海神と恋人 19 沖を目指して泳ぐ
千栄理の周りにいつの間にかイルカ達が集まってくる。浅瀬に来た五頭全てが彼女の周りを泳ぎ、その内の一頭が海中から
千栄理の体を持ち上げた。不意を突かれて驚く彼女は、咄嗟に近くに現れた突起を掴み、何とか振り落とされることだけは回避できた。無我夢中で掴んだが、改めて見ると、それはイルカの背鰭で、
千栄理はイルカが痛くないように落ちない程度に手から力を抜いた。向かってくる波を割いて突き進むその様を見て、誰が言うでもなく、「アムピトリテ」の名前が上がった。アムピトリテの夫だったポセイドンすら、口にしないその名前に、ハデスとゼウスはそっと兄弟を見る。ポセイドンは、ただ無表情で黙って
千栄理の行動を見守っていた。その横顔から感情を読み取ることは難しい。が、兄であるハデスは彼が何かを見極めようとしているのではないかと思った。
目的の地点に辿り着くと、
千栄理は迷わず水の中へ潜った。なかなか上手く潜れないが、少しずつ海底へ向かって行く。潜って行く度、水圧による圧迫はそれ程でもないが、海中で行動することに慣れていない
千栄理にとっては、それでも苦しくなる。
海の底で見つけたのは、岩と岩の間に挟まれて動けなくなっていた一頭のイルカだった。何かの拍子で尻尾が抜けなくなってしまったようだ。何とか自力で抜こうと暴れるも、全く抜ける気配は無い上に、岩と接している皮膚に痛々しい細かい傷が増えていく。一旦、落ち着かせようと
千栄理は周りを遊泳しているイルカ達を振り返って、手招きした。どうか言うことを聞いてと願う彼女の許へ一頭のイルカが寄ってくる。その頭を撫でて
千栄理は、動けなくなっている子のところへ行ってと合図した。それに従ったイルカはゆっくりと暴れているイルカに近寄り、ぴゅー、ぴゅー、とエコロケーションを発して自分へ関心を向けさせると、アイコンタクトを取った。近くに仲間がいると分かると、挟まっている子は少し落ち着いたようで、暴れるのを止めた。余計な怪我をさせることは防がれたが、このままでは呼吸ができずに死んでしまう。
千栄理一人の力ではイルカの尾を止める程の大きな岩を水中で動かすことは不可能だ。誰かに助けを求めるしかないと思った
千栄理は、一度海上へ出ようと上へ泳いだ。
海上へ顔を出すと、冷たい風と空気に一瞬、呼吸ができなかった。顔に張り付く髪を邪魔そうに手で払い、ドレスを何とか脱ぐと
千栄理は浜辺にいるポセイドンへ手を振った。
「あ、ポセイドン様!
千栄理が……!」
沖の方から手を振る
千栄理の姿を認めたゲルが、ポセイドンへ知らせる。普段は絶対に自分から声を掛けることはない彼女だが、今は友人の命が危うい状況だ。恐れ多いだとか考える余裕は無い。ゲルの指す方へ視線を移したポセイドンは、
千栄理が何か布のような物を掲げて何かを要求していると感じた。
「――さんっ! 槍を――」
ここからでは遠くてよく聞こえないが、辛うじて彼女がポセイドンの槍を要求していることは分かった。
千栄理が自分を頼っている。ただそれだけのことで、ポセイドンの内に堪らない嬉しさが込み上げてくるのが分かった。水際に立ち、槍を構える。お前が望むなら、余に迷いなど無い。いっそ狂気的にも思える笑みを浮かべ、ポセイドンは
千栄理へ真っ直ぐ槍を投げた。ポセイドンにとっては手加減したつもりの槍は、真っ直ぐ
千栄理の許へ飛ぶ。浜辺から沖までそれなりの距離があるのにも関わらず、槍はドレスの真ん中へ吸い込まれるように突き刺さった。刺さったと同時にその衝撃と勢い、風圧で
千栄理の体は数メートル後方へ吹き飛ばされた。浜辺からだとどう見ても射殺されたようにしか見えなかったせいで、ゲルやハデス、ゼウスは血の気が引いたが、纏わり付く布きれを取り去り、海水の浮力も手伝って槍を掲げた
千栄理の姿に、ほっと胸を撫で下ろす。
「ポセイドン! お前さん、何のつもりじゃ! もう少しで
千栄理ちゃんに当たるとこじゃったぞ!!」
「余が外す訳なかろう。加減はした」
「そういう問題じゃないわいっ!」
浜辺でポセイドンに掴みかからん勢いのゼウス。二柱――正確にはゼウスだけだが――が言い争っているうちに元の地点へ戻ってきた
千栄理は槍の切っ先を海底へ向ける。すると、槍は意思を持ったかのように真っ直ぐイルカが挟まっている片側の岩、それも真ん中へと落ちていく。岩の表面に切っ先が触れた瞬間、あんなに重く硬い岩が嘘のように簡単に砕けた。漸く解放されたイルカは甲高く、長く鳴いた後、
千栄理を乗せて水面へ上がった。
五頭のイルカを従えて戻ってきた
千栄理に、直ぐ様飛んできたポセイドンは自分の上着をかけてやる。幸い、小柄な彼女はポセイドンの上着で体の大半を隠せたので、下着姿を見られることは無かった。何よりも彼女の隣で「今此奴を見た奴は全員殺す」と言いたげな目をした海神を見て、わざわざそちらを見ようなどと思う愚か者はいないだろう。
頭から爪先まで、しかも下着姿で全身びしょ濡れの
千栄理は吹く風に当たって寒さに震えている。しかし、その手に持ったポセイドンの槍は放さない。その姿を見て、水の精は圧倒されていた。何故なら、助けを呼ぶイルカの声を自分は聞き取れなかったばかりか、イルカを助けるために服を脱いで恥をかくことも、ポセイドンから武器を手放させることも、自分ではできないと痛感してしまったからだった。
槍をポセイドンに返しながら、彼女は「ポセイドンさん、あの子怪我してないか見てあげてください」とイルカを案ずる。それより他にやることがあるだろうと言うポセイドンに同意するように、バスタオルを持ってきたゲルが
千栄理の体を包み、「心配させないでくださいっス~!」と涙目で訴える。それを宥めつつ、タオルで包まれた
千栄理は水の精へ近付いた。未だ寒さでガタガタと震える手を差し伸べ、笑顔を向けてくる。
「ありがとうございます」
一瞬、何を言われているのか分からなかった水の精は、「……は?」と呆けた声を漏らす。それに構わず、
千栄理は続けた。
「あなたが勝負を申し込んでくれなかったら、あの子はきっと死んじゃってました。だから、ありがとうございます」
勝てない。そう直感した。自分はこの子にはどう頑張っても勝てない。最初から彼女は勝ち負けなんて低い次元にこだわってはいなかった。
一方で、自分はどうだと考える。ただ、ポセイドンに愛されたい一心で、綺麗に勝つことだけを考えて、
千栄理をただの人間だと、正直見下していた。何もできない、ただ気まぐれに寵を受けているだけだろうと。結局、どこまで行っても、自分は自分のことしか考えていなかったのだ。あの子みたいに勝負の道具にされたイルカのことも、賞品にされたポセイドンのことも、何一つ考えていなかった。愕然としたまま、水の精はポセイドンに連れられて行く
千栄理を見送ることしかできない。
「勝敗は決したな」
審判として見守っていたオーディンがそれだけ呟くと、不思議と水の精は自身の敗北を受け入れることができた。無意識に簡単に諦めてしまった自分がいて、そこでも彼女は思い知る。自分にとって、ポセイドンの正妻の座はオーディン相手に我を通してでも手に入れたい椅子ではなかったのだと。悔しい筈なのに胸の内はすっきりとしていて、彼女は神々に囲まれている
千栄理を振り返り、寂しく微笑んだ。
「ポセイドン様の隣はあなたの方が似合うみたい。あなたの勝ちよ、
千栄理」
失恋の痛みを感じながらも、水の精は温かい気持ちで見送ることにした。