ハッピーエンドはまだ遠い どこからどうやってここまできたのだろう。何日も飛び続けていたような気がする。限界を感じて地面に降り立ち、木の陰に座り込んだ。何故そんな事をしていたのか、考えてみても思い出せない。手元にあるのは、旅行鞄と箒だけ。その鞄もいつもより軽い気がするから、どこかに何かを落としてきてしまったのかもしれない。それが大切なものだったとして、思い出せないのなら意味がないだろう。
空腹で、喉も渇いていた。もう限界だと目を閉じる。そのまま、意識は眠りの中に落ちて行った。
街の外れの木の下で、少女は具合が悪そうに座り込んでいる男の人を見付けた。一見しただけで身なりが良く、どこかの貴族かと思ってしまうほどだったが、ジャケットは肩から落ち、髪は乱れ、靴は片方履いていなかった。物盗りにでも襲われたのだろうか。大変だと思い、そっと肩を叩いた。
「あの……大丈夫ですか? もうすぐ日が暮れますよ」
すると、男性は顔を上げた。憔悴し切っている表情だったけれど、はっとするほど美しい男の人だった。優しげに下がった瞳は青と緑のグラデーションを描いていた。すっと通った鼻筋と、形の良い唇は気品と生まれの高貴さを感じさせた。ゆっくりと視線が合う。どこかほっとしたような顔をして、口を開けた。けれど声が出ず、咳き込んだ。少女は慌てて水筒を差し出した。
「もしよかったら、飲み差しで申し訳ないのですが」
すると男性は受け取って、一気に煽った。生き返ったと言わんばかりにほっと息を吐いて、水筒を返して薄く笑った。
「ありがとうございます」
上品な声だった。高くもなく、低すぎもせず、わずかに掠れた声。その微笑みに、思わず見惚れた。頬が熱い気がして恥ずかしくなる。しかし、構わず続けた。
「旅の方ですか? もうすぐ雨も降りますし、宿に戻った方が」
そう言うと、彼は恍惚と笑った。そのあまりの美しさと、それ故に何処か不気味で一瞬身構える。しかし、彼はその笑顔のまま、どこからか取り出した鳥籠を掲げた。
「こんなに親切だなんて、僕の花嫁に違いない!」
そう言って、何か意味のわからない単語を言った。魔法使いだ、と思った瞬間、巨大なその男が目の前に居た。縮んでいるのだ、と理解したけれど、その時はぴいぴいとしか声は出なかった。彼はそのまま、先ほどの憔悴具合が嘘のように楽しそうに立ち上がると、鳥籠を抱えて歩き出した。どうしようと少女は思いながらもどうしようも出来なかった。
しばらくそんな調子で歩いていた。少女は不安にもなったが、同時に心が高鳴るのを感じていた。魔法使いだ。このまま、自分をどこかに連れ去ってくれるかもしれない。そう思っていると、彼は立ち止まった。
「申し訳ありません、お嬢さん。人違いだったようです」
申し訳なさそうな顔をして鳥籠を開ける。すると少女の身体が鳥籠の外に吐き出された。人の姿に戻って、呆然と男性を見上げる。彼は困ったように微笑みながら、彼女に手を差し伸べた。
「起き上がれますか? お家までお送りしましょう」
しかし、彼女は首を横に振った。胸が高鳴っていた。驚きからではない。これからの未来に対する期待からだった。
「あなた、魔法使い?」
そう訊ねると、彼はにっこりと笑った。
「ええ」
魔法使い。胸が高鳴る響きだった。だから、勇気を振り絞って叫んだ。
「私を連れ去って! あんな家恐ろしくて嫌なの! 何でもしますからお願いします!」
彼はきょとんとした後、微笑んだ。
「いいよ」
「本当に!?」
「うん。どこに行きたい?」
その言葉は彼女にとって希望だった。彼の姿がまるできらきらと光り輝くように見えた。うっとりとしながら、少女は数分前に出会ったばかりの男の手を取った。
「ここではないところへ」
それから、少女ーーベラは旅に出た。彼はラスティカと名乗って、ベラを優しくエスコートしてくれた。村を出て、ベラは初めて箒で空を飛んだ。後ろから抱き抱えられて飛んだ夕暮れの空を、彼女は一生忘れないだろうと思った。街なみは赤く光り、ひやりとした風が頰を撫でた。足がつかないというだけでこんなに不安になるものかと思ったけれど、ラスティカの体温を感じるだけで不安は薄れていった。ほんの少し前に出会ったばかりの人なのに、どこか安心させるようなところがあるのが不思議だった。
「今から行く街で宿を取ろうか」
その言葉に少し身を固くした。なんでもすると言ってしまったのを思い出したのだ。そう言ってしまった手前、どうされても文句は言えない。宿を取るということは、夜の伴を求められるかもしれない。自意識過剰かもしれないが、そう思ったのだ。ラスティカに性的な事を求めるようなぎらついた雰囲気は無かったけれど、覚悟はしておいたほうが良いだろう。
そう思っていたのだが。
ラスティカは宿を見つけると、当然のように二つ部屋を取り、片方の部屋の鍵をベラに渡した。逆に驚いてしまったベラを見て、少し考えた後にラスティカは得心が行ったという顔をした。悪戯っぽく微笑むと、彼はそのままベラの頭を撫でた。
「おやすみ、良い夢を」
そして自分の部屋に入っていってしまったのだ。ベラはほっとして、彼女にあてがわれた部屋に入った。古びてはいるが、温かで清潔な雰囲気の宿屋で、一気に気持ちがほぐれていく。まるでラスティカみたいだ、と思って、彼女はそのまま眠ってしまった。
ベラの生まれた街は、あまり裕福とは言えない街だった。住んでいるのは近くの炭鉱で働く労働者で、皆働き者だったが血の気の多い者も多かった。危ない目に遭った事もある。けれどそんなならず者から守ってくれたのもまた街に住む荒くれ者の一人だった。だからベラは彼らの事が嫌いにはなれなかったし、自分もこの街で一生暮らしていくのだと思っていた。
だから、ラスティカの事を初めて見た時は衝撃的だったのだ。高貴という言葉は彼のためにあるのだと思った。汗の匂いも土埃の匂いもせず、それどころかどこか甘い花のような、清潔感のある香りがした。着ている物はシンプルだったが高そうな物ばかりだった。そんな男性に会った事が無く、まるで絵本の中から飛び出してきたかのようだと思った。ぼうっとして浮かれてしまったのは否定しない。一目惚れと言っても過言ではない、と気付いたのはだいぶ後になってからだった。
次の日から、二人は共に旅をした。ラスティカの花嫁を探す旅だったが、あてはないらしく、いろいろな所へ行った。踏み入れる事のないと思っていた西の国の首都、音楽と楽器づくりで有名な街、街中が美しい細工で飾られている街。ベラは生まれた街では見ることの無かった景色に夢中になったし、知らないことを知っていく喜びに満たされた。そうやって様々な物に触れさせてくれるラスティカに、いたく尊敬の念を抱いたのだ。
彼は初めベラにしたのと同じように、気に入った人を花嫁と間違えてしまう事が度々あった。その度にベラは閉じ込められた人を解放せねばならなかった。無理矢理鳥籠をこじ開けようとしても嫌がられて開けてくれないので、どうにか言葉で説得するのだ。魔法使いを恐ろしいとは思わなかったけれど、そうやって花嫁を捕まえることに躍起になっているラスティカのことは少しだけ背筋がひやりとする事もあった。
ラスティカがうっとりと微笑みながら、間違えられた花嫁との再会を喜んでいるのを見るにつけ、時々胸がちくりと痛むのに気付かないではなかった。ベラだって間違えられたのだ。花嫁ではないと断言されたけれど、それでも可能性は無いのだろうか。淡く期待をしながらも、無い、と自分に言い聞かせる日々だった。
西の国には珍しい、綺麗な海で有名な観光地に来ていた時だった。海岸を歩いて、ベラは初めて見る海にはしゃいだ。ラスティカはそんなベラと一緒になって遊んでくれて、遊び疲れた二人はカフェでお茶をした。店内には至る所に美しい貝や珊瑚が飾られていて、名物だというゼリー菓子を乗せた皿は大きな貝殻を細工したものだった。うっとりとしながら、ラスティカが品のいい仕草でゼリーを一口ずつ食べているのを見ていた。
海辺では子供たちがたくさん遊んでいた。それを見守る親の姿も。だからそんな質問が出たのだと思う。
「ラスティカのお父さんとお母さんってどんな人なの?」
するとラスティカはスプーンを動かす手を止めて、少しだけ目を見開いた。
「僕の両親のこと?」
「うん」
「ああ、先ほどは家族連れがたくさん居たものね。君のご両親は?」
「私の両親なんてつまらないわ。父さんは炭鉱で働いてて、家ではいつもお酒ばかり。母さんは忙しいが口癖で、乱暴なの。怒るととっても怖い。それに」
「それに?」
「……弟がいたの。でも、魔法使いって事がわかって、母さんに石にされた。私の目の前で。恐ろしくって、あの家を出たかったの。本当はお嫁に行く予定だったんだけど、お嫁に行く先も似たような家だって聞いてたから嫌で……」
「そう……」
ラスティカは目を伏せた。
「悲しい事だね。君の弟にも会ってみたかった。ベラはとても優しい子だから、きっと彼も優しい子だったに違いないよ」
彼は会ったこともない弟のことを、真剣に悼んでくれているようだった。その事は、ずっと弟の事がしこりのように胸に残っているベラにとって救いだった。事故で死んだ事になっている弟の、本当の事を知ってくれているだけで少しだけれど心が軽くなるような気がした。
「ごめんなさい、暗い話で。父さんも母さんも魔法使いの事を嫌っていたけれど、私は大好き。ラスティカのことも大好きよ」
「ありがとう、ベラ。僕もだよ」
「えへへ、ありがとう。ね、ラスティカのお父さんとお母さんは? まだ話してくれてないわ」
「おや、そうだったかな。といってもほとんど覚えていないんだ。長い時の間に薄れてしまってね」
「長い時?」
「うん。魔法使いは長生きなことは知っているだろう?」
「ええ。そういえば、ラスティカはいくつなの?」
「だいたい三百年くらいは生きているかな」
「ええっ!?」
ベラは素直に驚きの声を上げる。ラスティカがそんなに長生きだとは思っていなかったのだ。それなら、両親のことを覚えていなくても仕方ないのかもしれない。
「いつか思い出せたら良いわね」
「ふふ、ありがとう。僕のことを心配してくれているのかな。ベラは優しい子だね」
そう言って頭を撫でられた。子供扱いされているようで、ほんの少しもやっとしてしまう。けれど、三百歳も年上ならば仕方ないのかもしれない。その手のひらの心地よさにうっとりするのも、また事実なのだ。
それからも二人は旅を続けた。ラスティカはベラに対して、あくまで旅の道連れだという態度を取っていたけれど、大切にしてくれているのは間違いなようだった。一年、二年、と時が過ぎるにつれ、貴族と小間使いの少女ではなく、若い夫婦と間違えられる事が増えた。しかし、ラスティカはそう言われるたびに友人同士だと訂正し、部屋は分けて取っていた。そんな対応に紳士だと感動しつつも、どこか不満に思っていたのは事実だった。
そんなある日だった。訪れた街ではたまたま祭が開催されていた。一年の収穫に感謝し、来年の豊作を祈る祭だ。きらびやかな飾り付けや、舞の奉納もあり、それを目当てに観光客もやってくる。そんな日にたまたま当ってしまった。
「申し訳ありません、本日は一部屋しか空いておらず……今日は年に一度の収穫祭ですから、どこのお宿も同じような状況かと」
宿の主人は申し訳なさそうな顔をして、二人にそう言った。
「おや……」
ラスティカも困った顔をしている。けれどベラはチャンスだと思った。この機を逃したら、チャンスはいつ巡ってくるかわからないのだ。ラスティカが何も言わないうちに、言ってしまわねばならない。手のひらをぎゅっと握りしめた。
「いえ、大丈夫です。一部屋で。同じ部屋に泊まります」
「ああ、助かります。ベッドは二つございますので、おくつろぎいただけるかと」
主人はほっとした顔をしたが、ラスティカは驚いたように目を見開いた。
「ベラ……良いのかい?」
「ええ」
安心させるように微笑んでみせる。ラスティカは少しだけ困ったように、眉を下げて笑った。
食事をして、部屋に戻る。ただそれだけの事が酷く緊張した。ラスティカはあくまで友愛として、という距離感を崩さなかったけれど、今やらねばいつやるのだ。そう思って、ベラは部屋に入った瞬間、ラスティカに正面から抱き着いた。
「ベラ」
ラスティカは硬い声で名前を呼んだ。それでも、ベラは離さなかった。
「いや」
声が震える。ラスティカは、ベラの頭を撫でた。いつもよりもぎこちない撫で方だった。
「どう言うことかわかっているのかい?」
「わかってる。私だってお嫁に行く予定だったの」
そう言うと、ラスティカは黙った。頭を撫でる手は止めないまま、じっと考えているようだった。
「お願い、ラスティカ。抱いて」
直接的な言葉でねだる。彼はそんなやり取りは好まないかもしれないけれど、これしか思いつかなかった。どう思うのだろうか。わからない。けれど、ラスティカはベラの背を抱きしめた。
「わかった」
それから、何が起こったのか、正直なところ覚えていない。甘い言葉と温かな体温に包まれ、優しく触れられて呼び覚まされる快楽にどろどろに蕩かされた。ベラは処女で、初めての行為は痛みや出血が伴う事もあると聞いていたから、内心では不安もあった。けれど全て杞憂に終わってしまった。出血どころか痛みも無かった。苦痛すらなかった。ベラの身体がどれほど準備が出来ているか、ラスティカはいちいち確かめながら、ゆっくりと行為を進めた。優しげな瞳が甘く熱い熱を点すのを初めて見た。低く掠れた声に耳元で大好きだとささやかれ、愛しげに微笑まれ、沢山キスをされた。ベラはキスすらしたことが無かったから、ずっと翻弄されていたけれど、弄ばれている心地はしなかった。ラスティカからの愛情を感じて、胸がいっぱいになってしまう。大好きだと、愛していると何度も言って、とても満たされた気持ちだった。
「ずっとこうしたかったの」
行為の後、ラスティカの腕に抱かれながらベラが言うと、ラスティカは微笑んだ。
「ずっと?」
「うん。気付いていなかったの?」
「ベラはどちらがいい?」
「もう、またはぐらかして。でも、思い切って言って良かった」
「そうだね。君がしたい事は、なんでも叶えてあげたいんだ。ねぇ、僕の大好きなベラ」
額に軽い音を立ててキスをされ、くすぐったさに身をよじった。今まで生きて来た中で、一番幸せだと思った。
それから、何度も甘い時間を過ごした。部屋も一つで泊まるようになったし、ふとした瞬間にキスをしたり、抱き合ったりするようになった。恋人同士と言っても過言ではないだろう。そんな関係でいられる事が嬉しく、ベラは幸福だった。
それと同時に、以前からの黒い感情が勢いを増したのも事実だ。ラスティカが誰かを花嫁と間違えるたび、それを止めながらも自分というものがありながらなぜ、という思いが抑えられなかった。彼の花嫁でない事はわかっているのだ。ラスティカとは、ベラの生まれ故郷で知り合ったのだ。それ以前に関係があるわけもなかった。要は完全にお門違いの感情なのだ。けれど、ラスティカと身体の関係を結んで以降、急激に加速してしまったのだ。
その日訪れたのは、少しひなびた気配のある街だった。ベラの故郷からは離れていたが、どこか似た風情のある街だ。懐かしさを感じながら、ベラはラスティカとその街を歩いて、いつものように宿に泊まることにした。
もう何度目になるかわからない喧嘩をした後だった。ラスティカが花嫁を見出してベラが止める度、黒い感情が噴出した。それがもう止められなくなっていた。ラスティカは宥めてくれたけれど、それすらもう苛立ちの種になっていた。ラスティカが優しいから、愛しいからこそ腹が立つのだ。ベラが優しくしないでと言うたび、ラスティカはひどく悲しそうな顔をした。そんな顔をしたって無駄だと言いたかったけれど、心動かされてしまう。それで許してしまうから、惚れた弱みというものは辛かった。
たまたま、その日は長引いたのだ。ラスティカがベラに綺麗な景色を見せても、ベラは機嫌を直さなかった。ふいと顔をそむけるたびにラスティカは悲しい顔をして目を伏せた。そんな反応に罪悪感が無くはなかったけれど、機嫌を直す気にはなれなかった。
ラスティカが、昼食を買った店の店主を花嫁と間違えたのだ。若い女で、ラスティカに気があるから昼食に少しばかりのおまけを付けたのだとわかりきっていた。頬を少し赤らめて、声をワントーン高くして。あからさま過ぎて乾いた笑いしか出なかった。けれどそんな女を、ラスティカは花嫁と間違えた。
ベラのとりなしで、その場はなんとか収まった。しかし、喧嘩になった。というよりもベラが一方的にへそを曲げた。そして今いる街に辿り着き、宿に入ったのだ。いつものように一部屋しか取らなかったことを後悔したが、旅費はいつもラスティカ持ちだから何も言えなかった。
「ベラ、君の好きなアイスクリームのお店を先程見つけたんだ。食べに行かない?」
「行かない」
「甘いものの気分では無いのかな? それなら箒に乗って景色を見に行こうか。今からなら夕暮れに間に合うよ」
「行かない」
「ベラ……」
ラスティカは悲しそうな顔をして、ベラの手を取り、膝をついて顔を見上げた。気取った仕草もラスティカがすれば絵になるのだから笑えない。
「何がしたい? 君のしたいことをしよう」
「結婚したい」
「え?」
「ラスティカと結婚したい。結婚して。二人でこの街で暮らしたい。子供を作って、家庭を築きたい」
一息に言い切ったベラを、ラスティカは見上げていた。口元は強張り、眉は下がった、今まで見たことのない顔だった。
「……なぜ?」
やっとのことで絞り出したという風情の声は震えていた。困っているのだということはわかったけれど、それは更にベラの怒りを増幅させた。
「なぜ? 貴方が好きだからに決まってる! 好きな人と家庭を持ちたいと思うのはそんなにいけないこと? なぜ貴方は私を花嫁にしてくれないの? こんなに貴方に尽くしてるのに!」
止まらなかった。ベラの怒りに気圧されるように、ラスティカは目をそらした。いつもまっすぐ目を見て話してくれるラスティカが、そんなふうに目をそらしたまま話すなど、今までに見たことがなかった。
「結婚は出来ない。僕の結婚の約束は花嫁のためにあるから。そして、君は花嫁ではない。結婚は出来ないよ」
苦しげな声だった。けれど、ベラの怒りを収める結果にはならなかった。たからベラは言ってしまったのだ。
「花嫁って何よ!? ずっと探して居ないのなら、もう居ないんじゃないの!? 顔も名前も覚えてないのに、見つけられる訳無いじゃない!」
ラスティカが顔を上げる。その顔には明らかな絶望があった。いつも穏やかな目が見開かれ、ラスティカの大きな手が震えていた。ラスティカを傷付けた。その事実に少なからず心が痛んだが、止まれなかった。
「それなら私と暮らしたほうが良いわ。ね、お願いラスティカ」
しかし、ラスティカは顔を歪めた。今にも泣きそうな顔だった。
「できない」
「……このひとでなし!!!」
ベラはそう投げつけると、ラスティカの手を振り払った。その勢いでラスティカは床に倒れ込んだが無視をして、外へ飛び出した。夕暮れの街を走る。仕事帰りと思しき労働者達がベラをからかったが、あしらう余裕も無かった。こんな景色も懐かしかった。
ベラがやって来たのは、街の入り口にある自警団の詰め所だった。息を切らせ飛び込んできた若い女に、体格の良い団員たちが何事かと駆け寄ってくる。ベラは、あふれる涙を拭いながら叫んだ。
「助けて、お願い、魔法使いに連れ去られて、やっとの思いで逃げてきたの!」
ラスティカへの復讐だった。自警団の団員たちは顔を見合わせ、ベラを座らせて詳しく話を聞かせてほしいと言われた。ベラは、ラスティカがベラを連れ去った事、旅をする過程で何度も犯された事、隙を見て逃げ出してきた事を話した。嘘だった。全てベラがねだったのだ。しかし、もう止まれなかった。女性の団員が優しく肩を抱いて慰めてくれて、涙が止まらなかった。団員たちは、その涙を恐ろしい魔法使いから開放された故の涙と思ったらしい。ものものしい装備を身に着け、出ていこうとする団員達にベラはついていった。夕暮れの街は嫌になるくらい懐かしくて、空は美しかった。ごめんなさい、と心の中で謝った。それは、誰に向けての物なのか、もうわからなかった。
宿屋について、団員達が部屋のドアを開ける。ラスティカは、窓辺のテーブルにティーセットを出して紅茶を飲んでいた。ものものしい雰囲気に驚き、その奥にベラの姿を見て更に顔を歪めた。
「どうして」
「お前か魔法使いめ! うら若き女性を拐かしたそうだな! 成敗してくれる!」
団員たちはラスティカに銃を向けた。ラスティカは悲しげな顔で、ゆっくりと瞬きをした。ティーカップをソーサーに置いて、パチンと指を鳴らす。その一瞬で、銃が花束に変わっていた。
「ベラ、どうして?」
「喋るな! 次に魔法を使ったら問答無用で牢屋行きだぞ!」
ベラは何も言わず、ラスティカのことをじっと見つめていた。ラスティカは、また瞬きをした。涙が一筋、彼の頬を伝った。そして、気付いたら彼の手の中に鳥籠があった。
「《アモレスト・ヴィエッセ》」
何度も聞いた呪文だ。その瞬間、頭を引き裂かれるかのような音が鳴った。屈強な団員たちが、途端に頭を抑えて蹲る。ベラも耐えきれず耳を押さえた。そして、何かが爆発したように目の前が明るく照らされる。目が眩んで、何も見えなくなってしまった。
しばらくして視界が回復した時、ラスティカの姿はそこにはなかった。荷物もすっかりなくなっていて、目が眩んでいる隙に逃げたのだろうと思われた。ベラは団員たちに付き添われ詰め所まで戻ったが、最後に見せたラスティカの涙が忘れられなかった。あの男のことを愛していたはずなのに、誰よりも大切だったはずなのに。けれどもう遅い。故郷から連れ出してくれた恩人を裏切って、ベラは故郷によく似たこの街で生きていくことになるのだろう。夢の中の事のようだった旅の日々を思い出し、ベラはまた涙を流した。
逃げて、逃げて、どれくらい経っただろうか。急いで持ち出した荷物は何かが欠けている気がする。ここ最近はずっと二人乗りだった箒がやたらと軽いのも、それを助長している。涙が溢れて仕方がなくて、呼吸が苦しくて、魔力も不安定だった。酷い事を言われ、マナエリアで魔力を回復していた時の事だったのだ。何故、あんなに酷い事を言うのだろう。何故、結婚してくれなどと言うのだろう。自分はずっと花嫁探しの旅をしていると言っていたはずなのに。
がくん、と箒の高度が下がり、地面に投げ出された。したたかに地面に身体を打ち付ける。全身を痛みが襲った。魔力が尽きそうで、痛みと苦しさに必死に息をする。涙がとめどなく溢れた。
あんなに大好きだったのに、自分を牢に入れようとするなんて。大好きだと言ってくれていたはずなのに。
忘れるんだ、とラスティカは念じた。忘れてしまうんだ。誰と旅をしてきたのかも、何があって、何を言われ、どんな別れをしたのかも。すうっと息を吸う。ゆっくり吐き出す。青い草の匂いと湿った地面の匂いが肺を満たし、ラスティカを落ち着かせてくれた。目を閉じる。夕陽が沈んで、夜が来ようとしていた。星たちが、〈大いなる厄災〉が見守ってくれている。次第に心は凪いでいった。身体に力が戻ってくるのを感じながら、ラスティカは眠りに就いた。
「あの、大丈夫ですか?」
遠慮がちな声がして、ラスティカは目を開けた。青い空をバックにして、一人の青年がラスティカの顔を覗き込んでいる。
「怪我してますよ。あと、水、どうぞ」
青年はそう言って水筒を差し出した。ラスティカはその水筒を一気に飲み干すと、まじまじと青年の顔を見た。なんて親切な青年なんだろう。そうだ、彼に違いない。そう確信する。幸福な気持ちだ。昨日まで何をしていたのか思い出せないけれど、今日はとても幸せな日だ。
「こんなに親切だなんて、僕の花嫁に違いない!」