0915新刊ねこたな本サンプルぴん、もったり、ふすん
「それじゃ、留守をよろしく」
肉球のない大きな手のひらが迫ってくる。頭のすぐ上で止まったその手に、いつものように首を伸ばして、濡れた鼻先をくっつけた。
ドアが開いて、外のにおいが流れ込む。ドアが閉まって、先生がいなくなる。
新兵衛はまだ姿勢よく座っている。しばらくそのまま、閉まったドアがガチャガチャ音を立てないか、耳をぴんと立てて見つめている。先生はたまに、すぐ戻ってくることもあるからだ。しかしどうやら、今日は違ったらしい。足音が遠ざかり、聞こえなくなった。こうなると、先生はしばらく戻らない。
新兵衛は立ち上がり、背中を弓なりに丸く持ち上げて伸びをした。それから先生の脱いでいったスリッパのにおいをよく確認し、最適なポジションを模索しながらその上にもったりと丸くなった。先生は帰ってくるとまたこのスリッパを履く。しっかりと温めておくのが新兵衛の仕事だ。
玄関はしんと静まり返って、やっぱり先生は戻らない。新兵衛はふすんと鼻息を吐き、あくびを一つして目を閉じた。
『壊れてるなら部屋自体が映らないと思うけど……』
「しかし映像がずっと固まって動かないんだぞ。丸一日」
帰ってきた先生はスリッパを履いて、声だけの龍馬とお話をしている。姿はなく、においもない。遠い声だけが聞こえている。新兵衛は留守番のご褒美をもらい、満腹で毛づくろいをしながら、耳だけ先生の方に向けてお話を聞いている。
『おりょうさんだって丸一日動かないことはあるよ、脱皮前とか……ラットあげた日とか』
「田中君は脱皮しないし、消化中も動く」
『今は家? カメラの前に行って自分が映るか確認してみたら』
先生が立ち上がる。新兵衛のクッションまでやってきて、隣に腰を下ろした。顔を揉まれて喉が鳴る。しかし先生の目は、新兵衛ではなく右手に持った小さな板を見ていた。
「…………映ってるな」
『ほらぁ〜』
先生が板と新兵衛と、それから棚の上を交互に見比べる。棚の上からは、昨日龍馬が来て置いていった白い何かがこっちを見ている。昨夜のうちによく調べたが、動かないし、声も出さない。害のあるものではなさそうだった。
「しかし、それなら何故……」
『昼間は違うところにいるだけじゃないかな』
「うーん……このクッションがお気に入りなんだが……」
『帰った時もそこにいた?』
「いや、いつも玄関まで迎えにきてくれるからな……」
新兵衛は先生の手に額を擦りつける。耳の付け根をかりかり掻かれて、喉の音が大きくなる。愛されてるんだね、という龍馬の言葉の意味は分からなくても、新兵衛は明日も一日スリッパを温めるだろう。
べちん、がさごそ、がりごり
先生の帰りが遅い。ずいぶんと遅い。新兵衛はスリッパの上で、もう何度目か分からない毛づくろいを始めた。先生が帰ってきた時、ふかふかの毛皮としてお出迎えするためだ。
もう玄関は真っ暗になっている。外もそうだろう。先生の目は、新兵衛とは違って、暗いところではよく見えなくなるらしい。家の中では、布団に挟まる時以外、常に居場所を明るく保っている。暗いままで歩こうとして新兵衛の尾っぽの先を踏んづけて以来、ずっとそうだ。
そんな目で夜闇の中を歩くのは危ないのではないか。外は、車も走っている。せめて新兵衛が一緒なら──そう思って見上げたドアノブが、がちゃがちゃと鳴った。新兵衛は即座に身を起こした。が、この音はいつもの先生の音と違う気がする。耳をぴんと立てて扉を警戒する。がばりと無遠慮に扉が開いて、現れたのは、
「おん、出迎えご苦労」
――やはり先生ではなく、けむたいにおいをまとわりつかせた以蔵だった。新兵衛は尻尾でべちんと床を叩いた。
こういう夜が、たまにある。先生は帰ってこなくて、以蔵が一人で現れるのだ。先生のテーブルに勝手に陣取り好き放題に飲み食いし、戸棚を勝手に開けて新兵衛のカリカリを皿に出す。仕方ないので、食べる。カリカリには罪はない。放っておけばにおいが飛んで風味を損なうし、いつもの食事の時間はとっくに過ぎていた。
「うまいか? 以蔵様のメシは」
以蔵が覗き込んできたので、低く唸って追い払う。食事の時間を邪魔されるのは好きでない。こいつがこのカリカリを奪って食うことはないと分かっているが、それでも皿の近くに来られると落ち着かないものだ。新兵衛の一喝になんじゃあと不満げに鳴くと、もじゃもじゃ毛皮はテーブルの方へ戻っていった。
カリカリはすぐに消え失せた。先生はもっとたくさん皿に入れてくれる気がする。以蔵は何も分かっちゃいないのだ。不満は残るが、活動に支障はない。新兵衛は口の周りを舐め、少し考えて、この家で一番高い場所へ上って休むことにした。あのもじゃもじゃが悪さをしないか、監視する必要がある。
「お、タワー上りゆう。結局爪研ぎは使いゆうがか?」
頬杖をついた以蔵が見上げてくる。なんとなく気分がいい。余裕のあるところを見せつけてやりたい気持ちになって、新兵衛は食後の毛づくろいを始めた。
「ほうじゃ、あれよ、前に動画で見たんやが」
以蔵は酒を飲む手を止めて、持参したビニール袋をまさぐり始めた。あのがさごそいう音は、どうしてこうも興味をそそるのだろう。どうせ酒か、臭い食べ物が出てくるだけなのに、がさごその方に耳が向いてしまう。
「これじゃ、交換所にあったき思い出してな」
袋から出てきたのは、やはり新兵衛には関係のない、人間の食べ物のようだった。耳だけそちらに向けたまま、知らぬふりで胸毛を整える。包装を破る音がする。中身が出てくる音がする。胸毛をふかふかにし終えて、一応、ちらりとテーブルに視線をやると――――。
「……⁉」
目を疑った。テーブルの上、申し訳程度に敷かれたティッシュの上に、大便らしきものが鎮座していたのだ。
大抵の猫がそうだが、新兵衛もきれい好きだ。排泄は決まった場所で行うし、事後はしっかりと埋める。水場や餌場はなるべく、そことは離れた場所がいいと思う。テーブルは先生のお食事の場所だ。そんなところに大便があっていいはずがない。まさか、以蔵がそこで脱糞したのか? 新兵衛が毛づくろいをしている間に?
「うおっ⁉ そんなとこから飛べるがか」
駆け降りるのもまどろっこしく、最上段から飛び降りる。テーブルに急行する。やはりこれは、どう見ても、あれだ。新兵衛の糞のにおいではないから、やはり以蔵のものだろう。変なものばかり飲み食いしているから糞のにおいもおかしくなっている。およそ排泄物らしくない、甘い香りだ。
「っふ、ふふ、埋めてくれるがか? 優しいにゃあ」
砂掻きの手つきはしてみたが、砂が無くては埋められない。どうするのだ、こんなところで脱糞してしまって。片づけられるのか、先生がお帰りになる前に。
「やけんど、これはなぁ……食いもんながや!」
ティッシュの上の大便の、ひときれを以蔵がつまんだ。片づける気になったのかと思ったのもつかの間、何をトチ狂ったものか、以蔵は大きな口を開け、そのひときれを放り込んでしまった。
「――――⁉」
がりごりと躊躇いのない咀嚼音が響く。冗談でも見間違いでもない、この頭のおかしいもじゃもじゃは――食ったのだ。
「うンまっ」
ふたつ、みっつ、大便が以蔵の腹へ消えていく。狂った人間というものに初めて至近距離で遭遇した新兵衛は、その異常さに気おされ呆然とするばかりだった。
「食うか?」
四つ目を鼻先に押し付けられ、思わずはたき落とす。にたにたと狂人の笑みを浮かべた以蔵と目が合う。背中を見せないようじりじりと後退し、ソファの陰に身を隠した。刺激しないほうがいい。何をするか、分かったものではない。とうとうげらげらと声を上げて笑いだした以蔵を見て、新兵衛は肉球に汗をにじませ、ぎゅっと身を固くした。