Good Old-Fashioned Night「おまえの顔、久しぶりに見たな」
突然、声をかけられて横を見る。腰をおろした上官は、階級が近い顔見知りだった。いつも同じオールバック、同じ整髪剤の匂いだ。「おい、痩せたんじゃないの?」
マーヴェリックは最初、冗談かと思う。相手なら、じぶんが相棒を亡くした事故について、最低でも尾鰭のついた噂話くらい耳に挟んでいるはずだったからだ。マーヴェリックは口を開き、両の手を開き、あわせ、それでこう答える。ボーリング場には爆音のシンセポップがかかっている。
「──最近、こっちへ寄港する機会がなくて、」
「でもきみ、最近はふつうに飛んでるんだろ?教官は肌に合わなかったって聞いたよ」
横から顔をだした、上官の連れらしい男 (つまり上官) が笑う。それでようやく合点がいく。このふたりは、マーヴェリックにまつわるゴシップを知っていて、しかもそれについてなんにも気にしちゃいないのだ。マーヴェリックがなにかこたえる前に、隣のオールバックが唾を飛ばして肩を組んでくる。
「当たり前だろおまえ、こいつをだれだと思ってんだ。おれたちの空飛ぶ一匹狼だぞ──狼は狼だ。ガキをまとめあげる牧羊犬じゃない」
「話はよくきいてるよ。案外、素朴で素直なやつだってのもな」もうひとりの上官は笑いながら、上官の隣に腰をおろす。眼鏡を外す。それで、オールバックを挟み、マーヴェリックを覗きこむように上半身を折って言った。「おれとしちゃ、きみのウィングマンよりずっと親しみがもてる」
基地内のボーリング場は騒がしい。前はよく通っていたものだったが、こんなにも熱気のある場所だっただろうかとマーヴェリックは考えながら、グラスの汗を指の腹で拭った。横で、オールバックはソファに深く座り直す。
「なんだったったけ……アイスマン?温厚で、話のわかるやつだ。いいじゃないか」
「おまえがお人好しだからそう思うんだ。かれは自らを温厚に "みせてる" んだ。コールサインの意味を考えな」
マーヴェリックをここへ連れだした同僚が、向こうでハイスコアを出して雄叫びをあげる。かれの顔はすぐに、立ちあがった男や女の肩で塞がれ、マーヴェリックからは見えなくなる。
「かれは油断のならない男だよ。おまえ、心配だなあ、そのままじゃ寝首をかかれるんじゃないか」
「だれに」
「かれの」眼鏡はこちらに目配せをした。「ウィングマンにだよ」
マーヴェリックは黙ったままだれに向けるでもなく口角をあげて、ちょっと顎を引く。グラスのなかの氷が音を立てる。
「おまえなあ……」オールバックは呆れたように腕を組む。「人を疑りすぎなんだよ。だいたい、兵学校の頃からそうだった。おれはおまえのそういうところがずっと気に食わない。おれが苦労して持ちこんだタバコすら受けとらない」
「言ってろ。おれという人間はずっとこうなんだ」
「おまえがそういう態度だからあのとき、」
オールバックが口にした途端、眼鏡のグラスが音を立てた。ローテーブルの上で、ピンボールみたいに氷が跳ねる。
「……後輩がいるんだ」眼鏡の穏やかな声は、羽目を外す海軍兵や基地内の人間で騒然としている場内で、不思議なほど響いた。「昔の話をしたってつまらないだろ」
「おれがしてんのはこれからの話だよ。寝首をかかれるんじゃないかって怯えてるおまえに、だれも命を預けたいなんて思わない」
「おれたちは結局のところひとりで飛んでるんだ。自分の命は自分で守るので結構」
「差し出されたタバコを一本吸えやそれでいいんだよ!」
「吸いたくなきゃ吸わなくたっていいはずだ」
「"マーヴェリック" だって、」場内のカラーライトがぐるりと回って一瞬、マーヴェリックの瞳孔を刺した。
「──相棒と飛んでた。だろ?」
オールバックがソファを叩いたのか、乾いた革の音がした。マーヴェリックは黙っていた。グラスをもち、立ちあがる。
「飲み物とってきます」
人混みをぬって歩きながら、マーヴェリックは考えていた。おれもいつか寝首をかかれるのかな、と。
マーヴェリックが眠れなくなったのは、トップガンの教官を二カ月で降りてすぐのことだった。
夜、停泊中の艦内でひとり横になり目を瞑ると、海が鳴る音ばかりが頭のなかに反響して、考えることも眠ることもできなくなる。仕方がないので目をあけて起きあがる。狭い二段ベッドにひとり。目を瞬いて、暗闇に目をこらす。ポタリ、と天井からなにかが滴り落ちる音がする。
マーヴェリックはおもむろに手を広げてそれを受ける。蛍光グリーンだ。もういちど瞬きをする。マーヴェリックの手のひらは、ただ暗闇のなかにひかるように浮かびあがっている。
「いるんだろ」
マーヴェリックはつぶやく。
「いるんだろ、グース」
こたえはない。海の音だけがしている。頭を振って立ちあがり、グラスに水を汲んで飲みほす。
ベッドに戻ったところで、ノックがあった。
「消灯時刻を過ぎてるぞ」
扉を開けた先にいたのは、アイスだった。マーヴェリックは呻きながら頭をかき、「あかりはつけてない」と返す。
なにも言わず、マーヴェリックの横を通り過ぎて部屋に入ったアイスは、あかりをつけ、椅子に腰かけた。
「いまはついてるみたいだぜ」
「それはおまえが、……うん」マーヴェリックはばからしくなって、黙り、へなへなと二段ベッドの下へ辿りつき腰をおろした。
「いつから寝てない」アイスは言った。
「寝てる。多少だけど」
「眠る試みに疲れきった末に朝方眠る」アイスは続けた。「そうだろう」
「おまえ、いまはこの基地にいるの?しらなかったな。まあおれ、だれの配属地もぜんぜん覚えられないけど。たしかいまは輸送指令をやってるって聞いた気がしてた」
「野暮用だ。やることはあとひとつだから、あすには発つよ」
「うん、やることって?」マーヴェリックは指を折ったり開いたりしながら尋ねるでもなく尋ねていた。
「おれの、不眠のウィングマンを寝かせる」
思わず鼻で笑った。「だれからきいた?」
「まあいいじゃないか」アイスは、いつもそうやるように、自分の手の内を晒さないまま温厚に笑った。「兵学校時代に良質な睡眠のとりかたについても齧ったんだ。いつもはどうやって寝てる?」
うーん、と唸りながらマーヴェリックは頭をかき、ベッドに横になる。ブランケットを身体にぐるりと巻きつけ、頭まで覆って、両足をピッタリ揃える。
それを見ていたアイスは、足を組み直した。
「こりゃ寝れないわけだ」
「うるさい、おれの睡眠を放っておいてくれ」
まあまあ、と言いながらアイスは立ち上がる。その背中で照明がさえぎられる。その手が伸びてきて、肩をおされる。仰向けに倒れたマーヴェリックの身体からブランケットを剥ぎとって、かけなおす。
「芸がないけど、ふつうの姿勢で寝るのがいちばんだ」
「うるさい」
あとは呼吸だよ、呼吸、と言いながらアイスはマーヴェリックの肩を叩いた。それから照明を消すと、にわかにベッドへと足をかけた。
「なにやってんのおまえ」
「呼吸」
「狭い!」
「呼吸だよ」
マーヴェリックの横にうまいこと寝そべったアイスは肘をついて、頭を支えた。暗闇のなかで目があう。
「アイス、おまえさ……」
「目を瞑って、呼吸に集中するんだ。海の音でもいい」
「海の音をきくと頭が酔っ払うんだ」
「海の音をたんにきくんじゃない、それに呼吸をあわせる」
「そういうことって、説明されてできた試しがないよ、おれ」
「説明されなくてもできるってことだ、おまえなら」
ヒッヒッヒと笑うと、こちらも笑いを含んだ声が「いいからやってみろよ」と言った。
瞼をおろして、海の音をきく。蛍光グリーンのインクが雪崩れ込んできそうになる手前で、息を吸う。酸素が身体をまわる。とめて、それを味わう。ゆっくり吐く。波は寄せて、返す。潮は満ちて、引いていく。グースのまわりの救助用インクは、ゆらめきながら、漂いながら、広がっていく。
「その調子だ」
どこからか声が響く。安心する声だ、とマーヴェリックは思う。かれの前で眠りにつくことが心地よいと感じた。かれに頸動脈をさらし、呼吸のリズムの手綱を握られ、そうやって眠りにつくことが心地よいと感じた。
いつアイスがいなくなったのかはわからない。翌朝、机の上には、『呼吸だ。ICE』と書かれたメモがあった。
カウンターでドリンクを頼みながら、マーヴェリックは振り返る。青い場内はあまりにうるさく、それがかえって静寂に思えるほどだった。
アイスはあれから二度きて、マーヴェリックが眠るのを手伝った。最近はひとりでもすんなり眠りにつけるようになってきた。
『おれたちの空飛ぶ一匹狼だぞ──狼は狼だ。ガキをまとめあげる牧羊犬じゃない』
たしかに牧羊犬じゃない。おれはどっちかというと羊なんだ、とマーヴェリックは思う。牧羊犬にいいように導かれる羊。それで眠れて、飛べるなら、文句はなかった。
アイスは、不正に持ちこまれたタバコが差し出されたとき、それを受けとるだろうか。相手によるだろうと思った。おれがタバコを差し出したら、受けとるだろうか。考えてもわからなかった。向いてない。こういうことを考えるのはアイスであって、おれじゃない。
「相棒と飛んでた」声に出して呟いてみる。
「"マーヴェリック" だって、相棒と飛んでた。だろ?」
そのちいさく、控えめな呟きは、いま、今夜最高潮の盛り上がりを迎えるボーリング場にいる、だれの耳にも届かない。長い夜になる。カウンターからグラスが3つ差し出される。マーヴェリックはそれを受けとり、テーブルに戻る道を歩く。アルコールの入ったグラスはとろみを帯びた光を返す。
それから三十年後、砂漠の夜にひとり眠るとき、あるいはまた老いた身体に鞭を打って艦内で眠るとき、マーヴェリックは目をつむる。そして、「呼吸だ」というあの声を思い出す。あるいは、「その調子だ」という声を。ときにそれがかえって眠りを妨げることもある。そういうとき、マーヴェリックは仕方がないので目をあけて起きあがる。ベッドにひとり。目を瞬いて、暗闇に目をこらす。
「いるんだろ」
マーヴェリックはささやく。
「心配するな」
こたえはない。海の音だけが、砂漠の風の音だけがしている。マーヴェリックは続ける。
「アイスに呼吸のやりかたを教わったんだ。だから、大丈夫だ」
──そうだろ?