創作SNS GALLERIA[ギャレリア] 創作SNS GALLERIA[ギャレリア]
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イラストを魅せる。護る。
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  • 11自作小説パンドゥラ「遺伝子」第5話 エピローグ編 ナパちゃん×アイアンショベル次回は人気が高まってきている、パンドゥラスピンオフの世界について、少しお話しできればと思います。もちろん可愛かったりカッコ良かったりと、様々なイラストも盛り込みますので、ぜひ楽しみにしていてください。よろしく('ω')ノ

    次の更新こそは出来るだけ早めに行いたいと思います、、、
    ギャレリアでご覧の皆様にはいつもお待たせして申し訳ないであります(;^ω^) #ミリタリー #オリジナル #恋愛 #小説 #ケモ耳 #獣人 #イケメン #バイク #猫耳少女 ##小説挿絵
    れーむ666
  • デミセバ+アインズ様デミセバです♡(⁠*⁠ノ⁠・⁠ω⁠・⁠)⁠ノ⁠♫♡
    今回はアインズ様も登場するよ♡
    #小説 #オーバーロード #セバス #デミウルゴス
    #アインズ  #デミセバ
    hisui
  • デミセバ(*´艸`*)♡R18コーナーにて公開中(*´艸`*)ウフ♡
    ちょっと可哀相なセバス様を書く!
    でも最後はラブラブだ!✧⁠◝⁠(⁠⁰⁠▿⁠⁰⁠)⁠◜⁠✧
    興味のある方♡覗いてみてね♡
    #オーバーロード #イラスト #小説
    #セバス #デミウルゴス #デミセバ
    hisui
  • 恋をしてしまいました(デミセバ)オーバーロード♡デミセバ(⁠つ⁠✧⁠ω⁠✧⁠)⁠つキラーン☆
    セバ受万歳!!今回はお風呂がテーマだ♡
    #小説 #オーバーロード #デミセバ #デミウルゴス #セバス
    hisui
  • 嫌い=好き?(デミセバ)デミセバです(*´艸`*)♡セバ受があっても有りなのでは?ガチムチ好きな人いるかな?
    #小説  #オーバーロード  #デミウルゴス
    #セバス  #デミセバ
    hisui
  • 25自作小説パンドゥラ「運命に導かれて、、、」第5話 完結編 スピンオフ作品のお話し!約1か月ぶりとなったギャレリア、お待たせしていた皆様本当にごめんなさい。

    主として活動していたブログ活動に悪質な書き込みが多発して、メンタルがかなり落ちておりました、、、
    色々考えて新しいブログを立ち上げるのに必死となっていたため、こちらの掲載がおろそかに、、、(;^ω^)

    もうしばらく落ち着くのに時間が必要ですが、
    8月中はなるべくスムーズに活動を行おうと思いますので
    引き続きよろしくお願いいたします。 #ケモ耳 #恋愛 #ミリタリー #バイク #オリジナル #女の子 #小説 #獣人 #イケメン #猫耳少女 ##小説挿絵
    れーむ666
  • デミセバ(*´艸`*)♡デミセバです♡マイナーです♡でも好きなの♡
    #オーバーロード #小説
    #デミセバ  #デミウルゴス  #セバス
    hisui
  • カルエゴ先生♡本日のお品書きです♡(⁠ノ⁠◕⁠ヮ⁠◕⁠)⁠ノ⁠*⁠.⁠✧
    【裏】カルエゴ先生総受!
    サリ✕カル♡シチ✕カル♡
    ジャ・リ✕カル♡です♪
    興味のある方どうぞお越し下さいませ♡
    #イラスト #カルエゴ #小説
    hisui
  • 紅茶(嫌い=好き?②)(嫌い=好き②)デミセバ(*´艸`*)♡
    ガチムチ勢増えてくれないかな〜♡
    #オーバーロード  #デミセバ 
    #デミウルゴス  #セバス  #小説
    hisui
  • 筋肉と仮面と姫抱っこ?オーバーロードより♡
    ガガーラン✕セバス(⁠つ⁠≧⁠▽⁠≦⁠)⁠つ♡
    #小説  #オーバーロード  #恋愛
    hisui
  • 筋肉と仮面と男と女オーバーロードより♡
    ガガーラン✕セバス~⁠(⁠つ⁠ˆ⁠Д⁠ˆ⁠)⁠つ⁠。⁠♡
    #小説  #オーバーロード  #恋愛
    hisui
  • 運命って信じるかい?オーバーロードより♡ブレイン✕セバス!
    マイナー♡マイナーカプ万歳!ლ⁠(⁠´⁠ ⁠❥⁠ ⁠`⁠ლ⁠)♡
    #オーバーロード  #小説 
    #ブレイン  #セバス  #ブレセバ
    hisui
  • ☆ライバル☆ベジ受今回はDB小説です(⁠*⁠´⁠ω⁠`⁠*⁠)
    ベジータ受 カカベジ←トラです♡
    #小説 #DB #ベジータ受
    hisui
  • ❀桜❀オリジナル小説(*´ω`*)♡おとぎ話風です♡

    #小説 #オリジナル #創作 #オリキャラ
    hisui
  • そんな…まさか…!シティーハンター
    冴羽獠×槇村香

    【お題】こんなセリフで一コマ
    1RTされたら
    「そんな…まさか…」
    と言っているかほるさんちの獠を妄想してみましょう。
    https://t.co/TSaPM7OSYa

    原作以上の関係。
    いろんな「そんな、まさか!」をお題を募って書きました。
    お題を提供してくださった皆様、ありがとうございました。
    反応くださった方々も、ありがとうございました。

    #シティーハンター #cityhunter #冴羽獠 #槇村香 #小説 #掌編 ##CH
    かほる(輝海)
  • 〜想い人〜セバツア♡セバス♡ツアレ♪⁠ヽ⁠(⁠・⁠ˇ⁠∀⁠ˇ⁠・⁠ゞ⁠)
    ノーマルカプです。
    #小説 #創作 #オーバーロード #セバス
    #恋愛
    hisui
  • colorsシティーハンター
    冴羽獠×槇村香

    閉鎖予定の自サイトからサルベージ。
    加筆修正しました。

    初公開:2008年12月21日

    原作終了後。
    時間軸は劇場版(現代)に合わせました。
    一線を越えているかどうかは、皆様のご想像におまかせします。 #シティーハンター #cityhunter #冴羽獠 #槇村香 #小説 #掌編 ##CH
    かほる(輝海)
  • シティーハンター
    冴羽獠✕槇村香

    ・閉鎖予定の自サイトからのサルベージ品。
     初公開日2009年5月9日。
     一部加筆、修正しました。
    ・原作以降の関係。

    #シティーハンター #cityhunter #冴羽獠 #槇村香 #小説 #掌編
    かほる(輝海)
  • マホロア詰め合わせ2012年2月10日~2014年3月03日頃の作品です。
    マホロアとカービィのはなし。
    「そらの旅人」→マホロアの過去捏造と本編のはなし。
    「交わす言葉を待つ」→「そらの旅人」の続き。いなくなったマホロアをカービィが探すはなし。
    「彼の生き方」→マホロアがマルクと再会する話。
    「真夜中の冒険」→ちょっぴり怖いお屋敷をカービィとマホロアが探検するはなし。
    #二次創作 #星のカービィ #マホロア #小説
    小雨
  • わすれなぐさ〈1〉黒金長編(完結済み/16万字くらい)。原作補完系の転生モノ。シリアス、ハピエン。大学生のラインハルトと大学教授のロイエンタール。恋愛下手な二人が、前世を気にしたり周囲から助言を受けたりしながら徐々に心を通わせてゆく、まったり恋愛小説。
    ご都合主義の“なんちゃって”な世界観ですが、もし「これはないわ~」というミスに気がついた方はぜひご連絡ください。

    *こちら↓をご確認の上、パスワードご請求ください^^
    「二次作品についてのお知らせ」
    https://galleria.emotionflow.com/77598/493287.html

    #銀河英雄伝説 #銀英伝 #logh #腐向け #黒金 #小説
    城山まゆ
  • やわらかな あお原作後。黒金。原作どおりの出来事があったのちの、ラインハルトの死後のヴァルハラでの人間模様。主な登場人物はラインハルトとロイエンタールとキルヒアイスです。

    *こちら↓をご確認の上、パスワードご請求ください^^
    「二次作品についてのお知らせ」
    https://galleria.emotionflow.com/77598/493287.html

    #銀河英雄伝説 #銀英伝 #logh #腐向け #黒金 #小説
    城山まゆ
  • これまでも、これからももどかしい距離感が好みです。
    チョコのお礼になっているのかどうか…(;^ω^)

    【お借りしています】
    おーつかゆーいちさん宅 キースさん
    ろめ子さん宅 Kuさん
    みなせさん宅 キョウさん(お名前だけですみません)

    #創作 #オリジナル #オリキャラ #小説 ##MH企画
    りん@ブチャ
  • 鼓動と視線 #刀剣乱腐 #つるいち #腐向け #小説 #現パロ




    一章 粟田口一期

     心地良い風の流れるテラス席を、人でごった返す昼間に取れたのは幸運だった。運ばれてきたコーヒーを口にして、薬研は笑う。正面には、長兄である一期の姿。彼はピシリと決めたスーツに身を包み、薬研と同じくコーヒーを飲んでいる。
     このカフェは、先日、乱と一緒に発見した。といっても、裏通りにあったり、駅から遠かったりする所謂「穴場」ではない。寧ろこの通りにはカフェがずらりと並び、好みに合わせて寄りどりみどりである。だからこそ薬研は、今までもっと駅に近い店に入っていて、ここは見逃していたのだ。もう一口コーヒーを飲んで、惜しい事をしていた、と思う。もっと色々な店に入ってみて、味を比べてみれば良かった。値段もそう変わらないなら、美味しい方が良いに決まっている。

    (まぁ、言っても仕方ない事だな。いち兄に紹介出来ただけ良しとするか)

     兄の横顔を見ていると、視線に気付いたのか琥珀色の瞳が薬研を見、にこりと笑う。その頬は、僅かに緩んでいた。美味しい物を飲み食いした時の表情である。薬研は、内心ぐっと拳を握った。兄がこういう表情をする瞬間が好きなのだ。今日の誘いは成功と言って良いだろう。

    「とても美味しい。流石、薬研と乱のお眼鏡に適っただけはあるね」

     カップを上品に置いて、一期はありがとうと礼を言う。今日の一期とのランチは、薬研が誘ったのだ。普段、一期は、会社のデスクで片手間に弁当を食べている。それが悪いとは言わないし、仕事に熱心な一期を好まない訳でもなかったが、偶にはこうして外に出て、気分転換をするのも大事だ。昨夜、学校の休みにかこつけて「昼間会おう」と電話した薬研に、一期は直ぐに嬉しそうに頷いてくれた。そういう所を見ると、兄は、本当に自分達を大切にしてくれていると実感する。例え、今は別々に暮らしていたとしても、――血が繋がっていなかったとしても。薬研は、兄を敬愛していた。
     一期が、再びカップを手にする。それを見ながら、薬研はちらりと時計を確認した。まだ、一期の休憩時間は残っている。ならば、他の兄弟の近況でも話すか。今更薬研が言わずとも、兄弟達は一期に毎日山程のメールを送っているのだから大体は知っているだろうが、その場に居合わせなければ分からない事もあるだろう。例えば、一昨日、厚が喧嘩をして帰ってきた事とか。昨日、五虎退と秋田が眠れなくなるからいけないと言われていたホラー映画を見て、案の定震えていた事とか。思い返してみれば、色々ある。
     さてさて、時間内に終われるか? 薬研は苦笑して、一期に視線を戻す。彼は――ぼんやりとした目で、何処かを見つめていた。

    「いち兄?」

     話しかけても、何も言わない。おかしい。身を乗り出して一期の前で手を振る。しかし、それでもこちらを見ない。眉を寄せて、一期の視線の先を探す。どうやら道路を挟んだ向かいのカフェを見ているらしいが、詳しい事までは分からなかった。
     ――嫌な予感がする。

    「いち兄? 何を見てるんだ?」

     もう一度、今度は少し強めに言う。すると、一期はハッとして薬研を見た。瞬きを繰り返し、ああ、と遅い返事をする。薬研は首を傾げて、向かいのカフェを見遣った。

    「どうしたんだ? あっちのメニューでも気になんのか?」
    「いや、その――美しい方だな、と思って」
    「は?」

     薬研が呆けると、一期はちらりと視線を戻す。向こうのカフェの、ある一点。そこを見て、視線を蕩かせた。恍惚と、見惚れているような表情。僅かに開いた唇から零れる感嘆の声。
     ああ、成程。薬研は理解した。光の関係で、薬研の位置からは店内の様子が見えない。けれど、兄が何を見ているのかは察した。

    (またいつもの病気が始まっちまったか)

     溜息が出た。
     一期は、優秀な男だ。品行方正、眉目秀麗、文武両道、そんな四字熟語がこの上なく似合う。いつでも礼儀正しいし、しっかりしている。自慢の兄だ。
     ただ、一つだけ。薬研としても困っている病気がある。
     それは、

    「で――あのカフェに、どんな綺麗な御仁がいるんだ?」

     美人が、大好きなのだ。どれくらい好きかと言われれば、この折り目正しく長兄としての表情を常に浮かべている兄が、相好を崩して不躾に眺めてしまうくらいには好きだ。兄が、兄としての顔を忘れてしまうくらいに没頭する。その熱い視線に、薬研は再び溜息を吐いた。

    「俺の位置からじゃ見えないんだ。教えてくれ、いち兄」
    「……冬の朝に積もった新雪のように美しい方だ」
    「この時期に雪か。涼しくて良いな」

     相槌を打ちながら、薬研は席の位置をずらして、何とか対象が見えないかと目を凝らす。別に、一期が誰かに見惚れる事は良い。一期の自由だ。ただそれが、一期を害する相手である可能性は否定出来ない。時に爛れた雰囲気が美しく見える者もいる。そういった人物に一期が見惚れて入れ込んでしまうのは、何としても阻止しなければならない。幸い、今まで一期はそういった危険人物に捕まった事はないのだけれど。万一という事がある。
     眉を寄せながら、薬研は椅子をずらすのを諦めて、兄の後ろに立った。普段ならば何かしら言ってくるであろう一期も、今回ばかりは何も言わない。その肩に顎を乗せて、目を細める。ここからなら、確実に見えるだろう。そして、藤色の目は、一人の人物を捉えた。
     白い。それが第一印象。第二の印象は、白い。第三も白い。
     兎に角、白い男だった。背を向けていて、顔は見えない。丁度、店を出ようとしているのか、財布を取り出して会計をしている。その財布すら白く見えて、何だありゃと薬研は呟く。確かに雰囲気からして美貌を予感させるが、同時に変人である可能性もひしひしと感じる。後ろ姿はどう考えてもホストだし、ホストではないにしろ、こんな真昼間にこんな場所で見るにはそぐわない白さだ。ちらりと覗く肌すら、男とは思えない程白い。そう呟けば、平素の一期ならば「お前も十分白いよ」と言っただろうが、生憎と白い男の虜で、無反応だった。

    (向かいの店で良かったな)

     薬研は内心で安堵の息を吐く。真面目な一期が、見惚れた相手に声をかけた事は一度もないが、この鉄をも溶かしそうな熱い視線でフラフラと寄ってきた者は両の手では足りない。どう考えても普通ではなさそうな白い男が、一期の視線に気付かないのは幸いである。
     さて、白い男が去ったら、改めて兄弟の話と洒落込むか。薬研は席に戻って、残りのコーヒーに口を付ける。視界の端で、白い男が店を出て来た。さぁ、そのまま立ち去ってくれ。そんな心の声に応えるように、男は歩き出す。
     こちらに向かって。

    「お?」

     薬研はコーヒーカップを置いて、じろりとそちらを見る。男は、左右を確認して車が途切れたのを見ると、大股でこちらに向かっていた。――いや、ただ単にこちら側に行きたい場所があるのかも知れない。そんな甘い考えは、直ぐに立ち消える。
     なにせ、白い男は、間違いなく一期をじっと見つめて歩いていたから。

    (おいおい、気付かれてたのかよ)

     薬研は頭を抱える。今更、兄を連れて店を出ようとしても手遅れだろう。ならば、腹を括るしかない。

    (頼むから、変な奴であってくれるなよ)

     息を吐くと同時、白い男が一期の前に到着した。

    「よう旦那。何か用か?」

     先手必勝。薬研が気軽に声をかけて手を上げると、男がこちらを見た。

    「いや? どうもご指名っぽい視線を感じたんでね」

     飄々と男は言う。その言葉に、やっぱりホストかと薬研は確信した。昼間からご苦労なこってと口の中で呟きながら、一期をちらりと見る。彼は言葉一つ発する事なく、男を見つめていた。その様子に、こりゃまた酷いなと思った。兄の美人好きはいつもの事だが、今回は殊更入れ込んでいるように見える。しかし、それも仕方ないか、と薬研はようやっと正面に見えた白い男の顔に視線を当てた。
     白い男は、美醜に頓着ない上に、同性である薬研の目から見ても美しかった。それこそ、一期でなくても見惚れるであろう程に。新雪のよう、と兄が評した通りの白銀の髪は細くさらりと流れ、肌は象牙のように輝いている。身に纏う白い服も、それだけならば陽光に吸い込まれて消えそうな儚さを感じさせるが、弱々しさは全くない。目だ、と薬研は思った。強く光を放つ金色の目が、はっきりと意思を持っている事を物語っているからだ。美しい、されど弱くもない、光を受けて堂々と輝く磨き抜かれた宝石のような人間。
     そんな美貌が、悪戯っぽく片目を瞑る。

    「取りあえず、座っても良いかい?」
    「場所代なんて言い出さないなら良いぜ」
    「おいおい、俺はホストじゃないぜ。ちょっとお茶目なサラリーマンだ」

     まぁよく間違われるけどな、と男は肩を竦める。隣の空いた席から椅子を拝借して、男は座った。長い脚を組む様が、とても絵になっている。
     その気後れの全くない様子に、薬研は少し興味が出た。

    「そんなに真っ白じゃ、ホストと間違われても仕方ないと思うぜ。会社でも言われないか?」
    「最初は確かに言われたな。成績さえ残せばどうとでもなったが」
    「へえ。旦那、優秀なのか」
    「自負はしているな」

     愛想良く話す姿は、見た目の硬質さとはかけ離れている。外見だけで判断するならば、もっと近寄り難い印象だ。しかし、受け答えは決して冷たくない。表情も、この短い間だけでくるくると変わっている。気さくな男だった。
     だが。薬研は用心深く見る。先程、一度だけ薬研を見た目は、それ以降ずっと一期を見つめていた。それこそ、一期が男を見つめるように、男は一期の事を穴が開く程に凝視している。興味を抱いているのは明白だった。
     さて、どうするか。薬研は考える。一言二言話した感じでは、嫌いなタイプではない。寧ろ、面白そうな御仁だと思う。自分一人だったなら、このまま話していても良かっただろう。しかし、最初から好感度の振り切れてしまった兄と話をさせてみるには、得体が知れない。時計をちらりと見る。
     そんな薬研の前で、男の金色の目がきゅっと細まった。

    「で、そろそろきみの方と話がしてみたいんだが」

     一期を見て、男は笑った。存外に男らしい笑みだ。正面で話しかけられて、一期はやっと我に返ったようにハッとする。今まで完全に夢心地だったのだろう、目をしばらく瞬かせてから、口を開いた。

    「申し訳ありません。ぼーっとしておりました」

     焦点の合った一期は、いつも通りの凛々しい声で答える。そこには、先程まで見惚れてぼんやりしていた名残は全くない。表情も、兄らしい顔に戻っている。

    「そんなに俺が好みだったかい?」
    「いや、申し訳ない、美しい方に弱いのです」

     からかい混じりの男の言葉に、恐縮したように一期は返す。兄の言葉に興が乗ったのか男は笑みを深め、何事か言おうとする。
     しかし、薬研はそれを阻止した。

    「いち兄。そろそろ帰らにゃ昼休み終わっちまうぜ?」

     言われて、一期は瞬きをして時計を確認した。後10分で昼休みは終了だ。ここから歩いて5分の場所に会社がある事を考えれば、もう戻らなければならないだろう。
     一期は頷いて、鞄とカップを乗せたトレイを手に取った。席を立ちながら、男に頭を下げる。

    「では、美しい方、私達はこれで」
    「待った待った、折角の縁だ、これを持ってってくれ」

     そのまま解散かと思いきや、男は紙を一期に手渡した。名刺のようだが、手書きでアドレスが書き込まれている。恐らく、私用のアドレスだろう。いつの間に用意したんだ。
     一期は目を落として、名前を読み上げる。

    「五条、鶴丸様……」

     一期が呟くと、男――鶴丸が頷く。いつでも良いから連絡してくれ、と片目を瞑ると、席を立った。颯爽と遠ざかる後ろ姿を見送る。やはり、ホストにしか見えない。
     いち兄、知らん奴にアドレス教えるのはよく考えるんだぜ、と一応釘をさしておくかと思った薬研は、あれ? という兄の驚いた声に言葉を引っ込めた。一期は目を丸くして名刺を見ている。

    「どうしたんだ?」
    「あの方、五条様。……私と同じ会社に勤めていらっしゃる」
    「へ?」
    「営業部のようだ」

     名刺を覗き込めば、確かに一期が勤めている会社の名前が書かれていた。開発部の一期とは部署が違うが、つまり同僚か。思わぬ偶然にあんぐりと口を開けると、一期が面白そうに笑い声を上げた。

    「いや、あんなに美しい方が同じ会社にいたなんて、知らなかったな」
    「まぁ、あのバカでかい会社じゃ、同僚の顔知らなくてもおかしくはないが……」

     それにしたって、なぁ。顔を見合わせる。そのまま暫し一期は可笑しそうに笑っていたが、ハッとして時計に目をやった。

    「いけない、遅刻してしまう。じゃあ薬研、気を付けて帰るんだよ」
    「いち兄こそ、無茶すんなよ」
    「分かっているよ。じゃあ」

     一期は慌てて、しかしきっちりとトレイを所定の位置に返してから走り出す。それを見送って、薬研は帰り支度を始めた。頭の中は、兄と、鶴丸の事が蘇ってくる。同僚ならば、身元も保証されたという事だが。果たして。

      *

     プロジェクトの進捗は順調だと言って良いだろう。会社のデスクでパソコンに向かい、少々乾いた目を持て余しながら、一期は溜息を吐いた。同僚の進行具合を確認すると、一人出遅れている者がいるものの、概ね予定通りだ。その出遅れている者のカバーも、現状のまま進めば、バッファとして残した分で補える程度で済んでいる。どうか、このままつつがなく事が進みますように。プロジェクトの一員として、願わずにはいられない。
     目薬をさして、時計を確認する。12時3分。昼休みだ。今日は弁当を作ってきていないので、買いに行くか、食べに行くかしなければならない。元々は昨日の内に同僚に誘われて一緒に昼食をとる予定だったのだが、会社に着いたと同時に先方から「熱が出たので休みます」と言われ、用意する事が出来なかった。
     さて、どちらにしろ外に行かなければ。パソコンにロックをかけて、一つ伸びをした。肩周りが強張っていたのか、バキバキと音がする。偶には動かさないと、と誰にともなく呟いたその瞬間、頬にひやりとした物が当たった。

    「ひっ?!」

     思わず声を上げて、びくりと体を震わせる。慌てて横を見ると、真っ白な男が何とも楽しげに目を細めていた。

    「ご、五条様?」
    「驚いたか?」

     目を白黒させる一期に、鶴丸は喉の奥で笑う。その手には、ペットボトル。先程の冷たさは、どうやらそれを一期の頬に当てた感触だったらしい。取りあえず原因が分かってほっと息を吐く。次いで、いつも通りに笑みを浮かべた。これは、一期の癖のようなものだった。誰に対しても、次の瞬間には笑顔で対応する。そのせいか笑った顔を褒められる事も多い。

    「五条様。当部署に御用ですかな?」

     椅子ごと向き直って尋ねると、鶴丸はきょとんとした顔をした。その顔に、首を傾げる。恐らく自分もきょとんとした顔をしただろう。目を瞬かせて鶴丸を見れば、彼は噴き出しそうな顔でこちらを見た。

    「いや、部署に用事はない。きみに会いに来たんだ」
    「私に、ですか?」
    「昼でも一緒にどうかと思ってな」

     そうして、鶴丸はにやりと笑った。その顔は、大好きな玩具を前にする童子のように無邪気だが、一方で子供と称するには奥深くに獰猛さのようなものも感じられる。その相反する様に、一期は返事も忘れて口内だけで「美しい」と呟いた。最初に見た時から、何て美しい方なんだと思った。しかし、それは外見だけ、見たままを言った感想だった。しかし、今美しいと思ったこれは違う。その表情が、迸るような生命力が、美しい。造形だけでなく、乗せた色まで美しいとは。見惚れるなという方が無理だろう。
     応答のない一期に、鶴丸は首を傾げる。

    「もしかして、弁当でも持ってきてたか?」
    「……あ、いえ、今日は作ってこなかったので、ありません」
    「つまり、普段は弁当か。覚えておくぜ」

     一期の昼食事情を覚えてどうするのか一瞬気になったものの、肩に手を置かれて立つように促されては口を噤むしかない。まだ返事はしていないが、どうやら鶴丸の中では一緒に昼食に出る事が確定しているようだ。それに否やはない。どの道出る予定だったし、何より鶴丸程美しい人間と一緒に食事が出来る機会など、滅多にあるものではない。食事中ずっと眼福に預かれるのかと思うと、幸せで胸がいっぱいになった。
     必要最低限の荷物だけ持って、先導する鶴丸に続く。

    「何処か場所は決まっているのですか?」
    「初めて会った所の隣のイタリアンにしようかと思っているんだが。嫌いだったりするかい?」
    「いいえ、好き嫌いはございません」
    「良い事だ」

     エレベーターを待ちながら、ちらりと隣の鶴丸を見る。硝子窓から入る日差しを受けて、白い髪が、肌が、光っている。ああ、なんて素晴らしい景色だろう。一期は鶴丸には見えない位置で頷き、僥倖を噛み締めた。

    「いや、五条様程の美しい方とお食事出来るとは、光栄ですな」

     おもむろに一期は言った。つい口に出た、という方が正しかっただろうが、兎に角気付けば言ってしまっていた。鶴丸が、目を瞬かせる。しまった、何の脈絡もなかったと反省したが、口にした内容は嘘を言っていない。そう思っていたからだろう、別段照れる事もなく鶴丸を見ていると、彼の頬が俄かに赤く染まったのを見て目を点にした。

    「粟田口は俺の顔を見る度にそれだな。言われ慣れてない訳じゃないが、流石に恥ずかしくなってきた」

     鶴丸は苦笑して顔を仰ぐ。見る度、という程会った覚えはないが、あの日交換したアドレスから何気なく送られてきた鶴丸の自撮り写真に言葉を尽くした事が原因だろうか。一期は美しいものや綺麗だと感じた事に対する賞賛の意を示すのに躊躇いがない。なさ過ぎて兄弟からは「人たらし」と不名誉なあだ名を付けられていたが、本心なのだから仕方がないというのが一期の言だ。

    「そんなに美人が好きかい?」
    「好きです」
    「即答か」

     躊躇なく答えると、鶴丸は声を上げて笑った。

    「そしたら、俺の従兄弟なんぞ見た日には卒倒するかもな」
    「そんなにお美しいのですか?」
    「魂が食われるような恐ろしい美丈夫だ」
    「それはそれは」

     鶴丸をして魂が食われるとは、果たしてどれ程の美しさなのか。想像しようと頭を悩ませたものの、思い浮かばない。ただ、ニュアンスからして妖のようなタイプの美しさなのだろうという事だけは理解した。近寄り難い、近付いてはいけない雰囲気を醸し出す美人。触れれば最後、二度と俗世に戻れぬような方? ぞくぞくと背筋が震える。
     そんな一期に、鶴丸は目を細めた。

    「会いたいか?」
    「是非」
    「残念だが会わせないぜ」

     即答に即答を返されて、一期は物思いから急に覚めたように鶴丸を見た。彼は笑っていたが、金の目だけはきゅっと狭まり、射抜くようにこちらを見ている。獲物に狙いを定めた狩人の目。先程、彼の従兄弟を想像した時とは違う感触で背筋に震えが走り、初めて味わうその感覚に困惑が浮かぶ。首筋の裏がぞっとするのに、顔に熱が上がってくる。ひやりとするのに、熱い。訳の分からない感触に口を閉ざす一期は、高い音を立てて到着を知らせたエレベーターに鶴丸の視線が吸い込まれたのを見てほっとする。
     エレベーターに入ると、1階のパネルを押した鶴丸が、こちらを見ないままに呟いた。

    「あれを見たら、きみは俺を美しいと言ってくれなくなるかも知れない」

     その言葉に顔を上げて鶴丸を見るが、彼は現在の階を示すパネルに視線を当てたまま。どういう気持ちでそれを言ったのかは、計り知れない。一期は暫し黙って、鶴丸の横顔を眺める。じっと穴が開く程に。そうして一つの結論を出して、口にした。

    「どんなに美しい方がいらっしゃったとしても、五条様の美が損なわれる事などあり得ないと思うのですが」

     本心から、そう言った。傾国の美丈夫と互角に渡り合える、という意味ではない。鶴丸の美しさが外面だけに起因する訳ではなく、その強い内面から滲み出ているものだと感じたからだ。外見は相対的に見られるかも知れないが、内面に正解などない。なれば、内側から溢れる鶴丸の美しさを損なう事など出来ようか。あり得ない。
     鶴丸は答えなかった。ただ、ばっと口元に手を当てるとそのままそっぽを向く。一期は不思議に思ってそれを眺めたが、見え隠れする耳が真っ赤に染まっているのを見て、彼が照れている事を知った。
     先程も思ったが、この程度の美辞麗句など慣れていそうな鶴丸なのだが。不思議である。

    「きみ……人たらしの才能があるな……」

     ぼそりと言われ、面食らう。とうとう、弟でない人間にまで言われてしまった。

    「本心です」
    「だからだ」

     はぁーっと重い物を吐き出すような溜息を吐く鶴丸に、一期は眉を寄せた。

      *

    「今日の弁当は一段と華やかだな」

     からりと晴れた空の下、噴水前のベンチで弁当を広げると、隣に座った鶴丸が一期の弁当を覗き込む。

    「昨日、弟達が家に遊びに来たので、その時の残りです」
    「成程」

     二段になっていた弁当を開けて中を見せると、鶴丸は感心したように頷いた。彼は今日もコンビニ弁当で、話を聞く限り、自炊は殆どしないらしい。外見だけで判断すると、確かに鶴丸は自分から料理をするイメージがない。誰か、使用人のような人物が、彼のためだけにフルコースを作る印象だ。そう思う一方で、しかし手の込んだ創作料理などは、作っていたら様になるのではないかとも思う。その事を言ったら「じゃあ今度教えてくれ」と返されたので、その内プライベートで会う事になるのかも知れない。
     先日食事に誘われて以来、一期と鶴丸は、時間が合えば共に昼食をとるようになっていた。言い出したのがどちらだったのかは忘れたが、息抜きに丁度良いし、鶴丸との会話は楽しいので深くは考えないようにしている。外見から、派手で少々変人気質に見える鶴丸だが、話してみると意外と――と言うのも失礼だが――真面目で常識的な性格をしていて、一期が眉を寄せたくなるような事は一度もない。時折、こちらを驚かそうとして後ろから忍び寄ったり、急に目の前に現れたりするが、弟達の様子を思えば可愛いものだ。目くじらを立てる必要もない。一つだけ気になるとすれば、他愛ない悪戯に一期が笑う度に、鶴丸は何やら形容し難い顔をする。悪い顔ではない。良い顔だと思う。ただそれがどういう感情から来るのか一期には判断出来ず、結局「よく分からない顔」という認識になるのだった。

    「しかし、きみの弟の数には驚くよなぁ」

     唐揚げを口に放り込んでいると、不意に鶴丸がそんな事を言い出した。野菜ジュースのストローに口を付けながら、羨んでいるような、途方もないような顔をしている。それを見返して、くすりと一期は笑った。

    「11人も弟を持っている人間は稀でしょうな」
    「ご両親は頑張ったな」
    「え」

     鶴丸の何気ない言葉に、一期は固まる。――言わなかっただろうか。思い返してみて、そう言えば弟の事しか話していなかった事に思い至る。一期は口を開いて、しかし直ぐに呑み込んだ。……話しても良いだろうか。いや、一期本人は後ろめたい事など何もない。そして、鶴丸はその程度の事で悪感情を持つような人物にも思えない。
     葛藤は一瞬だった。

    「私の両親は、私が4つの時に他界しました。弟達は皆、私と同じ施設で育った血の繋がらない子供達ですよ」
    「……え」

     鶴丸の目が見開かれ、こちらを真っ直ぐに見つめる。それに目を逸らす事なく見つめ返した。鶴丸は、施設と聞いてどんなものを想像するだろうか。しかし、少なくとも一期本人は、施設出身である事を、そして血は繋がらなくとも愛する家族がいる事を恥じた事はない。だから、鶴丸が何を思っていたとしても、目を伏せる必要はない。視線を外す事なく、鶴丸の金の目を見る。
     驚きに彩られていた目は、直ぐにふわりと溶けた。

    「粟田口は、弟達が好きなんだな」
    「はい。私の宝です」

     鶴丸の声は優しさに満ちていた。胸が温まる感覚に笑みを深める。やはり、この程度の事で態度を変えるような人物ではなかった。分かっていたつもりだが、実際にこうして笑って貰えると、嬉しくなる。笑う一期につられたのか、鶴丸も笑い声を上げた。楽しげな音が、喧噪に、噴水に吸い込まれていく。
     ひとしきり笑って、一期は時計を見た。

    「おっと、笑っている場合ではありませんでしたな。早く食べなければ」
    「そうだな。なぁ」
    「はい」
    「今日、飲みに行かないか?」

     くぃっと呷る真似をする。今日、今日か、と一期はざっと頭の中の予定表を洗い出した。プロジェクトは中盤に差し掛かった所で、時間はまだある。まだあるが、今日の内に残業で仕上げなければならない仕事が少々あった。

    「1時間程度、残業があるのです。その後でしたら」
    「いいぜ。こっちもそのくらいで終えられる仕事があるからな」

     鶴丸は頷いて、じゃあ終わったらホールで会おうと言った。それに頷いて、一期は微笑む。

    「楽しみですな。お酒は強い方ですので」
    「お、そりゃ良い事を聞いた。こちらこそ楽しみにしてるぜ」

     挑戦的に言う一期に、鶴丸が強気な笑みで答える。この様子からいって、多分彼も酒には強いのだろう。自分の周りには何故か下戸ばかりが集まっていたので、これは面白い。
     残りの弁当を食べながら、一期は心を躍らせた。

     残業が終わると同時に席を立った一期は鶴丸にメールを入れて、会社のホールに立つ。我ながら素早いものだと呆れるが、仕方がない。楽しみなものは楽しみなのだ。それは、晩酌を共にする予定の鶴丸が美しいというのは勿論の事だったが、最近ではそれだけではない気がしている。例え鶴丸が美しくなかったとしても、一期は彼と仲良くしていたいと思った。元々の出会い自体が美しい鶴丸に見惚れた事を考えると、美しくない鶴丸とは接点がなかったが、それでも、もしも出会えたならば、自分はこうして一緒に酒を飲むのを楽しみにしたと思う。そんな自分の心境を不思議に思いながら、きっと鶴丸の中身が良い男だからだろうと簡単に結論付けた。そういう意味では鶴丸は中身も美しい男である。そんな彼と酒を酌み交わせる仲までなれたのは嬉しい事だ。
     メールの返事はまだ来ない。仕事が長引いているのだろうか。待つのは構わないので、鶴丸が約束の時間に間に合わない事に焦らなければ良いと思う。もう少し待っても来ないようなら、ごゆっくりどうぞと一言メールを入れようか。忙しい状況で見られるかどうかは微妙な所だが、ないよりは良い筈だ。
     一期はスマホから顔を上げて、帰路に着く同僚達の流れを見送る。早足で帰る者もあり、ゆったりと噛み締めるように歩く者もあり。スマホに視線を落として小走りに帰る者は、果たして良い事があったのか、悪い事に焦っているのか。そんな詮無い事を考えていると、スマホが振動した。鶴丸からのメールだろうかと思ったが、振動は止まらない。電話だ。画面を確認すると、弟の厚からである。

    「もしもし? 厚、どうしたんだい?」

    こんな時間に珍しいなと思いながら声をかけると、機械越しの厚の声は酷く強張っていた。

    『いちにい! 五虎退が帰って来ないんだっ!』

     その言葉に、さっと青ざめた。帰って来ない? 五虎退が? どういう事だ――混乱しそうになる頭を叱咤して、まずは状況を確認しようとスマホを握り締める。

    「厚、落ち着いて、状況を教えて欲しい。五虎退がどうしたんだ?」
    『一回、学校から帰って来たんだ。で、荷物置いて、外出て行って、それきり帰って来ない。門限過ぎてるのに! 連絡もないんだ!』
    「――分かった」

     つまり、学校から帰って来て遊びに行ったきり、音沙汰がないという事か。気の弱い、けれど優しい弟の顔を思い浮かべて、唇を噛む。直ぐに探しに行かなければ。

    「厚、お前は家にいなさい。絶対に外に出てはいけないよ」
    『……分かってる。先生にもそう言われた』
    「良い子だ」

     先生――施設の職員も、今頃は五虎退を探し回っているに違いない。電話して、どの辺りを探してくれているのか確認する必要がある。

    『いちにい。……五虎退の事、宜しくな』
    「分かっているよ、厚。大丈夫だ、絶対に連れて帰るから」
    『うん……』

     厚に電話越しに頷いて、通話を切る。そして走り出そうとした所で、丁度エレベーターから降りてきた鶴丸に出くわした。

    「粟田口? どうした?」
    「五条様……」

     今日は一緒に飲みに行けなくなりました。申し訳ありません。そう言おうとして、一期は口を噤む。
     これから自分は、何処に向かったのかも分からない五虎退を探しに行かなければならない。携帯も持っていない子供を、この広い街の中で。ならば――人手は、多い方が良い。鶴丸に、一緒に探して欲しいと言えば、恐らく受け入れてくれるだろう。でも。

    (これは、私達の問題だ)

     鶴丸は部外者だ。巻き込む訳にはいかない。今までどんな辛い事があっても、自分達兄弟だけで身を寄せ合って解決してきた。他人は、怖いから。自分達と違うというだけで、差別する生き物だから。鶴丸はそんな人物ではないと、昼間分かった。けれど、それでも彼はやはり自分達とは何の繋がりもない人だ。自分達の事は、自分達で。そう決めていたではないか。それだけが、自分達の持っている誇りの全てで。ちっぽけで、傍から見たらきっと意固地な、けれど大事な大事な矜持。だから。
     ――でも――。

    (五虎退の安全と、それは、比べるべくもない事ではないだろうか)

     今、もしかしたら何かに巻き込まれて泣いているかも知れない弟。その安全が、一番ではないだろうか。
     そう、下手なプライドなんかよりも、ずっと。

    「――五条様、お願いがございます」
    「どうした」

     頭を下げる一期に、驚いた声で鶴丸は返答する。

    「弟が、弟の一人が、未だに家に帰って来ていないようなのです。……一緒に探して頂けませんか」

     我ながら、声が強張っていた。そんな一期の肩に、鶴丸は手を置く。そして、引き締まった声で返答をくれた。

    「勿論、手伝うさ。今は一分一秒が惜しい。歩きながら話そう」

     背中を押されて、一期の視界の端がじわりと滲む。しかし、そんな事をしている暇はない。はい、と頷いて、大股に歩き出す。その後ろに、鶴丸が続いた。

      *

    「五虎退! 聞こえたら返事をしてくれ!」

     必死になって走り回りながら、一期は声を張り上げる。自分でも、どの道をどう通ってきたのか分からない。ただ、あの色素の薄い可愛い弟の姿だけを求める。心配で萎えそうになる足を、何度も叱咤した。
     一度施設に行った一期と鶴丸は、職員と連携して、五虎退を探す事にした。職員は駅の方面へ、一期は公園の方へ、そして鶴丸は住宅街の方へ向かった。
     写真で五虎退の姿を確認した鶴丸は、「大丈夫だ、きっと見つかる」と一期と弟達を励ましてから、足早に去って行った。それを見送る事なく走り出して、一期は何度も弟の名前を呼ぶ。その間中、胸に去来する嫌なイメージを何度も払拭しなければならなかった。もし、彼が恐ろしい事に巻き込まれていたら? 人攫い、暴力、イジメ。そんなものに晒されていたとしたら? 今も泣きながら助けを求めていたら? そして、もし――間に合わなかったら? ぞっとする。そう、間に合わなかったら。目の前に、真っ赤な炎が蘇った。
     それは、一期が4つの時の記憶。他の事は何一つ覚えていない。ただ赤い炎が部屋中を舐めて、一期を、父を、母を、焼いた。奇跡的に助かったのは一期だけ。父と母は、治療が間に合わなかった。まだ右も左も分からない一期は、両親が死んだという事さえ分からなかった。覚えていたのはこの炎と、後は――両親が、美しかったという事だけ。写真一つ残らなかった一期には確認しようがなかったが、木漏れ日の中、二人がとても美しく笑っている事だけは知っていた。そして、こんな時だというのに唐突に理解する。美しい人が好きな理由。唇を噛み締めた。
     次の記憶は、もう施設の中だ。気付けば一期は施設の中で、幾人かの弟と一緒に暮らしていた。最初は2人だった弟は、4人、5人とどんどん増えていき、気付けば11人となっていた。自分も含めて、12人。全員男。身を寄せ合って生きた。一期は施設の出身である自分を恥じた事はない。けれど、周囲もそうだとは限らなかった。両親がいない、血の繋がらない兄弟がいる、それらは人々のからかいの格好の的だった。血の繋がった保護者がいない事で、謂れのない罪を押し付けられる事も、疑いの眼差しに晒される事もあった。それでも、12人皆で手を繋ぎ合い、生きてきたのだ。

     大切な弟。大切な、何よりも大切な家族。炎に両親を奪われた自分にとって、何よりも大切な宝。

    「五虎退――!」

     喉が枯れても、足が震えても、一期は止まる事はなかった。
     そんな彼のスマホが、急に振動する。ハッとして画面を見れば、鶴丸からの連絡だった。

    「もしもし」
    『いたぞ! 見つけた!』

     歓喜の声に、一瞬理解が追いつかなかった。見つかった。その言葉だけが頭を支配する。

    『俺が向かった方に神社があっただろう? そこだ』

     鶴丸の声が鼓膜を通り過ぎていく。見つかった。五虎退が見つかった。
     一期はスマホを握り締めて、尋ねた。

    「怪我は? 何かに巻き込まれたとか――」
    『大丈夫だ。怪我もないし、犯罪に巻き込まれた形跡もない。――今、代わろう。ほら、きみのお兄様からだ』
    『い、いち兄……?』

     スマホの向こう側から、弟の声がする。気の弱い、おどおどとした、いつも通りの五虎退の声。可愛い弟の声。一期は膝から崩れ落ちた。

    『ごめんなさい。猫さんを追いかけていたら、いつの間にかこんな所に来て、帰り道分からなくなっちゃって、ごめん、なさい』

     ひっく、ひっくとしゃくり上げながら五虎退は謝る。言わなければいけない事、言いたい事は沢山ある。しかし、一期が今一番言いたいのはこれだけだった。

    「無事で良かった、五虎退」
    『――はい……!』

     涙が滲んで、一期はそっと目尻を押さえる。同時に、五虎退を見つけてくれた鶴丸に、感謝してもし切れない程の思いが去来した。

    「五虎退。五条様に代わってもらっても良いかな?」
    『はい』
    『――どうする? きみがこちらに来るかい? それとも、施設の方に送ろうか?』
    「そうですね、施設で落ち合いましょう。――五条様」
    『どうした?』
    「本当に――ありがとうございました」

     胸を押さえて、一期は電話越しに頭を下げた。暫し、返事はない。照れているのだろうか、それとも何か他の事を考えているのだろうか。知る由もない。ただ、鶴丸への感謝の念だけが、一期を満たしていた。

    『粟田口』
    「はい」
    『きみは、あの時少し迷っていただろう?』
    「あの時?」

     首を傾げる一期に、鶴丸は「五虎退を探してくれと言った時だ」と説明した。

    『俺に助けを求めるかどうか、迷っていた』
    「――お恥ずかしながら。身内の事でしたので」
    『しかし、最終的には俺を頼った。何故だ?』

     鶴丸の声は優しい。既にこちらの答えを知っているかのように。
     一期はゆっくり答えた。

    「弟が、大切だったからです」

     そして貴方の事を、信頼していたからです。一期の答えに満足そうな吐息を零して、鶴丸は言った。今まで以上に柔らかい声で、大切なものを一つ渡すような口調で。

    『やっぱり俺は、そんなきみが好きだ』

     電話の向こうで、鶴丸が微笑んだ気がした。

      *

     時計を確認する。やはり、10分過ぎていた。私服に身を包んでベンチに座っていた一期は、珍しい事もあるもんだと独り言ちる。今日は、鶴丸と一緒に映画を見に行く予定だった。待ち合わせ時間は10時。しかし、現在時刻は10時10分。恐らく何かあったのだろうが、仕事の最中でもないのに連絡が全くないのは不可思議だ。鶴丸はこういう事には非常に律儀で、遅れると分かった時点で直ぐにメールをしてくる男なのだが。
     まさか、連絡も出来ないような大事件に巻き込まれていないだろうな。嫌な考えに首を一つ振って、スマホに目を落とす。考えても仕方がない。待つだけだ。
     と、

    「――った、――が――ろ」

     遠くから、声がする。喧噪の中に紛れそうだったが、それは間違いなく鶴丸の声だ。良かった、トラブルに巻き込まれたんじゃなくて。ほっとしながらそちらを見ると、鶴丸にはどうやら連れがいるようだった。はて、誰か連れてくると言っていただろうか。首を傾げながら、何気なく鶴丸の隣の男を見遣る。そして、その顔がこちらを向いた瞬間、ひゅっと息を呑んだ。
     美しい。信じられないくらい、美しい。それ以外の言葉など、言える筈もない程、美しい男がそこにいた。アシンメトリの濃紺の髪、切れ長の瞳、滑らかな肌。それらを目に入れるも、それを形容する言葉が見つからない。この世のものとは思えぬ、どんな言葉を尽くしても表現し切れない美しさ。彫刻ですら、彼の前では恥じ入るだろう。魂ごと食われるような、人ならざる美だった。
     一期は完全に呑まれて、近付いてくる美丈夫を見つめる。すると、こちらに気付いた男が、薄く微笑む。それだけで、心臓を鷲掴みにされた気分だった。瞬きすら忘れた一期に、男の隣の鶴丸が溜息を吐く。それに一瞥を返した後、男は一期の前に立った。

    「お前が粟田口か」

    響き渡るような声に問われ、完全に脳がショートした状態で頷く。

    「はい、粟田口一期と申します」

     こちらの様子に何を思ったのか、男は笑みを深めた。隣の鶴丸は眉を寄せたままであるが、視界には入らない。ただ、ただ、息が詰まったように細くなって、縫い付けられたように男を見つめる。

    「そうかそうか。俺は三条三日月と言う。宜しくな」

     三日月は勝手に一期の手を握ると、ぶんぶんと上下に振った。見た目の割に気さくな態度だが、美貌がそれらを全て凌駕している。親しくしようという気配は感じられるのだが、如何せん美しさに呑まれて、察せられない。結果、口を閉ざして、されるがままになる。そんな一期をじっと見て、三日月は呟いた。

    「成程。鶴丸も面食いだったのか」
    「はい?」
    「いや、こっちの話だ。では邪魔者は退散する事にしよう」

     三日月は楽しげに目を細めた後、はっはっはとたおやかな笑い声を上げて去って行く。その後ろ姿を見送って、一期は呆然としていた。――夢か、幻か。いや、妖か? 道行く人がそちらを見ては、ぎょっとしたように立ち止まって行く。恐らく先程の自分も、あんな顔をしていたのだろう。未だ回らない頭で考えていると、面白くなさそうに顔を顰めた鶴丸が、説明してくれた。

    「前に話しただろう? 従兄弟だ」
    「あの方が。確かにこれは、……素晴らしい美丈夫でしたな」

     鶴丸の眉間の皴が深くなる。

    「俺の美しさなど霞むだろ」

     その鶴丸の声に、一期は途端に現実に引き戻された。焦点が、ここに来て初めて鶴丸に合う。鶴丸は拗ねたように唇を尖らせ、金色の目は皮肉げに染まっていた。美しいと言うにも現実離れした従兄弟。それと彼は、常に比べ続けられてきたのだろうか。だから、霞んでしまう自分の美貌を皮肉った。……いや、違う。彼の不機嫌は、そうではない。去って行く三日月とその周囲など、鶴丸は見向きもしていない。
     前に彼は何と言った? そう、もし従兄弟を一期が見たら? ――成程、今までの自分だったら或いはそうだったかも知れない。
     一期は神妙な顔をして、鶴丸を見た。

    「確かに三条様は大変お美しい方でしたが」
    「ああ」
    「五条様を見る時のような胸の動悸は致しません」
    「ああ。……えっ?」

     一期は言うだけ言うと、席を立つ。

    「では、参りましょう」
    「待った! 待ってくれ、ど、どういう事か、詳しく述べてくれ!」

     さっさと歩き出すと、鶴丸が追い縋って肩を揺らしてきた。それに内心大笑いしながら「何の事でしょう?」と言う。
     まだ、この感情に確証が持てない。
     
     だから、今はこのくらいで。




    二章 五条鶴丸

     はて、地上にも空というのは広がるものなのだろうか。鶴丸が不意に思ったのはそんな事だった。昼食のパスタを腹に収め、口を拭い、さて食休みと同僚の光忠と話していた正にその時である。視線を外に向けた鶴丸は、つい口にしていた。
     
    「地上に空がある」
    「うん? 何だい急に」

     光忠が、不思議そうに目を瞬かせる。それに一瞥をくれて、鶴丸は視線を戻す。その先にあったのは、空だった。柔らかで優しく、全てをそっと拭い去ってくれるような甘やかで広い晴天の色。それが、向かいのカフェに存在している。正確には――そんな春先の空の色を髪に宿した青年が一人。こちらを見ていた。
     おやおや。俺に見惚れてるのかい。アイスコーヒーをかき混ぜながら、鶴丸は口の端を歪める。己の類い稀な美貌は理解していた。とある人物の存在によりそれが最上級ではない事も同時に理解していたが、最も位が上でないからと言って、価値が下がる事などない。寧ろ、一歩手前に存在する鶴丸の美貌は、それはそれは素晴らしいもので。こうして熱い視線で眺められる事など、日常茶飯事である。だから今回も、また自分にファンが一人増えたのだとあっさり理解した。
     さて、どんな奴かな。鶴丸は、光の加減で見えない空色の男の顔を拝むために、椅子の位置を変える。眺められる事には慣れているが、こうも遠くから目敏く見つけてくるとなると、また趣が違う。余程の美人好きか、人間観察が趣味の奴か。あんなに綺麗な空色の髪を持っているんだ、きっと優しそうな顔をした男だろう。勝手に推測をして、鶴丸はようやくその顔を見つけた。
     ぽかんとした。おいおいと思った。きみ――他人に見惚れる必要あるかい? 
     空色の髪の男は、それはそれは綺麗な男だった。優しそうという予想を裏切る事なく、柔らかくて爽やかで、ふわりと溶けるような、美貌。そう、美貌だ。間違いなく美しい。儚く繊細な顔立ちの鶴丸とは方向性が違うが、十人に聞けば十人が綺麗だと述べるレベルだ。可憐な桜、或いは高貴な白百合。花の持つ控え目な存在感を例えるのがよく似合う。何処も彼処も整っていて、嫌味がなく、すんなりとした品がある。上品という単語を合わせるのに、これ程しっくりくる男も早々いないだろう。文句の付けようのない美男子だった。
     鶴丸は、暫しぽかんとする。顔に見惚れたのもあるし、そんな男がこちらに見惚れている事実にも驚いていた。同時に、むくむくと自分の中で、興味が湧いてくるのも感じる。心の中がポカポカと温まり、ぎゅうっと瞳に熱がこもる。瞳孔が細まって、鶴丸は唇を吊り上げた。久しぶりに、面白そうな奴を見つけた。

    「光忠、悪いが先に帰ってくれ」
    「まさか、ナンパしに行く気かい? いつもされる側のきみが」

     鶴丸の視線の先に気付いていたらしい、光忠が可笑しそうに笑う。言外に上手く出来るのかと聞いてきていたが、そんなもの、なるようになれだ。新鮮な驚きの前で、足踏みする自分ではない。にっと笑うと、対する伊達男は胸ポケットを叩く。
     
    「名刺に先に私用アドレスを書いておきなよ。それを渡せば接点が出来るし、きみが何処の誰か分かって信用されやすくなる」
    「成程」

     流石、光忠。抜かりがない。鶴丸は名刺を取り出し、さらさらとメールアドレスを書き込む。アドバイスのお礼に今日は奢ろうと伝票を取り上げ、レジに向かった。心は既に空色の男の方、さっさと会計を終えて外に出る。
     何も遮るものがなくなると、一層彼の視線を感じた。ぼぅっとこちらを見つめている。健康的な肌が薄紅に染まり、形の良い唇からは溜息すら聞こえそうだ。そんな蕩けそうな顔をして、ほら、隣のご婦人方が熱心にきみを見つめているじゃないか。気付く素振りもない様子に喉の奥で笑いつつ、道路を渡る。向かいの店のテラス席。そこに、空色の髪の男は、誰かと共に座っていた。
     近付くにつれ、その瞳の色や肌の細部まではっきり見えてくる。見れば見る程綺麗だ。高鳴っていく鼓動と共に足を運び、遂に男の目の前まで辿り着く。さて、どう声をかけようか。一瞬の逡巡に、違う声がするりと割り込んできた。
     
    「よう旦那。何か用か?」
     
     低い声。しかし、空色の男の声ではない。彼は未だに呆けている。では誰かと言えば、彼の連れだ。視線を向けると、黒髪に紫の瞳、鶴丸に匹敵する程白い肌の美少年が、片手を上げていた。恐らく、未だ夢うつつの同行人を見かねて話しかけて来たのだろう。鶴丸はひょいと手を広げて言う。
     
    「いや? どうもご指名っぽい視線を感じたんでね」

     視線を戻す。空色の男は、まだ何も言わない。ただ、琥珀色の瞳を鶴丸に向ける。話しかければ答えてくれるだろうか。
     
    「取りあえず、座っても良いかい?」
    「場所代なんて言い出さないなら良いぜ」
     
     答えたのは、やはり黒髪の少年の方だ。その内容に苦笑する。恐らく、上から下まで白で取り揃えたスーツのせいで、ホストだと思われているのだろう。自分でも奇抜だという事は理解している。誤解を招き易い事も。それでも白は鶴丸のトレードマークであり、変えるつもりもない。適当に会話をしながら、鶴丸は他の席から椅子を拝借し、空色の男の前に座った。黒髪の少年と会話をしつつ、遠慮なく眺められているので、こちらも遠慮なく見つめ返す。美人は三日で飽きるとはよく言うが、多分この男の顔は見飽きる事がないだろうと鶴丸は確信した。
     しかし、声も聞いてみたい。
     
    「で、そろそろきみの方と話がしてみたいんだが」

     笑いかけると、ようやっと、目の前で空色の男がハッとした。夢から醒めたような表情で何度も瞬きをし、首を傾げる。本当に、完全に見惚れていたらしい。しかし、意識を取り戻した彼は、凛とした表情でこちらを見た。多分、これが普段の顔なのだろう。その髪と同じ、澄み渡った空のような爽やかな表情、優しい口元、柔らかな目元。それを以て、真面目につるまるを見つめてきた。
     
    「申し訳ありません。ぼーっとしておりました」
    「そんなに俺が好みだったかい?」

     表情の落差が面白く、ついからかうように指摘する。
     
    「いや、申し訳ない、美しい方に弱いのです」

     対する彼は、照れる事なくそんな風に謝る。おや、と鶴丸の中で、僅かな熱が燻った。美しいなんて言われ慣れているけれど、ここまで真っ直ぐに、当然のように言われた事は殆どない。照れ混じりだったり、多少の下心があったり、恐縮があったりするものだ、普通は。なのに空色の男には、からかいに対する申し訳なさはあっても、美しいと評する事への躊躇いがない。普通の男が言えば気障にしか聞こえなかったに違いないが、彼が言うと不思議と嫌味に聞こえなかった。ただ、言外に口説かれているような気分になってむずむずする。
     そんな印象を持ちながら会話を続けようとした所、もう昼休みが終わりに差し掛かっている事が分かった。連れの少年に促された空色の男は、鶴丸に頭を下げる。
     
    「では、美しい方、私達はこれで」
    「待った待った、折角の縁だ、これを持ってってくれ」

     そのまま去ろうとする姿に、内心慌てながら先程アドレスを書いた名刺を渡す。光忠のアドバイスに改めて感謝した。ここで書き始めては、相手がいなくなってしまう可能性もある。しかし、こうして隙なく与えてしまえば、受け取らざるを得ないだろう。
     
    「五条、鶴丸様……」

     空色の男の優しい声色に、鶴丸の名前が乗せられる。その様子に、きみは何て名前なんだいと聞いてしまいたかったけれど。そこはぐっと堪えて、ウインクだけで済ませる。
     
    「いつでも良いから連絡してくれ」

     言って、鶴丸も席を立った。一度だけ振り返って見ると、空色の男は黒髪の少年と一緒に名刺を覗き込んでいる。――どうか、連絡をくれる程、彼が鶴丸に興味を持ってくれていますように。先程の様子ならば心配いらないとは思うものの、そう願わずにはいられない。何せ、鶴丸からして見れば、彼の事は何も知らないのだ。分かったのは、この近くの何処かの会社で働いているという事だけ。それ以外は接点がない。つまり、彼が求めてくれなければ、この縁は終わってしまうのだ。それは、寂しい。
     
    (やはり名前くらい聞いても良かったか?) 
     
     後悔したものの、仕方がない。鶴丸は早足で会社へと戻った。

     
     午前の業務を早々に切り上げて、鶴丸は一つ伸びをした。
     
    「お疲れ様ー」

     方々からの労いの声に手を振りながら、さてと時計を睨む。もうすぐ昼休みだ。いつもならばこのままコンビニや弁当屋に直行して仕入れてくる所だが、今日は違う。上着と財布を掴んでフロアから出てエレベーターに乗ると、迷わず4階を押した。そこは、開発部のフロア。普段の鶴丸にはあまり縁のない所だ。どんな場所なのか少々ワクワクしながら降りると、カタカタと聞き慣れたキーボードを打つ音が響き渡った。
     一言で言えば、フロアはどんよりしていた。社員がパソコンの前で髪を掻き毟り、顔を顰めながら、何度も何度も壊れるのではないかという勢いでキーボードを叩く。納期まではまだ時間があった筈だが、どうやらこの部は毎日が修羅場のようだ。そんな切羽詰った光景を視界に映しつつも、鶴丸の目は鮮やかな空色を見つけていた。
     時間の流れが凝縮されているかのような空気の中で、そこだけが別世界だ。切り離されたように穏やかで、柔らかい。長い腕を伸びやかに天に向けた一期が、疲れを癒すように肩を回している。重く沼地のような雰囲気の中で蓮のように美しい彼は、まだこちらには気付いていないようだった。鶴丸はにんまりと笑い、背後から近付く。手には、来る途中で購入しておいたペットボトル。
     
    「わっ」

     軽い掛け声と共に、一期の頬にペットボトルを押し付けた。びくんっ! と面白いように体が跳ね、短い悲鳴が出る。悪戯成功だ。同時に、もしかしたら来るかも知れない反撃に備え、一歩後ろに下がる。もっとも、ここ数日知った一期の性格では、手荒な真似など決してしてこないと分かっていたけれど。
     あの日以降、結局一期からのメールは直ぐに来た。聞けば同じ会社の同僚だったという事で、安心されたらしい。それを聞かされた鶴丸は大層驚くと共に、一つの可能性に思い至って手を叩いた。そう言えば、開発部には「王子様」がいるのだと女性社員達の間で噂になっていた。優しくて、物腰が柔らかで、丁寧で、仕事が出来て、おまけに顔まで良い。何処の妄想だと聞いた時には半信半疑だったが、あれが一期を指していたのだと今ならば分かる。確かに彼は、間違いなく「王子様」だった。同僚の「ホスト」と呼ばれる光忠や、何やら「トリックスター」と呼ばれる自分とは全く方向性が違う。爽やかで実直で品行方正。それがメールの文面からも滲み出ていた。
     
    「五条様」

     予想通り、一期は鶴丸の悪戯に怒ったりしなかった。代わりに、笑顔を一つ。相手の心を解きほぐすような笑みで、尋ねてきた。
     
    「当部署に御用ですかな?」

     その言葉の内容を一瞬把握し損ねて、きょとんとしてしまった。次の瞬間、噴き出しそうになる。昼休み、書類も何も持たないラフな格好で悪戯を決行する人間が、仕事で来ている訳がない。なのに一期は、鶴丸は何か業務でここを訪ねてきたと思ったのだ。面白いと同時に、面白くない。だから鶴丸は、ますます笑みを深める。
     
    「部署に用事はない。きみに会いに来たんだ」

     昼でも一緒にどうかと思ってな。そう付け足せば、一期の目がきらりと光った。ん? と見返せば、真っ直ぐに視線が返ってくる。昼という単語に反応したのか、それにしては返事も何もなくこちらの顔ばかり見ている。首を傾げて「もしかして弁当でも持ってきてたか?」と聞けば、慌てて首を振られた。
     
    「いえ、今日は作ってこなかったので、ありません」
    「つまり、普段は弁当か。覚えておくぜ」

     今日は運良く共にレストランなりカフェなりに行けるが、もし他の日もそうしたいなら、予め言っておく必要がある訳だ。脳内のメモ帳にしっかりと書き込んで、一期の肩に手を置く。それだけで察しの良い彼は立ち上がって、準備をした。
     数回のメールのやり取りを通して、鶴丸はこの一期の事がすっかり気に入っていた。初めから気に入ったから声をかけたのだろうと言われればそれまでなのだが、この誠実な人柄が、どうにも得難いものに感じたのだ。人の良い友人も、面白味のある知人も、大勢いる。その中で言えば一期の性格は地味な部類かも知れない。けれど、彼は一度だって鶴丸の事をおざなりにしなかった。一回、どうも仕事の関係でとても忙しい時にメールしてしまった時だってあったのに、その事を丁寧に説明して謝罪してから、改めて返信をくれた。そして、鶴丸からして見れば下らない日常のちょっとした内容や写真に対しても、きちんと感想をくれる。打てば響くその様子に、鶴丸はすっかり夢中になってしまった。話もメールも電話も兎に角多く、せわしないと周り中から言われて適度にあしらわれている鶴丸に、それでも一期は合わせてくれる。それが、年甲斐もなく嬉しかったのだ。
     連れ立ってフロアを抜け、エレベーターが来るのを待つ。他愛ない話をしながら待っていれば、ふと一期の強い視線を感じた。見れば、琥珀の目が、金を溶かしたように蕩ける色でこちらを見ている。最初に会った時と同じ目、けれどより強いその目線に、かぁっと頬に熱が上がった。その上一期は、鶴丸を「美しい」と言って追撃してくる。
     ああもう、どうしてきみはそうなんだ。
     
    「粟田口は俺の顔を見る度にそれだな」

     熱を隠そうと早口に言えば、きょとりと一期は首を傾げた。顔を見る度、という程会った覚えはない。けれど、思い出すのは先日、何となく髪を切りに行って、何となく一期に報告したくなり、何となく自撮り写真を送った事。彼女かよ、と自分でも呆れながらもどういう反応が来るのか気になって送信した所、それはもう凄まじい賛辞の言葉が返って来たのだ。貴方の新雪のような御髪が頬のラインを縁取り、流れる様が特に素晴らしいです。真正面から見てもお綺麗ですが、斜め上から見るとまた鼻筋が一層通りお美しいですな。そんな言葉をずらずらと並べられて、一人その場で悶えた。世の彼氏諸君だってここまで言いやしない。ボキャブラリの全てを尽くして美しいと言ってくる一期に、俺はとんでもない奴に惚れたのではないかと思った。思ってから、気付いた。
     惚れた。惚れたのではないか。
     俺は、一期に、惚れたのか? 見た時から、動悸はしていた。けれどそれは、非日常に対するドキドキとした高揚感だった筈だ。それがいつの間にか、変わっていた。こんな短期間に、こんな単純に。変わった。変わってしまった。相手は男で、女性社員に人気で、ライバルだって山程いるような奴に。今まで、誰と付き合ったって結局は終わってきた自分が。 
     ――面白いじゃないか。
     一期は、何処までも自分を楽しませてくれる。殆ど初めて、鶴丸は自分の美貌に感謝した。一期を惹き付け、出会わせてくれた。整い過ぎているが故に遠ざけられ、或いは求められ過ぎて疎ましく思った時期すらあったのに。一期が美人好きで――
     
     ふ、と、脳裏に、濃紺の髪が過ぎった。

     さっと熱を持った思考が冷める。
     
    「そんなに美人が好きかい?」
      
     鶴丸を見る度に美しいと言ってくれる一期。そんな一期がもし、「彼」を見たら? 「好きです」と即答する姿に、声を上げて笑う。引き攣らないようにするのが大変だった。一期にはちゃんと、可笑しくて笑ったように聞こえただろうか。
     
    「そしたら、俺の従兄弟なんぞ見た日には卒倒するかもな」

     従兄弟。三条三日月。父方の兄弟の子で、鶴丸の5つ年上の男。あの男の美しさを見れば――鶴丸など、そこいらに転がっている石ころも同然だろう。三条三日月はこの世で最も美しいと言って、誰が反論出来るか。濃紺の髪、大理石の肌、宵闇と月の瞳、三日月形の唇。彼を形容する言葉は、これだけ。これだけだ。それ以上の事など、表現出来よう筈もない。あの男の美しさはどれ程の言葉を尽くしても足りないし、どれ程の絵描きが描いた所で表現出来ないし、どれ程性能の良いカメラで撮ろうが現物には勝てない。ただそこにいるだけで全てを呑み込み、魂さえ食らい尽くす程の美貌。艶然と微笑めば、全てが平伏す。そういう男だ。それを一期が見たりしたら。美しいものが一等好きな、一期の目に入ったりしたら。
     
    「そんなにお美しいのですか?」

     案の定食いついてきた一期に、胸が冷えていく。
     
    「会いたいか?」
    「是非」
    「残念だが会わせないぜ」

     即答した。会わせない。会わせてなるものか。そう思った自分に、自分で驚いていた。三日月が鶴丸より美しい事など、もう生まれた時から知っている。比べるという事すらおこがましい。なのに今の自分は、三日月と自分を比べて、一期を取られまいとして、必死になっている。一期が、欲しい。誰にも渡したくない。琥珀色の瞳を見つめて、鶴丸は胸に湧いた衝動に呑み込まれそうになった。じぃっと見つめる。一期の顔。その優しい目元も、通った鼻梁も、うるりとした唇も、柔らかな頬も。全部全部、自分のものだ。仲が良くて、面倒を見て貰った三日月にだって、渡さない。――渡さない。
     高い音がした。エレベーターが来た音だった。我に返って、鶴丸は一期と共にエレベーターに乗る。1階のパネルを押して、その表示を見た。どんどん下がる。
     ぽつりと言葉が出た。
     
    「あれを見たら、きみは俺を美しいと言ってくれなくなるかも知れない」

     知れない、ではない。ほぼ間違いなく、言ってくれなくなるだろう。三日月を見た者は、他の全てが色褪せてしまう。鶴丸も、一期の中で、そうやって。
     だから。
     
    「どんなに美しい方がいらっしゃったとしても、五条様の美が損なわれる事などあり得ないと思うのですが」

     不意に言われて、思わずそちらを見た。一期は真剣な目で、鶴丸を見つめていた。真っ直ぐと、逸らす事なく、真摯で、けれど何処か優しく。その言葉の内容を呆然と脳内に流して、咀嚼する。美しい者がいても、損なわれる事がないもの。それは何だ? 一期は何をもって、そう言ってくれている? 比べる事が出来ないもの? 比べる必要がないもの。
     ――内面。
     一期は、鶴丸の心が美しいと言っていた。
     
    (~~~~~~っ!) 
     
     今度こそ、完全に体中に熱が上がってきた。情けない顔を見られたくなくて、ばっと口元に手を当てそっぽを向く。一期が不思議そうに見ているのが分かったが、いつもの軽口が叩けない。そんな余裕がない。だって、今まで会った人間は皆、鶴丸を美しい美しいと、何て綺麗な男だと、言ってきた。「外見」が綺麗だと、「見た目」が美しいと、持て囃しては、いなくなっていったのに。一期は、そんなもの付属品に過ぎないのだと。最初は彼だって、この見た目で寄ってきた筈なのに。
     
    「きみ……人たらしの才能があるな……」 
     
     どうにかして零せば、一期が眉を顰めた。どうやら不本意だったらしい。
     
    「本心です」
    「だからだ」

     ああ、これ以上追撃しないでくれ。
     ますますきみが好きになりそうだ。
     


     
     軽やかに晴れた空の下、噴水前のベンチで隣に座ると、一期がにこりと綺麗な笑顔を返してくれた。彼はいつも笑顔を絶やさない男だった。どんな時でも次の瞬間には口元を緩ませ、目を細めて笑ってくれる。それが何ともこそばゆい。誰に対してもそうなのだろうとは分かっていても、彼の雰囲気は、自分を特別な気分にさせてくれる。これは誤解されやすいだろうなと苦笑を禁じ得ないが、美点であるのも確かなので指摘しない。何よりその笑顔を見るのが鶴丸自身大好きだった。それが藪蛇でなくなってしまったりしたら悲しい。
     一緒にレストランに食事に行って以来、一期とは昼休み、こうして会える時には会うようになった。そう仕向けたのは自分だ。イタリアンに舌鼓を打ちつつ「やはり自分で作るものとは違いますなぁ」としきりに感心する一期に、「きみの作った弁当を見てみたいな」と言った。見せられるようなものではないと謙遜はされたものの、重ねて強請れば断る彼ではない。では今度、昼食をご一緒しましょうと言われ、内心ガッツポーズしたのは秘密だ。一度一緒に昼食を取れれば、後はなし崩し的に続ける事が出来る。
     一期との仲も大分深まってきた、と鶴丸は思う。一緒に昼を過ごすようになって、様々な事を話した。好きな食べ物、好きなカフェ、好きな映画、好きな本、一期はどんなものが好きなのかたっぷりと尋ね、そして同じだけ返してもらった。一期はボンテのキャンディが好きらしい。バラとスミレの味がするのですよ、と少しはにかんで笑った。もし見つけたら買ってやりたい。好きなカフェは大通りから少し外れた所にある猫カフェ。犬も猫も好きなので、犬カフェはないのでしょうかと言っていた。好きな映画はかの有名なネコ型ロボットのもので、家族皆で観て感動したのだそうだ。好きな本は沢山あり過ぎて決められないらしい。小説も実用書も好きらしく、種々様々な本が家にあるようだから、いつか借りに行きたい。それから、それから。何よりも、家族の事だ。
     一期の家族は、凄い。初めて聞いた時、度肝を抜かれたものだ。何せ弟が、11人もいる。数もそうだし、全て男というのもまた凄い。完全な男系家族だ。一人っ子で核家族の鶴丸からしてみれば、想像もつかないような世界だ。
     
    「きみの弟の数には驚くよなぁ」

     つい声に出してしまってから、何を脈絡なくと瞬きをする。驚かせたかと隣を見たが、一期はくすりと笑うだけだった。
     
    「11人も弟を持っている人間は稀でしょうな」
    「ご両親は頑張ったな」
    「え」

     11人作るとなれば、奥さんは勿論の事、旦那さんの方だって相当精力が必要だろうと思う。双子が二組いるとは言っていたものの、10年以上は子作りをしてきたのだ。頑張ったという他ない。だからそれを素直に言ったのだが、何故か一期の表情が固まった。……何か拙い言い回しだっただろうか。不安に思ったのは一瞬の事で、直ぐに一期は笑顔を取り戻した。
     
    「私の両親は、私が4つの時に他界しました。弟達は皆、私と同じ施設で育った血の繋がらない子供達ですよ」 
     
     一息に言われ、一瞬言葉を失う。両親が他界、施設、血の繋がらない子供。その内容がぐるぐると頭を回る。これは――何と言えば良いのだろう。そうか、と頷くだけで良いのか、それとも大変だったなと言うべきか? けれど、それは、場合によっては侮辱と捉えられる可能性もある。何より、一期は、その事をどう思っているのか。
     真っ直ぐに見つめ返す。琥珀色の目には、何の憂いも浮かんでいなかった。あるのはただ、輝きだけ。光を一心に吸い込んだ、澄んだ瞳だけ。
     ……ああ、そうか。葛藤がふわりと溶けた。
     
    「粟田口は、弟達が好きなんだな」
    「はい。私の宝です」

     にっこりと、今まで以上に優しい、嬉しそうな笑みが返って来た。その表情に、見惚れてしまう。本当に大切なものを知っている顔。命をかけてでも守りたいものを知っている顔だ。そんなものを持っている彼があまりにも眩しくて、目を細める。きみは、だから、こんなにも優しいんだな。
     あはは、と一期が声を上げた。無邪気に、軽やかに。そこに自分の声を重ねる。きみが笑っていると、俺も嬉しい。笑い声は噴水に溶けて、光を弾いて散って行った。
     また、距離が縮まった。そう思った。だから鶴丸は、一期を飲みに誘う事にした。言葉と共にくぃっと呷る真似をすると、一期が思案気に視線を巡らせた。予定が入っていただろうか。しかし、直ぐに返事が来る。 
     
    「1時間程度、残業があるのです。その後でしたら」 
    「いいぜ」

     鶴丸も予定を思い返して、丁度その程度で終えられる仕事がある事を確認し、頷く。内容と言えば、退屈で面倒で個人的には好きになれない仕事だが――その後にご褒美があると思えば、苦にもならない。
     
    「楽しみですな。お酒は強い方ですので」

     珍しく、一期は挑戦的な目をした。また違う顔を見せてくれる。
    にぃっと笑って「楽しみにしてる」と言えば、強気な笑みが返って来た。楽しみだ。本当に、心が躍る。
     
     
     

    「ちぃっとばかし遅れたな……」

     エレベーターの中で、独り言ちる。1時間程度で終わると思っていたし、誤差の範囲内と言われればそうなのだが、浮足立っていた分、残業が長く感じられてしまったのだ。早く、一期に会いたい。会って、飲みに行って、また新しい顔が見たい。酒は強いと言っていたが、どのくらいなのだろう。鶴丸も弱くはないが、流石にザルと言える程ではない。赤く潤んだ瞳の想い人を想像してしまうのは男の性だろうが、そんな素振り一つ見せずにけろりとしているのもまた素敵だと思う。そこまで考えて、どうしたって自分には一期が良く映るんだと思い至って一人赤面する。他に誰もエレベーターに乗っていなくて良かった。
     高い音と共に、エレベーターのドアが開く。同時に一期の顔が見えたが、その表情にぎょっとした。いつも優しい彼の顔は、青褪め、引き攣っている。
     
    「五条様……」

     頼りなさげな声を出されて、思わず一歩近付いた。何かあったのだ。そう思わせるには十分だった。しかも、仕事がどうとかではない。彼の大切な何かが、傷付こうとしている。
     どうした? そう聞こうとして、鶴丸はハッと口を閉ざす。一期が、口を開こうとして、閉じたからだ。彼の琥珀色の瞳は、真剣にこちらを見つめている。けれど、そこには、迷いと躊躇いと、それから、悲しみがあった。傷付けられたような、いや、傷付けられるのを恐れるような、目。迷子の表情。一期は何度も口を開いては閉じ、こちらを見つめた。
     鶴丸は、何も言わなかった。一期が何を考えているのかは分からない。ただ、彼自身が決断し、口にしなければならない事なのだと分かっていた。
     そして、
      
    「――五条様、お願いがございます」

     一期は、決心した。き、と目に力を込めて、射抜くように鶴丸を見つめた。縋る色も、頼りない震えも、もうない。ただ一人の人間として、対等な存在として、こちらを見た。
     
    「弟が、弟の一人が、未だに家に帰って来ていないようなのです。
    ……一緒に探して頂けませんか」

     ――やはり、そうだったか。家族の事だとは、何となく思っていた。彼が本当に大切にしているものだと、鶴丸は教えてもらったから。だから、答えなんて決まりきっていた。
     
    「勿論、手伝うさ。今は一分一秒が惜しい。歩きながら話そう」 
     
     背中を押すと、一期が俯いた。その表情を、今は見たいとは思わない。ただ、彼の心が傷付かないように。それだけが願いだった。
     


     
     一度、一期の弟達が生活しているという施設に行き、鶴丸はいなくなった五虎退という弟の写真を見せてもらった。金髪の華奢な男の子で、歳は8つくらいだろうか。目に焼き付けるように、食いいって見つめていると、施設の奥の方から視線を感じた。幾つも、幾つも、10人分。心配そうな顔、泣きそうな顔、厳しい顔、悔しそうな顔。それぞれの、いなくなった兄弟への心。
     
    「大丈夫だ、きっと見つかる」

     自然とそう口にしていた。そうだ、自分達が信じなくてどうする。いなくなってしまったと諦めてしまえば、本当にそうなってしまうのだ。この子は見つかる。見つけてみせる。鶴丸は一期と職員達と頷いて、駆け出した。鶴丸が担当したのは住宅街の方面。一つも見逃すまいと辺りに視線を散らしながら、驚く住民を掻き分けて進む。
     鶴丸に兄弟はいない。従兄弟は沢山いたが、一緒に暮らした事があるのは両親だけだ。それも高校生までで、大学からは一人暮らしをしている。だから、家族との絆というものに、そこまで縁がない。両親は共働きで、いつも忙しそうだった。喧嘩をする事も多かったし、それが長引いて気まずい思いも何度もした。別段恨んだり、厭ったりはしていないが、大学からの一人暮らしを決心したのは、そこまでの思い入れがなかったからだろう。家族というものに、憧れも、理想も、失望も、なかった。
     けれど今自分は、家族のために走っている。それも自分の家族ではない。他人の家族のために、息を切らして走り回っている。何故、と問いかけて、一期の笑顔が浮かんだ。あの顔を曇らせたくない。宝だと言い切ったあの目を、悲しませたくない。そうして一期の大切なものを、自分も守ってやりたかった。
     ああ、宝物だ、そう思った。一期は宝物だ。その宝物が何よりも大切にしている宝物。それを、抱き締めてやりたい。大切に大切に守ってやりたい。頭を撫でて、微笑んで、一緒に笑い合いたい。そうだ、それが家族なのだ。縁の薄かった、けれど確かに自分を育ててくれた、家族。
     一期、俺は、きみの家族になりたい。きみの家族を守ってやりたい。助けてやりたい。
     必死になって走った。何度も声を張り上げて、進んだ。
     その時、不意に赤い物が目に入った。小さな神社。そこで、何かが動いたような気がしたのだ。
     
    「五虎退……?」

     そっと呼びながら、入る。すると、呼ばれた事に驚いたように、びくりと何かが飛び上がった。
     
    「だ、だだ、誰、です、か?」

     木の影から、小さな小さな姿が出てくる。写真で見たままの、華奢で、臆病そうな可愛い男の子。
     見つけた。鶴丸は暫し呆然としてから、ハッとして近付いた。急に距離を詰められた事に驚いたのか、泣きそうな顔で五虎退が後退る。鶴丸は速度を落とし、そっと目線を合わせてしゃがんだ。
     
    「五虎退、だな。俺は五条鶴丸。粟田口一期の友達だ」
    「い、いち兄の?」

     一期の名前を出すと、途端に金色の目が潤みが増す。小さな体が震え、唇がふるふると戦慄いた。
     
    「僕、僕……!」 
    「もう大丈夫だ。待ってろ、今、お兄様に連絡してやるからな」

     素早くスマホを取り出し、一期に電話をかける。今頃、彼も五虎退の姿を求めて駆けずり回っているだろう。一刻も早く、安心させてやりたい。その願い通り、彼は直ぐに電話に出た。
     
    『もしもし』
    「いたぞ! 見つけた!」

     無事な姿が嬉しくて、ついつい声が大きくなってしまう。電話口の向こうで、一期が絶句する気配がする。恐らく理解が追いついていないのだろう。丁寧に説明すると、一期は焦ったように言い募ってきた。
     
    『怪我は? 何かに巻き込まれたとか――』
    「大丈夫だ。怪我もないし、犯罪に巻き込まれた形跡もない。――今、代わろう。ほら、きみのお兄様からだ」 
     
     スマホを五虎退に渡すと、おずおずと耳に当てる。涙の膜が盛り上がり、溢れていった。その様を見つめて、胸が締め付けられる。見つかった。見つかって、本当に良かった。大事な者の宝が、傷付く事なくここにある。それは何て素晴らしいのだろう。
     暫く五虎退は一期と通話してから、スマホを返して来た。今後の事をざっと決め、さて帰り道を思い出さねばと思っていると、一期から呼びかけられた。
     
    『五条様』 
    「どうした?」
    『本当に――ありがとうございました』 
     
     通話口の向こうで、頭を下げた気配がする。それを感じながら、鶴丸は先程の事を思っていた。聞くべきか、否か。――きっと答えは、もう分かっているけれど。
     
    「粟田口」 
    『はい』 
    「きみは、あの時少し迷っていただろう?」 
    『あの時?』 
     
     一期の不思議そうな声を聞きながら、頷く。
     
    「俺に助けを求めるかどうか、迷っていた」
    『――お恥ずかしながら。身内の事でしたので』
    「しかし、最終的には俺を頼った。何故だ?」
     
     一期の声が聞こえた。優しくて柔らかくて、そしてはっきりとした声。
     
    『弟が、大切だったからです』 
     
     ――きっと、彼が迷った理由は、自分が施設の出だったから。両親がいない事がどんなものなのか、鶴丸は想像でしか分からない。けれどそこには、苦難と屈辱が確かに詰まっていたのだと思うのだ。だから、彼は迷った。大事な家族に、鶴丸を触れさせて良いか。けれど最終的には、それを選んだ。五虎退のために。大切な者の命を、救うために。
     大事な者のためならば、矜持を捨てられる。それこそが、誇り高い。
     
    「やっぱり俺は、そんなきみが好きだ」 
     
     自然と口元からは笑みが零れた。
     


     
    「最近のお前は浮かれっぱなしだな」

     途中で会った三日月と電車に乗りながら、不意にそんな事を言われる。今日は、大事な日。一期との初めてのデートだった。もっとも、そう思っているのは鶴丸だけで、一期はただ単に映画を観たいだけなのかも知れないけれど。でも、それでも良い。今は、という条件付きだが。一期と一緒に昼休み以外も出掛けられるのだ。浮かれない訳がない。
     
    「想い人でも出来たか」

     宵闇の瞳に覗き込まれて、どきりとする。彼は泰然自若、何一つ気にしないようでいて異様に勘が鋭い。特に鶴丸とはこうしてよく会う仲だから、鋭さは一層増す。
     
    「そうかそうか。そして今日、会いに行くんだな?」

     言い切られて、ぐうの音も出ない。いや、別に三日月に知られたからと言って、問題はない。ないのだが、この後の展開が予測出来てしまって嫌な汗が伝う。
     
    「よし、俺も行って、見てやろう。鶴丸に相応しいかどうか」

     そらきた! そう言うと思ったのだ。嫌な予感は完全に的中した。鶴丸は思い切り、首がもげるのではないかと言う程首を振る。
     
    「駄目だ! 来なくていい!」
    「何故だ? 俺が見たってかまわんだろう」
    「良くない! 絶対駄目だ!」

     必死になって言い募るのには、訳がある。当然、あの一期の、面食いの事だ。一期と普通に話しているとつい忘れがちになるが、彼は頭に超が付く程の面食い、キングオブ面食いなのだ。そんな彼に、三日月を、人類の最高峰の美貌を見せたらどうなる? 惚れるに決まっているではないか!
     駄目だ。そんな事は許さないし、許されない。鶴丸は三日月を何度も追い払う。電車のドアが開き、鶴丸は一目散に三日月を置いて駆け出した。このまま改札を出たら見つかってしまう。広い構内を何度も回って撒いてから、わざと東ではなく南口から出る。映画に行く話をしてしまっていたから、待ち伏せされるなら東口だ。膝に手を付いて、鶴丸は肩で息をする。
     南から出て、ぐるっと回って――
     
    「鶴丸、俺の方が足は速いようだな」

     真正面から声がした。愕然と、呆然と、悄然と、鶴丸は顔を上げる。三日月が、汗一つかかずにそこに立っていた。周り中の目がこちらに向いていたが、気にするつもりは毛頭ない。彼がここにいるという事だけが重要で、問題だった。
     くるりと向きを変えて、ずんずん歩き出す。三日月ものほほんと笑いながらついて来た。
     
    「あっちへ行った行った! きみが来るとややこしくなるだろ!」
    「別に顔を見るだけだろう。何とケチくさい事を」

     ああ、もう直ぐ目的地に着いてしまう。一期の前に、三日月が現れてしまう。空色の髪が、見える。彼は――ああ、呆然と、三日月を、見ていた。
     鶴丸の胸中に、冷たいものが広がる。一期が、美しいものが一等好きな者が、この世で一番美しい者を見てしまった。勿論、だからと言って一期が鶴丸に冷たくするなんて事はあり得ないだろう。彼はそこまで薄情者ではない。けれど、この鶴丸の想いは、恋心は、終わってしまったのだ。
     三日月と一期が何事か言葉を交わす。一期の手を取る三日月の手を叩き落としてしまいたかった。けれど、出来ない。これは、分かりきっていた事だ。
     凍えるような絶望のまま、鶴丸は三日月が去って行くのを感じる。一期の顔はまだ呆然としていた。顔が歪むのが分かる。そのまま、我ながら冷たい声が出た。
     
    「前に話しただろう? 従兄弟だ」
    「あの方が。確かにこれは、……素晴らしい美丈夫でしたな」

     うっとりと一期は言った。三日月を褒められる事で、ここまで気落ちした事があっただろうか。分かっていた、分かっていた筈なのに。

    「俺の美しさなど霞むだろ」

     ぽつり、と、涙が落ちるように声が出た。一期は何も言わない。言えないのかも知れない。それが事実だから。けれど彼は優しいから、言葉を探して、探して、
     
    「確かに三条様は大変お美しい方でしたが」
    「ああ」
    「五条様を見る時のような胸の動悸は致しません」
    「ああ。……えっ?」

     おざなりに頷いていた鶴丸の心に、さっと光が差した。今、彼は何と言った。動悸、と言ったか?
     五条様を見る時のような胸の動悸は致しません。
     それは――どういう、意味だろう? 鶴丸が思う解釈で良いのか? 合っているのか? あの三日月に会ったのに。それでも、きみは。

    「では、参りましょう」

     確認したい事があり過ぎて混乱する鶴丸を他所に、一期はベンチから立ち上がる。そして映画館へと向かおうとするので、慌てて引き留めた。肩を揺すって、どういう事なのか尋ねる。しかし、一期はただ視線を送るばかりで何も言ってくれない。
     ただ、その琥珀色の瞳は、柔らかかった。
     
     ああ、粟田口。
     やっぱりきみって、最高だ!




    三章 粟田口

     青白く照らされた空間は、ひんやりと冷たく、幻想的に広がっていた。幾人かの家族連れが立ち止まり、小さく感嘆の声を上げては移動していく。その様をゆったりと眺めながら、鶴丸は隣に視線を送った。
     
    「ここは、お魚さん達が暮らしている場所だから、静かにしなくちゃいけないよ?」

     出来るね? と一期の柔らかい声が、子供達にかけられる。それに「はぁい!」と元気良く返事をしてしまってから、自分が大声を出した事に気付いて口にぱっと手を当てる姿が可愛らしい。周りで見ていた家族達も、微笑ましそうに目を細めた。お魚さん、びっくりしちゃったでしょうか、と悄然と言う頭を撫でて、大丈夫だよ、次から気を付ければ、と一期は答える。ほっと息を吐いて元気を取り戻した彼は、早速各ブースへと小走りに行ってしまった。それを追いかけようとする一期に、隣にいた黒髪の少年が答える。
     
    「あ、秋田と五虎退は俺が見るよ」
    「そうかい? ありがとう。なら」
    「骨喰は前田と平野、博多の事お願いね」
    「分かった」

     他の小さい子の面倒は私が見るよ。一期はそう言うつもりだったのだろう。しかし、それよりも前に黒髪の少年――鯰尾から、銀髪の骨喰へとバトンが渡されてしまった。え、と一期の顔が動くよりも早く、しっかりとした面持ちの前田、平野、博多の3人は、骨喰について行ってしまった。残されたのは、当の一期と鶴丸、薬研に厚、後藤、乱の6人だ。しかし、どのメンバーも、もう引率が必要な歳ではない。一期と鶴丸に至っては大人だ。困ったな、と一期が頬を掻く。
     
    「別に何も困りゃしねぇだろ? いち兄」

     そんな彼に、薬研が可笑しそうに笑う。
     
    「偶には満喫しろって鯰尾兄さんと骨喰兄さんのご厚意ってやつだ。ありがたく受け取っとけよ」
    「……そうだね」

     未だに眉を下げたまま、それでも一応頷いて、一期はぐるりと館内を見回した。それに倣って、鶴丸も辺りを見る。薄暗い照明に照らされた、水族館を。
     
    「でも意外だな。遊園地と水族館なら、遊園地に軍配が上がるかと思っていたんだが」

     鶴丸が言うと、後藤から返事がくる。
     
    「遊園地も確かに魅力的だけど、うちはチビが多いだろ? 身長制限で乗れねえのも多いんだ」
    「そうしたらがっかりしちゃうもんね」 
     
     乱も頷いて、こちらを見上げてくる。成程、水族館ならば、身長制限などないから気兼ねなく楽しめる訳だ。静かにしていなければならないという制約はあるが、粟田口の子はどの子も皆、長兄に似てとても躾が行き届いている。変なトラブルを起こす事はないだろう。ならば、時間の許す限り魚の遊ぶ姿を見られる方が良いという事か。また一つ得た情報を脳内メモ帳に書き残して、さぁ、と残りのメンツを促した。
     
     今度、一緒に何処かへ遊びに行きませんか。一期に誘われた時、鶴丸は天にも昇る気持ちだった。いつだってそうだ、一期から誘って貰えると、鶴丸の気持ちはこれでもかという程高まる。しかし、今回特に嬉しかったのは、弟も一緒に、と言って貰えた事だ。鶴丸は、一期と二人でならぼちぼち映画などを観に行くようになった。しかし、一期の宝である粟田口の子供達とご一緒した事はまだない。五虎退がいなくなった騒動の時に出会った一度きりだ。正確には薬研とはその前、あの運命のカフェで少しばかり話したが、親睦を深めたとは到底言えないだろう。初めてに等しい。
     一期にとっての弟は、宝物だ。本人も、そう言い切っている。その宝物に触れさせて貰える程、鶴丸は一期と近くなったのだ。それがとても嬉しい。あの日の告白の返事は、まだうやむやなままだけれど――それが苦にならない程、一期は鶴丸と共にいてくれた。
     早速、何処へ行こうか二人で計画を立てる。海に行くにはまだ風が冷たいし、宿泊は施設の許可が下りるかどうか難しい。ならば日帰りで、子供が楽しめる所が良い。そうして残ったのが遊園地と水族館の二択で、選ばれた理由は先程後藤が語った通り。皆で朝から眠い目を擦って電車に乗り込んで、がたごとがたごと。その間、鶴丸は子供達の視線をちらちらと感じていた。敵意は感じられない。ただ純粋過ぎる程の興味が、そこかしこからする。一応出発前に、同僚の五条鶴丸様だよと一期に紹介はして貰ったのだが、それこそ名前を明かしたに過ぎない。一体どういう人物で、もっと言えば愛する長兄とどういう関係なのか、それはそれは気になっているのだろう。しかし、不躾に聞いてくる子は一人もいない。本当に良く出来た子達だなと感心しつつ、鶴丸は一応見知った仲である五虎退の手を握りながら、行先の水族館の話などをする。どの子も、大人が話し始めれば熱心に耳を傾けて、分からない所があればきちんと考えて質問してくる。将来有望だ。一期が声をかければ、直ぐにそちらを向く。本当に仲が良いんだなと微笑ましくなった。
     水族館に着くと、既に多少の列が出来上がっていた。休日の水族館なので混んでいるとは思っていたが、想定の範囲内だ。はぐれないようにさえ気を付ければ良い。そうしてチケットを入手して入れば、青く蒼く光る美しい水底が待っていた訳だ。ほぅ、と息を吐いて、魅入った。
     
    「いち兄、僕、イルカさんのショーが観たいです!」
    「ぼ、僕も……!」

     暫く各々館内を見回っていると、とことこと秋田と五虎退、引率の鯰尾が寄ってきた。小声でひそひそと言う姿に頬が緩んでしまう。そうして、自分が意外と子供が好きだった事に気付いて、鶴丸はひっそりと笑った。その自由な発想と有り余るエネルギー、天へと真っ直ぐ向く体。何処をとっても興味津々だ。自分もあんなだったのだろうか、と思うとくすぐったいものがある。
     隣の薬研に、小突かれた。
     
    「なぁに笑ってんだ? 旦那」
    「いや、きみ達は可愛いと思ってな」
    「その"達"の中には誰が含まれてるんだろうなぁ」

     正直に話せば、中学生とは思えぬにやりとした顔が返ってくる。薬研だけは、一期と鶴丸の出会いを知っている。一期が鶴丸に見惚れた事、そして鶴丸が一期をナンパした事。つまり、鶴丸の一期に対する思いはこの子には筒抜けな訳で。にやにや笑顔を返しながら、声を潜めた。
     
    「勿論、きみ達の大事な一期お兄様も入ってるぜ」 
    「俺は旦那のそういう潔い所、好きだぜ」
    「きみにそう言ってもらえると嬉しいな」
    「それはいち兄に一歩近付けるからか?」
    「それも含めて、だ」

     可愛い子に好きだと言って貰えれば嬉しいもんだろう。告げる言葉に、にぃっとお互いの笑みが深まる。どうやらこの子とは気が合いそうだ。話していて、ついつい悪巧みがしたくなってしまう。そんな空気を察知した訳ではないだろうが、一期が振り返って不思議そうな顔をした。
     
    「お二人して、どうしたんですか?」
    「いや、気が合うなって話してたんだ」

     嘘は言っていない。彼の方もそう感じた筈だ。だから言い切ると、ふむ、と一期は口元に手を置いて、確かにそうかも知れませんねと笑った。蒼い光に照らされて、柔らかく輪郭が滲む。――綺麗だなぁ。危うく呟きそうになったのを堪えて、一期の後ろを見た。
     
    「で、イルカのショーに行くんだろう? 少し早めに行って席を取った方が良くないか?」
    「そうですね、何分この人数ですから……もう行きましょうか」
    「そうしよう」

     一期が骨喰達に手を振ると、直ぐに気付いてこちらにやって来た。イルカのショーを観に行くよと言えば、前田と平野、博多が目を輝かせる。やはりショーは子供達の興味を惹くのだろう――
     
    「ショーって幾らくらい儲かるばい?」 
     
     博多だけが、全く別の観点からショーの事を考えていた。周りの笑い声の中、一期の「こら」と言う声が響いたが、博多は寧ろ誇らしげに叫んだ。
     
    「ジャパニーズビジネスマン!」

     ……今もって、意味は分からない。 


    「さぁてお次の輪は、ああ! あんなに高い位置に! 届くのでしょうかー!」

     ショーのお姉さんの声に合わせて、子供達の期待に満ちた目が向く。今やっているのは、高い位置に設置された輪をイルカがくぐるというもの。最初は低い位置から始めて、どんどん高くなっていく。それを見上げる子供達の目は、きらきらと宝石のように輝いていた。何処まで跳べるんだろう。何処まで跳んでいってしまうんだろう! そんな期待が会場中に湧き起こっている。かく言う鶴丸も、久方ぶりに見るイルカショーを、懐かしい気持ちになりながら見つめている。その直ぐ後、厚にちょいちょいと突かれなければ、ずっとそちらを見ていただろう。
     見れば、耳を貸してくれと言わんばかりの厚の目。鶴丸は屈んで、顔を寄せた。厚もぐっと背を伸ばして、顔を近付けてくる。
     
    「あのさ。五条さんは、いちにいの同僚なんだよな?」
    「ああ、そうだぜ。部署は違うけどな」 

     頷けば、厚もまた首を縦に振る。
     
    「じゃあ、聞きたいんだけど。いちにいって会社だと、どんな感じなんだ?」

     これまた抽象的な質問が来た。流石にこれだけでは答えられない。
     
    「どうって言うと、例えば業務成績とか、そういうのか?」
    「うーん、そういうのより何ていうか……働きぶりっていうか?」 
     
     業務成績は、働きぶりには入らないのだろうか。少々疑問に思ったものの、その二つのニュアンスの違いを思って、鶴丸は考える。要は、一期の働き方という事だろうか。
     
    「粟田口は熱心に働いている、とか、そういうので良いのか?」
    「そうそう! 熱心で……」
    「うん?」
    「熱心過ぎて、無茶してねぇかなって」

     厚の声が少し曇る。ばしゃーんと大きな水飛沫の音に、掻き消されそうになる程に。鶴丸は黙って、その瞳を覗き込む。厚は、ぎゅっと唇を引き結んでいた。
     
    「いちにいは、俺達の事、凄く大事にしてくれてる」

     嬉しさの滲んだ、けれど硬い声。
     
    「だから、不安なんだ。俺達のために、頑張り過ぎてないかって」

     いちにいは、俺達の事宝物だって言ってくれる。それはすげぇ嬉しいんだ。嬉しくて、嬉しくて、だから不安になる。宝物を守るためだったら、どんなに傷付いても平気だって思っちまうんじゃないかって。
     俺は、俺達は、いちにいが好きだ。だから無茶なんてして欲しくないし、ちゃんと自分の幸せも見据えて欲しい。
     足枷には、なりたくない。

     ぽつりぽつりと厚は言う。その声が途中で震えた事にも気付いたが、黙っていた。ただ黙って、鶴丸はその小さな頭を引き寄せる。ぽんぽんと叩けば、一つ揺らいだ。それでも優しく叩き続けて、顔を寄せる。
     
    「粟田口にとって、きみ達は宝物だ。それは分かるな?」
    「ああ」
    「きみにとっての粟田口一期も宝物だ。そうだな?」
    「……そうだ」
    「なら、分かる筈だ。きみは粟田口のために何かする時、それを負担に思ったりするかい?」

     こんな事してやらなきゃならないなんて。こんな事、他の奴にやって欲しい。どうして自分がやらなきゃいけないんだ。そんな風に思うかい? 思わないだろう?
     厚は頷く。強く、強く。
     だったらそれは、勇気なんだ。無茶じゃなく、希望なんだ。必死だろうと、傍から見れば無茶苦茶だろうと、時に自分のキャパシティを超えていようと、一期にとってきみ達のためにする事は全て、彼自身の幸せに繋がっている。そうしてきみ達と繋がっている時、確かに一期は幸福なんだ。誰よりも勇気を与えられて、何とだって戦える。それは、きみ達を大切にしているからだ。そうだろう? 自分の幸せを犠牲にしているんじゃない、幸せのためにきみ達を大事にしているんだ。きみ達と一緒に、幸福であるために。
     それは、きみの望まない結果かい?
     
     厚が顔を上げた。真っ直ぐに鶴丸を見る。鶴丸も見返した。逸らす事なく、包むように。
     ふ、と、厚が笑う。そうして回された腕に寄りかかると、あーあと声を出した。
     
    「どうしたどうした?」
    「何でも! 心配事が一つ減って良かったなって思ってさ!」

     それは一期の事なのか、他の何かの事なのか、皆目見当がつかなかったけれど。
     
    「あ! くぐれたぜ!」

     厚がそれは青空みたいに澄んだ目でイルカを見つめるから。
     鶴丸は微笑んでショーを眺めた。




     盛況に終わったショーの熱気にまだ当てられたまま、「腹が減った」という素直な申告により、レストランへと向かう事となった。ショーが丁度終わった直後であるためか、非常に混雑している。少し時間を空けた方が良いかとも思ったが、「俺の腹がもたない」と言われてしまっては仕方がない。記帳してから待つ事30分、ようやく席が空いた。
     
    「13名様でお待ちの、五条様!」

     そう呼ばれた時は流石に周囲に注目された。宴会場じゃあるまいし、団体様でもないのに13人もいればそりゃあ驚くだろう。ぞろぞろと現れると、店員も一瞬目を瞠った。けれど直ぐにお行儀良くついて来るのを見て頬が緩んだらしい。子供用の席も苦い顔せずセッティングしてくれた。それに礼を言いつつ、席に座る。一期と鯰尾、骨喰、そして鶴丸が四端を固める格好だ。隣の後藤が、狭くないか聞いてきてくれる。大丈夫だぜ、と返すとにっかとした笑顔。外見だけ見るとはねっかえりに見られかねない後藤だが、根はとても素直だ。弟達の事も、とても大事にしている。粟田口の中では、双子である鯰尾と骨喰の次に年長者のようだった。だからか、弟達は自分が守ってやらなければならないと気負っている所があるらしい。頼もしいですなと一期が笑って言っていたのを覚えている。メッシュの入った髪を流して、後藤は皆の分の水を取りに行くと言い出した。しかし、何度も言うように人数は13。一人で持ってくるのは骨だろう。俺も行こうと二人で席を立って、ドリンクコーナーへと向かった。
     
    「へへっ」
    「どうした?」
    「いや、俺が行くって言えば、五条さんもきっとついて来てくれるよなって思ったからさ」
    「ほー」

     つまり、鶴丸に用事がある訳だ。ちらりと周囲を見回すも、幸いドリンクコーナーに人気はないし、一期達の席からは死角になっている。話すならば今だろう。
     
    「で、どんな用だい?」
    「うん。あのさ、いっぱい稼ぎたいってなったら、やっぱり沢山勉強して大企業に勤めるのが一番良いよな?」
     
     中学生の発言とは思えぬ相談事が回って来て、一瞬鶴丸は目を点にする。
     
    「……博多のが感染したか?」
    「そういうんじゃねぇって! 将来、チビ共を養うためには安定した収入がいるだろって話!」

     思わず金の亡者の名前を出すと、心外とばかりに後藤が目を吊り上げる。茶化したつもりはないが、結果的にそうなってしまった事は謝るべきだろう。だが、まだ遊びたい盛りの中学生が描くには現実的過ぎる将来像に、つい頭を掻いてしまう。
     
    「ま、確かにそれが一番現実的で堅実なのは確かだな」
    「だよな。よし、ならもっと勉強頑張らなくっちゃな……」

     後藤はうんうんと頷く。チャラい――と言えば失礼かも知れないが、髪の一部を染め、シルバーのアクセサリをするような彼が言うには些か不似合いな台詞だ。それは後藤自身も分かっていたのだろう、見つめる鶴丸の目を見て口を開いた。
     
    「いち兄も、中学一年の頃には、もう大企業に入って沢山収入を得るって目標立ててたらしいぜ」
    「それはまた……」

     一期の場合は、彼らしいと思ってしまうのだから不思議である。しかし、その理由に目を向ければ、そこには悲壮なまでの覚悟があったのだろうと思う。少しでも、弟達に仕送りが出来るように。少しでも良い暮らしをさせてあげられるように。そして施設に少しでも恩返しが出来るように。一期はそう考えて、必死に頑張ったのだろう。皆と遊びたいのも、羽目を外したいのも我慢して、勉強に、バイトに明け暮れて。そうしてようやく今のゆとりを手に入れたのだ。
     
    「俺も、そうなりたいんだ」

     後藤は、痛い程真っ直ぐな目で鶴丸を見た。
     
    「チビ達のために、少しでも楽をさせてやれる兄貴でいたい。俺がチビだった時、いち兄がそうしてくれたように。だから俺、勉強もバイトも頑張るぜ!」

     そうして、五条さんやいち兄がいるようなでっかい会社に入って、でっかくなってやるんだ! 後藤はにっと微笑んで、腕を広げる。その腕いっぱいに、宝物を持った手で。
     そうか。と、鶴丸は笑う。ぐしゃぐしゃと髪を掻き回すと、うわ、やめろよっと声がかかってきた。けれど、本気で嫌がられてはいない。はははっと笑う声がする。
     
    「……おっと、そろそろ水を持ってかなければ、お兄様が心配するな」
    「そうだったそうだった。トレーあるかな?」

     ひとしきり笑ってから、コップとトレーを用意する。氷のからんとした音が、涼やかに響いた。
     


     
    「クラゲって、こうして見る分には綺麗だよねぇ」
     
     昼食も終わり、各々クラゲコーナーを見回る事になってから数分後。一人小さな水槽を眺めていた鶴丸の横に、乱が来た。こうして見る分、というのは、毒を持っている事や、海辺に打ち上げられた姿の無残さの事を指しているのだろう。確かにあれは綺麗とは程遠いよなぁと頷いて、鶴丸はゆらゆらと揺れるクラゲを見つめる。この水槽には、このクラゲ一匹だけだ。残りはいない。寂しくはないのだろうか、死んでしまったらどうなってしまうのか――そもそもクラゲにそういった感情があるのかないのか。鶴丸には分からなかったが、何処か寂しげに映ったのは恐らく、自分の姿を重ねたからだろう。正確には、かつての自分の姿。綺麗な所で、綺麗なお人形として、綺麗ね綺麗ねと言われ続けて過ごした幼少期。それが嫌で、でもどうしようもなかった中学時代。そして、自分には手があって、足もあって、何処へだって行けるんだとようやく気付いた高校生。しがらみも何もかも捨てて入って、ようやく息を吹き返した大学。その先にある――今。この場所で、宝物達と過ごしている。そう思えば、このクラゲが憐れになった。彼(彼女?)は何処にも行けないのだから。それでも、自分の運命を見定める事は出来るけれど。
     何も言わずにクラゲを見つめる鶴丸を、乱が見上げる。赤みがかった金髪がさらりと揺れ、青白い光に照らされて滑り落ちていく。
      
    「昔ね、もっと小さい頃、ここに来た事あるの」

     乱は、ぽつりと言った。
     
    「その時思ったの。このクラゲ、ボクだって。何処にも行けないボクと一緒だって」

     思わず目を見開いて、そちらを見た。乱はクラゲを見つめる。指で、つ、となぞって、寂しげに微笑んだ。
     
    「施設から出られない。出られた時にはもう何処にも行き場がない。死んじゃうも同然なんだって、そう思ってた」

     蒼い目が、光を吸い込む。
     
    「でもね、いち兄が、手を握ってくれたの。お前の行き場は私が作るからって。お前が施設から出てくるまでに、大きな家を建てて待ってるよ。そう言ってくれたんだ」

     ふわりと笑みが広がる。蒼い目にはきっと、その時の思い出が蘇っているのだろう。水槽の中のクラゲの動きに合わせて光が変わると、乱の表情もくるくる変わる。微笑みから、泣き出しそうな顔へ、そしてまた、笑みへ。そうして、そっと瞼を落とす。
     
    「だからごめんね、クラゲさん。ボク、お仲間にはなれないんだ」

     そう言って別れを告げたの。でもまた会っちゃったね。そう言ってウインクする姿はもういつもの乱そのもので、鶴丸も笑みを浮かべる。黙って頭に手を置くと、人懐っこい顔ですり寄ってきた。
     
    「ね~え、五条さん。ボク、聞かなきゃいけない事があるんだけど」
    「なんだい?」
    「五条さんは、いち兄の恋人なの?」 
     
     ふんわりとした顔のまま、しかし目だけは油断なく鋭く、乱は聞いてきた。嘘を見逃す事のない、決して逃さないという目。少しでも疚しい所があれば、あっという間に暴かれてしまうだろう。そんな恐ろしい目を乱はしていた。
     しかし、鶴丸に不安はない。何一つとして、隠す事なんてなかったから。
     ただ、

    「男が恋人で良いのかい?」

     それだけが、聞くべき事だった。各自治体によっては認められてきたとはいえ、まだまだ同性愛への偏見は強いだろう。そんな謂れのない視線に、大事なお兄様が晒されても良いのか。それだけが気掛かりだった。
     乱は目を細める。そうして歌うように唇を開いた。
      
     あのね、いち兄はああ見えて凄くプライドが高いんだよ。それに警戒心だってうんと強い。あんなに柔らかい対応するのにね。……施設育ちで色々あったからかな? だから、内側に入れても良い人なのかって、いつでも見極めてる。知ってる? 五条さん。ボク達と一緒にお出掛けするいち兄の"お友達"は、五条さんが初めてなんだよ。ボク達がほんのちょっとでも傷付かないようにって、いち兄はいつでも気を張ってる。そのいち兄が、ボク達と会わせても大丈夫、会って欲しいって思ったのが、五条さんなんだ。五条さんが初めて。この先ももしかしたら増えるかも知れないけれど、それは五条さんが最初にいたから、きっと増えるんだよ。
     
     乱はにこりと笑って、顔を上げた。
     
    「ボク達はね、何も心配してないよ」

     後ろ手に手を組んで、ただ笑った。
     
    「いち兄の選んだ人だもん」

     ――彼らの一期への信頼が、目に見えるようだった。何年もかけて育った、大木のような信頼。その幹は太く、強く、枝は見事で、美しい花が咲いている。丁寧に水をやり、太陽の光をたっぷりと注いだからこそ、出来たものだ。その開いた花を、鶴丸は手の上に乗せられている。弟達に、そして一期に。温かく、優しい。
     
    「だったら俺も、全力で粟田口の事射止めなきゃな」
    「あ、まだキスもしてないの? ざんね~ん。したら連絡頂戴ね?」 
    「駄目だ駄目だ、中学生にはまだ早い」
    「五条さん考えが古い~」

     軽口を叩き合って、笑い合う。胸中でそっと祈った。どうかこの水槽のクラゲにも、仲間が出来ますようにと。
     


     
     皆でお揃いのお土産を買おう! そう言い出したのは誰だったのか、秋田かも知れないし前田かも知れないし鯰尾だったかも知れない。兎に角、土産物コーナーに入り、13人は、どの商品を皆で持つか悩みに悩んだ。
     
    「やっぱりイルカが良いんじゃないかな」

     クジラやイカの横、色取り取りのイルカのキーホルダーを見て、鯰尾が言う。それに骨喰も首肯した。確かに色の種類が沢山あって被らないし、水族館に来た! という感じがする。よし、じゃあこれにしようと決めて、各々色を選ばせた。さて、俺は何を選ぼうか。そんな顔をしつつ、もう決めている鶴丸である。空色――ここでは水色と言うべきか。これだ。理由は言うまでもないから割愛する。そしてちらりと隣を見ると、一期がある一点を見つめていた。何を見ているんだ? と鶴丸は視線の先を見る。そこには、白いイルカのキーホルダーがあった。それを食い入るように見つめている。白――一期は、白が好きなのか? それとも、それとも……? 笑みが込み上げて来て、慌てて押し込める。まだそう決まった訳じゃない。
     思っていると、
     
    「いち兄はこれね!」

     そう言って、乱が白いイルカのキーホルダーを一期に押し付けた。渡された彼は目を白黒させている。なんで、とか、いや嫌とかじゃないが、とか、もごもご言っている。そして視線を巡らせた後、そっと、そーっと、こちらを見てきた。目が合う。当然合う。ばっと逸らされた。きみ、きみって奴は。勘違いするぞ。良いのか?
     
    「よし、全員決まったな。買ってこようぜ!」

     薬研の言葉に、はっと一期が我に返る。そうして暫し白イルカを見つめた後、そっと握り締めてからカウンターに持って行った。慌てて鶴丸も続く。
     
    「スマホにつけます……」

     ぼそりと一期が呟いた。それに、目を見る事が出来なくて、ただ頷く。
     俺もつける。絶対につける。
     


     
    「じゃあ、今日はありがとうございました」

     夕方。斜陽の空を眺めつつ、施設の前で11人の子供が頭を下げる。無事、門限前に水族館から帰って来る事が出来た。途中で何かトラブルが起こる事もなく、何事もつつがなく。帰りの電車では、はしゃぎ疲れたのか小さな子達は眠っていた。すやすやと身を寄せ合って眠る姿に、胸がほっこりと温かくなった。それは一期も同じだったのか、髪の毛をゆったりと梳いてやる顔は慈愛に満ちていた。一緒に来られて良かった、と、また鶴丸は何度目かの思いを胸に抱く。一期と、この子達と一緒に来られて、とても楽しかった。話が聞けて嬉しかったし、発破もかけられた。このまま、一期とだけでなく、彼らとも連絡を取り合って、仲良く出来ればと思う。皆良い子で、温かい子供達だった。
     しかし、長々とここで立ち話をしている訳にもいかない。名残惜しいが行かなくては。鶴丸と一期が立ち去ろうとする素振りを見せると、急に子供達は顔を見合わせた。
     
    「五条様、ちょっと待ってください!」 
     
     そう言って、前田がバタバタと施設の中に入って行く。何だ何だと鶴丸は一期と顔を見合わせるが、首を振るばかり。はて、何かこの間に忘れ物でもしただろうか。そんな事を考えている内に、前田が息を切らせて出て来た。持ってきたのは、何か紙を丸めたもの。それを平野に渡して、前田はぴしっと背筋を伸ばした。
     
    「五条様、今日は楽しかったです。ありがとうございました」
    「おう、俺も楽しかったぜ。ありがとうな」

     先程も言われた言葉を繰り返されて、鶴丸も笑みを浮かべる。嘘偽りなく、楽しかった。そう告げれば、嬉しそうに顔を見合わせる所がまた可愛い。そして、平野が一歩前に出ると、おずおずと丸めてあった紙を広げた。
     そこに描いてあったのは。
     
    「俺――だな?」

     肌色の丸と、灰色の長い線が幾つか、黄色の真ん丸が二つ。それらが画面いっぱいに描かれた絵。辛うじて人と分かる造形。けれど鶴丸は、それが自分であると疑わなかった。疑う必要すらなかった。前田と平野が、目を輝かせてこちらを見つめていたから。彼らが一生懸命に描いてくれたのだと、分からない奴が果たしているだろうか。鶴丸は満面の笑みで、その画面を覗き込んだ。
     
    「おお、男前じゃないか。鼻の所が特に良い」
    「いち兄に写真を見せていただいて、描いたんです……!」
    「そうか、そのために……」

     水族館に行く事が決まった日の夜、一期からメールが届いたのだ。弟が、鶴丸の写真を欲しがっているので送っても良いかと。大方どんな奴か知りたかったんだろうという程度しか思わず、構わないと許可したのだが。まさかこんなサプライズプレゼントが待っていたとは。口元が綻ぶのが止められない。鶴丸は大事に、大事に、その紙を受け取った。
     
    「貰って良いかい?」
    「勿論です! あの、いらなかったら捨て「部屋に飾るぜ。額縁に入れてな!」
     
     にっと笑いかければ、前田と平野が顔を合わせて、それから少し潤んだ目で頷いた。本当に、懸命に描いてくれたのだ。捨てる馬鹿がいたら地獄に叩き落としてやりたい。部屋の一番目立つ所に置こう。今日、皆で撮った写真と共に。
     
    「しかし、前田、平野」

     ふと、鶴丸の後ろで同じく目を潤ませていた一期が、羨ましそうに首を傾けた。贈り物の絵を覗き込んで尋ねる。
     
    「こんなにハートマークばっかり。そんなに五条様にお会いしたかったのかい?」
    「え? いち兄が五条様のお話をする時こんな感じですから、それを表現してみたんですけど……」

     ――前田としては、何気ない一言で、だからこそ真実だったのだろう。しかしそれは、鶴丸本人の前で言うべき台詞ではないという所まで分かる程、彼はまだ大人ではなかった。
     一瞬にして、一期の顔面が真っ赤に染まる。それこそ、苺のように。あ、ぅ、と口をぱくぱくとさせて、一歩後退った。長兄のそんな様子の意味が分からなかったのだろう。下の子達が首を捻る。その横で、年長組がにやにやと一期を眺めた。対する鶴丸は、一期ににやにやする所ではない。首まで真っ赤に染まって、思わず紙を握り潰しそうになった。――一期が普段、どんな風に鶴丸の事を語るのか。これは是非、近い内に聞かせてもらわなければならない。顔を上げれば、目が合った薬研がぐっと親指を立ててくれた。話が早くて助かる。
     
    「あ、じゃ、じゃあ、もう、帰るよ、私達は!」 
     
     しどろもどろになりながら、一期は今度こそ別れを告げる。それに皆一瞬名残惜しそうな表情をしたものの、きちんと頷いた。
     
    「またね、いち兄。またね、鶴丸さん!」
    「ああ、またな!」

     何度も振り返って手を振りながら、道を進む。橙に染まった一期と鶴丸の長い影が、伸びて、消えて行った。

     
     駅まで辿り着くと、ぴたりと足が止まる。一期も、鶴丸も。同じ会社に勤める二人だが、家の方角は全く別だ。だから電車に乗ったら最後、今日はもうお終い。お開きと言う事になる。それが何だか、無性に寂しい。だから鶴丸は、食事に誘うつもりでいた。一緒に夕飯を何処かで取ろうと。それならば、もう少しだけ、一緒にいられる。
     
    「……五条様」

     鶴丸が口を開くよりも前に、一期が声をかけてきた。何だい? と尋ねれば、琥珀色の視線が返って来る。きらりと濡れたように光る視線が。どきりとして、息を止める。
     
    「宜しければ、夕飯をご一緒しませんか」

     一期は潤んだ目のまま言った。
     
    「……私の家で」 
     
     電車で二駅分。鶴丸と一期は何も言わなかった。ただ一つ、食材はあるのかと尋ねれば、多めに買ってありますとだけ。それ以外は無言で、ひたすら一期の後について行った。マンションの階段を二つ分上って、一番奥の部屋。そこが一期の住居らしい。彼は鍵を取り出そうとして、落っことした。あ。二人の声が重なる。拾おうとした手も重なる。一期が素早く手を引いて、俯いてしまう。そのつむじを見ながら、鍵を優しく掌に乗せた。
     
    「……ありがとうございます」

     小さな小さな声で一期は言って、鍵を開ける。先に部屋に入り、ぱちりと電気を点けた。ぱっと明るくなる部屋。何があるのかだとか、趣味が良い・悪いだとか、そんな事は全部吹き飛んでいた。鶴丸は土産と前田達に貰った紙を丁寧に置くと、エアコンをつけようとしている一期を後ろから抱き締めた。びくり、と一期の体が震える。それでも離さずに、寧ろますます力を込めて、囲う。首筋に顔を埋めると、一期の匂いがした。優しくて、爽やかな香り。それをすん、と吸い込んで、そっと目を閉じる。一期は腕の中で固まったまま。
     
    「なぁ、粟田口」
    「……はい」
    「どうして俺を家に呼んだんだ」
    「……」

     返事はない。ただ、ぎゅ、と、囲った腕に手が添えられる。熱い。身体が熱い。溶けてしまいそうだ。このままどろどろと溶けて、きみと混ざり合って、何処が境界線か分からなくなってしまったら。どんなにか気持ち良いだろう。
     
    「俺は、こんな無防備に家に呼ばれて勘違いしない程、出来た人間じゃない」
    「……勘違いでは、ありません」

     か細い声が聞こえた。一期は俯いて、鶴丸の手に自分のそれを重ねる。その熱は火傷しそうな程で、けれど蕩ける程気心地良かった。
     
    「ちゃんと聞かせて」

     くるりと腕の中の一期を、こちらに向かせる。彼は顔を上げた。琥珀色の瞳を溺れさせて、じぃっと、ただじぃっと。鶴丸だけを、見ていた。他の何にも映さない目。ただ、今この瞬間だけは、自分だけの。
     
    「お慕いしております、五条様」
    「俺も、きみが好きだ。……一期」

     初めて下の名前で呼ぶと、一期の目の海が揺蕩う。それをそっと拭いながら、鶴丸は永遠にこの目を見ていたいと思った。同時に湧き起こった衝動に、身を任せたくもなる。二つの相反する気持ちと戦いながら一期の目を見つめ、そして、遂に衝動が、勝った。
     ぐいっと腰を引く。すると一期はバランスを崩して、よろめいた。そこを抱き留めながら、押し倒す。ばたん、と二人、カーペットの上に倒れ込んだ。
     
    「ご……五条、様」

     一期の顔が、いよいよ熱で染まり上がる。一期を押し倒した鶴丸は、腕や腹、腰、太腿などに触れていった。その意味する所が分かったのだろう、一期は今度は顔を青くする。不安や恐怖がさっと瞳を過ぎり、唇が戦慄いた。その様子を見下ろして、にっと笑う。そしてぎゅうと抱き締めると「しないさ」と囁いた。
     
    「今は、しない。ただきみを確かめたくて触れただけだ。そういう事は、まだ先の話だ」

     一期の空色の髪を優しく撫でる。強張っていた彼の身体が、徐々に解けていくようだった。
     
    「これから俺達は、沢山の事を準備しなければならない。色んな事、たっくさんだ」

     でも。
     
    「俺一人では、用意したくない。きみと一緒じゃなきゃ嫌だ。きみと二人で計画して、準備して、歩んでいくんだ」 
     
     鶴丸は顔を上げ、一期の目を覗き込んだ。彼の琥珀の瞳は、逸らされる事なく鶴丸を見ている。
     
    「一緒に歩こう、一期」 

     勿論、きみの家族も一緒に。
     宝物を二人で愛でていこう。
     そうしてお互いもまた、宝物に。
     
    「はい。鶴丸様」

     一期は、はっきりと頷いた。きらりと光る目でこちらを見て、真っ直ぐと。
     
    「貴方と、歩きます」

     視線が絡まる。鼓動が近付く。
     そっと瞼を閉じながら、唇を静かに寄せながら。
     鶴丸と一期の初めてのキスは、甘く、柔らかく、何より温かかった。
    #刀剣乱腐 #つるいち #腐向け #小説 #現パロ




    一章 粟田口一期

     心地良い風の流れるテラス席を、人でごった返す昼間に取れたのは幸運だった。運ばれてきたコーヒーを口にして、薬研は笑う。正面には、長兄である一期の姿。彼はピシリと決めたスーツに身を包み、薬研と同じくコーヒーを飲んでいる。
     このカフェは、先日、乱と一緒に発見した。といっても、裏通りにあったり、駅から遠かったりする所謂「穴場」ではない。寧ろこの通りにはカフェがずらりと並び、好みに合わせて寄りどりみどりである。だからこそ薬研は、今までもっと駅に近い店に入っていて、ここは見逃していたのだ。もう一口コーヒーを飲んで、惜しい事をしていた、と思う。もっと色々な店に入ってみて、味を比べてみれば良かった。値段もそう変わらないなら、美味しい方が良いに決まっている。

    (まぁ、言っても仕方ない事だな。いち兄に紹介出来ただけ良しとするか)

     兄の横顔を見ていると、視線に気付いたのか琥珀色の瞳が薬研を見、にこりと笑う。その頬は、僅かに緩んでいた。美味しい物を飲み食いした時の表情である。薬研は、内心ぐっと拳を握った。兄がこういう表情をする瞬間が好きなのだ。今日の誘いは成功と言って良いだろう。

    「とても美味しい。流石、薬研と乱のお眼鏡に適っただけはあるね」

     カップを上品に置いて、一期はありがとうと礼を言う。今日の一期とのランチは、薬研が誘ったのだ。普段、一期は、会社のデスクで片手間に弁当を食べている。それが悪いとは言わないし、仕事に熱心な一期を好まない訳でもなかったが、偶にはこうして外に出て、気分転換をするのも大事だ。昨夜、学校の休みにかこつけて「昼間会おう」と電話した薬研に、一期は直ぐに嬉しそうに頷いてくれた。そういう所を見ると、兄は、本当に自分達を大切にしてくれていると実感する。例え、今は別々に暮らしていたとしても、――血が繋がっていなかったとしても。薬研は、兄を敬愛していた。
     一期が、再びカップを手にする。それを見ながら、薬研はちらりと時計を確認した。まだ、一期の休憩時間は残っている。ならば、他の兄弟の近況でも話すか。今更薬研が言わずとも、兄弟達は一期に毎日山程のメールを送っているのだから大体は知っているだろうが、その場に居合わせなければ分からない事もあるだろう。例えば、一昨日、厚が喧嘩をして帰ってきた事とか。昨日、五虎退と秋田が眠れなくなるからいけないと言われていたホラー映画を見て、案の定震えていた事とか。思い返してみれば、色々ある。
     さてさて、時間内に終われるか? 薬研は苦笑して、一期に視線を戻す。彼は――ぼんやりとした目で、何処かを見つめていた。

    「いち兄?」

     話しかけても、何も言わない。おかしい。身を乗り出して一期の前で手を振る。しかし、それでもこちらを見ない。眉を寄せて、一期の視線の先を探す。どうやら道路を挟んだ向かいのカフェを見ているらしいが、詳しい事までは分からなかった。
     ――嫌な予感がする。

    「いち兄? 何を見てるんだ?」

     もう一度、今度は少し強めに言う。すると、一期はハッとして薬研を見た。瞬きを繰り返し、ああ、と遅い返事をする。薬研は首を傾げて、向かいのカフェを見遣った。

    「どうしたんだ? あっちのメニューでも気になんのか?」
    「いや、その――美しい方だな、と思って」
    「は?」

     薬研が呆けると、一期はちらりと視線を戻す。向こうのカフェの、ある一点。そこを見て、視線を蕩かせた。恍惚と、見惚れているような表情。僅かに開いた唇から零れる感嘆の声。
     ああ、成程。薬研は理解した。光の関係で、薬研の位置からは店内の様子が見えない。けれど、兄が何を見ているのかは察した。

    (またいつもの病気が始まっちまったか)

     溜息が出た。
     一期は、優秀な男だ。品行方正、眉目秀麗、文武両道、そんな四字熟語がこの上なく似合う。いつでも礼儀正しいし、しっかりしている。自慢の兄だ。
     ただ、一つだけ。薬研としても困っている病気がある。
     それは、

    「で――あのカフェに、どんな綺麗な御仁がいるんだ?」

     美人が、大好きなのだ。どれくらい好きかと言われれば、この折り目正しく長兄としての表情を常に浮かべている兄が、相好を崩して不躾に眺めてしまうくらいには好きだ。兄が、兄としての顔を忘れてしまうくらいに没頭する。その熱い視線に、薬研は再び溜息を吐いた。

    「俺の位置からじゃ見えないんだ。教えてくれ、いち兄」
    「……冬の朝に積もった新雪のように美しい方だ」
    「この時期に雪か。涼しくて良いな」

     相槌を打ちながら、薬研は席の位置をずらして、何とか対象が見えないかと目を凝らす。別に、一期が誰かに見惚れる事は良い。一期の自由だ。ただそれが、一期を害する相手である可能性は否定出来ない。時に爛れた雰囲気が美しく見える者もいる。そういった人物に一期が見惚れて入れ込んでしまうのは、何としても阻止しなければならない。幸い、今まで一期はそういった危険人物に捕まった事はないのだけれど。万一という事がある。
     眉を寄せながら、薬研は椅子をずらすのを諦めて、兄の後ろに立った。普段ならば何かしら言ってくるであろう一期も、今回ばかりは何も言わない。その肩に顎を乗せて、目を細める。ここからなら、確実に見えるだろう。そして、藤色の目は、一人の人物を捉えた。
     白い。それが第一印象。第二の印象は、白い。第三も白い。
     兎に角、白い男だった。背を向けていて、顔は見えない。丁度、店を出ようとしているのか、財布を取り出して会計をしている。その財布すら白く見えて、何だありゃと薬研は呟く。確かに雰囲気からして美貌を予感させるが、同時に変人である可能性もひしひしと感じる。後ろ姿はどう考えてもホストだし、ホストではないにしろ、こんな真昼間にこんな場所で見るにはそぐわない白さだ。ちらりと覗く肌すら、男とは思えない程白い。そう呟けば、平素の一期ならば「お前も十分白いよ」と言っただろうが、生憎と白い男の虜で、無反応だった。

    (向かいの店で良かったな)

     薬研は内心で安堵の息を吐く。真面目な一期が、見惚れた相手に声をかけた事は一度もないが、この鉄をも溶かしそうな熱い視線でフラフラと寄ってきた者は両の手では足りない。どう考えても普通ではなさそうな白い男が、一期の視線に気付かないのは幸いである。
     さて、白い男が去ったら、改めて兄弟の話と洒落込むか。薬研は席に戻って、残りのコーヒーに口を付ける。視界の端で、白い男が店を出て来た。さぁ、そのまま立ち去ってくれ。そんな心の声に応えるように、男は歩き出す。
     こちらに向かって。

    「お?」

     薬研はコーヒーカップを置いて、じろりとそちらを見る。男は、左右を確認して車が途切れたのを見ると、大股でこちらに向かっていた。――いや、ただ単にこちら側に行きたい場所があるのかも知れない。そんな甘い考えは、直ぐに立ち消える。
     なにせ、白い男は、間違いなく一期をじっと見つめて歩いていたから。

    (おいおい、気付かれてたのかよ)

     薬研は頭を抱える。今更、兄を連れて店を出ようとしても手遅れだろう。ならば、腹を括るしかない。

    (頼むから、変な奴であってくれるなよ)

     息を吐くと同時、白い男が一期の前に到着した。

    「よう旦那。何か用か?」

     先手必勝。薬研が気軽に声をかけて手を上げると、男がこちらを見た。

    「いや? どうもご指名っぽい視線を感じたんでね」

     飄々と男は言う。その言葉に、やっぱりホストかと薬研は確信した。昼間からご苦労なこってと口の中で呟きながら、一期をちらりと見る。彼は言葉一つ発する事なく、男を見つめていた。その様子に、こりゃまた酷いなと思った。兄の美人好きはいつもの事だが、今回は殊更入れ込んでいるように見える。しかし、それも仕方ないか、と薬研はようやっと正面に見えた白い男の顔に視線を当てた。
     白い男は、美醜に頓着ない上に、同性である薬研の目から見ても美しかった。それこそ、一期でなくても見惚れるであろう程に。新雪のよう、と兄が評した通りの白銀の髪は細くさらりと流れ、肌は象牙のように輝いている。身に纏う白い服も、それだけならば陽光に吸い込まれて消えそうな儚さを感じさせるが、弱々しさは全くない。目だ、と薬研は思った。強く光を放つ金色の目が、はっきりと意思を持っている事を物語っているからだ。美しい、されど弱くもない、光を受けて堂々と輝く磨き抜かれた宝石のような人間。
     そんな美貌が、悪戯っぽく片目を瞑る。

    「取りあえず、座っても良いかい?」
    「場所代なんて言い出さないなら良いぜ」
    「おいおい、俺はホストじゃないぜ。ちょっとお茶目なサラリーマンだ」

     まぁよく間違われるけどな、と男は肩を竦める。隣の空いた席から椅子を拝借して、男は座った。長い脚を組む様が、とても絵になっている。
     その気後れの全くない様子に、薬研は少し興味が出た。

    「そんなに真っ白じゃ、ホストと間違われても仕方ないと思うぜ。会社でも言われないか?」
    「最初は確かに言われたな。成績さえ残せばどうとでもなったが」
    「へえ。旦那、優秀なのか」
    「自負はしているな」

     愛想良く話す姿は、見た目の硬質さとはかけ離れている。外見だけで判断するならば、もっと近寄り難い印象だ。しかし、受け答えは決して冷たくない。表情も、この短い間だけでくるくると変わっている。気さくな男だった。
     だが。薬研は用心深く見る。先程、一度だけ薬研を見た目は、それ以降ずっと一期を見つめていた。それこそ、一期が男を見つめるように、男は一期の事を穴が開く程に凝視している。興味を抱いているのは明白だった。
     さて、どうするか。薬研は考える。一言二言話した感じでは、嫌いなタイプではない。寧ろ、面白そうな御仁だと思う。自分一人だったなら、このまま話していても良かっただろう。しかし、最初から好感度の振り切れてしまった兄と話をさせてみるには、得体が知れない。時計をちらりと見る。
     そんな薬研の前で、男の金色の目がきゅっと細まった。

    「で、そろそろきみの方と話がしてみたいんだが」

     一期を見て、男は笑った。存外に男らしい笑みだ。正面で話しかけられて、一期はやっと我に返ったようにハッとする。今まで完全に夢心地だったのだろう、目をしばらく瞬かせてから、口を開いた。

    「申し訳ありません。ぼーっとしておりました」

     焦点の合った一期は、いつも通りの凛々しい声で答える。そこには、先程まで見惚れてぼんやりしていた名残は全くない。表情も、兄らしい顔に戻っている。

    「そんなに俺が好みだったかい?」
    「いや、申し訳ない、美しい方に弱いのです」

     からかい混じりの男の言葉に、恐縮したように一期は返す。兄の言葉に興が乗ったのか男は笑みを深め、何事か言おうとする。
     しかし、薬研はそれを阻止した。

    「いち兄。そろそろ帰らにゃ昼休み終わっちまうぜ?」

     言われて、一期は瞬きをして時計を確認した。後10分で昼休みは終了だ。ここから歩いて5分の場所に会社がある事を考えれば、もう戻らなければならないだろう。
     一期は頷いて、鞄とカップを乗せたトレイを手に取った。席を立ちながら、男に頭を下げる。

    「では、美しい方、私達はこれで」
    「待った待った、折角の縁だ、これを持ってってくれ」

     そのまま解散かと思いきや、男は紙を一期に手渡した。名刺のようだが、手書きでアドレスが書き込まれている。恐らく、私用のアドレスだろう。いつの間に用意したんだ。
     一期は目を落として、名前を読み上げる。

    「五条、鶴丸様……」

     一期が呟くと、男――鶴丸が頷く。いつでも良いから連絡してくれ、と片目を瞑ると、席を立った。颯爽と遠ざかる後ろ姿を見送る。やはり、ホストにしか見えない。
     いち兄、知らん奴にアドレス教えるのはよく考えるんだぜ、と一応釘をさしておくかと思った薬研は、あれ? という兄の驚いた声に言葉を引っ込めた。一期は目を丸くして名刺を見ている。

    「どうしたんだ?」
    「あの方、五条様。……私と同じ会社に勤めていらっしゃる」
    「へ?」
    「営業部のようだ」

     名刺を覗き込めば、確かに一期が勤めている会社の名前が書かれていた。開発部の一期とは部署が違うが、つまり同僚か。思わぬ偶然にあんぐりと口を開けると、一期が面白そうに笑い声を上げた。

    「いや、あんなに美しい方が同じ会社にいたなんて、知らなかったな」
    「まぁ、あのバカでかい会社じゃ、同僚の顔知らなくてもおかしくはないが……」

     それにしたって、なぁ。顔を見合わせる。そのまま暫し一期は可笑しそうに笑っていたが、ハッとして時計に目をやった。

    「いけない、遅刻してしまう。じゃあ薬研、気を付けて帰るんだよ」
    「いち兄こそ、無茶すんなよ」
    「分かっているよ。じゃあ」

     一期は慌てて、しかしきっちりとトレイを所定の位置に返してから走り出す。それを見送って、薬研は帰り支度を始めた。頭の中は、兄と、鶴丸の事が蘇ってくる。同僚ならば、身元も保証されたという事だが。果たして。

      *

     プロジェクトの進捗は順調だと言って良いだろう。会社のデスクでパソコンに向かい、少々乾いた目を持て余しながら、一期は溜息を吐いた。同僚の進行具合を確認すると、一人出遅れている者がいるものの、概ね予定通りだ。その出遅れている者のカバーも、現状のまま進めば、バッファとして残した分で補える程度で済んでいる。どうか、このままつつがなく事が進みますように。プロジェクトの一員として、願わずにはいられない。
     目薬をさして、時計を確認する。12時3分。昼休みだ。今日は弁当を作ってきていないので、買いに行くか、食べに行くかしなければならない。元々は昨日の内に同僚に誘われて一緒に昼食をとる予定だったのだが、会社に着いたと同時に先方から「熱が出たので休みます」と言われ、用意する事が出来なかった。
     さて、どちらにしろ外に行かなければ。パソコンにロックをかけて、一つ伸びをした。肩周りが強張っていたのか、バキバキと音がする。偶には動かさないと、と誰にともなく呟いたその瞬間、頬にひやりとした物が当たった。

    「ひっ?!」

     思わず声を上げて、びくりと体を震わせる。慌てて横を見ると、真っ白な男が何とも楽しげに目を細めていた。

    「ご、五条様?」
    「驚いたか?」

     目を白黒させる一期に、鶴丸は喉の奥で笑う。その手には、ペットボトル。先程の冷たさは、どうやらそれを一期の頬に当てた感触だったらしい。取りあえず原因が分かってほっと息を吐く。次いで、いつも通りに笑みを浮かべた。これは、一期の癖のようなものだった。誰に対しても、次の瞬間には笑顔で対応する。そのせいか笑った顔を褒められる事も多い。

    「五条様。当部署に御用ですかな?」

     椅子ごと向き直って尋ねると、鶴丸はきょとんとした顔をした。その顔に、首を傾げる。恐らく自分もきょとんとした顔をしただろう。目を瞬かせて鶴丸を見れば、彼は噴き出しそうな顔でこちらを見た。

    「いや、部署に用事はない。きみに会いに来たんだ」
    「私に、ですか?」
    「昼でも一緒にどうかと思ってな」

     そうして、鶴丸はにやりと笑った。その顔は、大好きな玩具を前にする童子のように無邪気だが、一方で子供と称するには奥深くに獰猛さのようなものも感じられる。その相反する様に、一期は返事も忘れて口内だけで「美しい」と呟いた。最初に見た時から、何て美しい方なんだと思った。しかし、それは外見だけ、見たままを言った感想だった。しかし、今美しいと思ったこれは違う。その表情が、迸るような生命力が、美しい。造形だけでなく、乗せた色まで美しいとは。見惚れるなという方が無理だろう。
     応答のない一期に、鶴丸は首を傾げる。

    「もしかして、弁当でも持ってきてたか?」
    「……あ、いえ、今日は作ってこなかったので、ありません」
    「つまり、普段は弁当か。覚えておくぜ」

     一期の昼食事情を覚えてどうするのか一瞬気になったものの、肩に手を置かれて立つように促されては口を噤むしかない。まだ返事はしていないが、どうやら鶴丸の中では一緒に昼食に出る事が確定しているようだ。それに否やはない。どの道出る予定だったし、何より鶴丸程美しい人間と一緒に食事が出来る機会など、滅多にあるものではない。食事中ずっと眼福に預かれるのかと思うと、幸せで胸がいっぱいになった。
     必要最低限の荷物だけ持って、先導する鶴丸に続く。

    「何処か場所は決まっているのですか?」
    「初めて会った所の隣のイタリアンにしようかと思っているんだが。嫌いだったりするかい?」
    「いいえ、好き嫌いはございません」
    「良い事だ」

     エレベーターを待ちながら、ちらりと隣の鶴丸を見る。硝子窓から入る日差しを受けて、白い髪が、肌が、光っている。ああ、なんて素晴らしい景色だろう。一期は鶴丸には見えない位置で頷き、僥倖を噛み締めた。

    「いや、五条様程の美しい方とお食事出来るとは、光栄ですな」

     おもむろに一期は言った。つい口に出た、という方が正しかっただろうが、兎に角気付けば言ってしまっていた。鶴丸が、目を瞬かせる。しまった、何の脈絡もなかったと反省したが、口にした内容は嘘を言っていない。そう思っていたからだろう、別段照れる事もなく鶴丸を見ていると、彼の頬が俄かに赤く染まったのを見て目を点にした。

    「粟田口は俺の顔を見る度にそれだな。言われ慣れてない訳じゃないが、流石に恥ずかしくなってきた」

     鶴丸は苦笑して顔を仰ぐ。見る度、という程会った覚えはないが、あの日交換したアドレスから何気なく送られてきた鶴丸の自撮り写真に言葉を尽くした事が原因だろうか。一期は美しいものや綺麗だと感じた事に対する賞賛の意を示すのに躊躇いがない。なさ過ぎて兄弟からは「人たらし」と不名誉なあだ名を付けられていたが、本心なのだから仕方がないというのが一期の言だ。

    「そんなに美人が好きかい?」
    「好きです」
    「即答か」

     躊躇なく答えると、鶴丸は声を上げて笑った。

    「そしたら、俺の従兄弟なんぞ見た日には卒倒するかもな」
    「そんなにお美しいのですか?」
    「魂が食われるような恐ろしい美丈夫だ」
    「それはそれは」

     鶴丸をして魂が食われるとは、果たしてどれ程の美しさなのか。想像しようと頭を悩ませたものの、思い浮かばない。ただ、ニュアンスからして妖のようなタイプの美しさなのだろうという事だけは理解した。近寄り難い、近付いてはいけない雰囲気を醸し出す美人。触れれば最後、二度と俗世に戻れぬような方? ぞくぞくと背筋が震える。
     そんな一期に、鶴丸は目を細めた。

    「会いたいか?」
    「是非」
    「残念だが会わせないぜ」

     即答に即答を返されて、一期は物思いから急に覚めたように鶴丸を見た。彼は笑っていたが、金の目だけはきゅっと狭まり、射抜くようにこちらを見ている。獲物に狙いを定めた狩人の目。先程、彼の従兄弟を想像した時とは違う感触で背筋に震えが走り、初めて味わうその感覚に困惑が浮かぶ。首筋の裏がぞっとするのに、顔に熱が上がってくる。ひやりとするのに、熱い。訳の分からない感触に口を閉ざす一期は、高い音を立てて到着を知らせたエレベーターに鶴丸の視線が吸い込まれたのを見てほっとする。
     エレベーターに入ると、1階のパネルを押した鶴丸が、こちらを見ないままに呟いた。

    「あれを見たら、きみは俺を美しいと言ってくれなくなるかも知れない」

     その言葉に顔を上げて鶴丸を見るが、彼は現在の階を示すパネルに視線を当てたまま。どういう気持ちでそれを言ったのかは、計り知れない。一期は暫し黙って、鶴丸の横顔を眺める。じっと穴が開く程に。そうして一つの結論を出して、口にした。

    「どんなに美しい方がいらっしゃったとしても、五条様の美が損なわれる事などあり得ないと思うのですが」

     本心から、そう言った。傾国の美丈夫と互角に渡り合える、という意味ではない。鶴丸の美しさが外面だけに起因する訳ではなく、その強い内面から滲み出ているものだと感じたからだ。外見は相対的に見られるかも知れないが、内面に正解などない。なれば、内側から溢れる鶴丸の美しさを損なう事など出来ようか。あり得ない。
     鶴丸は答えなかった。ただ、ばっと口元に手を当てるとそのままそっぽを向く。一期は不思議に思ってそれを眺めたが、見え隠れする耳が真っ赤に染まっているのを見て、彼が照れている事を知った。
     先程も思ったが、この程度の美辞麗句など慣れていそうな鶴丸なのだが。不思議である。

    「きみ……人たらしの才能があるな……」

     ぼそりと言われ、面食らう。とうとう、弟でない人間にまで言われてしまった。

    「本心です」
    「だからだ」

     はぁーっと重い物を吐き出すような溜息を吐く鶴丸に、一期は眉を寄せた。

      *

    「今日の弁当は一段と華やかだな」

     からりと晴れた空の下、噴水前のベンチで弁当を広げると、隣に座った鶴丸が一期の弁当を覗き込む。

    「昨日、弟達が家に遊びに来たので、その時の残りです」
    「成程」

     二段になっていた弁当を開けて中を見せると、鶴丸は感心したように頷いた。彼は今日もコンビニ弁当で、話を聞く限り、自炊は殆どしないらしい。外見だけで判断すると、確かに鶴丸は自分から料理をするイメージがない。誰か、使用人のような人物が、彼のためだけにフルコースを作る印象だ。そう思う一方で、しかし手の込んだ創作料理などは、作っていたら様になるのではないかとも思う。その事を言ったら「じゃあ今度教えてくれ」と返されたので、その内プライベートで会う事になるのかも知れない。
     先日食事に誘われて以来、一期と鶴丸は、時間が合えば共に昼食をとるようになっていた。言い出したのがどちらだったのかは忘れたが、息抜きに丁度良いし、鶴丸との会話は楽しいので深くは考えないようにしている。外見から、派手で少々変人気質に見える鶴丸だが、話してみると意外と――と言うのも失礼だが――真面目で常識的な性格をしていて、一期が眉を寄せたくなるような事は一度もない。時折、こちらを驚かそうとして後ろから忍び寄ったり、急に目の前に現れたりするが、弟達の様子を思えば可愛いものだ。目くじらを立てる必要もない。一つだけ気になるとすれば、他愛ない悪戯に一期が笑う度に、鶴丸は何やら形容し難い顔をする。悪い顔ではない。良い顔だと思う。ただそれがどういう感情から来るのか一期には判断出来ず、結局「よく分からない顔」という認識になるのだった。

    「しかし、きみの弟の数には驚くよなぁ」

     唐揚げを口に放り込んでいると、不意に鶴丸がそんな事を言い出した。野菜ジュースのストローに口を付けながら、羨んでいるような、途方もないような顔をしている。それを見返して、くすりと一期は笑った。

    「11人も弟を持っている人間は稀でしょうな」
    「ご両親は頑張ったな」
    「え」

     鶴丸の何気ない言葉に、一期は固まる。――言わなかっただろうか。思い返してみて、そう言えば弟の事しか話していなかった事に思い至る。一期は口を開いて、しかし直ぐに呑み込んだ。……話しても良いだろうか。いや、一期本人は後ろめたい事など何もない。そして、鶴丸はその程度の事で悪感情を持つような人物にも思えない。
     葛藤は一瞬だった。

    「私の両親は、私が4つの時に他界しました。弟達は皆、私と同じ施設で育った血の繋がらない子供達ですよ」
    「……え」

     鶴丸の目が見開かれ、こちらを真っ直ぐに見つめる。それに目を逸らす事なく見つめ返した。鶴丸は、施設と聞いてどんなものを想像するだろうか。しかし、少なくとも一期本人は、施設出身である事を、そして血は繋がらなくとも愛する家族がいる事を恥じた事はない。だから、鶴丸が何を思っていたとしても、目を伏せる必要はない。視線を外す事なく、鶴丸の金の目を見る。
     驚きに彩られていた目は、直ぐにふわりと溶けた。

    「粟田口は、弟達が好きなんだな」
    「はい。私の宝です」

     鶴丸の声は優しさに満ちていた。胸が温まる感覚に笑みを深める。やはり、この程度の事で態度を変えるような人物ではなかった。分かっていたつもりだが、実際にこうして笑って貰えると、嬉しくなる。笑う一期につられたのか、鶴丸も笑い声を上げた。楽しげな音が、喧噪に、噴水に吸い込まれていく。
     ひとしきり笑って、一期は時計を見た。

    「おっと、笑っている場合ではありませんでしたな。早く食べなければ」
    「そうだな。なぁ」
    「はい」
    「今日、飲みに行かないか?」

     くぃっと呷る真似をする。今日、今日か、と一期はざっと頭の中の予定表を洗い出した。プロジェクトは中盤に差し掛かった所で、時間はまだある。まだあるが、今日の内に残業で仕上げなければならない仕事が少々あった。

    「1時間程度、残業があるのです。その後でしたら」
    「いいぜ。こっちもそのくらいで終えられる仕事があるからな」

     鶴丸は頷いて、じゃあ終わったらホールで会おうと言った。それに頷いて、一期は微笑む。

    「楽しみですな。お酒は強い方ですので」
    「お、そりゃ良い事を聞いた。こちらこそ楽しみにしてるぜ」

     挑戦的に言う一期に、鶴丸が強気な笑みで答える。この様子からいって、多分彼も酒には強いのだろう。自分の周りには何故か下戸ばかりが集まっていたので、これは面白い。
     残りの弁当を食べながら、一期は心を躍らせた。

     残業が終わると同時に席を立った一期は鶴丸にメールを入れて、会社のホールに立つ。我ながら素早いものだと呆れるが、仕方がない。楽しみなものは楽しみなのだ。それは、晩酌を共にする予定の鶴丸が美しいというのは勿論の事だったが、最近ではそれだけではない気がしている。例え鶴丸が美しくなかったとしても、一期は彼と仲良くしていたいと思った。元々の出会い自体が美しい鶴丸に見惚れた事を考えると、美しくない鶴丸とは接点がなかったが、それでも、もしも出会えたならば、自分はこうして一緒に酒を飲むのを楽しみにしたと思う。そんな自分の心境を不思議に思いながら、きっと鶴丸の中身が良い男だからだろうと簡単に結論付けた。そういう意味では鶴丸は中身も美しい男である。そんな彼と酒を酌み交わせる仲までなれたのは嬉しい事だ。
     メールの返事はまだ来ない。仕事が長引いているのだろうか。待つのは構わないので、鶴丸が約束の時間に間に合わない事に焦らなければ良いと思う。もう少し待っても来ないようなら、ごゆっくりどうぞと一言メールを入れようか。忙しい状況で見られるかどうかは微妙な所だが、ないよりは良い筈だ。
     一期はスマホから顔を上げて、帰路に着く同僚達の流れを見送る。早足で帰る者もあり、ゆったりと噛み締めるように歩く者もあり。スマホに視線を落として小走りに帰る者は、果たして良い事があったのか、悪い事に焦っているのか。そんな詮無い事を考えていると、スマホが振動した。鶴丸からのメールだろうかと思ったが、振動は止まらない。電話だ。画面を確認すると、弟の厚からである。

    「もしもし? 厚、どうしたんだい?」

    こんな時間に珍しいなと思いながら声をかけると、機械越しの厚の声は酷く強張っていた。

    『いちにい! 五虎退が帰って来ないんだっ!』

     その言葉に、さっと青ざめた。帰って来ない? 五虎退が? どういう事だ――混乱しそうになる頭を叱咤して、まずは状況を確認しようとスマホを握り締める。

    「厚、落ち着いて、状況を教えて欲しい。五虎退がどうしたんだ?」
    『一回、学校から帰って来たんだ。で、荷物置いて、外出て行って、それきり帰って来ない。門限過ぎてるのに! 連絡もないんだ!』
    「――分かった」

     つまり、学校から帰って来て遊びに行ったきり、音沙汰がないという事か。気の弱い、けれど優しい弟の顔を思い浮かべて、唇を噛む。直ぐに探しに行かなければ。

    「厚、お前は家にいなさい。絶対に外に出てはいけないよ」
    『……分かってる。先生にもそう言われた』
    「良い子だ」

     先生――施設の職員も、今頃は五虎退を探し回っているに違いない。電話して、どの辺りを探してくれているのか確認する必要がある。

    『いちにい。……五虎退の事、宜しくな』
    「分かっているよ、厚。大丈夫だ、絶対に連れて帰るから」
    『うん……』

     厚に電話越しに頷いて、通話を切る。そして走り出そうとした所で、丁度エレベーターから降りてきた鶴丸に出くわした。

    「粟田口? どうした?」
    「五条様……」

     今日は一緒に飲みに行けなくなりました。申し訳ありません。そう言おうとして、一期は口を噤む。
     これから自分は、何処に向かったのかも分からない五虎退を探しに行かなければならない。携帯も持っていない子供を、この広い街の中で。ならば――人手は、多い方が良い。鶴丸に、一緒に探して欲しいと言えば、恐らく受け入れてくれるだろう。でも。

    (これは、私達の問題だ)

     鶴丸は部外者だ。巻き込む訳にはいかない。今までどんな辛い事があっても、自分達兄弟だけで身を寄せ合って解決してきた。他人は、怖いから。自分達と違うというだけで、差別する生き物だから。鶴丸はそんな人物ではないと、昼間分かった。けれど、それでも彼はやはり自分達とは何の繋がりもない人だ。自分達の事は、自分達で。そう決めていたではないか。それだけが、自分達の持っている誇りの全てで。ちっぽけで、傍から見たらきっと意固地な、けれど大事な大事な矜持。だから。
     ――でも――。

    (五虎退の安全と、それは、比べるべくもない事ではないだろうか)

     今、もしかしたら何かに巻き込まれて泣いているかも知れない弟。その安全が、一番ではないだろうか。
     そう、下手なプライドなんかよりも、ずっと。

    「――五条様、お願いがございます」
    「どうした」

     頭を下げる一期に、驚いた声で鶴丸は返答する。

    「弟が、弟の一人が、未だに家に帰って来ていないようなのです。……一緒に探して頂けませんか」

     我ながら、声が強張っていた。そんな一期の肩に、鶴丸は手を置く。そして、引き締まった声で返答をくれた。

    「勿論、手伝うさ。今は一分一秒が惜しい。歩きながら話そう」

     背中を押されて、一期の視界の端がじわりと滲む。しかし、そんな事をしている暇はない。はい、と頷いて、大股に歩き出す。その後ろに、鶴丸が続いた。

      *

    「五虎退! 聞こえたら返事をしてくれ!」

     必死になって走り回りながら、一期は声を張り上げる。自分でも、どの道をどう通ってきたのか分からない。ただ、あの色素の薄い可愛い弟の姿だけを求める。心配で萎えそうになる足を、何度も叱咤した。
     一度施設に行った一期と鶴丸は、職員と連携して、五虎退を探す事にした。職員は駅の方面へ、一期は公園の方へ、そして鶴丸は住宅街の方へ向かった。
     写真で五虎退の姿を確認した鶴丸は、「大丈夫だ、きっと見つかる」と一期と弟達を励ましてから、足早に去って行った。それを見送る事なく走り出して、一期は何度も弟の名前を呼ぶ。その間中、胸に去来する嫌なイメージを何度も払拭しなければならなかった。もし、彼が恐ろしい事に巻き込まれていたら? 人攫い、暴力、イジメ。そんなものに晒されていたとしたら? 今も泣きながら助けを求めていたら? そして、もし――間に合わなかったら? ぞっとする。そう、間に合わなかったら。目の前に、真っ赤な炎が蘇った。
     それは、一期が4つの時の記憶。他の事は何一つ覚えていない。ただ赤い炎が部屋中を舐めて、一期を、父を、母を、焼いた。奇跡的に助かったのは一期だけ。父と母は、治療が間に合わなかった。まだ右も左も分からない一期は、両親が死んだという事さえ分からなかった。覚えていたのはこの炎と、後は――両親が、美しかったという事だけ。写真一つ残らなかった一期には確認しようがなかったが、木漏れ日の中、二人がとても美しく笑っている事だけは知っていた。そして、こんな時だというのに唐突に理解する。美しい人が好きな理由。唇を噛み締めた。
     次の記憶は、もう施設の中だ。気付けば一期は施設の中で、幾人かの弟と一緒に暮らしていた。最初は2人だった弟は、4人、5人とどんどん増えていき、気付けば11人となっていた。自分も含めて、12人。全員男。身を寄せ合って生きた。一期は施設の出身である自分を恥じた事はない。けれど、周囲もそうだとは限らなかった。両親がいない、血の繋がらない兄弟がいる、それらは人々のからかいの格好の的だった。血の繋がった保護者がいない事で、謂れのない罪を押し付けられる事も、疑いの眼差しに晒される事もあった。それでも、12人皆で手を繋ぎ合い、生きてきたのだ。

     大切な弟。大切な、何よりも大切な家族。炎に両親を奪われた自分にとって、何よりも大切な宝。

    「五虎退――!」

     喉が枯れても、足が震えても、一期は止まる事はなかった。
     そんな彼のスマホが、急に振動する。ハッとして画面を見れば、鶴丸からの連絡だった。

    「もしもし」
    『いたぞ! 見つけた!』

     歓喜の声に、一瞬理解が追いつかなかった。見つかった。その言葉だけが頭を支配する。

    『俺が向かった方に神社があっただろう? そこだ』

     鶴丸の声が鼓膜を通り過ぎていく。見つかった。五虎退が見つかった。
     一期はスマホを握り締めて、尋ねた。

    「怪我は? 何かに巻き込まれたとか――」
    『大丈夫だ。怪我もないし、犯罪に巻き込まれた形跡もない。――今、代わろう。ほら、きみのお兄様からだ』
    『い、いち兄……?』

     スマホの向こう側から、弟の声がする。気の弱い、おどおどとした、いつも通りの五虎退の声。可愛い弟の声。一期は膝から崩れ落ちた。

    『ごめんなさい。猫さんを追いかけていたら、いつの間にかこんな所に来て、帰り道分からなくなっちゃって、ごめん、なさい』

     ひっく、ひっくとしゃくり上げながら五虎退は謝る。言わなければいけない事、言いたい事は沢山ある。しかし、一期が今一番言いたいのはこれだけだった。

    「無事で良かった、五虎退」
    『――はい……!』

     涙が滲んで、一期はそっと目尻を押さえる。同時に、五虎退を見つけてくれた鶴丸に、感謝してもし切れない程の思いが去来した。

    「五虎退。五条様に代わってもらっても良いかな?」
    『はい』
    『――どうする? きみがこちらに来るかい? それとも、施設の方に送ろうか?』
    「そうですね、施設で落ち合いましょう。――五条様」
    『どうした?』
    「本当に――ありがとうございました」

     胸を押さえて、一期は電話越しに頭を下げた。暫し、返事はない。照れているのだろうか、それとも何か他の事を考えているのだろうか。知る由もない。ただ、鶴丸への感謝の念だけが、一期を満たしていた。

    『粟田口』
    「はい」
    『きみは、あの時少し迷っていただろう?』
    「あの時?」

     首を傾げる一期に、鶴丸は「五虎退を探してくれと言った時だ」と説明した。

    『俺に助けを求めるかどうか、迷っていた』
    「――お恥ずかしながら。身内の事でしたので」
    『しかし、最終的には俺を頼った。何故だ?』

     鶴丸の声は優しい。既にこちらの答えを知っているかのように。
     一期はゆっくり答えた。

    「弟が、大切だったからです」

     そして貴方の事を、信頼していたからです。一期の答えに満足そうな吐息を零して、鶴丸は言った。今まで以上に柔らかい声で、大切なものを一つ渡すような口調で。

    『やっぱり俺は、そんなきみが好きだ』

     電話の向こうで、鶴丸が微笑んだ気がした。

      *

     時計を確認する。やはり、10分過ぎていた。私服に身を包んでベンチに座っていた一期は、珍しい事もあるもんだと独り言ちる。今日は、鶴丸と一緒に映画を見に行く予定だった。待ち合わせ時間は10時。しかし、現在時刻は10時10分。恐らく何かあったのだろうが、仕事の最中でもないのに連絡が全くないのは不可思議だ。鶴丸はこういう事には非常に律儀で、遅れると分かった時点で直ぐにメールをしてくる男なのだが。
     まさか、連絡も出来ないような大事件に巻き込まれていないだろうな。嫌な考えに首を一つ振って、スマホに目を落とす。考えても仕方がない。待つだけだ。
     と、

    「――った、――が――ろ」

     遠くから、声がする。喧噪の中に紛れそうだったが、それは間違いなく鶴丸の声だ。良かった、トラブルに巻き込まれたんじゃなくて。ほっとしながらそちらを見ると、鶴丸にはどうやら連れがいるようだった。はて、誰か連れてくると言っていただろうか。首を傾げながら、何気なく鶴丸の隣の男を見遣る。そして、その顔がこちらを向いた瞬間、ひゅっと息を呑んだ。
     美しい。信じられないくらい、美しい。それ以外の言葉など、言える筈もない程、美しい男がそこにいた。アシンメトリの濃紺の髪、切れ長の瞳、滑らかな肌。それらを目に入れるも、それを形容する言葉が見つからない。この世のものとは思えぬ、どんな言葉を尽くしても表現し切れない美しさ。彫刻ですら、彼の前では恥じ入るだろう。魂ごと食われるような、人ならざる美だった。
     一期は完全に呑まれて、近付いてくる美丈夫を見つめる。すると、こちらに気付いた男が、薄く微笑む。それだけで、心臓を鷲掴みにされた気分だった。瞬きすら忘れた一期に、男の隣の鶴丸が溜息を吐く。それに一瞥を返した後、男は一期の前に立った。

    「お前が粟田口か」

    響き渡るような声に問われ、完全に脳がショートした状態で頷く。

    「はい、粟田口一期と申します」

     こちらの様子に何を思ったのか、男は笑みを深めた。隣の鶴丸は眉を寄せたままであるが、視界には入らない。ただ、ただ、息が詰まったように細くなって、縫い付けられたように男を見つめる。

    「そうかそうか。俺は三条三日月と言う。宜しくな」

     三日月は勝手に一期の手を握ると、ぶんぶんと上下に振った。見た目の割に気さくな態度だが、美貌がそれらを全て凌駕している。親しくしようという気配は感じられるのだが、如何せん美しさに呑まれて、察せられない。結果、口を閉ざして、されるがままになる。そんな一期をじっと見て、三日月は呟いた。

    「成程。鶴丸も面食いだったのか」
    「はい?」
    「いや、こっちの話だ。では邪魔者は退散する事にしよう」

     三日月は楽しげに目を細めた後、はっはっはとたおやかな笑い声を上げて去って行く。その後ろ姿を見送って、一期は呆然としていた。――夢か、幻か。いや、妖か? 道行く人がそちらを見ては、ぎょっとしたように立ち止まって行く。恐らく先程の自分も、あんな顔をしていたのだろう。未だ回らない頭で考えていると、面白くなさそうに顔を顰めた鶴丸が、説明してくれた。

    「前に話しただろう? 従兄弟だ」
    「あの方が。確かにこれは、……素晴らしい美丈夫でしたな」

     鶴丸の眉間の皴が深くなる。

    「俺の美しさなど霞むだろ」

     その鶴丸の声に、一期は途端に現実に引き戻された。焦点が、ここに来て初めて鶴丸に合う。鶴丸は拗ねたように唇を尖らせ、金色の目は皮肉げに染まっていた。美しいと言うにも現実離れした従兄弟。それと彼は、常に比べ続けられてきたのだろうか。だから、霞んでしまう自分の美貌を皮肉った。……いや、違う。彼の不機嫌は、そうではない。去って行く三日月とその周囲など、鶴丸は見向きもしていない。
     前に彼は何と言った? そう、もし従兄弟を一期が見たら? ――成程、今までの自分だったら或いはそうだったかも知れない。
     一期は神妙な顔をして、鶴丸を見た。

    「確かに三条様は大変お美しい方でしたが」
    「ああ」
    「五条様を見る時のような胸の動悸は致しません」
    「ああ。……えっ?」

     一期は言うだけ言うと、席を立つ。

    「では、参りましょう」
    「待った! 待ってくれ、ど、どういう事か、詳しく述べてくれ!」

     さっさと歩き出すと、鶴丸が追い縋って肩を揺らしてきた。それに内心大笑いしながら「何の事でしょう?」と言う。
     まだ、この感情に確証が持てない。
     
     だから、今はこのくらいで。




    二章 五条鶴丸

     はて、地上にも空というのは広がるものなのだろうか。鶴丸が不意に思ったのはそんな事だった。昼食のパスタを腹に収め、口を拭い、さて食休みと同僚の光忠と話していた正にその時である。視線を外に向けた鶴丸は、つい口にしていた。
     
    「地上に空がある」
    「うん? 何だい急に」

     光忠が、不思議そうに目を瞬かせる。それに一瞥をくれて、鶴丸は視線を戻す。その先にあったのは、空だった。柔らかで優しく、全てをそっと拭い去ってくれるような甘やかで広い晴天の色。それが、向かいのカフェに存在している。正確には――そんな春先の空の色を髪に宿した青年が一人。こちらを見ていた。
     おやおや。俺に見惚れてるのかい。アイスコーヒーをかき混ぜながら、鶴丸は口の端を歪める。己の類い稀な美貌は理解していた。とある人物の存在によりそれが最上級ではない事も同時に理解していたが、最も位が上でないからと言って、価値が下がる事などない。寧ろ、一歩手前に存在する鶴丸の美貌は、それはそれは素晴らしいもので。こうして熱い視線で眺められる事など、日常茶飯事である。だから今回も、また自分にファンが一人増えたのだとあっさり理解した。
     さて、どんな奴かな。鶴丸は、光の加減で見えない空色の男の顔を拝むために、椅子の位置を変える。眺められる事には慣れているが、こうも遠くから目敏く見つけてくるとなると、また趣が違う。余程の美人好きか、人間観察が趣味の奴か。あんなに綺麗な空色の髪を持っているんだ、きっと優しそうな顔をした男だろう。勝手に推測をして、鶴丸はようやくその顔を見つけた。
     ぽかんとした。おいおいと思った。きみ――他人に見惚れる必要あるかい? 
     空色の髪の男は、それはそれは綺麗な男だった。優しそうという予想を裏切る事なく、柔らかくて爽やかで、ふわりと溶けるような、美貌。そう、美貌だ。間違いなく美しい。儚く繊細な顔立ちの鶴丸とは方向性が違うが、十人に聞けば十人が綺麗だと述べるレベルだ。可憐な桜、或いは高貴な白百合。花の持つ控え目な存在感を例えるのがよく似合う。何処も彼処も整っていて、嫌味がなく、すんなりとした品がある。上品という単語を合わせるのに、これ程しっくりくる男も早々いないだろう。文句の付けようのない美男子だった。
     鶴丸は、暫しぽかんとする。顔に見惚れたのもあるし、そんな男がこちらに見惚れている事実にも驚いていた。同時に、むくむくと自分の中で、興味が湧いてくるのも感じる。心の中がポカポカと温まり、ぎゅうっと瞳に熱がこもる。瞳孔が細まって、鶴丸は唇を吊り上げた。久しぶりに、面白そうな奴を見つけた。

    「光忠、悪いが先に帰ってくれ」
    「まさか、ナンパしに行く気かい? いつもされる側のきみが」

     鶴丸の視線の先に気付いていたらしい、光忠が可笑しそうに笑う。言外に上手く出来るのかと聞いてきていたが、そんなもの、なるようになれだ。新鮮な驚きの前で、足踏みする自分ではない。にっと笑うと、対する伊達男は胸ポケットを叩く。
     
    「名刺に先に私用アドレスを書いておきなよ。それを渡せば接点が出来るし、きみが何処の誰か分かって信用されやすくなる」
    「成程」

     流石、光忠。抜かりがない。鶴丸は名刺を取り出し、さらさらとメールアドレスを書き込む。アドバイスのお礼に今日は奢ろうと伝票を取り上げ、レジに向かった。心は既に空色の男の方、さっさと会計を終えて外に出る。
     何も遮るものがなくなると、一層彼の視線を感じた。ぼぅっとこちらを見つめている。健康的な肌が薄紅に染まり、形の良い唇からは溜息すら聞こえそうだ。そんな蕩けそうな顔をして、ほら、隣のご婦人方が熱心にきみを見つめているじゃないか。気付く素振りもない様子に喉の奥で笑いつつ、道路を渡る。向かいの店のテラス席。そこに、空色の髪の男は、誰かと共に座っていた。
     近付くにつれ、その瞳の色や肌の細部まではっきり見えてくる。見れば見る程綺麗だ。高鳴っていく鼓動と共に足を運び、遂に男の目の前まで辿り着く。さて、どう声をかけようか。一瞬の逡巡に、違う声がするりと割り込んできた。
     
    「よう旦那。何か用か?」
     
     低い声。しかし、空色の男の声ではない。彼は未だに呆けている。では誰かと言えば、彼の連れだ。視線を向けると、黒髪に紫の瞳、鶴丸に匹敵する程白い肌の美少年が、片手を上げていた。恐らく、未だ夢うつつの同行人を見かねて話しかけて来たのだろう。鶴丸はひょいと手を広げて言う。
     
    「いや? どうもご指名っぽい視線を感じたんでね」

     視線を戻す。空色の男は、まだ何も言わない。ただ、琥珀色の瞳を鶴丸に向ける。話しかければ答えてくれるだろうか。
     
    「取りあえず、座っても良いかい?」
    「場所代なんて言い出さないなら良いぜ」
     
     答えたのは、やはり黒髪の少年の方だ。その内容に苦笑する。恐らく、上から下まで白で取り揃えたスーツのせいで、ホストだと思われているのだろう。自分でも奇抜だという事は理解している。誤解を招き易い事も。それでも白は鶴丸のトレードマークであり、変えるつもりもない。適当に会話をしながら、鶴丸は他の席から椅子を拝借し、空色の男の前に座った。黒髪の少年と会話をしつつ、遠慮なく眺められているので、こちらも遠慮なく見つめ返す。美人は三日で飽きるとはよく言うが、多分この男の顔は見飽きる事がないだろうと鶴丸は確信した。
     しかし、声も聞いてみたい。
     
    「で、そろそろきみの方と話がしてみたいんだが」

     笑いかけると、ようやっと、目の前で空色の男がハッとした。夢から醒めたような表情で何度も瞬きをし、首を傾げる。本当に、完全に見惚れていたらしい。しかし、意識を取り戻した彼は、凛とした表情でこちらを見た。多分、これが普段の顔なのだろう。その髪と同じ、澄み渡った空のような爽やかな表情、優しい口元、柔らかな目元。それを以て、真面目につるまるを見つめてきた。
     
    「申し訳ありません。ぼーっとしておりました」
    「そんなに俺が好みだったかい?」

     表情の落差が面白く、ついからかうように指摘する。
     
    「いや、申し訳ない、美しい方に弱いのです」

     対する彼は、照れる事なくそんな風に謝る。おや、と鶴丸の中で、僅かな熱が燻った。美しいなんて言われ慣れているけれど、ここまで真っ直ぐに、当然のように言われた事は殆どない。照れ混じりだったり、多少の下心があったり、恐縮があったりするものだ、普通は。なのに空色の男には、からかいに対する申し訳なさはあっても、美しいと評する事への躊躇いがない。普通の男が言えば気障にしか聞こえなかったに違いないが、彼が言うと不思議と嫌味に聞こえなかった。ただ、言外に口説かれているような気分になってむずむずする。
     そんな印象を持ちながら会話を続けようとした所、もう昼休みが終わりに差し掛かっている事が分かった。連れの少年に促された空色の男は、鶴丸に頭を下げる。
     
    「では、美しい方、私達はこれで」
    「待った待った、折角の縁だ、これを持ってってくれ」

     そのまま去ろうとする姿に、内心慌てながら先程アドレスを書いた名刺を渡す。光忠のアドバイスに改めて感謝した。ここで書き始めては、相手がいなくなってしまう可能性もある。しかし、こうして隙なく与えてしまえば、受け取らざるを得ないだろう。
     
    「五条、鶴丸様……」

     空色の男の優しい声色に、鶴丸の名前が乗せられる。その様子に、きみは何て名前なんだいと聞いてしまいたかったけれど。そこはぐっと堪えて、ウインクだけで済ませる。
     
    「いつでも良いから連絡してくれ」

     言って、鶴丸も席を立った。一度だけ振り返って見ると、空色の男は黒髪の少年と一緒に名刺を覗き込んでいる。――どうか、連絡をくれる程、彼が鶴丸に興味を持ってくれていますように。先程の様子ならば心配いらないとは思うものの、そう願わずにはいられない。何せ、鶴丸からして見れば、彼の事は何も知らないのだ。分かったのは、この近くの何処かの会社で働いているという事だけ。それ以外は接点がない。つまり、彼が求めてくれなければ、この縁は終わってしまうのだ。それは、寂しい。
     
    (やはり名前くらい聞いても良かったか?) 
     
     後悔したものの、仕方がない。鶴丸は早足で会社へと戻った。

     
     午前の業務を早々に切り上げて、鶴丸は一つ伸びをした。
     
    「お疲れ様ー」

     方々からの労いの声に手を振りながら、さてと時計を睨む。もうすぐ昼休みだ。いつもならばこのままコンビニや弁当屋に直行して仕入れてくる所だが、今日は違う。上着と財布を掴んでフロアから出てエレベーターに乗ると、迷わず4階を押した。そこは、開発部のフロア。普段の鶴丸にはあまり縁のない所だ。どんな場所なのか少々ワクワクしながら降りると、カタカタと聞き慣れたキーボードを打つ音が響き渡った。
     一言で言えば、フロアはどんよりしていた。社員がパソコンの前で髪を掻き毟り、顔を顰めながら、何度も何度も壊れるのではないかという勢いでキーボードを叩く。納期まではまだ時間があった筈だが、どうやらこの部は毎日が修羅場のようだ。そんな切羽詰った光景を視界に映しつつも、鶴丸の目は鮮やかな空色を見つけていた。
     時間の流れが凝縮されているかのような空気の中で、そこだけが別世界だ。切り離されたように穏やかで、柔らかい。長い腕を伸びやかに天に向けた一期が、疲れを癒すように肩を回している。重く沼地のような雰囲気の中で蓮のように美しい彼は、まだこちらには気付いていないようだった。鶴丸はにんまりと笑い、背後から近付く。手には、来る途中で購入しておいたペットボトル。
     
    「わっ」

     軽い掛け声と共に、一期の頬にペットボトルを押し付けた。びくんっ! と面白いように体が跳ね、短い悲鳴が出る。悪戯成功だ。同時に、もしかしたら来るかも知れない反撃に備え、一歩後ろに下がる。もっとも、ここ数日知った一期の性格では、手荒な真似など決してしてこないと分かっていたけれど。
     あの日以降、結局一期からのメールは直ぐに来た。聞けば同じ会社の同僚だったという事で、安心されたらしい。それを聞かされた鶴丸は大層驚くと共に、一つの可能性に思い至って手を叩いた。そう言えば、開発部には「王子様」がいるのだと女性社員達の間で噂になっていた。優しくて、物腰が柔らかで、丁寧で、仕事が出来て、おまけに顔まで良い。何処の妄想だと聞いた時には半信半疑だったが、あれが一期を指していたのだと今ならば分かる。確かに彼は、間違いなく「王子様」だった。同僚の「ホスト」と呼ばれる光忠や、何やら「トリックスター」と呼ばれる自分とは全く方向性が違う。爽やかで実直で品行方正。それがメールの文面からも滲み出ていた。
     
    「五条様」

     予想通り、一期は鶴丸の悪戯に怒ったりしなかった。代わりに、笑顔を一つ。相手の心を解きほぐすような笑みで、尋ねてきた。
     
    「当部署に御用ですかな?」

     その言葉の内容を一瞬把握し損ねて、きょとんとしてしまった。次の瞬間、噴き出しそうになる。昼休み、書類も何も持たないラフな格好で悪戯を決行する人間が、仕事で来ている訳がない。なのに一期は、鶴丸は何か業務でここを訪ねてきたと思ったのだ。面白いと同時に、面白くない。だから鶴丸は、ますます笑みを深める。
     
    「部署に用事はない。きみに会いに来たんだ」

     昼でも一緒にどうかと思ってな。そう付け足せば、一期の目がきらりと光った。ん? と見返せば、真っ直ぐに視線が返ってくる。昼という単語に反応したのか、それにしては返事も何もなくこちらの顔ばかり見ている。首を傾げて「もしかして弁当でも持ってきてたか?」と聞けば、慌てて首を振られた。
     
    「いえ、今日は作ってこなかったので、ありません」
    「つまり、普段は弁当か。覚えておくぜ」

     今日は運良く共にレストランなりカフェなりに行けるが、もし他の日もそうしたいなら、予め言っておく必要がある訳だ。脳内のメモ帳にしっかりと書き込んで、一期の肩に手を置く。それだけで察しの良い彼は立ち上がって、準備をした。
     数回のメールのやり取りを通して、鶴丸はこの一期の事がすっかり気に入っていた。初めから気に入ったから声をかけたのだろうと言われればそれまでなのだが、この誠実な人柄が、どうにも得難いものに感じたのだ。人の良い友人も、面白味のある知人も、大勢いる。その中で言えば一期の性格は地味な部類かも知れない。けれど、彼は一度だって鶴丸の事をおざなりにしなかった。一回、どうも仕事の関係でとても忙しい時にメールしてしまった時だってあったのに、その事を丁寧に説明して謝罪してから、改めて返信をくれた。そして、鶴丸からして見れば下らない日常のちょっとした内容や写真に対しても、きちんと感想をくれる。打てば響くその様子に、鶴丸はすっかり夢中になってしまった。話もメールも電話も兎に角多く、せわしないと周り中から言われて適度にあしらわれている鶴丸に、それでも一期は合わせてくれる。それが、年甲斐もなく嬉しかったのだ。
     連れ立ってフロアを抜け、エレベーターが来るのを待つ。他愛ない話をしながら待っていれば、ふと一期の強い視線を感じた。見れば、琥珀の目が、金を溶かしたように蕩ける色でこちらを見ている。最初に会った時と同じ目、けれどより強いその目線に、かぁっと頬に熱が上がった。その上一期は、鶴丸を「美しい」と言って追撃してくる。
     ああもう、どうしてきみはそうなんだ。
     
    「粟田口は俺の顔を見る度にそれだな」

     熱を隠そうと早口に言えば、きょとりと一期は首を傾げた。顔を見る度、という程会った覚えはない。けれど、思い出すのは先日、何となく髪を切りに行って、何となく一期に報告したくなり、何となく自撮り写真を送った事。彼女かよ、と自分でも呆れながらもどういう反応が来るのか気になって送信した所、それはもう凄まじい賛辞の言葉が返って来たのだ。貴方の新雪のような御髪が頬のラインを縁取り、流れる様が特に素晴らしいです。真正面から見てもお綺麗ですが、斜め上から見るとまた鼻筋が一層通りお美しいですな。そんな言葉をずらずらと並べられて、一人その場で悶えた。世の彼氏諸君だってここまで言いやしない。ボキャブラリの全てを尽くして美しいと言ってくる一期に、俺はとんでもない奴に惚れたのではないかと思った。思ってから、気付いた。
     惚れた。惚れたのではないか。
     俺は、一期に、惚れたのか? 見た時から、動悸はしていた。けれどそれは、非日常に対するドキドキとした高揚感だった筈だ。それがいつの間にか、変わっていた。こんな短期間に、こんな単純に。変わった。変わってしまった。相手は男で、女性社員に人気で、ライバルだって山程いるような奴に。今まで、誰と付き合ったって結局は終わってきた自分が。 
     ――面白いじゃないか。
     一期は、何処までも自分を楽しませてくれる。殆ど初めて、鶴丸は自分の美貌に感謝した。一期を惹き付け、出会わせてくれた。整い過ぎているが故に遠ざけられ、或いは求められ過ぎて疎ましく思った時期すらあったのに。一期が美人好きで――
     
     ふ、と、脳裏に、濃紺の髪が過ぎった。

     さっと熱を持った思考が冷める。
     
    「そんなに美人が好きかい?」
      
     鶴丸を見る度に美しいと言ってくれる一期。そんな一期がもし、「彼」を見たら? 「好きです」と即答する姿に、声を上げて笑う。引き攣らないようにするのが大変だった。一期にはちゃんと、可笑しくて笑ったように聞こえただろうか。
     
    「そしたら、俺の従兄弟なんぞ見た日には卒倒するかもな」

     従兄弟。三条三日月。父方の兄弟の子で、鶴丸の5つ年上の男。あの男の美しさを見れば――鶴丸など、そこいらに転がっている石ころも同然だろう。三条三日月はこの世で最も美しいと言って、誰が反論出来るか。濃紺の髪、大理石の肌、宵闇と月の瞳、三日月形の唇。彼を形容する言葉は、これだけ。これだけだ。それ以上の事など、表現出来よう筈もない。あの男の美しさはどれ程の言葉を尽くしても足りないし、どれ程の絵描きが描いた所で表現出来ないし、どれ程性能の良いカメラで撮ろうが現物には勝てない。ただそこにいるだけで全てを呑み込み、魂さえ食らい尽くす程の美貌。艶然と微笑めば、全てが平伏す。そういう男だ。それを一期が見たりしたら。美しいものが一等好きな、一期の目に入ったりしたら。
     
    「そんなにお美しいのですか?」

     案の定食いついてきた一期に、胸が冷えていく。
     
    「会いたいか?」
    「是非」
    「残念だが会わせないぜ」

     即答した。会わせない。会わせてなるものか。そう思った自分に、自分で驚いていた。三日月が鶴丸より美しい事など、もう生まれた時から知っている。比べるという事すらおこがましい。なのに今の自分は、三日月と自分を比べて、一期を取られまいとして、必死になっている。一期が、欲しい。誰にも渡したくない。琥珀色の瞳を見つめて、鶴丸は胸に湧いた衝動に呑み込まれそうになった。じぃっと見つめる。一期の顔。その優しい目元も、通った鼻梁も、うるりとした唇も、柔らかな頬も。全部全部、自分のものだ。仲が良くて、面倒を見て貰った三日月にだって、渡さない。――渡さない。
     高い音がした。エレベーターが来た音だった。我に返って、鶴丸は一期と共にエレベーターに乗る。1階のパネルを押して、その表示を見た。どんどん下がる。
     ぽつりと言葉が出た。
     
    「あれを見たら、きみは俺を美しいと言ってくれなくなるかも知れない」

     知れない、ではない。ほぼ間違いなく、言ってくれなくなるだろう。三日月を見た者は、他の全てが色褪せてしまう。鶴丸も、一期の中で、そうやって。
     だから。
     
    「どんなに美しい方がいらっしゃったとしても、五条様の美が損なわれる事などあり得ないと思うのですが」

     不意に言われて、思わずそちらを見た。一期は真剣な目で、鶴丸を見つめていた。真っ直ぐと、逸らす事なく、真摯で、けれど何処か優しく。その言葉の内容を呆然と脳内に流して、咀嚼する。美しい者がいても、損なわれる事がないもの。それは何だ? 一期は何をもって、そう言ってくれている? 比べる事が出来ないもの? 比べる必要がないもの。
     ――内面。
     一期は、鶴丸の心が美しいと言っていた。
     
    (~~~~~~っ!) 
     
     今度こそ、完全に体中に熱が上がってきた。情けない顔を見られたくなくて、ばっと口元に手を当てそっぽを向く。一期が不思議そうに見ているのが分かったが、いつもの軽口が叩けない。そんな余裕がない。だって、今まで会った人間は皆、鶴丸を美しい美しいと、何て綺麗な男だと、言ってきた。「外見」が綺麗だと、「見た目」が美しいと、持て囃しては、いなくなっていったのに。一期は、そんなもの付属品に過ぎないのだと。最初は彼だって、この見た目で寄ってきた筈なのに。
     
    「きみ……人たらしの才能があるな……」 
     
     どうにかして零せば、一期が眉を顰めた。どうやら不本意だったらしい。
     
    「本心です」
    「だからだ」

     ああ、これ以上追撃しないでくれ。
     ますますきみが好きになりそうだ。
     


     
     軽やかに晴れた空の下、噴水前のベンチで隣に座ると、一期がにこりと綺麗な笑顔を返してくれた。彼はいつも笑顔を絶やさない男だった。どんな時でも次の瞬間には口元を緩ませ、目を細めて笑ってくれる。それが何ともこそばゆい。誰に対してもそうなのだろうとは分かっていても、彼の雰囲気は、自分を特別な気分にさせてくれる。これは誤解されやすいだろうなと苦笑を禁じ得ないが、美点であるのも確かなので指摘しない。何よりその笑顔を見るのが鶴丸自身大好きだった。それが藪蛇でなくなってしまったりしたら悲しい。
     一緒にレストランに食事に行って以来、一期とは昼休み、こうして会える時には会うようになった。そう仕向けたのは自分だ。イタリアンに舌鼓を打ちつつ「やはり自分で作るものとは違いますなぁ」としきりに感心する一期に、「きみの作った弁当を見てみたいな」と言った。見せられるようなものではないと謙遜はされたものの、重ねて強請れば断る彼ではない。では今度、昼食をご一緒しましょうと言われ、内心ガッツポーズしたのは秘密だ。一度一緒に昼食を取れれば、後はなし崩し的に続ける事が出来る。
     一期との仲も大分深まってきた、と鶴丸は思う。一緒に昼を過ごすようになって、様々な事を話した。好きな食べ物、好きなカフェ、好きな映画、好きな本、一期はどんなものが好きなのかたっぷりと尋ね、そして同じだけ返してもらった。一期はボンテのキャンディが好きらしい。バラとスミレの味がするのですよ、と少しはにかんで笑った。もし見つけたら買ってやりたい。好きなカフェは大通りから少し外れた所にある猫カフェ。犬も猫も好きなので、犬カフェはないのでしょうかと言っていた。好きな映画はかの有名なネコ型ロボットのもので、家族皆で観て感動したのだそうだ。好きな本は沢山あり過ぎて決められないらしい。小説も実用書も好きらしく、種々様々な本が家にあるようだから、いつか借りに行きたい。それから、それから。何よりも、家族の事だ。
     一期の家族は、凄い。初めて聞いた時、度肝を抜かれたものだ。何せ弟が、11人もいる。数もそうだし、全て男というのもまた凄い。完全な男系家族だ。一人っ子で核家族の鶴丸からしてみれば、想像もつかないような世界だ。
     
    「きみの弟の数には驚くよなぁ」

     つい声に出してしまってから、何を脈絡なくと瞬きをする。驚かせたかと隣を見たが、一期はくすりと笑うだけだった。
     
    「11人も弟を持っている人間は稀でしょうな」
    「ご両親は頑張ったな」
    「え」

     11人作るとなれば、奥さんは勿論の事、旦那さんの方だって相当精力が必要だろうと思う。双子が二組いるとは言っていたものの、10年以上は子作りをしてきたのだ。頑張ったという他ない。だからそれを素直に言ったのだが、何故か一期の表情が固まった。……何か拙い言い回しだっただろうか。不安に思ったのは一瞬の事で、直ぐに一期は笑顔を取り戻した。
     
    「私の両親は、私が4つの時に他界しました。弟達は皆、私と同じ施設で育った血の繋がらない子供達ですよ」 
     
     一息に言われ、一瞬言葉を失う。両親が他界、施設、血の繋がらない子供。その内容がぐるぐると頭を回る。これは――何と言えば良いのだろう。そうか、と頷くだけで良いのか、それとも大変だったなと言うべきか? けれど、それは、場合によっては侮辱と捉えられる可能性もある。何より、一期は、その事をどう思っているのか。
     真っ直ぐに見つめ返す。琥珀色の目には、何の憂いも浮かんでいなかった。あるのはただ、輝きだけ。光を一心に吸い込んだ、澄んだ瞳だけ。
     ……ああ、そうか。葛藤がふわりと溶けた。
     
    「粟田口は、弟達が好きなんだな」
    「はい。私の宝です」

     にっこりと、今まで以上に優しい、嬉しそうな笑みが返って来た。その表情に、見惚れてしまう。本当に大切なものを知っている顔。命をかけてでも守りたいものを知っている顔だ。そんなものを持っている彼があまりにも眩しくて、目を細める。きみは、だから、こんなにも優しいんだな。
     あはは、と一期が声を上げた。無邪気に、軽やかに。そこに自分の声を重ねる。きみが笑っていると、俺も嬉しい。笑い声は噴水に溶けて、光を弾いて散って行った。
     また、距離が縮まった。そう思った。だから鶴丸は、一期を飲みに誘う事にした。言葉と共にくぃっと呷る真似をすると、一期が思案気に視線を巡らせた。予定が入っていただろうか。しかし、直ぐに返事が来る。 
     
    「1時間程度、残業があるのです。その後でしたら」 
    「いいぜ」

     鶴丸も予定を思い返して、丁度その程度で終えられる仕事がある事を確認し、頷く。内容と言えば、退屈で面倒で個人的には好きになれない仕事だが――その後にご褒美があると思えば、苦にもならない。
     
    「楽しみですな。お酒は強い方ですので」

     珍しく、一期は挑戦的な目をした。また違う顔を見せてくれる。
    にぃっと笑って「楽しみにしてる」と言えば、強気な笑みが返って来た。楽しみだ。本当に、心が躍る。
     
     
     

    「ちぃっとばかし遅れたな……」

     エレベーターの中で、独り言ちる。1時間程度で終わると思っていたし、誤差の範囲内と言われればそうなのだが、浮足立っていた分、残業が長く感じられてしまったのだ。早く、一期に会いたい。会って、飲みに行って、また新しい顔が見たい。酒は強いと言っていたが、どのくらいなのだろう。鶴丸も弱くはないが、流石にザルと言える程ではない。赤く潤んだ瞳の想い人を想像してしまうのは男の性だろうが、そんな素振り一つ見せずにけろりとしているのもまた素敵だと思う。そこまで考えて、どうしたって自分には一期が良く映るんだと思い至って一人赤面する。他に誰もエレベーターに乗っていなくて良かった。
     高い音と共に、エレベーターのドアが開く。同時に一期の顔が見えたが、その表情にぎょっとした。いつも優しい彼の顔は、青褪め、引き攣っている。
     
    「五条様……」

     頼りなさげな声を出されて、思わず一歩近付いた。何かあったのだ。そう思わせるには十分だった。しかも、仕事がどうとかではない。彼の大切な何かが、傷付こうとしている。
     どうした? そう聞こうとして、鶴丸はハッと口を閉ざす。一期が、口を開こうとして、閉じたからだ。彼の琥珀色の瞳は、真剣にこちらを見つめている。けれど、そこには、迷いと躊躇いと、それから、悲しみがあった。傷付けられたような、いや、傷付けられるのを恐れるような、目。迷子の表情。一期は何度も口を開いては閉じ、こちらを見つめた。
     鶴丸は、何も言わなかった。一期が何を考えているのかは分からない。ただ、彼自身が決断し、口にしなければならない事なのだと分かっていた。
     そして、
      
    「――五条様、お願いがございます」

     一期は、決心した。き、と目に力を込めて、射抜くように鶴丸を見つめた。縋る色も、頼りない震えも、もうない。ただ一人の人間として、対等な存在として、こちらを見た。
     
    「弟が、弟の一人が、未だに家に帰って来ていないようなのです。
    ……一緒に探して頂けませんか」

     ――やはり、そうだったか。家族の事だとは、何となく思っていた。彼が本当に大切にしているものだと、鶴丸は教えてもらったから。だから、答えなんて決まりきっていた。
     
    「勿論、手伝うさ。今は一分一秒が惜しい。歩きながら話そう」 
     
     背中を押すと、一期が俯いた。その表情を、今は見たいとは思わない。ただ、彼の心が傷付かないように。それだけが願いだった。
     


     
     一度、一期の弟達が生活しているという施設に行き、鶴丸はいなくなった五虎退という弟の写真を見せてもらった。金髪の華奢な男の子で、歳は8つくらいだろうか。目に焼き付けるように、食いいって見つめていると、施設の奥の方から視線を感じた。幾つも、幾つも、10人分。心配そうな顔、泣きそうな顔、厳しい顔、悔しそうな顔。それぞれの、いなくなった兄弟への心。
     
    「大丈夫だ、きっと見つかる」

     自然とそう口にしていた。そうだ、自分達が信じなくてどうする。いなくなってしまったと諦めてしまえば、本当にそうなってしまうのだ。この子は見つかる。見つけてみせる。鶴丸は一期と職員達と頷いて、駆け出した。鶴丸が担当したのは住宅街の方面。一つも見逃すまいと辺りに視線を散らしながら、驚く住民を掻き分けて進む。
     鶴丸に兄弟はいない。従兄弟は沢山いたが、一緒に暮らした事があるのは両親だけだ。それも高校生までで、大学からは一人暮らしをしている。だから、家族との絆というものに、そこまで縁がない。両親は共働きで、いつも忙しそうだった。喧嘩をする事も多かったし、それが長引いて気まずい思いも何度もした。別段恨んだり、厭ったりはしていないが、大学からの一人暮らしを決心したのは、そこまでの思い入れがなかったからだろう。家族というものに、憧れも、理想も、失望も、なかった。
     けれど今自分は、家族のために走っている。それも自分の家族ではない。他人の家族のために、息を切らして走り回っている。何故、と問いかけて、一期の笑顔が浮かんだ。あの顔を曇らせたくない。宝だと言い切ったあの目を、悲しませたくない。そうして一期の大切なものを、自分も守ってやりたかった。
     ああ、宝物だ、そう思った。一期は宝物だ。その宝物が何よりも大切にしている宝物。それを、抱き締めてやりたい。大切に大切に守ってやりたい。頭を撫でて、微笑んで、一緒に笑い合いたい。そうだ、それが家族なのだ。縁の薄かった、けれど確かに自分を育ててくれた、家族。
     一期、俺は、きみの家族になりたい。きみの家族を守ってやりたい。助けてやりたい。
     必死になって走った。何度も声を張り上げて、進んだ。
     その時、不意に赤い物が目に入った。小さな神社。そこで、何かが動いたような気がしたのだ。
     
    「五虎退……?」

     そっと呼びながら、入る。すると、呼ばれた事に驚いたように、びくりと何かが飛び上がった。
     
    「だ、だだ、誰、です、か?」

     木の影から、小さな小さな姿が出てくる。写真で見たままの、華奢で、臆病そうな可愛い男の子。
     見つけた。鶴丸は暫し呆然としてから、ハッとして近付いた。急に距離を詰められた事に驚いたのか、泣きそうな顔で五虎退が後退る。鶴丸は速度を落とし、そっと目線を合わせてしゃがんだ。
     
    「五虎退、だな。俺は五条鶴丸。粟田口一期の友達だ」
    「い、いち兄の?」

     一期の名前を出すと、途端に金色の目が潤みが増す。小さな体が震え、唇がふるふると戦慄いた。
     
    「僕、僕……!」 
    「もう大丈夫だ。待ってろ、今、お兄様に連絡してやるからな」

     素早くスマホを取り出し、一期に電話をかける。今頃、彼も五虎退の姿を求めて駆けずり回っているだろう。一刻も早く、安心させてやりたい。その願い通り、彼は直ぐに電話に出た。
     
    『もしもし』
    「いたぞ! 見つけた!」

     無事な姿が嬉しくて、ついつい声が大きくなってしまう。電話口の向こうで、一期が絶句する気配がする。恐らく理解が追いついていないのだろう。丁寧に説明すると、一期は焦ったように言い募ってきた。
     
    『怪我は? 何かに巻き込まれたとか――』
    「大丈夫だ。怪我もないし、犯罪に巻き込まれた形跡もない。――今、代わろう。ほら、きみのお兄様からだ」 
     
     スマホを五虎退に渡すと、おずおずと耳に当てる。涙の膜が盛り上がり、溢れていった。その様を見つめて、胸が締め付けられる。見つかった。見つかって、本当に良かった。大事な者の宝が、傷付く事なくここにある。それは何て素晴らしいのだろう。
     暫く五虎退は一期と通話してから、スマホを返して来た。今後の事をざっと決め、さて帰り道を思い出さねばと思っていると、一期から呼びかけられた。
     
    『五条様』 
    「どうした?」
    『本当に――ありがとうございました』 
     
     通話口の向こうで、頭を下げた気配がする。それを感じながら、鶴丸は先程の事を思っていた。聞くべきか、否か。――きっと答えは、もう分かっているけれど。
     
    「粟田口」 
    『はい』 
    「きみは、あの時少し迷っていただろう?」 
    『あの時?』 
     
     一期の不思議そうな声を聞きながら、頷く。
     
    「俺に助けを求めるかどうか、迷っていた」
    『――お恥ずかしながら。身内の事でしたので』
    「しかし、最終的には俺を頼った。何故だ?」
     
     一期の声が聞こえた。優しくて柔らかくて、そしてはっきりとした声。
     
    『弟が、大切だったからです』 
     
     ――きっと、彼が迷った理由は、自分が施設の出だったから。両親がいない事がどんなものなのか、鶴丸は想像でしか分からない。けれどそこには、苦難と屈辱が確かに詰まっていたのだと思うのだ。だから、彼は迷った。大事な家族に、鶴丸を触れさせて良いか。けれど最終的には、それを選んだ。五虎退のために。大切な者の命を、救うために。
     大事な者のためならば、矜持を捨てられる。それこそが、誇り高い。
     
    「やっぱり俺は、そんなきみが好きだ」 
     
     自然と口元からは笑みが零れた。
     


     
    「最近のお前は浮かれっぱなしだな」

     途中で会った三日月と電車に乗りながら、不意にそんな事を言われる。今日は、大事な日。一期との初めてのデートだった。もっとも、そう思っているのは鶴丸だけで、一期はただ単に映画を観たいだけなのかも知れないけれど。でも、それでも良い。今は、という条件付きだが。一期と一緒に昼休み以外も出掛けられるのだ。浮かれない訳がない。
     
    「想い人でも出来たか」

     宵闇の瞳に覗き込まれて、どきりとする。彼は泰然自若、何一つ気にしないようでいて異様に勘が鋭い。特に鶴丸とはこうしてよく会う仲だから、鋭さは一層増す。
     
    「そうかそうか。そして今日、会いに行くんだな?」

     言い切られて、ぐうの音も出ない。いや、別に三日月に知られたからと言って、問題はない。ないのだが、この後の展開が予測出来てしまって嫌な汗が伝う。
     
    「よし、俺も行って、見てやろう。鶴丸に相応しいかどうか」

     そらきた! そう言うと思ったのだ。嫌な予感は完全に的中した。鶴丸は思い切り、首がもげるのではないかと言う程首を振る。
     
    「駄目だ! 来なくていい!」
    「何故だ? 俺が見たってかまわんだろう」
    「良くない! 絶対駄目だ!」

     必死になって言い募るのには、訳がある。当然、あの一期の、面食いの事だ。一期と普通に話しているとつい忘れがちになるが、彼は頭に超が付く程の面食い、キングオブ面食いなのだ。そんな彼に、三日月を、人類の最高峰の美貌を見せたらどうなる? 惚れるに決まっているではないか!
     駄目だ。そんな事は許さないし、許されない。鶴丸は三日月を何度も追い払う。電車のドアが開き、鶴丸は一目散に三日月を置いて駆け出した。このまま改札を出たら見つかってしまう。広い構内を何度も回って撒いてから、わざと東ではなく南口から出る。映画に行く話をしてしまっていたから、待ち伏せされるなら東口だ。膝に手を付いて、鶴丸は肩で息をする。
     南から出て、ぐるっと回って――
     
    「鶴丸、俺の方が足は速いようだな」

     真正面から声がした。愕然と、呆然と、悄然と、鶴丸は顔を上げる。三日月が、汗一つかかずにそこに立っていた。周り中の目がこちらに向いていたが、気にするつもりは毛頭ない。彼がここにいるという事だけが重要で、問題だった。
     くるりと向きを変えて、ずんずん歩き出す。三日月ものほほんと笑いながらついて来た。
     
    「あっちへ行った行った! きみが来るとややこしくなるだろ!」
    「別に顔を見るだけだろう。何とケチくさい事を」

     ああ、もう直ぐ目的地に着いてしまう。一期の前に、三日月が現れてしまう。空色の髪が、見える。彼は――ああ、呆然と、三日月を、見ていた。
     鶴丸の胸中に、冷たいものが広がる。一期が、美しいものが一等好きな者が、この世で一番美しい者を見てしまった。勿論、だからと言って一期が鶴丸に冷たくするなんて事はあり得ないだろう。彼はそこまで薄情者ではない。けれど、この鶴丸の想いは、恋心は、終わってしまったのだ。
     三日月と一期が何事か言葉を交わす。一期の手を取る三日月の手を叩き落としてしまいたかった。けれど、出来ない。これは、分かりきっていた事だ。
     凍えるような絶望のまま、鶴丸は三日月が去って行くのを感じる。一期の顔はまだ呆然としていた。顔が歪むのが分かる。そのまま、我ながら冷たい声が出た。
     
    「前に話しただろう? 従兄弟だ」
    「あの方が。確かにこれは、……素晴らしい美丈夫でしたな」

     うっとりと一期は言った。三日月を褒められる事で、ここまで気落ちした事があっただろうか。分かっていた、分かっていた筈なのに。

    「俺の美しさなど霞むだろ」

     ぽつり、と、涙が落ちるように声が出た。一期は何も言わない。言えないのかも知れない。それが事実だから。けれど彼は優しいから、言葉を探して、探して、
     
    「確かに三条様は大変お美しい方でしたが」
    「ああ」
    「五条様を見る時のような胸の動悸は致しません」
    「ああ。……えっ?」

     おざなりに頷いていた鶴丸の心に、さっと光が差した。今、彼は何と言った。動悸、と言ったか?
     五条様を見る時のような胸の動悸は致しません。
     それは――どういう、意味だろう? 鶴丸が思う解釈で良いのか? 合っているのか? あの三日月に会ったのに。それでも、きみは。

    「では、参りましょう」

     確認したい事があり過ぎて混乱する鶴丸を他所に、一期はベンチから立ち上がる。そして映画館へと向かおうとするので、慌てて引き留めた。肩を揺すって、どういう事なのか尋ねる。しかし、一期はただ視線を送るばかりで何も言ってくれない。
     ただ、その琥珀色の瞳は、柔らかかった。
     
     ああ、粟田口。
     やっぱりきみって、最高だ!




    三章 粟田口

     青白く照らされた空間は、ひんやりと冷たく、幻想的に広がっていた。幾人かの家族連れが立ち止まり、小さく感嘆の声を上げては移動していく。その様をゆったりと眺めながら、鶴丸は隣に視線を送った。
     
    「ここは、お魚さん達が暮らしている場所だから、静かにしなくちゃいけないよ?」

     出来るね? と一期の柔らかい声が、子供達にかけられる。それに「はぁい!」と元気良く返事をしてしまってから、自分が大声を出した事に気付いて口にぱっと手を当てる姿が可愛らしい。周りで見ていた家族達も、微笑ましそうに目を細めた。お魚さん、びっくりしちゃったでしょうか、と悄然と言う頭を撫でて、大丈夫だよ、次から気を付ければ、と一期は答える。ほっと息を吐いて元気を取り戻した彼は、早速各ブースへと小走りに行ってしまった。それを追いかけようとする一期に、隣にいた黒髪の少年が答える。
     
    「あ、秋田と五虎退は俺が見るよ」
    「そうかい? ありがとう。なら」
    「骨喰は前田と平野、博多の事お願いね」
    「分かった」

     他の小さい子の面倒は私が見るよ。一期はそう言うつもりだったのだろう。しかし、それよりも前に黒髪の少年――鯰尾から、銀髪の骨喰へとバトンが渡されてしまった。え、と一期の顔が動くよりも早く、しっかりとした面持ちの前田、平野、博多の3人は、骨喰について行ってしまった。残されたのは、当の一期と鶴丸、薬研に厚、後藤、乱の6人だ。しかし、どのメンバーも、もう引率が必要な歳ではない。一期と鶴丸に至っては大人だ。困ったな、と一期が頬を掻く。
     
    「別に何も困りゃしねぇだろ? いち兄」

     そんな彼に、薬研が可笑しそうに笑う。
     
    「偶には満喫しろって鯰尾兄さんと骨喰兄さんのご厚意ってやつだ。ありがたく受け取っとけよ」
    「……そうだね」

     未だに眉を下げたまま、それでも一応頷いて、一期はぐるりと館内を見回した。それに倣って、鶴丸も辺りを見る。薄暗い照明に照らされた、水族館を。
     
    「でも意外だな。遊園地と水族館なら、遊園地に軍配が上がるかと思っていたんだが」

     鶴丸が言うと、後藤から返事がくる。
     
    「遊園地も確かに魅力的だけど、うちはチビが多いだろ? 身長制限で乗れねえのも多いんだ」
    「そうしたらがっかりしちゃうもんね」 
     
     乱も頷いて、こちらを見上げてくる。成程、水族館ならば、身長制限などないから気兼ねなく楽しめる訳だ。静かにしていなければならないという制約はあるが、粟田口の子はどの子も皆、長兄に似てとても躾が行き届いている。変なトラブルを起こす事はないだろう。ならば、時間の許す限り魚の遊ぶ姿を見られる方が良いという事か。また一つ得た情報を脳内メモ帳に書き残して、さぁ、と残りのメンツを促した。
     
     今度、一緒に何処かへ遊びに行きませんか。一期に誘われた時、鶴丸は天にも昇る気持ちだった。いつだってそうだ、一期から誘って貰えると、鶴丸の気持ちはこれでもかという程高まる。しかし、今回特に嬉しかったのは、弟も一緒に、と言って貰えた事だ。鶴丸は、一期と二人でならぼちぼち映画などを観に行くようになった。しかし、一期の宝である粟田口の子供達とご一緒した事はまだない。五虎退がいなくなった騒動の時に出会った一度きりだ。正確には薬研とはその前、あの運命のカフェで少しばかり話したが、親睦を深めたとは到底言えないだろう。初めてに等しい。
     一期にとっての弟は、宝物だ。本人も、そう言い切っている。その宝物に触れさせて貰える程、鶴丸は一期と近くなったのだ。それがとても嬉しい。あの日の告白の返事は、まだうやむやなままだけれど――それが苦にならない程、一期は鶴丸と共にいてくれた。
     早速、何処へ行こうか二人で計画を立てる。海に行くにはまだ風が冷たいし、宿泊は施設の許可が下りるかどうか難しい。ならば日帰りで、子供が楽しめる所が良い。そうして残ったのが遊園地と水族館の二択で、選ばれた理由は先程後藤が語った通り。皆で朝から眠い目を擦って電車に乗り込んで、がたごとがたごと。その間、鶴丸は子供達の視線をちらちらと感じていた。敵意は感じられない。ただ純粋過ぎる程の興味が、そこかしこからする。一応出発前に、同僚の五条鶴丸様だよと一期に紹介はして貰ったのだが、それこそ名前を明かしたに過ぎない。一体どういう人物で、もっと言えば愛する長兄とどういう関係なのか、それはそれは気になっているのだろう。しかし、不躾に聞いてくる子は一人もいない。本当に良く出来た子達だなと感心しつつ、鶴丸は一応見知った仲である五虎退の手を握りながら、行先の水族館の話などをする。どの子も、大人が話し始めれば熱心に耳を傾けて、分からない所があればきちんと考えて質問してくる。将来有望だ。一期が声をかければ、直ぐにそちらを向く。本当に仲が良いんだなと微笑ましくなった。
     水族館に着くと、既に多少の列が出来上がっていた。休日の水族館なので混んでいるとは思っていたが、想定の範囲内だ。はぐれないようにさえ気を付ければ良い。そうしてチケットを入手して入れば、青く蒼く光る美しい水底が待っていた訳だ。ほぅ、と息を吐いて、魅入った。
     
    「いち兄、僕、イルカさんのショーが観たいです!」
    「ぼ、僕も……!」

     暫く各々館内を見回っていると、とことこと秋田と五虎退、引率の鯰尾が寄ってきた。小声でひそひそと言う姿に頬が緩んでしまう。そうして、自分が意外と子供が好きだった事に気付いて、鶴丸はひっそりと笑った。その自由な発想と有り余るエネルギー、天へと真っ直ぐ向く体。何処をとっても興味津々だ。自分もあんなだったのだろうか、と思うとくすぐったいものがある。
     隣の薬研に、小突かれた。
     
    「なぁに笑ってんだ? 旦那」
    「いや、きみ達は可愛いと思ってな」
    「その"達"の中には誰が含まれてるんだろうなぁ」

     正直に話せば、中学生とは思えぬにやりとした顔が返ってくる。薬研だけは、一期と鶴丸の出会いを知っている。一期が鶴丸に見惚れた事、そして鶴丸が一期をナンパした事。つまり、鶴丸の一期に対する思いはこの子には筒抜けな訳で。にやにや笑顔を返しながら、声を潜めた。
     
    「勿論、きみ達の大事な一期お兄様も入ってるぜ」 
    「俺は旦那のそういう潔い所、好きだぜ」
    「きみにそう言ってもらえると嬉しいな」
    「それはいち兄に一歩近付けるからか?」
    「それも含めて、だ」

     可愛い子に好きだと言って貰えれば嬉しいもんだろう。告げる言葉に、にぃっとお互いの笑みが深まる。どうやらこの子とは気が合いそうだ。話していて、ついつい悪巧みがしたくなってしまう。そんな空気を察知した訳ではないだろうが、一期が振り返って不思議そうな顔をした。
     
    「お二人して、どうしたんですか?」
    「いや、気が合うなって話してたんだ」

     嘘は言っていない。彼の方もそう感じた筈だ。だから言い切ると、ふむ、と一期は口元に手を置いて、確かにそうかも知れませんねと笑った。蒼い光に照らされて、柔らかく輪郭が滲む。――綺麗だなぁ。危うく呟きそうになったのを堪えて、一期の後ろを見た。
     
    「で、イルカのショーに行くんだろう? 少し早めに行って席を取った方が良くないか?」
    「そうですね、何分この人数ですから……もう行きましょうか」
    「そうしよう」

     一期が骨喰達に手を振ると、直ぐに気付いてこちらにやって来た。イルカのショーを観に行くよと言えば、前田と平野、博多が目を輝かせる。やはりショーは子供達の興味を惹くのだろう――
     
    「ショーって幾らくらい儲かるばい?」 
     
     博多だけが、全く別の観点からショーの事を考えていた。周りの笑い声の中、一期の「こら」と言う声が響いたが、博多は寧ろ誇らしげに叫んだ。
     
    「ジャパニーズビジネスマン!」

     ……今もって、意味は分からない。 


    「さぁてお次の輪は、ああ! あんなに高い位置に! 届くのでしょうかー!」

     ショーのお姉さんの声に合わせて、子供達の期待に満ちた目が向く。今やっているのは、高い位置に設置された輪をイルカがくぐるというもの。最初は低い位置から始めて、どんどん高くなっていく。それを見上げる子供達の目は、きらきらと宝石のように輝いていた。何処まで跳べるんだろう。何処まで跳んでいってしまうんだろう! そんな期待が会場中に湧き起こっている。かく言う鶴丸も、久方ぶりに見るイルカショーを、懐かしい気持ちになりながら見つめている。その直ぐ後、厚にちょいちょいと突かれなければ、ずっとそちらを見ていただろう。
     見れば、耳を貸してくれと言わんばかりの厚の目。鶴丸は屈んで、顔を寄せた。厚もぐっと背を伸ばして、顔を近付けてくる。
     
    「あのさ。五条さんは、いちにいの同僚なんだよな?」
    「ああ、そうだぜ。部署は違うけどな」 

     頷けば、厚もまた首を縦に振る。
     
    「じゃあ、聞きたいんだけど。いちにいって会社だと、どんな感じなんだ?」

     これまた抽象的な質問が来た。流石にこれだけでは答えられない。
     
    「どうって言うと、例えば業務成績とか、そういうのか?」
    「うーん、そういうのより何ていうか……働きぶりっていうか?」 
     
     業務成績は、働きぶりには入らないのだろうか。少々疑問に思ったものの、その二つのニュアンスの違いを思って、鶴丸は考える。要は、一期の働き方という事だろうか。
     
    「粟田口は熱心に働いている、とか、そういうので良いのか?」
    「そうそう! 熱心で……」
    「うん?」
    「熱心過ぎて、無茶してねぇかなって」

     厚の声が少し曇る。ばしゃーんと大きな水飛沫の音に、掻き消されそうになる程に。鶴丸は黙って、その瞳を覗き込む。厚は、ぎゅっと唇を引き結んでいた。
     
    「いちにいは、俺達の事、凄く大事にしてくれてる」

     嬉しさの滲んだ、けれど硬い声。
     
    「だから、不安なんだ。俺達のために、頑張り過ぎてないかって」

     いちにいは、俺達の事宝物だって言ってくれる。それはすげぇ嬉しいんだ。嬉しくて、嬉しくて、だから不安になる。宝物を守るためだったら、どんなに傷付いても平気だって思っちまうんじゃないかって。
     俺は、俺達は、いちにいが好きだ。だから無茶なんてして欲しくないし、ちゃんと自分の幸せも見据えて欲しい。
     足枷には、なりたくない。

     ぽつりぽつりと厚は言う。その声が途中で震えた事にも気付いたが、黙っていた。ただ黙って、鶴丸はその小さな頭を引き寄せる。ぽんぽんと叩けば、一つ揺らいだ。それでも優しく叩き続けて、顔を寄せる。
     
    「粟田口にとって、きみ達は宝物だ。それは分かるな?」
    「ああ」
    「きみにとっての粟田口一期も宝物だ。そうだな?」
    「……そうだ」
    「なら、分かる筈だ。きみは粟田口のために何かする時、それを負担に思ったりするかい?」

     こんな事してやらなきゃならないなんて。こんな事、他の奴にやって欲しい。どうして自分がやらなきゃいけないんだ。そんな風に思うかい? 思わないだろう?
     厚は頷く。強く、強く。
     だったらそれは、勇気なんだ。無茶じゃなく、希望なんだ。必死だろうと、傍から見れば無茶苦茶だろうと、時に自分のキャパシティを超えていようと、一期にとってきみ達のためにする事は全て、彼自身の幸せに繋がっている。そうしてきみ達と繋がっている時、確かに一期は幸福なんだ。誰よりも勇気を与えられて、何とだって戦える。それは、きみ達を大切にしているからだ。そうだろう? 自分の幸せを犠牲にしているんじゃない、幸せのためにきみ達を大事にしているんだ。きみ達と一緒に、幸福であるために。
     それは、きみの望まない結果かい?
     
     厚が顔を上げた。真っ直ぐに鶴丸を見る。鶴丸も見返した。逸らす事なく、包むように。
     ふ、と、厚が笑う。そうして回された腕に寄りかかると、あーあと声を出した。
     
    「どうしたどうした?」
    「何でも! 心配事が一つ減って良かったなって思ってさ!」

     それは一期の事なのか、他の何かの事なのか、皆目見当がつかなかったけれど。
     
    「あ! くぐれたぜ!」

     厚がそれは青空みたいに澄んだ目でイルカを見つめるから。
     鶴丸は微笑んでショーを眺めた。




     盛況に終わったショーの熱気にまだ当てられたまま、「腹が減った」という素直な申告により、レストランへと向かう事となった。ショーが丁度終わった直後であるためか、非常に混雑している。少し時間を空けた方が良いかとも思ったが、「俺の腹がもたない」と言われてしまっては仕方がない。記帳してから待つ事30分、ようやく席が空いた。
     
    「13名様でお待ちの、五条様!」

     そう呼ばれた時は流石に周囲に注目された。宴会場じゃあるまいし、団体様でもないのに13人もいればそりゃあ驚くだろう。ぞろぞろと現れると、店員も一瞬目を瞠った。けれど直ぐにお行儀良くついて来るのを見て頬が緩んだらしい。子供用の席も苦い顔せずセッティングしてくれた。それに礼を言いつつ、席に座る。一期と鯰尾、骨喰、そして鶴丸が四端を固める格好だ。隣の後藤が、狭くないか聞いてきてくれる。大丈夫だぜ、と返すとにっかとした笑顔。外見だけ見るとはねっかえりに見られかねない後藤だが、根はとても素直だ。弟達の事も、とても大事にしている。粟田口の中では、双子である鯰尾と骨喰の次に年長者のようだった。だからか、弟達は自分が守ってやらなければならないと気負っている所があるらしい。頼もしいですなと一期が笑って言っていたのを覚えている。メッシュの入った髪を流して、後藤は皆の分の水を取りに行くと言い出した。しかし、何度も言うように人数は13。一人で持ってくるのは骨だろう。俺も行こうと二人で席を立って、ドリンクコーナーへと向かった。
     
    「へへっ」
    「どうした?」
    「いや、俺が行くって言えば、五条さんもきっとついて来てくれるよなって思ったからさ」
    「ほー」

     つまり、鶴丸に用事がある訳だ。ちらりと周囲を見回すも、幸いドリンクコーナーに人気はないし、一期達の席からは死角になっている。話すならば今だろう。
     
    「で、どんな用だい?」
    「うん。あのさ、いっぱい稼ぎたいってなったら、やっぱり沢山勉強して大企業に勤めるのが一番良いよな?」
     
     中学生の発言とは思えぬ相談事が回って来て、一瞬鶴丸は目を点にする。
     
    「……博多のが感染したか?」
    「そういうんじゃねぇって! 将来、チビ共を養うためには安定した収入がいるだろって話!」

     思わず金の亡者の名前を出すと、心外とばかりに後藤が目を吊り上げる。茶化したつもりはないが、結果的にそうなってしまった事は謝るべきだろう。だが、まだ遊びたい盛りの中学生が描くには現実的過ぎる将来像に、つい頭を掻いてしまう。
     
    「ま、確かにそれが一番現実的で堅実なのは確かだな」
    「だよな。よし、ならもっと勉強頑張らなくっちゃな……」

     後藤はうんうんと頷く。チャラい――と言えば失礼かも知れないが、髪の一部を染め、シルバーのアクセサリをするような彼が言うには些か不似合いな台詞だ。それは後藤自身も分かっていたのだろう、見つめる鶴丸の目を見て口を開いた。
     
    「いち兄も、中学一年の頃には、もう大企業に入って沢山収入を得るって目標立ててたらしいぜ」
    「それはまた……」

     一期の場合は、彼らしいと思ってしまうのだから不思議である。しかし、その理由に目を向ければ、そこには悲壮なまでの覚悟があったのだろうと思う。少しでも、弟達に仕送りが出来るように。少しでも良い暮らしをさせてあげられるように。そして施設に少しでも恩返しが出来るように。一期はそう考えて、必死に頑張ったのだろう。皆と遊びたいのも、羽目を外したいのも我慢して、勉強に、バイトに明け暮れて。そうしてようやく今のゆとりを手に入れたのだ。
     
    「俺も、そうなりたいんだ」

     後藤は、痛い程真っ直ぐな目で鶴丸を見た。
     
    「チビ達のために、少しでも楽をさせてやれる兄貴でいたい。俺がチビだった時、いち兄がそうしてくれたように。だから俺、勉強もバイトも頑張るぜ!」

     そうして、五条さんやいち兄がいるようなでっかい会社に入って、でっかくなってやるんだ! 後藤はにっと微笑んで、腕を広げる。その腕いっぱいに、宝物を持った手で。
     そうか。と、鶴丸は笑う。ぐしゃぐしゃと髪を掻き回すと、うわ、やめろよっと声がかかってきた。けれど、本気で嫌がられてはいない。はははっと笑う声がする。
     
    「……おっと、そろそろ水を持ってかなければ、お兄様が心配するな」
    「そうだったそうだった。トレーあるかな?」

     ひとしきり笑ってから、コップとトレーを用意する。氷のからんとした音が、涼やかに響いた。
     


     
    「クラゲって、こうして見る分には綺麗だよねぇ」
     
     昼食も終わり、各々クラゲコーナーを見回る事になってから数分後。一人小さな水槽を眺めていた鶴丸の横に、乱が来た。こうして見る分、というのは、毒を持っている事や、海辺に打ち上げられた姿の無残さの事を指しているのだろう。確かにあれは綺麗とは程遠いよなぁと頷いて、鶴丸はゆらゆらと揺れるクラゲを見つめる。この水槽には、このクラゲ一匹だけだ。残りはいない。寂しくはないのだろうか、死んでしまったらどうなってしまうのか――そもそもクラゲにそういった感情があるのかないのか。鶴丸には分からなかったが、何処か寂しげに映ったのは恐らく、自分の姿を重ねたからだろう。正確には、かつての自分の姿。綺麗な所で、綺麗なお人形として、綺麗ね綺麗ねと言われ続けて過ごした幼少期。それが嫌で、でもどうしようもなかった中学時代。そして、自分には手があって、足もあって、何処へだって行けるんだとようやく気付いた高校生。しがらみも何もかも捨てて入って、ようやく息を吹き返した大学。その先にある――今。この場所で、宝物達と過ごしている。そう思えば、このクラゲが憐れになった。彼(彼女?)は何処にも行けないのだから。それでも、自分の運命を見定める事は出来るけれど。
     何も言わずにクラゲを見つめる鶴丸を、乱が見上げる。赤みがかった金髪がさらりと揺れ、青白い光に照らされて滑り落ちていく。
      
    「昔ね、もっと小さい頃、ここに来た事あるの」

     乱は、ぽつりと言った。
     
    「その時思ったの。このクラゲ、ボクだって。何処にも行けないボクと一緒だって」

     思わず目を見開いて、そちらを見た。乱はクラゲを見つめる。指で、つ、となぞって、寂しげに微笑んだ。
     
    「施設から出られない。出られた時にはもう何処にも行き場がない。死んじゃうも同然なんだって、そう思ってた」

     蒼い目が、光を吸い込む。
     
    「でもね、いち兄が、手を握ってくれたの。お前の行き場は私が作るからって。お前が施設から出てくるまでに、大きな家を建てて待ってるよ。そう言ってくれたんだ」

     ふわりと笑みが広がる。蒼い目にはきっと、その時の思い出が蘇っているのだろう。水槽の中のクラゲの動きに合わせて光が変わると、乱の表情もくるくる変わる。微笑みから、泣き出しそうな顔へ、そしてまた、笑みへ。そうして、そっと瞼を落とす。
     
    「だからごめんね、クラゲさん。ボク、お仲間にはなれないんだ」

     そう言って別れを告げたの。でもまた会っちゃったね。そう言ってウインクする姿はもういつもの乱そのもので、鶴丸も笑みを浮かべる。黙って頭に手を置くと、人懐っこい顔ですり寄ってきた。
     
    「ね~え、五条さん。ボク、聞かなきゃいけない事があるんだけど」
    「なんだい?」
    「五条さんは、いち兄の恋人なの?」 
     
     ふんわりとした顔のまま、しかし目だけは油断なく鋭く、乱は聞いてきた。嘘を見逃す事のない、決して逃さないという目。少しでも疚しい所があれば、あっという間に暴かれてしまうだろう。そんな恐ろしい目を乱はしていた。
     しかし、鶴丸に不安はない。何一つとして、隠す事なんてなかったから。
     ただ、

    「男が恋人で良いのかい?」

     それだけが、聞くべき事だった。各自治体によっては認められてきたとはいえ、まだまだ同性愛への偏見は強いだろう。そんな謂れのない視線に、大事なお兄様が晒されても良いのか。それだけが気掛かりだった。
     乱は目を細める。そうして歌うように唇を開いた。
      
     あのね、いち兄はああ見えて凄くプライドが高いんだよ。それに警戒心だってうんと強い。あんなに柔らかい対応するのにね。……施設育ちで色々あったからかな? だから、内側に入れても良い人なのかって、いつでも見極めてる。知ってる? 五条さん。ボク達と一緒にお出掛けするいち兄の"お友達"は、五条さんが初めてなんだよ。ボク達がほんのちょっとでも傷付かないようにって、いち兄はいつでも気を張ってる。そのいち兄が、ボク達と会わせても大丈夫、会って欲しいって思ったのが、五条さんなんだ。五条さんが初めて。この先ももしかしたら増えるかも知れないけれど、それは五条さんが最初にいたから、きっと増えるんだよ。
     
     乱はにこりと笑って、顔を上げた。
     
    「ボク達はね、何も心配してないよ」

     後ろ手に手を組んで、ただ笑った。
     
    「いち兄の選んだ人だもん」

     ――彼らの一期への信頼が、目に見えるようだった。何年もかけて育った、大木のような信頼。その幹は太く、強く、枝は見事で、美しい花が咲いている。丁寧に水をやり、太陽の光をたっぷりと注いだからこそ、出来たものだ。その開いた花を、鶴丸は手の上に乗せられている。弟達に、そして一期に。温かく、優しい。
     
    「だったら俺も、全力で粟田口の事射止めなきゃな」
    「あ、まだキスもしてないの? ざんね~ん。したら連絡頂戴ね?」 
    「駄目だ駄目だ、中学生にはまだ早い」
    「五条さん考えが古い~」

     軽口を叩き合って、笑い合う。胸中でそっと祈った。どうかこの水槽のクラゲにも、仲間が出来ますようにと。
     


     
     皆でお揃いのお土産を買おう! そう言い出したのは誰だったのか、秋田かも知れないし前田かも知れないし鯰尾だったかも知れない。兎に角、土産物コーナーに入り、13人は、どの商品を皆で持つか悩みに悩んだ。
     
    「やっぱりイルカが良いんじゃないかな」

     クジラやイカの横、色取り取りのイルカのキーホルダーを見て、鯰尾が言う。それに骨喰も首肯した。確かに色の種類が沢山あって被らないし、水族館に来た! という感じがする。よし、じゃあこれにしようと決めて、各々色を選ばせた。さて、俺は何を選ぼうか。そんな顔をしつつ、もう決めている鶴丸である。空色――ここでは水色と言うべきか。これだ。理由は言うまでもないから割愛する。そしてちらりと隣を見ると、一期がある一点を見つめていた。何を見ているんだ? と鶴丸は視線の先を見る。そこには、白いイルカのキーホルダーがあった。それを食い入るように見つめている。白――一期は、白が好きなのか? それとも、それとも……? 笑みが込み上げて来て、慌てて押し込める。まだそう決まった訳じゃない。
     思っていると、
     
    「いち兄はこれね!」

     そう言って、乱が白いイルカのキーホルダーを一期に押し付けた。渡された彼は目を白黒させている。なんで、とか、いや嫌とかじゃないが、とか、もごもご言っている。そして視線を巡らせた後、そっと、そーっと、こちらを見てきた。目が合う。当然合う。ばっと逸らされた。きみ、きみって奴は。勘違いするぞ。良いのか?
     
    「よし、全員決まったな。買ってこようぜ!」

     薬研の言葉に、はっと一期が我に返る。そうして暫し白イルカを見つめた後、そっと握り締めてからカウンターに持って行った。慌てて鶴丸も続く。
     
    「スマホにつけます……」

     ぼそりと一期が呟いた。それに、目を見る事が出来なくて、ただ頷く。
     俺もつける。絶対につける。
     


     
    「じゃあ、今日はありがとうございました」

     夕方。斜陽の空を眺めつつ、施設の前で11人の子供が頭を下げる。無事、門限前に水族館から帰って来る事が出来た。途中で何かトラブルが起こる事もなく、何事もつつがなく。帰りの電車では、はしゃぎ疲れたのか小さな子達は眠っていた。すやすやと身を寄せ合って眠る姿に、胸がほっこりと温かくなった。それは一期も同じだったのか、髪の毛をゆったりと梳いてやる顔は慈愛に満ちていた。一緒に来られて良かった、と、また鶴丸は何度目かの思いを胸に抱く。一期と、この子達と一緒に来られて、とても楽しかった。話が聞けて嬉しかったし、発破もかけられた。このまま、一期とだけでなく、彼らとも連絡を取り合って、仲良く出来ればと思う。皆良い子で、温かい子供達だった。
     しかし、長々とここで立ち話をしている訳にもいかない。名残惜しいが行かなくては。鶴丸と一期が立ち去ろうとする素振りを見せると、急に子供達は顔を見合わせた。
     
    「五条様、ちょっと待ってください!」 
     
     そう言って、前田がバタバタと施設の中に入って行く。何だ何だと鶴丸は一期と顔を見合わせるが、首を振るばかり。はて、何かこの間に忘れ物でもしただろうか。そんな事を考えている内に、前田が息を切らせて出て来た。持ってきたのは、何か紙を丸めたもの。それを平野に渡して、前田はぴしっと背筋を伸ばした。
     
    「五条様、今日は楽しかったです。ありがとうございました」
    「おう、俺も楽しかったぜ。ありがとうな」

     先程も言われた言葉を繰り返されて、鶴丸も笑みを浮かべる。嘘偽りなく、楽しかった。そう告げれば、嬉しそうに顔を見合わせる所がまた可愛い。そして、平野が一歩前に出ると、おずおずと丸めてあった紙を広げた。
     そこに描いてあったのは。
     
    「俺――だな?」

     肌色の丸と、灰色の長い線が幾つか、黄色の真ん丸が二つ。それらが画面いっぱいに描かれた絵。辛うじて人と分かる造形。けれど鶴丸は、それが自分であると疑わなかった。疑う必要すらなかった。前田と平野が、目を輝かせてこちらを見つめていたから。彼らが一生懸命に描いてくれたのだと、分からない奴が果たしているだろうか。鶴丸は満面の笑みで、その画面を覗き込んだ。
     
    「おお、男前じゃないか。鼻の所が特に良い」
    「いち兄に写真を見せていただいて、描いたんです……!」
    「そうか、そのために……」

     水族館に行く事が決まった日の夜、一期からメールが届いたのだ。弟が、鶴丸の写真を欲しがっているので送っても良いかと。大方どんな奴か知りたかったんだろうという程度しか思わず、構わないと許可したのだが。まさかこんなサプライズプレゼントが待っていたとは。口元が綻ぶのが止められない。鶴丸は大事に、大事に、その紙を受け取った。
     
    「貰って良いかい?」
    「勿論です! あの、いらなかったら捨て「部屋に飾るぜ。額縁に入れてな!」
     
     にっと笑いかければ、前田と平野が顔を合わせて、それから少し潤んだ目で頷いた。本当に、懸命に描いてくれたのだ。捨てる馬鹿がいたら地獄に叩き落としてやりたい。部屋の一番目立つ所に置こう。今日、皆で撮った写真と共に。
     
    「しかし、前田、平野」

     ふと、鶴丸の後ろで同じく目を潤ませていた一期が、羨ましそうに首を傾けた。贈り物の絵を覗き込んで尋ねる。
     
    「こんなにハートマークばっかり。そんなに五条様にお会いしたかったのかい?」
    「え? いち兄が五条様のお話をする時こんな感じですから、それを表現してみたんですけど……」

     ――前田としては、何気ない一言で、だからこそ真実だったのだろう。しかしそれは、鶴丸本人の前で言うべき台詞ではないという所まで分かる程、彼はまだ大人ではなかった。
     一瞬にして、一期の顔面が真っ赤に染まる。それこそ、苺のように。あ、ぅ、と口をぱくぱくとさせて、一歩後退った。長兄のそんな様子の意味が分からなかったのだろう。下の子達が首を捻る。その横で、年長組がにやにやと一期を眺めた。対する鶴丸は、一期ににやにやする所ではない。首まで真っ赤に染まって、思わず紙を握り潰しそうになった。――一期が普段、どんな風に鶴丸の事を語るのか。これは是非、近い内に聞かせてもらわなければならない。顔を上げれば、目が合った薬研がぐっと親指を立ててくれた。話が早くて助かる。
     
    「あ、じゃ、じゃあ、もう、帰るよ、私達は!」 
     
     しどろもどろになりながら、一期は今度こそ別れを告げる。それに皆一瞬名残惜しそうな表情をしたものの、きちんと頷いた。
     
    「またね、いち兄。またね、鶴丸さん!」
    「ああ、またな!」

     何度も振り返って手を振りながら、道を進む。橙に染まった一期と鶴丸の長い影が、伸びて、消えて行った。

     
     駅まで辿り着くと、ぴたりと足が止まる。一期も、鶴丸も。同じ会社に勤める二人だが、家の方角は全く別だ。だから電車に乗ったら最後、今日はもうお終い。お開きと言う事になる。それが何だか、無性に寂しい。だから鶴丸は、食事に誘うつもりでいた。一緒に夕飯を何処かで取ろうと。それならば、もう少しだけ、一緒にいられる。
     
    「……五条様」

     鶴丸が口を開くよりも前に、一期が声をかけてきた。何だい? と尋ねれば、琥珀色の視線が返って来る。きらりと濡れたように光る視線が。どきりとして、息を止める。
     
    「宜しければ、夕飯をご一緒しませんか」

     一期は潤んだ目のまま言った。
     
    「……私の家で」 
     
     電車で二駅分。鶴丸と一期は何も言わなかった。ただ一つ、食材はあるのかと尋ねれば、多めに買ってありますとだけ。それ以外は無言で、ひたすら一期の後について行った。マンションの階段を二つ分上って、一番奥の部屋。そこが一期の住居らしい。彼は鍵を取り出そうとして、落っことした。あ。二人の声が重なる。拾おうとした手も重なる。一期が素早く手を引いて、俯いてしまう。そのつむじを見ながら、鍵を優しく掌に乗せた。
     
    「……ありがとうございます」

     小さな小さな声で一期は言って、鍵を開ける。先に部屋に入り、ぱちりと電気を点けた。ぱっと明るくなる部屋。何があるのかだとか、趣味が良い・悪いだとか、そんな事は全部吹き飛んでいた。鶴丸は土産と前田達に貰った紙を丁寧に置くと、エアコンをつけようとしている一期を後ろから抱き締めた。びくり、と一期の体が震える。それでも離さずに、寧ろますます力を込めて、囲う。首筋に顔を埋めると、一期の匂いがした。優しくて、爽やかな香り。それをすん、と吸い込んで、そっと目を閉じる。一期は腕の中で固まったまま。
     
    「なぁ、粟田口」
    「……はい」
    「どうして俺を家に呼んだんだ」
    「……」

     返事はない。ただ、ぎゅ、と、囲った腕に手が添えられる。熱い。身体が熱い。溶けてしまいそうだ。このままどろどろと溶けて、きみと混ざり合って、何処が境界線か分からなくなってしまったら。どんなにか気持ち良いだろう。
     
    「俺は、こんな無防備に家に呼ばれて勘違いしない程、出来た人間じゃない」
    「……勘違いでは、ありません」

     か細い声が聞こえた。一期は俯いて、鶴丸の手に自分のそれを重ねる。その熱は火傷しそうな程で、けれど蕩ける程気心地良かった。
     
    「ちゃんと聞かせて」

     くるりと腕の中の一期を、こちらに向かせる。彼は顔を上げた。琥珀色の瞳を溺れさせて、じぃっと、ただじぃっと。鶴丸だけを、見ていた。他の何にも映さない目。ただ、今この瞬間だけは、自分だけの。
     
    「お慕いしております、五条様」
    「俺も、きみが好きだ。……一期」

     初めて下の名前で呼ぶと、一期の目の海が揺蕩う。それをそっと拭いながら、鶴丸は永遠にこの目を見ていたいと思った。同時に湧き起こった衝動に、身を任せたくもなる。二つの相反する気持ちと戦いながら一期の目を見つめ、そして、遂に衝動が、勝った。
     ぐいっと腰を引く。すると一期はバランスを崩して、よろめいた。そこを抱き留めながら、押し倒す。ばたん、と二人、カーペットの上に倒れ込んだ。
     
    「ご……五条、様」

     一期の顔が、いよいよ熱で染まり上がる。一期を押し倒した鶴丸は、腕や腹、腰、太腿などに触れていった。その意味する所が分かったのだろう、一期は今度は顔を青くする。不安や恐怖がさっと瞳を過ぎり、唇が戦慄いた。その様子を見下ろして、にっと笑う。そしてぎゅうと抱き締めると「しないさ」と囁いた。
     
    「今は、しない。ただきみを確かめたくて触れただけだ。そういう事は、まだ先の話だ」

     一期の空色の髪を優しく撫でる。強張っていた彼の身体が、徐々に解けていくようだった。
     
    「これから俺達は、沢山の事を準備しなければならない。色んな事、たっくさんだ」

     でも。
     
    「俺一人では、用意したくない。きみと一緒じゃなきゃ嫌だ。きみと二人で計画して、準備して、歩んでいくんだ」 
     
     鶴丸は顔を上げ、一期の目を覗き込んだ。彼の琥珀の瞳は、逸らされる事なく鶴丸を見ている。
     
    「一緒に歩こう、一期」 

     勿論、きみの家族も一緒に。
     宝物を二人で愛でていこう。
     そうしてお互いもまた、宝物に。
     
    「はい。鶴丸様」

     一期は、はっきりと頷いた。きらりと光る目でこちらを見て、真っ直ぐと。
     
    「貴方と、歩きます」

     視線が絡まる。鼓動が近付く。
     そっと瞼を閉じながら、唇を静かに寄せながら。
     鶴丸と一期の初めてのキスは、甘く、柔らかく、何より温かかった。
    水没屋(らっこ)
  • 陛下が病気になりまして 1※ラインハルト女体化ご注意ください※
    ヴァルハラもの。コメディー。
    日没とともに女性化する奇病にかかったラインハルトをめぐる、ローエングラム陣営の亡者たちによるゴタゴタ。ベースは黒金。
    *作中に出てくる『サロメ』の舞台のエピソードは、サイトにある『幕を開けよう』という短編と関係しています。本作では踏み込んで書いていないので『幕を~』を読まなくても問題ありません。

    パスワード希望の方へ:メッセージにて「亡霊たちと乾杯を」のご感想をお寄せください。

    #銀河英雄伝説 #銀英伝 #logh #腐向け #帝国 #黒金 #小説
    城山まゆ
  • 二人ならシティーハンター
    冴羽獠×槇村香

    原作以上の関係。
    ラストは「あのシーンのイラスト」が浮かぶといいな…(*´艸`*)

    自サイトからサルベージした作品を加筆・修整して公開。
    初公開:2008年10月1日。


    #シティーハンター #cityhunter #冴羽獠 #槇村香 #小説 #掌編 ##CH
    かほる(輝海)
  • 亡霊たちと乾杯をラインハルトの誕生日に寄せて。「12月23日騒動」の後日談にあたる話。コメディー風味。ラインハルト礼讃。黒金ベース。
    亡きカイザーの誕生日の未明、あの世とこの世が交錯して死者と生者のあいだに起こる騒動。(キスリングが昇進しているかどうかで非常に迷い、とりあえず階級はそのままにしました)

    パスワード希望の方へ:メッセージにて「12月23日騒動」のご感想をお寄せください。


    #銀河英雄伝説 #銀英伝 #logh #腐向け #帝国 #黒金 #小説
    城山まゆ
  • アヤマツとのクロスオーバー小説『交差するセカイ』――命燃え尽きる前夜。
    それはとても静かで、穏やかなものであった。

    運命の明日に向けて瞼を閉じる。
    暗闇の中に、数々の日々が浮かび上がった。

    腐りきった世界で、ただ一つ、輝くもの。

    いくら手を伸ばしても、届かないとわかっていた。触れてはならないことも。側にいてはならないことも、誰より理解していた。

    それでも、たったひとつだけ。
    君に届けたい言葉が、想いがあった。

    だから――伸ばした手が切り落とされるとわかっていても。喉が擦り切れ、血が滲むほど叫んでも。剣先が身を貫き、肉を削ぎ落としても。
    まだ死ねないのだと立ち上がれた。

    それも明日で、この回で、全てが終わる。

    これは手応えではない。
    もっと確実な――『運命』だった。



    ※ ※ ※ ※ ※

     埃混じりの淀んだ空気。
    背を受け止めるものは固く、鈍い不快感が沸き起こる。
    新しい1日は、予期せぬ居心地の悪さから始まった。

    「知らない天井だ」

    第一に飛び込んで来たのは、蜘蛛の巣が張った木目の天井。
    ナツキ・スバルが就寝前に見た光景とは、似ても似つかないものだった。

    ルグニカを暗躍していたスバル達一行は、王都のとある貴族の屋敷に設けられた地下室を拠点とし、最後の日を迎えようとしていた。身を隠すなら相手の鼻先とはよく言ったものだ。
    地下室といえど、曲がりなりにも貴族の屋敷。荘厳な装飾品や調度品の数々が品良く配置されていたし、一時期『青』を幽閉していた石牢も存在していたが、ここはそれとも異なっている。

     とにかく状況を把握しなければと身を起こすと、痛んだ木の床がぎしりと鳴く。
    瞬間、神経を尖らせるも、どうやら人の気配はないようだ。
    手のひらサイズほどの小さな覗き窓から射し込む陽光の助けもあり、室内は仄かに明るい。備蓄用の納屋なのか、壁際に積まれた木箱や麻袋は埃を被っている。床もスバルが身を横たえていた部分を除いて、人の痕跡はない。

    「誰かがここに運んだわけでもない……か。俺の足跡すらないって、どんなトリック?」

    まぁ考えても仕方ない、と立ち上がり、疑問と共に埃を払うも、舞い上がるそれに咳き込んだ。

     ふと自身の装いに目を落とす。
    黒ずくめの軽装で完全な丸腰。
    一切の状況がわからない上にこれでは心もとないと、いくつか適当な木箱の蓋をずらす。すると、質は悪いが手頃な短刀とやや痛んだ黒のローブを見つけて有り難く拝借。
    この程度の短刀では心もとないが、元より非戦闘員気味なのだ、死に戻りの足掛かりにでもなれば万々歳。
    無論、死ぬのはごめんだが。

     陽光が差し込む小窓から、ちらりと外の様子を伺う。
    人の往来はなく、住居裏手の小道といったところか。納屋の扉は木材を錠から抜くだけの簡易的なもので、難なく外に出ることができた。
    小道の両脇に建ち並ぶ西洋式の住居はルグニカそのもので、とりあえず、別の異世界に飛ばされたという心配はなさそうだ。

     改めて体の埃を払い、怪しまれない程度にフードを被って通りを歩く。
    しばらくして小道を抜けると、商店が肩を寄せ合う繁華街が目の前に広がり、いつかの光景が脳裏をよぎった。
    それに吐き気を催す自分とは異なり、往来する人々の顔には活気があり穏やかで、今まさに王都を騒がせている王選や魔女教の混乱は見てとれない。

    「……振り出しに戻るとか、そういうのは勘弁願いたいね」

    深い溜息と共に、つい本音が漏れる。だが、この違和感。振り出しとはではいかなくとも、本来訪れるはすだった”明日”と異なる時間軸であるのは間違いない。
    なら、今はいつなのか。

     辺境伯の魔力で編まれたローブでないことが心許ないが、この時間軸で顔バレによる指名手配……なんてことにはなっていないだろうと腹をくくり、手近な店でそれとなく日付を聞いた。
    スバルが予想していた通り、本来のセーブポイントよりも時間が戻っている。しかも、未だ経験していないセーブポイントに。

     しかし、ここが全く未経験の時間か、というとそうでもなく、単に王都に居なかった、という意味だ。
    記憶力にはそこそこ自信がある。
    たしか、フリューゲルの大樹付近にて発生した白鯨討伐戦の残滓、”青”を拾うため、その周辺でペテルギウスに同行していたはずだ。
    時折、王都のアジトに足を運ぶことはあっても、むやみやたらに王都をうろつく理由もない。事実、セーブポイントもペテルギウス関連施設内だった。

     要するに現在の状況は、通常の死に戻りや、過去の別のセーブポイントに飛ばされたのではなく、新たに用意されたポイントに強制移動させられた、もしくは何らかの理由で死に戻り、ここから始まったということか。

    「剣聖とやり合いすぎて詰んだと思われたなら酷ぇ話だが。つっても、酷くなかった時なんざない気もするな……」

    この時間軸に来て、もう何度目になるかわからない深い溜息。人波を避けてふらふらと歩き、ふと顔を上げると、道端の立て看板が目に入った。

    芯のある瞳と目が合う。
    その瞬間、周囲の喧騒はぱたりと途絶え、行き交う人々の姿が滲む。世界から色が消え去って、そこだけが鮮明に浮き上がっていた。

    そして、頰を赤くしていた熱が落ち着いた頃、ようやく街に喧騒が戻り、隣の看板に描かれた他の候補者に気がついて

    「どーなってんだこれは……」

    そこには、存在ごと消滅したはずのクルシュ、王選を辞退したプリシラ、騎士を失い拠り所をなくしたアナスタシアらがある。
    エミリアを王にする為に、人としての尊厳すら踏み躙り、命どころか存在そのものを奪ったというのに、これは一体どういう理屈なのか。

    わけがわからない、と胸の奥底でと煮えたぎる思いがあった。
    現実を受け入れるのは容易くなく、 そのために削ぎ落としてきた魂が、声にならない絶叫が上げた。
    怒りに震える肩を抱き、ぶつけようのない慟哭を押さえ込んでいるうちに刻々と日が暮れて、気がつけば空は赤黒く染まっていた。


    「ねぇスバル、そろそろ戻りましょう」


     瞬間、時が止まる。
    顔を跳ね上げれば、自分を見つめる瞳がある。

    否、それは背後からもたらされた。
    しかし、あまりに突然の邂逅で、驚きのあまり振り向くことができない。


    「そうだな。ベア子とパトラッシュに土産は買ったし……まぁ俺としてはエミリアたんと夜景デートしてからってのもやぶさかでは」

    「もう、わがまま言わないの」

    声はそれほど近くない。
    まばらな雑音に混じって、しかし驚くほど鮮明に焼きついた。
    それはどんな凄惨な死より酷く、いかなる結末より受け入れがたく、魂を直接抉る刃そのものだ。

    声の主は忘れもしない、エミリア。
    そして、あまりにも聴きなれたスバル自身の――否、これはナツキ・スバルではなく


    ――おまえは、だれだ?


    疑問。
    次いで憎しみ。
    重ねて憎悪。

    最後に虚無感が押し寄せて――次第に声は遠ざかっていった。


    「く……ふはっ……傑作だな。
     なんだよそれ。これを俺に見せたかったのか? こんな結末もあったって、そう言いたかったのかよ? 俺は間違ってて、無力で、好きな子ひとり笑顔にできなくて……やれば出来た。なのに出来なかったって、嗤うのか? そうだな、嗤え。嗤えばいい。たまんないよなぁ。人をコケにすんのはさぁ……分かるよ」

    ふらふらと脚を引きずるように歩いた。うわ言のように呪いと憎しみ吐き出しつづけ、行くあてもなくて、兎に角誰もいない場所に在りたくて、街を出て、静かな街道をふらふらと歩いた。

    可笑しかった。どんな喜劇より滑稽だ。出来る力はあったのに、あれだけ強く願っていながら、こんな生き方があったなんて、そんなのがあるだろうか?

     ふと、草に脚を取られ、受け身を取ることもなく崩れ落ちた。心も体もボロボロだ。立ち上がる気力などあるわけがない。
    短刀で喉を貫き引き裂く力もなくて――

    「確かに俺は……てめぇらのお膳立てを全部無駄にしたんだろうよ」

    ナニモノかの想いも、願いも、全部踏みにじってやれたのかと思うと可笑しくて、くつくつと笑いが漏れた。

    「でもな。お前らが認めなくても、俺には俺の――最高の結末があった」

    腕をつき、身をもたげ、地に唾を吐きすてる。力なく天上を仰げば、虚ろな瞳に月が映り込んで

    「俺は――間違ってない。
     こんなものはまやかしだ。
     全部、俺が壊してやるよ」




     辺境伯邸に向かう竜車の中。
    ナツキ・スバルはまだ知らない。

    最も無力な自分自身が、最大の敵であるということを。



    ※ ※ ※ ※ ※


     ナツキ・スバルは順風満帆――とまでは言えないが、怠惰の大罪司教ペテルギウスを滅ぼした上、聖域の解放、および新たな仲間を得て、束の間の穏やかな時間を過ごしていた。

    穏やかなといっても、護身術の会得、新装具の鍛錬、ベアトリスへの魔力供給に加え、礼儀礼節なんやかんやと、寝る間も惜しくなるほどで。

    かつてのスバルなら、早々に根を上げていただろうが、幾重の困難を乗り越えたのだ。そう簡単には挫けない。
    むしろ、いずれ来たる死のループを想像すると、何もしないほうが落ち着かない――のだが、そんなスバルを心配したエミリアに、デートもとい、王都出張を命じられて今に至る。

    「ねぇスバル、本当に無理してない? 手も全然治療させてくれないし、すごーく心配なんだから」

    竜車が王都に走り出してすぐ、エミリアが眉をひそめつつ切り出した。

    「いつも言ってるけど、頑張った勲章ってのが男には必要なんだよ。それに休めるときは案外休んでるし、どうしてもダメなときはエミリアたんの膝枕で一秒チャージ!」

    幾重にもマメが出来た手を握りしめ、軽口を叩いてみるも、依然エミリアの表情は硬い。

    「はぁ。膝枕頼りの騎士なんてみっともないかしら」

    スバルの膝にちょこんと腰掛け、腕に抱きかかえられたベアトリスが大袈裟に息を吐く。

    「んん〜。 膝に座れないとむくれる大精霊様ってのは、みっともなくないのかなー?」

    ベアトリスの頭に頰を寄せ、きつく抱きしめてやると、むきゅっと声が上がり

    「ふ、ふん! それは契約者として当然のことかしら!」

    ぷいっとそっぽを向くも、耳まで真っ赤にしていては威厳もなく、ただただ愛らしいばかりだ。

    「ふふ。二人とも本当に仲が良いんだから」

    口元に手を当ててくすくすと笑うエミリアの表情は、先程までとは打って変わって朗らかだ。
    どうやらベアトリスのはからいが功を奏したようで――そのお礼とばかりに頰をグリグリ擦り付けてやると、竜車は賑やかな声で溢れた。


        *****


    「ベティはパトラッシュと一緒に待ってるかしら。でぃとは水入らずなのよ」

     王都に着くとベアトリスはそう言って竜車に残った。
    聖域を出てからしばらく、常にベアトリスと行動していたスバルにとって心寂しかったが、折角の気遣いに水を差すのはよろしくない。甘やかしてくれるときは徹底的に甘えるのが礼儀だと思い、エミリアの細くしなやかな手を握った。

    王都を訪れた理由は、でぃと以外にもある。白鯨討伐からしばらく経ったが、未だ記憶をなくしたままのクルシュの見舞いも兼ねていた。無論、単なる見舞いだけではなく同盟としての情報交換などが含まれる。

    クルシュとの会話が弾んだせいか、一通り挨拶を済ませた頃には日が傾き始めていた。

    「ごめんね、スバル。折角でぃと出来るはずだったのに」

    クルシュの邸宅を出たエミリアは、ロズワールお手製の認識阻害ローブを羽織りながら申し訳なさげに眉を下げ

    「ん。俺としては充分デートできた思ったけど、竜車に戻る前に買い物くらいは付き合ってもらおっかな」

    ベア子とパトラッシュにも何か買っていってやらないとな、と続けて笑い、エミリアの手を握る。緩く握り返す指先は暖かく、二人が育んできたものが確かなものだと再認識できた。
    この先どれだけ悪辣な障害が立ちふさがっても、二人――俺たちなら必ず抗えるのだと。

    今日も繁華街は活気に満ちていた。
    夕飯の買い出しのピークと重なったこともあり、人波に揉まれることとなったが、二人肩を寄せ合い、はぐれまいと一層手を固く結んで色々な店を見て歩いた。
    人波が落ち着き、空の色がすっかり赤く染まったところでエミリアが手を引いて

    「ねぇスバル、そろそろ戻りましょう」

    「そうだな。ベア子とパトラッシュに土産は買ったし……まぁ俺としてはエミリアたんと夜景デートしてからってのもやぶさかでは」

    「もう、わがまま言わないの」

    後ろ髪引かれる思いのままスバルがおどけてみせると、エミリアはその申し出を嬉しそうにしながらも、めっと小さく諭す。

    「じゃあ戻りましょう。えっと、あっち、だったわよね」

     エミリアが先導する形で手を引かれる中、ふと、スバルは街の一角に目を奪われた。薄汚れた黒いローブをまとった人影がある。
    王選候補者の看板の前で身を抱え、苦しげに身を強張らせていた。
    ローブといっても魔女教の装いとは異なるシンプルなものだ。

    体調が優れないのだろうか。
    エミリアなら駆け寄って声をかけるかもしれない。病人だとしたらベア子かフェリスを呼べば――そんなことを考えているうちに、人波に紛れ、いつしか姿は見えなくなっていた。

    胸の中にざらついた感触が残る。
    嫌な予感、そんなものではない。

    ただあれは、誰かがどうにか出来るものではないのだと、どこか共鳴するものがあったのかもしれない。
    恐らく、ナツキスバルにだけわかる、仄暗いものが。

    ベア子とパトラッシュに待たせてしまった詫びを入れてから竜車に乗り込むと、ロズワール邸に向けて走り出す。座席でベア子に膝枕をしてやりながら、車窓に目を向けると月が映った。



    その同じ月の下。
    悪辣な何者かが、今まさに産声を上げたと知らぬまま‪――



    ※ ※ ※ ※ ※


     ナツキ・スバルは、街道沿いを月明かりを頼りに歩いていた。
    この時間軸において何かを成し得るにしても、てんで無力な自分だけではエミリアに近づくこともままならない。
    簡単に言えば協力者。複雑に言えば利害関係の一致する、それなりに力のある人間とお近づきになりたい、というわけだ。
    目的を果たすどころか、生きていくためにはそれなりの資金もいるし、誰かを殺すにしても手回しが必要だ。
    そこのところをバランス良く介抱してくれる誰か――いの一番に浮かんだのが、辺境伯だ。他に共犯候補者に比べれば居処もわれているし、何よりいきなりスバルを殺したりはしない、という確信がある。

    しかし、だからといって協力関係になれる確信があるかというと、希望的観測という側面が大きいのも事実。

    特に辺境伯は、ナツキ・スバルの側にいる。故に、その影響下でいかなる変化をもたらされているか曖昧だ。
    さすがにあそこまで凝り固まった曲者が、そうそう変わるとは思えなかったが、裏か表かで言えば二分の一。
    多少の博打になるのは否めない。

    博打といっても、ナツキ・スバルのそれはイカサマ同然。迷うことはない。やってダメならやり直す。たったそれだけの簡単なお仕事――なのだが、ここで、最も大きな障害に阻まれる。ナツキ・スバルを祝福する唯一無二『死に戻り』に。

     この時間軸には二人のナツキ・スバルが存在し、互いに『死に戻り』の力を有していると考えられる。
    しかし、それは通常時の話であり、この時間軸においては話が別だ。
    死に戻りが作用せず、本当の『死』を迎える可能性。もしくは、『死』こそが自分を元の時間軸に還すトリガーである可能性。
    そして、ナツキ・スバルの死によってセカイが消滅し、再構築されるのだとしたら――それが二人いる状況下、先に死んだ者の死は確定し、残された側だけのセカイとなる。
    その死は誰の手によってでももたらされる。ナツキ・スバル同士が殺し合わなくとも、野犬に噛み殺されるだけでいい。

    つまり、『死に戻り』には頼れないということだ。

    これまで軽率な行動も厭わず、トライアンドエラーを繰り返してきたスバルにとって、これが大きな障害でなくてなんというのか。死に慣れてはいない。だが――繰り返し慣れていた。

    思考の海から頭をもたげ、前を見る。夜は深い。茂る草花の絨毯から虫の歌が聞こえる。と、そこに混じる雑音が大きくなることに気づき振り向いた。荷台をを引いた竜車の明かりが遠くに見える。

    道すがら衛兵らしい男に尋ねた際、この時間軸において白鯨は討伐されて、夜更けでも行商人や行き交うようになったと知った。白鯨が討伐された事実は、”青”を失ったことと同意義で、なんとしても辺境伯と協力関係にならなければという焦燥感に繋がって――

    「あの、すみません!」

    荷を引く地竜にまたがった青年が肉眼で捉えられるようになった頃合いで、大きく手を振り声を掛けた。商人らしい風貌の青年は地竜を止めてそれ応じ

    「こんな夜更けどうされました?」

    「その、実は知人を怒らせて竜車から追い出されてしまいまして。金貨一枚しか持ち合わせがないんですが、最寄りの宿舎までご一緒できないかと」

    「君もついてないね。僕も今日は王都で荷を全く捌けなくてね。一つ善行で徳を稼いでおくかな」

    言って、青年は地竜と一撫でしてから地に足を下ろす。屋根付きの荷台に乗り込むと、この辺りなら座れるかな、と言いながら木箱に手を掛けて

    「ああ、悪いね」

    瞬間、行商人後ろ髪を掴み、引き寄せる。バランスを崩し、倒れ込む商人の背を迎え入れると同時に喉元に短刀をねじ込んで、力の限り横に切り裂く。行き場を失った命の飛沫が宙を舞い、荷台はあっという間に血の海になった。叫ぶことが叶わぬ代わり、掻き切れた気道から空気が漏れる音が虚しく響く。足元に力なく崩れ落ちた青年の背を足で抑えつけて暫くすると、それは物言わぬ抜け殻となった。

    「手荒い真似は極力したくないんだけど」

    青年の服で剣先を拭った後、荷台の隙間から差し込む月光で照らし

    「思ったよりいい拾い物だったかも」

    良き相棒を腰に戻した後、凄惨な現場と化した荷台に再び意識を戻す。荷に倒れ込んだ青年の足を引き、木箱の隙間に押し込むと、そこに羽織っていたローブをかけた。その後、返り血を拭いながら竜車を走らせて、手頃な森で荷台を切り離す。ゆっくりはしていられない。日が登れば面倒事になるのは目に見えているのだから。

    地竜に跨ると商人が持ち合わせていた地図を頼りに街道を走る。
    朝霧が立ち込め、空は光を帯びていく中、辺境伯の領地内、アーラム村に到着したのだが――

    「――あれ。間違っては、ないよな」

    村の形はある。しかし、人の姿はなく閑散とした状態で

    「また、ナツキ・スバルか……」

    白鯨討伐がなされた時間軸。ペテルギウスによる襲撃を回避した先のセカイ。ナツキ・スバルによって何らかの策が遂行された故の現在。王都の初手から異なるナツキ・スバルには、それを理解できるはずもなく、湧き上がる疑問と胸の鈍い痛みを奥歯で噛み殺し、辺境伯邸へと急いだ。


    「魔女教の襲撃を回避するため、なのか。それにしても滅茶苦茶だ」

    眼前の光景に首をひねる。そこはかつて辺境伯の邸宅が顕在していた場所でありながら、現在は広大な更地とかしていた。スバルも訪れたことがある。ペテルギウスと共に屋敷を襲撃したことも、辺境伯と接点を持つために客人として訪れたことも。それは既にセカイから消失し、スバルの中にだけ残されたセカイだったが。

    地に目を落とすと、屋敷を取り囲む草木が一部炭化して残されいる。
    何らかの炎魔法が行使されたのか、単なる火災、それどれでもない何かか。

    「また間違ってるって、そう言うのか」

    掠れた声。答えはない。スバルは一人だ。
    それがナツキ・スバルの選んだ道なのだから。


    「これは思わぬ拾い物だねーぇ。予定を大いに狂わせてくれるのは実に君らしいわーぁけだが」

    運命の袋小路からスバルを拾い上げたのは、あまりにも場違いな間の抜けた声。顔を上げるとそこには、知らない顔の男――否、知っている。けれどそれは、スバルが知る厚い仮面を被ったものではなく――ここでも、胸を掻き毟られた。

    「おーぉや、なるほどねーぇ」

    瞳を興味深げに輝かせながら顎を擦る。

    「――辺境伯、どうしてここに」

    「ここは私の領地内なのだかーぁら、何もおかしな事はなーぁいのだーぁよ」

    「いや、でも――まぁいい。あんたに会うためにここまで来たんだ。まじで、手間が省けて助かった。俺は――」

    「これを、持っていくといい」

    スバルが言い終わるより早く、辺境伯は金の瞳を細め、おもむろにローブを手渡した。これは君のものだ、と。見覚えがある。認識阻害の魔法が編まれたそれは、スバルがいた時間軸でも辺境伯により授けられた。スバルが理解して受け取った様に確信を得たのか、満足げな笑みを口元に宿す。そして――焼けただれた一枚の紙を差し出した。

    「これは」

    四隅は灰になり、乱雑に扱えば崩れてしまいそうなほどのそれが、ただの白紙の紙であることを確かめながら、スバルは怪訝に顔をしかめる。すると、辺境伯は小さく、でも鮮明な声で囁いた。

    「――わかった」

    一瞬の沈黙の後、スバルは頷いた。
    その顔に、陰惨な笑みを宿して。



    ※ ※ ※ ※ ※


    「うっし、今日もいっちょやるか!」

    爽やかな水色に桃色の陽光が差し込む空へと腕を上げ、伸びをするところからナツキ・スバルの一日が始まる。慣れた動作で体の節々を伸ばして簡単なストレッチをするスバルの傍らで、ベアトリスが瞼をこすり、

    「スバルは朝から元気すぎるかしら。ベティはまだ眠いのよ」

    ふぁぁ、と小さな口をいっぱいに広げで欠伸をすると、淡く紅が差した目尻に涙が滲む。

    「これまで何もしてこなかったツケを回収しなきゃならないからな」

    前屈から起き上がったところで、アスレチックに腰掛けたベアトリスの頭をくしゃりと一撫でし

    「それに、こうやって体を動かしてる方が落ち着くんだ。体も鍛えられるし、一石二鳥、だろ?」

    「それよりも、その不幸体質を改善したほうがいいかしら。スバルは本当に困った契約者なのよ」

    「それが改善できるなら俺だってそうしてぇよ。レムが目を覚ました時に”まだ臭い”って言われたくねぇし」

    肩口をつまみ上げ、くんくんと匂いを確かめると柔らかな花の香りに鼻腔が包まれ、思わず頰が緩む。そこに形容し難い臭さは当然なくて、「わからん」と、首を捻るスバルにベアトリスは「ふふん」と得意げに鼻を鳴らし、

    「まぁ、ベティが居れば安心かしら。その不幸ごと吹き飛ばしてやるのよ」

    「ああ、そうだな! 頼りにしまくってるぜ!」

    こみ上げる愛しさをそのまま腕に込め、ベアトリスを抱きしめてやる。温かく柔らかな感触。強大な力を持つ大精霊ではなく、そこには華奢で小さな少女の体だけがあって。口では頼りにするといいながら、同時に、自分がベアトリスを守らなければならないのだという意思を新たにする。
    「よし!」と自らを奮い立て、ベアトリスを開放すると、

    「じゃ、ちょっくらひとっ走りしてくるわ」

    「こけないように気をつけるかしら」

    「子供かよ! でも、ま、気をつける」

    どこまで本気で心配しているのかは定かでないが、悪戯っぽい笑みを浮かべて見送るベアトリスに苦笑を返した後、広大な敷地を贅沢に使用したランニングコースへ駆け出す。軽快なステップはなかなか様になったもので、スバルの努力が垣間見える。ベアトリスは、その頼りなくも頼りになる背中を自慢げに見送った後、しばらくして、ふと空を見上げる。

    眩しい日差しに思わず目がくらむ。目頭に手のひらを翳して、その隙間から目を細めると、かつての光景が脳裏をよぎった。

    焼け落ちる屋敷の一角で、四百年の嘆きが今日こそ終わるのだと確信していた。あの時、ベアトリスに差し伸べられた火傷だらけの手。その手は、母が教え、授けたものではなく、自ら選び、握り返したもの。

    「――スバル」

    瞳を閉じ、愛しい名を確かめる。
    魂よりもっと深い場所で、今も二人を固く結びつける強靭な糸を感じ、心がじんわりと暖かくなる。それと同時に、ススで頰を汚し、数多の火傷をおいながらも、この手を掴めと呼びかけるスバルの顔が鮮明に思い起こされて、ベアトリスは再びその手を掴もうと

    「もう、寂しくなったのか」

    「ひゃん!?」

    突如、思考を声が引き裂いた。
    ベアトリスは可愛らしい悲鳴をあげた後、大きな瞳をまんまるに見開いて、キョロキョロと声の主を辿る。愛しい声の持ち主は、スバルが走り去った方向とは真逆にあって

    「い、いいいいつのまに帰ったかしら!?」

    「さぁ?」

    「さ、さぁって……」

    ベアトリスが上ずった声を慌てて投げつけたのに対し、まるで他人事のようにあっけらかんと返答するスバル。それに眉をひそめ、しばらく前にスバルが走り去った方向を見やるも、既にそこに人影があるはずもなく、ただ首を捻る。
    確かにスバルは目の前にいるのだから、少しどころか微塵も現実を疑いようがない。しかし、どこかその眼差しに違和感が拭えないままでいると

    「えーっと。ベアトリス、だよな」

    スバルは飄々と、しかし、ベアトリスと言う名の舌触りを確認するような不器用さをもって呟き、ベアトリスが否定しない様を見て肯定とすると

    「うん、我ながらナイスタイミング。今回ばかりは運命様は俺の味方かな。ま、連れて来といてそっぽ向かれちゃたまんねぇんだけど、わりとそれが日常茶飯事だから疑心暗鬼にもなるって話で……」

    「なにを言ってるかわけがわからないのよ」

    顎をさすりながら一人ぶつぶつと喋る様はベアトリスの瞳にも異様に映るが、それがナツキ・スバルとなれば話は別だ。しかし、どことなく居心地の悪さを覚えて、アスレチックから腰を上げると、それに呼応する形でスバルが歩み寄る。

    「これ。大事なものだったんだろ?」

    緊張感のない緩んだ所作で、懐から何やら取り出したスバルは、それをひらりとはためかせてからベアトリスへと差し出した。「大事なもの?」とオウム返しに問い返すも、スバルはこくりと頷くだけで、ベアトリスは渋々差し出されたそれに目を落とす。

    スバルが手にしたそれは、ただの紙切れだった。
    四隅が焦げ付き、いびつに歪んだ、ゴミ屑同然のそれが、どうしてベアトリスの大事なものなのか。疑問を投げかけようと小さく唇を動かしたところで、ぞわりと、灼熱が駆け上がる。

    「――ぁ」

    あまりに鮮明な感触に、震える肩を抱く。差し出されたそれは、一瞬でベアトリスを灼熱の禁書庫に連れ戻したのだ。熱波が肌を炙り、焦げ付いた匂いが鼻腔を蹂躙する。現実ではない、ただこれは、あまりにも真新しい記憶で

    「……どう、して」

    頭を振り、自らを蹂躙する忌まわしい熱を振り払う。しかし、振り払いきれなかった震えが声に滲む。ベアトリスの心は疑問で埋め尽くされていた。どうしてそんなものを、どうして今さらになって、どうして今日、どうして――そんな風に笑うのか、と。

    けれど、そのどれもが明確な答えをもたらすものではなくて、ベアトリスは混乱の中、がむしゃらに魂の奥底へ手を伸ばす。その糸を手繰れば、何よりも明確な答えがあると分かっていた。だから――

    「裏に、何か書いてあったけど」

    糸に触れる寸前のところで、愛しい声に、その手首を掴まれる。僅かに首を傾げ、柔らかな微笑みを貼り付けたスバルそのものが、ベアトリスの揺れる瞳を覗き込む。しかしそれは、ベアトリスの唇が震える様も、瞳の中で羽ばたきを止める蝶にすら何の感情も持っていなくて

    「ほら」

    ベアトリスが何も出来ないでいる様に業を煮やしたのか、スバルはベアトリスの手を引いて、紙切れを強引に手渡した。そして、その手を掴んだまま、紙切れを裏向けようと――

    瞬間、けたたましい耳鳴りが、警鐘となって鳴り響く。
    わからない、何故なのか。一体何に警鐘を投げかけているのか。だから、ベアトリスは止められなかった。止まれなかった。されるがまま、紙切れの裏に目を落とし、そして

    「――ぁ」

    何もかもが遅すぎたのだ。気づけたはずだった、表まで染みた赤黒いそれを見た時に。拒めたはずだった、禁書庫で焼け残った福音の一頁だと理解した瞬間に。振り払えたはずだった、その手が例えスバルのものであっても。しかし、強靭な絆が、堅く誓った愛そのものが、ベアトリスの判断を鈍らせたのだ。

    「じゃあ、よく聞けよ?」

    踏み入ってはならない契約者同士の聖域に、それはさも当然といった様子で侵入し

    「ベアトリス、これは命令だ」

    愛しい契約者の面を被って、傲慢に言い放つ

    「俺に、従え」

    ベアトリスの柔らかな手首に爪を食い込ませ、血が滲むのも関係ないと、力任せに引き寄せる。代わりに、もう一方。硬く結ばれた絆が引き千切れる音を愉快とばかりに嘲笑いながら。

    「や――」

    ぷつりと、軽い音をたてて糸は途切れた。それは驚くほどあっけないものだった。四百年の孤独の末、やっと掴んだ一筋の幸福が、土足で聖域に踏み込んだ異邦人によって、いとも簡単に引き裂かれてしまうなど、誰が想像していただろう。

    スバルに――否、スバルの皮を被った悪魔に掴まれた腕がじくじくと痛むのを感じるのに、ベアトリスには振り払う気力も、意思も、自由すらない。手を引かれるまま、悪魔の懐に導かれ、力なく抱き寄せられると、やはりそこにはスバルそのものがあって心が揺れる。

    「それでいい。ベアトリスはいい子だな」

    くしゃりと頭を撫でる手のひらは、先刻の記憶と何ら違わず、ベアトリスの心に甘い毒を流し込む。例え悪魔であっても、これはスバルなのだ。自分は何か間違っているのだろうか。間違っていても構わない。スバルが自分を求めているのだから。

    思考が奪われる、過ちに蹂躙される、何が正しかったのか分からなくなる。恐怖で足がすくんで寒気がする。その肩をそっと抱き寄せる温もりがあって――ベアトリスはそれを受け入れた。


        *****


    日差しを背に浴びながら、スバルは軽快なリズムで見慣れたランニングコースをなぞる。丁度、その折り返しとなるカーブに差し掛かったところで、突如、胸の奥底にざらついた感触を覚え、速度を落とした。

    「っはぁ……はぁ……なんだ、これ、気持ちわる」

    胸の奥底を掻き毟るような経験のない心地悪さ。魔女に心臓を掴まれる苦痛とは別種のそれに、足を止め、肩で息をしながら地に膝をつく。こみ上げる胃液を吐き出そうとするも、その不快感を拭うことは叶わず

    「ちょっ……ぅぐ……これは結構マズった」

    それが徐々に大きくなる中、スバルはただの不調でないと確信を持って、意識を体の内側へと滑り込ませる。耳をふさぎたくなるほどの警鐘が轟く。魂の奥深くで結ばれた糸が張り詰め、軋み、悲鳴を上げていたのだ。それはベアトリスがスバルに呼びかるものとは違う。絆をを無理やり引き剥がそうとするような悪辣な衝動。

    「ぐぉっ……やめ、ろ!!」

    ベアトリスに何かあったに違いないと、内側の痛みを奥歯で噛み殺し、立ち上がる。瞬間――ぷつり、と軽い音を奏で、繋がりが途絶えた。

    「――ぇ」

    それまで魂を握りつぶさんとしていた不快感が嘘のように消え去った。再び意識を内側に集中させて、繋がりを手繰ろうと手を伸ばしてみるが、何ら感触はなく空を切る。ついさっきまで確かにあった強靭な繋がりは、その痕跡すら残さずに綺麗さっぱりと消え去っていたのだ。

    「は。嘘だろ。こんな……簡単に? そんなはずない。何かの間違いか、だって、そんな……嘘だ」

    何故こんな時に。スバルが呼び掛ければ、ベアトリスはすぐに駆けつけることができるのに、ベアトリスの身に異変が起こっているのを感じながら、スバルには何もできなかった。なにが起こったのかすら分からずに、形のない焦燥感に駆り立てられて、汚れた膝を払うことすらせず地を蹴る。日々鍛えたお陰で体は軽い。しかし、それでもなおスバルはただの人間だった。

    「畜生……ッくそったれが!!」

    先刻、ベアトリスを抱きしめて「守らなければ」などと考えたのは、どこの身の程知らずだっただか。全力疾走に焦燥感も相まって、呼吸があがり全身に酸素が行き渡らない。ベアトリスが待つアスレチックを視界が捉えたところで、足がもつれ、勢いをそのままに砂利道に倒れ込んだ。

    「くはっ! ……っィてぇ……」

    一分一秒、一歩でも早く辿り着かなければと分かっているのに、こんな場所で倒れ込んでいる暇はないのだと、地に腕をいて身をもたげる。「こけないように気をつけるかしら」そんな軽口が脳裏に響く。続けざま「子供かよ!」などと一蹴した自分が思い起こされて、それを振り払うように再び地を蹴った。どこまでもどこまでもどこまでも、今さらどんな努力を重ねても変えられない。ナツキ・スバルはあまりにも無力で――困った契約者だった。

    「ベア子!」

    アスレチックを前にして、スバルはベアトリスの名を叫んだ。痛烈な声は虚しくそれにぶつかるだけで、なんら応答はない。押し寄せる無力感のせいか、限界を超えて走り抜けたからなのか、鉛のように体が重く、肩で息をするだけで精一杯だ。しかし、休む暇がどこにあるのだと、拳を振り上げて膝を打ち、無理やりに呼吸を整えようと空気を肺腑の奥に押し込める。
    つい先刻までベアトリスがちょこんと腰掛けていた場所に手を掛ける。ひんやりとした感触が、失われてから経過した時間の重さを痛烈に感じさせ、焦る心に冷たいものを流し込む。

    胸に手をあて、再び奥底の繋がりに意識を傾ける。繰り返し確かめても、その手応えはなく、何故、という思いが止めどなく溢れ出す。契約者間の繋がりについて多くの知識があるわけではない。しかし、あれほど強靭だった繋がりが、こんなにあっけなく失われてしまうものなのか。ベアトリスが契約を自ら破棄するなどありえない。その程度の信頼があった。まして、ベアトリス自体が失われるなど――

    「そんな……はず」

    悲痛に顔を歪める。そんな可能性を考えることすら忌まわしいと、頭を振って思考を振り払う。何か、僅かでもいい、取っ掛かりを得なければ。

    「これは……?」

    ふと、視界の隅で揺れる存在に意識を奪われる。吹き抜けるそよ風に揺さぶられたそれは、時折赤黒いものをちらつかせ、こちらを手招きしているように思えた。アスレチックの端に結び付けられた、傷んだ布切れ。赤黒い染みは結び目を含む全体にあって

    「――」

    布を解き、それを広げる。落ち着きを取り戻しつつあった心臓が再び大きく脈打つ感覚。大きくない布だ。中央に赤黒い染みがある。それは禍々しく存在感を放ち、スバルにある意思を叩きつけた。

    『北東の森に来い!』

    文字だけ見ればあまりに馬鹿げた言い回しだった。おまけに感嘆符まで添えるとは程度が知れる。これが血文字でなかったなら、どこの果たし状だよ!と一蹴したいところ――と、ある違和感に思考が詰まる。あまりにも自然に受け入れていた。当然だ、スバルにとってそれはあたり前のことだったから

    「――にほん、ご?」

    それは紛れもなく、見間違いでもなく、ただ似ているだけでもなく。はっきりと、スバルが慣れ親しんだ言語をもって刻まれていた。

    弾かれるように顔を上げる。周囲をぐるりと見渡して、やはりそこには誰もおらず。手のひらにじっとりと汗が滲む。

    「何だって、それを――クソッ! 今は考えたってわかりっこねぇだろ! 考えるな、今はベアトリスの状況を考えて行動する事が最優先だ」

    布切れをポケットにねじ込むと、記憶の引き出しを乱雑に開け放ち、領地内の地図を広げる。北東に目を滑らせ、景色と照らし合わせてそちらを見やる。

    「あっち、か。確か手付かずの森……みたいなのがあったはず。また魔獣だらけでないことを祈るしかねぇか」

    ランニングコースと真逆の方向を睨みつけ、拳を握る。屋敷からそう距離は離れていないが、武器を取りに戻れば大きな時間のロスになるのは明白だった。大した武術も持たないスバルにとって、大きく戦力が変わるわけでもなく、むしろ会得した身のこなしの方が幾分か頼りがいがあるというもの。

    「これも含めて不幸体質だってんなら、改善の余地はあるかもな」

    身軽な装いで腑抜けていた自分に毒を吐き、目的の場所へと走り出す。来いというなら行ってやる。異世界人だろうが何だろうが、自分たちは人知を超えた存在と幾度となく対峙してきたのだ。今回だって必ず――抗うのを諦めない。

    それこそが、ナツキ・スバル、最大の武器なのだ。



    ※ ※ ※ ※ ※


    パトラッシュの散歩を兼ねた道すがら、この森を目にしたことがある。人の侵入を拒むように草木が密集し、迂闊に侵入すれば方角を見失って、簡単には抜け出せない自然の迷路。
    現屋敷からスバルの足でも三十分もかからないだろうというのに、領地が広大過ぎるためか、その気がなかっただけなのか、人の手が加わった痕跡はない。

    視界を阻む蔦のヴェールをかき分けて、地に目を落とす。これだけ荒れ果てた場所だ。ベアトリスに危害を加えた何者かがここで待つというならば、その痕跡が見つかるはず。

    「はず――なんだが、いまいちわからん」

    ボーイスカウトの経験でもあれば一目瞭然だったのかもしれないが、ある意味”箱入り”息子なスバルだ。しかし知恵はある。闇雲に探しても迷うのは目に見えていた。何か目印を残さねばと木の幹に手をあてて

    「通ったとこに印を入れ――ん、えぐられてる?」

    一筋の線だ。鋭利な何かが表皮をえぐり、その切れ目から肌色の木目が露出していた。

    「なるほど」と呟きながら、その印が示す方向へ目を移せば、同様の印がスバルを迎える。が、そちらの印は線が二重になっていて

    「なるほど、これを追ってけってか」

    焦る気持ちを押し殺しながら、冷静に、見失わないように慎重に、それが指し示す方向へと入り込む。鬼が出るか蛇が出るか。ただ一つ明らかなのは、スバルを誘い込むそれが同郷だということで、付け加えるなら、無能力に近い、ということだ。
    実際のところはわからない。しかしこの異世界において、”神”などという存在からまともな祝福が得られないことはスバル自身が証明していたし、プリシラ陣営の同郷、アルも似たようなものだ、と思われる。にしては、プリシラの騎士であることが不思議だが、それは同じく騎士であるスバルが言えたことではない。

    しかし、無能力と見せかけて、どちらも生き残る才を持つ曲者だ。無能力に近い、といってもそれが勝敗に影響するわけではないし、むしろ事態をより複雑なものにしていると言っていい。

    先を思うと心が曇るが、事が起こらなければ本領発揮といかないのがナツキ・スバルの祝福だ。雑念を捨てて印を追うことに集中する。

    一、二、三、と続いて十、十一、十二、十三、からの一、二、三と繰り返し追ううち、スバルは薄暗い森の奥深くへの導かれ、そしてその先――根本にぽっかりと大口を開けた大樹がスバルを待ち構えていた。

    その穴の周辺には、まだ新しい靴跡が残っている。はっきりとはわからないが、何者かの出入りがあったことは疑いようがない。その暗闇は、スバルが身を屈てやっと入れる程度のもので、地中深く、闇に向かって格子状の足場が続いていた。

    「滅茶苦茶怪しい。っつか領地内に何でこんなのがあるわけ。昔の遺跡とかそんな感じか」

    こんな状況でさえなければ浪漫と冒険を求める男心に火がついたかもしれないが、今は苛立ちが滲むだけだ。

    「そこにいるのか!?」

    投げかけた声が闇の奥底で反響し、こだまする。返事はない、ただの穴のようだ。このままでは埒が明かないと、足場につま先をかけて慎重に身を下ろしす。身長の三倍ほど潜った頃、つま先が地につく感触。

    徐々に暗闇に目が馴染み、周辺の壁が淡く発光している事に気づく。岩肌のように硬い土の層に混じる魔石が発光しているように見えた。心許ないが足場を確認するには十分だ。

    「ベア子……どこにいる」

    罠の可能性も捨てきれない。単なるブラフにしては誘い込む手が込んでいたが、無能力故の策謀とも考えられる。スバルは神経を張り詰めながら、壁伝いに奥へと進んだ。通路は狭く、しかし枝分かれすることなく、続いている。

    と、通路をしばらく進んだところで大きめの空間に出た。そして、壁際。小さな体を更に小さく丸めた紅一点。

    「大丈夫か!!」

    鎖が絡みついた鉄格子がスバルとベアトリスの間を阻む。格子の扉に絡みついた鎖は複雑に編まれているものの、錠はない。スバルはそれに手を掛けて

    「今出してやるからな!」

    金属音を五月蝿く奏でながら少しずつ鎖を解き、最後に格子から思い切り引き抜いて床に投げ捨てると、膝を抱え蹲ったままのベアトリスに駆け寄り、抱きしめた。冷え切った体は僅かに震えていて、スバルの胸がちくりと痛む。

    「無事だったんだな。何があった。兎に角ここから出て――」

    派手な衝撃音が耳をつんざく。頭を跳ね上げて振り返ると

    「隙あり! っと」

    軽口をたたきながら鉄の扉を閉める人影。スバルが扉に駆け寄るより一手早く鎖を一巻きすると、そこに魔石が埋め込まれた錠を掛ける。

    「てめぇ!! ふっざけんな!」

    駆け寄った勢いをそのままに格子の隙間から影への手を伸ばす。その指先が深く被られたフードに僅かに触れるも、影はひらりと身をかわして、捉えるには至らず空を切る。

    「あっぶねぇ、ちょっと焦ったわ。ま、でもなかなか上手く行ったろ」

    影は大げさな動きで胸を撫で下ろし、激しい音を立てて扉を抉じ開けようとするスバルを嘲笑う。その声と言い回しはどことなく耳馴染んだものだ。しかし、小気味いいものではなく、むしろ癪に障る気持ち悪さがあって、スバルは目を細め、フードに隠れた顔に目を凝らす。
    そんなスバルを察した影は口元を歪ませ、フードを手で肩に落とし

    「けど、我ならがどんくせぇなって呆れるよ。危機感が足りないんじゃねぇの? なぁ、ナツキ・スバル」

    「――は」

    顕になった顔を見て、時が止まる。呼吸を忘れ、乾いた声がもれた。
    フードの下。露わになった顔は、スバルと瓜二つ――否、スバルそのものだったのだ。

    「お前さぁ、あの子だけじゃなくて、そんな幼女まで手篭めにするとか、異世界ハーレム堪能しすぎだろ。風のウワサじゃ双子メイドまで囲ってるとか? どこのラノベだよ」

    まったくもって羨ましいね、とあざ笑うように付け加えてから、スバルと同じ顔をしたそれは鋭い視線を投げ返す。その瞳は仄暗く、軽口とは反対に何の感情も持っていない。
    『スバル』の眼差しに気圧されながらも、それを奥歯で噛み殺し

    「手篭めじゃねぇ……。けど、まさか幼女誘拐犯が俺と同じ顔をしてるたぁ、どこまでもふざけてやがる。この世界に飛ばされてからわけわかんねぇことの連続だけど、これは流石に、あまりに馬鹿げてて――正直ドン引きだわ」

    じっとりと、背中に冷や汗が滲むのを感じる。姿見だけ真似た偽物だと撥ねつけよう思っていた。けれど『スバル』の言葉はあまりにも本物のそれで胸焼けしそうだった。

    「あえて聞く。――お前は、誰だ」

    押し殺したはずの感情が、僅かに声を震わせる。
    その焦りが、混乱が、言い知れぬ悍ましさが、二人の間にしばしの沈黙を作った。

    「……うーん」

    沈黙を引き裂いたのは、間の抜けた唸り声。『スバル』は眉間に皺を刻みながら、腕を組み、首をひねる。そして、ひとしきり唸った後で、ぱっと顔を上げ。

    「――」

    細められた黒瞳がスバルを射抜く。色が無く、濁りきった輝きだけが宿っていて、スバルを見ているようで見ていない。もっと遠くにある別のナニモノかだけを一点に捉えたまま

    「俺は――魔女教大罪司教『傲慢』担当、ナツキ・スバルだ」

    何を、言ったのか。言葉の後、場を静寂が支配する。

    こいつは今、『傲慢』と言っただろうか。確かに『傲慢』にはまだ出くわしていない。鏡写しの姿になれる、これが奴の”権能”なのか? 違う、そういうことじゃないだろう。そんなに上手く、ナツキ・スバルになれるはずがない。

    だとしたら、こいつは――?

    「傲慢……だと……」

    スバルの声に『スバル』は笑みをより深く刻み肯定とすると、開手を打って区切りとする。そして、飄々とした態度で壁にもたれかかると、羽織ったローブの内側から一冊の本を取り出してみせた。

    「まぁ言いたいこともわかる。だから、少し話をしよう。それくらいの時間はお互いにあるはずだろ?」

    真っ黒な装丁。手のひらに収まるほどの小さな経典。魔女教徒が例外なく、たいそう大事に抱えている福音書そのものを手に、『スバル』はそれを開いてページを捲る。

    時間、という言葉にとっかかりを覚えながら、スバルは背後で膝を抱えたままのベアトリスに意識を傾けるが、スバルに現状を打開する術はなく、しかも相手が”本当”に『スバル』なのであれば分が悪い。そんなスバルを気にかけることすらせずに『スバル』は語り始めた。


    ――ある、男が居た。なんとも哀れな男が。
    華々しい青春の一頁目に、自ら泥を塗りつけて、一般社会に馴染めなかった人格破綻者。

    お先真っ暗な男に訪れた、突然の転機。
    そう、『異世界召喚』だ。

    嗚呼、お父さん、お母さん、お元気でしょうか。親不孝をお許し下さい。男にはどうしようもない不可抗力だったのです。

    そうやって、突如始まった異世界生活だったが、男にはチート的能力も、悪を滅ぼすエクスカリバーも与えられず、開幕早々チンピラに絡まれる始末。ピンチになった今こそ、本領発揮と意気込んだ矢先、無慈悲な暴力が男を打ち砕いた。

    しかし、全てを諦めた男に差し込む一筋の光。
    それは世界を照らす銀色の輝きで、男をピンチから救い出したのだ。

    その超絶どストライクな銀髪ハーフエルフと出会い、男の異世界生活は順風満帆――に思えたのだが、あっけなく、あまりにも簡単に、男の世界は閉ざされた。


    パタン、と軽い音を立てて福音が閉じられる。同時に軽快な語り部が止み、

    「俺の傍に居ると、あの子は不幸になる。わかるだろ……」

    か細い、小さな声だ。『スバル』の悲痛な胸の内が、スバルにだけは痛いほど理解できた。その心を蝕む闇の大きさも、その深ささえも。
    ナツキ・スバルだけが知り得る失われた世界を知る男。現実を突きつけられて尚、スバルはそれを呑み込みきれないでいた。

    「俺が側で何かする度に、あの子が死ぬのを何度も見た。そして、最後に突きつけられた現実は圧倒的な『力』の差。何度繰り返したって力がなければ救えない」

    圧倒的な力――剣聖の助力によって、スバルも死のループから解き放たれた。しかし、運命を切り開いたのは剣聖の力だけではない。エミリアとパックに指示を飛ばし、自分を犠牲にしてまでフェルトを逃がそうとした抗いの末、助力を得ることができたのだ。
    しかし、『スバル』は違う。非力を嘆き、力に焦がれ。そして――

    「だから俺は、『道具』を上手く使うことにした。『あの子の願い』を叶えるために」

    「道具……?」

    「『腸狩り』に『魔獣使い』。王都最高峰の治癒術師とかいう『青』に『死の商人』。使えるものはなんだって使った」

    いよいよもう限界だと白旗を上げたい気分だった。それ程強烈な嫌悪感。さも当然と言った様子で語る『スバル』に手が届くなら、その頰を全力で殴りつけたことだろう。

    「それで、道具として魔女教まで利用したってのか」

    「そゆこと。他に行くあてもなかったし、福利厚生が良いなら悪くないだろ。あ、でも勘違いすんなよ! ペテさんにはそこそこ世話になったが試練とか言ってあの子を殺そうとするから、ちゃんと始末しておいた。それに、他の大罪司教もそうだ。それ以外にも、あの子の敵陣営を引き摺り下ろすために最優を殺したりして。そうそう、折角青を拾ったのに目を離したらすぐ自殺するから滅茶苦茶苦労させ――」

    「――は。今、なんて」

    「んあ? いや、だから最優を殺したり、拾った青に苦労させられたりしたって話。あー……、お前は仲良しゴッコしてんだっけか」

    「――」

    目眩がした。ほんの少しの掛け違いで、自分がこんな悪辣なものになってしまっていたという現実に。込み上げる苛立ちは目の前の自分にだけではなく、スバル自身に対するものでもあった。
    鉄格子を握りしめ、もたれかかるように項垂れる。『スバル』は魔女教を利用するために『傲慢』の座に自ら座ったと雄弁に語ったが、その『傲慢』さこそ、まさにその座が求めていたもので――

    「ロズワールが求めてたのは、こういう俺だったのか? 全てを犠牲にしてエミリアを王にする悪魔。いや――それよりもっと最悪だろ」

    「辺境伯の思惑なんざ興味ねぇけど、エミリアが王になるってことは、あの子の願いが叶うってことだ。最悪どころか最高のエンデ――」

    「間違ってる」

    顔を上げ、毅然とした眼差しで『スバル』の言葉を打ち消した。その理性的な声に怯んだのか、軽快な語り部は止み、無音となる。そして、強く握られた扉が僅かに揺れてぎしりと軋み

    「いい加減にしろ。何が願いを叶えるだ。お前はエミリアの何もわかってない! 誰かを犠牲にして王になって、それであの子が喜ぶわけがねぇ! お前はエミリアに、お前の願望を無理矢理に押し付けて――泣かせるんだ」

    「――それでも、俺は、間違ってない」

    「いんや、間違ってる。お前は自分の過ちを認めたくないだけだ。俺を否定しなきゃ立っていられない。そりゃそうだよな。散々ぱらヤラカシて、殺さなくていいやつまで手にかけて、お前が俺なら多少は良心が痛んだろ」

    「――」

    「それで、今度は何をヤラカしに来た。エミリアの傍に居る俺が憎くて殺しに来たか。それとも自分の方がエミリアを王に出来ると自惚れたのか? 何だっていいけどよ、これだけははっきり言っといてやる」

    『スバル』を睨みつけ、自らの胸に片手を添える。誓いを立てるように。自分という存在が揺らがぬよう、脈打つ鼓動を確かめながら

    「お前が俺を認めたくないように、俺もお前を認めない! お前の存在そのものが過ちだ」

    言い切る。そして、

    「ぷ、ははっ――傑作だなこりゃ」

    『スバル』は嗤っていた。仲間の馬鹿げた話を聞いた後のようにしゃあしゃあと。そして、鉄格子越しのスバルを指差し、

    「いいか、ナツキ・スバル。お前は今、滅茶苦茶不利な状況だと言っていい。そこの大精霊を頼りにしてんなら諦めろ。そいつは今俺の手の内にある。んでもって、お前最大の武器も意味がない」

    「なに」

    「わかってると思うが、その大精霊とお前の契約は破棄させた。福音書ってこんな使い方もあるって知ってた? 言うて、俺も受け売りなんだが」

    『スバル』は福音書の間から、四隅が焼け付いた一枚の紙切れを持ち上げ、はらりと揺らす。

    「まさか――ベア子の福音」

    「大正解! そして、ここにチョチョイのチョイっと落書きしてやると、アラ不思議」

    スバルに向けて、くるりと紙切れが裏返される。そこには殴り書きのイ文字が赤く滲んでいて

    「『既存の契約を破棄し、新たに傲慢と契約せよ』とか、それっぽいことを書くだけで、そいつは俺の『道具』になる」

    ――無茶苦茶だ。確かに福音は未来を記す経典だと聞く。
    しかし、それはあくまで”道標”ではなかったのか。原理は不明だが、持ち主の心まで縛り付けるものなのだとしたら――そして、他者がそこに”未来”を刻めるというならば。

    「ふざけてる。人の心を捻じ曲げて、その上『道具』だ? お前はそれで平気なのかよ。何も感じないのかよ! 何でそうなっちまうんだよ。おかしいだろ……」

    「そりゃあ、その必要がなければやらねぇよ。でも目的のために手段を選り好みしてらんないだろ?」

    烈火の如く怒りを吐き出すスバルが理解できないといった様子で首を傾げた後、『スバル』は焼け焦げた紙切れを福音の間に戻してローブの中に仕舞い込む。そして、ひょいと指を一本立て

    「で、後もう一つの方なんだけど、こいつは結構重要な話だ」

    言いながら『スバル』は、もう片手でも指を一本立てて示し、左の指を数回曲げて「こっちが俺」、また逆を数回曲げて「こっちがお前」と付け加えると

    「いいか、俺もお前も元は同一の存在だ。同じ力を持ってる。そんな二人が、同じ盤上に存在して、仮にお前が死んだとする」

    右の指を下ろして見せつつ、

    「その時、盤上はどうなると思う? そう、俺が残ってる。盤自体が消滅する可能性もあるっちゃあるが、それはそれ。試してはいない。だからこれはあくまで、俺独自の推論だ」

    残された左の指を上唇にあてがって、くすくすと笑う『スバル』には余裕が見える。それもそのはずだ。最大の武器に頼れないスバルが状況を打開する術は無いに等しく、加えてベアトリスの力を借りることが出来ないとなると――

    「試してみたいなら力を貸すぜ?」

    『スバル』はローブをひらりとはためかせ、腰に携えた短刀を見せる。
    一昔前のスバルなら、状況に変化をもたらそうと、誘いに乗った可能性も捨てきれない。が、今は

    「――断る。俺は、生きれるだけ生き抜いて、どんな醜態を晒したって、足掻くことにしたんだ。だから、自ら死を選んだりしない」

    「何だそれ、アホかよ。システムは上手く利用してなんぼだろ? ま、死ぬのが嫌なのは俺も同感だけど……」

    誘いに乗らぬスバルに、つまらないといった様子で肩をすくめてみせると、『スバル』は短刀の柄に手を掛けてこちらを見やり

    「折角俺が介錯してやろうってのにツレねぇなぁ」

    柄を持ち上げ、僅かに銀色の刀身を露わにすると「自分殺しってめっちゃ背徳的」と、相変わらずの軽口をたたく。
    身の危険を感じ、鉄格子から身を遠ざけるも、『スバル』は「ジョークだよ、ジョーク!」と軽くあしらい短刀を鞘に戻す。

    「殺したいのは山々だが、そこの大精霊サマとの契約でね。『俺は、ナツキ・スバルを殺さない』そして『ベアトリスも双方のナツキ・スバルに加担しない』。オーケー?」

    それがベアトリスからの提案だったのか、はたまた『スバル』からの提案なのかは分からない。しかし、それによって”時間”の猶予が与えられたのは事実だ。スバルが死ねないというのなら、それは相手にとっても同じこと。余裕はない、しかし互いが生きている間、盤上は膠着状態に――

    「俺はお前を殺したい。けど、大精霊の手前それは無理。が、いずれ酸欠で死んじゃうとか、餓死しちゃうとか、そういうのは仕方ないよなぁ。今すぐに、必ず死ぬかって言うとそうでもないし、もしかしたら誰かが助けにくるかもしれないし、何らかの方法で奇跡の脱出劇を見せてくれるかもしれない。つまり、契約を反故にしたとは言えないだろ」

    「ッ……そういうのアリかよ」

    「ありありだ。じゃ、そろそろお喋りも飽きてきたんで、俺、行くわ」

    言い終わるより早く、それは身を翻しフードを深く被り直して

    「ちょ、おい! 待て! どうする気だ!」

    「待たねぇよ。じゃあ、さっさと死ねよ」

    その背中に、鉄格子から精一杯手を伸ばし、掴めるはずのない場所にあるそれを手繰ろうと力を込める。しかし、それはなんの手応えもなく暗闇を掴むだけ。
    代わりにと扉に手を掛け、力任せに前後に揺さぶってみるも、鎖が耳障りな音を奏でるばかりで何ら変化ももたらさない。鎖を結ぶ錠に込められた何らかの魔法の影響なのか、鎖は青白く輝き、封印をより強固なものにしているように感じられた。


        *****


    スバルが錠と戯れるのを尻目に、『スバル』は地上へと這い上がる。
    伸びをして新鮮な空気を肺腑の奥まで染み込ませた後、背後の大樹へ向き直り、その表皮を縦にひと撫で。すると、瞬きの間に大口は消え去って、そこにはただ、悠然とそびえる大樹だけが残された。

    「異世界不思議パワーって凄まじいな。秘密基地どころの騒ぎじゃねぇ」

    そのスケールの大きさに関心しきりの『スバル』の背に、何ら前触れもなく複数の影が人形を作る。それを慣れた様子で振り返り

    「秘密基地作成ご苦労さん。お陰で助かった。なんかよくわかんねぇ仕組みだったけど、説明不要。じゃ、監視の方、引き続きヨロシク!」

    影――否、勤勉な魔女教徒諸君に軽く手を上げ激励すると、それは恭しく頭を垂れて、再び人形を失い、地に崩れ、消失する。一番説明して欲しいのはその謎めいた力の方、と言いたいところだったが

    「――ぁ。辺境伯邸まで担いでいってもらえば良かったな」

    冗談なのか本気なのか、曖昧な呟きをもらしたあと、『スバル』は”スバル”としての一歩を踏み出す。その軽快なステップは心躍る躍動でありながら、踏み込むたび、スバルの頬を固くした。

    あの子に会ったら、まずなんて言えばいいんだろう。
    あの子に『エミリア』なんて、気安く呼びかけていいんだろうか。
    高鳴る胸を隠し、平静を装うことが出来るだろうか。
    あの子が使役する大精霊に、心を見抜かれてしまわないだろうか。
    あの子は、俺の名を呼んでくれるだろうか。
    あの子に、――――
    あの子が、――――
    あの子は、――――





    「っと……」

    あらゆる可能性を脳裏に描いては消し、描いては顔を赤くしていたスバルは、文字通り「あっ」という間に辺境伯邸の前に立っていた。

    ふと見上げた空は朱色に染まり、赤黒い雲が波のような筋を作る。それを黒瞳に映し、愛おしげに目を細めたところで、自分を呼ぶ音色に気づく。昏く長い影が指し示す先、しなやかな手が左右に揺らされていた。つられて波打つ銀髪が夕日をうけてキラキラと輝いて

    「――――」

    赤らむ顔は夕日を受けたものだったのか、高鳴る鼓動がそうさせたのか。
    それは、『スバル』にしかわからない。



    ※ ※ ※ ※ ※


    「もう! すごーく探したんだから」

    スバルの眼前に人差し指を突き出して、銀髪の乙女がぴしゃりと言い放つ。
    ほんのり桃色づいた唇は口角を下げているが、その吸い込まれそうな紫紺の瞳には、激情とは程遠い、子を叱りつける母のような愛情が宿っていて

    「……よかった」

    そう言って、目尻を下げると長い睫毛に縁取られた紫紺が揺れる。それはひどく安心しきった様子で、スバルの胸に鈍い痛みが染み出した。

    「ペトラと一緒にずっと探してたのよ。昼食にも来てないって言うから、私もすごーく慌てて。また――何かあったんじゃないかって、心配で仕方なくて……」

    銀鈴の音色がスバルの耳を優しく撫ぜる。その心地良い音色に聞き入っていると

    「――スバル」

    親しげな声色がスバルに呼びかける。
    彼女の何気ない一声が、スバルにとっては夢にまで見たそれで

    「どうか、した?」

    押し黙るスバルを見て、不安の色が濃くなるのが分かった。
    返す言葉は持っている。ここに至るまでに丁寧に復唱した。けれど――

    そよ風にさらわれた髪をなでつける、彼女の何気ない仕草さえ神々しくて、考えていた言葉の数々が真っさらになってしまう。
    しかし、それでも何か。彼女に答えなければと気ばかりが焦ってしまい

    「あ、あの――ごめん。そう、だね。心配させてごめん……」

    不器用に絞り出した声は、とても小さくて、あまりにも頼りないものだった。いつもの詭弁は一体どこへ引っ込んでしまったというのか。肝心なときほど役に立たない有り様は、それこそ自分を体現しているようで――

    どうか、彼女の顔がこれ以上曇らないようにと願いを込めて「――ごめん」と、自らの醜態を重ねて詫びた。

    「何か、あった? スバルはいっつも、一人で抱え込んじゃうんだから」

    何か言い淀んでいるように写ったのか、彼女は寂しげに眉をひそめる。しかし、次の瞬間には「困った騎士様ね」と添えて、小さく笑う。

    「あ、ああ。ちょっと、今日は体調が優れなくて。ベアトリスに介抱してもらったり」

    「最近ずっと無理してたんだから当然ね。ベアトリスにまで迷惑かけるなんて、もっと駄目なんだから」

    ベアトリスのことを、ナツキ・スバルは何と呼んでいただろう。ベア子、と言ったか。やっぱり、ベティだっただろうか。
    そのどちらも声にする勇気が出ないまま、彼女に合わせて言葉を紡ぐ。

    ナツキ・スバルは、彼女とどんな風に話すのだろう。
    こんな喋り方で本当によかったんだろうか。
    昔、自分が彼女と言葉を交わした時は一体どんな風に接したか。

    忘れてしまったわけではない。
    ただスバルの中で、彼女があまりにも尊い存在になっていたから――

    「それで、ベアトリスはどうしたの?」
    「ん。心配ないよ。ちゃんと繋がってるから」

    問うに落ちず語るに落ちると、間をおかずに返答する。そして、これ以上この話題を続けまいと、彼女に手を差し出して

    「エミリア、行こう」

    白くきめ細やかな指先がスバルの手のひらに合わると、同時に大きな胸の高鳴りを感じて、もう片手で思わず胸を押さえつける。今はまだ、自分がナツキ・スバルであって、そうでないことを知られなくなかったし、この素直過ぎる反応を見られたくなかった。

    「――ええ」

    ほんの少し、何か言いたげな沈黙があった。けれど、エミリアは微笑み一つでそれを濁す。
    それが、ナツキ・スバルへの全幅の信頼からくるものだということは明白だった。当然、自分の身には余るもので。

    これが、スバルの”本当”であったなら――どれだけ幸福な日々だっただろう。
    ナツキ・スバルの日常を知るごとに、スバルは自分という存在が、とてもちっぽけに思えた。

    エミリアに手を引かれ、荘厳な屋敷の中に招かれる。真新しい光沢を持つ贅沢な内装。まさに順風満帆な異世界生活だっただろう。闇に紛れ暗躍し、その手を血で汚す日々だったスバルには、それはあまりに眩しいものだった。
    実際、スバルが考えているほどに、ナツキ・スバルの異世界生活は順調ではなかったし、多くの難題を抱え、似た苦しみを持っていた。別の手段を選んだだけで、二人に歴然とした差はなかったのかもしれない。

    しかし、スバルの瞳に映ったナツキ・スバルはエミリアの『英雄』そのもので――

    顔に暗い影が落ちる。前を向いていられなかった。このセカイの現実が、スバルにとっては毒そのものだから。ナツキ・スバルを壊そうとしていたはずなのに、傷だらけになっていくのは自分の方などと、滑稽にも程がある。

    スバルが暗がりに心を浸していると、先導するエミリアの足が止まった。
    半歩遅れてそれに習い、顔を上げると、銀色の装飾に縁取られた扉があって

    「今日はゆっくり休んで」

    「ああ」

    スバルの体をいたわるエミリアにうなづいて、

    「明日は私と、お話しましょう」

    「……そう、だね」

    たどたどしく肯定すると、繋がれた手にエミリアのもう一方の手が重なって、スバルの手を包み込む。ほんの少し前までならば、顔を赤くし、心を絆されていただろう。しかし――

    「……また、明日」

    スバルは決別の言葉を紡ぐと、包み込まれたばかりの手を引き抜いて、紫紺から逃げるように顔を背けると、部屋の扉を押し開く。背後で寂しげに佇むエミリアの気配を感じながら、その思いを断ち切るように、間をおかず扉を閉じた。

    薄暗い部屋の中。扉にもたれかかったまま動けないでいるスバルと同じように、エミリアもしばらくその場に立ち尽くしていたが、か細い声で「おやすみなさい」と呟いた後、足音が遠ざかり静寂が戻る。

    夕日が落ちて、窓辺から薄明かりが差し込む。扉に背を滑らせて、その場に腰を落とすと、膝を抱え、そこに額を寝かせる。未だ手のひらに残る柔らかな手の感触。それを横目に見て息をつく。

    「俺は、ナツキ・スバルじゃない。そんなことくらい、わかってる」

    誰に語りかけるわけでもない。けれど、声に出さずにいられなかった。自分自身に、はっきりと言い聞かせる必要があったから。

    「あいつと違って俺は、君に触れることなんて許されない。汚れてるんだ。拭っても拭っても、拭いきれないほど汚れてて」

    拳を固く握る。爪が手のひらに食い込んでじんわりと痛んだ。この痛みが、自分という存在を確実なものにする気がしたから、力を更に強くする。

    「――あいつを殺して、すげ代わったところで意味がない。俺とあいつは同じなのに、全く違う。こんな生き方、俺は知らないんだ……」

    小さく、肩が震える。握りしめた拳から赤い筋が流れて、冷え切った床にぽつりと落ちた。

    「けど俺は、俺の手で、君を王にすることを諦めない。それを失ったら俺は――空っぽだ……」

    スバルは自身のそれを、あまりにも虚しい嘆きだと思った。それしか出来ない。それしか知らない。だから――

    「俺は、君のために。
     君を泣かせてしまっても。
     必ず君を、王にするよ」

    ひどく純粋な誓い。そこには、邪な思いも、詭弁も、微塵の悪辣さすら存在しない。
    ただその誓いが、あまりにも純粋すぎが故に、スバルは過ちを繰り返す。
    誓いのために、それ以外の何者も目に留めず。その歩みを阻害する全てを殺し、侵し、蹂躙して、踏みにじる。

    夜闇が、凛とした静寂が、男の体を抱きとめる。そして、今にも泣き出してしまいそうなそれを撫ぜ、優しいまどろみの中に連れ去ってゆく。


    今はただ、束の間の休息を――――。


        *****


    コンコンと木を打つ音がして、スバルは現へ押し戻された。
    薄目を開ければ、固い床がすぐそこにあって、窓辺から差し込んだ陽光が荘厳な室内を照らし出しているのが見えた。

    「――ぁ、さ?」

    ぼんやりとした頭を覚醒に導こうと上体を起こしてみると、銀の装飾に縁取られた扉がスバルの背を抱きとめる。どうやら、思案を巡らせながらそのまま寝入ってしまったらしい。
    固い床に押し付けられていたせいか、体のあちこちが痛んだが、いかに豪華絢爛な部屋であろうと、ナツキ・スバルの寝台で眠るよりかは何倍もましだった。

    一言、ナツキ・スバルへの悪態でもついてやろうと、乾いた口を開けたその瞬間、背後から今一度扉を打つ軽い音が響いて

    「――んぁ、何か?」

    扉越し、姿の見えない音の主へ腑抜けた声を投げかける。窓枠の影の伸び具合から察するに、正午過ぎといったところだろうか。体調不良と訴えていたスバルをこの時間までそっとしておいてくれたなら、なかなか心にくい演出だ。音の主はエミリアだろうと脳裏に描き、立ち上がると

    「スバル、体調はどう? お腹、減ってない?」

    そこに昨晩の重苦しい空気は既になく、スバルの体調を気遣う心地よい銀鈴の音色が返ってきた。若干の引け目を感じながら、扉を僅かにあけて外を覗くと、中を窺おうとするエミリアの紫紺とかちあって、弾かれたように顔を離す。
    それに呼応する形で、エミリアが扉を押して

    「髪も乱れてるし、服も昨日のままじゃない。それに、やっぱりベアトリスは一緒じゃないの?」

    肩幅程の隙間からスバルの部屋をくるりと見渡すと、スバルの装いに苦言を呈したついでに、痛いところをついてくる。昨晩と変わらぬ黒ずくめの装いを軽くはたき、その手で額に垂れた前髪をなでつけて

    「ああ、だいぶ疲れてたみたいで、みっともないところを。えと、ベアトリスには頼み事をしてあって――またあとで話すよ。それから、食欲ないから、飯はいいかな」

    あとで、という言葉に眉を潜めながら「また危ないことしてないといいけど」と、スバルに届くか届かないかといった声で苦言を呈する。しかし、それを瞬きの間に微笑みへと変えて

    「スバル。今日は私と『でぃと』しましょう」

    「でぃ……と、ってと?」

    日常から程遠い場所にあったスバルは、エミリアの提案に首を捻る。しかし、一拍遅れで『でぃと』なる単語の意味するところに気がついて、顔を赤くしながら遠慮がちに首をすくめ

    「そ、それは……着替えないとだけど……」

    「言っても、ただのお散歩だけどね」

    エミリアは、桃色の唇にぺろりと舌先を覗かせて悪戯っぽく笑った後、「ここで待ってる」と添えて扉を閉める。『でぃと』等と馬鹿げた話だ。これから君を泣かせてしまうというのに、何ともお気楽じゃないか。しかし、話をするには都合がいいと、着替えを探して視線で部屋を一周。それらしい家具の引き出しを引いてみると、流石はナツキ・スバルといった黒い装いが丁寧にしまい込まれていた。「ちょっと拝借」と一言断ってから古着を脱ぎ捨てて、それに袖を通す。
    装いに大きな変化はない。汚れていた箇所が綺麗になったというぐらいで、辿る道が違っても、基本的なところがブレないのは、さすが同一の存在といったところか。
    そんな、よくよく考えれば当たり前のようなことを思いつつ、鏡を見て髪に手櫛を通す。

    こちらを見つめる瞳は、昨日見たばかりのそれと同じで、一瞬緊張で体が強張る。魔女教徒からの報告はない。まだ息があるのだろう。秘密基地にはそれなりの広さがあったし、空腹に飢えることはあっても一日二日で低酸素云々という所まではいかないだろう。

    鏡越しのそれをナツキ・スバルに見たてて、睨みつけると、

    「安心しろ。『でぃと』なんてお遊びに付き合う気はさらさら無い。ここは俺には居心地が悪すぎる。さっさとおさらばして、俺なりのやり方を見せてやるよ」

    言い終えたところで、エミリアが待つ扉に向き直り、軽く咳払いしてから、ポケットに手のひらサイズ程の本の感触があることを確認し、ドアノブに手を掛けてエミリアが待つ廊下に顔を出す。

    「あ。スバル、準備はできた? じゃあ、いきましょう」

    昨夜とは逆にエミリアから、しなやかな手が差し出される。
    仲良く手を繋ぐつもりはさらさら無かったが、それに従う以外の選択肢なく、おずおずと手を出すとエミリアが軽く握り返して、

    「このお屋敷に越してきて暫く経ったでしょう。フレデリカとペトラが中庭を手入れしてくれてたんだけど、温かくなってきたから、お花が咲き始めたの」

    嬉しそうに中庭の様相を語るエミリアの横顔は端正に整っていて、雪のように白く、透き通った頬に咲く桃色が、その美貌をさらに完全なものにしていた。それを見て、つい顔を赤くしてしまうが、自分がすべきことを脳裏に描きなおして、浮き立つ心を押さえつける。

    中庭は、屋敷中央の階段を下りた先で、様々な色を咲かせながらスバルとエミリアを歓迎した。ガラス張りになったエントランスに映えるその景色は、女性的なしなやかさがあって、とても可憐なものだったが、エミリアの美貌の前ではどれも引けを取ってしまうから罪深い。そして、エントランスホールのガラス扉を抜けて中庭へ出ると、芳しい花の香りが二人を包み込んだ。
    『ただのお散歩』と言うには贅沢過ぎる庭園だったが、スバルはその花々のことよりも、エミリアにいつ話を切り出せばいいのか、と、頃合いをつかめずにいた。



    「ねぇ、スバル」

    ひとしきり花の説明を終えた後、エミリアがふとスバルに呼びかけて、

    「今、こうやってしていられるのは、スバルのお陰」

    銀鈴の音色を奏でながら、エミリアが優しくこちらに微笑みかける。しかし、スバルの心では、それを打ち消す、全く別の感情が沸き起こっていて、

    ――それは、俺じゃない

    エミリアが微笑みかけているのも、この手握ってくれるのも、全てはナツキ・スバルの功績だ。それを踏みつけて捻り上げ、蹂躙している存在こそ、エミリアの目の前にいる悪辣なものなのに。

    「王様になるなんて、本当は無理だって思ってた」

    ――君は、王になれる。俺が必ずそうしてあげるから

    どんな犠牲を払っても、エミリアがその時、笑顔をなくしていても、そのたった一つの願いを、必ず叶えると誓いをより固くする。

    「でも今は違う。スバルと一緒なら本当になれるって思えるの」

    ――俺は、君と一緒にいられない。けれど必ず王にする

    一緒にいれば、エミリアが不幸になると確信していた。『力』がないスバルに出来ることはたった一つ。エミリアの窮地に駆けつけて、人知れずそれを打ち砕くこと。

    「いつも、助けられてばかり。
     だけど――
     私も、スバルの力になりたいの」

    ――ありがとう、エミリア


    君の心根は、最初から何も変わっちゃいない。
    その美しく尊い在り方こそ、スバルの魂を魅了して離さない。『ナツキ・スバル』という存在の根源は、いつもそれなのだから。


    「だから、聞かせて?」

    二人の間に、沈黙が生まれる。
    しかし、心の準備はとうに出来ていた。だからこそ、何度も立ち上がって、君だけ見て、それだけの為に、魂を削り落とせたのだから。

    けれど、それでも、悲しむ顔を見るのは辛くて。どうしようもなく、胸が掻き毟られる。

    沈黙を守るスバルに、やっぱり何も教えてもらえないのかと、紫紺を縁取る長い睫毛が伏せられる直前、スバルによって長い沈黙が破られた。

    「俺は――」

    エミリアの真剣な眼差しが、スバルを捉え、言葉を待っている。

    「――」

    それがあまりに真髄なものだったから、言葉を絞り出すのに時間がかかってしまって

    「俺は、君の隣にいられない」

    「どう、して――?」

    理解してあげたいけど、理解してあげれない。
    きっと、自分に何か足りていないからだと捉えて、けしてスバルを責めない、優しい憂いの色がある。

    「俺がいると、君は王になれない」

    「どうして、突然、そんなことを言うの?」

    「それは――」

    躊躇いはない、しかし次の瞬間、エミリアがどんな顔をするのか畏れていた。
    だから、ほんの少し間を置いて、息を呑み。
    ポケットから黒い装丁の教典を取り出して胸の前に掲げて見せると、

    「俺が、『傲慢』だから」

    「――――ぇ」

    中庭を吹き込んだ一陣の風が、落ちた花弁を巻き上げたあと、エミリアの美しい銀髪を撫でて去る。
    そして、そこからしばしの間をあけて、スバルはゆっくりと声にする。

    「俺は、君を王にしたい。
     だから、一緒にいることはできない。
     銀髪のハーフエルフと『魔女教』が一緒にいるなんて、そんなのは民衆がみとめない。まして、王の傍なんて以ての外だ」

    紫紺の瞳が揺れている、彼女の心を映すように。胸の前で細い手をきつく握り、その慟哭を押し込めようとしているように見えた。

    「必ず、君を王にする。
     君の願いを叶えてみせる。
     そして――――いつか、俺を殺してくれ」

    「――――」

    それはあまりにも苛虐な願い。
    しかしスバルは、その穏やかな終わりを渇望していた。

    常軌を逸した酔狂な微笑みは、ただただ愛しい銀髪の乙女に注がれている。
    本来なら甘酸っぱい思い出になるはずだったひと時は、今や、狂人によって穢され、踏みつけられていた。

    そして、スバルは福音をしまい、その場を立ち去ろうと――

    「それが――届いたからなの?」

    銀鈴が凛とした音色を奏で、『傲慢』の舞台を引き裂いた。
    俯いてなどいない。嘆いてなどいない。
    その毅然とも言える立ち姿は、狂酔したスバルを簡単に吹き消して

    「それが、届いたから、スバルはそんなことを言うの?」

    「――それは……」

    足元が崩れてしまいそうだった。
    難しい問いかけだったからではない。
    ただ、詭弁をまくし立てても、全て跳ね除けられてしまうのではないかと思える強さがあったから

    「そう、なのね?」

    気圧され、思わず後退する。まるで絶壁を背に、追い詰められた鼠のように。

    そして――

    つかつかとスバルの目前に迫ると、その手から福音を奪い去って、

    「ぇあ――」

    予想だにしない出来事に、スバルは微塵も抵抗できず、素っ頓狂な声をあげただけで

    「こんなもの」

    言いながら、福音を投げ捨てて

    「壊しちゃえばいいのよ」

    瞬間、虚空から氷の刃が生み出され、鋭い斬撃が宙を舞う福音に襲いかかり、幾重にも切り裂かれ

    「ゃめ――っ」

    はらはらと舞い落ちた。

    「――そんな」

    計画の一端を、いとも簡単に、修復不可能なほどの紙吹雪に変えられて――スバルはそれが風にさらわれていく様を眺めるしかなかった。

    福音を残骸を見て、呆然と立ち尽くすスバルの前で、エミリアは自らの腰に手を当てて、もう一方でスバルを指差し

    「スバルはスバルじゃない。与えられたからって、従う必要なんかないのよ」

    一点の曇りもない顔で、ぴしゃりと言い放つ。

    「も、もし、福音を破壊したら俺まで死ぬって設定だったらどうすんの! 力技すぎない? 君ってそういうタイプなの?」

    「でも、スバルは生きてるから問題ないでしょう?」

    「えぇ……」

    まさかの展開に目を白黒させるスバルであったが、福音書が破壊されたからといって、何ら計画に支障をきたすわけではない。
    計画の一端ではあったが、そもそもスバルの福音は『魔女教の福音書』を真似て作ったまがい物。
    故にスバルを『傲慢』たらしめる何かが変化するわけではなかったし、間に挟まっていた『ベアトリスの福音の一部』に関しても同じこと。それが破壊されたからといって効力がなくなる代物ではない――はずだ。

    「……残念だけど福音書を壊したって、俺が『傲慢』だってのはかわらない。だから――」

    「スバルには、『私の騎士様』って役目があるでしょ?」

    「――やく、め?」

    「ん。スバルはもう『私の騎士様』なんだから、それ以外になることなんてできないの」

    「――――」

    エミリアの高潔すぎる考えに、とうとう完全なまでに言葉を失ってしまった。
    ナツキ・スバルに与えられた役目を果たせと奮い立たせるその紫紺は、未完ながらも確たる王の器が形成されていることを感じさせる。

    しかし、エミリアは知らない。
    目前のスバルは『騎士』ではなく、ただの『傲慢』であることを。

    ――ただの『傲慢』?

    引っかかりを覚えて復唱する。

    銀髪の乙女と、その『騎士』スバル。
    そしてその前に現れた『傲慢』。


    ――あぁ、そっか
    俺は、『銀髪の乙女』とその『騎士』に、『殺される役』なんだ


    瞬間、胸がちくりと痛んだ。
    けれど、自分の中にすんなりと馴染んでいくような気がして


    ――このセカイのエミリアが王になるための礎になれるなら、俺は、全てを君のために捧げるよ


    「わかった、エミリア。
     俺は、俺の役目を果たす」

    決意に満ちた瞳は、どこか空虚だ。そして、間をおかずに続けて

    「俺は、君の『騎士』じゃない。
     君のナツキ・スバルはここにいない。
     だから俺はただの『傲慢』なんだ」

    瞬間、エミリアは理解できないといった風に表情を曇らせるが、

    「――君の『騎士』を返す」

    この言葉だけで、エミリアに全てを伝えることはできないとわかっていた。噛み砕いて説明するのも『死に戻り』を知らない人間には理解しがたいのは明白。故に、スバルは自分の影に視線を落とし、そして

    「――聞いてるか? とりあえず、ナツキ・スバルと大精霊を出しておけ。地上に放り出してエミリアに会える程度には適当に介抱しといてくれる?」

    すると、スバルの影に波紋が生まれ、そして静まる。
    そして、今一度エミリアに向き直り、

    「じゃあ、行こう。
     君の『騎士』様が待ってる」

    手を差し出したりはしない。
    それは本来、俺のものではなかったから。
    エミリアに森まで行くと話をして、パトラッシュという名の地竜を借りると、二人でその背に乗って森を目指した。

    途中、エミリアが「パトラッシュにもわかるのね」と小さく漏らしたが、スバルにはその意味はわからなかった。

    しばらく走った後、森から少し離れた位置にパトラッシュを待たせる。エミリア曰く、パトラッシュが混乱しそうだから、という配慮らしいが、スバルは軽く聞き流してエミリアの後に続いた。



    ※ ※ ※ ※ ※


    生暖かい闇の中にスバルはいた。人肌の温もりを感じる優しい世界。スバルが深い眠りに落ちる時、それはかならず現れて、そしてスバルの魂をまた別の――

    と、そんなまどろみから自分を連れ戻そうとする、眩しい光が差し込んで――次の瞬間、それが本当の陽光だと気がついた。

    ゆっくりと重い瞼をもたげると、ぽつり、と頬に雨が落ちる。
    視界には、木の葉の隙間から覗く澄んだ空と、残り半分を占める逆さまの少女があった。少女の大きな瞳からは、今まさに大粒の雫が落ちる寸前で揺れていて

    「――ベア子」

    スバルの声に、少女はその愛らしい口元をきゅっとつぐんで、何かをこらえるように嗚咽を漏らす。

    「――大丈夫か……?」

    ふっくらとした桃色の頬に手を伸ばすと、ベアトリスがそれを頬に迎え入れ、その甲に小さな手を添えた。

    「……ベティは、大丈夫なのよ。それよりもスバルは自分のことを心配した方がいいかしら。水は飲ませたけど、きっとくたくたに違いないのよ」

    ベアトリスは自分の非力を嘆くように、少し弱々しい声音で語る。濡れた頬と目尻をぬぐってやると、こそばゆそうに目を細めていて

    「ベア子が助けてくれたのか……?」

    酸素が行き渡っていなかったせいか、やや記憶が頼りない。肺腑の奥を新鮮な酸素で満たしながら記憶を手繰る。

    「なんの風の吹き回しかはわからないのよ。でも魔女教徒の連中がベティ達を外に運んだかしら。そしたら、その後ベティを縛る契約が解かれて……それからスバルに治癒を施したのよ」

    ベアトリスの膝に受け止められた頭を少し動かして、周囲の状況を確認する。木漏れ日が差す一角。傍には件の大樹があって、スバルを誘い込んだ大口はすでに無く、

    「そっか」

    全てがわかったわけではない。それでも、一つの脅威が過ぎ去ったのだということが理解できた。けれど、実際なんら抗うことも出来ず、幽閉されていただけなのだから居心地が悪い。
    事が起こり、スバルが奔走することで乗り越えてきたというのに。
    当然そのほうが苦しいに決まってる。しかし、手応えがないまま、完全解決というにはどうも歯切れが悪い。
    そんな状況で、ベアトリスの膝枕に甘えているわけにもいかず、

    「はぁ……なんか、よくわっかんねぇな」

    名残惜しい気持ちを隠さずに、ゆっくりと身を起こす。体の汚れを払い、ベアトリスの手を引いて立ち上がらせて、

    「そういえば、福音に書かれてたやつとかも大丈夫なのか?」

    『既存の契約を破棄し、新たに傲慢と契約せよ』などとふざけたそれを思い起こし、虫唾が走る。そのせいでベアトリスの心が捻じ曲げられてしまったのだから当然だ。

    「あれは……本当は、ベティの意思で振り払うことも出来たはず、なのよ」

    どこか歯切れが悪い。振り払うことができなかった事実を恥じているようで、ベアトリスはスバルから顔を背け、

    「ベティは、あれを前にして……迷ってしまったかしら。その迷いが、ベティを動けなくしてしまったのよ。……本物のスバルがわからなくなるなんて、ベティは――」

    「多分、あいつは『偽物』じゃない。あいつも『本物』の俺なんだ。違う選択をして生きてきた俺で、元を辿れば同じ存在――だと思う。俺もわかんなくなるくらいだし、ベア子が迷うのも当然だ」

    頭をぽんと手をおいて、くしゃりと撫でる。

    「多分、あいつはまだ存在してる。そんな気がするんだ。繋がりとかそんなの無いし、本当になんとなくだけけど、おそらく間違いない」

    ベアトリスの小さな背に合わせて、膝をおり、その視線と高さを合わせてから、

    「俺はあいつをどうにかして止めなきゃなんねぇ。あいつと対峙した時に、俺が俺を見失ってしまわないように、ベア子に隣りにいて欲しい。だから――」

    ベアトリスの華奢な肩に手を添えて、

    「――俺と、もう一度契約してくれるか?」

    「当たり前、なのよ」

    顎を引き、互いの額を合わせると、ゆっくりと目を閉じる。ベアトリスの可愛らしい息遣いをすぐ傍に感じて、スバルの心は徐々に熱を帯び――

    「スバルは、ベティの愛しい契約者かしら」

    胸に込み上げる熱い衝動がある。
    それが、はちきれんばかりに高まって。
    最後に、きらきらと弾け散り、強靭なつながりが顕現する。
    なくす前と繋がりのカタチは同じでも、これまでより更に強固な絆となって二人を結びつけていた。

    ゆっくりと額を離すと、ベアトリスの顔が耳まで赤くなっていることに気付いて、お互い顔を見合わせて笑いあった。そして、ベアトリスの手を取ると、その指先にマナの流動を僅かに感じる。立ち上がり、周囲をぐるりを見渡して、朧げな記憶を手探りしつつ森の外を目指す。

    『スバル』がここを立ち去ってから、外で何が行われたのかわからない。もし失われたものがあっても、それを知らなければ取り戻せない。そんな焦燥感にかりたてられて、足早になる。語らずともベアトリスも似た感情を持っているのは手に取るように分かった。

    再び印を頼りに森を抜けると、屋敷の方角を確かめて――と、前方から駆けてくる銀色の輝きに気がついて、

    「――――エミリアっ!!」

    そして、その少し後をついてくる忌々しい黒い影にも。

    「そいつから離れるんだ!」

    ベアトリスの手を握る力を強くして、合図する。相手の出方によっては――

    「スバル! ベアトリス!」

    エミリアがスバル達の元に駆け寄って「よかった、本当に」と安心しきったように笑う。
    同様にスバルもエミリアの無事を確認して安堵するも、間をおかずに『スバル』に鋭い視線を投げつけて、エミリアをかばうように前に出ると

    「てっめぇ! 無茶苦茶してくれやがったな。マジで死にかけただろうが!」

    スバル達から少し離れた場所で、気怠げに頭を掻く『スバル』に、激情を堪えきれず叫ぶ。

    「死にそこねて残念だったな。ま、新しい経験が出来てよかったろ」

    それは、ひどく残念だと言わんばかりに肩を落として言った。そんな態度にスバルが怒りを滾らせていると、

    「スバル。ベティにも言わせるかしら」

    繋いだ手をくいくいと引いて、スバルの怒りをを鞘に戻させると、『スバル』に向き直り

    「どうしてベティとの契約を破棄したかしら。ベティとスバルが再契約した今、お前は嬲り殺しにされるだけなのよ。それくらいわかっていたはずかしら」

    堂々と嬲り殺し宣言をするとんでもない幼女に、スバルはやや落ち着きを取り戻す。対するそれは、秘密基地――洞窟で邂逅した時とは別の、空虚な瞳をこちらに向けて、

    「お好きにどうぞ、ってことだ」

    「はァ? さんざんぱらヤラカシといて、今さら改心したとか言わねぇよな」

    「あぁまったく。その子と同じで、そう簡単に心根はかわらねぇよ」

    「――だろうな」

    心根は変わらない。スバルの在り方は道によって変われど、元を正せば同じこと。『スバル』と自分自身に嫌悪感を隠せないままでいると、

    「お前がいない間に色々わかった。
     んでもって、俺は『俺の間違い』を認めることにした」

    「な――」

    「俺は――知らなかった。
     知ろうとしなかったから。
     だけど、願いを叶えたかった。
     ――それしか、知らなかったから」

    その悲痛な胸の内に、スバルの胸が痛む。
    『スバル』がどんなセカイに身を置いていたのか、その一端すらはっきりは分からない。それでも、それはナツキ・スバルだったから、同じ痛みを知っていた。

    「俺は、間違ってたんだ。端から、全部。存在そのものが”過ち”だった」

    自分自身を嘲るように吐き捨てて、それは両手を広げる。抵抗する気は無いと示しながら

    「――俺を殺せ、ナツキ・スバル。
     それこそが、過って、過ちぬいた『傲慢』の結末だ」

    嗤っている。さぁ早くしろと、追い討ちをかける様にして

    「――っ」

    吐き気がした、あまりにも邪悪なそれに。
    相手は『傲慢』なら、それを滅ぼすのは正しいことなのかもしれない。けれど、殺せと言い張るその姿はあまりにも――

    「この役回りこそが、散々ぱらヤラカシてきた俺の、ツケなんだろうよ……」

    消え入る様な掠れた声だ。側にいなければ聞き取れないほどの、生きる事を諦め切った声。
    しかしそれは、スバルの心に鮮明に届いて

    「――っまえは……」

    ベアトリスの手を離し、拳を握りしめて、

    「っんな簡単に! 死のうとすんじゃねぇ! 俺だろ!」

    距離を詰め、『スバル』の胸ぐらを掴んで捻り上げる。

    「ッ――俺は、お前とは違う……」

    「いいや、お前は俺だ! はっきり言って、認めたくなんざねぇけどな」

    胸ぐらを引き寄せて、その空虚な目の奥深くを睨みつげる。その奥底にちらつく、非力を嘆くナツキ・スバルの瞳を。

    「っ……何で! 俺を殺せばそれでハッピーエンドだろ! 何が気に入らない! 本当は死にたくなんか無いって言えば満足なのか?!」

    それは胸ぐらをつかむ手を剥がそうと身を捩り

    「もういいだろ……俺は終わりたいんだ。散々なんだよ、こんなのは! 俺にツケを払わせてくれよ。その子が王になるための踏み台だ。うまい話じゃねぇか。自分を殺すのは気分が悪いってんなら、誰に殺させたっていい。ああ、そうだ。俺が自分で殺――」

    「もう、やめて。そんなこと、言わないで……」

    醜態を晒す『スバル』を肩越しに見守っていたエミリアが、苦しげに懇願する。

    「えみ、りあ……」

    「あなたは私を王様にしようとして。
     でも、それはよくない方法で……
     それでも、頑張ってくれたのよね」

    エミリアは、そのひとつひとつの想いを確認する様に投げ掛けて、

    「――でも、君は喜ばない」

    泣かせる、とまでは、あえて言わなかった。それはエミリアに聞かせたくないだけでなく、おそらくは『スバル』自身にとって辛い事だからで

    「そう、ね。きっとそう。
     でも――ありがとう、スバル」

    エミリアは否定しなかった。
    その結末も、生き方も、選んだ道も、歪んだ愛すらも、自分を想ってしてくれたことなら、ちゃんとお礼をしなきゃと。そんな、大きな優しさで『スバル』を受け止めていた。

    胸ぐらをつかむ手を離す。すると、『スバル』は、力なく項垂れて、

    「俺は――君の”スバル”じゃない。むしろ殺そうとしてた。だから、優しい言葉をかける必要なんざないんだ」

    「ううん、あなたもスバルよ。私にだってわかるもの」

    エミリアは自らの胸に手を当てて、スバルとの記憶に想いを馳せる。様々なスバルを傍で見て、困難を一緒に乗り越えてきたからこそ、彼女なりの答えを見出していた。

    「エミリアたんはこう見えて頑固だから、言い出したら聞かねぇよ? それに、死んだところでなんも解決しねぇだろ。――これまでも、そうだったんだ」

    だろ? と、肩をすくめて見せると、弱々しく地に目を伏せ、顔に陰を落とす『スバル』に、

    「俯くな。お前が信じた道を最後まで走れ。吐気がするような終わりでも、それがお前の結末だろ」

    スバルは、その黒髪を軽く拳ではたき、「自分叩くってなんか変な感じだな」と苦笑い。

    「あるべき場所に帰れ。
     そして俺の邪魔をするな」

    はたかれた場所に手を乗せて、憎々しげにこちらを見やる『スバル』の鼻先に指を突きつけて言い放つ。その後、「今のなかなかかっこよくなかった?」と軽口を叩いておどけて見せるから、かっこがつかない。
    そんな馬鹿馬鹿しい『このセカイ』の姿に、心底呆れたといった様子で『スバル』は溜息を溢す。

    「お互い全部終わったら、答え合わせでも何でも付き合ってやんよ。だから、その時に胸を張って自分の終わりを語れるようにしとけ。ま、『最悪だ』って言うけどな」

    「――最高、だ」

    「っし! じゃ、帰り支度は出来たな」

    「はぁ? 何の話だ」

    「お前、本当に俺かぁ? こんなトンデモ設定のオチつったら決まってんだろ」

    「いや、だから、意味――」

    瞬間、スバル達を取り囲む景色が、まるでハリボテであったかのように亀裂が走り、そこからまばゆいの光が差し込んで

    「す、スバル!」

    一拍遅れでそれに気付いたエミリアとベアトリスがスバルに駆け寄って、それぞれ手を握り

    「大丈夫、大丈夫。こういうのお約束っつーの? 次の瞬間には夢から醒めるって。まぁ、夢かはわかんねぇけどさ」

    「むぅ、わけがわからないのよ……」

    納得ならないと言った様子で、ベアトリスは空間全体に伸びていく光の筋とスバルを交互に見上げる。

    「スバル、本当に大丈夫?」

    「大丈夫だ、問題ない!」

    肩にかかる銀髪をふわりと揺らしながら、エミリアは微笑んで、

    「よくわからないけど……、スバルが言うなら、きっとそうね」


    そんな一団と対象的に、『スバル』はつまらなさそうに空を見上げ

    「はぁ、なるほど。っていうかベタすぎね? まぁ帰れるなら万々歳だし、夢だってんなら、こんな悪夢はさっさと忘れたいね」

    「大体、悪夢に限って覚えてんだよなぁ」

    「はぁ、お前……ほんとサイテーだな」

    嫌味たらしく言い放つスバルを横目でぎろりと睨みつけていると、スバルは片目を瞑って悪戯っぽく笑ったあと、

    「まだまだ掛かっけど、いつか見せてやるよ。お前が見れなかった、最高のハッピーエンドを」

    「――はっ。本当にどこまでもどこまでも、馬鹿げてる」

    馬鹿らしすぎて見ていられないといった風に『スバル』は顔を背け、音もなく崩れ落ちていく空間が、徐々に真っ白なそれに包まれるのを見て、そっと目を閉じる。

    その、瞼の裏の暗闇さえも真っ白な光に包み込まれて――自分という存在がぼやけ、おぼろげになってゆく。セカイそのものと混ざり合い、何もかもが一つになって。
    それは無限とも、瞬きの間とも思える時間を掛けて、一つの意識を形成し、そして――


        *****


    「知ってる、天井だ」

    湿っぽい空気が満たす薄暗い部屋。荘厳な装飾がなされた天井がスバルを迎えた。
    ベッドに沈み込んだ身をもたげると、タイミングを見計らったように扉を開ける影が一つ。

    「あら、やっとお目覚め? 最後の日だというのに、とんだ曲者ね」

    艶のある落ち着いた声色。豊満な胸元に漆黒の三つ編みを垂らした『腸狩り』だ。

    「メィリィは待ちくたびれて先に出ていってしまったわ」

    「だったら起こせばいいだろ……」

    「加減をするのは苦手なのだけれど」

    「どんだけ手荒な方法取る気だよ! 殺される前に死ぬわ!」

    寝起き早々頭が痛くなるようだったが、そんな戯言に興じている暇は無いとベッドから足を下ろし――

    「ひとつ、いいかしら」

    再び外に出ていこうとしていたエルザがこちらを振り返り、艶やかな所作で舌なめずりして見せ

    「あなた、今日はとてもいい顔をしているわ」

    「――はっ。 そりゃどうも」

    そして、そのまま部屋を出て行く。
    再び静寂を取り戻した部屋で、こなれた動きでジャージに袖を通すと、クローゼットに備え付けられた鏡に自らを映し、服装を正す。
    ふと、鏡越しの自分と視線がかち合って、やや居心地の悪さを感じながら

    「いいか。ちゃんと見てろ。これが俺の――生き方、だから」

    返ってくる言葉はない。
    それはただ、スバルを見て、そして――――始まる。


    ナツキ・スバル、最後の一日が。





    (おわり)

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

    ご覧いただきありがとうございました。生誕祭にぎりぎり完成したので誤字もろもろあるかもしれませんが、よかったら感想等いただけるととても喜びます。

    マジで小説って形でちゃんと書いたのははじめてかな? と思う。書いたとしても2作品、文字数も5千文字以上は無くて、かけた事にびっくりです。しかも一番驚くのがハッピーエンドってとこ!ハピエン書けるんだこの人……

    ここまで読んでくださってありがとうございました。

    #rezero #リゼロ  #Reゼロから始める異世界生活 #小説
    ――命燃え尽きる前夜。
    それはとても静かで、穏やかなものであった。

    運命の明日に向けて瞼を閉じる。
    暗闇の中に、数々の日々が浮かび上がった。

    腐りきった世界で、ただ一つ、輝くもの。

    いくら手を伸ばしても、届かないとわかっていた。触れてはならないことも。側にいてはならないことも、誰より理解していた。

    それでも、たったひとつだけ。
    君に届けたい言葉が、想いがあった。

    だから――伸ばした手が切り落とされるとわかっていても。喉が擦り切れ、血が滲むほど叫んでも。剣先が身を貫き、肉を削ぎ落としても。
    まだ死ねないのだと立ち上がれた。

    それも明日で、この回で、全てが終わる。

    これは手応えではない。
    もっと確実な――『運命』だった。



    ※ ※ ※ ※ ※

     埃混じりの淀んだ空気。
    背を受け止めるものは固く、鈍い不快感が沸き起こる。
    新しい1日は、予期せぬ居心地の悪さから始まった。

    「知らない天井だ」

    第一に飛び込んで来たのは、蜘蛛の巣が張った木目の天井。
    ナツキ・スバルが就寝前に見た光景とは、似ても似つかないものだった。

    ルグニカを暗躍していたスバル達一行は、王都のとある貴族の屋敷に設けられた地下室を拠点とし、最後の日を迎えようとしていた。身を隠すなら相手の鼻先とはよく言ったものだ。
    地下室といえど、曲がりなりにも貴族の屋敷。荘厳な装飾品や調度品の数々が品良く配置されていたし、一時期『青』を幽閉していた石牢も存在していたが、ここはそれとも異なっている。

     とにかく状況を把握しなければと身を起こすと、痛んだ木の床がぎしりと鳴く。
    瞬間、神経を尖らせるも、どうやら人の気配はないようだ。
    手のひらサイズほどの小さな覗き窓から射し込む陽光の助けもあり、室内は仄かに明るい。備蓄用の納屋なのか、壁際に積まれた木箱や麻袋は埃を被っている。床もスバルが身を横たえていた部分を除いて、人の痕跡はない。

    「誰かがここに運んだわけでもない……か。俺の足跡すらないって、どんなトリック?」

    まぁ考えても仕方ない、と立ち上がり、疑問と共に埃を払うも、舞い上がるそれに咳き込んだ。

     ふと自身の装いに目を落とす。
    黒ずくめの軽装で完全な丸腰。
    一切の状況がわからない上にこれでは心もとないと、いくつか適当な木箱の蓋をずらす。すると、質は悪いが手頃な短刀とやや痛んだ黒のローブを見つけて有り難く拝借。
    この程度の短刀では心もとないが、元より非戦闘員気味なのだ、死に戻りの足掛かりにでもなれば万々歳。
    無論、死ぬのはごめんだが。

     陽光が差し込む小窓から、ちらりと外の様子を伺う。
    人の往来はなく、住居裏手の小道といったところか。納屋の扉は木材を錠から抜くだけの簡易的なもので、難なく外に出ることができた。
    小道の両脇に建ち並ぶ西洋式の住居はルグニカそのもので、とりあえず、別の異世界に飛ばされたという心配はなさそうだ。

     改めて体の埃を払い、怪しまれない程度にフードを被って通りを歩く。
    しばらくして小道を抜けると、商店が肩を寄せ合う繁華街が目の前に広がり、いつかの光景が脳裏をよぎった。
    それに吐き気を催す自分とは異なり、往来する人々の顔には活気があり穏やかで、今まさに王都を騒がせている王選や魔女教の混乱は見てとれない。

    「……振り出しに戻るとか、そういうのは勘弁願いたいね」

    深い溜息と共に、つい本音が漏れる。だが、この違和感。振り出しとはではいかなくとも、本来訪れるはすだった”明日”と異なる時間軸であるのは間違いない。
    なら、今はいつなのか。

     辺境伯の魔力で編まれたローブでないことが心許ないが、この時間軸で顔バレによる指名手配……なんてことにはなっていないだろうと腹をくくり、手近な店でそれとなく日付を聞いた。
    スバルが予想していた通り、本来のセーブポイントよりも時間が戻っている。しかも、未だ経験していないセーブポイントに。

     しかし、ここが全く未経験の時間か、というとそうでもなく、単に王都に居なかった、という意味だ。
    記憶力にはそこそこ自信がある。
    たしか、フリューゲルの大樹付近にて発生した白鯨討伐戦の残滓、”青”を拾うため、その周辺でペテルギウスに同行していたはずだ。
    時折、王都のアジトに足を運ぶことはあっても、むやみやたらに王都をうろつく理由もない。事実、セーブポイントもペテルギウス関連施設内だった。

     要するに現在の状況は、通常の死に戻りや、過去の別のセーブポイントに飛ばされたのではなく、新たに用意されたポイントに強制移動させられた、もしくは何らかの理由で死に戻り、ここから始まったということか。

    「剣聖とやり合いすぎて詰んだと思われたなら酷ぇ話だが。つっても、酷くなかった時なんざない気もするな……」

    この時間軸に来て、もう何度目になるかわからない深い溜息。人波を避けてふらふらと歩き、ふと顔を上げると、道端の立て看板が目に入った。

    芯のある瞳と目が合う。
    その瞬間、周囲の喧騒はぱたりと途絶え、行き交う人々の姿が滲む。世界から色が消え去って、そこだけが鮮明に浮き上がっていた。

    そして、頰を赤くしていた熱が落ち着いた頃、ようやく街に喧騒が戻り、隣の看板に描かれた他の候補者に気がついて

    「どーなってんだこれは……」

    そこには、存在ごと消滅したはずのクルシュ、王選を辞退したプリシラ、騎士を失い拠り所をなくしたアナスタシアらがある。
    エミリアを王にする為に、人としての尊厳すら踏み躙り、命どころか存在そのものを奪ったというのに、これは一体どういう理屈なのか。

    わけがわからない、と胸の奥底でと煮えたぎる思いがあった。
    現実を受け入れるのは容易くなく、 そのために削ぎ落としてきた魂が、声にならない絶叫が上げた。
    怒りに震える肩を抱き、ぶつけようのない慟哭を押さえ込んでいるうちに刻々と日が暮れて、気がつけば空は赤黒く染まっていた。


    「ねぇスバル、そろそろ戻りましょう」


     瞬間、時が止まる。
    顔を跳ね上げれば、自分を見つめる瞳がある。

    否、それは背後からもたらされた。
    しかし、あまりに突然の邂逅で、驚きのあまり振り向くことができない。


    「そうだな。ベア子とパトラッシュに土産は買ったし……まぁ俺としてはエミリアたんと夜景デートしてからってのもやぶさかでは」

    「もう、わがまま言わないの」

    声はそれほど近くない。
    まばらな雑音に混じって、しかし驚くほど鮮明に焼きついた。
    それはどんな凄惨な死より酷く、いかなる結末より受け入れがたく、魂を直接抉る刃そのものだ。

    声の主は忘れもしない、エミリア。
    そして、あまりにも聴きなれたスバル自身の――否、これはナツキ・スバルではなく


    ――おまえは、だれだ?


    疑問。
    次いで憎しみ。
    重ねて憎悪。

    最後に虚無感が押し寄せて――次第に声は遠ざかっていった。


    「く……ふはっ……傑作だな。
     なんだよそれ。これを俺に見せたかったのか? こんな結末もあったって、そう言いたかったのかよ? 俺は間違ってて、無力で、好きな子ひとり笑顔にできなくて……やれば出来た。なのに出来なかったって、嗤うのか? そうだな、嗤え。嗤えばいい。たまんないよなぁ。人をコケにすんのはさぁ……分かるよ」

    ふらふらと脚を引きずるように歩いた。うわ言のように呪いと憎しみ吐き出しつづけ、行くあてもなくて、兎に角誰もいない場所に在りたくて、街を出て、静かな街道をふらふらと歩いた。

    可笑しかった。どんな喜劇より滑稽だ。出来る力はあったのに、あれだけ強く願っていながら、こんな生き方があったなんて、そんなのがあるだろうか?

     ふと、草に脚を取られ、受け身を取ることもなく崩れ落ちた。心も体もボロボロだ。立ち上がる気力などあるわけがない。
    短刀で喉を貫き引き裂く力もなくて――

    「確かに俺は……てめぇらのお膳立てを全部無駄にしたんだろうよ」

    ナニモノかの想いも、願いも、全部踏みにじってやれたのかと思うと可笑しくて、くつくつと笑いが漏れた。

    「でもな。お前らが認めなくても、俺には俺の――最高の結末があった」

    腕をつき、身をもたげ、地に唾を吐きすてる。力なく天上を仰げば、虚ろな瞳に月が映り込んで

    「俺は――間違ってない。
     こんなものはまやかしだ。
     全部、俺が壊してやるよ」




     辺境伯邸に向かう竜車の中。
    ナツキ・スバルはまだ知らない。

    最も無力な自分自身が、最大の敵であるということを。



    ※ ※ ※ ※ ※


     ナツキ・スバルは順風満帆――とまでは言えないが、怠惰の大罪司教ペテルギウスを滅ぼした上、聖域の解放、および新たな仲間を得て、束の間の穏やかな時間を過ごしていた。

    穏やかなといっても、護身術の会得、新装具の鍛錬、ベアトリスへの魔力供給に加え、礼儀礼節なんやかんやと、寝る間も惜しくなるほどで。

    かつてのスバルなら、早々に根を上げていただろうが、幾重の困難を乗り越えたのだ。そう簡単には挫けない。
    むしろ、いずれ来たる死のループを想像すると、何もしないほうが落ち着かない――のだが、そんなスバルを心配したエミリアに、デートもとい、王都出張を命じられて今に至る。

    「ねぇスバル、本当に無理してない? 手も全然治療させてくれないし、すごーく心配なんだから」

    竜車が王都に走り出してすぐ、エミリアが眉をひそめつつ切り出した。

    「いつも言ってるけど、頑張った勲章ってのが男には必要なんだよ。それに休めるときは案外休んでるし、どうしてもダメなときはエミリアたんの膝枕で一秒チャージ!」

    幾重にもマメが出来た手を握りしめ、軽口を叩いてみるも、依然エミリアの表情は硬い。

    「はぁ。膝枕頼りの騎士なんてみっともないかしら」

    スバルの膝にちょこんと腰掛け、腕に抱きかかえられたベアトリスが大袈裟に息を吐く。

    「んん〜。 膝に座れないとむくれる大精霊様ってのは、みっともなくないのかなー?」

    ベアトリスの頭に頰を寄せ、きつく抱きしめてやると、むきゅっと声が上がり

    「ふ、ふん! それは契約者として当然のことかしら!」

    ぷいっとそっぽを向くも、耳まで真っ赤にしていては威厳もなく、ただただ愛らしいばかりだ。

    「ふふ。二人とも本当に仲が良いんだから」

    口元に手を当ててくすくすと笑うエミリアの表情は、先程までとは打って変わって朗らかだ。
    どうやらベアトリスのはからいが功を奏したようで――そのお礼とばかりに頰をグリグリ擦り付けてやると、竜車は賑やかな声で溢れた。


        *****


    「ベティはパトラッシュと一緒に待ってるかしら。でぃとは水入らずなのよ」

     王都に着くとベアトリスはそう言って竜車に残った。
    聖域を出てからしばらく、常にベアトリスと行動していたスバルにとって心寂しかったが、折角の気遣いに水を差すのはよろしくない。甘やかしてくれるときは徹底的に甘えるのが礼儀だと思い、エミリアの細くしなやかな手を握った。

    王都を訪れた理由は、でぃと以外にもある。白鯨討伐からしばらく経ったが、未だ記憶をなくしたままのクルシュの見舞いも兼ねていた。無論、単なる見舞いだけではなく同盟としての情報交換などが含まれる。

    クルシュとの会話が弾んだせいか、一通り挨拶を済ませた頃には日が傾き始めていた。

    「ごめんね、スバル。折角でぃと出来るはずだったのに」

    クルシュの邸宅を出たエミリアは、ロズワールお手製の認識阻害ローブを羽織りながら申し訳なさげに眉を下げ

    「ん。俺としては充分デートできた思ったけど、竜車に戻る前に買い物くらいは付き合ってもらおっかな」

    ベア子とパトラッシュにも何か買っていってやらないとな、と続けて笑い、エミリアの手を握る。緩く握り返す指先は暖かく、二人が育んできたものが確かなものだと再認識できた。
    この先どれだけ悪辣な障害が立ちふさがっても、二人――俺たちなら必ず抗えるのだと。

    今日も繁華街は活気に満ちていた。
    夕飯の買い出しのピークと重なったこともあり、人波に揉まれることとなったが、二人肩を寄せ合い、はぐれまいと一層手を固く結んで色々な店を見て歩いた。
    人波が落ち着き、空の色がすっかり赤く染まったところでエミリアが手を引いて

    「ねぇスバル、そろそろ戻りましょう」

    「そうだな。ベア子とパトラッシュに土産は買ったし……まぁ俺としてはエミリアたんと夜景デートしてからってのもやぶさかでは」

    「もう、わがまま言わないの」

    後ろ髪引かれる思いのままスバルがおどけてみせると、エミリアはその申し出を嬉しそうにしながらも、めっと小さく諭す。

    「じゃあ戻りましょう。えっと、あっち、だったわよね」

     エミリアが先導する形で手を引かれる中、ふと、スバルは街の一角に目を奪われた。薄汚れた黒いローブをまとった人影がある。
    王選候補者の看板の前で身を抱え、苦しげに身を強張らせていた。
    ローブといっても魔女教の装いとは異なるシンプルなものだ。

    体調が優れないのだろうか。
    エミリアなら駆け寄って声をかけるかもしれない。病人だとしたらベア子かフェリスを呼べば――そんなことを考えているうちに、人波に紛れ、いつしか姿は見えなくなっていた。

    胸の中にざらついた感触が残る。
    嫌な予感、そんなものではない。

    ただあれは、誰かがどうにか出来るものではないのだと、どこか共鳴するものがあったのかもしれない。
    恐らく、ナツキスバルにだけわかる、仄暗いものが。

    ベア子とパトラッシュに待たせてしまった詫びを入れてから竜車に乗り込むと、ロズワール邸に向けて走り出す。座席でベア子に膝枕をしてやりながら、車窓に目を向けると月が映った。



    その同じ月の下。
    悪辣な何者かが、今まさに産声を上げたと知らぬまま‪――



    ※ ※ ※ ※ ※


     ナツキ・スバルは、街道沿いを月明かりを頼りに歩いていた。
    この時間軸において何かを成し得るにしても、てんで無力な自分だけではエミリアに近づくこともままならない。
    簡単に言えば協力者。複雑に言えば利害関係の一致する、それなりに力のある人間とお近づきになりたい、というわけだ。
    目的を果たすどころか、生きていくためにはそれなりの資金もいるし、誰かを殺すにしても手回しが必要だ。
    そこのところをバランス良く介抱してくれる誰か――いの一番に浮かんだのが、辺境伯だ。他に共犯候補者に比べれば居処もわれているし、何よりいきなりスバルを殺したりはしない、という確信がある。

    しかし、だからといって協力関係になれる確信があるかというと、希望的観測という側面が大きいのも事実。

    特に辺境伯は、ナツキ・スバルの側にいる。故に、その影響下でいかなる変化をもたらされているか曖昧だ。
    さすがにあそこまで凝り固まった曲者が、そうそう変わるとは思えなかったが、裏か表かで言えば二分の一。
    多少の博打になるのは否めない。

    博打といっても、ナツキ・スバルのそれはイカサマ同然。迷うことはない。やってダメならやり直す。たったそれだけの簡単なお仕事――なのだが、ここで、最も大きな障害に阻まれる。ナツキ・スバルを祝福する唯一無二『死に戻り』に。

     この時間軸には二人のナツキ・スバルが存在し、互いに『死に戻り』の力を有していると考えられる。
    しかし、それは通常時の話であり、この時間軸においては話が別だ。
    死に戻りが作用せず、本当の『死』を迎える可能性。もしくは、『死』こそが自分を元の時間軸に還すトリガーである可能性。
    そして、ナツキ・スバルの死によってセカイが消滅し、再構築されるのだとしたら――それが二人いる状況下、先に死んだ者の死は確定し、残された側だけのセカイとなる。
    その死は誰の手によってでももたらされる。ナツキ・スバル同士が殺し合わなくとも、野犬に噛み殺されるだけでいい。

    つまり、『死に戻り』には頼れないということだ。

    これまで軽率な行動も厭わず、トライアンドエラーを繰り返してきたスバルにとって、これが大きな障害でなくてなんというのか。死に慣れてはいない。だが――繰り返し慣れていた。

    思考の海から頭をもたげ、前を見る。夜は深い。茂る草花の絨毯から虫の歌が聞こえる。と、そこに混じる雑音が大きくなることに気づき振り向いた。荷台をを引いた竜車の明かりが遠くに見える。

    道すがら衛兵らしい男に尋ねた際、この時間軸において白鯨は討伐されて、夜更けでも行商人や行き交うようになったと知った。白鯨が討伐された事実は、”青”を失ったことと同意義で、なんとしても辺境伯と協力関係にならなければという焦燥感に繋がって――

    「あの、すみません!」

    荷を引く地竜にまたがった青年が肉眼で捉えられるようになった頃合いで、大きく手を振り声を掛けた。商人らしい風貌の青年は地竜を止めてそれ応じ

    「こんな夜更けどうされました?」

    「その、実は知人を怒らせて竜車から追い出されてしまいまして。金貨一枚しか持ち合わせがないんですが、最寄りの宿舎までご一緒できないかと」

    「君もついてないね。僕も今日は王都で荷を全く捌けなくてね。一つ善行で徳を稼いでおくかな」

    言って、青年は地竜と一撫でしてから地に足を下ろす。屋根付きの荷台に乗り込むと、この辺りなら座れるかな、と言いながら木箱に手を掛けて

    「ああ、悪いね」

    瞬間、行商人後ろ髪を掴み、引き寄せる。バランスを崩し、倒れ込む商人の背を迎え入れると同時に喉元に短刀をねじ込んで、力の限り横に切り裂く。行き場を失った命の飛沫が宙を舞い、荷台はあっという間に血の海になった。叫ぶことが叶わぬ代わり、掻き切れた気道から空気が漏れる音が虚しく響く。足元に力なく崩れ落ちた青年の背を足で抑えつけて暫くすると、それは物言わぬ抜け殻となった。

    「手荒い真似は極力したくないんだけど」

    青年の服で剣先を拭った後、荷台の隙間から差し込む月光で照らし

    「思ったよりいい拾い物だったかも」

    良き相棒を腰に戻した後、凄惨な現場と化した荷台に再び意識を戻す。荷に倒れ込んだ青年の足を引き、木箱の隙間に押し込むと、そこに羽織っていたローブをかけた。その後、返り血を拭いながら竜車を走らせて、手頃な森で荷台を切り離す。ゆっくりはしていられない。日が登れば面倒事になるのは目に見えているのだから。

    地竜に跨ると商人が持ち合わせていた地図を頼りに街道を走る。
    朝霧が立ち込め、空は光を帯びていく中、辺境伯の領地内、アーラム村に到着したのだが――

    「――あれ。間違っては、ないよな」

    村の形はある。しかし、人の姿はなく閑散とした状態で

    「また、ナツキ・スバルか……」

    白鯨討伐がなされた時間軸。ペテルギウスによる襲撃を回避した先のセカイ。ナツキ・スバルによって何らかの策が遂行された故の現在。王都の初手から異なるナツキ・スバルには、それを理解できるはずもなく、湧き上がる疑問と胸の鈍い痛みを奥歯で噛み殺し、辺境伯邸へと急いだ。


    「魔女教の襲撃を回避するため、なのか。それにしても滅茶苦茶だ」

    眼前の光景に首をひねる。そこはかつて辺境伯の邸宅が顕在していた場所でありながら、現在は広大な更地とかしていた。スバルも訪れたことがある。ペテルギウスと共に屋敷を襲撃したことも、辺境伯と接点を持つために客人として訪れたことも。それは既にセカイから消失し、スバルの中にだけ残されたセカイだったが。

    地に目を落とすと、屋敷を取り囲む草木が一部炭化して残されいる。
    何らかの炎魔法が行使されたのか、単なる火災、それどれでもない何かか。

    「また間違ってるって、そう言うのか」

    掠れた声。答えはない。スバルは一人だ。
    それがナツキ・スバルの選んだ道なのだから。


    「これは思わぬ拾い物だねーぇ。予定を大いに狂わせてくれるのは実に君らしいわーぁけだが」

    運命の袋小路からスバルを拾い上げたのは、あまりにも場違いな間の抜けた声。顔を上げるとそこには、知らない顔の男――否、知っている。けれどそれは、スバルが知る厚い仮面を被ったものではなく――ここでも、胸を掻き毟られた。

    「おーぉや、なるほどねーぇ」

    瞳を興味深げに輝かせながら顎を擦る。

    「――辺境伯、どうしてここに」

    「ここは私の領地内なのだかーぁら、何もおかしな事はなーぁいのだーぁよ」

    「いや、でも――まぁいい。あんたに会うためにここまで来たんだ。まじで、手間が省けて助かった。俺は――」

    「これを、持っていくといい」

    スバルが言い終わるより早く、辺境伯は金の瞳を細め、おもむろにローブを手渡した。これは君のものだ、と。見覚えがある。認識阻害の魔法が編まれたそれは、スバルがいた時間軸でも辺境伯により授けられた。スバルが理解して受け取った様に確信を得たのか、満足げな笑みを口元に宿す。そして――焼けただれた一枚の紙を差し出した。

    「これは」

    四隅は灰になり、乱雑に扱えば崩れてしまいそうなほどのそれが、ただの白紙の紙であることを確かめながら、スバルは怪訝に顔をしかめる。すると、辺境伯は小さく、でも鮮明な声で囁いた。

    「――わかった」

    一瞬の沈黙の後、スバルは頷いた。
    その顔に、陰惨な笑みを宿して。



    ※ ※ ※ ※ ※


    「うっし、今日もいっちょやるか!」

    爽やかな水色に桃色の陽光が差し込む空へと腕を上げ、伸びをするところからナツキ・スバルの一日が始まる。慣れた動作で体の節々を伸ばして簡単なストレッチをするスバルの傍らで、ベアトリスが瞼をこすり、

    「スバルは朝から元気すぎるかしら。ベティはまだ眠いのよ」

    ふぁぁ、と小さな口をいっぱいに広げで欠伸をすると、淡く紅が差した目尻に涙が滲む。

    「これまで何もしてこなかったツケを回収しなきゃならないからな」

    前屈から起き上がったところで、アスレチックに腰掛けたベアトリスの頭をくしゃりと一撫でし

    「それに、こうやって体を動かしてる方が落ち着くんだ。体も鍛えられるし、一石二鳥、だろ?」

    「それよりも、その不幸体質を改善したほうがいいかしら。スバルは本当に困った契約者なのよ」

    「それが改善できるなら俺だってそうしてぇよ。レムが目を覚ました時に”まだ臭い”って言われたくねぇし」

    肩口をつまみ上げ、くんくんと匂いを確かめると柔らかな花の香りに鼻腔が包まれ、思わず頰が緩む。そこに形容し難い臭さは当然なくて、「わからん」と、首を捻るスバルにベアトリスは「ふふん」と得意げに鼻を鳴らし、

    「まぁ、ベティが居れば安心かしら。その不幸ごと吹き飛ばしてやるのよ」

    「ああ、そうだな! 頼りにしまくってるぜ!」

    こみ上げる愛しさをそのまま腕に込め、ベアトリスを抱きしめてやる。温かく柔らかな感触。強大な力を持つ大精霊ではなく、そこには華奢で小さな少女の体だけがあって。口では頼りにするといいながら、同時に、自分がベアトリスを守らなければならないのだという意思を新たにする。
    「よし!」と自らを奮い立て、ベアトリスを開放すると、

    「じゃ、ちょっくらひとっ走りしてくるわ」

    「こけないように気をつけるかしら」

    「子供かよ! でも、ま、気をつける」

    どこまで本気で心配しているのかは定かでないが、悪戯っぽい笑みを浮かべて見送るベアトリスに苦笑を返した後、広大な敷地を贅沢に使用したランニングコースへ駆け出す。軽快なステップはなかなか様になったもので、スバルの努力が垣間見える。ベアトリスは、その頼りなくも頼りになる背中を自慢げに見送った後、しばらくして、ふと空を見上げる。

    眩しい日差しに思わず目がくらむ。目頭に手のひらを翳して、その隙間から目を細めると、かつての光景が脳裏をよぎった。

    焼け落ちる屋敷の一角で、四百年の嘆きが今日こそ終わるのだと確信していた。あの時、ベアトリスに差し伸べられた火傷だらけの手。その手は、母が教え、授けたものではなく、自ら選び、握り返したもの。

    「――スバル」

    瞳を閉じ、愛しい名を確かめる。
    魂よりもっと深い場所で、今も二人を固く結びつける強靭な糸を感じ、心がじんわりと暖かくなる。それと同時に、ススで頰を汚し、数多の火傷をおいながらも、この手を掴めと呼びかけるスバルの顔が鮮明に思い起こされて、ベアトリスは再びその手を掴もうと

    「もう、寂しくなったのか」

    「ひゃん!?」

    突如、思考を声が引き裂いた。
    ベアトリスは可愛らしい悲鳴をあげた後、大きな瞳をまんまるに見開いて、キョロキョロと声の主を辿る。愛しい声の持ち主は、スバルが走り去った方向とは真逆にあって

    「い、いいいいつのまに帰ったかしら!?」

    「さぁ?」

    「さ、さぁって……」

    ベアトリスが上ずった声を慌てて投げつけたのに対し、まるで他人事のようにあっけらかんと返答するスバル。それに眉をひそめ、しばらく前にスバルが走り去った方向を見やるも、既にそこに人影があるはずもなく、ただ首を捻る。
    確かにスバルは目の前にいるのだから、少しどころか微塵も現実を疑いようがない。しかし、どこかその眼差しに違和感が拭えないままでいると

    「えーっと。ベアトリス、だよな」

    スバルは飄々と、しかし、ベアトリスと言う名の舌触りを確認するような不器用さをもって呟き、ベアトリスが否定しない様を見て肯定とすると

    「うん、我ながらナイスタイミング。今回ばかりは運命様は俺の味方かな。ま、連れて来といてそっぽ向かれちゃたまんねぇんだけど、わりとそれが日常茶飯事だから疑心暗鬼にもなるって話で……」

    「なにを言ってるかわけがわからないのよ」

    顎をさすりながら一人ぶつぶつと喋る様はベアトリスの瞳にも異様に映るが、それがナツキ・スバルとなれば話は別だ。しかし、どことなく居心地の悪さを覚えて、アスレチックから腰を上げると、それに呼応する形でスバルが歩み寄る。

    「これ。大事なものだったんだろ?」

    緊張感のない緩んだ所作で、懐から何やら取り出したスバルは、それをひらりとはためかせてからベアトリスへと差し出した。「大事なもの?」とオウム返しに問い返すも、スバルはこくりと頷くだけで、ベアトリスは渋々差し出されたそれに目を落とす。

    スバルが手にしたそれは、ただの紙切れだった。
    四隅が焦げ付き、いびつに歪んだ、ゴミ屑同然のそれが、どうしてベアトリスの大事なものなのか。疑問を投げかけようと小さく唇を動かしたところで、ぞわりと、灼熱が駆け上がる。

    「――ぁ」

    あまりに鮮明な感触に、震える肩を抱く。差し出されたそれは、一瞬でベアトリスを灼熱の禁書庫に連れ戻したのだ。熱波が肌を炙り、焦げ付いた匂いが鼻腔を蹂躙する。現実ではない、ただこれは、あまりにも真新しい記憶で

    「……どう、して」

    頭を振り、自らを蹂躙する忌まわしい熱を振り払う。しかし、振り払いきれなかった震えが声に滲む。ベアトリスの心は疑問で埋め尽くされていた。どうしてそんなものを、どうして今さらになって、どうして今日、どうして――そんな風に笑うのか、と。

    けれど、そのどれもが明確な答えをもたらすものではなくて、ベアトリスは混乱の中、がむしゃらに魂の奥底へ手を伸ばす。その糸を手繰れば、何よりも明確な答えがあると分かっていた。だから――

    「裏に、何か書いてあったけど」

    糸に触れる寸前のところで、愛しい声に、その手首を掴まれる。僅かに首を傾げ、柔らかな微笑みを貼り付けたスバルそのものが、ベアトリスの揺れる瞳を覗き込む。しかしそれは、ベアトリスの唇が震える様も、瞳の中で羽ばたきを止める蝶にすら何の感情も持っていなくて

    「ほら」

    ベアトリスが何も出来ないでいる様に業を煮やしたのか、スバルはベアトリスの手を引いて、紙切れを強引に手渡した。そして、その手を掴んだまま、紙切れを裏向けようと――

    瞬間、けたたましい耳鳴りが、警鐘となって鳴り響く。
    わからない、何故なのか。一体何に警鐘を投げかけているのか。だから、ベアトリスは止められなかった。止まれなかった。されるがまま、紙切れの裏に目を落とし、そして

    「――ぁ」

    何もかもが遅すぎたのだ。気づけたはずだった、表まで染みた赤黒いそれを見た時に。拒めたはずだった、禁書庫で焼け残った福音の一頁だと理解した瞬間に。振り払えたはずだった、その手が例えスバルのものであっても。しかし、強靭な絆が、堅く誓った愛そのものが、ベアトリスの判断を鈍らせたのだ。

    「じゃあ、よく聞けよ?」

    踏み入ってはならない契約者同士の聖域に、それはさも当然といった様子で侵入し

    「ベアトリス、これは命令だ」

    愛しい契約者の面を被って、傲慢に言い放つ

    「俺に、従え」

    ベアトリスの柔らかな手首に爪を食い込ませ、血が滲むのも関係ないと、力任せに引き寄せる。代わりに、もう一方。硬く結ばれた絆が引き千切れる音を愉快とばかりに嘲笑いながら。

    「や――」

    ぷつりと、軽い音をたてて糸は途切れた。それは驚くほどあっけないものだった。四百年の孤独の末、やっと掴んだ一筋の幸福が、土足で聖域に踏み込んだ異邦人によって、いとも簡単に引き裂かれてしまうなど、誰が想像していただろう。

    スバルに――否、スバルの皮を被った悪魔に掴まれた腕がじくじくと痛むのを感じるのに、ベアトリスには振り払う気力も、意思も、自由すらない。手を引かれるまま、悪魔の懐に導かれ、力なく抱き寄せられると、やはりそこにはスバルそのものがあって心が揺れる。

    「それでいい。ベアトリスはいい子だな」

    くしゃりと頭を撫でる手のひらは、先刻の記憶と何ら違わず、ベアトリスの心に甘い毒を流し込む。例え悪魔であっても、これはスバルなのだ。自分は何か間違っているのだろうか。間違っていても構わない。スバルが自分を求めているのだから。

    思考が奪われる、過ちに蹂躙される、何が正しかったのか分からなくなる。恐怖で足がすくんで寒気がする。その肩をそっと抱き寄せる温もりがあって――ベアトリスはそれを受け入れた。


        *****


    日差しを背に浴びながら、スバルは軽快なリズムで見慣れたランニングコースをなぞる。丁度、その折り返しとなるカーブに差し掛かったところで、突如、胸の奥底にざらついた感触を覚え、速度を落とした。

    「っはぁ……はぁ……なんだ、これ、気持ちわる」

    胸の奥底を掻き毟るような経験のない心地悪さ。魔女に心臓を掴まれる苦痛とは別種のそれに、足を止め、肩で息をしながら地に膝をつく。こみ上げる胃液を吐き出そうとするも、その不快感を拭うことは叶わず

    「ちょっ……ぅぐ……これは結構マズった」

    それが徐々に大きくなる中、スバルはただの不調でないと確信を持って、意識を体の内側へと滑り込ませる。耳をふさぎたくなるほどの警鐘が轟く。魂の奥深くで結ばれた糸が張り詰め、軋み、悲鳴を上げていたのだ。それはベアトリスがスバルに呼びかるものとは違う。絆をを無理やり引き剥がそうとするような悪辣な衝動。

    「ぐぉっ……やめ、ろ!!」

    ベアトリスに何かあったに違いないと、内側の痛みを奥歯で噛み殺し、立ち上がる。瞬間――ぷつり、と軽い音を奏で、繋がりが途絶えた。

    「――ぇ」

    それまで魂を握りつぶさんとしていた不快感が嘘のように消え去った。再び意識を内側に集中させて、繋がりを手繰ろうと手を伸ばしてみるが、何ら感触はなく空を切る。ついさっきまで確かにあった強靭な繋がりは、その痕跡すら残さずに綺麗さっぱりと消え去っていたのだ。

    「は。嘘だろ。こんな……簡単に? そんなはずない。何かの間違いか、だって、そんな……嘘だ」

    何故こんな時に。スバルが呼び掛ければ、ベアトリスはすぐに駆けつけることができるのに、ベアトリスの身に異変が起こっているのを感じながら、スバルには何もできなかった。なにが起こったのかすら分からずに、形のない焦燥感に駆り立てられて、汚れた膝を払うことすらせず地を蹴る。日々鍛えたお陰で体は軽い。しかし、それでもなおスバルはただの人間だった。

    「畜生……ッくそったれが!!」

    先刻、ベアトリスを抱きしめて「守らなければ」などと考えたのは、どこの身の程知らずだっただか。全力疾走に焦燥感も相まって、呼吸があがり全身に酸素が行き渡らない。ベアトリスが待つアスレチックを視界が捉えたところで、足がもつれ、勢いをそのままに砂利道に倒れ込んだ。

    「くはっ! ……っィてぇ……」

    一分一秒、一歩でも早く辿り着かなければと分かっているのに、こんな場所で倒れ込んでいる暇はないのだと、地に腕をいて身をもたげる。「こけないように気をつけるかしら」そんな軽口が脳裏に響く。続けざま「子供かよ!」などと一蹴した自分が思い起こされて、それを振り払うように再び地を蹴った。どこまでもどこまでもどこまでも、今さらどんな努力を重ねても変えられない。ナツキ・スバルはあまりにも無力で――困った契約者だった。

    「ベア子!」

    アスレチックを前にして、スバルはベアトリスの名を叫んだ。痛烈な声は虚しくそれにぶつかるだけで、なんら応答はない。押し寄せる無力感のせいか、限界を超えて走り抜けたからなのか、鉛のように体が重く、肩で息をするだけで精一杯だ。しかし、休む暇がどこにあるのだと、拳を振り上げて膝を打ち、無理やりに呼吸を整えようと空気を肺腑の奥に押し込める。
    つい先刻までベアトリスがちょこんと腰掛けていた場所に手を掛ける。ひんやりとした感触が、失われてから経過した時間の重さを痛烈に感じさせ、焦る心に冷たいものを流し込む。

    胸に手をあて、再び奥底の繋がりに意識を傾ける。繰り返し確かめても、その手応えはなく、何故、という思いが止めどなく溢れ出す。契約者間の繋がりについて多くの知識があるわけではない。しかし、あれほど強靭だった繋がりが、こんなにあっけなく失われてしまうものなのか。ベアトリスが契約を自ら破棄するなどありえない。その程度の信頼があった。まして、ベアトリス自体が失われるなど――

    「そんな……はず」

    悲痛に顔を歪める。そんな可能性を考えることすら忌まわしいと、頭を振って思考を振り払う。何か、僅かでもいい、取っ掛かりを得なければ。

    「これは……?」

    ふと、視界の隅で揺れる存在に意識を奪われる。吹き抜けるそよ風に揺さぶられたそれは、時折赤黒いものをちらつかせ、こちらを手招きしているように思えた。アスレチックの端に結び付けられた、傷んだ布切れ。赤黒い染みは結び目を含む全体にあって

    「――」

    布を解き、それを広げる。落ち着きを取り戻しつつあった心臓が再び大きく脈打つ感覚。大きくない布だ。中央に赤黒い染みがある。それは禍々しく存在感を放ち、スバルにある意思を叩きつけた。

    『北東の森に来い!』

    文字だけ見ればあまりに馬鹿げた言い回しだった。おまけに感嘆符まで添えるとは程度が知れる。これが血文字でなかったなら、どこの果たし状だよ!と一蹴したいところ――と、ある違和感に思考が詰まる。あまりにも自然に受け入れていた。当然だ、スバルにとってそれはあたり前のことだったから

    「――にほん、ご?」

    それは紛れもなく、見間違いでもなく、ただ似ているだけでもなく。はっきりと、スバルが慣れ親しんだ言語をもって刻まれていた。

    弾かれるように顔を上げる。周囲をぐるりと見渡して、やはりそこには誰もおらず。手のひらにじっとりと汗が滲む。

    「何だって、それを――クソッ! 今は考えたってわかりっこねぇだろ! 考えるな、今はベアトリスの状況を考えて行動する事が最優先だ」

    布切れをポケットにねじ込むと、記憶の引き出しを乱雑に開け放ち、領地内の地図を広げる。北東に目を滑らせ、景色と照らし合わせてそちらを見やる。

    「あっち、か。確か手付かずの森……みたいなのがあったはず。また魔獣だらけでないことを祈るしかねぇか」

    ランニングコースと真逆の方向を睨みつけ、拳を握る。屋敷からそう距離は離れていないが、武器を取りに戻れば大きな時間のロスになるのは明白だった。大した武術も持たないスバルにとって、大きく戦力が変わるわけでもなく、むしろ会得した身のこなしの方が幾分か頼りがいがあるというもの。

    「これも含めて不幸体質だってんなら、改善の余地はあるかもな」

    身軽な装いで腑抜けていた自分に毒を吐き、目的の場所へと走り出す。来いというなら行ってやる。異世界人だろうが何だろうが、自分たちは人知を超えた存在と幾度となく対峙してきたのだ。今回だって必ず――抗うのを諦めない。

    それこそが、ナツキ・スバル、最大の武器なのだ。



    ※ ※ ※ ※ ※


    パトラッシュの散歩を兼ねた道すがら、この森を目にしたことがある。人の侵入を拒むように草木が密集し、迂闊に侵入すれば方角を見失って、簡単には抜け出せない自然の迷路。
    現屋敷からスバルの足でも三十分もかからないだろうというのに、領地が広大過ぎるためか、その気がなかっただけなのか、人の手が加わった痕跡はない。

    視界を阻む蔦のヴェールをかき分けて、地に目を落とす。これだけ荒れ果てた場所だ。ベアトリスに危害を加えた何者かがここで待つというならば、その痕跡が見つかるはず。

    「はず――なんだが、いまいちわからん」

    ボーイスカウトの経験でもあれば一目瞭然だったのかもしれないが、ある意味”箱入り”息子なスバルだ。しかし知恵はある。闇雲に探しても迷うのは目に見えていた。何か目印を残さねばと木の幹に手をあてて

    「通ったとこに印を入れ――ん、えぐられてる?」

    一筋の線だ。鋭利な何かが表皮をえぐり、その切れ目から肌色の木目が露出していた。

    「なるほど」と呟きながら、その印が示す方向へ目を移せば、同様の印がスバルを迎える。が、そちらの印は線が二重になっていて

    「なるほど、これを追ってけってか」

    焦る気持ちを押し殺しながら、冷静に、見失わないように慎重に、それが指し示す方向へと入り込む。鬼が出るか蛇が出るか。ただ一つ明らかなのは、スバルを誘い込むそれが同郷だということで、付け加えるなら、無能力に近い、ということだ。
    実際のところはわからない。しかしこの異世界において、”神”などという存在からまともな祝福が得られないことはスバル自身が証明していたし、プリシラ陣営の同郷、アルも似たようなものだ、と思われる。にしては、プリシラの騎士であることが不思議だが、それは同じく騎士であるスバルが言えたことではない。

    しかし、無能力と見せかけて、どちらも生き残る才を持つ曲者だ。無能力に近い、といってもそれが勝敗に影響するわけではないし、むしろ事態をより複雑なものにしていると言っていい。

    先を思うと心が曇るが、事が起こらなければ本領発揮といかないのがナツキ・スバルの祝福だ。雑念を捨てて印を追うことに集中する。

    一、二、三、と続いて十、十一、十二、十三、からの一、二、三と繰り返し追ううち、スバルは薄暗い森の奥深くへの導かれ、そしてその先――根本にぽっかりと大口を開けた大樹がスバルを待ち構えていた。

    その穴の周辺には、まだ新しい靴跡が残っている。はっきりとはわからないが、何者かの出入りがあったことは疑いようがない。その暗闇は、スバルが身を屈てやっと入れる程度のもので、地中深く、闇に向かって格子状の足場が続いていた。

    「滅茶苦茶怪しい。っつか領地内に何でこんなのがあるわけ。昔の遺跡とかそんな感じか」

    こんな状況でさえなければ浪漫と冒険を求める男心に火がついたかもしれないが、今は苛立ちが滲むだけだ。

    「そこにいるのか!?」

    投げかけた声が闇の奥底で反響し、こだまする。返事はない、ただの穴のようだ。このままでは埒が明かないと、足場につま先をかけて慎重に身を下ろしす。身長の三倍ほど潜った頃、つま先が地につく感触。

    徐々に暗闇に目が馴染み、周辺の壁が淡く発光している事に気づく。岩肌のように硬い土の層に混じる魔石が発光しているように見えた。心許ないが足場を確認するには十分だ。

    「ベア子……どこにいる」

    罠の可能性も捨てきれない。単なるブラフにしては誘い込む手が込んでいたが、無能力故の策謀とも考えられる。スバルは神経を張り詰めながら、壁伝いに奥へと進んだ。通路は狭く、しかし枝分かれすることなく、続いている。

    と、通路をしばらく進んだところで大きめの空間に出た。そして、壁際。小さな体を更に小さく丸めた紅一点。

    「大丈夫か!!」

    鎖が絡みついた鉄格子がスバルとベアトリスの間を阻む。格子の扉に絡みついた鎖は複雑に編まれているものの、錠はない。スバルはそれに手を掛けて

    「今出してやるからな!」

    金属音を五月蝿く奏でながら少しずつ鎖を解き、最後に格子から思い切り引き抜いて床に投げ捨てると、膝を抱え蹲ったままのベアトリスに駆け寄り、抱きしめた。冷え切った体は僅かに震えていて、スバルの胸がちくりと痛む。

    「無事だったんだな。何があった。兎に角ここから出て――」

    派手な衝撃音が耳をつんざく。頭を跳ね上げて振り返ると

    「隙あり! っと」

    軽口をたたきながら鉄の扉を閉める人影。スバルが扉に駆け寄るより一手早く鎖を一巻きすると、そこに魔石が埋め込まれた錠を掛ける。

    「てめぇ!! ふっざけんな!」

    駆け寄った勢いをそのままに格子の隙間から影への手を伸ばす。その指先が深く被られたフードに僅かに触れるも、影はひらりと身をかわして、捉えるには至らず空を切る。

    「あっぶねぇ、ちょっと焦ったわ。ま、でもなかなか上手く行ったろ」

    影は大げさな動きで胸を撫で下ろし、激しい音を立てて扉を抉じ開けようとするスバルを嘲笑う。その声と言い回しはどことなく耳馴染んだものだ。しかし、小気味いいものではなく、むしろ癪に障る気持ち悪さがあって、スバルは目を細め、フードに隠れた顔に目を凝らす。
    そんなスバルを察した影は口元を歪ませ、フードを手で肩に落とし

    「けど、我ならがどんくせぇなって呆れるよ。危機感が足りないんじゃねぇの? なぁ、ナツキ・スバル」

    「――は」

    顕になった顔を見て、時が止まる。呼吸を忘れ、乾いた声がもれた。
    フードの下。露わになった顔は、スバルと瓜二つ――否、スバルそのものだったのだ。

    「お前さぁ、あの子だけじゃなくて、そんな幼女まで手篭めにするとか、異世界ハーレム堪能しすぎだろ。風のウワサじゃ双子メイドまで囲ってるとか? どこのラノベだよ」

    まったくもって羨ましいね、とあざ笑うように付け加えてから、スバルと同じ顔をしたそれは鋭い視線を投げ返す。その瞳は仄暗く、軽口とは反対に何の感情も持っていない。
    『スバル』の眼差しに気圧されながらも、それを奥歯で噛み殺し

    「手篭めじゃねぇ……。けど、まさか幼女誘拐犯が俺と同じ顔をしてるたぁ、どこまでもふざけてやがる。この世界に飛ばされてからわけわかんねぇことの連続だけど、これは流石に、あまりに馬鹿げてて――正直ドン引きだわ」

    じっとりと、背中に冷や汗が滲むのを感じる。姿見だけ真似た偽物だと撥ねつけよう思っていた。けれど『スバル』の言葉はあまりにも本物のそれで胸焼けしそうだった。

    「あえて聞く。――お前は、誰だ」

    押し殺したはずの感情が、僅かに声を震わせる。
    その焦りが、混乱が、言い知れぬ悍ましさが、二人の間にしばしの沈黙を作った。

    「……うーん」

    沈黙を引き裂いたのは、間の抜けた唸り声。『スバル』は眉間に皺を刻みながら、腕を組み、首をひねる。そして、ひとしきり唸った後で、ぱっと顔を上げ。

    「――」

    細められた黒瞳がスバルを射抜く。色が無く、濁りきった輝きだけが宿っていて、スバルを見ているようで見ていない。もっと遠くにある別のナニモノかだけを一点に捉えたまま

    「俺は――魔女教大罪司教『傲慢』担当、ナツキ・スバルだ」

    何を、言ったのか。言葉の後、場を静寂が支配する。

    こいつは今、『傲慢』と言っただろうか。確かに『傲慢』にはまだ出くわしていない。鏡写しの姿になれる、これが奴の”権能”なのか? 違う、そういうことじゃないだろう。そんなに上手く、ナツキ・スバルになれるはずがない。

    だとしたら、こいつは――?

    「傲慢……だと……」

    スバルの声に『スバル』は笑みをより深く刻み肯定とすると、開手を打って区切りとする。そして、飄々とした態度で壁にもたれかかると、羽織ったローブの内側から一冊の本を取り出してみせた。

    「まぁ言いたいこともわかる。だから、少し話をしよう。それくらいの時間はお互いにあるはずだろ?」

    真っ黒な装丁。手のひらに収まるほどの小さな経典。魔女教徒が例外なく、たいそう大事に抱えている福音書そのものを手に、『スバル』はそれを開いてページを捲る。

    時間、という言葉にとっかかりを覚えながら、スバルは背後で膝を抱えたままのベアトリスに意識を傾けるが、スバルに現状を打開する術はなく、しかも相手が”本当”に『スバル』なのであれば分が悪い。そんなスバルを気にかけることすらせずに『スバル』は語り始めた。


    ――ある、男が居た。なんとも哀れな男が。
    華々しい青春の一頁目に、自ら泥を塗りつけて、一般社会に馴染めなかった人格破綻者。

    お先真っ暗な男に訪れた、突然の転機。
    そう、『異世界召喚』だ。

    嗚呼、お父さん、お母さん、お元気でしょうか。親不孝をお許し下さい。男にはどうしようもない不可抗力だったのです。

    そうやって、突如始まった異世界生活だったが、男にはチート的能力も、悪を滅ぼすエクスカリバーも与えられず、開幕早々チンピラに絡まれる始末。ピンチになった今こそ、本領発揮と意気込んだ矢先、無慈悲な暴力が男を打ち砕いた。

    しかし、全てを諦めた男に差し込む一筋の光。
    それは世界を照らす銀色の輝きで、男をピンチから救い出したのだ。

    その超絶どストライクな銀髪ハーフエルフと出会い、男の異世界生活は順風満帆――に思えたのだが、あっけなく、あまりにも簡単に、男の世界は閉ざされた。


    パタン、と軽い音を立てて福音が閉じられる。同時に軽快な語り部が止み、

    「俺の傍に居ると、あの子は不幸になる。わかるだろ……」

    か細い、小さな声だ。『スバル』の悲痛な胸の内が、スバルにだけは痛いほど理解できた。その心を蝕む闇の大きさも、その深ささえも。
    ナツキ・スバルだけが知り得る失われた世界を知る男。現実を突きつけられて尚、スバルはそれを呑み込みきれないでいた。

    「俺が側で何かする度に、あの子が死ぬのを何度も見た。そして、最後に突きつけられた現実は圧倒的な『力』の差。何度繰り返したって力がなければ救えない」

    圧倒的な力――剣聖の助力によって、スバルも死のループから解き放たれた。しかし、運命を切り開いたのは剣聖の力だけではない。エミリアとパックに指示を飛ばし、自分を犠牲にしてまでフェルトを逃がそうとした抗いの末、助力を得ることができたのだ。
    しかし、『スバル』は違う。非力を嘆き、力に焦がれ。そして――

    「だから俺は、『道具』を上手く使うことにした。『あの子の願い』を叶えるために」

    「道具……?」

    「『腸狩り』に『魔獣使い』。王都最高峰の治癒術師とかいう『青』に『死の商人』。使えるものはなんだって使った」

    いよいよもう限界だと白旗を上げたい気分だった。それ程強烈な嫌悪感。さも当然と言った様子で語る『スバル』に手が届くなら、その頰を全力で殴りつけたことだろう。

    「それで、道具として魔女教まで利用したってのか」

    「そゆこと。他に行くあてもなかったし、福利厚生が良いなら悪くないだろ。あ、でも勘違いすんなよ! ペテさんにはそこそこ世話になったが試練とか言ってあの子を殺そうとするから、ちゃんと始末しておいた。それに、他の大罪司教もそうだ。それ以外にも、あの子の敵陣営を引き摺り下ろすために最優を殺したりして。そうそう、折角青を拾ったのに目を離したらすぐ自殺するから滅茶苦茶苦労させ――」

    「――は。今、なんて」

    「んあ? いや、だから最優を殺したり、拾った青に苦労させられたりしたって話。あー……、お前は仲良しゴッコしてんだっけか」

    「――」

    目眩がした。ほんの少しの掛け違いで、自分がこんな悪辣なものになってしまっていたという現実に。込み上げる苛立ちは目の前の自分にだけではなく、スバル自身に対するものでもあった。
    鉄格子を握りしめ、もたれかかるように項垂れる。『スバル』は魔女教を利用するために『傲慢』の座に自ら座ったと雄弁に語ったが、その『傲慢』さこそ、まさにその座が求めていたもので――

    「ロズワールが求めてたのは、こういう俺だったのか? 全てを犠牲にしてエミリアを王にする悪魔。いや――それよりもっと最悪だろ」

    「辺境伯の思惑なんざ興味ねぇけど、エミリアが王になるってことは、あの子の願いが叶うってことだ。最悪どころか最高のエンデ――」

    「間違ってる」

    顔を上げ、毅然とした眼差しで『スバル』の言葉を打ち消した。その理性的な声に怯んだのか、軽快な語り部は止み、無音となる。そして、強く握られた扉が僅かに揺れてぎしりと軋み

    「いい加減にしろ。何が願いを叶えるだ。お前はエミリアの何もわかってない! 誰かを犠牲にして王になって、それであの子が喜ぶわけがねぇ! お前はエミリアに、お前の願望を無理矢理に押し付けて――泣かせるんだ」

    「――それでも、俺は、間違ってない」

    「いんや、間違ってる。お前は自分の過ちを認めたくないだけだ。俺を否定しなきゃ立っていられない。そりゃそうだよな。散々ぱらヤラカシて、殺さなくていいやつまで手にかけて、お前が俺なら多少は良心が痛んだろ」

    「――」

    「それで、今度は何をヤラカしに来た。エミリアの傍に居る俺が憎くて殺しに来たか。それとも自分の方がエミリアを王に出来ると自惚れたのか? 何だっていいけどよ、これだけははっきり言っといてやる」

    『スバル』を睨みつけ、自らの胸に片手を添える。誓いを立てるように。自分という存在が揺らがぬよう、脈打つ鼓動を確かめながら

    「お前が俺を認めたくないように、俺もお前を認めない! お前の存在そのものが過ちだ」

    言い切る。そして、

    「ぷ、ははっ――傑作だなこりゃ」

    『スバル』は嗤っていた。仲間の馬鹿げた話を聞いた後のようにしゃあしゃあと。そして、鉄格子越しのスバルを指差し、

    「いいか、ナツキ・スバル。お前は今、滅茶苦茶不利な状況だと言っていい。そこの大精霊を頼りにしてんなら諦めろ。そいつは今俺の手の内にある。んでもって、お前最大の武器も意味がない」

    「なに」

    「わかってると思うが、その大精霊とお前の契約は破棄させた。福音書ってこんな使い方もあるって知ってた? 言うて、俺も受け売りなんだが」

    『スバル』は福音書の間から、四隅が焼け付いた一枚の紙切れを持ち上げ、はらりと揺らす。

    「まさか――ベア子の福音」

    「大正解! そして、ここにチョチョイのチョイっと落書きしてやると、アラ不思議」

    スバルに向けて、くるりと紙切れが裏返される。そこには殴り書きのイ文字が赤く滲んでいて

    「『既存の契約を破棄し、新たに傲慢と契約せよ』とか、それっぽいことを書くだけで、そいつは俺の『道具』になる」

    ――無茶苦茶だ。確かに福音は未来を記す経典だと聞く。
    しかし、それはあくまで”道標”ではなかったのか。原理は不明だが、持ち主の心まで縛り付けるものなのだとしたら――そして、他者がそこに”未来”を刻めるというならば。

    「ふざけてる。人の心を捻じ曲げて、その上『道具』だ? お前はそれで平気なのかよ。何も感じないのかよ! 何でそうなっちまうんだよ。おかしいだろ……」

    「そりゃあ、その必要がなければやらねぇよ。でも目的のために手段を選り好みしてらんないだろ?」

    烈火の如く怒りを吐き出すスバルが理解できないといった様子で首を傾げた後、『スバル』は焼け焦げた紙切れを福音の間に戻してローブの中に仕舞い込む。そして、ひょいと指を一本立て

    「で、後もう一つの方なんだけど、こいつは結構重要な話だ」

    言いながら『スバル』は、もう片手でも指を一本立てて示し、左の指を数回曲げて「こっちが俺」、また逆を数回曲げて「こっちがお前」と付け加えると

    「いいか、俺もお前も元は同一の存在だ。同じ力を持ってる。そんな二人が、同じ盤上に存在して、仮にお前が死んだとする」

    右の指を下ろして見せつつ、

    「その時、盤上はどうなると思う? そう、俺が残ってる。盤自体が消滅する可能性もあるっちゃあるが、それはそれ。試してはいない。だからこれはあくまで、俺独自の推論だ」

    残された左の指を上唇にあてがって、くすくすと笑う『スバル』には余裕が見える。それもそのはずだ。最大の武器に頼れないスバルが状況を打開する術は無いに等しく、加えてベアトリスの力を借りることが出来ないとなると――

    「試してみたいなら力を貸すぜ?」

    『スバル』はローブをひらりとはためかせ、腰に携えた短刀を見せる。
    一昔前のスバルなら、状況に変化をもたらそうと、誘いに乗った可能性も捨てきれない。が、今は

    「――断る。俺は、生きれるだけ生き抜いて、どんな醜態を晒したって、足掻くことにしたんだ。だから、自ら死を選んだりしない」

    「何だそれ、アホかよ。システムは上手く利用してなんぼだろ? ま、死ぬのが嫌なのは俺も同感だけど……」

    誘いに乗らぬスバルに、つまらないといった様子で肩をすくめてみせると、『スバル』は短刀の柄に手を掛けてこちらを見やり

    「折角俺が介錯してやろうってのにツレねぇなぁ」

    柄を持ち上げ、僅かに銀色の刀身を露わにすると「自分殺しってめっちゃ背徳的」と、相変わらずの軽口をたたく。
    身の危険を感じ、鉄格子から身を遠ざけるも、『スバル』は「ジョークだよ、ジョーク!」と軽くあしらい短刀を鞘に戻す。

    「殺したいのは山々だが、そこの大精霊サマとの契約でね。『俺は、ナツキ・スバルを殺さない』そして『ベアトリスも双方のナツキ・スバルに加担しない』。オーケー?」

    それがベアトリスからの提案だったのか、はたまた『スバル』からの提案なのかは分からない。しかし、それによって”時間”の猶予が与えられたのは事実だ。スバルが死ねないというのなら、それは相手にとっても同じこと。余裕はない、しかし互いが生きている間、盤上は膠着状態に――

    「俺はお前を殺したい。けど、大精霊の手前それは無理。が、いずれ酸欠で死んじゃうとか、餓死しちゃうとか、そういうのは仕方ないよなぁ。今すぐに、必ず死ぬかって言うとそうでもないし、もしかしたら誰かが助けにくるかもしれないし、何らかの方法で奇跡の脱出劇を見せてくれるかもしれない。つまり、契約を反故にしたとは言えないだろ」

    「ッ……そういうのアリかよ」

    「ありありだ。じゃ、そろそろお喋りも飽きてきたんで、俺、行くわ」

    言い終わるより早く、それは身を翻しフードを深く被り直して

    「ちょ、おい! 待て! どうする気だ!」

    「待たねぇよ。じゃあ、さっさと死ねよ」

    その背中に、鉄格子から精一杯手を伸ばし、掴めるはずのない場所にあるそれを手繰ろうと力を込める。しかし、それはなんの手応えもなく暗闇を掴むだけ。
    代わりにと扉に手を掛け、力任せに前後に揺さぶってみるも、鎖が耳障りな音を奏でるばかりで何ら変化ももたらさない。鎖を結ぶ錠に込められた何らかの魔法の影響なのか、鎖は青白く輝き、封印をより強固なものにしているように感じられた。


        *****


    スバルが錠と戯れるのを尻目に、『スバル』は地上へと這い上がる。
    伸びをして新鮮な空気を肺腑の奥まで染み込ませた後、背後の大樹へ向き直り、その表皮を縦にひと撫で。すると、瞬きの間に大口は消え去って、そこにはただ、悠然とそびえる大樹だけが残された。

    「異世界不思議パワーって凄まじいな。秘密基地どころの騒ぎじゃねぇ」

    そのスケールの大きさに関心しきりの『スバル』の背に、何ら前触れもなく複数の影が人形を作る。それを慣れた様子で振り返り

    「秘密基地作成ご苦労さん。お陰で助かった。なんかよくわかんねぇ仕組みだったけど、説明不要。じゃ、監視の方、引き続きヨロシク!」

    影――否、勤勉な魔女教徒諸君に軽く手を上げ激励すると、それは恭しく頭を垂れて、再び人形を失い、地に崩れ、消失する。一番説明して欲しいのはその謎めいた力の方、と言いたいところだったが

    「――ぁ。辺境伯邸まで担いでいってもらえば良かったな」

    冗談なのか本気なのか、曖昧な呟きをもらしたあと、『スバル』は”スバル”としての一歩を踏み出す。その軽快なステップは心躍る躍動でありながら、踏み込むたび、スバルの頬を固くした。

    あの子に会ったら、まずなんて言えばいいんだろう。
    あの子に『エミリア』なんて、気安く呼びかけていいんだろうか。
    高鳴る胸を隠し、平静を装うことが出来るだろうか。
    あの子が使役する大精霊に、心を見抜かれてしまわないだろうか。
    あの子は、俺の名を呼んでくれるだろうか。
    あの子に、――――
    あの子が、――――
    あの子は、――――





    「っと……」

    あらゆる可能性を脳裏に描いては消し、描いては顔を赤くしていたスバルは、文字通り「あっ」という間に辺境伯邸の前に立っていた。

    ふと見上げた空は朱色に染まり、赤黒い雲が波のような筋を作る。それを黒瞳に映し、愛おしげに目を細めたところで、自分を呼ぶ音色に気づく。昏く長い影が指し示す先、しなやかな手が左右に揺らされていた。つられて波打つ銀髪が夕日をうけてキラキラと輝いて

    「――――」

    赤らむ顔は夕日を受けたものだったのか、高鳴る鼓動がそうさせたのか。
    それは、『スバル』にしかわからない。



    ※ ※ ※ ※ ※


    「もう! すごーく探したんだから」

    スバルの眼前に人差し指を突き出して、銀髪の乙女がぴしゃりと言い放つ。
    ほんのり桃色づいた唇は口角を下げているが、その吸い込まれそうな紫紺の瞳には、激情とは程遠い、子を叱りつける母のような愛情が宿っていて

    「……よかった」

    そう言って、目尻を下げると長い睫毛に縁取られた紫紺が揺れる。それはひどく安心しきった様子で、スバルの胸に鈍い痛みが染み出した。

    「ペトラと一緒にずっと探してたのよ。昼食にも来てないって言うから、私もすごーく慌てて。また――何かあったんじゃないかって、心配で仕方なくて……」

    銀鈴の音色がスバルの耳を優しく撫ぜる。その心地良い音色に聞き入っていると

    「――スバル」

    親しげな声色がスバルに呼びかける。
    彼女の何気ない一声が、スバルにとっては夢にまで見たそれで

    「どうか、した?」

    押し黙るスバルを見て、不安の色が濃くなるのが分かった。
    返す言葉は持っている。ここに至るまでに丁寧に復唱した。けれど――

    そよ風にさらわれた髪をなでつける、彼女の何気ない仕草さえ神々しくて、考えていた言葉の数々が真っさらになってしまう。
    しかし、それでも何か。彼女に答えなければと気ばかりが焦ってしまい

    「あ、あの――ごめん。そう、だね。心配させてごめん……」

    不器用に絞り出した声は、とても小さくて、あまりにも頼りないものだった。いつもの詭弁は一体どこへ引っ込んでしまったというのか。肝心なときほど役に立たない有り様は、それこそ自分を体現しているようで――

    どうか、彼女の顔がこれ以上曇らないようにと願いを込めて「――ごめん」と、自らの醜態を重ねて詫びた。

    「何か、あった? スバルはいっつも、一人で抱え込んじゃうんだから」

    何か言い淀んでいるように写ったのか、彼女は寂しげに眉をひそめる。しかし、次の瞬間には「困った騎士様ね」と添えて、小さく笑う。

    「あ、ああ。ちょっと、今日は体調が優れなくて。ベアトリスに介抱してもらったり」

    「最近ずっと無理してたんだから当然ね。ベアトリスにまで迷惑かけるなんて、もっと駄目なんだから」

    ベアトリスのことを、ナツキ・スバルは何と呼んでいただろう。ベア子、と言ったか。やっぱり、ベティだっただろうか。
    そのどちらも声にする勇気が出ないまま、彼女に合わせて言葉を紡ぐ。

    ナツキ・スバルは、彼女とどんな風に話すのだろう。
    こんな喋り方で本当によかったんだろうか。
    昔、自分が彼女と言葉を交わした時は一体どんな風に接したか。

    忘れてしまったわけではない。
    ただスバルの中で、彼女があまりにも尊い存在になっていたから――

    「それで、ベアトリスはどうしたの?」
    「ん。心配ないよ。ちゃんと繋がってるから」

    問うに落ちず語るに落ちると、間をおかずに返答する。そして、これ以上この話題を続けまいと、彼女に手を差し出して

    「エミリア、行こう」

    白くきめ細やかな指先がスバルの手のひらに合わると、同時に大きな胸の高鳴りを感じて、もう片手で思わず胸を押さえつける。今はまだ、自分がナツキ・スバルであって、そうでないことを知られなくなかったし、この素直過ぎる反応を見られたくなかった。

    「――ええ」

    ほんの少し、何か言いたげな沈黙があった。けれど、エミリアは微笑み一つでそれを濁す。
    それが、ナツキ・スバルへの全幅の信頼からくるものだということは明白だった。当然、自分の身には余るもので。

    これが、スバルの”本当”であったなら――どれだけ幸福な日々だっただろう。
    ナツキ・スバルの日常を知るごとに、スバルは自分という存在が、とてもちっぽけに思えた。

    エミリアに手を引かれ、荘厳な屋敷の中に招かれる。真新しい光沢を持つ贅沢な内装。まさに順風満帆な異世界生活だっただろう。闇に紛れ暗躍し、その手を血で汚す日々だったスバルには、それはあまりに眩しいものだった。
    実際、スバルが考えているほどに、ナツキ・スバルの異世界生活は順調ではなかったし、多くの難題を抱え、似た苦しみを持っていた。別の手段を選んだだけで、二人に歴然とした差はなかったのかもしれない。

    しかし、スバルの瞳に映ったナツキ・スバルはエミリアの『英雄』そのもので――

    顔に暗い影が落ちる。前を向いていられなかった。このセカイの現実が、スバルにとっては毒そのものだから。ナツキ・スバルを壊そうとしていたはずなのに、傷だらけになっていくのは自分の方などと、滑稽にも程がある。

    スバルが暗がりに心を浸していると、先導するエミリアの足が止まった。
    半歩遅れてそれに習い、顔を上げると、銀色の装飾に縁取られた扉があって

    「今日はゆっくり休んで」

    「ああ」

    スバルの体をいたわるエミリアにうなづいて、

    「明日は私と、お話しましょう」

    「……そう、だね」

    たどたどしく肯定すると、繋がれた手にエミリアのもう一方の手が重なって、スバルの手を包み込む。ほんの少し前までならば、顔を赤くし、心を絆されていただろう。しかし――

    「……また、明日」

    スバルは決別の言葉を紡ぐと、包み込まれたばかりの手を引き抜いて、紫紺から逃げるように顔を背けると、部屋の扉を押し開く。背後で寂しげに佇むエミリアの気配を感じながら、その思いを断ち切るように、間をおかず扉を閉じた。

    薄暗い部屋の中。扉にもたれかかったまま動けないでいるスバルと同じように、エミリアもしばらくその場に立ち尽くしていたが、か細い声で「おやすみなさい」と呟いた後、足音が遠ざかり静寂が戻る。

    夕日が落ちて、窓辺から薄明かりが差し込む。扉に背を滑らせて、その場に腰を落とすと、膝を抱え、そこに額を寝かせる。未だ手のひらに残る柔らかな手の感触。それを横目に見て息をつく。

    「俺は、ナツキ・スバルじゃない。そんなことくらい、わかってる」

    誰に語りかけるわけでもない。けれど、声に出さずにいられなかった。自分自身に、はっきりと言い聞かせる必要があったから。

    「あいつと違って俺は、君に触れることなんて許されない。汚れてるんだ。拭っても拭っても、拭いきれないほど汚れてて」

    拳を固く握る。爪が手のひらに食い込んでじんわりと痛んだ。この痛みが、自分という存在を確実なものにする気がしたから、力を更に強くする。

    「――あいつを殺して、すげ代わったところで意味がない。俺とあいつは同じなのに、全く違う。こんな生き方、俺は知らないんだ……」

    小さく、肩が震える。握りしめた拳から赤い筋が流れて、冷え切った床にぽつりと落ちた。

    「けど俺は、俺の手で、君を王にすることを諦めない。それを失ったら俺は――空っぽだ……」

    スバルは自身のそれを、あまりにも虚しい嘆きだと思った。それしか出来ない。それしか知らない。だから――

    「俺は、君のために。
     君を泣かせてしまっても。
     必ず君を、王にするよ」

    ひどく純粋な誓い。そこには、邪な思いも、詭弁も、微塵の悪辣さすら存在しない。
    ただその誓いが、あまりにも純粋すぎが故に、スバルは過ちを繰り返す。
    誓いのために、それ以外の何者も目に留めず。その歩みを阻害する全てを殺し、侵し、蹂躙して、踏みにじる。

    夜闇が、凛とした静寂が、男の体を抱きとめる。そして、今にも泣き出してしまいそうなそれを撫ぜ、優しいまどろみの中に連れ去ってゆく。


    今はただ、束の間の休息を――――。


        *****


    コンコンと木を打つ音がして、スバルは現へ押し戻された。
    薄目を開ければ、固い床がすぐそこにあって、窓辺から差し込んだ陽光が荘厳な室内を照らし出しているのが見えた。

    「――ぁ、さ?」

    ぼんやりとした頭を覚醒に導こうと上体を起こしてみると、銀の装飾に縁取られた扉がスバルの背を抱きとめる。どうやら、思案を巡らせながらそのまま寝入ってしまったらしい。
    固い床に押し付けられていたせいか、体のあちこちが痛んだが、いかに豪華絢爛な部屋であろうと、ナツキ・スバルの寝台で眠るよりかは何倍もましだった。

    一言、ナツキ・スバルへの悪態でもついてやろうと、乾いた口を開けたその瞬間、背後から今一度扉を打つ軽い音が響いて

    「――んぁ、何か?」

    扉越し、姿の見えない音の主へ腑抜けた声を投げかける。窓枠の影の伸び具合から察するに、正午過ぎといったところだろうか。体調不良と訴えていたスバルをこの時間までそっとしておいてくれたなら、なかなか心にくい演出だ。音の主はエミリアだろうと脳裏に描き、立ち上がると

    「スバル、体調はどう? お腹、減ってない?」

    そこに昨晩の重苦しい空気は既になく、スバルの体調を気遣う心地よい銀鈴の音色が返ってきた。若干の引け目を感じながら、扉を僅かにあけて外を覗くと、中を窺おうとするエミリアの紫紺とかちあって、弾かれたように顔を離す。
    それに呼応する形で、エミリアが扉を押して

    「髪も乱れてるし、服も昨日のままじゃない。それに、やっぱりベアトリスは一緒じゃないの?」

    肩幅程の隙間からスバルの部屋をくるりと見渡すと、スバルの装いに苦言を呈したついでに、痛いところをついてくる。昨晩と変わらぬ黒ずくめの装いを軽くはたき、その手で額に垂れた前髪をなでつけて

    「ああ、だいぶ疲れてたみたいで、みっともないところを。えと、ベアトリスには頼み事をしてあって――またあとで話すよ。それから、食欲ないから、飯はいいかな」

    あとで、という言葉に眉を潜めながら「また危ないことしてないといいけど」と、スバルに届くか届かないかといった声で苦言を呈する。しかし、それを瞬きの間に微笑みへと変えて

    「スバル。今日は私と『でぃと』しましょう」

    「でぃ……と、ってと?」

    日常から程遠い場所にあったスバルは、エミリアの提案に首を捻る。しかし、一拍遅れで『でぃと』なる単語の意味するところに気がついて、顔を赤くしながら遠慮がちに首をすくめ

    「そ、それは……着替えないとだけど……」

    「言っても、ただのお散歩だけどね」

    エミリアは、桃色の唇にぺろりと舌先を覗かせて悪戯っぽく笑った後、「ここで待ってる」と添えて扉を閉める。『でぃと』等と馬鹿げた話だ。これから君を泣かせてしまうというのに、何ともお気楽じゃないか。しかし、話をするには都合がいいと、着替えを探して視線で部屋を一周。それらしい家具の引き出しを引いてみると、流石はナツキ・スバルといった黒い装いが丁寧にしまい込まれていた。「ちょっと拝借」と一言断ってから古着を脱ぎ捨てて、それに袖を通す。
    装いに大きな変化はない。汚れていた箇所が綺麗になったというぐらいで、辿る道が違っても、基本的なところがブレないのは、さすが同一の存在といったところか。
    そんな、よくよく考えれば当たり前のようなことを思いつつ、鏡を見て髪に手櫛を通す。

    こちらを見つめる瞳は、昨日見たばかりのそれと同じで、一瞬緊張で体が強張る。魔女教徒からの報告はない。まだ息があるのだろう。秘密基地にはそれなりの広さがあったし、空腹に飢えることはあっても一日二日で低酸素云々という所まではいかないだろう。

    鏡越しのそれをナツキ・スバルに見たてて、睨みつけると、

    「安心しろ。『でぃと』なんてお遊びに付き合う気はさらさら無い。ここは俺には居心地が悪すぎる。さっさとおさらばして、俺なりのやり方を見せてやるよ」

    言い終えたところで、エミリアが待つ扉に向き直り、軽く咳払いしてから、ポケットに手のひらサイズ程の本の感触があることを確認し、ドアノブに手を掛けてエミリアが待つ廊下に顔を出す。

    「あ。スバル、準備はできた? じゃあ、いきましょう」

    昨夜とは逆にエミリアから、しなやかな手が差し出される。
    仲良く手を繋ぐつもりはさらさら無かったが、それに従う以外の選択肢なく、おずおずと手を出すとエミリアが軽く握り返して、

    「このお屋敷に越してきて暫く経ったでしょう。フレデリカとペトラが中庭を手入れしてくれてたんだけど、温かくなってきたから、お花が咲き始めたの」

    嬉しそうに中庭の様相を語るエミリアの横顔は端正に整っていて、雪のように白く、透き通った頬に咲く桃色が、その美貌をさらに完全なものにしていた。それを見て、つい顔を赤くしてしまうが、自分がすべきことを脳裏に描きなおして、浮き立つ心を押さえつける。

    中庭は、屋敷中央の階段を下りた先で、様々な色を咲かせながらスバルとエミリアを歓迎した。ガラス張りになったエントランスに映えるその景色は、女性的なしなやかさがあって、とても可憐なものだったが、エミリアの美貌の前ではどれも引けを取ってしまうから罪深い。そして、エントランスホールのガラス扉を抜けて中庭へ出ると、芳しい花の香りが二人を包み込んだ。
    『ただのお散歩』と言うには贅沢過ぎる庭園だったが、スバルはその花々のことよりも、エミリアにいつ話を切り出せばいいのか、と、頃合いをつかめずにいた。



    「ねぇ、スバル」

    ひとしきり花の説明を終えた後、エミリアがふとスバルに呼びかけて、

    「今、こうやってしていられるのは、スバルのお陰」

    銀鈴の音色を奏でながら、エミリアが優しくこちらに微笑みかける。しかし、スバルの心では、それを打ち消す、全く別の感情が沸き起こっていて、

    ――それは、俺じゃない

    エミリアが微笑みかけているのも、この手握ってくれるのも、全てはナツキ・スバルの功績だ。それを踏みつけて捻り上げ、蹂躙している存在こそ、エミリアの目の前にいる悪辣なものなのに。

    「王様になるなんて、本当は無理だって思ってた」

    ――君は、王になれる。俺が必ずそうしてあげるから

    どんな犠牲を払っても、エミリアがその時、笑顔をなくしていても、そのたった一つの願いを、必ず叶えると誓いをより固くする。

    「でも今は違う。スバルと一緒なら本当になれるって思えるの」

    ――俺は、君と一緒にいられない。けれど必ず王にする

    一緒にいれば、エミリアが不幸になると確信していた。『力』がないスバルに出来ることはたった一つ。エミリアの窮地に駆けつけて、人知れずそれを打ち砕くこと。

    「いつも、助けられてばかり。
     だけど――
     私も、スバルの力になりたいの」

    ――ありがとう、エミリア


    君の心根は、最初から何も変わっちゃいない。
    その美しく尊い在り方こそ、スバルの魂を魅了して離さない。『ナツキ・スバル』という存在の根源は、いつもそれなのだから。


    「だから、聞かせて?」

    二人の間に、沈黙が生まれる。
    しかし、心の準備はとうに出来ていた。だからこそ、何度も立ち上がって、君だけ見て、それだけの為に、魂を削り落とせたのだから。

    けれど、それでも、悲しむ顔を見るのは辛くて。どうしようもなく、胸が掻き毟られる。

    沈黙を守るスバルに、やっぱり何も教えてもらえないのかと、紫紺を縁取る長い睫毛が伏せられる直前、スバルによって長い沈黙が破られた。

    「俺は――」

    エミリアの真剣な眼差しが、スバルを捉え、言葉を待っている。

    「――」

    それがあまりに真髄なものだったから、言葉を絞り出すのに時間がかかってしまって

    「俺は、君の隣にいられない」

    「どう、して――?」

    理解してあげたいけど、理解してあげれない。
    きっと、自分に何か足りていないからだと捉えて、けしてスバルを責めない、優しい憂いの色がある。

    「俺がいると、君は王になれない」

    「どうして、突然、そんなことを言うの?」

    「それは――」

    躊躇いはない、しかし次の瞬間、エミリアがどんな顔をするのか畏れていた。
    だから、ほんの少し間を置いて、息を呑み。
    ポケットから黒い装丁の教典を取り出して胸の前に掲げて見せると、

    「俺が、『傲慢』だから」

    「――――ぇ」

    中庭を吹き込んだ一陣の風が、落ちた花弁を巻き上げたあと、エミリアの美しい銀髪を撫でて去る。
    そして、そこからしばしの間をあけて、スバルはゆっくりと声にする。

    「俺は、君を王にしたい。
     だから、一緒にいることはできない。
     銀髪のハーフエルフと『魔女教』が一緒にいるなんて、そんなのは民衆がみとめない。まして、王の傍なんて以ての外だ」

    紫紺の瞳が揺れている、彼女の心を映すように。胸の前で細い手をきつく握り、その慟哭を押し込めようとしているように見えた。

    「必ず、君を王にする。
     君の願いを叶えてみせる。
     そして――――いつか、俺を殺してくれ」

    「――――」

    それはあまりにも苛虐な願い。
    しかしスバルは、その穏やかな終わりを渇望していた。

    常軌を逸した酔狂な微笑みは、ただただ愛しい銀髪の乙女に注がれている。
    本来なら甘酸っぱい思い出になるはずだったひと時は、今や、狂人によって穢され、踏みつけられていた。

    そして、スバルは福音をしまい、その場を立ち去ろうと――

    「それが――届いたからなの?」

    銀鈴が凛とした音色を奏で、『傲慢』の舞台を引き裂いた。
    俯いてなどいない。嘆いてなどいない。
    その毅然とも言える立ち姿は、狂酔したスバルを簡単に吹き消して

    「それが、届いたから、スバルはそんなことを言うの?」

    「――それは……」

    足元が崩れてしまいそうだった。
    難しい問いかけだったからではない。
    ただ、詭弁をまくし立てても、全て跳ね除けられてしまうのではないかと思える強さがあったから

    「そう、なのね?」

    気圧され、思わず後退する。まるで絶壁を背に、追い詰められた鼠のように。

    そして――

    つかつかとスバルの目前に迫ると、その手から福音を奪い去って、

    「ぇあ――」

    予想だにしない出来事に、スバルは微塵も抵抗できず、素っ頓狂な声をあげただけで

    「こんなもの」

    言いながら、福音を投げ捨てて

    「壊しちゃえばいいのよ」

    瞬間、虚空から氷の刃が生み出され、鋭い斬撃が宙を舞う福音に襲いかかり、幾重にも切り裂かれ

    「ゃめ――っ」

    はらはらと舞い落ちた。

    「――そんな」

    計画の一端を、いとも簡単に、修復不可能なほどの紙吹雪に変えられて――スバルはそれが風にさらわれていく様を眺めるしかなかった。

    福音を残骸を見て、呆然と立ち尽くすスバルの前で、エミリアは自らの腰に手を当てて、もう一方でスバルを指差し

    「スバルはスバルじゃない。与えられたからって、従う必要なんかないのよ」

    一点の曇りもない顔で、ぴしゃりと言い放つ。

    「も、もし、福音を破壊したら俺まで死ぬって設定だったらどうすんの! 力技すぎない? 君ってそういうタイプなの?」

    「でも、スバルは生きてるから問題ないでしょう?」

    「えぇ……」

    まさかの展開に目を白黒させるスバルであったが、福音書が破壊されたからといって、何ら計画に支障をきたすわけではない。
    計画の一端ではあったが、そもそもスバルの福音は『魔女教の福音書』を真似て作ったまがい物。
    故にスバルを『傲慢』たらしめる何かが変化するわけではなかったし、間に挟まっていた『ベアトリスの福音の一部』に関しても同じこと。それが破壊されたからといって効力がなくなる代物ではない――はずだ。

    「……残念だけど福音書を壊したって、俺が『傲慢』だってのはかわらない。だから――」

    「スバルには、『私の騎士様』って役目があるでしょ?」

    「――やく、め?」

    「ん。スバルはもう『私の騎士様』なんだから、それ以外になることなんてできないの」

    「――――」

    エミリアの高潔すぎる考えに、とうとう完全なまでに言葉を失ってしまった。
    ナツキ・スバルに与えられた役目を果たせと奮い立たせるその紫紺は、未完ながらも確たる王の器が形成されていることを感じさせる。

    しかし、エミリアは知らない。
    目前のスバルは『騎士』ではなく、ただの『傲慢』であることを。

    ――ただの『傲慢』?

    引っかかりを覚えて復唱する。

    銀髪の乙女と、その『騎士』スバル。
    そしてその前に現れた『傲慢』。


    ――あぁ、そっか
    俺は、『銀髪の乙女』とその『騎士』に、『殺される役』なんだ


    瞬間、胸がちくりと痛んだ。
    けれど、自分の中にすんなりと馴染んでいくような気がして


    ――このセカイのエミリアが王になるための礎になれるなら、俺は、全てを君のために捧げるよ


    「わかった、エミリア。
     俺は、俺の役目を果たす」

    決意に満ちた瞳は、どこか空虚だ。そして、間をおかずに続けて

    「俺は、君の『騎士』じゃない。
     君のナツキ・スバルはここにいない。
     だから俺はただの『傲慢』なんだ」

    瞬間、エミリアは理解できないといった風に表情を曇らせるが、

    「――君の『騎士』を返す」

    この言葉だけで、エミリアに全てを伝えることはできないとわかっていた。噛み砕いて説明するのも『死に戻り』を知らない人間には理解しがたいのは明白。故に、スバルは自分の影に視線を落とし、そして

    「――聞いてるか? とりあえず、ナツキ・スバルと大精霊を出しておけ。地上に放り出してエミリアに会える程度には適当に介抱しといてくれる?」

    すると、スバルの影に波紋が生まれ、そして静まる。
    そして、今一度エミリアに向き直り、

    「じゃあ、行こう。
     君の『騎士』様が待ってる」

    手を差し出したりはしない。
    それは本来、俺のものではなかったから。
    エミリアに森まで行くと話をして、パトラッシュという名の地竜を借りると、二人でその背に乗って森を目指した。

    途中、エミリアが「パトラッシュにもわかるのね」と小さく漏らしたが、スバルにはその意味はわからなかった。

    しばらく走った後、森から少し離れた位置にパトラッシュを待たせる。エミリア曰く、パトラッシュが混乱しそうだから、という配慮らしいが、スバルは軽く聞き流してエミリアの後に続いた。



    ※ ※ ※ ※ ※


    生暖かい闇の中にスバルはいた。人肌の温もりを感じる優しい世界。スバルが深い眠りに落ちる時、それはかならず現れて、そしてスバルの魂をまた別の――

    と、そんなまどろみから自分を連れ戻そうとする、眩しい光が差し込んで――次の瞬間、それが本当の陽光だと気がついた。

    ゆっくりと重い瞼をもたげると、ぽつり、と頬に雨が落ちる。
    視界には、木の葉の隙間から覗く澄んだ空と、残り半分を占める逆さまの少女があった。少女の大きな瞳からは、今まさに大粒の雫が落ちる寸前で揺れていて

    「――ベア子」

    スバルの声に、少女はその愛らしい口元をきゅっとつぐんで、何かをこらえるように嗚咽を漏らす。

    「――大丈夫か……?」

    ふっくらとした桃色の頬に手を伸ばすと、ベアトリスがそれを頬に迎え入れ、その甲に小さな手を添えた。

    「……ベティは、大丈夫なのよ。それよりもスバルは自分のことを心配した方がいいかしら。水は飲ませたけど、きっとくたくたに違いないのよ」

    ベアトリスは自分の非力を嘆くように、少し弱々しい声音で語る。濡れた頬と目尻をぬぐってやると、こそばゆそうに目を細めていて

    「ベア子が助けてくれたのか……?」

    酸素が行き渡っていなかったせいか、やや記憶が頼りない。肺腑の奥を新鮮な酸素で満たしながら記憶を手繰る。

    「なんの風の吹き回しかはわからないのよ。でも魔女教徒の連中がベティ達を外に運んだかしら。そしたら、その後ベティを縛る契約が解かれて……それからスバルに治癒を施したのよ」

    ベアトリスの膝に受け止められた頭を少し動かして、周囲の状況を確認する。木漏れ日が差す一角。傍には件の大樹があって、スバルを誘い込んだ大口はすでに無く、

    「そっか」

    全てがわかったわけではない。それでも、一つの脅威が過ぎ去ったのだということが理解できた。けれど、実際なんら抗うことも出来ず、幽閉されていただけなのだから居心地が悪い。
    事が起こり、スバルが奔走することで乗り越えてきたというのに。
    当然そのほうが苦しいに決まってる。しかし、手応えがないまま、完全解決というにはどうも歯切れが悪い。
    そんな状況で、ベアトリスの膝枕に甘えているわけにもいかず、

    「はぁ……なんか、よくわっかんねぇな」

    名残惜しい気持ちを隠さずに、ゆっくりと身を起こす。体の汚れを払い、ベアトリスの手を引いて立ち上がらせて、

    「そういえば、福音に書かれてたやつとかも大丈夫なのか?」

    『既存の契約を破棄し、新たに傲慢と契約せよ』などとふざけたそれを思い起こし、虫唾が走る。そのせいでベアトリスの心が捻じ曲げられてしまったのだから当然だ。

    「あれは……本当は、ベティの意思で振り払うことも出来たはず、なのよ」

    どこか歯切れが悪い。振り払うことができなかった事実を恥じているようで、ベアトリスはスバルから顔を背け、

    「ベティは、あれを前にして……迷ってしまったかしら。その迷いが、ベティを動けなくしてしまったのよ。……本物のスバルがわからなくなるなんて、ベティは――」

    「多分、あいつは『偽物』じゃない。あいつも『本物』の俺なんだ。違う選択をして生きてきた俺で、元を辿れば同じ存在――だと思う。俺もわかんなくなるくらいだし、ベア子が迷うのも当然だ」

    頭をぽんと手をおいて、くしゃりと撫でる。

    「多分、あいつはまだ存在してる。そんな気がするんだ。繋がりとかそんなの無いし、本当になんとなくだけけど、おそらく間違いない」

    ベアトリスの小さな背に合わせて、膝をおり、その視線と高さを合わせてから、

    「俺はあいつをどうにかして止めなきゃなんねぇ。あいつと対峙した時に、俺が俺を見失ってしまわないように、ベア子に隣りにいて欲しい。だから――」

    ベアトリスの華奢な肩に手を添えて、

    「――俺と、もう一度契約してくれるか?」

    「当たり前、なのよ」

    顎を引き、互いの額を合わせると、ゆっくりと目を閉じる。ベアトリスの可愛らしい息遣いをすぐ傍に感じて、スバルの心は徐々に熱を帯び――

    「スバルは、ベティの愛しい契約者かしら」

    胸に込み上げる熱い衝動がある。
    それが、はちきれんばかりに高まって。
    最後に、きらきらと弾け散り、強靭なつながりが顕現する。
    なくす前と繋がりのカタチは同じでも、これまでより更に強固な絆となって二人を結びつけていた。

    ゆっくりと額を離すと、ベアトリスの顔が耳まで赤くなっていることに気付いて、お互い顔を見合わせて笑いあった。そして、ベアトリスの手を取ると、その指先にマナの流動を僅かに感じる。立ち上がり、周囲をぐるりを見渡して、朧げな記憶を手探りしつつ森の外を目指す。

    『スバル』がここを立ち去ってから、外で何が行われたのかわからない。もし失われたものがあっても、それを知らなければ取り戻せない。そんな焦燥感にかりたてられて、足早になる。語らずともベアトリスも似た感情を持っているのは手に取るように分かった。

    再び印を頼りに森を抜けると、屋敷の方角を確かめて――と、前方から駆けてくる銀色の輝きに気がついて、

    「――――エミリアっ!!」

    そして、その少し後をついてくる忌々しい黒い影にも。

    「そいつから離れるんだ!」

    ベアトリスの手を握る力を強くして、合図する。相手の出方によっては――

    「スバル! ベアトリス!」

    エミリアがスバル達の元に駆け寄って「よかった、本当に」と安心しきったように笑う。
    同様にスバルもエミリアの無事を確認して安堵するも、間をおかずに『スバル』に鋭い視線を投げつけて、エミリアをかばうように前に出ると

    「てっめぇ! 無茶苦茶してくれやがったな。マジで死にかけただろうが!」

    スバル達から少し離れた場所で、気怠げに頭を掻く『スバル』に、激情を堪えきれず叫ぶ。

    「死にそこねて残念だったな。ま、新しい経験が出来てよかったろ」

    それは、ひどく残念だと言わんばかりに肩を落として言った。そんな態度にスバルが怒りを滾らせていると、

    「スバル。ベティにも言わせるかしら」

    繋いだ手をくいくいと引いて、スバルの怒りをを鞘に戻させると、『スバル』に向き直り

    「どうしてベティとの契約を破棄したかしら。ベティとスバルが再契約した今、お前は嬲り殺しにされるだけなのよ。それくらいわかっていたはずかしら」

    堂々と嬲り殺し宣言をするとんでもない幼女に、スバルはやや落ち着きを取り戻す。対するそれは、秘密基地――洞窟で邂逅した時とは別の、空虚な瞳をこちらに向けて、

    「お好きにどうぞ、ってことだ」

    「はァ? さんざんぱらヤラカシといて、今さら改心したとか言わねぇよな」

    「あぁまったく。その子と同じで、そう簡単に心根はかわらねぇよ」

    「――だろうな」

    心根は変わらない。スバルの在り方は道によって変われど、元を正せば同じこと。『スバル』と自分自身に嫌悪感を隠せないままでいると、

    「お前がいない間に色々わかった。
     んでもって、俺は『俺の間違い』を認めることにした」

    「な――」

    「俺は――知らなかった。
     知ろうとしなかったから。
     だけど、願いを叶えたかった。
     ――それしか、知らなかったから」

    その悲痛な胸の内に、スバルの胸が痛む。
    『スバル』がどんなセカイに身を置いていたのか、その一端すらはっきりは分からない。それでも、それはナツキ・スバルだったから、同じ痛みを知っていた。

    「俺は、間違ってたんだ。端から、全部。存在そのものが”過ち”だった」

    自分自身を嘲るように吐き捨てて、それは両手を広げる。抵抗する気は無いと示しながら

    「――俺を殺せ、ナツキ・スバル。
     それこそが、過って、過ちぬいた『傲慢』の結末だ」

    嗤っている。さぁ早くしろと、追い討ちをかける様にして

    「――っ」

    吐き気がした、あまりにも邪悪なそれに。
    相手は『傲慢』なら、それを滅ぼすのは正しいことなのかもしれない。けれど、殺せと言い張るその姿はあまりにも――

    「この役回りこそが、散々ぱらヤラカシてきた俺の、ツケなんだろうよ……」

    消え入る様な掠れた声だ。側にいなければ聞き取れないほどの、生きる事を諦め切った声。
    しかしそれは、スバルの心に鮮明に届いて

    「――っまえは……」

    ベアトリスの手を離し、拳を握りしめて、

    「っんな簡単に! 死のうとすんじゃねぇ! 俺だろ!」

    距離を詰め、『スバル』の胸ぐらを掴んで捻り上げる。

    「ッ――俺は、お前とは違う……」

    「いいや、お前は俺だ! はっきり言って、認めたくなんざねぇけどな」

    胸ぐらを引き寄せて、その空虚な目の奥深くを睨みつげる。その奥底にちらつく、非力を嘆くナツキ・スバルの瞳を。

    「っ……何で! 俺を殺せばそれでハッピーエンドだろ! 何が気に入らない! 本当は死にたくなんか無いって言えば満足なのか?!」

    それは胸ぐらをつかむ手を剥がそうと身を捩り

    「もういいだろ……俺は終わりたいんだ。散々なんだよ、こんなのは! 俺にツケを払わせてくれよ。その子が王になるための踏み台だ。うまい話じゃねぇか。自分を殺すのは気分が悪いってんなら、誰に殺させたっていい。ああ、そうだ。俺が自分で殺――」

    「もう、やめて。そんなこと、言わないで……」

    醜態を晒す『スバル』を肩越しに見守っていたエミリアが、苦しげに懇願する。

    「えみ、りあ……」

    「あなたは私を王様にしようとして。
     でも、それはよくない方法で……
     それでも、頑張ってくれたのよね」

    エミリアは、そのひとつひとつの想いを確認する様に投げ掛けて、

    「――でも、君は喜ばない」

    泣かせる、とまでは、あえて言わなかった。それはエミリアに聞かせたくないだけでなく、おそらくは『スバル』自身にとって辛い事だからで

    「そう、ね。きっとそう。
     でも――ありがとう、スバル」

    エミリアは否定しなかった。
    その結末も、生き方も、選んだ道も、歪んだ愛すらも、自分を想ってしてくれたことなら、ちゃんとお礼をしなきゃと。そんな、大きな優しさで『スバル』を受け止めていた。

    胸ぐらをつかむ手を離す。すると、『スバル』は、力なく項垂れて、

    「俺は――君の”スバル”じゃない。むしろ殺そうとしてた。だから、優しい言葉をかける必要なんざないんだ」

    「ううん、あなたもスバルよ。私にだってわかるもの」

    エミリアは自らの胸に手を当てて、スバルとの記憶に想いを馳せる。様々なスバルを傍で見て、困難を一緒に乗り越えてきたからこそ、彼女なりの答えを見出していた。

    「エミリアたんはこう見えて頑固だから、言い出したら聞かねぇよ? それに、死んだところでなんも解決しねぇだろ。――これまでも、そうだったんだ」

    だろ? と、肩をすくめて見せると、弱々しく地に目を伏せ、顔に陰を落とす『スバル』に、

    「俯くな。お前が信じた道を最後まで走れ。吐気がするような終わりでも、それがお前の結末だろ」

    スバルは、その黒髪を軽く拳ではたき、「自分叩くってなんか変な感じだな」と苦笑い。

    「あるべき場所に帰れ。
     そして俺の邪魔をするな」

    はたかれた場所に手を乗せて、憎々しげにこちらを見やる『スバル』の鼻先に指を突きつけて言い放つ。その後、「今のなかなかかっこよくなかった?」と軽口を叩いておどけて見せるから、かっこがつかない。
    そんな馬鹿馬鹿しい『このセカイ』の姿に、心底呆れたといった様子で『スバル』は溜息を溢す。

    「お互い全部終わったら、答え合わせでも何でも付き合ってやんよ。だから、その時に胸を張って自分の終わりを語れるようにしとけ。ま、『最悪だ』って言うけどな」

    「――最高、だ」

    「っし! じゃ、帰り支度は出来たな」

    「はぁ? 何の話だ」

    「お前、本当に俺かぁ? こんなトンデモ設定のオチつったら決まってんだろ」

    「いや、だから、意味――」

    瞬間、スバル達を取り囲む景色が、まるでハリボテであったかのように亀裂が走り、そこからまばゆいの光が差し込んで

    「す、スバル!」

    一拍遅れでそれに気付いたエミリアとベアトリスがスバルに駆け寄って、それぞれ手を握り

    「大丈夫、大丈夫。こういうのお約束っつーの? 次の瞬間には夢から醒めるって。まぁ、夢かはわかんねぇけどさ」

    「むぅ、わけがわからないのよ……」

    納得ならないと言った様子で、ベアトリスは空間全体に伸びていく光の筋とスバルを交互に見上げる。

    「スバル、本当に大丈夫?」

    「大丈夫だ、問題ない!」

    肩にかかる銀髪をふわりと揺らしながら、エミリアは微笑んで、

    「よくわからないけど……、スバルが言うなら、きっとそうね」


    そんな一団と対象的に、『スバル』はつまらなさそうに空を見上げ

    「はぁ、なるほど。っていうかベタすぎね? まぁ帰れるなら万々歳だし、夢だってんなら、こんな悪夢はさっさと忘れたいね」

    「大体、悪夢に限って覚えてんだよなぁ」

    「はぁ、お前……ほんとサイテーだな」

    嫌味たらしく言い放つスバルを横目でぎろりと睨みつけていると、スバルは片目を瞑って悪戯っぽく笑ったあと、

    「まだまだ掛かっけど、いつか見せてやるよ。お前が見れなかった、最高のハッピーエンドを」

    「――はっ。本当にどこまでもどこまでも、馬鹿げてる」

    馬鹿らしすぎて見ていられないといった風に『スバル』は顔を背け、音もなく崩れ落ちていく空間が、徐々に真っ白なそれに包まれるのを見て、そっと目を閉じる。

    その、瞼の裏の暗闇さえも真っ白な光に包み込まれて――自分という存在がぼやけ、おぼろげになってゆく。セカイそのものと混ざり合い、何もかもが一つになって。
    それは無限とも、瞬きの間とも思える時間を掛けて、一つの意識を形成し、そして――


        *****


    「知ってる、天井だ」

    湿っぽい空気が満たす薄暗い部屋。荘厳な装飾がなされた天井がスバルを迎えた。
    ベッドに沈み込んだ身をもたげると、タイミングを見計らったように扉を開ける影が一つ。

    「あら、やっとお目覚め? 最後の日だというのに、とんだ曲者ね」

    艶のある落ち着いた声色。豊満な胸元に漆黒の三つ編みを垂らした『腸狩り』だ。

    「メィリィは待ちくたびれて先に出ていってしまったわ」

    「だったら起こせばいいだろ……」

    「加減をするのは苦手なのだけれど」

    「どんだけ手荒な方法取る気だよ! 殺される前に死ぬわ!」

    寝起き早々頭が痛くなるようだったが、そんな戯言に興じている暇は無いとベッドから足を下ろし――

    「ひとつ、いいかしら」

    再び外に出ていこうとしていたエルザがこちらを振り返り、艶やかな所作で舌なめずりして見せ

    「あなた、今日はとてもいい顔をしているわ」

    「――はっ。 そりゃどうも」

    そして、そのまま部屋を出て行く。
    再び静寂を取り戻した部屋で、こなれた動きでジャージに袖を通すと、クローゼットに備え付けられた鏡に自らを映し、服装を正す。
    ふと、鏡越しの自分と視線がかち合って、やや居心地の悪さを感じながら

    「いいか。ちゃんと見てろ。これが俺の――生き方、だから」

    返ってくる言葉はない。
    それはただ、スバルを見て、そして――――始まる。


    ナツキ・スバル、最後の一日が。





    (おわり)

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

    ご覧いただきありがとうございました。生誕祭にぎりぎり完成したので誤字もろもろあるかもしれませんが、よかったら感想等いただけるととても喜びます。

    マジで小説って形でちゃんと書いたのははじめてかな? と思う。書いたとしても2作品、文字数も5千文字以上は無くて、かけた事にびっくりです。しかも一番驚くのがハッピーエンドってとこ!ハピエン書けるんだこの人……

    ここまで読んでくださってありがとうございました。

    #rezero #リゼロ  #Reゼロから始める異世界生活 #小説
    おわり|ラスト
  • あなたの声が聞きたい原作後。ラインハルトの亡骸の埋葬にいくビッテンフェルト。敬愛する主君を失った彼の悲痛。
    10年以上昔に書いたまましまってあった作品。気に入っているので出してみます。

    *こちら↓をご確認の上、パスワードご請求ください^^
    「二次作品についてのお知らせ」
    https://galleria.emotionflow.com/77598/493287.html

    #銀河英雄伝説 #銀英伝 #logh #帝国 #ビッテンフェルト #小説
    城山まゆ
  • 人魚を食べる木下昌輝の幕末伝奇小説、『人魚ノ肉』のイメージイラスト。
    坂本竜馬とか新撰組とか、みんな人魚の肉を食べて呪われてたというお話。短編集だけど基本、死亡エンドw

    上は幼いころの竜馬(前)と中岡慎太郎(左)、岡田以蔵(真ん中)が人魚を見つけたシーン。(「竜馬ノ夢」) #小説
    kin3
  • 4. 痛み無き苦しみ【愛し君への恋心】
    4. 痛み無き苦しみ
    その理由を自覚「できない」のか「しない」のか…

    ※「恋したくなるお題様」よりお題「愛し君への恋心」をお借りしています。
    サイト:http://hinata.chips.jp/

    Kinokoさんとリレー形式でお題を進めていきます!
    https://galleria.emotionflow.com/22785/

    Kinokoさん宅 立花紺さん・立花橙さんお借りしています。

    #創作 #オリジナル #オリキャラ #小説 ##愛し君への恋心
    りん@ブチャ
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