をつけましょうね。先に指揮官を殺してしまったほうが__に動けますよ。それとも、彼ですか?」
チャールズ・ヘイルのほうが口を開いた。
「ウォッチメイカーのファンで知られる彼が私を刑務所から脱獄させたんだ。彼らの捜査は脱獄したまえからはじまっている」
「いいですか。私は指揮官と貴方の頭脳対決に興味などありません。この仕事に簡潔さを求めます」
「今回の仕事にコンプリケーション〈複雑機構〉は無用」エリオット
「彼らが見逃した陽動作戦なんてこれまでにありましたか?あるのでしたら、ぜひ教えてくださいね。参考にします」
「そうだな。彼の目となり手足として動くアメリア・サックス、ロナウド・プラウスキーがいては……。あれほど早く捜査が進んだのはこのふたりの__おかげだろう。それから、最近彼のチームに積極的に参加しているキネキシスの専門家キャサリン・ダンス。私には、あれこそ任務の障害に思えるんだが」ジョリー。
「同感」エリオット。チャールズが頷く。
「手足をもいでおくべきです」ゼノン
「彼女は私たちの心を読みとき、次の行動を予測し、彼らは必ず、物的証拠から私たちの現在地を見いだすでしょうから。尾を掴まれるのはごめんですよ」ゼノン
「彼のことはボードがまだ空白のあいだに殺したい」これはアヒル口のエリオット。
「もちろんだ。彼を先に殺る。正確にはいないほうが好ましいロナウド・プラウスキー、介護士を同時に瞬殺する。そうしたら目標をやっと殺せる」チャールズ
「地図は?」ジョリーは聞いた。
「__」ゼノンが差し出してきた。ヘイルは地図を仔細に眺めた。
チャールズは仲間に向かって暗殺のプランを説明すると、各人と武器にとってベストの配置を指示した。ゼノンからでたいくつかの提案も的を射ていた。
「__で侵入と同時に三人でロナウドを射つ。確実に仕留めるために。三人で。」チャールズが続ける。「ひとりはその場に居合わせた人間を。ライムは最後だ」
「リチャード・ローガンのほうはどうするんだ?」エリオットが聞いた。
イタリア国内での捜査の進捗を簡潔に伝えてきていた。ただし、進展らしい進展はない。
「警察署に潜入する手前と__をかけさせたくないが、リチャード・ローガンの死亡データを捏造するよ。実のところ、__は完成済み」ジョリー
「潜入を頼めるか?」
エリオットの含み笑い。「喜んで」
〈ノーティラス〉
ジョリー
チャールズ、
赤毛のエリオット
黒人のゼノン__
「彼女はリンカーンに代わりリチャード・ローガンを追跡するでしょうし」
チャールズ・ヴェスパシアン・ヘイル
「いずれかの時点でダンスを殺らねば」エリオット
「彼女はアメリア・サックスくらい勘がいいほうか?」チャールズ
「着眼点は私の上をいくかもしれないよ」ジョリー
「彼女についての詳しい情報をあげようか。シングルマザーだ。子供がふたりいる。上は__、__歳、もう片方は__、__歳。母親がこちらに来ている間は、叔母__の家に預けられる。
続いて身体的特徴、健康。病気なし。続いて、癖、趣味。始終耳にイヤホンをはめてる。欲に正直な性分。大の人間好き。靴を見ればわかると思うけど」ジョリー
「彼女は銃を持ち歩かない。彼女は嘘を必ず見抜く、ゆえに彼女が__に出るときには、全体に部隊が潜んでいるととらえる。
だからこそ、彼女との一切の接触を避けるべきだ。勿論対話もなし。交渉の余地はない。彼女は我々の誰よりも上手。交渉に持ち込めば我々は終わる」ジョリー
チャールズ・ヘイルは目まぐるしく__ていた。
チャールズがひとつ頷いた。「彼女の世話は現地のスナイパーに任せるよ」
ゼノンがヘイルに聞いた。「船舶での暮らしに不自由はありませんか?ご不満があればどうぞ遠慮なさらずおっしゃってください。機構は貴方の要望に出来るかぎりお答えしますよ」
「ほかに何かお手伝いできることがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
「トゥインキーとソーダを1ダースほど」エリオットが腹話術で話した。にこっと笑った。
「まったく」ゼノン
「面白い話だろうな。その、電化製品で人を殺す?」ジョリーが聞いた。ゼノンが説明した。
「刑務所の__確認は大方終わった。ふたりはここにいるんだから、勿論あんたらの確認はとれるわけないよね」エリオット
「街はかなりの痛手を受けたよ。ニュースはジェフが偽名であること、ウォッチメイカーを脱獄させた事実を伝えた。また電気による攻撃がはじまるって街は混沌化してもいる。そして今回の連続殺人事件が追い討ちをかけた。当初はあんたたちが疑われていた」
「ああ、ジョリー、言いたいことがあるんだけど。__の場で__夫妻がジェフはジョリー・バニスターだと言った。夫妻の片っ方の目は閉じたまんまだから、__」
「そいつはアルフレッド邸にいた料理人だよ」チャールズ
「言っちゃった当人の人生に狂いはあるか?」
「勿論。言っちゃった当人は発言を撤回し、ジョリー本人に謝罪した、とSNS、マスコミに向けて言ってるよ。ふん、一族を怒らせたらどうなるか思い知ったようだね」
「キャサリン・ダンスは行動を起こしたかも知れない。言っちゃった当人、一族に近し者とコンタクトをとったかも知れないな。あるいは地元警察に捜査協力を要請したか」ジョリーが目を細めた。
「裏切りは許さない。すべて片付け、ほとぼりが覚めた頃に訪問しよう。」
「そいつは自殺した」チャールズ
「詳しく聞かせて」
「他の顧客から猛攻撃を受けたんだよ。SNS、私生活でも嫌がらせを受けたんだな。自宅は社宅でね。もともと、__ではなかったらしい。」
「私は世間に顔をだしたことがない。養子にとられ、アルフレッド邸に籠り、__クリスパーにいたんだから。養子にとられたときに、私が美人であるという噂が独り歩きしていたにすぎなかった。外出していたのはジェフだ。そうだろう?」
「一族を恐れている証拠です。恐れるべきですよ」ゼノン
「この人に、私の可愛いジョリフィーユに驚くほど似てるって自覚ない」エリオット「そして、それもジェフに似ている」
チャールズは彼女に案内されて彼女の例の部屋に寄ってから帰った。暫く時間が経つ。四十八分。
ヘイルは彼女は普段何処に住んでいるのか尋ねた。ないに等しい。
ヘイルは部屋で夕食をとりながら、目前に迫った__の__のことを考える。ここ数時間に目にしたこと、耳にしたことをひとつずつ思い返して検討した。無人島送りは彼の尊厳を損ねる。
チャールズ・バニスターが部屋から出てきた。石鹸の匂いがした。
「そのあと、あなたを__まで案内して差し上げます」
三人は帰った。
まだ怒っているんだろう。彼女は籠りっきり出てこない。最悪、決行日まで続くかもしれなかった。コケットリーなんて馬鹿馬鹿しく嫌いだった。気持ちを抑えることはできそうにない。
チャールズとの肉体関係。嫉妬と焦り、怒り
歯を磨き、シャワーを浴びて髭を剃り、__を穿いて、__の__(色)いシャツを着た。__と腕時計を着け、__というイニシャルが刻まれた指輪をはめた。
__の扉越しに声をかけた。
「なあ、話せるか?」
返事はない。「話がしたい」
「疑って悪かった」
「ヘイルさん、体調は良さそうだね」
「料理のほうは」
「だめだな。チキンをオーブンの中で温めたけど、以外と、旨くない。なにが悪いか見てほしい」
「もうひとつ。」
「君の手料理をまた口にできたら、うれしいよ」
「あら、嬉しい。あなたのわがまま、聞けちゃった」
「それはない、ヘイル」
実行。
(行くのか?一緒に行きたい。これは彼女たちの計画。オプションにすぎない)
心配しないで。貴方に近づいたときは、バニスター一族に関連する建物には近づかなかった。住まいにも一切近づいてない。
強盗犯だっときも、もちろん、関係者にも。半年。それに、あらゆる土とあらゆる砂とあらゆる葉っぱたち塗装と暮らしていた。物的証拠を混乱させるために。私も鑑識班にいたから、解る。
彼女は大丈夫さ、彼女とライムでは能力に差がありすぎる。
セキュリティを破り、車の運転が一流、二丁拳銃の扱いが一流、車椅子の男に負けず劣らぬ頭脳も持ち合わせている。
ジョリーはヘイルの手料理の前に
「貴方はこういうのに興味ないんだと思ってた」
「いつから興味を持ち始めたの?」
「確かに、いままで料理に関心はなかったよ」
「食事なんか燃料にすぎないからね。口に詰めこむのに出来合いのものでよかったんだ」
「貴方は苦手な素材も多いんじゃない?」
「……うむ」
「いつから興味を持ったか、か……自分の作った料理を……人が食べてるところを見たかった。とでも言っとこうか」
「悪かった。あんたにだ」怒ってる。自分に腹でも立てているのだろうか。
「私に恋してる?」
「前にも話した。異性との交際は避けてる」目を細めた。ジョリーはわかってるよ。といわんげな顔をした。――すまない、ジョリー……
「ねえ、私が無事に戻ったら、約束を頼まれてくれない? 」
「よし、話を聞こう」
「よかった」彼女はナイフとフォークを置いた。
「そのときは、私と気持ちいいことをしましょう」
ナイフを持つ手をテーブルに置いた。彼女は私には""あるの""と言いたげな表情だった。切なげでもある。
3日が過ぎる。落ち着かない。ものを落としたり取り乱すヘイル。ディープオーシャンに取り残される恐怖は……
ヘイルの言葉には、珍しく感情が表れていた。
「まだか」
4日が過ぎる。落ち込む。
ここで脱出を考えること事態愚かだ。改めて時間は恐ろしいと思った。白い本を手に取る。パラパラと頁を捲る。かなり魅力的な内容だろうが、私に乙女の日記を覗く趣味などない。棚に戻した。
振り返る。本棚を見る。円を書くように、背表紙をなぞる。
ノーティラスのテストが始まった。
暗号を辿る。
眼鏡入れの底に鍵がはまっていた。
鍵を開け、銀の小箱の蓋を開けた。三つの折り鶴があった。ひとつだけ白い折鶴。分岐。また本棚に戻り手に本をとる。_に鍵が隠されていた。
__に贋作の十個機械時計がある。ひとつだけ本物を見つけた。数字を読む。本棚に戻り、手に本をとる。
白い本の__にセットして読む。
熱烈な恋文。胸を焦がすほどの。白い本を読み漁った。
彼は鶴を折り返し、箱に戻し、鍵を元に戻した。
――コケットリーにはうんざりだ。おままごとなんか
6日目
ふたりは出会い頭、顔が綻んだ。
「島に流してきた」ヘイルはその言葉に猛烈に腹が立った。島流しは人間の尊厳を削りきる。
ヘイルが準備をしているあいだ。彼女は夕食を作った。__に登場した料理を再現した。
席につくまえにふたりは見つめ合った。
ヘイルは困惑気味だった。ライムを気の毒に思っていた。島流しは人間の威厳を削っていく。残酷だ。
ふたりは雑学を聞かせあった。
ジョリーは手に一冊の小説を持っていた。白い本。中身は意図的に白紙ページとなっている。
彼の熱を帯びた目をまっすぐに見つめた。黄金の輝きに彩られたジョリフィーユが白い本を朗読した。
「どうやら詩の才能はないみたいだ」
彼女が横に並んだ。
「詩が好きなだけでは一流になれない。私たちには内なる神秘性が欠けているみたい」
ヘイルはその機をとらえて身を乗りだすと、唇をそっと重ねた。いったん離してジョリーの反応を確かめた。
あまり乗り気じゃない。目がすわっている。
彼女の服を手際よく脱がせる。__がするりと床に落ちた。
それから、ヘイルの唇が彼女の肩に移動すると、肩を軽く咬んだ。肩から胸の間にかけて、臍、下腹部から腰にかけてヘイルの舌がそっとなぞっていく。
ジョリーがヘイルの頭を引き寄せた。彼は彼女の尻に手を当てて彼女を抱き寄せた。ジョリーはひとつ鋭く息を吸い込んだ。
「新しい名前は気に入ったかな」
「サミュエル・」
私たちに残された時間には限りがある。
貴方は__日後にここを出る。
私たちはそれぞれの生活に戻る。
貴方の新しい部屋、気に入ったよ。
「私の腰がまだ立たないうちから、私たちの__を聞くとは…」腰を痛めて歩くこともままならなかった。激しい曲調に合わせて踊ったのだ。
「会えなくなると寂しい」
「会えなくなるのか?」もちろん知っていた。
「私はノーティラスのメンバーでも、__専門だから。いつも__」
おままごと。
これだから。ちゃんと自分に言い聞かせるべきだった。黙っていよう。軽い傷ですむ。
愛を告白するだけ無駄。
この考えを変えるきっかけは簡単すぎた。
ああ、この焦りと胸の痛みが背中を押した。彼女に愛を告白しよう。交際を申し込んだ事実がほしい。__日間でも構わない。彼女にプロポーズをした真実が自分には必要なような気がする。答えは知っている…
彼を悩ませるきっかけを作ったのは、白い本の内容だった。
――私の女は…
彼女の承諾なしに自分の女だと言えない。
鳥の雑学
アンティパスト、透けて見えるくらい薄く切った肉やソーセージ。パンも添えられて
朝食の支度中だった。
「私は貴女を愛する喜びを知ってしまった。貴女に愛される幸せだけでなく、貴女を幸せにすることに無上の喜びを感じている」
「そう話してくれたから、礼を言いたくてね。ありがとう、ヘイルさん。そうしたいけど、できないんだ。言ってること、わかるかな」
なぜ?なぜ、断る。理由は単純、断る理由があるということ。原因は恐らく私にあるだろう。無駄だと解った後にも、口から告白の言葉はでてしまう。
「まさか、年齢の差を気にしているのか……」
「感情は__だと、貴方は言ったじゃない」
「ジョリー……うんと、頷いてくれるだけでいい……認めてくれないか」
「私は__を待ってる」
「暗号がなんだ」吐き捨てた。
――コケットリーめ
「私は折り鶴の__を知っている。暗号に頼るのをやめてくれ」
「頼むから、きみの、きみが隠してる気持ちを私に教えてくれ……」
彼女の目に迷い。
「私はこれまでに色んなものを盗んだ。最後には法律から貴方を盗んだ。だけど、ひとつとっても、自分の物にしたかったわけじゃなくって……貴方を引き入れるために必須のように思えたから」
「それは……」
""いかなる贋作も、中には本物が潜んでいる""
「残念だよ……」
告白は受け入れられなかった。褥を共にした晩もあったが、あの晩が特別だったというだけだ。特別なスコッチを彼女と開け祝福しただけ。
ままごと。あの告白はなんだったのか。
いよいよジョリ・フィーユは憧れの存在として定義された。最高の女だから仕方がない。
自分は孤独だ。
彼女は、後悔すればいい。
今では彼女の口数はずっと減った。声をかけても反応が薄い。
ただ、交換暗号だけは続けた。
ふたりは時間の共有を愉しみにしていただけに、ヘイルにとって負の時間共有は苦痛でしかなかった。
孤独を知る
リンカーンに対する喪失感。失恋の傷。
再構築の可能性を探る。私に原因があるのだから…ないはずはない。ずっと考え込んでいた。やはり思い当たらない。
一週間を切った日、彼は、彼女宛に一本の黒薔薇を描いた。
黒薔薇を意味する言葉は""憎しみ""
数の意味するところは""貴方だけを見ている""
「私は貴方を恨んでいます」と言った。
彼女の頭は一瞬凍りついた。
""恨んでいます""
予期していた。
普通に会話をした。雑学も交えた。
十一本の青バラの絵が描かれていた。
青いバラが意味する言葉は""不可能""、数の意味するところは""貴方は私の宝物""
「夢は叶わない、私は貴方を大切に思っている」墨汁のような黒いシミ
もう限界だ。これ以上我慢できない。
朝食の席でも彼は口を利かない。口を引き結んで、目を付せ気味な目は皿を見ている。いくぶん肩を怒らせている。
ようやく口を開いた。
「__せいで焦がしてしまった。」
「私は使い捨てだから……(アルフレッドは私みたいな殺し屋なんかと一緒になってほしくはないんだろう)」
彼女は気持ち弱っていた。かける言葉もない。
彼女は皿に手をつけず、ヘイルをかなり長く見つめた。彼は皿を平らげず、少しつついた程度に食事を終わらせた、ジョリーはようやく料理を口に運んだ。わざとらしく焦がした__を噛んだ。
白い本をどけ、
最後の晩に彼はもう一度一本の黒薔薇を描いた。これが意味するところは
""あなたはあくまで私のもの""
""決して滅びることのない愛""
ヘイルはクォーツ時計を磨いた。
彼女は白い本に詩を書いている。
ふん、いまとなっては彼女の一挙一動など、どうでもいいじゃないか。
ままごと。
焦りと不安の波が押し寄せる。私にチャンスを、と声高に叫んだ。口を引き結んだ。ないのだから、仕方ないじゃないか。
最後の就寝、ジョリーは寝室に入らなかった。ヘイルも眠れずに朝を迎えた。一晩中珈琲をすすっていた。嫉妬、退屈という悪にさいなまれた最悪な朝だった。
ヘイルは朝食を作ったが、彼女は来なかった。彼は手につけず、朝食を棄てた。
クォーツ時計を取りに(じつは手に持っていたが)研究部屋に入る。横目で彼女の後ろ姿を盗み見た。
""今となっては、あんたを愛したことを後悔している""
ジョリーは右の眉を吊り上げた。ヘイルがぼそりそう呟いたからだ。
「貴方は、__だった。」
「赤い折鶴なら元の銀箱に戻しておいたよ」
「女ってやつはどうして揃いも揃って不合理な振る舞いをする」眉間に皺を寄せ、__
「暗号がなんだ」吐き捨てるようにつぶやいた。
クォーツ時計を彼から貰った。
白い折り紙で折られた大鶴を彼に手わたした。鳥言葉は子孫繁栄
ふん、バニスター一族らしい。
鶴の尾を摘まんで、彼は静かに彼女を見つめた。その目に滲んでいたのは、困惑と後悔。
「私は、生まれてはじめてと言っていい、恋の深みに落ちた。あんたとの交際を真剣に考えていたんだよ。おそらく、この折り鶴には、私が求める答えなど書かれてない」
「私を嵌めるために、はじめから私の気を引くために、機械時計を盗み与えた。私をそんなことにも気づかない馬鹿だと思うか?刑務所にいた頃から確信していたさ。あんたは俺を迎えに来るって」
「ただ、わからなかった。なんで、私を、そんなにも、好いていてくれたのかが」
「暗号では、いかなる贋作の中にも本物が潜んでいるという、これも嘘なのか?」
ジョリーは黙ったまま
「私たちの恋愛に真剣に向き合って欲しかったよ。こんな困惑と後悔しか残さない恋愛に価値があったなんて思わないでほしい」
「はじめからなかった」ジョリーが言った。
ヘイルは悔しそうな顔を浮かべた。
「嘘で良かった……」ヘイルは息を吐き出すようにささやいた。
(ジョリーは涙を流さないが)目を瞑った。顎を震わせ泣いた。咽び声を外にだすものかと呑み込む。時間のみがすぎ、ヘイルは黙って立ち去ろうとした。後ろから声が聞こえたが聞き取れなかった。
ジョリーは車の__に揺れる彼の時計を眺めていた。視野に入るたびに彼を思いだす。
彼を愛してしまったから、他の男は愛せない。
交際を申し込まれたとき、自分に疑問に思っていた。なぜ、私は、__ように、暗号、白い本を通して欲しかったのか。目の前の男にはいと返事をすれば交際できたのに。相手を傷つけてまでして、何故、意地を張りつづけた。もう、何万回、これに後悔しているとつぶやくのか。
彼は腕時計を確かめた。時価五千ドルのデジタル腕時計。ヴェントゥーラ・スパーク・シグマMGS。手首のヴェントゥーラは、言うなれば、時間管理のニューフェイスだ。その並ぶもののない正確さは、彼に喜びと安心を与えた。
彼は新しい部屋に驚嘆した。
ヘイルは百十七個の腕時計や懐中時計や時計を所有している。その大部分はアナログだ。機械式もあればクォーツ式もある。ボーム&メルシエ、ロレックス、タグ・ホイヤー。
アナログは過去の栄光だ。その現実を受け入れるまでにはかなり時間がかかったが、数年前あの男に逮捕されたとき、世界は一変したのだと痛感した。
ヘイルが諦めていた時計コレクションがそっくりそのまま揃い揃って、__に飾ってあった。沈没船のも含まれている。だが機材はない。
取り寄せる時間も惜しかった。
まったく、グズグズしていて……もどかしい。
すぐに機材を盗みに出掛け部屋に持ち帰る。
鶴を広げた。あの機材で見ると肉眼では読めない暗号文が綴られていた。
緊張する。
内容は、貴方を愛している。熱烈な告白文だった。謝罪と弁解。
どうして、どうして…
胸の内の炎は怒りに激しく燃え、__に感じる痛みは強く、心は赤い涙の血筋を引いた。
彼女は意地っ張りだった。自分もだ……イエスと言えなかったばかりに。
最後の文に目を通した。最終日に、あの返事への返答
二本の黒薔薇の図案を見たとき胸がずきりと傷んだ。""お互い様""
遠くにいても側にいる。私は、貴方の女だから。(二本の黒薔薇の絵)数の意味するところは""お互いに愛し合っている""
ヘイルは椅子に腰かけた。
全体から見ればちっぽけなこと。
ちっぽけなこと。
【現代】
ズーイーが危険な目にあう。ヘンリーに誘拐されそうになったが自力で脱出した。
モスマはズーイーを守り抜くことを決意した。
ジョリーはネグレストじゃないか。