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    その口をひらくまえに121──わたしたちの出会いは偶然じゃない
    ──それはわたしたちの望みだった

    朝から冷えこんで雨のちらつくクリスマスだった。昼すぎに東大門で乗せたスーツのお客は膝にケーキの箱を抱えていた。ラジオから流れる曲にお客が反応する。懐かしい歌だ。ホヨルはお客の鼻歌をききながらステアリングを回す。お客は、中学生になる娘のために予約したケーキを、会社の昼休みに受け取りにでたのだそうだ。
    「オフィスの冷蔵庫で冷やしとこうと思うんだけど、大丈夫だよね」
    ホヨルは声を出して笑ってから肩をすくめる。お客は「運転手さん無口だね」と笑った。
    「ま、大丈夫だ。なにしろ保冷剤を大量に入れてもらったから。年に一回くらいは家族サービスしなくちゃ。だろ?」

    転役して最初の数ヶ月はコンビニに行くくらいしか外に出なかった。広い部屋にひとり、来る日も来る日も寝ていた。テレビで見る音楽番組もなくなって、アニメを見たりネットニュースのコメント欄を毎日観測したりした。仕送りのおかげで金には困っていなかったが、値下げシールの貼られた弁当をまとめて買って食べていた。節約がおれの最後の砦なんだと思っていた。
    親から紹介された就職口には行く気も起きなくて、なにもしていないと頭のなかで沈黙と思考が膨張していく感じがした。それを払うため、日に何度か大きく手を叩いた。
    ある日耐えきれなくなって近所のタクシーの営業所に飛び込んだ。

    タクシーの運転手の高齢化問題は深刻らしく、ホヨルは大歓迎された。いい職場だった。気難しいのもいたが根はいい人ばかりで、孫の運動会だとか言っては互いの出番を交換していたりした。
    ここ数日前からは、営業所の出てこれる人間同士で忘年会をやっているらしい。皆休みはバラバラだから、4回ほどに分けて開催される予定だそうだ。公休の人はまだしも、20時間働いたあとに明け方から忘年会をやるなんてタフな人たちだ。
    ホヨルも、クリスマスが終わって日が変わったら明番だ。さらにあすは5日ぶりの公休だから、今回の忘年会に誘われたら顔を出したっていいかもなと思いながら海外旅行帰りらしいふたり連れの客を乗せる。
    恋人同士に見えるそのふたりは、異国でうんと喧嘩したのか、あるいはできなかったのか、互いにむすっと黙ってスマホをいじっている。その重くしずむ沈黙に心地よさを感じながら、ホヨルは夜の道を走る。

    よく喋る子どもだった。不機嫌な顔で黙りこくった大人たちの空気をやわらげることを服務規程だとしている子どもだった。すこしでもヒステリックに変わった気配を迅速に察知して、きょうやったこと、面白かったこと、目の前の食べ物の話、犬の話をした。子どもみたいな大人を子どもなりに精一杯気遣って、それで子どもの自分も幸せになろうとしていた。高くて柔らかい声で、ささやくみたいに話を逸らし、場を茶化した。「わーおいしそう」「あ、トッポギだ」「きょうはなにかな」
    喋ることはスイッチングだった。この口から出るものに意味はなかった。この口から出ることに意味があったから。一番上まで締めたボタンが苦しかったけど、ボタンは一番上まで締めるためにあった。口をひらくまえにそういうことを考えはじめたらおしまいだった。

    明け方になると雪がちらつき出していた。営業所へ戻ると、先に戻っていた同僚から「ハンきょうは明番だろ」と声をかけられる。10分ほどお茶を飲んで待っているだけで次々と車が戻ってきて、きょうの忘年会のメンツは揃ったようだった。朝の3時。まだ日は昇っていない。カラオケに直行するらしい。
    「カラオケにはなんでもある」ホヨルを忘年会に誘った同僚は、禿げあがった頭をゆらして言った。「歌、飲むもん、食うもん、仲間」

    大声で歌う男を尻目に、面々は兵役の話で盛り上がっていた。どの部隊にいたかからはじまって、話題は延々と尽きない。歌い終わった男に拍手、イントロは流れるとだれもが知っているその歌にまた沸いて、マイクをもっただれかが立ち上がる。昼にもきいた歌だった。

    ──わたしたちの出会いは偶然じゃない
    ──それはわたしたちの望みだった

    「先輩が夜な夜なこの歌を熱唱して寝れなかったな」とだれかが言う。兵役の話は続く。そういやハンはどこにいたんだと訊かれ、江原道ですと答える。笑いが起こって、「の、どの部隊?」正直に答えると一拍あって、だれかが「いまはもうないらしいな」、続いてだれかが「──その先輩のレパートリーは一曲だけだったのか?」と言った。「来る日も来る日もこの歌だ。いやんなるよ」「おい、人が歌ってるのにいやんなるって言い方はないだろ」

    ──忘れるにはあんまりなわたしの運命だったから
    ──忘れることはできないが永遠に燃やそう

    「ハンはあすも公休だろ」隣の禿頭が焼酎を割りながら言った。頷くと、「なにするんだ?」とかれは続ける。
    「休みの日は……ボクシングをします」ホヨルはそう答える。「近所にジムがあって」
    「かっこいいな。どうりで体力がありそうだ。おれは釣りばっかりでね」
    持って帰ってくるタイプですかと尋ねると、禿頭はグラスに口をつけて「いや、戻しちまうな」と言う。
    「戻しちまうから楽しいんだ。そういうもんでね」

    通路がにわかに騒がしくなる。空が明るくなるころだが、新たに団体客が入ったんだろう。ホヨルは自分の空のグラスを持って立ちあがる。
    ドリンクバーに行きますが、どなたかなにかいりますかと尋ねると数人がお茶を頼むと手をあげる。「おれ焼酎」とだれかが言って、「ばかドリンクバーに酒はねえよ」とすかさずツッコミが入る。
    お茶を所望した人を数えていると、禿頭が「おれも行こうか」と言う。グラス4つなんで大丈夫です、と断って扉をあける。通路にはBGM、隣室の音漏れが溢れかえっている。

    そのとき、向かいの団体客のなかに、知った顔を見た気がした。
    一瞬、ほんの一瞬ホヨルが立ち尽くしているあいだに、その顔はこっちを見た気がした。

    お客を乗せて繁華街を走っていると、ときどき人混みのなかにキャップを被った痩身を見つけることがあった。心臓がひっくり返りそうになる。ドリンクバーに向かいながらホヨルは笑う。おれは来る日も来る日も人をどこかへ運びながら、やつを探している。暗い部屋でスマホの画面を青白く光らせてやつからの連絡をただ待ち、休みの日にはボクシングをし、ほとんどの時間黙りこくって街を走っている。それが心地よかった。なにを喋るかを、なにをこの口から出すかを考え抜いて、滅多なことでは口を滑らせたりしないのが楽だった。自分がどんどんあの後輩に同化していく気がして、それが楽だった。生まれてはじめて、水のような男になれそうだった。
    「おれは」ドリンクバーで人数分のグラスを取りながら、ホヨルは口に出す。「どうやら自分を大切にしてるぞ」
    レバーを引いてお茶を汲む。ホヨルの出た部屋から漏れ聞こえる歌は最高潮を迎えようとしていた。

    ──振り返るな 後悔するな ばかみたいな涙を見せるな
    ──愛してる 愛してる きみを きみを愛してる

    「それでおれは」ホヨルは鼻を啜った。「すこし泣いてるぞ、ジュノヤ」
    なんでですか、と後ろから声がした。ホヨルはぜんぶに降参する心持ちでとうとう振り返った。

    「久しぶりですね」
    入り口に寄りかかっていたジュノは、色々言おうとして、最後にそれだけ言った。ホヨルは鼻水を垂らしたまま情けなく笑うしかなかった。


    2転役してすぐバイトをはじめた店が性に合ったのか、長続きしていた。ドリンクをつくり、運び、注文を受け、片付け、その合間合間に腹から大声を出す。愛想がいいねと客から言われたときはびっくりして、気づいたら笑顔で「よく言われます」と答えていた。
    「この飄々と冗談を言う感じだよね〜」と顔を真っ赤にした客はジュノの背中をバシバシ叩いた。
    客を軽快に捌いていくのは楽しかった。その場で訊かれたことに答え、提案し、臨機応変に動くとき、風が吹く気がした。ここは乾いていて、なにも溜まらない場所だと思った。人じゃなく、ぜんぶ場所の問題なんだ。Go/No Go判断が全員によって滞りなく行われ、打てば響き、水のように流れる活気のある店だった。近所の大学からの学生バイトがほとんどだったけど、ジュノの年齢は絶妙に離れていたのかほどよい親しみと緊張感があった。
    働きはじめてから割合すぐにバイトリーダーになった。

    実家とバイト先の中ほどに一人暮らしの部屋を借り、週に一度は実家に顔を出していた。本音を言えば母と妹にもあの家を出てほしかったが、もっと本音を言えばあの男にこそ家を出てほしかったが、それはそれとして、木曜に母のおかずをもらうのが楽しみだった。
    毎日、日記みたいにメールを書いた。ヒョン、元気してますか。きょうは晴れてて金曜なのに店が暇でした。そういう日もあるそうです。とか。メールは送られずに下書きに保存された。それで満足だった。

    クリスマスはなにもレストランの専売特許じゃない、居酒屋も大賑わいだ。団体客が真夜中までいて、会計でも一騒ぎあったあとに三手ほどに別れて帰って行った。店内には2組ほど残っている程度で、どちらももうすぐ立ちそうだ。蒸気だけが、大勢の人間の騒いだ気配となって店内に漂っている。
    ジュノは団体客の個室に入り、皿をまとめていく。後ろから入ってきた後輩が布巾で空いたテーブルを拭きだした。
    ジュノは礼を言い、重ねた皿をもって厨房までもっていく。店長が厨房にやってきた店員に冷えたジョッキに茶を入れて出していた。ジュノは自分のぶんを飲み干すと、もうひとつをもって個室に戻る。後輩は残りの皿をまとめ、一心にテーブルを拭いていた。
    彼女の前にジョッキを置き、「店長から。10分くらいこの部屋で休んでいいって」と声をかける。ふだんならこっちが驚くほど軽やかに動きまわる彼女は、きょう一日体調が悪そうにしていた。
    しきりに感謝する彼女に手を振ると個室の扉を閉めて、残りの皿を厨房へもっていく。店長に彼女がすこし休憩することを伝えると、店長は「おれたちも10分休もう」と言った。フロアの客は皆帰ったらしい。
    バイトが皆やってきて座り、クリスマスの日に出勤していることを労った。学生はなおさら思うことがあるらしい。このシフト終わりは頭冴えちゃって眠れないんすよ〜とだれかが言い、じゃこれからカラオケに行こうとだれかが盛り上がる。店長も来ます?お、行こうかな。珍しい!やった店長来るならおれも!アンさんはもちろん来ますよね!ジュノは笑いながら頷く。
    「行くよ」

    しゃべったってろくなことにならないと思っている子どもだった。ただ耐えて、過ぎ去るのを待っていた。もっと器用だったらしゃべったっていいけど、いつだってタイミングを間違える。口から出そうになった言葉を飲み込んで、いつまでも吟味していた。いちど出す機を逃した言葉は永遠に出ていってくれなかった。たまに漏れ出ても、人を余計怒らせたり困らせたりするのだ。
    この口から言葉が出る前には選択肢が無数にある。だからジュノはその数の多さの前で立ち尽くす子どもだった。立ち尽くして、過ぎ去るのを待っていた。

    カラオケの受付をしている間、学生たちは兵役の話で盛り上がっていた。お前来年からか!頑張れよ!
    マイクを受けとって部屋に向かう道すがら、大学院生のバイトが「タイムスリップみたいなもんだよ」と熱弁していた。
    「留学中に兵役行ったんだっけ」ジュノが尋ねると、かれは「そうです」と言った。
    「戻ってきてから留学先の大学に復学したんですけど、知り合いはだれもいないし、当たり前だけどキャンパスにいるだれも兵役なんか行ってないし、妙な感じでした」
    「海外旅行の次に別の海外旅行って感じか」だれかが言って、おまえは知った口をきくねえとジュノはかれの頭を撫で回す。
    「や、割とそうですよ。海外旅行って、行く前と帰ってきた後の日常がつながっちゃって、行ってた期間だけが締め出されてぽっかり浮いちゃう感じがするじゃないですか」
    「へえ」ジュノは相槌を打つ。「はい部屋でーす」
    「おれドリンクバー行きます」
    「みんなで行こうよ」
    「行く前とつながっちゃうような帰ってきた後の日常がないから、ぽっかり浮いちゃうのが続く感じってことですか?」
    「そうそう」
    「待ってドリンクバー頼んでないよ」
    「なんでだよ!」
    「とりあえず一回みんな部屋入ろうか」
    ジュノは通路に立って皆を部屋に入れる。

    そのとき、向かいの部屋の扉が開いて、人が出てきた。
    うるさくてすいませんと会釈をしようとして振り返り、ジュノはそこで静止した。
    ホヨルだった。

    ヒョン、元気してますか。きょうはカップルが殴り合いをはじめてちょっと大変でした。人の喧嘩って物騒ですね。グラスも割られました。ヒョン、元気してますか。ヒョンはうちの母さんの料理を食べたことありましたよね。なにがおいしかったですか?おれはプデチゲが好きです。ヒョン、元気してますか。クリスマスは雪の予報が出ているそうです。おれはいつも通りバイトですが、クリスマスに雪が降ると喜ぶ人が多そうなのでそれはいいなと思います。
    メールの下書きがぜんぶ、後から後から口をついて出てきそうだった。
    アイドルソングと一緒くたになって90年代の歌謡曲が狭い通路に反響している。激しい色の照明が入り乱れてチカチカ光っている。ホヨルは知らない人と偶然目が合ってしまったときにそうするように、口角をくっとあげると背中を向け、通路の奥へと歩いていった。

    「おれが受付でドリンクバー頼んでくるよ」
    ジュノはそう言い残して部屋を出た。「アンさん、電話で言うのに!」と声がした。

    いらっしゃいませと声を出しながら顔をあげて、店先に知った顔が立っていることがときどきあった。後輩に「アンさんすごい顔してどうしたんですか」と声をかけられ、そのあいだにもその客が帽子をとったりマフラーを外したりして、それでジュノは拍子抜けする。
    毎日あの先輩にメールを書くことは、自分に向けて日記を書いているような行いだった。いやむしろ、自分に向けて日記を書くより気楽だった。ホヨルだったらどうするかをいつも考えた。その通りに行動することが心地よかった。自分の言った冗談で人が笑うのがよかった。たくさん喋れば喋るだけ、緩衝材で守られている気がした。前の自分はどれだけ剥き出しの、骨張った状態で生きていたのだろうと時折驚くほどだった。

    ドリンクバーでは、あの背中がひとりで立っていた。ジュノが入り口に立つと、かれは言った。
    「それでおれは、すこし泣いてるぞ、ジュノヤ」
    ジュノは「なんでですか」と言った。ホヨルが答えないまま振り向いたので、「……久しぶりですね」とだけやっと言った。ホヨルは変な顔で笑った。

    大股で近づいて、抱き締める。顔を埋め込むように抱き締めると、ずっと前からこうやって生きてきたかのようにしっくりきた。すこしの汗と埃の匂いがした。ホヨルの腕が背中に回り、絶望的、という感じでその力が強まった。ジュノのパーカーが軋む音さえする気がした。ホヨルは耳元に口をよせ、内緒話をするみたいにして「アン・ジュノ」と呼んだ。「なんですか」「外は雪だぜ」「知ってる」
    知ってるよ、ともう一回言って、キスをした。ホヨルは笑った。そのこめかみを両手で包むとジュノは口をつける。
    「アン・ジュノ」
    ホヨルはまた呼ぶ。外は雪なんだ。笑いを含んだ声でかれはそう繰り返す。ジュノは黙って額をあわせ、その目を覗きこむ。──外は雪なんだよ。知ったこっちゃない、とジュノは今度こそ返して、キスをする。かれの手のひらはジュノの後頭部をつかんだ。その手触りがもう違うことに、すこしためらったあと、構わなくなるのがわかった。小さな嵌め殺しの窓の外では、白くて大粒の雪が降っていた。
    半順序星人 Link Message Mute
    2023/09/02 14:58:39

    その口をひらくまえに

    #ジュノヨル
    S2後 離れてるのにますますたがいに似ていくね という低温多湿ジュノヨル
    さまざまな捏造を含みます。なにかあればぜひともご教示ください!

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