燃えよ闘魂※性暴力、及び過去の性被害経験をほのめかす描写が含まれます。
思った通りで、夕方から酒場は混みに混む。
どんなにモップで磨いたってべたべたが取れないドブ色の床をぎゅうぎゅう鳴らして、あたしはオーダーを取りに駆け回る。
ソリューション・ナインだなんて夢のまた夢、隔壁の内側のいちばん薄暗い場所をかき集めたような居住区のさらに隅、場末も場末の汚い酒場で、オーダーを取って皿までサーブしてやるウェイトレスがいることだけでも感謝してほしいけど、さっさと酒を入れて顔を真っ赤にした客たちはおかまいなしに喚き立てる。
質の悪い油をチーズと濃いケチャップでごまかした揚げ物、揚げ物、オイル漬けの缶詰、それに酒、酒、酒だ。アルコール濃度だけを求めて飛んでくるオーダーに、場末なりの誠意とそろばんで答えようとしてうちが出す割りものときたら、どれもそれはそれは酷い混ぜ物の味がする。それでもかまわないのだ。チップスの代わりにスチロールを出したって、金曜夕方18時30分にうちの店は満席になるだろう。
なぜかって? ここらじゃいちばんデカいモニターで、アルカディアのライブ中継をやるからだ。
ろくでもない手段で店長が入手したらしい中古のビッグ・モニターは、店のどの席からだって見られる奥の壁を埋め尽くして設置され、果たして店長のねらいどおり、ここはアルカディア闘技場の戦いに唾液と汗を飛ばす客たちの溜まり場になった。古いエレクトロープは時々映像をピンクや緑に変換したが、そんなのは客どもにしたらまったく問題ないようで、気をよくした店長はやっぱり“廃品”から古ぼけたスピーカーをいくつも探してきて店中に取り付けた。
おかげで従業員は、賭け金のゆくえを血眼で追う客たちの歓声罵声に加えて、ノイズまみれの爆音での実況が鳴り響く中、オーダーを取らなきゃいけなくなったってわけ。まったく店長の“廃品回収”さまさまである。
だけどあたしだって客たちのことを笑えない。耐えられるのだ、どんなことだって、どさくさに紛れて尻を触られるような混雑も、今月もごまかされた給料も、いつだって生ごみの匂いがする厨房も、さっき踏み潰したブリ虫の感触も。
今日は、ブルート・ボンバーが出る試合だから。
お馴染みメテオ氏の、興奮に上擦った声がスピーカーから飛び出す。燃え盛る闘技場。燃える腕を打ち鳴らし、ブルート・ボンバーはこっちまでビリビリ振動が伝わってきそうな雄叫びを上げる。店は本当に揺れる。客たちが呼応して叫ぶ。足を踏み鳴らす。どっかのテーブルでグラスが割れる。店長が厨房から怒鳴ってる。でもどうでもいい、今は、今は、この試合が終わるまでは、あたしは全部忘れて、客と一緒に汚い床をどしどし踏みつけて、叫ぶ。ブルート・ボンバー。クソみたいな街から見たって、褪せない爆発。最高だ、最高、あんたは今日も最高!! ブルート・ボンバーは、いつだってスタイルを変えない。どんな対戦相手でも全力で、勝つためだったら何でもやって、なのに客にも相手にも媚びない。どんなにブーイングを浴びても、どんなに人気のある闘士と闘っても、いつも変わらない。全部を燃やし尽くし、吹き飛ばし、一滴も血が残らないんじゃないかって試合をする。彼の戦いを観てると、ぜんぶどうでもよくなる。どうにでもなるかもって思える。どんなクソみたいなことがあった日でも、クソみたいな人生の中でも、ぜんぶ吹き飛ばしてくれるような気がする。あたしは叫ぶ。喉が爆発しそうになるまで。
◆ ◆ ◆
その日、その時間は真っ昼間で、あたしは買い出しで外にいたけど、同僚のルーシーがコールしてくれて、おかげで手に取りかけてた廃棄寸前のお買い得卵をほうりだして走ることになった。店長には後で死ぬほど嫌味をいわれるだろうし、口実にまた小銭をむしられるかもしれないが、そんなことはどうだって良かった。
店に飛び込むと、営業時間外だってのに席はいっぱいだった。いつもと似たような顔ぶれの客たちに、いつもの熱気とは違う奇妙なざわめきが広がっていた。
モニターには……モニターには、何か大きな植物のような、巨大な獣みたいな、見たこともない何かが映っていて、それなのに、テロップには「ブルート・ボンバー対生身の挑戦者、場外乱闘!?宿命のリベンジマッチ!!」なんて煽り文句が出ていた。あれがブルート・ボンバー? 炎もない、爆発もない、人の姿をしているところの方が少ない、あれが、あたしたちの闘士ブルート・ボンバー?
だけど見ていればわかった。わかってしまった。棍棒を振り回す腕の癖、壁に伸びる鎖、地面を叩きつけるファイトスタイル。彼はどうしようもなく、ブルート・ボンバーだった。
ざわめきは沈黙になっていく。ソリューション・ナインでアルカディアばかり見ている小綺麗な観客たちはいざ知らず、ここはクソの吹き溜まり。無許可の賭け試合なんて腐るほど見ていたし、安全じゃない方法で魂を注入して無理矢理闘って、ゴミみたいに死んでいくやつだってたくさん居る。見ればわかった。
もう二度と戻れない変異だって。
どうやって試合が終わったのかも覚えていない。唐突に中継は打ち切られて、客たちは無言でばらばらと席を立ち、どこかへ行ってしまった。あたしは多分買い物袋をぜんぶ落として、ルーシーや店長がしきりに何か言ってるような感じがしたけど、よくわからなくて、真っ暗になったモニターをずっと見つめていた。ずっと。ずっと。
◆ ◆ ◆
そして、そして……なんにも変わらなかった。変わるわけがない。
アルカディアで、闘士がいなくなるのなんて、ありふれたことだ。公式アカウントが言う“引退”のあと、まったく名前を聞かなくなった、たくさんの闘士たちと同じ。客たちはめいめい別の“推し”をみつけて、酒場は夕方になればまたとんでもなく混む。あたしはケツを触られたり蹴られたりしながら、臭い酒を運び、揚げ油で指の水ぶくれを作り、そうして一言も喋らずにいた。
なんにも話す気にならなかった。幸い、誰もあたしの話なんか聞いちゃいない。ここのウェイトレスの仕事に言葉なんかいらなかった。中継がはじまっても、モニターにかじりつくことはなくなった。あたしはただ、二度と……二度とブルート・ボンバーが戦うところは観られないんだっていうことが、自分の中の深いところまで沈んでいくのを、待ちたかった。そうすれば、また耐えられるかも、と思ったのだ。
だけど、そんなあたしのシケたツラを、店長さまはお気に召さなかったらしい。買い出しはサボる、クソ忙しいときに仕事を放り出す、お世辞にも勤務態度の良くないウェイトレスが、あげく一言も口を聞かなくなったことに腹を据えかねたというわけ。別に店を追い出されるならそれはそれでよかったが、店の裏路地で、怒鳴りつけながらそいつはあたしの胸を掴んで襟を引きちぎってきやがった。脅してびびらせて、ヤってやろうって顔が丸出しだった。こんな××カスみたいな男がなにを言ってもやっても怖くもなんともなかったが、なにもかもがどうでも良くて、あたしはぼんやり切れかけた電灯を見ていた。別にはじめてのことでもなかった。だってもう会えない。ブルート・ボンバーは、もうリングにあがらない。だったら……どうなってもいいか。別に、“減るもんじゃない”、今どうしてるかもしらない親父もそう言ってあたしを路地に立たせたっけ。
そのとき、抵抗ひとつ、反応ひとつしないあたしが面白くなくて苛立ったらしい店長が裏拳であたしの横っ面を引っ叩き、目の裏でばちんと火花が飛んだ。赤い火花だった。あの人の拳から飛び散るような。このクソみたいな世界を焼き尽くすような。そのはじまりのような。
めらめらと、腹の一番そこから、あたし自身を燃やし尽くすように、怒りが、真っ赤な怒りが、噴き上げてきた。
クソみたいな店。クソみたいな男。クソみたいな世界。……クソみたいなあたし。
あたしは喚きながら跳ね起きて、だらしのない顔でベルトに手をかけたままぽかんと口をあけた店長の顔面に、渾身の力で肘をぶち込んだ。鼻が潰れて歯が折れる感覚。唾液と血液が飛び散る。
「うるせェェェーーーーッ!!!!!!死ねーーーーーーーーーーーッッッッ!!!!」
声が喉から血みたいに飛び散った。店の裏口の汚れたガラスがびりびり震える。あたしは何度も何度も、呻き声が泣き声に変わるまで店長に蹴りを入れて、その上にぺらぺらの店用エプロンを叩き捨てて、路地から駆け出る。
あたしが、あたしたちが、ブルート・ボンバーに熱狂したのは、きっと彼が、どんな炎よりも眩しく、毎夜、自分の命ごと燃やし尽くして、すべてをぶっ飛ばしてくれたからだった。
生きていくのはキツくて、でも「終わる」のは怖くて、毎日の苦しさをやばいアルコールで溶かしてしまうしかないあたしたちにとっては、そうやって自分を投げ捨ててみせるあの人が眩しかったのだ。
だけどそんなまなざしが、「もっと捨てろ、もっと燃やせ、ぜんぶめちゃくちゃにしてくれ」そんなあたしたちの汚い叫びが、踏み鳴らす足が、きっとあの人を追い詰めたのだ。あの、人間のなれの果ての断崖までも。
涙と鼻水が顎を伝って、もう破れたブラウスに染みをつくる。あたしの後悔なんて、後ろめたさなんて、それこそクソほどの意味もなかった。死んでしまった。終わってしまった。ブルート・ボンバーは、二度と帰ってこない。
だから——だからせめて、あたしは自分のクソみたいな世界を、自分で燃やしてみせなきゃならなかった。そうでなきゃ、この先生きていける気がしなかった。これまでのあたしは客たちと一緒だった。店長と一緒だった。クソ親父といっしょだった。ぜんぶあきらめて、ぜんぶ一瞬の興奮の中に溶かして、死んだみたいに生きてれば、これ以上なんにもなくさずに済むと思っていた。だけどそれは違ったんだ。なくしてしまった。それに耐えられないほど大切なものを。
もういなくなった人たちを忘れることができない世界で、あたしはあの爆発をずっと覚えていて、絶対にしぶとく生き延びて、あんなことが起こるのがちょっとでも減るように、なんでもやってみようと思った。なんにもなかった生活の中の、さいごの大切な炎を失ったのだから、もう何も怖くないはずだった。邪魔するやつは、ぜんぶラリアットでぶっ飛ばしてやるのだから。
ヒールがぱこぱこの走りにくい靴で、破れた服で泣きながら走るあたしを、みんなが変な目で見ていた。どうでもよかった。肺が熱かった。燃えているみたいだった。あたしだけは、本当にそれが、自分のなかみが、燃えているんだって知っていた。
了