あの子が欲しい※ご注意※
・舞台は現世です。
・審神者がゲーム中の設定ではなく、リアルな方です。
・優しい石切丸はいません。
・代わりに腹黒い石切丸はいます。
・神隠しネタです。
・死表現があります。
電気と暖房を点け、部屋着に着替えてパソコンの電源を入れるとその前に座る。すぐにネットを開いてあるブラウザゲームにログインする。
彼女は最近、友人の紹介で刀剣乱舞というゲームに夢中になっていた。刀剣を擬人化させて敵と戦わせる育成ゲームで、ホーム画面に気に入りの刀剣男士を表示できる。
最近のお気に入りは父性溢れる優しげな目をした御神刀石切丸だ。今日も彼に会う為に画面を読み込む。
「ぱっぱー、ただいまー」
お馴染みの台詞に返していると、遠征に出していた部隊が全員帰って来た。
〈遠出の者達が帰って来たようだね〉
それぞれの部隊におかえりと返して日課任務を終わらせると、やることが無くなり、また長時間の遠征に出して画面を閉じる。ふう、と一息吐くと傍らに置いたお茶を一口含む。ふと、背後に気配を感じ、反射的に振り向いた。
何もいない。
最近になってこういったことが多々ある。場所は選ばず、家でも会社でも休日の外出先でも彼女が一人でいると、必ずと言っていいほど何者かの気配を感じるのだ。気のせいかもしれないし、彼女自身、気にしなければいいだけなのだが、何か気になる。ストレスのせいで神経が過敏になっているのかと思い、ここのところは早く寝るようにしている。そのお陰で寝不足ではないが、やはり気配は消えなかった。今日も気にしないよう伸びをして入浴の支度をする。
頭を洗っている最中、彼女ははた、と気づいた。
さきほどまで感じていた気配が無い。後ろを振り返っても姿は見えないのだが、その時彼女は気配が無いと直感した。無いなら無いで安心する。妙な気配に怖いような不思議なような気分になるのは落ち着かなかった。
結局、その日はあの気配を感じることは無く、就寝した。しかし、翌朝起きると気配はついて来る。自分の背後にぴったりくっついている訳ではないが、気が付くと背後にいる。嫌な感じはしないが、とにかく気になる。
特に顕著なのは、エレベーターに一人で乗っている時だった。少しの間だが、完全に人間社会から断絶された空間の中で気配はぴったりと彼女に寄り添うようにしてくっついて来る。その時だけは彼女の胸に異様な恐怖が広がるのだ。ふわりと包み込まれているような感覚を覚え、普通なら安心するところなのだが、正体不明の何かに触れられていると思うと怖くて堪らない。エレベーターに乗っている間は金縛りにあったかのように身動きできず、ただ目的の階に早く止まってくれるよう祈るしかできない。
4階ですという無機質なアナウンスで漸く体の自由が利いた。慌てて降りようと扉を押さえた時だった。
ふと、誰かに呼ばれたような気がして振り返るも、当然誰もいない。あの気配だろうか?そう思うと、途端に背筋を冷たいものが駆け抜け、彼女は足早にその場を去った。
♦♦♦
忙しい時期を終え、ようやく仕事も一段落した夕方、早めに仕事を終わらせた彼女は夕飯の買い出しに近所のスーパーまで足を運んでいた。今日は寒いから鍋にしようと鍋用の材料を買い込み、まっすぐ家を目指す。
夕焼けが行く先の道を真っ赤に照らす中、何気なく見慣れた景色の中を歩いていると、廃ビルが目に留まった。前は何回か会社が入ったことはあるが、結局どこも上手く行かずに潰れ続け、市の予算の関係なのか取り壊されることもなく、放置されている建物だ。
いつもなら気にも留めずに通り過ぎて行くのだが、その日は何故だか気になる。まるで、廃ビルに意識を縫い付けられたかのように目を逸らすことができず、遂に立ち止まって見上げる。そうして見つめているうちにふと、上ってみようと思った。どうしてそう思ったのかは分からない。ただ漠然と屋上に上ってみたくなったのだ。
買い物袋を両手に持ったまま、ふらふらと廃ビルに足を踏み入れ、窓から差し込む夕陽の光と薄闇の中で一歩一歩階段を上っていく。上っていく中、両手の力が抜け、買い物袋を落としても彼女はそれに気づかず、階段を上る。こつん、こつん、と誰もいない廃ビルの中に彼女のヒールの音だけが響き、年季の入った埃が舞う。風を感じて顔を上げると、前方に開け放された屋上への入口が目に入った。もうすぐだ。もうすぐで屋上に出る。自然と歩みが早まり、すぐに屋上へ出た。
屋上は四方を柵で囲っただけの簡素な造りで、沈みかけの夕日が逆光になって町並みは黒い墓標のように浮かび上がっている。
ぼうっとそれらを視界に入れながら、彼女は柵に近寄り、下を覗いてみた。さっきまで歩いていた通りが小さく見える。落ちたら確実に死ぬだろうと予想できるほどには高い。ここからなら、確実に死ねる。そう確信すると、彼女は柵を越えて縁に立つ。夕陽を見つめながら体が傾いだ。ああ、もうすぐ死ねる。
がしっと力強く腕を掴まれ、はっと我に返った。ゆっくりと引き戻され、柵を越えて屋上に転がる。荒い呼吸を整えながら立ち上がると、その男は彼女の手を取って立ち上がらせた。高校時代からの友人だった。
「お前、何してんだよ!」
「え? えっと……」
「久しぶりにこっちの道来てみれば、ふらふらしながらこんなとこ入ってくし! 飛び降りようとするし!」
切らせた息を整えながらこちらを睨むようにして見ている友人に、彼女は心配させてしまったと罪悪感に似たものを覚える。
「ご、ごめん……」
「……なんかあったのか? 悩みあんなら、相談乗るから」
「……ううん、大丈夫」
思えば、何故飛び降りようとしたのか彼女自身も分からない。ただ、この屋上に近づくにつれ、飛び降りなければと使命感のようなものを持ってしまっていた。
悩み事といえば、あの気配のことだけだ。幽霊なのか何なのかは分からないが、不思議と嫌な感じはしないあの気配。しかし、こんな非現実的なことを相談しても仕方ないだろう。第一、信じてもらえるかも怪しい話だ。人には言えない。
心配そうな様子で尚も食い下がる友人を宥め、彼女は廃ビルを出た。途中で落としてしまった買い物袋を取り上げ、泊りに行こうかと言う友人の誘いを断る。
「そっか……。なんかあったらすぐ連絡しろよ? 顔色も悪いし、なんか滋養のある物食べた方がいいよ」
最後にそう言って別れてからも何度もこちらを振り向く彼に手を振って、重い足取りで帰路についた。
♦♦♦
やっとの思いで自分の部屋であるマンションの一室に辿り着き、鍵を開けようと鞄の中を探ると、財布に付けていた縁結びのお守りの紐が切れていることに気づいた。お節介な親戚から半ば無理矢理押し付けられたものだ。
しかし、不思議なことにそれは何かの衝撃で引き千切れた訳ではなく、まるで刃物で切られたようにすっぱりとした綺麗な切り口だ。不思議に思いながらも鍵を開けて入る。
なんだかどっと疲れた。さっさと一人鍋をして寝よう、と蛍光灯のスイッチに手を伸ばした時だった。
「……え?」
伸ばした先に何か柔らかいものが当たった。
ひっと引きつった悲鳴が出て反射的に手を引っ込める。いる。すぐ目の前に何かがいる。温度は分からなかったが、触れたものが服であることだけは分かった。柔らかくてさらさらしたような――
「……」
しばらくの間、彼女は恐怖で動けなかった。暗闇の中にいるという恐怖と不安、覚えの無い感触に頭は真っ白になって混乱し、自然と呼吸が荒くなる。
どのくらいそうしていたのか、呼吸も落ち着いてきた頃、体はすっかり冷え切り、震える指で再度スイッチへ伸ばす。カチッと軽い音を立てて電気が点いた。
恐る恐る周りへ目を向けてみるが、何もいない。もう一度部屋を見渡す。まるで知らない部屋にいるみたいだと感じる。
ふと、電話機の隣に置いてある小さなメモ帳に何気なく目が留まり、近づいた彼女の目にそれは飛び込んできた。
おかえり
シャープペンで書かれた少し歪な文字に、さっと血の気が引く。
指先の感触が蘇る。柔らかい、さらさらしたあの感触は覚えがある。数年前に成人式で着た着物に似て――――そこまで考えると、本能が考えては駄目だと警鐘を鳴らした。
弾かれたようにベッドへ潜り込んでがたがた震える体を抱き締める。暗闇が怖くて電気は点けっ放しだが、そんなことは気にしていられない。気配が段々自分に近づいている。日常を侵し始めている。一度そう考えると彼女の頭は恐怖で埋め尽くされ、枕に顔を押し付け、毛布で耳を塞ぐことしかできなかった。
♦♦♦
いつの間に眠っていたのか、彼女は夢を見ていた。ここしばらくパソコンを起動していないので会えていないが、彼女のお気に入りである石切丸の夢だ。
色とりどりの花が咲き乱れている中で綺麗に整備されている石畳の道を彼と歩いているという随分とメルヘンチックで少女らしい夢だ。我ながらこんな夢を見るなど呑気すぎやしないかと自分の精神状態を心配していると、隣を歩いている彼が口を開く。
「どうしたんだい? 浮かない顔をしているね」
見上げると、優しげな目をした石切丸がいる。いつも見ていた大好きな藤色の瞳。
夢の中なら、石切丸になら言ってもいいかもしれない。所詮、夢の中だ。何を言っても現実には影響しないからいいじゃないかという気持ちもあって些か気が楽になり、彼女は口を開いた。
「最近、後ろから妙な気配を感じることがあって」
「うん」
「嫌な感じじゃないんだけど、それが……日を追うごとに段々近づいて来ているような気がして」
「怖いのかい?」
「うん……」
次第に声が震え、目には涙が滲んでいた。自分が思っていたよりもあの気配に恐怖を感じていたらしい。声の震えが体にも伝わり、がくがくと膝が笑う。立っていられず、倒れそうになったところを石切丸に支えられる。
「主は、どうしたいのかな?」
「た、すけて、ほしい」
絞り出すような声で彼の狩衣に縋り付く。それまで真剣な眼差しで話を聞いていた石切丸は一度頷くと、強く抱きしめてきた。大きな手であやすように何度も頭を撫でられる。
「大丈夫だよ、主。私が守って差し上げるからね」
「本当?」
「その代わり、私とずっと一緒にいてくれると約束してくれるかい?」
少年のような輝く瞳で尋ねてくる彼に、彼女は思わず笑みを零す。生憎と彼女には刀剣乱舞を止めるという選択肢は無かった。
体の震えもいつの間にか治まり、立たせられる。彼の頼もしい言葉にすっかり安心した彼女は迷わず、頷いてみせた。
「うん。そんなことで良ければ。ずっと一緒ね」
「うん。ずっと一緒だよ。その時になったら、迎えに行くからね」
「……その時?」
不思議そうに首を傾げる彼女に石切丸はにこりと笑ってみせた。
「ああ、その時というのはね。もう一度君と会う時ということだよ。またこうして君と話したいからね」
「また夢に出てきてくれるってこと?」
「そうだよ。その時はたくさん話をしようか」
「うん」
幸福と安心感に包まれ、彼の手を取ろうとしたその時、出し抜けに甲高く連続した音が鳴り響いた。
♦♦♦
まだ少し重い瞼を開けて彼女は目を覚ました。目を擦っている間も音は鳴り続けている。首を回してすぐ後ろを見ると、音の正体は習慣でセットしていたスマートフォンの目覚ましだった。緩慢な動きでそれを止め、ごろりと仰向けになった時だった。
「っ!?」
スマートフォンを握る手に温かい感触が伝った。
まさか。
突然のことに彼女は金縛りに遭ったように動けない。
それはどうやら人の手のようだった。当たり前のように彼女の手に乗せられている感触と熱に全身からぶわりと脂汗が噴出し、恐怖と混乱が脳内を支配する。誰かいる! 顔のすぐ横、ごく近い距離に何かがいる!
小鳥の声、秒針の音だけが響いている中でその手は彼女の手を優しく撫でる。感触を確かめるように時折きゅっと握られ、体の緊張は解れる気配が無いが、彼女は頭の片隅で冷静さを取り戻し始めた。この手の主に危害を加えようという意思は感じられない。しかし、部屋に侵入されたのは確かだ。とにかく大声でも上げて近所の住人達に助けを求めた方がいいと思い、顔を見ようと意を決して彼女は素早くその手の方へ振り向いた。
誰もいない。振り向くのと同時にあの手の感触も消えていた。
ぞわり、と脳髄が冷える。昨日と何も変わらない。あの気配だ。あいつがまだいる。
短い悲鳴を上げて布団を跳ね上げ、体を抱き締める。荒い呼吸を整え、滲んだ涙と汗を袖で拭う。
なんで自分ばっかり。そう呪わずにはいられない。自分が何をしたというのか。幽霊に憑かれるような真似をした覚えもそんな場所に行った覚えも無い。ただいつもと変わらない生活をしていたというのに、どうしてこんなことにならなければならないのか。彼女の頭はもうそんなことしか考えられなかった。
不意にそれらを掻き消すように彼の言葉が蘇る。
「私が守って差し上げるからね」
石切丸。ああ、会いたい。彼に会いたい。
時間を気にすることもなく、彼女はよろよろとパソコンに近寄り、電源を点ける。このところログインしていないので、資材は貯まっていることだろうと考えながらぼんやり画面の読み込みを待っていると、画面は真っ黒になり、沈黙した。
「えっ!? あれ!?」
見ると、電源が落ちてしまっている。慌てて再度電源ボタンを押してみても反応が無い。完全に沈黙してしまったパソコンを前に彼女は脱力した。こんな時に故障するなんてついてない。
何気なく時計を見ると、いつもの外出する時間よりだいぶ経っていた。早く準備しないと遅刻する!
パソコンはこの際、諦めようと慌てて支度をする。顔を洗って朝食も食べずに会社の制服に着替えて化粧をして玄関へ向かう。
昼食は食堂で済ませるか、行きがけに何か買って行こうと考えていると、視界の端に昨夜のメモを捉えた。おかえりの四文字だけが書かれている。もうそのメモに恐怖することは無いが、薄気味悪くなった彼女はそのメモを取り、丸めてゴミ箱に捨て、部屋を後にした。
♦♦♦
昼休憩が終わり、上の階へ書類を届けようと彼女はエレベーターを待っていた。エレベーターはまだ上の階から戻って来ない。普段ならすぐ近くにある階段を使うのだが、今日は何故か使う気になれない。今日はエレベーターで上がらなければいけない。
待っている間、ぼうっとエレベーターのランプを見る。7階、6階、5階、4、3、2――。
チン、という軽い音が鳴ったと思うと、扉が開いた。中には誰もいない。覚束無い足取りでエレベーターに乗り込む。するりと手から書類が滑り落ちる。それに気付かずに中に入った彼女は最上階のボタンを押した。
はっと我に返ったのは、扉が閉まって動き出してからだった。目の前には最上階が押されているボタン。慌てて目的の階ボタンを押す。
「えっ!?」
彼女は自分の目を疑った。
確かに押した筈なのに何も反応が無い。焦って何度も同じボタンを押すが、何も変わらない。他のボタンを片っ端から押しても同様だった。
最上階のボタンだけが仄かに光っている様は不気味で仕方ない。そうこうしているうちにこもった音を響かせながらエレベーターは最上階に着こうとしていた。こうなったら、扉が開くのと同時に出て階段で一階まで戻るしかない。
しかし、彼女の思惑は叶わなかった。
最上階に着いたと同時に照明が落ち、エレベーターは全ての機能を停止した。
完全な暗闇の中で彼女は身動き一つできなかった。恐怖から体が硬直しているというのもあるが、あの気配だ。あの妙な気配がいつものように後ろから彼女を抱き締めている。
しかし、いつもと違うことが一つある。彼女を抱き締めている力だ。いつもは包み込むように厭に優しくしてくるのに、今はまるで絶対に放さないとでも言うように力強い。いつもと全く違う状況に心臓の鼓動が大きくなる。
「い、いやっ……」
抜け出そうともがくが、背後の気配はびくともしない。それどころか、もがけばもがくほど気配は密着し、押さえこもうとする。
どのくらいそうしていただろう。数分か、それとも数十秒か、疲れ果てた彼女は抵抗することを止めた。元々、女性であるが故に体力もあまり無い。荒い息を吐きながら彼女はすぐそばにあった手すりに縋りついた。
はっと気づいた。またあの気配が消えている。
「ど、どこに――」
物凄い衝突音がした。と同時に彼女の体は床へ強かに叩きつけられ、激しい頭痛と共に視界が暗転した。エレベーターが落ちる轟音が響いた。
♦♦♦
朝、まだ眠い目を擦りながら男は朝食のチーズトーストを一口齧った。火傷しそうなほどに熱いそれをブラックコーヒーで流し込む。テレビを点けると、お決まりのニュース番組が放送されている。男は犬と旅をするコーナーが好きなので、毎朝この番組に合わせていた。ちょうどエンタメのコーナーが終わり、ニュースへ移るところだ。
〝そういや、あいつ大丈夫かな?〟
不意に廃ビルの屋上から飛び降りようとしていた友人のことを思い出した。その後、彼女は大丈夫だろうか? 悩みの種は取り除けただろうか。
「次のニュースです」
男はまだ知らない。彼女の顛末を。
欲しいなぁ。欲しいなぁ。あの子が欲しい。
いつからか、私の胸の内にそんな思いが渦巻くようになった。彼女の手によって本丸に顕現された時はそんなこと考えもしなかったのに。彼女と時間を共にすればするほど、私の心は満たされ、温かなものに包まれていたというのにね。
私は早期にこの本丸に来た。初期刀の歌仙兼定を除けば、短刀ばかりの本丸だったせいか主は大いに喜んでくれた。これで戦力が安定する、私がいれば百人力だと。そんな調子で早々近侍に任命され、何度も主と戦場へ赴いた。
なのに。
「さて、レベルもかなり上がったし、ぱっぱは一時休憩ね」
刀剣もかなり揃ってきた頃、主はそう言って私を近侍から外した。思えば、君にとっては何気ない一言だったんだろうね。でも、私にとっては辛いものがあったよ。愛する人の手で引き離されるんだから。
休みを言い渡されてから数日が経った。出陣も遠征も内番も無い日を追う毎に、私の胸に燻る不安と恋慕は大きくなるばかりだった。夜、布団に入って悶々と考えることが多くなった。
〝このまま出番が無かったら、どうしよう? いや、もしかしたら彼女は私のことなどもう忘れてしまっているのかもしれない……!〟一度そう考え始めると不安は一層大きくなり、いつしか焦燥に変わっていった。
主に会いたい。彼女に必要とされていると安心したい。顔を見たい。会いたい。彼女に会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい……。
気が付くと、目の前に彼女がいた。こちらに背を向けて箱のような物と向かい合っている。何がなんだか分からず、周りを見渡しても見知らぬものばかり。動揺が収まらないままに自分の手を見てみる。うっすらと透けている。少しばかり冷静さを取り戻した頭で考える。なるほど、どうやら意識だけこちらの世界へ来られたらしい。分霊でもしたのかな? ああ、これも主を想う心が強かったからだね。そう一人で納得していると、不意に彼女がこちらへ振り向いた。真っ直ぐこちらを見つめる目とかち合う。主、早速気づいてくれたのかな。ほら、こうして君の目の前に――
見つめ合っていたのはほんの一瞬で、すぐに不思議そうに首を傾げた彼女は辺りを見回した後、箱へ戻ってしまった。……あれ? どうしたのかな? 主、私はここだよ。そんな小さな箱の中になんていないよ? 主、こちらを向いて。
肩に触れようと手を伸ばすけれど、何の感触も返ってこず、擦り抜けてしまう。そうか。今の私は意識だけの存在だ。彼女に認識されないのも、触れられないのも、ただ消えていくだけの、曖昧な存在だから。歓喜から一気に絶望へ叩き落とされた気分だった。やっと、会えたのに。目の前にいるのに。触れることすらできない。
こんなことならいっそ願わなければ良かった。すやすやと寝息を立てる彼女の顔を見てそう思った。この体は空腹も喉の渇きも眠ることも必要としないらしい。肉体と切り離されているせいか何の不自由も感じないのだ。明日も彼女は私を無視していつも通りの生活を送るのだろうね。ああ、主。
「君に、触れたいな……」
この声も届かないのだろうか。締め付けられるような胸を抱え、そう口にした。と、彼女に反応があった。眉を寄せ、こちらに寝返りを打つと私の手に頬を寄せる。体温すら感じることもできないが、絶望の最中にいる今の私にはそれだけで十分だった。ここに来れたのは私だけだ。他の男士は叶わなかった。私だけが主の傍にいられる。刀にとってこれほどの幸せは無い。ならば。
「私が守って差し上げなければね、主」
君の唯一の近侍として。
♦♦♦
「ぱっぱー、ただいまー」
彼女と暮らし始めて一週間。今日も仕事を終えて帰って来た彼女を労う。相も変わらず認識すらされないが、徐々に変化は起きていた。彼女と共に過ごし始めてから私のできることが増えてきた。この部屋の中を自由に歩き回れるようになったし、彼女と一緒なら外出することもできるようになった。
ふと、彼女が席を立つ。どうやら湯浴みをするらしい。ああ、また君はこんなところで脱ぎ散らかして。物に触れられるなら片づけておきたいところだ。聞こえないが、一応届くかもしれないという思いを込めて説教をしながらついて行く。脱衣所で彼女が本格的に脱ぎ始めるのを見て思わず目を逸らす。女性の裸を見るなんて不躾だ。
閉められた浴室の扉の前で彼女を待つ。私は紳士だからね。彼女の顔が見えないのは少し退屈だけど、仕方ない。愛しい彼女といつも一緒にいられる。至上の幸せだ。
そう、自分に言い聞かせた。胸の奥に着々と募る澱みに気づかないふりをして。
♦♦♦
えれべえたあという物は良い物だね。狭い中で主と二人きりになれる。ねぇ、主。君に触れてみたいよ。いいよね?
彼女の小さな体を抱き締める。後少しでも力を入れてしまえば折れてしまいそうだ。声を聞いてくれたあの時のようにまた奇跡が起こってくれないものかと願うと、彼女の体が震えていることに気付いた。寒いのかな? 今の私は温度を感じ取れないので、この箱の中がどの程度なのか全く分からない。私が実体を持ってここに居たら、温めて差し上げることもできたのだけれど、本当に残念だよ。長いようで短い時間の後、軽快な音と共に彼女が放れてしまう。ふふ、恥ずかしがり屋さんなんだね。可愛いなぁ。
「主、続きはまた後でね」
自分でも驚くほどの甘い声で囁くと、それに反応したように彼女が振り返った。おや? 私の声が聞こえたのかな。そうだったらいいなぁ。足早にその場を後にする彼女の後ろ姿を追いかけながら一人舞い上がっていた。
♦♦♦
あれからまた一週間が過ぎた。主は気が変わったのか、いつも通る道とは違う通りを歩いている。たまには違う景色も良いものだね。君と一緒なら私はどこでも楽しめるよ。買い物も済んだことだし、早く家に帰らなければね。
ふと、目を上げると随分と古い建物が建っている。人の気配は感じられない。周りを見ても人通りは少ない。……今なら、絶好の機会かな。
傍らを歩く彼女を見つめる。当然だが、こちらに気付く様子は無い。主、私のものになってくれるかい? 大丈夫、痛みはきっと一瞬だけだよ。彼女と目を合わせるように前へ回り込む。彼女の意識めがけて集中すると、一瞬ぴたりと動きを止め、建物を見上げた。そう、良い子だね。こちらへおいで、私が先導してあげよう。今更になって気付いたが、私は彼女の意識に干渉できるまでにこの世に馴染んできたようだ。とても嬉しいよ。
彼女の手を引いて一番高い場所まで来た。さあ、後はその煩わしい肉体を捨て去るだけだよ。私の本体で体を貫いて魂を取り出せば、もう痛みも老いも無い素晴らしい世界に行けるからね。
早く、私の許へおいで。
後少しだった。あそこであの男が邪魔しなければ主は私のものになったのに。全く、余計なことをしてくれる。おっと、平常心、平常心。こんなことで嫉妬なんかしていては彼女に嫌われてしまうね。でも、警告は必要だ。今後、あのような虫が彼女につかないようにお守りの紐を切って知らせておこう。祭神様には出雲へ行った折にでも謝っておこうか。……なるべく、急いだ方がいいかもしれないな。
あ、そうだ。もう一つ主に報告したいことがあったんだ。
暗い部屋の中に先に入って待つ。彼女は帰って来ると必ずここの装置を押すからここに立っていよう。彼女の手がこちらに伸び、私の狩衣に触れる。驚いたかい? もう君に触れられるんだよ! ほんの少しだけだけれどね。
折角だから彼女に私のことを伝えよう。きっとずっと一人だったから、「おかえり」なんて言われたことも無いと思うしね。
電話機の近くにある筆入れからしゃあぺんなる物を取って紙に「おかえり」と書いてみる。むう……このしゃあぺんは少し扱いづらいね。力加減を間違えると折ってしまいそうだよ。でも、これで主は一人じゃないんだよって伝えられるね。
書いた紙を見た彼女は何故だかすぐに布団に入り、眠ってしまった。震えていたし、予想以上に疲れているのかもしれない。心配になった私は彼女の夢の中に行ってみることにした。
♦♦♦
花畑の中を彼女と手を繋いで歩く。なんて気持ちが良いんだろう。これが早く日常になってしまえばいいのに。彼女に同意を求めようと見やる。その表情は暗い。どうしたんだろう? 何かあったのかな? 何か悩みがあるのなら、是非解決して差し上げたいな。
「どうしたんだい? 浮かない顔をしているね」
聞けば、このところ彼女の背後に何者かの気配を感じ、それが日に日に忍び寄って来ると言う。う~ん……私のことかな? 君も私を感じていてくれていたんだね。これは嬉しい誤算だ。
「怖いのかい?」
一応、訊いてみよう。もしかしたら怖がらせてしまっているかもしれない。主は目に涙を滲ませて肯定した。そうか、怖かったのか。それは盲点だったな。でも、それも仕方ないかもしれない。彼女には私の姿が見えない。彼女が感じることができるのは、私が書いた文字や感触だけだ。逆の立場だったら……怖いかもしれないね。でも、それも全ては生に執着してしまう人間としての本能が原因なんだよね。だとしたら、それを取り除いて差し上げるのが私の役目か。
「主は、どうしたいのかな?」
もっと違う方法があれば、そちらを実行したい。君の意に反することはしたくないからね。そう思い、彼女に問いかけると震えながら助けを請うてきた。ああ、可哀想な主。こんなに震えて。
「大丈夫だよ、主。私が守って差し上げるからね」
そう。死の恐怖からも彼女を守るのが刀(わたし)の役目だ。私は君の為なら何だってできるんだよ。でもね、少しくらいは見返りを求めてもいい気がするんだ。
「その代わり、私とずっと一緒にいてくれると約束してくれるかい?」
私の傍に、私の妻として。添い遂げると誓ってくれるかな。
彼女は快く了承してくれた。良かった。これで心置きなく君を迎えに行けるよ。
「うん。ずっと一緒だよ。その時になったら、迎えに行くからね」
不思議そうに訊き返してくる彼女に私は安心させようと微笑む。主には詳しく言っていなかったな。まぁ、いいか。
「ああ、その時というのはね。もう一度君と会う時ということだよ。またこうして君と話したいからね」
そう言うと、彼女は何を勘違いしたのか、夢の中での逢瀬を思い浮かべているらしかった。今はそれでもいいよ。いずれこの夢が彼女の現実にとって代わるのだから。
「そうだよ。その時はたくさん話をしようか」
迎えに行くよ。必ず、ね。
♦♦♦
朝。折角口づけをして差し上げようと思ったのに、この小煩い機械に邪魔をされてしまったよ。気分が悪いな。……そういえば、今日はどんな変化があるだろう? 少し試してみようか。
主にどれだけ触れていられるか試す為にひたすら彼女の手を撫でる。もう起きている筈だけれど、一向にこちらを向いてくれない。少し、寂しいな。なんとか気を引こうと時折、軽く握ってみたりもしたが、彼女に動く気配は無い。起きたばかりだから、少しだるいのかな? そうしていると、彼女は急にこちらを見た。驚いて手を離してしまう。まだ目には見えないようだが、彼女の方でもしっかり私を感知できるようになってきたらしい。嬉しい変化だね。これなら大丈夫そうだ。
毛布を被った遊びをした後、主は慌てた様子であの憎き箱の前へ行った。そんな箱なんてどうでもいいじゃないか。そこに私はいないのだから。あそこに映っているのは、私の「絵」だ。私自身じゃない。全く、早く用意しないと遅刻してしまうよ。日々の行事はちゃんと勤めないと。電源を入れようとしているみたいだけれど、箱に反応は無い。私の思いが通じたのかな? 念の力も日に日に強くなっているようだね。
♦♦♦
また彼女の手を引いてえれべえたあに乗る。もうすぐだね。今度は邪魔が入らないように隔離してしまおうね。俗世に君を奪われるなんて耐えられないんだ。
欲しいなぁ、欲しいなぁ。
私の胸の中で想いが疼く。まだ、まだだよ。もう少し。
最上階へ動き出したところで、彼女の意識を解放する。扉が閉じてしまったから、念を込めたこの箱にはもう誰も入れないし、出られない。そう、彼女と私。本当に二人きりだ。嗚呼、天にも昇る気持ちだよ。嬉しくて嬉しくて堪らないな。
あ、忘れるところだった。この箱を最上階で止めないと。少しの間寂しいだろうけれど、待っているんだよ、主。
壁を越えて箱の上に立つ。仕組みは至って簡単だ。重りと箱を繋ぐ紐を切ればいい。幸い、切るのは大得意だ。今ならこの鋼鉄の紐さえも障害にならない気がする。取り敢えず、まずはその辺を壊してしまおうか。詳しい仕組みはよく分かっていないが、邪魔になりそうな物は全て取り除く。適当に壊すと、火花を散らせて箱は止まった。よし、後はこの二本の紐を断ち切るだけだ。
欲しいなぁ、欲しいなぁ。
ぞくぞくと背筋に怖気にも似た興奮が走る。まだだ。まだ。焦ってはいけない。
箱の中に戻ると、暗闇の中で主は震えていた。驚かせてしまって済まないね。私が悪かったよ。怖がらなくていいんだよ、私がついているからね。しっかりと主を腕の中に収める。小さくて華奢な体に堪らないほどの愛しさを覚え、思わずぎゅっと抱き締める。そうしていると、暗闇の中にいるという不安から彼女は心を乱したらしく、暴れ出した。ああ駄目だよ、そんなに暴れては。怪我をしてしまう。
彼女が落ち着くまでそのままでいると、暴れて疲れたらしく、すっかり大人しくなった。いい子だね、主。もう少しだよ。
彼女を置いて再度、箱の上へ立つ。後はこの紐を……。
「主……」
欲しいなぁ欲しいなぁ。
鞘から刀を抜く。
欲しいよぉ、欲しいよぉ。
紐に狙いを定め、振り上げる。
欲しいよぉう、欲しいよぉう。
力と念を込めて振りかぶる。
あの子が欲しいよぉう。
「迎えに来たよ」
ぶつ、といとも容易くこの世との縁は切れた。