17歳のレーザービーム(後編)幼稚園生の時だった。同じクラスに可愛い女の子がいて、僕は何も考えずに「○○ちゃんと結婚する!」と言った。
すると他の女の子たちがその女の子に嫌がらせを始めた。幼稚園生だからか、手を抓ったり仲間はずれにしたりとか他愛も無いがダメージの大きい方法で。
僕には何も無かった。あの頃からだ、僕は異性への好意をあからさまに出してはいけないと制御するようになったのは。
長船光忠と言う人格は、こんな幼い頃に出来上がっていたのだと思う。
そんなことを思い出している自分が可笑しかった。
恐らく過去のことを思い出しているのは、僕にとって楽しい予定の前だから、だと思う。
自分が心踊ることがある度に、罪悪感を煽る様に思い出が蘇る。
僕は見詰め続けている鏡の前で、心の中で自分に言う。
お前は格好いいと。恥じることは無いと。悪いことなど、していないと。
鏡の前でもう一度、髪と服装を確認する。
よし、大丈夫だ。
僕はヒロミツとの待ち合わせ場所に向かうため、部屋を出た。
例によって渋谷は止め処なく人の声で喧しい。声と声が重なり、違う言語のように聞こえてくる。
またも例によってハチ公口での待ち合わせに、僕は少しにやついた。
ヒロミツの指定である。僕は基本的に相手に合わせるようにしているので、場所や時間に僕の意思は介在しない。
精々店やルートを考えて、合理的計画を立てるくらいだ。
今日だって、ランチ、ウィンドウショッピング、ディナーと言うプランはヒロミツの希望で、店は僕が決めさせてもらう。
ヒロミツ自身は店に詳しくないから僕に任せたい、と言っていたが望むところでとても嬉しい。
彼を楽しませて、喜ばせたい。それを考えるだけで口元が綻んだ。
外国語が満ちたような空間で立っていると、後ろから不意に認識できる言葉が耳に飛び込んできた。
「ミツタダ!」
振り返ると、息せき切って見覚えのある少年が走り寄ってくるところだった。
だが彼が着ている服は、本来のパンキッシュなものではなく僕が好むスタイルだった。
「驚いた。見違えたね!」
そう言うとヒロミツは無言で胸を張った。
僕が選んだ服とは言え、驚くくらいに似合っていた。試着の様子を見せてもらえなかったのは残念だったが、今となればこの驚きのために良かったと思える。
「パンキッシュなのもしっくりしてたけれど、着こなしてるね」
実際にヒロミツは小柄ながらスタイルがいいのか、すっきりと服を着ていた。着られていない、感じのよい着方をしている。
「良かった。がっかりさせたらどうしようかと思っていた」
少しはにかんだように言う彼に、僕は「服を見繕った甲斐があったよ」とにんまり笑って見せた。
するとまだ息が上がっている様子のヒロミツは、びっくりしたような顔をして目を逸らせてしまった。
「ところでまだ時間に余裕があるのに、どうしてそんなに急いできたんだい?」
「ミツタダが見えたから」
次は僕がびっくりして目を逸らす番だった。おまけに口元を覆う右手付きである。
可愛い。声にはけして出さないが、可愛すぎる。ぷるぷると震えている僕を心配して、ヒロミツが僕の名前を呼ぶが対処できそうになかった。
ひとしきり感情の渦に巻き込まれてから落ち着いた僕は、出来うる限りのカッコいい表情を作って、「さあランチに行こうか」と言った。
ヒロミツは物凄く怪訝な表情を作ってから、素直に頷いた。
「ヒロミツは、いつもあの3人とつるんでるのかい?」
ハンバーグをナイフで切り分けながら僕が問うと、ヒロミツは口をもぐもぐさせて頷いた。
いかにもなハンバーグを食べさせてくれると言うことで、この店にしたがヒロミツの食べっぷりを見ていると大正解だったようだ。
ようやく飲み下したのか、彼はぽつぽつと話し出した。
「あいつら馬鹿だけどいい奴だし。結城は空気読めない振りして気が使える」
「あー、そんな感じしたよ」
「玉名は何か女子から狸って呼ばれてる」
「それは何でだろう」
「さあ。源は心の底からの馬鹿だけど、あいつが一番優しい」
「へー!頭の中身なんて関係ないよね、性格が一番だと僕も思うし」
僕がそう言うと、ヒロミツはどこか呆けたような顔で、
「そう言うセリフはあんたのような人じゃないと言えない」
と言った。
「え、どういう意味」
「自分で考えろ」
釈然としないまま口にハンバーグを放り込むと、ヒロミツは、
「帰りは一緒じゃないが、もう一人つるんでる奴がいる」
といない誰かを笑う口調で言った。
「どんな子?」
「小学五年生みたいな奴」
なんだそれは。子供みたいな子だということか、と問うと、そうだ、と返ってきた。
「別のクラスに世話係みたいな奴がいるから、帰りは一緒にならない」
世話係がいるということは、相当なお坊ちゃんなんだろうか。分からないまま話は次に移った。
「俺の高校は変な奴が多い。ミツタダはどうだった?」
「うーん、僕はあまり深く付き合おうとしてなかったからなー分かんないや」
何の気なしに言ったつもりだったが、ヒロミツはハッとした顔をして「悪かった」と呟いた。
「いや別に謝らなくても」
「だけど」
「僕自身気にしてないし」
「でも俺が嫌だ」
ミツタダが気にしてなくてもそう言うことを聞いてしまった自分が嫌だ、と言う意味のことをぼそぼそと言って、再びハンバーグに集中した。
無言だ。嫌な間である。
僕は我慢できなくなって、ハンバーグ美味しい?と言うようなことをもごもごと訊ねた。
「美味い。叔父貴が作るのは、もうちょっと固い感じだ。それも美味いけど」
「叔父さんって厳しいんだっけ?友達が言ってたよね」
これはいい話題が出来た、と僕は内心ガッツポーズをした。
「厳しい、基本は。でも変なところで甘かったり、する」
「へえ。いつもどんな感じ?」
「大体眉間に皺が寄ってる。几帳面。だらしないと怒る」
「へー……」
その特徴に当てはまる人物の顔がぼんやりと浮かんで、似たような人はいるもんだな、と思った。
「叔父さんのこと、好き?」
「好きとか嫌いとか……世話になってるのは確かだけど」
と言いつつ、ヒロミツは難しいことを考えている表情になった。
僕もこの質問は漠然として意味が無いと思ったので、方向を変えることにした。
「叔父さんは、僕みたいな大学生と君が友達付き合いしていること、何か言わない?」
するとヒロミツは、こてん、と首を傾げて、
「年上の人と遊びに行ってるって言ったが……自主性に任せる、と言われた」
「ほお」
「今日もデートだって言ったら、服装チェックされた挙句に『避妊はしろよ』と釘を刺された」
「ひにっ……?!」
食べかけのハンバーグが口から飛び出そうになる。ああ、みっともない。
「そりゃ、デートだなんて言ったら叔父さん勘違いするよ!」
「でも叔父貴、何か楽しそうだった」
「ああー……」
僕は何とも言えない顔で、相槌にならない声を吐いた。叔父さんに真実が伝わったら、どう思われるんだろう。
ヒロミツ本人は何も気がかりの無い様子で、ハンバーグに取り掛かっている。
僕も諦めて、ハンバーグを口に運んだ。
「俺が楽しそうにしてるから、嬉しかったんだと思う、叔父貴も」
ふと彼が呟くので、僕は手を止め顔を上げた。
僕と目が合うと彼は少しはにかんだ。
「俺、無愛想だから」
そう言ってライスを掻き込む彼を見て、僕は何だか切ない思いになった。
確かに彼は口数は多くないし、感情が分かりやすいタイプではない。
けれどもよく見ていれば、表情はよく変わるし素直で、少しはにかみやなだけだ。
彼自身が無愛想だと思っているのは、誰かに何かを言われたのだろうか。
少なくとも僕はヒロミツのことを、無愛想だとは思わない。
そう考えるうちに、彼の叔父さんに対する愛情が透けて見える気がした。
感謝や親愛の気持ちが上手く伝わらない気がして、もどかしかったのだろう。
もしかしたら、叔父さんも似たようなもどかしさを持て余していたのかもしれない。
それならば、甥っ子の浮いた話に嬉しくなる気持ちも分かる。いや実際浮いた話じゃないけれど。
「叔父さん、ヒロミツのことよく見ててくれてるんだね」
「ちょっと口うるさいけど。俺が今日の準備してたら、やけに質問してきてうざかった」
「心配してる証拠だよ」
「いやあれは確実に楽しんでた。『デートか?デートか?』って言うから、そんなようなものって言ったらもっとうざくなった」
「それは災難だったね……」
「でも小遣いもくれたし、色々アドバイス貰ったから、とんとん」
「とんとんなのかい。アドバイスって?どんなの?」
何の気なしに問うと、突然彼は口ごもった。え?と首を傾げると、「内緒だ」と口をつぐまれてしまった。
「えー、教えてよ!」
「嫌だ」
ヒロミツは取り付く島も無い。いくら聞いてみても教えてくれる気配が無いので、僕はしぶしぶ諦めた。
そうだ、と思いついて僕は「今度、研究のために旅行しようと思うんだけどね」と話を変えてみる。
「旅行?どこ行くんだ?」
「決めてないけど、西の方が中心かな」
「どんな研究?」
「焼失・遺失可能性の文化遺産……って言って分かるかな。戦争とか災害で焼けたり紛失した可能性のある文化遺産を調査するんだけど」
「文化遺産……」
「えーっと、美術品とか、武具もそうだね。刀とか甲冑とか記録にはあるけど現存しなかったりするもの」
「ああ、何となく分かる」
「記録とつき合わせて、これがどうして無くなったのかとか調査して、論文にするんだよ」
「もしかしたら、無くなったと思われてたのがあったりして」
それを見つけたら、ミツタダのお手柄だな、と微笑まれて僕は何故か動揺した。
「い、いやそれが出来たら凄く嬉しいだろうけど……無理だろうなあ」
当たり障りの無い笑顔を返す僕は、やけに煩く主張する心臓を持て余していた。
ヒロミツはいつもの表情に戻っていて、そうか、と少し拍子抜けしたように言った。
「俺、そう言う昔のものを調べたりする仕事がしたい」
そしてぽつりと続けた。
「前もそんなこと言ってたよね。叔父さんがそんな仕事してるんだっけ」
「ああ。叔父貴が……いや、俺は新しい『古いもの』を見つけたい」
「世紀の大発見!とか?」
「……おかしいか?」
「そんなことないよ!いいと思う!」
口数が少なく、大人びた彼が年相応くらいの大きな夢を語ってくれたことに僕は優越感を覚えた。
当の本人はやや俯いて、ほぼ食べつくされたハンバーグの鉄皿を見詰めている。
「ヒロミツが新しいものを見つけたなら、僕もそれを調査する協力をしたいな」
大袈裟気味に乗せるような発言をすると、彼はますます居心地の悪そうに身じろぎした。
「そんな、まだ俺は、何も……」
「いいじゃない、夢を語るのは自由だよ」
明確な夢なんて同じ頃には持ってないし、大それたことなど言えない僕が少年を煽ることを言うのは罪深い気がした。
それ以上に無責任だ。だが、ヒロミツの気を害したくない一心だ。
僕はまだ、言い募る。
「もし分からないことや知りたいことがあるなら僕が力になるよ。まだ学生だけど、僕に出来ることなら」
すると彼は顔を上げて、俺に出来るかな、と呟いた。
出来るよ、と身を乗り出して言うと、ヒロミツも唐突に身を乗り出して不意に顔と顔が近くなった。
「ミツタダが言うなら、信じる」
バチっと火花が散るように目線が合って、どちらともなくゆっくりと背もたれに上半身を戻す。
僕は、口を間抜けに開けたまま、耳を穿つ脈動にはっきりと困惑していた。
ヒロミツはと言うと、俯いて右手で胸を掴むようにしていた。興奮しているのか息が荒い。
何だろうこれ。何だろうこれ、僕は何でこんなになっている?
胸が痛いくらいの脈拍に、呼吸まで苦しくなる。
僕は何がどう変なのか分からず、変だ変だと混乱する。
頭がくらくらとして、顔が熱くなる。熱中症にしては、時期が早くないか。
へろへろとグラスを掴んで水を飲むと、ほんの少し頭が冷えた気がした。
「俺、勉強頑張る」
ヒロミツが唐突に言う。
「それであんたと同じ大学に行って、同じ勉強がしたい」
「えっ」
僕の驚いた声に、微かにヒロミツは怯んだようだった。
「……迷惑か」
「違うよ、そんなことないよ!ただ、驚いて」
実際、寝耳に水で上手いリアクションが取れなかったのだ。
「でも後輩になってくれるのは嬉しいかも。その時には僕は卒業してるけれど」
何の気なしに言ったが、次の瞬間ヒロミツは「初めて気付いた」と言う表情をした。
「そうか……」
そう言ったきり黙ってしまった彼は、落ち込んでいるように見えた。
「ああ、でも大学院に進んだら同じ研究室には、いるだろうから会えないことはないよ」
僕がフォローするように言うと、ヒロミツの顔がパッと輝いた。
「それには勉強しないとね」
「ああ、やる」
「僕が教えるのが上手ければいいんだけどな」
人を教える自信は無いから残念だな、と冗談めかして言うとヒロミツは、
「俺一人で頑張る」
と言うので内心僕はがっくりとした。
自分で道を絶っておいて調子がいいが、正直ヒロミツに頼りにされたかった気持ちが後から来る。
それを抑えて「ヒロミツなら出来るよ」と僕は精一杯優しく言った。
うん、とハンバーグの最後の一切れを口に放り込み、ヒロミツが頷く。
僕もそれに倣って、ハンバーグを口に含んだ。冷めていたが、やけに甘く感じた。
「いや、それを貰うのはちょっと!」
ハンバーグの店から出て30分後、僕はあるアクセサリーショップで狼狽して叫んでいた。
目の前には、メンズのネックレスを持って所在なさげに、しかし強い瞳で僕を見上げるヒロミツ。
「俺は、礼をしたいだけだ」
「お礼って言っても、僕は何にもしてないじゃないか」
僕の言葉に、彼は短く「この服」と言う。
「僕は選んだだけだろう。プレゼントしたわけじゃない」
ヒロミツはグッと詰まった様子で、ネックレスを握り締めた。
「でも、でも」搾り出すような声で彼は言う。
「俺は嬉しかった」
その懇願するような、強いのに揺れる目に僕が詰まってしまう。
どうしてこんなことになったのか、普通にウィンドウショッピングをしていただけだった。
中々僕好みのアクセサリーショップがあって、入ってみようか、と軽い気持ちで入店した。
そこで僕が軽率に「このネックレスいいな」と呟いたところ、ヒロミツが「俺がそれを買ってやる」と突如宣言したのだった。
当然僕は断った。未成年の、17歳の子から年上の僕が高いプレゼントを貰うわけにはいかない。
モラルと言う問題だけでなく、僕自身の良心やプライドがそれを赦さないのだ。
そして上述の状態になっている。
「でもなー……」
渋る僕に、ヒロミツはなおも食い下がった。
「どうして、お礼をしたいだけなのにミツタダはそんなに嫌がるんだ」
「お礼と言われても、されるだけのことを僕はしていないし」
「だから俺が、感謝しているからしたいって言っているのに何で分からないんだ」
困ったことになった、と思った。友達付き合いをしてから、初めての険悪なムードだ。
まともに口げんかなどしたことのない僕は、場を収めることばかり考えていた。
「分からないとか、そういうことじゃなくてね……」
「じゃあ何で貰ってくれないんだ」
「いいかいヒロミツ」
僕は小さな子供を諭すような調子で言った。
「僕と君は確かに友達だけど、未成年の子から高価なものを貰っても僕は嬉しくないんだ」
彼の顔が歪んだが、僕は続ける。
「君が使おうとしているお金は叔父さんから貰ったお小遣いだろ。自分のために使うならまだしも、プレゼントに使ったら叔父さんいい気持ちしないだろうよ」
言い過ぎかと思いつつも、僕の口は止まらない。
「もし僕が君に食事を奢ったりしていることなら気にしなくていいよ。バイトで稼いだものだし、僕の方が年上なんだから」
ヒロミツの歪んだ表情が、更に悲壮な、そして怒りの表情へと変わった。
「ミツタダは、俺が子供だと思ってるってことだろう」
「子供、とは思ってないけど」
「でも態度がそうだ。俺とあんたは対等にはなれないのか」
「対等、対等ではあるよ!でもほら、無理をすることが対等なのかい?」
僕がそう言うと、ヒロミツは微かに詰まった。
「僕は、ヒロミツに無理させることが対等だとは思わない」
贈り物は精神的にも金銭的にも余裕のある状態で行うべきだ、そんなことを僕は言った。
「じゃあ、俺の、ミツタダに上げたいって気持ちも、あんたには迷惑なのか」
目を伏せて、俯いた表情は前髪に隠れて見えない。だがその声は震え、自分を抑えようとしているようだった。
「迷惑とかそんな」
「そう聞こえる」
埒が明かない、と思った。このままでは押し問答が続くだけだ。
「ごめん、僕が嫌な言い方をしすぎた。僕はただ、君に無理をして欲しくないだけなんだ」
ヒロミツが顔を上げた。睨みあげるような目をして、僕を見詰めた。
「無理なんか、してない」
「君の叔父さんから貰ったお小遣いだろう?君のために使うならまだしも無駄遣いは駄目だよ」
「無駄遣いなんかじゃ、ない」
「気持ちは受け取ったよ、だからこの話はこれで終わりにしよう」
ヒロミツは暫く逡巡したように顔を微かに横に振ると、ややあって、分かった、と小声で頷いた。
納得したわけではないかもしれないが、この場が収まってよかった、と僕は無責任にそう思った。
僕たちはその後、他の店をぶらぶらと見て回った。
先程の件が響いているのか、ヒロミツは元々多くない口数が更に減っているようだった。
僕が何を話しかけても、頷くか首を横に振るかで声を出すことすら億劫に見える。
そういうところが子供なんだ、と内心思うがおくびにも出さず僕は気にしない振りで話しかけ続ける。
心なしか、名前を呼ぶ回数も増えて、まるで機嫌の悪い彼女を宥める優男のようだ、と思った。
特に会話が盛り上がることもないまま、あらかじめ目星をつけていた夕食先に向かうことになった。
「ねえ、いい加減機嫌直してよ」
料理が運ばれてきて、無言で食べ始めたヒロミツに僕は困った顔をして言った。
昼はガッツリハンバーグだったので、夜はタイ料理の店、と僕が選んだのだ。
ヒロミツは一瞬顔を上げたが、すぐに空芯菜の炒め物に集中してしまう。
僕は小さくため息をつく。
予定としては、もっとヒロミツに笑顔で楽しんでもらうはずだったのだ。
だがこのざまである。
全く自分が情けない。さっきのアクセサリーショップでの対応は、間違いだったとは思わない。
だがもう少しやりようがあっただろうか。
未成年の、年下の子に高価なものをプレゼントされるということが、倫理的に良くないと思っている。
表向きは。
その実、どこかプライドを傷つけられるような気持ちも無かったわけではない。
しかも保護者から貰ったお小遣いでなんて。
じんわりと、バイトに邁進していた高校時代を思い出す。人間関係のトラブルが続いて長続きしなかった思い出も蘇る。
何だか口の中の料理が不味くなりそうな気がして、ぎゅっと目をつぶって遡るのをやめた。
しかし、同席する相手の機嫌一つでこんなにも食事の味が変わるものだろうか。
いつもは美味しいはずの料理が、今はこんなに味気ない。
知らず知らずのうちに、ため息が洩れ出た。
「別に、機嫌が悪いわけじゃない」
唐突な言葉に、顔を上げる。あまり表情の変わらないヒロミツだった。
「ただ、どんな態度でいればいいか、分からない」
フォークで所在なさげに炒め物を突いて、彼はため息をついた。
「どんな態度って……」
僕としては、勝手な言い分だがヒロミツには気分良く一日を過ごしてもらいたい。
今日は楽しかった、と一日を終えて欲しいと思っている。
結果的に目論見は失敗しかけているのだが。
「俺は、ミツタダをがっかりさせただろうか」
僕は目を見張り、ヒロミツを凝視した。思わぬ言葉に、即座に反応が出来ない。
「がっかりなんて、そんな」
「俺は今日、ミツタダを喜ばせたいと思ってた」
でも、と言うと彼はまた炒め物を無為に突つく。
「僕はがっかりなんか、してないよ」
嘘だ。だがそう言わざるを得まい。
本当か、と問うヒロミツは半信半疑の様子で、僕の罪悪感を突つく。
「ヒロミツが元気がないと、ちょっとがっかりするかな」
付け加えた言葉が当てつけじみていないか心配だったが、彼はそうは取らなかったようだ。
悪かった、と遠慮がちに言うのが、余計に僕の胸に刺さる。
「俺は、ミツタダから見たらまだ子供なのかもしれない」
俯き加減の彼は続ける。
「でもそれは仕方ないのかもしれない」
僕は何も言えず、ヒロミツの青年になりかけの顔を見詰めている。
彼は少し僕の顔を見上げて、グッと何かを決心したような表情をした。ややあって、彼は口を開いた。
「ミツタダ、俺はあんたが好きだ」
搾り出すような声に僕は、「ああ、僕もヒロミツが好きだよ?」と軽く返した。
すると、ぱあっとヒロミツの顔が喜びで輝くようになった。恐らく初めて見る表情だ。
「本当か?」
「うん。初めて普通に友達になったし、ネットでは散々格好悪いところ見せても、馬鹿にされなかったからね」
僕が苦笑交じりに言うと、ヒロミツの顔にさっと影が差した気がした。
「そうか」
「そうだよ!」
何となく風向きがよくなった気がして、僕は暢気に笑った。
「良かった、そんなこと考えていたのか」
完全に元気になったかどうかは分からなかったが、ヒロミツが口をきいてくれただけでも僕には万々歳だ。
すっかり気をよくした僕は、打って変わって料理が美味しく感じられて普段より手数が多くなってしまった。
ヒロミツも負けじと食べている。
さっきまでの気まずさを忘れて、見た目も気にせずグリーンカレーを頬張った。
「食べ、過ぎた」
店を出て、開口一番ヒロミツが言うので、僕は噴出してしまう。
「結局また、ご馳走になってしまった」
申し訳無さそうに言うヒロミツに僕は、気にしなくていいの、とたしなめる。
レジ前で揉めると嫌だったので、ヒロミツが席を外した隙を狙って先に会計をしておいたのだ。
「ご馳走様って言われる方が僕は嬉しいから」
そう言うと彼は素直に、ご馳走様でした、と軽く頭を下げた。
堅苦しいのも何だか可愛くて、僕は何だかにやついてしまう。
「そうそう、僕も単純な男だからお礼が言われたくてしょうがないんだよね」
だから気にしないで、と言う意味合いで言ったつもりだったが、ヒロミツは顔をしかめるような不思議な表情をした。
駅に向かって歩きながら、僕は周りを見る。ちょっと遅れるようにして、ヒロミツが僕の横に並んだ。
大学生ならこれから盛り上がりが本番と言うところだろうが、高校生にしてみれば遅い時間だ。
思いの外のんびりと夕食をとっていたのかと思い返す。
大半僕が喋っていた気がするが、そのせいだろうか。
ヒロミツのためにも、これからは気をつけないといけないと反省した。
当の本人は夜も更けてしまった街の様子に特に動揺することも無く、僕が話す言葉に頷いている。
他愛も無い、大学での授業の話や教授の奇行についてだが、夕食の際にも散々話したのにまだ話すことがあるのかと自分でも驚く。
何故かヒロミツには、大事なことも余計なことも皆話してしまいたかった。
彼も嫌な顔一つせず、相槌を打ち、たまに彼なりの感想を返してくれる。
帰り道の名残惜しさを吹き飛ばしたい気持ちで、僕はべらべらと喋り続け、とうとう駅に着いてしまった。
改札を抜ける。僕とヒロミツは逆方向の電車に乗らなければいけないので自然とそこで立ち止まる。
名残惜しさもあって、僕らは壁際に寄った。
「何だかあっという間だったな」
「ああ」
「ごめんね、思っていたより遅くなっちゃっただろ。叔父さんは平気?」
「大丈夫だ。叔父貴はいくらでも遅く帰って来いと言ってる」
むしろ日付が変わる前に帰ってきたらがっかりするかもしれない、と小さくヒロミツは笑った。
「うーん、そんな訳にはいかないよ」
僕の苦笑に、彼もまあ仕方ない、と頷く。
「俺、今日は楽しかった」
「僕もだよ」
「あの、さミツタダ」
「何?」
「アクセの店の件、悪かった」
ぽつり、と言ったヒロミツの言葉に僕は驚く。
「そんな、もう気にすることないし、僕だって」
妙な罪悪感が沸き起こる。僕のつまらないプライドや倫理観を押し通すのではなく、プレゼントを素直に貰っておけばよかっただろうか。
いや、それは駄目だ。一瞬にして静まっていた心の波風が嵐になる。
「ちょっと意地を張ってた。だから」
またの機会にする、と彼ははにかんだ。
僕は彼のはにかみの理由も良く分からずに、曖昧に微笑んで、うん、と言った。
新たに電車が到着したのか、上階にあるホームの階段から人々が溢れるように下りてくる。
「僕らも、そろそろ帰ろうか」
ああ、とヒロミツが頷くので、逆方向で残念だよ、と言うと、俺もだ、と言う言葉が返ってきた。
名残惜しいが振り切るようにして、じゃあと手を挙げ振り向こうとすると。
唐突にうなじを噛み付くような若い手で掴まれ、眼前に浅黒い肌の顔が近付いていた。
そして、肉食獣が獲物を狩るような俊敏さで唇に一瞬、柔らかいものが触れ、離れていった。
「え」
何をされたか、すぐには分からずフリーズした脳がオーバーヒートする。
キスされた?ヒロミツに?
うなじはいつの間にか解放され、目の前にどこか不敵な様子のヒロミツがいる。
「好きだから」
彼は僕を睨みつけるように言った。
「また、連絡する」
そう言い残すと彼は、軽やかに背中を向けて自分の帰る方向のホームへ向かおうとした。
呆然としている僕は声も掛けられず、突っ立っているところに彼は振り返った。
「叔父貴から貰ったお小遣い」
「え、あ、うん」
「そもそも恋人にプレゼントでも買ってやれって、押し付けられたんだ」
ヒロミツはさっと背を向けると、あっという間に人ごみに消えていった。
僕は、唇に残った微かな熱がぶり返して、暫くその場から動けなかった。