ゆきすぎる今何か言いたかったことを忘れているような、喉元のむずがゆさにとらわれて、ソロは人ごみの中に立ち尽くした。まわり中、年の瀬を誰かと迎えようと集まった人でいっぱいだ。除夜の鐘をつこうと並ぶひとたちも、ただ習慣で家から出てきたひとたちも、もこもこと厚着をして、手に甘酒やらおしるこやらの紙コップを持って、笑いさざめいている。
「ソロ?」
先を歩いていたイリヤがふいと振り返って、立ち止まったソロのほうをいぶかしげに見た。形のいい鼻の頭が赤くなっている。今年、またこいつは一段と背が伸びた。中学に上がったばかりのころは、まだまだ身長で張りあおうとしていたような記憶もあるが、高3にもなると人間それぞれの違いというものがわかるようになるのである。竹のように伸び、伸び、伸びまくるイリヤが骨に響く成長痛で毎日苦しんでいるらしいことを知った最近では、もう身長のことでイリヤに勝とうなどと無駄なことはやめようと思うようになった。人ごみでは頭一つ抜けたイリヤがいい目印になるのだし。そういうといつも「俺を迷子石扱いするな」と返してくる。
なにか、言いたいことがあったような、こんなところで、ダウンジャケットを着込んでふたりして境内を歩いているのは何か不自然なような、そういう気持ちになる。デジャヴに少し似ている、しかしそれ以上の酩酊感と違和感が頭をぐらぐらときしませる。額を抑えて頭をうつむけると、すぐに目の前の玉砂利を学校指定のローファが踏んだ。
「おい、大丈夫か」
あーあ、とソロはほとんど怒りを覚える。このイリヤとかいうバカ正直大魔神は一応きらいということにしているらしい俺のことでさえ、頭痛かもと思ったら放っておくことすらできないのだ。この野郎、と思う。こいつにしてみれば想像さえしたことがないんだろう。不公平だ。そうやってその大きい手でぺたぺた額を触って熱を計ったりしちまって。俺がどんな気持ちでいるか、全然考えたことがないに決まっている。不公平すぎる。真冬だというのにあたたかいその掌の感覚を、向こう一か月の俺がどんなに必死こいて覚えておこうとするかなんて、お前には、心底思いつきもしないことなんだろう。
大丈夫だよ熱なんかないよ、とイリヤの手をぺいっと剥がす。胸をつきあげるようにして性懲りもなくぶり返した痛みが、喉にまとわりついていた違和感をどこかにやってしまった。
「そんな薄着でいるから風邪を引くんだ」
「風邪なんか引いてない」
「いや、引いてる」
どこからその自信が来るのか断固言いきったイリヤはこれまた学校指定の紺色のスクールバッグをごそごそ漁ると、ふわふわした白のマフラーを引きずり出した。ちなみにそれは「それ手編み?」「手編みだ」という白昼の教室でのやりとりによってイリヤクリヤキンマフラー手編み説を校内に轟かせた逸品である。いったい誰の手によるものなのか、暇人とイリヤのファン(いるのである、これが大量に)が戦わせた議論の主な主張は家族か恋人かに分かれたが、ソロは真相を知っていた。イリヤが編んだのだ。手芸が趣味なのだ、こいつは。ちくしょう。絶対誰にも言うものか。俺もマフラーほしい。
「ほら」
イリヤ・クリヤキンという残酷な男は、手芸が趣味でベルギーチョコまんが好きで今年も背が伸びまくりそしてソロの気持ちに一切、一切気が付かない残酷なクソ野郎は、なんということもない顔をしてソロの首にふわふわの白いマフラーをぐるぐるぐるぐるぐるぐると巻いた。ちくしょう。あったかい。ソロはぐらぐらと煮えたぎって本当に目まいがしそうなほどの心中を完璧に押し隠して笑った。背が伸びないかわりに、そういうことばかり得意になった一年だった。
「おお、悪いな。お前特製のマフラーを」
「お前、それを絶対に誰にも言うなよ」
「毎回念を押すなよ。現に誰にも言ってないだろ?ああ、ところで俺はあっちで売ってる豚汁が喰いたいなあ」
「お前......」
小動物が見たら心停止しそうな顔をしてイリヤは豚汁の屋台に大股で歩いていく。ソロは首もとをあたためるマフラーに顔を埋めた。柑橘系の柔軟剤のにおいがする。ふたりでスーパーで買い物をして買ったのだ。大特価198円。柑橘とローズでためつすがめつするイリヤの真剣な表情。
こんなくだらないことでさえ、忘れることができない。
おまけしといたよと渡してくれた笑顔に見覚えがあると思ったら、商店街でいつも立ち寄る精肉店の親父さんだった。ぺこんと頭をさげたイリヤに手を振るおかみさんも、いつもおまけをしてくれる。ソロとふたりで買い物をするときなど2つのコロッケを買うのにいつだって3つめをつけてくれるのだ。感謝してもしきれない。ひとを使い走りにして(ひとのマフラーを巻いて)のんびりと提灯など見上げているソロへの腹いせに豚肉をひとつ食べてやる。うまい。また豚しゃぶ肉を買いに行こうと思う。
ソロ、と声をかけようとして、黙ってしまった。淡い提灯のあかりに照らされた横顔の、冬に研ぎ澄まされたような美しさに。
ソロはもともと顔立ちが整っていたが、この一年というもの、少しずつ、今までと決定的に異なる雰囲気を身にまとうようになった。何につけ鈍い、鈍いといわれるイリヤですらはっきりと分かるくらいに。
(ソロくんてさちょっと怖いよね、綺麗すぎて)
掃除のときにふとこぼしたクラスメイトの言葉が頭をよぎる。
きっと、いつかソロはこの町を出ていくのだろうという漠然とした予感があった。そしてそのときは誰にも言わないのだろう。成り行きで一緒に飯を食ったりしているだけの自分に、そういうことを言い残される義理もない。ある日、なんの予兆もなしに、最低限の荷物だけ持って、どこか知らない土地へ行ってしまう。頭が良くて、なんでも器用にこなす。先生からも級友からも人気があって、そのくせ誰とも親密には付き合わない。そういうソロが、もっとずっと息をしやすい場所へ行ってしまうのだろう。
それでも今はここにいる。
「ソロ」
ソロをどこかの「遠く」から引き戻すように、強く呼んだ名前は思いのほか鋭く冬の空気をはじいて、ソロは驚いたようにぱっとこっちを見た。風にさらされて、耳が赤く染まっている。冬そのものの青灰色が境内の灯りをうつして光る。息が白い。ここにいる。
「お、豚汁が来た」
「誰が豚汁だ」
「うまーい」
「聞けよ」
ここにいろよとは絶対に言うことのできないイリヤは、豚汁など本当はどうでもよかったソロは、ただこの冬の日を噛みしめる。過ぎ去ってしまう今年、ゆきさって二度とは帰らないこの冬の夜すべてを。