こうかんにっき「教職?意外」と言われすぎて、2年次を半分すぎる頃には自分から枕言葉にするようになっていた。なんでもなかった。自分でも意外性があるとは思っていたし、その枕は教職課程に身を置いていれば鉄板の軽い笑いをとれるネタでもあったから。「そー、意外っしょ?」というたびに性懲りもなく、ささくれのように小さな痛みが走るのも、なんでもないことにした。どんなことでもなんでもないことにする、それは唯一と言っていい自分の特技だったので。
だから、あの日、「そうか?俺は意外だとは思わない」と澄んだ声が言ったときのことを忘れられない。
たまたまグループワークで同じ班になった宗像草太、学部でも有名な“ちょっと浮いているやつ”、その、井戸みたいに深いのに、陽を吸い込んで穏やかにひかる瞳が俺を見ていた。笑わずに。
それにどう答えたか覚えていない。俺は、認めたくなかったけど、おそらく何故だか泣きそうになっていて、なんとかそれを気づかれまいと必死だったから。
俺たちはたぶん友だちになった。“家業”の都合でやたらと欠席が多い草太は、それでも真剣に教職課程に取り組んでいて、俺は代返やらノートやらで手伝ってやれることも多かったので。
俺は奴を草太と呼ぶようになった。「宗像」と呼んでいた頃、「いかつい苗字だろ」と笑った顔が俺にはなぜか苦しそうにも見えたから。
俺がどうしても来られない草太のためにノートの写真を送ったり、シンプルに寝起きが悪い奴にしつこく電話をかけて起こしてやったりする度、あいつは真面目な顔で「貸しができた」と言った。俺はへらへら笑って、おう100倍で返せよ、なんて言ったりしたが、本音ではどうでもいいと思っていた。初めて会った日、草太が俺にくれたものの大きさを、たぶん自分では何もわかってないこいつが眩しくて、少し鬱陶しくて。
そういう俺だって、何を草太から受け取ったのかはよくわかっていなかった。よくわからないものは、よくわからないままにしておくのが俺の流儀だったし、それを真っ直ぐに見るのは、俺にはすごく怖いことだったから。
いよいよ教員採用試験を来年に控えた三年次の夏、俺は−−誰にも話したくない理由で、金に困った。
教職課程に入ってからつくづく感じていたことだったが、教師を目指すやつも育てるやつも「普通」に首までどっぷり浸かってる人間が多い。書類にサインする“まともな”親戚はいて当たり前。すぐに連絡が取れて、信頼してくれて信頼できる家族がいて当たり前。数万円程度の金なら、すぐに用立てられて当たり前。
その「当たり前」の洪水を、なんとか得意の「なんでもないふり」で泳ぎきってきた俺だったのに、その時ばかりは本当に万策尽きたという感じで、どこにもいけず、誰とも話したくなかった。
マジでマジでマジで金に困っていたのに、生まれてからずっとやってきた「なんでもないふり」が上手すぎたのか、それとも俺の“人徳”のなさなのか、その両方が災いしてかはわからないが、ツテには尽く断られていた。最後のひとりが電話ごしに笑いながら言った、「芹澤に貸したら返ってこなそうだもん」が俺の魂のいちばんやわらかいところをズタズタにしていた。
そして草太がやってきて、部屋の中にうずくまっていた俺を見つけて、それこそなんでもないように金を貸してくれたのだった。
草太自身に金の余裕がないことは俺がいちばんわかっていた。そもそもバイトをする暇がほとんどない教職課程にあって余暇はほとんど「家業」とやらに潰され、余裕があるときにしか散髪しないくらいなのだから。
その時、草太が持ってきてくれたコンビニの梅おにぎりの味を俺は一生忘れないだろう。
もっと早く相談していれば、たぶん草太は貸してくれたと思う。それがわからないほど浅い付き合いではなくなっていた。でも、その時俺は疲れ切っていて、もし草太から「お前に貸すと返って来なそうだ」なんて聞いたら……それが冗談でも、冗談だということがわかっていても、俺には耐えられないと思ったのだ。
もうすぐ夏がくる夜の風の湿ったにおい。狭い俺のアパートの部屋で、床に並べられたおにぎりと、インスタントの味噌汁、ちかちかする蛍光灯と、呆れ顔で箱ティッシュを押しつけてくる宗像草太のやわらかい瞳。
こいつにわからなくてもいい、と思った。
こいつが俺にくれたもの、こいつから俺が受け取ったものを、こいつ自身が分かってなくてもいい。俺がずっと持ってるから。ずっと持って生きていくから。
「芹澤、本当によかったのか」
「だからいーって言ってんじゃんよ」
「でも……」
まったく納得してないという顔で言葉をのむ草太は、完全におしゃかになった俺の車の弁償について、三度目の申し出を俺に断られたところだった。変な愛着が湧いてしまったので、なんとか修理して乗り続けることにしたけれど、これなら新しい中古車が買えるのでは?という金額になったことは確かではある。
教員採用試験の二次試験にあらわれなかった草太が、何かとんでもない事態に陥っていたのは察している。それが例の“家業”に関係してることも。というか、あんな場所であんな風に戻ってきた人間を前にしてさすがに何もなかったと思うほど俺は想像力に欠けちゃいないつもりだ。
草太はまるでいつもの俺みたいに、「なんでもない」ふりをして、また来年チャレンジするよ、といった。
俺は危うく叫び出すところだった。俺らしくもなく。やめろよ、そういうのは俺の専門だろ。なんでもないわけないだろ。どんだけお前が勉強してたか……一次に受かってどんだけ喜んでたか、見てたよ。
でも草太はきっとそうしてほしくないのだと思った。だから何も言わなかった。黙り込んだぶん、体の中をたくさんの言葉が渦巻いた。
何が“家業”だよ。草太がどんだけ、めちゃくちゃ頑張って勉強してきたか知ってんのかよ。一度だって“家業”があいつを助けたかよ。帰ってくるたびちょっと痩せて、なにかをめちゃくちゃに怖がって、そういうあいつを誰か家の人が助けてくれたことがあったかよ。草太自身にも腹がたった。自分の努力を、費やしてきた気持ちを、この後に及んでなんでもないふりをして埋めてしまおうとしているこいつを。ちくしょう。
「芹澤…?」
うるせえよ。
「なんでお前が泣くんだよ……」
知らねえよ、と答えた声が自分でもびっくりするほど鼻声で、自分のそんな声を聞くのは小さい頃ぶりで情けない。
そのとき、視界があたたかくてやわらかいもので塞がった。草太が俺の肩に頭をあずけて、腕を背中に回していた。草太のアパートの洗剤の匂いと、汗の匂い、古い本の匂い。草太の体はあたたかく、少し汗ばんで湿っていた。
俺は動揺のあまり少しじたばたしたが、涙になって噴き出るほどの情動に疲れた頭には目の前の肩がありがたくて、ついでに涙と鼻水のひとつもこいつのTシャツでふいてやるつもりでぐいぐいと顔をこすりつけてやった。草太が少し笑った。くっついた体が笑ったかたちに膨らんだ。
「芹澤」
「……」
「ありがとう」
「…………ん」
俺が草太の“家業”とやらを知る日がいつかくるのかもしれないし、来ないかもしれない。今は、知らなくてもいいという気がしている。クソったれ“家業”がなんであれ、それは草太のほんの一部でしかないので。
俺は相変わらずへらへらしながら、そういう自分に吐き気がしながら、たまに「なかなかたいしたもんだ」と思ってやりながら暮らし、草太が行き倒れていないか見に行ってやる。草太からは、あの事件以降、旅先からのLINEがたまに届く。大体が美しいが人気のない廃墟だが、飯の写真も混ざるようになってきた。ちゃんと食ってるか?と聞きすぎたきらいはある。
そして草太は帰ってくる。くたびれた顔で、少し痩せて、でも笑顔で。俺はやつの頭や肩や背中をぺたぺたさわり、痩せただの怪我が増えているだのさんざん文句を言って、最後にやつの手を握る。切り傷や擦り傷の多い、長い指。ちょっと平たい爪のかたち。さらさらした皮膚と、その奥の血管が熱くざわめいているの感じ取る。目を挙げると、草太も目を閉じている。草太の指が、俺の手の血管をちょっとつつき、俺は少しおかしくなる。
草太と出会ってから、俺はなにか形のわからないもの、やわらかくて鋭くて、あたたかくて恐ろしいものを受け取り続けていると思ってきた。
でも、もしかしたら違うのかもな。それは、俺と草太の間にあって、草太から俺へ、俺から草太へ行き来しながら、少しずつ育ってきたのかもしれない。俺もお前に何かを渡せているだろうか。
重ねた掌があたたかく脈打って、それが全てだという気がした。