17歳のレーザービーム(前編)僕が「ヒロミツ」と言う男に出会ったのは、あるチャットサイトのチャットルームだった。恐らく本名ではないだろう。インターネット上では本名を晒すべきではないし性別ですら偽装できる。ハンドルネームとチャットでの喋り方から、勝手に男性だと判じているだけで本当は画面の奥の人は女性かもしれない。老人かも知れない。
彼の本来の姿を知らなくても僕は彼の言葉に励まされ、鬱々とした気持ちを幾度晴らしてもらったことだろう。
彼はとつとつした調子で文字列を打つが、その言葉は見た目より温かい。
そうしたこともあってヒロミツはここ最近の僕の話し相手であり、相談相手であった。
「本当に、来るかな」
僕は幾度目かのため息とともに独り言を呟いた。
渋谷の雑踏はそんな声も飲み込んで覆い隠してくれる。ハチ公口なんて、人口に膾炙されすぎている上に定番過ぎただろうか。だがヒロミツが、そこでいい、と言ったのだ。グルメ評価サイトでお洒落で流行りのカフェを幾つか見繕い、場合によっては晩御飯の店も当たりをつけておく。誘った側としては、ヒロミツに嫌な思いはして欲しくない。出来れば格好良く思われたい。喜んでもらいたい。
誘ったのは僕なのだ。
軽く、一度会ってみたいね、と言ったのを思いの外乗り気で返答したのはヒロミツの方だった。僕は社交辞令ではない文字列に調子に乗って、日取りと場所を嬉々として決めたのだ。なのに、今更怖くなってくる。
周囲を見回すと、晴れた渋谷の空の下には色とりどりの人たちが交差しあって通り過ぎて行く。男女の姿は街そのものを体現して、お洒落で若々しい。
そして自惚れでなく僕はその中でも際立って目立っていた。
人より顔がいい。人より足が長い。人より格好いい。人よりお洒落。人より。人より。人より。今まで僕が周囲の人達に投げかけられた賞賛の声だ。
そして、同じだけの嫉妬と怨嗟を受けてきた。よく知らない同級生の恋人を盗ったと逆恨みされて、襲撃されたことも有る。返り討ちにしたが、気分は晴れなかった。
物心ついた頃から、女性たちの絡みつく視線と、男性たちの妬み嫉みを受けてきて22歳になる頃には、すっかり僕は僕自身に倦んでいた。
幼稚園の頃に女の子たちに両腕を引っ張られて号泣した古い思い出から、大学生の今も僕の周囲では当て付け、鞘当て、もろもろ醜い感情が渦巻いている。
それもこれも僕を自分のものにしたいという欲望から来るものだと言うのが恐ろしい。
併せて嫉妬と一部の男性からの粘つく視線が、四肢を束縛するようで苦しい。
お陰で大学でも僕は、栄光の孤独を気取るように一定の人間とつるまないようにしていた。
誤解しないで欲しいのが、僕は人付き合いが好きだし賞賛を受けることも喜ばしく思っている。自分を好いてくれることはありがたいことで、好かれた分の気持ちは返そうと思う。だが、僕自身が良くても周囲の人間は僕を中心に、そして僕を置いてきぼりにして逆巻く渦のように感情をぶつけあう。さながら僕は台風の目で、僕抜きで物事は進み、嵐の後のように何も残らない。
だから僕は必要以上に深く人と関わらない。知り合いは多いし、Twitterだって誘われるままにやっている。与えられる好意には過剰に期待をさせず、嫉妬混じりの皮肉や嫌味だって笑顔で受け流す。何せ教授とちょっと話をしているだけで、贔屓だ何だと聞こえよがしに言われるのだ。反応するのも馬鹿らしい。
僕は選択的に一人でいるのだと主張するように、身だしなみだけでもきちんとしようと思って人一倍気を使った。お洒落で、格好良く。そうでなければ孤独は途端に惨めなものとなる。無様な姿を晒せば、僕はあっという間に潰れてしまう。
ネットだけは、本音を晒せる場所だ。少なくとも、僕の顔は見えず相手の顔も見えない文字列だけの付き合いは僕をリラックスさせた。
適当なチャットサイトに入り浸り、チャットルームを立ち上げる。誘われるように僕の部屋に来た顔も知らない誰かと他愛もない話をして、たまに他所では言えない毒の滲んだ本音をひとたらしだけ漏らす。僕の本音はポケモンのピカチュウのアイコンで中和され、スパイスくらいの風味しか残らない。相手も似たようなもので、僕はひたすらにネットの海をたゆたっていた。
それが、長船光忠と言う22歳の男だ。それ以上でも以下でもない。
こんな日々の中出会ったのが「ヒロミツ」だった。
あの日僕は適当に立ち上げたチャットルームに誰も訪れず、寂しいようなイラつくようなどうしようもない感情を持て余していた。
つまらない時間が無為に過ぎつつあった時、「ヒロミツさんが入室しました」とアラームが立ち上がった。
アイコンはドラゴンだろうか。暗い色合いで分かりづらい。
ヒロミツと言う名前が、自分の本名と共通点があるようで不思議な親近感を覚えた。
「どうも」
ヒロミツは、第一声そう書き込んで、僕の話し相手となったのだった。
右手に持ったまま、画面すら見ていなかったスマートフォンが震えた。
LINEの通知が、新しいメッセージを見ろと急かしている。待ち人来たる。
『着いた。どこにいる?』
そっけないメッセージ。だが、これがヒロミツなのだ。
僕はそれらしい男性を探そうと、周囲を見回す。
彼の口調や寄り添うような言葉選び、使用しているアイコンの雰囲気から僕と同世代か、あるいは歳上なのだろうと考えられる。
何となくそれっぽい男性が数人、スマートフォンを覗いている。後は派手な、パンキッシュな服装の少年と言ってもいいような男性が一人。
『僕はハチ公の左足にいるよ。服装は黒のカーディガンに白いシャツ、黒いパンツで、黒フレームのメガネをかけてる』
打ち込むとすぐに既読がついた。君はどんな格好?探すよ、と打ち込んだところで、不意にパンキッシュな格好の少年が目の前に立った。
キャップを深く被り、Tシャツとパンツ姿の彼は、ヴィヴィアン・ウエストウッドではなくCICADAが好みのようだ。自分が着るスタイルではないが、センスのいいことが分かる。
キャップの後ろからは、長めの赤い髪がうなじに沿って見える。
僕が戸惑って彼に声もかけずに戸惑っていると、彼の方もなにやらもじもじとした様子を見せて、おもむろにキャップを脱いで「どうも」と低く呟いた。
僕は、一瞬理解する脳みそを手放した。
こうした可能性も無くはないと知っていたはずなのに。
幼さを頬に残した目の前の青年は、まっすぐな目で僕だけを見詰めていた。
※※※
――ヒロミツさんが入室しました。
ヒロミツ『どうも』
ピカリャー『やあ、こんばんは。また来てくれたんだ』
ヒロミツ『あ』
ピカリャー『嬉しいよ』
ヒロミツ『良かった』
ヒロミツ『一瞬迷惑なのかと』
ヒロミツ『思った』
ピカリャー『そんなわけないよ』
ピカリャー『むしろ僕の方が色々話し聞いてもらって』
ピカリャー『めんどくさく思われてないか心配だった』
ヒロミツ『心配いらない』
ヒロミツ『それなら良かった』
ピカリャー『ヒロミツ、聞いてくれる?』
ヒロミツ『なんだ』
ピカリャー『今日は大学の研究発表でさ』
ピカリャー『教授に褒められちゃった、よく調査できてるってさ』
ヒロミツ『すごいな』
ヒロミツ『ピカリャーは天才なんだな』
ピカリャー『そんなことはないよ』
ピカリャー『丁寧に、細かく文献と論文に当たって、』
ピカリャー『しっかりと書けばいいだけだからね』
ヒロミツ『そうなのか』
ヒロミツ『俺はそういう細かいことが苦手だから』
ヒロミツ『すごいと思った』
ピカリャー『ありがとう』
ピカリャー『相変わらず贔屓だとか言われるけど無視した笑』
ヒロミツ『奴らも懲りないな』
ヒロミツ『自分の地位が上がるわけではないのに』
ピカリャー『仕方ないね。教授はつまんない奴のことは』
ピカリャー『気にするなって言ってくれているし』
ヒロミツ『俺の親戚もよく似たようなことを言う』
ピカリャー『まあその通りだよね、そうそう』
ピカリャー『フィールドワークに行くこともあるんだよ』
ヒロミツ『それは何だ』
ピカリャー『研究対象を本だけじゃなくて現地に行って調べることかな』
ヒロミツ『遠くにも行くのか』
ピカリャー『もちろん。ちょっとした小旅行になるよ』
ヒロミツ『俺は旅行にあまり行ったことがない』
ピカリャー『そうなんだ』
ピカリャー『ヒロミツはインドア派?』
ヒロミツ『そうじゃないが』
ヒロミツ『行きたいと思ったところがない』
ピカリャー『そうか、僕は行きたいところは尽きないなあ』
ヒロミツ『いい場所があれば教えて』
ヒロミツ『くれそこに行く』
ピカリャー『いいよ!もちろん!ああ、でも文字だと』
ピカリャー『伝えづらいなあ』
ヒロミツ『そうだな』
ピカリャー『一度、一緒に御飯とか食べながら話してみたいよね』
――回線が不安定です。ネットワーク設定を確認して下さい。
ピカリャー『ごめん、ネットが不安定みたい』
ヒロミツ『別にいいけど』
ピカリャー『ありがと、また回線が安定したら話そう』
ヒロミツ『飯、行くならLINE交換しておこう』
ヒロミツ『これ俺のID』
ピカリャー『え、え?』
――回線が切断されました。
※※※
ヒロミツと会う約束をした日時の一日前。
僕はどうにも落ち着かなくて、ベッドの上でチャットログを眺めながら現実を再認識しようとしていた。
あの日回線が切れた後、ヒロミツが教えてくれたLINEIDを入力してみた。
ヒロミツ、とチャットと同じアイコンと名前が、彼が実在の人物であることを証明していて、僕はそれだけで妙にほっとした。
既にネットの世界に浸りきっていた僕は、相手が本当にそこにいるのか怪しんでいたフシも有る。そんなわけはないと思っていても、ネットの海は混沌として曖昧模糊だ。
僕がハンドルネームを名乗って本当の顔を隠すように、嘘も真も混ざり合っている。
ヒロミツとのトークを立ち上げ、「こちらではこんにちは、ピカリャーだよ」と打ち込む。
すぐに既読がついた。
チャットルームと同じ調子で、文字列が表示される。
そしてトントン拍子に会う段取りが決まり、僕はヒロミツと約束を交わしたのだった。
僕は一向に訪れない眠気を呼びこむ気も無くして、彼との記録を遡り記憶に耽っている。
『どうも』から始まるのが常の会話。そう言えば、最初に交わした言葉も彼は『どうも』、僕は『やあ』だったように思う。
変わらない挨拶、変わらないはずの関係はリアルに顔を合わせることで壊れ、また構成されるのだろう。そのことが恐くもあり、楽しみであり奇妙な高揚感で心臓が脈を主張する。
彼はどんな人だろう。
想像しても、おかしなことに自分をカリカチュアライズした人物だったりで上手く形にならない。つまりは彼と比較できるロールモデルが居ないせいだ、と思い至った。
人当たりのいい顔と声で付き合う相手は、当然に表面を撫でるような付き合いとなる。一方的とはいえ、本音を晒す相手はオフラインにはいない。
だからと言って会うことが怖いとは思わなかった。
どうしてか、悪いようにはならないと信じられたのだ。
知り合いに勧められて始めたLINEですら本名を晒さない僕が何を言う、とも思う。
だが、ログにはヒロミツを信じるに足る文字列が残っている。
『あんたはあんただ』
『俺はあんたを冷たいやつだとは思わない』
『あんたの言葉は俺に伝わっている』
焼け野原になった僕の心に、そっけない単純な言葉が恵みの雨となったのだ。
パソコンのモニターが、ぼやけて見えづらくなる。ようやく訪れた睡魔の手の中で、インターネットの海を泳ぐ夢を見ながら僕は枕に沈み込んだ。
そして、当日。僕は衝撃と共にヒロミツと邂逅したのだった。
ヒロミツはキャップを再び被り直すと、所在無さげにじっと僕の顔を見た。
僕はと言えば、彼が明らかに年下であろうことへの驚きとその容姿に釘付けとなっていた。
可愛い。少年らしさから大人へと移り変わる一瞬の危うさや、本人の無意識の背伸びが無表情のそれから見え隠れして、やけに眩しかった。
肌はやや色黒で切れ長の目は鋭い。世の中を斜に見ているのか、それとも己の理想が高いのか、射抜くような眼差しは若者らしいプライドを感じさせた。
彼が居辛そうにしていることに気付いて、僕はようやく彼に何も声を掛けていなかったことを思い出した。
「初めまして、でいいのかな。僕はピカリャー、君はヒロミツだよね」
頷いて「初めまして、は何か変な気がする」と首を傾げるヒロミツに、「ハンドルネームで自己紹介するのも変だね」と僕は笑いかけた。
ところがヒロミツは僕の顔をひたすらじっと見詰めて、何も言わない。
流石の僕もちょっと不安になる。髪型が可笑しいだろうか。顔に何かおかしなところがある?それとも服のセンスが合わなかった?
脳内でぐるぐると回る不安因子を断ち切るかのようにヒロミツは、
「こんな格好いい人が来ると思ってなかった」
と感心した風に呟いた。
急激に心からホッとする。彼の素直な言葉は言葉を尽くされるより僕を安定させた。
「僕だって、ヒロミツがこんなに若いと思ってなかったよ。ねえ幾つか聞いていい?」
問うと、彼は少しうろたえて、目線を彷徨わせ決意したように目を上げて、17歳、とぶっきらぼうに言った。
「17歳?!僕より5歳も下なの?!」
雑踏の中でも僕の叫び声は目立ったらしく、何人かが振り返った気配を感じた。
いやそれより、未成年であることに改めて驚いてしまった。
チャットルームでは少々無愛想な話し方だが、深く話すと考え方がしっかりしており、目の前のことで精一杯で瑣末なことに振り回される僕には尊敬できる人間だったのだ。
それが、17歳。僕は途端に酷く恥ずかしくなった。
目の前では彼が落ち着きのない様子で、「だからあまり言いたくなかった」と消沈してるのが見え、僕はまたも慌てた。
「いや、驚いているんだ。僕より年下なのに僕より頼りになると言うか。驚いただけで、むしろ凄いと思っているんだよ」
逆に僕が恥じ入るばかりだよ、と笑って見せると、そんなことない、と彼は言った。
「あんたを見つけて、俺はちょっと迷ったんだ。だって俺より年上なのは分かってたし」
大人の男って感じでかっこよかったから、と語尾が消え入る。
僕は、瞬間沸騰するように赤面した。ありがとう、と言う声が震える。
伏目がちにヒロミツは、
「ここに着いた時あんたのことは目に入っていた。それが俺の会う相手だと思ってなかったけど」
皆振り向いてたし、俺も暫く目が離せなかった。
照れ隠しなのか手持ち無沙汰に腹を掻く仕草が、年相応に見えて可愛い。
僕と言えば、ストレートな、あまりにストレートな賛辞にいつものように笑顔で流すことも忘れて、頭に血が上っていた。
なんだろう、この子、凄く可愛い。
年頃の男の子に言う褒め言葉じゃないが、今の僕にはこれくらいしか語彙が無かった。
スマートな対応が出来ないのは格好悪いが、ここまで分かり易く純粋に褒められておいて流すのは却って失礼だ。僕はそう思うことにした。
「さて、立ち話も変だからひとまずお茶でも飲みに行こうか」
僕がそう言うと、別に構わない、と素っ気無い返事だ。
「何か希望ある?」
「別に。俺は、そう言うの詳しくないから」
「じゃあ僕のお勧めでいいかな」
そう言うと、彼は小さく頷いた。
小顔なんだな、とどうでもいいことを思いながら、もう一度「可愛い」と僕は思った。
事前にセレクトしておいたカフェに到着すると、そこそこ混んではいるがすぐに席に通される。
メニューを見ながら、何にする?とふと彼を見ると、目をキラキラさせて周囲を見ていた。
相変わらず表情はあまり変わらないが、興奮しているのは分かる。
脱いだキャップを握りつぶす勢いで結ばれた手から一目瞭然だ。
このカフェは普段から僕も利用することが多い。道玄坂の急傾斜を上っていかなければならないけれど、渋谷の中だというのに中に入ればアンティークな雰囲気で落ち着く。
控えめなシャンデリアに革張りのソファが、オーナーがクラシックな趣味を持っているのだとよく分かり、また僕の好きなものが溢れている。
飾られた絵画はモダンアートだが、フロアには似合っていた。
陽光は望めないが、薄ぼんやりとした間接照明はささくれがちな心を柔らかくしてくれるのだ。
ヒロミツはこういった雰囲気に慣れていないのか、ソファにちんまりと座って目線が定まらない。
ただ、嫌がられているのではなく喜んでいるのが分かるのが不思議だった。
表情を頻繁に変えるわけでもなく、むしろ大人しい子なのに。可愛いなあ、と僕は幾度目かの感想を彼に抱いた。
「僕はカフェオレにしようかなぁ」
「俺も、同じの」
何となく水を向けるように言って見ると、間髪入れずに彼もそれに乗ってきた。
メニューを見てもかなり迷っている様子だったし、カフェオレなら飲めるだろう。
ウェイターを呼んで注文する。背もたれにもたれて息をつくヒロミツは、ようやく場の雰囲気に慣れたのだろう。目が落ち着いているように見えた。
パンキッシュな見た目には慣れたが、少し長めの襟足が気になる。ふわふわとした黒髪だが、襟足の先っぽだけが赤い。
赤銅色と言うのか、暗い赤色で、熾火のように見えた。
「改めて言うけど、イメージが違って本当に驚いたよ」
僕が口火を切ると、俺も、と返事がある。
「もうちょっと、普通の人かと思っていた」
「ええ、それどういう意味?」
そう問えば、ヒロミツは目線を逸らし顔も背けてしまった。答える気は無いようだ。
「僕も、実はヒロミツは同い年くらいか年上かと思っていたんだよね」
「がっかり、したか?」
見上げるように問われて、ぜーんぜん!と僕は笑って見せた。
「そりゃびっくりしたけど、がっかりなんかしないよ!お洒落だよね、パンク好きなの?」
頷く彼。少し嬉しそうに見えた。
「僕も洋服好きなんだ。お洒落するのって楽しいよね」
喋りながら、いつになく饒舌だな、と思った。ヒロミツが積極的に喋らないせいもあるが、僕自身妙なテンションで「楽しませなきゃ」と気合が入っている気がする。
空回りをしたら格好悪い。けれど、一度浮き上がった心は容易には落ちる様子がない。
「そうそう、この眼鏡伊達なんだよ、伊達眼鏡」
そう言いながら外して見せると、ヒロミツの目が見開かれた。そして無言で僕の目をじっと見詰めた。
「ど、どうしたの?」
真っ直ぐな視線に気恥ずかしくなって、たまらず問うと彼は、
「眼鏡を外したら、もっとかっこよくなった」
と見詰めたまま答えた。僕は何度目かの赤面に言葉を失った。
「そ、そういやさ!変わった髪色だよね!染めてるの?」
取り繕うように問う。そこへウェイターがカフェオレを持ってきたので、二人でほぼ同時に口をつける。
全く二人の容姿は似ていないのに、鏡みたいだ、と思った。
「そういや、ぴか、りゃー」呼んでおいて、ヒロミツが口ごもる。
「この名前、外で呼びにくい」
「あー、そうだよね」
苦笑する僕を睨むような目で彼は、
「あんたアイコンもピカチュウだし、ピカリャーって名乗ってるしピカって言葉が好きなのか」
と言った。
「んー、まあピカピカしてるのが好きなのは本当だけど、ちょっと違うかな」
「じゃあ何でだ」
「僕の本名がね、読み方変えるとピカチュウになるんだよ」
「じゃあピカリャーは?」
「それはゲームに出てくるキャラクター。ピカチュウそのまま名乗るのも何か嫌でさ」
「結構単純な理由だったんだな」
もっと深い意味があるのかと思った、と言われて僕は僅かに傷ついた。
「もしかしてヒロミツって本名?」
「そうだ」
「かっこいい名前だね」
僕の言葉が嬉しかったらしい、彼はカフェオレをカップに顔を埋めるようにして啜る。
「あんたは、俺になんて呼ばれたい?」
ピカリャーは外では恥ずかしい、と言われて、そうだな、と首を傾げる。
「本名で呼んでもらおうか。実はヒロミツと共通点があるんだよ」
「共通点」
「僕はミツタダ」
漢字は考えてみて、とからかうように付け加える。
彼は、ミツタダ、と僕の名前を復唱し、分かった、そう呼ぶ、と宣言した。
二人の間で何かとんでもなく大きなことが決定した気がして、僕の心臓が震える。
当の本人は、何かを考えているように首を傾げていた。
「ところでさっき聞きそびれたんだけど、」僕は気を取り直す。
「綺麗な色だよね、髪の毛」
染めてるの?と軽く問うと、ああ、と短い返答だ。
「先っぽだけ赤いんだね」
「元の髪色は茶色だ、赤系の。黒く染めてる」
「へえ?」
「でも毛先が痛んでくると色が抜けて、赤くなる」
「ああ、だからかー」
そこでふと疑問に思った。
「じゃあ何で伸ばしてるんだい。短い方が痛まなくない?」
すると、ヒロミツはあからさまにうろたえた。僕と目すら合わせずそわそわとしている。
何事か、と思ったが暫く観察することにした。
彼は口を開けては閉めて何かを言おうとして、ぎゅっと目をつぶった後に意を決したように言葉を発した。
「その方が、か、かっこいいから」
僕はこの時どんな顔をしていただろう。自分では分からないが、ヒロミツの反応を見る限り僕は笑っていたらしい。
「わ、笑うな。俺、俺だって」
顔を背けて赤面しつつ、身体を震わせる彼は、可愛かった。
可愛いなぁ。僕はお兄さんらしい態度で、笑ってなんかないよ、と言った。
「何かいいなぁって思っただけ。いいじゃない、かっこいいよそう言うの」
僕の言葉に安心したらしく、彼はようやく僕の方を向いてくれた。
まだ少し疑っている気配があったので、本当だよ、とダメ押しする。
「ミツタダが、かっこいいから、はずかし、かった」
彼は、心からストレートに物を言う。
ライクアンアローとか英語のことわざに有った気がするが、さながら彼はレーザービームかもしれない。
そう思うと笑いがこみ上げてしまった。
「やっぱり、笑ってる」
「違う、違うよ。ヒロミツってレーザービームみたいだなって」
「……なんで」
怪訝な顔をするのを笑顔で返して、真っ直ぐだからさ、と言葉を吐く。
僕とは違って、と言う言葉は胸の中で呟いた。
チャットルームでは、僕が弱音を吐いて彼がそれを受止める関係だったのに、オフラインで会ってみると彼は等身大の17歳で僕は大人の振りが上手い22歳だ。
不思議だ。リアルでは年齢や外面に見合ったロールを要求されるのに、ネット上ではそれが見えないから隠している本音やコアがさらけ出されてしまう。
それが楽で現実は疲れると思っていたのに、彼との会話ははネットでの付き合い方とはまた違う形で心地よかった。
「学校、高校かな。そこでも友達の話を聞いてあげてたりするのか、僕みたいに」
「いや、つるんでる奴らは悩みのない奴ばかりだ」
いつも馬鹿ばかりしてる、と少し楽しそうな様子を見せる。
「いいなあ。どんな子達なんだろ」
「金髪のチビに目つきの悪いチビ、あとひょろ長いモヤシだ」
「酷い」
「でもあいつらはいい奴らだ」
「だろうね」
羨ましいな、と言うと、あんたは友達いないのか、と矢のような言葉が悪気無く放たれた。
「知り合いは多いよ!」と苦笑いすると、彼は眉尻を下げた。
「でも、どうして」
ヒロミツの言い振りに、どこか哀れまれるニュアンスと意外だと言う驚きを感じた。
また僅かに僕は傷ついて、困ったように笑って見せる。
「意外かい?チャットでも僕は友達がいないって言ってたろう」
「ああ、だから会って驚いた」
「僕は台風の目なんだよ」
そう言うと、彼は訝しげに首を傾げた。
「僕を中心に男も女も諍いをする。僕自身を置いてきぼりにして」
僕自身は何も相手に期待させることも、妬まれることもしていない。つもりだ。
性格上、少し八方美人気味なところはあるかもしれないが。
こんなことを言ったら、君に自意識過剰だと笑われるかな、と僕は努めてにっこりと笑った。
すると、彼の表情は哀れみや嘲笑とはかけ離れた、悲しみに似た形をとった。
「泣くな、」彼の目が僕を見詰めている。
「泣くな、ミツタダ」
泣く?僕は笑っているのに、と訝しく思うと、彼は続けた。
「あんたは笑ってるつもりだろうが、俺には泣いてるようにしか見えない」
「僕、が」
「チャットでもそうだ。あんたの文字だけ泣いてるように滲んで見えて」
放っておけなかった、と消え入るような声。
僕は、ずっと泣いていたのか。レーザービームに貫かれた衝撃が、胸の奥でじんじんとして消えない。
その余波が体中に広がって、正常な反応が出来なくなった。
お礼を言うのも妙な気がするし、何だか恥ずかしくて堪らない。
カフェオレの淡い色合いを見詰めたまま、何も言えなくなった僕に対して勘違いをしたのか、
「悪かった」
と低い呟きが目の前から聞こえた。
「あんたさえ、良ければ。俺が」
俺があんたの友達になってやる。
僕が目を上げると、ヒロミツは僅かにうろたえた。
「嫌なら、いい」
目を逸らそうとする彼の目を見て、僕は泣きそうな気持ちを抑えて笑った。
「大歓迎だよ、ありがとうヒロミツ」
僕の言葉で、彼の目線は僕に戻ってくる。怒ったような表情は、照れているらしい。
「こんな年上でも構わないかい?」
そう問うと、あんたは年上っぽい感じがしない、と一刀両断された。
ごもっとも、と返すと、悪い意味じゃない、と彼が言う。
僕は、今までになく目の前の彼のことが知りたくなった。
普段僕自身が消費されるばかりだから、上っ面の付き合いを心がけていたけれど。
深い付き合い、って奴をもう一度してみてもいいじゃないか。
僕は、彼と話がしたい。
彼の目を見詰め、僕は口を開いた。
<続>