偶像崇拝【へしうぐ】本丸には祈る場所がない。
だからお前に祈らせてくれ、と伏して頼まれたのはいつの頃だったか。
こんな頓狂な願いに頷いた俺も考え物だが、今になってはどういうつもりだったのか自分でも分からない。
祈るなら適当に祭壇でもこしらえればいい、と適当に言ったがそれでは駄目なのだ、と必死で抵抗されたのは覚えている。
お前でなければならないのだと。お前でないといけないのだと。
俺の何が、奴をそうしてしまったのかは未だに不明だ。
しかしとかく細かいことを気にしないことが信条の俺としては、ささやかな疑問すら季節の風に流れて忘れた。
俺と奴は毎日決まった時間に向かい合う。
俺は立ち尽くし、奴は俺に跪く。
大して長い時間でもないが、時が止まったように感じるのだ。
必死に祈りを捧げている時の奴の顔は見えず、さらさらとした煤色の髪の毛の分け目がやけに目に付く。
微動だにしないくせに、何かに怯え震えているように見える、と気付いたのはほんの数ヶ月前。
理由など知らない。ただそう思っただけだ。
本人に祈りの内容など問いただした事も無い。
俺はただ、偶像の代替物として奴の前にあるだけだった。そう、あくまで代替物。
間もなく、奴が来る。
俺の部屋の障子をするりと開けて、人目を憚るように入ってくる。
藤色の瞳が俺を見詰め、後ろ手に障子を閉めた。
奴――へし切長谷部は、俺の前に真っ直ぐと立つと無言で、すとん、と跪いた。
重力を感じさせず、床に落ちた人形の所作で、奴は両手を結ぶ。
俯いて、藤色の瞳が見えなくなる。
俺は立ち尽くしたまま、奴には見えぬと知っていたが、少し顔をしかめた。
俺たちは刀剣の付喪神として、審神者と呼ばれる霊力の高い人間に呼ばれた。
審神者を名目上の主として命に従う俺や他の刀剣は、陰陽師の扱う式神とは似て非なるものだと思う。
あくまで俺本人の見解だが、むしろ妖怪に近いのではないだろうか。
それを以前、同輩の太刀である鶴丸国永に言ってみたところ、暫く哄笑された。
そして「違いない」と目の端に薄っすらと笑い涙を溜めて、言った。
奴も色々と波乱万丈な道筋を辿った刀だから、思うところはあったのだろう。
「しかし三条や、古備前の君なんかは妖物よりも殆ど神に近いのじゃないか」
なぁ鶯丸、と呼びかけられ、俺は首を傾げた。
「千年も経てばそう変わらんだろう」
「ならば君も神のうちだな」
「そいつぁ驚きだ、俺が神か」
鶴丸国永も俺も、笑った。
人間に呼ばれた理由が、歴史を修正しようとする輩を退じることであるのは、なるほど神の領域なのかもしれない。
しかしその戦は、互いに刃を切り結ぶと言う形であり相手も呼び出された刀剣なのだ。
奇妙だが、本当にそうなのだから仕方が無い。
しかも住まいは「本丸」と呼ばれ、さながら大名の屋敷である。
人の姿で顕現した俺たちは、本体である刀剣を手に敵を屠る。
当初は身体の扱い方に慣れず、魂との連携が上手く取れなかった。
操り人形に箸を持たせて、何かを掴むようなもどかしさ。暫く経てば自らを自らとして御せるようになったが、苦痛で仕方なかった。
だが、本丸の庭にふわふわと舞い降りた蝶を潰すことなく捕まえられた時は、心の底から嬉しかったのだ。
この時、俺は人の姿を獲て初めて喜びを得た、はずだ。
いまいち自分の心の動きが分からないが、不思議な高揚感は忘れられない。
俺はその高揚感を再び反芻しながら、縁台に腰掛け茶を啜っていた。
俺の名の元になった鳥が、伸びやかな声で鳴いている。
庭の桜の大木がはらはらと花びらを散らし、地面を淡紅色に染めている。
晴れた空を見上げ、ああ良い日だ、と独り言を呟いた。
屋内の子供たちの声が遠くに聞こえる。子供と言っても短刀の付喪神だが。
俺の周囲には、空と木と鳥の囀りしかない。
幸せな孤独だ。
陽光が、笙の竹管の如く真っ直ぐと降り注ぐ。太陽が吹き鳴らす音色をこの目で見ているようだ。
湯飲みを縁台に置き去りにして、庭へと降り立つ。
柔らかい土を踏みしめ、両腕を広げ陽を一身に浴びる。
目を閉じても瞼を透かして明るさが伝わる。
掌に、頬に、温かみを感じて人を模した血液が体中を巡るのを感じた。
ああ、幸せだ。
俺に鶯の名をつけた人間は、このような陽気の心地よさを知っていたのだろうか。
俺がこれを快く感じる理由は、名をくれた人の気持ちが篭っているからかもしれない。
このまま空へ行けたらいいのに。
両腕が鳥の翼に変化していく想像をする。指先が徐々に分かたれ、羽毛に変じていく。
緑の濃淡の美しい翼が風を受けて、空へと舞い上がる。
だが目を開けてしまえば、両腕はそのままの人のものであり、足は地面をしっかりと踏みしめたままだった。
ふう、と息をつく。
本当に空を舞うことは叶わなかったが、空想の世界でも充分満足が出来た。
腕を広げ、今度は目を開けたまま場の空気を肉体に取り入れるように深く呼吸をする。
微かな花の香りが、肺に染みこんだ気がした。
すっかりと満足した俺は、再び茶を飲もうと振り返る。
縁台に立つ何者かが突き刺すような視線を、こちらに送っていた。
藤色の瞳。とつ国の神職の衣装。煤色の髪。
「ああ、長谷部。そこにいたのか」
もしかしたら、俺と同じような気持ちで縁台にいたのかもしれない。
そう思うと自然と笑顔になって、奴に呼びかけていた。
すると長谷部は、ハッと気付いたように身じろぎした。
「君もこちらに来ないか。良い気持ちだぞ」
俺の言葉に、何故か長谷部は右手で口を覆うような仕草をしたと思うと、突如踵を返し小走りで屋内へと駆け込んでいった。
どうしたんだろうか。
藤色の瞳が一瞬揺れていたことは分かった。泣いていた?まさか。
俺は大して気にもせず、この日のことをすぐに忘れた。
だが、奇妙な出来事はこれからだった。
藤色の視線を感じるのだ。
休暇中、内番、そして出陣。
藤色の視線はいつも俺を追っていた。
けしてそれは嫌なものではなく、近付くことを恐れているような、一歩引いたものを感じた。
俺はそれすらも特に気にせず、いつも通り過ごしていたのだった。
何か言いたいことがあるなら遠慮なく話しかけてくれればいいのに。
俺が目線を向ければ、藤色の視線は逸れてしまう。極力俺と目を合わせたくないようだった。
まあいい、と日々に埋没するように視線のことも感じては忘れ、を繰り返していたある日のこと。
長谷部が夜も更けた頃、たった一人忍ぶように俺の部屋を訪れた。
俺は既に寝巻きに着替え、茶を飲みながら行灯の光を頼りに主から借りたこの時代の小説と言うものを読んでいた。
奴はと言うと、夜も遅いのにしっかりと普段の戦装束を着込んだ姿で、固い表情であった。
「どうした、何かあったのか」
そこに座れと勧めると、無言で座りキッと藤色の瞳で俺の顔を見据えた。
「鶯丸」
搾り出すような声だ。
茶でも飲むか、と言うと、いただく、と短い返事だ。
湯飲みを出して茶を入れてやると、奴は熱い茶を一気飲みした。
それで落ち着いたのか「夜更けにすまない」と言った。
「夜更けにそのような格好で訪れるくらいだ。何か重大な用事なのだろう」
長谷部は、ああ、と固い表情のままで言う。
暫く長谷部は言いにくそうに、苛々と身体を動かすとやっと決心がついたのか俺の目を見て口を開いた。
「鶯丸、奇矯な願いだと笑われるかもしれんが、聞いてくれるか」
「聞こう」
「俺が、キリシタンだと言う事はお前は知っているだろうか」
「話程度には」
キリシタンがどう言った神を祀るものかは知らんが、とつ国のものであり長谷部の装束もそれにちなんだものであることくらいは理解していた。
「それがどうしたんだ」
「本丸には祈る場所が無い」
聞けば、顕現した時から今まで周囲、特に主である審神者に遠慮してか、祈ること自体が出来なかったらしい。
それ以前に、本丸の内部は神道の様式に満ちており、キリシタンの祭壇などあるわけが無かった。
よく分かっていない俺は、適当に祭壇でもこしらえて祈ればどうだ、と言ったが、それでは駄目なのだ、と真剣に返された。
主には見られたくない、と消え入るような声を出す。
最上の臣下であることを己の存在意義としている男が、主命のためなら何でもする男が、祭壇一つ主に知られたくないばかりに弱りきっている。
「だが君がキリシタンであることは自明の理だろう」
「主以外に、身を捧げる相手がいることを主に知られたくない」
我らが主は、そんなことは全く気にも留めないと思うが長谷部自身の存在意義を脅かす事態なのだと、本人が思い込んでいるようだった。
「俺の祭壇は主でなくてはならない。だが、主は俺の神ではない」
そうなのか、と深く考えもせずに言うと、そうなのだ、と低い声。
「主は俺の最も仕えるべき方だ。しかし、心の安寧は天上にある」
雲の上に住まう、長谷部の信じるだろう神を想像した。姿はよく空想できなかったが、長谷部の心の拠り所となる高潔なものなのだろうと思った。
「その、お前の心の安寧と俺に何の関係がある?」
首を傾げて問うと、藤色の瞳は俺の両目を真っ直ぐと見詰めた。
藤色が俺の翠の瞳を侵食するような、強い眼差し。
柄にもなく、鼓動が跳ね上がるのを感じる。
「俺は心の中でいつも神に祈っていた。だが足りなかった。神の似姿が欲しい」
神の似姿?
「鶯丸、お前に祈らせて欲しい。神聖なる偶像として」
正に頓狂な頼み事だった。半分驚き、半分呆れて息をつく。
「俺はキリシタンではないぞ。その天上にいるお前の神とは縁続きですらない」
構わない、と喰らいつくような剣幕が返ってくる。
「お前でいい、お前がいいんだ」
奴の有無を言わせぬ必死な様子は、駄々っ子のようでどこか哀れだった。
それに絆されたのかもしれない。
俺は、ならお前の祭壇になってやろう、と了承していた。
その言葉を聞いた瞬間の長谷部の顔ときたら、情けないことこの上なかった。
涙を目の端に浮かべ、苦しみとも悲しみとも言えぬ微笑を浮かべ、感謝する、感謝する、と繰り返し述べた。
手を握られるかと警戒したが、奴は俺とは一定の距離を持って近付かないようにしているようだった。
「それで?俺は着替えたほうがいいのか」
と問うと、そのままでいい、白い夜着の方がいい、と懇願するような調子だ。
「立ち上がって、そのままでいてくれ」
その通りにすると、長谷部は俺の前に跪き、右手で十字を切る仕草をした。
両手を結び、俯いて藤色の視線は俺を見なくなった。
どうして俺なのか、とは問いたださなかった。
俺には興味のないことであるし、ただ立っているだけなら楽だ。
行灯一つの灯りの中で、俺も長谷部も身体の大半が闇に飲み込まれそうになっている。
煤色の髪の毛を見詰めて、ひたすらに時間を潰す。
長谷部は一心に祈っていた。
そこまで神を、心の安寧を求めていたのか。
普段から心を乱されることの少ない俺には、奴の気持ちなど全く分からなかった。
主のためと率先して行動し、先回り先走る行動の多い奴だとは思っていたが、その実かようなまでに不安定な心を持て余していたと言うことだろうか。
祈り、とは何だ。
そして、俺にその神の代わりが出来るのか。
懇願されて、お前がいいと強請られて、求められたにしては俺の心は凪のままだった。
俺を通して、そのお前の神とやらに本当に祈りは届くのか。
ぼんやりとするうちに、長谷部は祈り終えたらしく、藤色の瞳が俺を見上げていた。
「鶯丸。感謝する。いや……本当にありがとう」
「満足したか」
ああ、と上気した頬を隠さずに歓喜に満ち溢れた表情を向けられ、俺は困惑した。
俺は、ただ立っていただけだ。
長谷部はさっさと立ち上がると、部屋を辞しようとする。
そして去り際に、
「明日、同じ時間に」
と言い置いて、闇に紛れた。
明日、また来ると言うのか。俺に、祈りに。
藤色の視線が残像のように、瞼の裏に残って消えない。
俺は行灯を吹き消し、さっさと寝てしまうことにした。
目新しいことも二週間続けば習慣になると言う。
つまりは身体に染み付くと言うことだ。
毎夜同じ時間に長谷部が忍んで来るたびに、微かな驚きに身じろぎしたものだが少し経てば慣れてしまった。
偶像として板についてきた、と言うことだろう。
俺は白い寝巻き姿で、奴は正装とも言うべき戦装束。行灯の光一つに照らされて、キリシタンの絵画にも似た構図だ。
長谷部が訪れるようになって、少しキリシタンというものに興味が出たのだ。
主の持っている書籍、パソコン、そういったものを駆使して、大体のところは、いや上っ面は判った気になっている。
仏教もそうだが、キリシタンと言う物は絵画や彫刻が非常に多く作られている。
見事なものも稚拙なものも一緒くたに、崇められていた。
翼の生えた人間。裸で十字架に架けられる男。薄物をかづき、赤子を抱いた女。
時代や作者が違っても、これらの主題はほぼ共通して描かれている。また奇妙なもので赤子の顔に翼だけが生えた妖物も見られた。
長谷部は黒田の家でキリシタンを覚えたらしい。
直臣ではないものに下げ渡された、と言うのをやけに気にしているようで痛々しかったが、新たな神を得ることで安定を求めたのか。
キリシタンの者どもは、神だか神の息子だかを「主」と呼ぶそうだ。
ああ奴は歪んでいる。
藤色の瞳が伏せられ、奴が祈りを捧げる間俺は自然と顔をしかめることが多くなった。
歪んだ思いを持て余して、俺にぶつけている。
俺は君の神ではないのに。俺は、偶像の代替物だ。
そう考えると、ますます眉間に皺が寄った。
「鶯丸?」
長谷部の声にハッと気付く。いつの間にか、祈りを終え、跪いた姿勢のまま藤色の瞳が俺を見上げていた。
「どうしたんだ。苦しそうな顔をしている」
「なんでもない。気にするな」
俺の言葉を信じた様子はなく、長谷部は不安そうな面持ちで、
「俺は、何か過ちを犯しただろうか」
と呟いた。奴の目が、揺れた。
「過ち?そんなことはないが」
「だが、お前がそんな顔をしていたのは」
「……少し考え事をしていただけだ」
納得をしたのかは分からない。だが奴は、そうか、と引き下がった。
お預けを食らった犬のような佇まいが、俺にとっては珍しいことだが「可哀相だ」と感じる。
だから、少しおどけて、
「明日君が来たら、薄布をかづいて百合でも抱えてやろう」
と言った。
すると、長谷部の目が激しく見開かれた。同時に震える声音で、
「やめて、やめてくれ。お前はそのままでいい」
と言った。声だけではなく、身体も震えている。しまった、と思った。
腰を下ろし、長谷部と目線を合わせる。
「すまない、お前の神を馬鹿にしたつもりではなかったんだ」
違う、と震える声が返ってきた。
「そうじゃない。そこまでされたら、俺はきっと勘違いをしてしまう」
勘違い、とはどういうことなのか。
長谷部の目は、俺を見ては逸らし見ては逸らしを繰り返す。
「落ち着け」
両肩を押さえ、固定する。長谷部の身体が、痙攣するように跳ねた。
「勘違い、とは何だ」
口ごもり目を逸らされる。俺はずっと見詰め続ける。
ようやく決心がついたのか、長谷部はおずおずと俺に目線を戻し口を開いた。
「お前は、神じゃない」
「ああ、そうだ。お前の神じゃない」
「だが、お前に祈る度にお前が神の似姿に近いものではなく、本物の似姿なのだと思えてきてしまった」
俺は首をかしげた。
「すまん、話が全く分からん」
長谷部は、少し平静を取り戻したようだった。
「いつか、庭にお前が立っていたことがあるだろう」
いつかの暖かい日だ。
「あの時、俺は天使を見たのだと思った」
天使とは何だ、と問うと「神の姿に似た、翼のある遣いだ」と答えられた。
絵画で見た、翼のある人間。それのことだろうか。
長谷部は徐々に興奮してきているのか、口角泡を飛ばす勢いでまくし立てた。
「翼を広げ正に飛んでいこうとしている姿が天使にしか見えなかった。俺は、俺はついに天使を見たのだと歓喜で倒れそうだった!だが、振り向いたのはお前だった。お前は天使の姿のままで俺に声を掛けただろう!あの時俺は凄まじい衝撃であの場にいることが出来なくなってしまった!お前は、お前は!」
一体何者なんだ。
そうして、長谷部は充血した眼を見開いて俺の目を見据えた。
「もしかして、本当に天使なんじゃないのか」
「そうだったら、どうするんだ君は」
俺の言葉によって、長谷部は弾けるように身じろぎしてついにはべったりと畳に座り込んでしまった。
「……恐れ多い……!」
ようやっと搾り出した言葉は、普段の厳格で戦いを好む長谷部らしくもない、畏れに満ちたものだった。
俺は、何だかとても可哀相だと思った。
「安心しろ。俺は天使なんかじゃない。一介の刀剣の付喪神だ」
畳の上で、隙だらけの長谷部はまだ呆然と俺を見上げている。
「それとも……そんなに俺は『君の信じる神』の姿に似ているのか」
絵画では、明確に描かれた神の姿は白髭を生やした老人であって俺とは似ても似つかない。
天使が神の似姿だと言うが、多くの表現された天使は若く美しく清廉であり、老人とは似ても似つかなかった。
「ああ、似ている」長谷部は自嘲するような苦笑いを浮かべた。
「俺の、『俺の神』にお前はとても似ている」
「じゃあ、『君の神』がどういうものなのか、俺に教えてくれないか」
この言葉に、長谷部は酷く驚いたようだった。そして少しはにかんだ様子を見せ、
「その前に、俺の肩を解放してくれないか」
と言った。両手を離すと、奴は居住まいを正して正座になった。
「……あくまで、俺が考えていた神のことだ、お前は関係ないのだと理解してくれ」
「分かった」
俺も居住まいを正す。
「俺の神は、美しく寛容で傍にいるだけで、存在を感じるだけで安らぎを下さる方だ。全てを知り全てを見据え全てを御赦しくださる」
そんな方だ、と長谷部は微笑んだ。
「そのような、素晴らしいものに俺が似ていると言うのか?」
俺の疑問に長谷部は拗ねたような表情で、「似ている」と呟いた。
「まるで愛の告白を聞かされているようだ」
長谷部はあからさまに慌て、うろたえた。
「愛、愛など、そんなつもりでは」
「構わない」顔の形が勝手に微笑を形作る。
「俺は嬉しく思っている」
長谷部は、突如気の抜けたようになった。ややあって、小さな笑い声を上げる。その目の端には涙が滲んでいた。
「なあ、鶯丸」
「何だ長谷部」
「俺に、俺にこう言ってくれないか。『お前の全てを赦す』と」
ああ、いいだろう。俺は藤色の瞳を改めて見据えた。
「君の、全てを赦そう」
その瞬間、長谷部は見たことのないような柔らかい笑顔を顔中に浮かべたのだった。
俺の凪いだ心が、一瞬にして泡立ちざわめき立つ。嵐に似たそれは、忘れていた切なさを掘り起こし俺の表情に浮かべさせた。
恐らくそれは微笑みに似た形をしていたはずだ。
刀として生まれたばかりの時。俺を大事にしてくれた人たちのこと。それらの記憶が、揺り動かされ蘇ってくる。
忘れていたわけではない。大事に仕舞いこんで、大事にし過ぎて扉を開けることも恐れていただけだ。
長谷部に「赦し」を与えたことで、俺自身も何かに、とてつもなく大きな何かに「赦された」気がした。
ああ、幸せだ。
幸せな孤独とは違う、容量の増えた何かが交じり合うような幸福。
今、この時それを得たと感じた。
単一の翠だった俺に藤色が混ざり、別の何かに変ずる。
長谷部は、笑顔をふっと真顔に変え、
「やはり、お前は本当は天使なんじゃないのか」
と言った。
「君がそう思うならそれでいい。俺は気にしない」
俺の言葉に、長谷部は泣き笑いの表情になる。そして、俺の片手をおずおずと両手で取った。
「……また、祈りに来てもいいか」
藤色の瞳が、俺の手の甲を見詰めている。
「構わない。いつでも祈りに来るといい。出来れば茶を飲みながら、二人で話をしよう」
「本当に、本当にいいのか」
「何故疑う」
「俺は、まだ信じられないでいる」
この展開が、と戸惑う藤色の瞳が俺を見る。
「君の目は綺麗だな」
つい口に出た言葉。長谷部は何故かむきになって、お前の方が綺麗だ、と食って掛かった。
「あまりむきになられると、口説かれている気分になるな」
俺のおどけた言葉が、長谷部を黙らせた。
「おい、冗談だ」
「あまり愛だの口説くのだと言われると……本当にそうしている気分になる」
これは一本取られたな、と言うと、鶯丸、と怒ったように名を呼ばれた。
「いつまでも俺の手を握っていれば、そう言う気分にもなるだろうさ」
笑いを含んで言ってやると、ばねのように弾けて諸手を挙げる。可哀相から、可愛いと思えてくる自分が不思議だ。
ただ口に出すと、恥ずかしがって藤色の瞳が見えなくなるだろうから、俺の胸に留めておく。
「お前は、そんな風に言うが、本当に嫌ではないのか」
諸手を挙げた姿勢のままで、長谷部が問う。
「何故嫌だと思うだろうか。さっきも言ったが俺は嬉しく思っている」
忘れたのか、と首を傾げると、さほど納得もしていない様子で奴は挙げていた両の手を自分の膝に乗せた。
「きりがないな、」俺の言葉に、長谷部が身じろぎする。
「君が祈りに来ようが、俺を口説こうが、はたまた愛想を尽かそうが構わないんだ、俺は」
「鶯丸」
「俺は君の全てを赦すと、さっき言った。これを違えぬと誓ってやろう」
それで君が納得するのなら。
「もったいない、言葉だ」
切れ切れの言葉が、奴の全ての感情を内包していた。奴の喜び、戸惑い、その他の他愛も無い、しかし大事な感情が俺に伝わってくる。
これを俺一人が独占していると言うことが、喜ばしくまた心の底の熾火を激しく燃え上がらせた。
俺の知る限りでは、長谷部と言う男は冷徹な判断を下し、殆ど笑うこともない。誰も見たことがないはずだ。
それが、俺の前で笑い畏れ怯え喜び、そして泣いた。
なるほど俺が本当に天使だったなら、奴を哀れみ加護したかもしれない。
あいにくと俺は、ただの太刀であって天使ではない。
「君は、俺が天使ではないと知っていても俺の言葉に喜んでくれるのだな」
長谷部は、自分自身そのことに初めて気付いたようで右手で口を覆った。
「多分、お前が神の姿に似ていることなど、もうどうでもよくなったのだろう」
改めて確認をする言い方に、俺は笑った。
それでも俺はお前に祈りたい、と真面目腐った調子で言葉が続く。
「ならば頼みがある」と俺は言った。
「祈る時は、目を伏せずに開けていてくれないか」
どういうことだ、と長谷部はきょとんとする。
「何、単純な話だ。俺は君の目が好きでな」
祈りの間、それが伏せられているのは寂しく思うんだ。
長谷部の目が、零れ落ちるほどに見開かれた。ああ、綺麗な色だ。
「……あまり自信がない」
長谷部の言葉に、何に自信がいるのかと問いただすと、
「つまりはお前の目を見詰めて祈れと言うことだろう?」
考えただけで恥ずかしくて死にそうだ、と零した。
赤面した顔を横に背け、唇を引き結んでいる。
「心配無用だ。二週間もすれば習慣となる」
俺だって慣れたぞ、と続けたところ、長谷部の横顔が更に赤面した。
善処する、と抑えた呟きが辛うじて聞こえる。
こっちを見ろ、と言うとからくり人形の挙動で、俺に顔と視線を戻した。
「そこまで難しい話じゃない。俺の目を見ろ」
難しくなってしまった、と消え入るような声音に俺は噴き出した。
「笑うな」
「すまん」
素直に謝ったものの、赤面したままの長谷部は仏頂面に変じて微動だにしなくなってしまった。
流石の俺も言葉に困った。が、故に。
「長谷部、茶でも飲むか」
「……いただく」
主がくれた便利な魔法瓶と言うもので急須に茶を入れる。
いつでも湯が使えると言う正に魔法と言うべき道具だ。
熱い茶を二人で飲み、息をつくと長谷部の緊張は一旦解けたようだった。
無言で茶を飲みきると、長谷部は「そろそろ失礼する」と立ち上がった。
「また、明日」
と部屋を辞しようとする長谷部に、俺は何か声を掛けたくなった。
「明日、楽しみにしている」
そう言うと、長谷部は驚いた表情になり、そして眉を下げた子供のような笑顔をして闇夜に消えていった。
君が来るのが楽しみだ、と伝えたのは初めてだった。
奴も意味が分かっただろうか。
俺は、明日を早く呼び寄せるために、行灯を吹き消し床に就いた。
睡魔は、心地よく俺の意識を連れ去って行ったのだった。