【dnkrBL】ぬるい水、暗い惑星、知らない宇宙
「ああ親友、知っていたかい? 恋をすると、世界の美しさに気付くって」
うっとりとうたう声はトンカ豆の香りよりも甘い。胸焼けしそうな晶の言葉を聞き流して、蛍は苺のミルフィーユをマイフォークで口へ運んだ。数多取り揃えられたケーキのなかでも、これはシェフパティシエ自ら腕をふるった自信作だ。ぷつりと赤い苺は小振りながらみずみずしく、広がる甘さは清らかで、文句なしに美味しい。
この横浜は山手のティーパーラーを、蛍と晶は気に入っていた。味が良いのはもちろんのことだが、何より蛍が重視しているのが清潔さであった。持参したカラトリーを使おうが、強いアルコールで手指を消毒しようが、干渉してこないところも好ましい。
しかし自称親友の惚気話をききながらではどうにも仕方ない。
「世界が美しいだなんてね。晶は泉に映った自分がいちばん好きだったじゃないか」
「だろう? 俺もそう思っていたのだけど」
否定しないのか。
得意客だけが案内される、ステンドグラスが陽に透ける個室には、もちろん晶と蛍のふたりしかいない。恥ずかしげもなく恋の楽しさを語る晶に、冷ややかな目を向けるのは蛍ひとりだけだ。
「恋はすべてを変えてしまう。目を閉じるとあの月が浮かぶんだ」
「そう、それは素晴らしいことだね。ずっと目を閉じてれば?」
「ああ、きっとあれは運命だった。そうとしか言えないじゃないか」
「運命? ずいぶんロマンチックだね」
「だって、なにかひとつでも違っていたら、ぜんぶ違っていただろう。なんだってそうだ。あの日、ありとあらゆる選択をしたうえで、俺たちはあの場所にいた。必然の積み重ねは運命だ」
断定の声は強く、淀み無い。蛍をひるませるほどに。
「……晶が何にうつつをぬかしても僕は構わないけど。やるべきことはちゃんとしてよ」
「蛍! この紫藤晶、勉学に、ダンキラに、手を抜いたことがあったかい?」
器用なウインクに返事代わりのため息をつきながら、蛍は内心で晶の発言を肯定した。
月光院ノエルとの邂逅を経て、晶は明らかに意欲を増していた。貪欲と言っても良い。いっときは何かと理由をつけて敬遠していた学術誌も、今は貪るように読みふけっている。
自分たちのもとから去っていた男――創真を思い出し、ふさいだり、一転して怒ったりすることも無くなった。ささやかなことに彼の面影を見て、静かに悲しむことも。
俺は愛を信じているんだ。愛で全ては進む。
……バカバカしい。あのとき一蹴した言葉が蘇り、蛍は思わず顔をしかめた。創真の甘えるような喋り方は、ねっとりとヌガーのようにこびりつく。それはいつまでも蛍の中に居座って、頭の片隅を白く濁らせた。
しばらくの無言。聞き役が多い自分ではなく、絶えず何かと口を動かしている晶が黙っていることが珍しくて、蛍は晶をちらりと見た。晶はなにか言いたげな顔をしてうつむいていたが、意を決したのか、ゆっくりと口をひらく。
「蛍、もし君が……」
晶は言葉に詰まり、冷めた紅茶をひとくち飲みんだ。わかい果実のように濡れた唇が、再び動きだす。
「もし君が、誰かに恋をしたら、俺は心の底から応援するよ。誓っても良い。君の幸福のために尽力しようじゃないか。
恋はほんとうに良いものだよ。世界をかえる。俺は恋をして、はじめて自分の心臓がどこにあるのかわかった。自分の手がひとより大きいと知った。すべてを捧げても良いと思えるほどの感情は、きっと人生のささえになると思うんだ」
蛍をまっすぐ見つめる瞳は、誰も知らない泉のように、ぞっとするほど澄んで光っている。
この男は誰だろう。蛍の知っている晶は、創真の裏切りに傷つき、怒りと悲しみに震える子供であったはずだ。一方的な恋の希望に胸を踊らせ、愚かに愛を乞う少年では無かった。
幼馴染の顔が恐ろしくて、蛍は思わずつばを飲み込んだ。底なしの馬鹿だと常々思っていたが、最近の彼はいよいよ狂人じみている。
「あのね、晶。君の幸福を押し付けないでくれるかな。僕は心臓のありかだってわかってる。支えなんかいらない。そんな日は、永遠に来ないよ」
弱く震える語尾に愕然とした。制御不能の自分のからだに鳥肌が立つ。
「はは、未来のことはわからないさ。俺がそうだったようにね」
晶はほころぶように笑った。それが思いがけず、あまりにも無垢なので、蛍は鼻白んだ。誰に見せるためでもない笑顔は、純粋を通り過ぎて幼稚舎の頃のようだ。
気が抜けるとおもたい怒りがふつふつとわいた。
愛だの恋だの、ばかじゃないのか。愛を信じて、恋に狂って、何がしたいんだ。
そんなもの、この世のどこにもありはしないのに。
「……どいつもこいつも……」
「蛍?」
「独り言だよ。晶は耳が良いんだね。普段の忠告もそうやってきいてくれればいいんだけど」
もう全てが面倒だった。思考を塗りつぶすように、皮肉を交えて笑う。
あれは仲間を捨てたんだ。ふたりきりになってしまった。
そう言ったのは自分だったか、それとも晶だったか。
記憶は輪郭を失い、ざらついた遺恨だけが残った。取り留めない思考は記憶を呼び水に、寄せては返す波となる。いっそ忘れてしまえば楽になれた。なれる、けれど。
ケーキ目掛けて突き立てたフォークは皿に当たって硬い音を立てた。ここは気に入りのティーパーラーだ。食事は美味しく、何より清潔で――しかし、すべてがよごれて見えるのはなぜだろう。
晶はまだ微笑んでいる。光を受けるそれがまぶしくて、蛍はそっと目を閉じる。三日月は浮かんでこなかった。