MISS YOU SO BAD父は重要な会合をいつもレストランの個室で行っていた。なぜ大勢でごった返すファストフード店でやらないのかとプリンスは尋ねたことがある。そちらのほうが双方に緊張感が生まれて不用意な発言も減るうえ、盗聴されるリスクも減らせるのではないかと。
「一理あるな」父は言った。「しかし、相手にとっての私は友であり、敵であってはいけない」
個室で向かいあい、囁きあう、ここでわたしたちのあいだには絆が生まれるのだ。父は両の手を顎の前で組みあわせて蝋人形のように微笑んだ。それで、こう続けた。
「女のおまえには理解しがたいことかもれないな」
わたしはいまから、あのクソ男のアドバイスを珍しく聞き入れるのだ、とプリンスは思う。
エントランスにずらりと並んだ日本人のホールスタッフたちが大声で挨拶をして、うつくしい角度でお辞儀をする。その笑顔に目もくれない客たちは、一目散に目当ての台へと吸い込まれていく。
列のなかにいたプリンスは、目があったホールスタッフに下唇を突き出して眉をあげると、スロットが並ぶ通路を足早に抜けた。開店時間は大入り満員だ。耳をつんざく爆音と時折鼻を掠める生乾きの匂いに顔をしかめながら、喫煙室に辿りつく。
コンパクトミラーを取りだして、ウィッグと化粧を確認すると、メガネの位置を直し、プリンスは喫煙室に足を踏み入れる。
喫煙室のなかでリュックサックを開け、仕掛けにとりかかろうとしたとき、ビール腹の青年が入ってきた。プリンスのほうにちらと目線をやったあと、かれはポケットから真っ赤な箱を取りだす。それを両の手の先を揃えて床の隅に置くと、一礼し、手を二回叩きやった。もういちど深く礼をしたかれは、喫煙室を後にする。
きちんと向きの揃えられたマルボロが一箱。
せっかくなのでこれを使おうとプリンスは思い立つ。彼女はリュックサックのなかから同じ銘柄の箱を取り出すと、青年が供えたものの横に揃えて置いた。
ひとつは本日の武運を祈るために幸運の象徴として供えられた箱。ひとつは昨晩、プリンスが毒を染みこませたひと吸いで酩酊に似た状態になる特性の箱だ。
約束の時間をやや過ぎて、息を弾ませた木村が喫煙室にやってくる。
かれは長い前髪の下から赤らんだ目でキョロキョロと室内を見渡す。先客であるスーツ姿の男が、苛ついた様子で爪先を床に打ちつけ、重たい煙を吐いた。「出ないの?」「出ない!出ないよ!あんたはどう?」「出ないねえ」「そうですよ!」スーツの男とそんな問答をしたのはスカーフを巻いた老女で、彼女の指の幅よりも小さくなった吸い殻を灰皿に押しつけ、彼女は出ていく。木村は残ったスーツの男を仕事相手かと思ったようだが、かれはまだ8割以上残っている吸い殻をあっけなく捨て、大きな足音を立てて喫煙室を出ていった。
残ったのは、奥の壁にもたれているプリンスと、棒立ちの木村だ。
「……don't you smoke?」
プリンスがそう声をかけると、木村は反射的に waiting for my friend, と言ってから、おもてをあげた。いまのが英語だったことに気がついたのだ。かれはこちらを不審そうに見て、逡巡して、「持ってないんだ」とつけくわえた。
この英語を話す若い女が仕事相手なのか、それとも仕事相手は待ち合わせに遅れているのか、はかりかねている。
プリンスは顎をしゃくって、「あるじゃん」と言った。
隅の床には二箱が並んでいる。
「このマルボロは……」木村は言葉をつまらせる。「人のだろ」
「だれかが置いてったんだから、次に手にとった人のだよ」
木村は黙って、それからプリンスのほうへと歩いてくる。彼女の横にしゃがみこんで、二箱並んだところから、無造作に、なんの思慮もなく一箱とった。──プリンスが用意した箱だった。
彼女がさしだしたライターを遠慮した木村は、数歩下がって距離をとり、自分のジャケットやパンツのポケットを順番に叩き、古びた蛍光色の使い捨てライターを取りだした。プリンスはそれを眺めている。なんだ、と拍子抜けしていた。生命力だけは泥のようにあると評判のこの男には、なにかそういった匂いを嗅ぎわける本能が備わっているのかと期待したが、なんてことはない、愚鈍な男がたんにいままで偶然の運に恵まれてきただけだったのだ。そして、その運はここでつまらない尽きかたをした。毒入りのマルボロを一本抜きとった木村は、それをくわえ、火を──つけようとした。
間抜けな音がして、ライターはいつまでたっても火を灯さない。
カチ、カチ、と何度も何度も執拗に音を立てた木村は、カチカチカチカチと握ったライターを潰しそうなほど弾き、火花が飛び散って、それでも火はつかなかった。かれは癇癪を起こしたようになって、ライターを床に叩きつけ、咥えていたものと箱も合わせて投げつけると踏み躙って蹴りとばした。
肩を上下させ、木村はそこに立ち尽くしていた。あまりに突発的に巻き起こったこの怒りをどうしたらいいのかわからず、棒立ちになるしかない、といった風情だった。
彼女にとって、人のこんな様子を見るのははじめてではなかった。冬のことだったと思う、プリンスがまだ眼鏡をしていたころ、学校から家に帰ると庭先に兄が立っていたことがあった。周りには踏みにじられたタバコの箱、中身が散らばっていて、春になれば花が咲くはずの鉢植えがいくつも割られ、だれがいつ買ってきたのか趣味の悪い狸の置物が破片になって遠くまで散らばっていた。
兄はプリンスのほうへすこし目線をよこし、それからまたぼうっと周囲を見た。まるで、この惨状を巻き起こしたのは見知らぬ他人であり、自分はたったいまこの現場に出くわしてほとほと困り果てているといったような顔だった。大方、久しぶりに家にものを取りにきたところをこちらも久しぶりに帰宅していた父に不運にも捕まり、説教を受けて庭に飛び出し、一服しようとして火がうまくつかず、こんなことになったのだろうとプリンスは思った。吐く息が白かった。
「お母さんは」
プリンスが尋ねると、兄はひとこと、こう言った。
「知らないよ、あんなババア」
兄は母の葬式でもこう言った。父はかれを殴った。父が部下から差し出されたハンカチーフでようやく手を拭ったとき、その下で伸びている兄の顔はまるで、父の部下たちがつけているお面みたいだった。
実のところ木村にとっても、人のこんな様子ははじめてではなかった。
式の前、控え室から姿を消した彼女──元妻となるその女は式場の裏にいた。
「信じられる?喫煙室ないんだよ、ここ」
背後に立った木村に向かって、彼女はそう言った。
「うん」
若かったから、見学に行っただけのつもりが今即決しないと値段がこんなにも跳ね上がるという脅しにやられ、はじめに見にいったところに決めてしまったのだ。彼女はその話を彼女の親に大笑いしながら電話で披露していたが、木村は父・茂に口が裂けても言いたくないと思った。
あと一本だけ、と彼女は言って、くわえたそれに火をつけようとする。景品の古い使い捨てライターだった。ふたりの部屋にはそれがたくさんあって、オイルはまだまだ入っているのに、火だけがつかなくなっていく。気がつけば、彼女は嵐のようにそれを床に叩きつけ、地団駄を踏んでいた。まだほんの子どもみたいだった。
気が済むまでそうして、そのあと立ち尽くした彼女はこう呟いた。
「わあ、びっくり」
……行こうか、と木村は言う。ごめんね、ありがとう、と彼女は木村に体を寄せ、腕を回しながら囁く。
あの結婚式で、会場にいる父は薄暗い照明を受けながらとても満足げな顔をしていた。
パチンコ屋の狭い喫煙室で、木村は息をおさめ、「……息子の保護者会があったんだ」と呟いた。「すごく、面倒で、──ストレスが溜まる。もちろん、あんたには関係のないことだけどな」とぶつぶつ言い訳をしながら、ひしゃげた箱と散らばった中身をのろのろと拾い集めた。それらをまとめて灰皿に押し込むと、隅の新しい箱を手にとった。
かれはそれの封を切り、今度は大人しくプリンスが差し出したライターの火を受けとり、はじめのひとくちを吸って、味わい、大きく息を吐いた。
ひとつは本日の武運を祈るために幸運の象徴として供えられた箱。ひとつは昨晩、プリンスが毒を染みこませたひと吸いで酩酊に似た状態になる特性の箱だった。
最初、木村は後者を選んだ。にもかかわらず手持ちのライターはガス詰まりを起こしており、かれはそれに癇癪を起こし、新しい箱を選んだ。いま、プリンスの目の前では、だれかの幸運の象徴として供えられた煙草を、躊躇いなく、削るように吸う木村がいる。あのビール腹の青年の幸運を、この男が吸っている。ホールで台の前に座っている青年の幸運を、この男が吸い潰していく。男はそれを知らない。
プリンスはおかしかった。思わず短い笑い声が出て、木村はプリンスのほうを見やる。一本差し出されたので、断る意味で手をひらひらと振る。
あの冬、兄は土にまみれた煙草を拾いあげ、それに今度はうまく火をつけてうまそうに吸った。
プリンスが横に立って、それを興味津々に眺めていると、かれはあの垂れ目を細めてわざとらしく首を振った。
「おまえにはあげない」
「どうして」
「毒が入っているかもしれない。だから、だれからももらっちゃダメだ」
プリンスが不服そうに兄を見ると、「おれはいいんだ」兄はのんびりとそう言った。
「おれはばかで、役立たずだから」
おまえは賢いから、賢い人みたいにして生きるんだろ、と兄は続けて、くわえていた煙草を指に挟んだ。
それからプリンスの眼鏡を外し、頬骨の高いところに唇を落とした。
母はよくこうして、兄やプリンスの顔に長いキスをしたのだ。顔を離した兄は笑った。プリンスも笑って、それで、そういう冬があった。
この男に、父の首を討つのを任せようとプリンスは決める。喫煙室の壁にもたれ、腕を組みながら目の前の痩身の男を眺めてそう決める。
本当は、煙草を選ばせてかれが生き残るかどうかを試したあと、その業者の話でも聞こうと思っていた。
敵ではなく友として、個室で向かいあい、じぶんのいままでの人生を賭けたこの計画を任せるに足る業者かを見定めようと考えていた。
──せっかくあなたを殺すんだから、あなたのアドバイスを聞こうと思った。でもやっぱりアチェーツ、わたしには理解のできないことみたい。
だってもう十分わかる、とプリンスは傲慢にも冴え渡っていると信じているその脳みそで考える。
感じるのだ。この男は絶対に生き残る。愚鈍にも父に捕まり、武器を奪われ、間違った選択肢を選び続け、そうし続けることで生き残る。最後に吹っ飛ぶのは父の首だ。
で、こんどハンカチーフで手を拭うのはわたし。
煙草をふかす木村が、こちらを捉えて離さないプリンスの視線を受け、所在なさげに目を泳がせた。そのついでに咳き込んで、ここへきて間違ったところに煙を入れたのか激しくむせてほとんど泣いた。
プリンスは笑った。次にやるべきことは、かれの息子と打ち解けることだった。
MISS YOU SO BAD/寂しくて我慢できない