ご褒美は撮影の後に【ヴィルイデ】 なんでこんな場違いなところに来てしまったんだろう、とイデアは後悔の真っ只中にいた。
恋人である(驚くべきことに!)ヴィル・シェーンハイトに「アタシの職場に連れて行ってあげるわよ」なんて言われても普段なら、絶対に拒否する。どうあっても拒否するところだ。ところが超絶美貌を誇るスーパーダーリン()はイデアの抵抗よりも更に上手だった。
スターローグ実写映画化に参加した技術スタッフとの面会。イデアの愛する「がけっぷちモイラス」のライブにお忍びで同行する。エトセトラエトセトラ、イデアが興味を引くような餌をチラつかせ、最終的には可愛い弟の「兄さん!ヴィル・シェーンハイトさんがこれだけ言ってくれてるんだから行ってきなよ!」という言葉でヴィルはイデアを陥落せしめたのである。
「……来るんじゃなかった……」
ヴィルの今回の現場は、化粧品ブランドの広告用写真撮影である。話によると雑誌掲載とは別に大型広告として街の中心のビルにデカデカと貼り出されるとの事だった。
シャッターを切る音と、衣擦れ、カメラマンの指示する密やかな声。光り輝くスタジオの中央では、闘魚のように華やかなモデルがヒラヒラと泳ぐようにポーズを変えていく。
「まるきり場違いですわー……」
機材やケータリングの置いてある隅っこのパイプ椅子に座って、イデアは所在なさげに縮こまっていた。イデアもヴィルプロデュースでそれなりの格好をしているが、スタッフたちの目が「誰だろうこの人変なやつ」と言っているように思えて萎縮してしまっている。なんで僕の恋人は、こんな陽キャのすくつ()に連れてきたんだ、まさか陰キャを笑い者にするために、いやまさか仮にも恋人にそんなことされたら人間不信どころの話じゃないんですが、と堂々巡りの思考が螺旋を描いて陰の方、陰の方へと沈んでいく。
ちらりと見ると、イデアに気づいたヴィルにさりげなくウィンクをされた。それだけで胸がキュンとして気分が上がってしまうのだから恋の力は恐ろしい。数多の照明よりも尚美しく輝く恋人がキラキラと網膜に焼き付くようだ。そもそも何で美に拘るヴィルがイデアを愛するようになったのか、イデア本人にも未だにピンと来てはいないが、イデアがヴィルを愛する理由は無数にあることにいつも気づいてしまう。
だからこそ、この居心地の悪さがよりイデアを苛むのだった。
衣装とセットチェンジのため休憩入ります、というスタッフの声に、ふと僅かにヴィルが脱力したかと思うと、凄まじい勢いでイデアの元へとヒールの足音高くやってきた。
「ヒッ、ヴィ、ヴィル氏おつです」
「ちょっとイデア!あんたちゃんとアタシの仕事見てたんでしょうね?上の空に見えたわよ」
「いえ、そんなことは!……すごく、綺麗だったよ」
「当然。今回はアタシ特に力入れてるの。癒やされたい気分だわ」
そう言いながら美しい眉を跳ね上げて、それからイデアの隣に座った。ふわりと衣装の裾がイデアの腕を擽る。
「あの、ヴィル氏。お召し替えとか大丈夫なんで?」
「セットチェンジが先。アタシはメイク替えもあるけど、今はあんたといたいのよ」
悪い?と微笑まれて、イデアは身を縮めた。
「僕なんか、こんな華やかな空間似つかわしくないですし……ヴィル氏、ほんと変なの」
自虐はやめなさい、とヴィルは眦を吊り上げる。
「こんな所で口喧嘩は美しくないからよすけれど、アタシはアタシが選んだ恋人を悪く言われるのが嫌いなの」
一緒にいたいから連れてきたのよいい加減観念しなさい、と指を突きつけられて、イデアは両手を上げ降参のポーズを取った。
「了解です、サーセン」
「分かればよろしい」
でもね、とヴィルは悪戯な顔で続ける。
「ちょっと問題があるのよ。この後メイク替えがあるんだけど……キスマークをつけなきゃならないの」
キスマーク、という単語にイデアはきょとんとすると、あれよあれよと顔を赤くする。もちろんヴィルとのあれそれを思い返してのことだが、それを見越してヴィルは意地悪い顔で言った。
「あら想像しているようなものではなくてよ。アタシのこの顔や体に、たっぷりリップを塗ったモデルの女性がキスをくださるそうなの。そういう演出なの。あんた、どう思う?」
イデアの喉から、地の底から響くような「は?」という言葉が漏れた。
「実際の唇でつけられたモノがいいって、ディレクターは言ってるのよ。唇の持ち主は誰だっていい。その瞬間を撮るんじゃなくて、キスマークまみれになったアタシをご要望なのよ」
地を這うような「は?」が再びイデアの歪んだ口元から放たれた。怒りとも嫉妬ともつかない嫌悪が前面に出された表情と、ゆらゆら揺らめく青く燃える炎の髪が彼の心内環境を如実に表している。
「ね、イデア。あんたどう思う?」
背を反り、ヴィルはイデアを見下げた。高慢で、癪に障る表情だ。イデアは下から見上げるように縮こまった背中から首をもたげて恋人を睨み付ける。
「到底許容できませんが?そもそも場違いのスタジオに連れてかれてる上に、恋人と己のスペックの差に凹んでいるというのに、見知らぬ人間に恋人がキスされるのを目の前で黙って見てろと?」
イデアの抑えた低い声に、ヴィルは満足げに口端を歪めた。
「じゃあ、あんたはどうしたい?」
ガチャン、とやけにセットや小道具を移動する音が響いて聞こえる気がする。イデアを見下げたヴィルは、高慢だがそれが故に美しい。もともとの才能に積み重ねた努力によって高められた美貌が、冴え冴えとイデアを見つめていた。
「――僕がやる」
イデアが顔を上げて、ヴィルを睨み返す。
「リップだかなんだか知らないけど寄越して。僕以外がヴィル氏にそういうことするの解釈違いなんで」
「あら、ただの仕事よ?」
「じゃあなんでわざわざ僕を連れてきたの」
険の深くなる目つきで恋人を射殺しかねない。髪の毛も荒ぶっている。
それに動ずることもなく、売れっ子芸能人は足を組んだ。膝の形が悪くなるからと控えているのに珍しい行動だった。「アタシだって、抵抗感あったからあんたを連れてきたのよ」
「は?」
今度のセリフは、ただ虚をつかれた言葉だった。
「仕事ならキスシーンだって完璧にやるけれど、まだ学生だからマネージャーにシャットダウンしてもらってたのに、抜け道使われたのよね」
キスマークを付けるならOKだろ、なんてバカみたい。
囁きながら、ヴィルは人差し指でイデアの顎をついと持ち上げる。
「言ったわね、イデア。アタシの顔も体もあんたのキスマークでいっぱいにしてちょうだい」
忽ち顔を赤くして、髪の毛すらピンク色に染めたイデアは「ふぁ、ふぁい」としか返答出来なかった。
信頼するスタッフとメイクスタイリストに恋人が説明をして、暖かい目で送り出されたイデアは、ヴィルと共に小さな楽屋に2人きりとなった。
「ヴィル氏……」
「じっとして」
イデアの普段の青い唇とは全くイメージの違う真っ赤な口紅がヴィルによって塗られていく。リップブラシで丁寧に塗られたそれは、キスマークを付けるためにやたらと濃く塗り重ねられている。
「さぁ出来たわ。来て、イデア」
「じゃ、じゃあよろしくオネシャース……」
おずおずとヴィルの肩に両手をかけて、頬に唇を寄せる。付いた跡を部屋の大鏡でイデア越しに確認し「ん、上手よ」とヴィルは言った。
「まだよ、たくさんつけてもらわないと。重なってもいいけど形が悪くならないように」
「りょ」
イデアは2個目のキスをする。そのうち、ヴィルに何も言われなくてもイデアは口付けを繰り返す。吐息も荒くなり、夢中になっている。頬、耳のそば、首筋と、軽い音を立てながら跡を付けていく。青白い頬が上気し、目はレモンゼリーのようにとろけて恋人を見つめていた。だが、その唇同士が触れそうになった瞬間、「だめよ」と恋人は顔をそらした。
「……なんで」
イデアの不満げな声に、ヴィルは当たり前じゃない、と眉をひそめた。
「あくまで仕事なのよ。唇だとアタシのリップも歪むし、バランスが悪くなるわ」
「だって」
「だっても何もないわよ。ほら!よくできたわ。あんた上手ね」
イデアを軽く突き放すと、満足そうにヴィルは鏡を眺める。赤いキスマークに彩られた彼は煽情的で、人によってはチープになりそうな演出を自分のものとしていた。つまりはゴージャスというやつだ。
いいところで突き放されて、ぶつぶつ文句を言うイデアに気づいたヴィルは呆れ顔を寄せる。
「いいこと、拗ねてないであんたが飾ってくれたアタシの晴れ舞台しっかり御覧なさい。全部終わったら好きなだけご褒美をあげるわ」
ご褒美、の言葉に、つい「フヒヒ」と機嫌を直してしまうイデアもだいぶヴィルの調教、もとい指導が効いていると言えよう。
耳元に朱を刷きながらもさっさとスタジオに向かうヴィルの背を追いながら、イデアはドキドキとした胸を両手で抑えながら「あとのこと」に思いを馳せるのだった。