ねこまたの愛【始春】
ふと、小さな物音に目を覚ます。
(今日もか……)
一日だけならば、厠にでも行ったのだろうと思うが、三日も続けば何かあると思うのは当然である。人の気配が遠ざかるのを確かめてから、始はゆっくりと上体を起こした。
音の主に気取られぬように気配を消して後ろを付けていく。音の主は周りに気づかれぬ様にこっそりと動いているのだろう。いつもよりゆっくりと動く足取りに、追い付くのはそう難しいことではなかった。
「どこに行く気だ?」
勝手口で靴を履くためにしゃがみ込んでいた春の背中に声をかける。
びくりと跳ねた体がゆっくりと振り返り、その薄萌黄色の瞳と目があった。
「えーっと、逢瀬?」
へへへっと笑って誤魔化そうとした春に、始は大きくため息を吐いた。
「三日連続で会いに行くとは、よほどその相手に熱を上げてるようだな。俺も会ってみたいものだ」
「そんな、デェトに始同伴とかありえないでしょ……」
「保護者同伴でないとお前は何をしでかすか分かったものじゃないからな」
春も始に見つかりさすがに観念したのか、へにゃりと困ったように眉を下げるだけで、何も言わなくなった。
それを是と受け取った始は、己も手早く出かける準備を始め、皆が寝静まる月明かりの街中をゆっくりと春と並んで歩き出した。
街灯も消え、街中は月明かりのみの優しい灯りに照らされている。
二人は並んで歩いているものの、全く会話はない。そのまま街中を抜け、鬱蒼と生い茂る山の麓まで出た。
春は躊躇うことも無く山の茂みへと歩みを進めていく。
「ずいぶんと山奥の逢瀬なんだな」
「ちょっとシャイな子なんだよねぇ」
ぴたりと春が足を止めると同時に、始はそっと辺りの様子を窺う。
辺りに神経を尖らせれば、徐々に近寄ってくる大きな気配に、始は腰に掛けた刀の柄に手をかけた。
『なぁ~お』
しかし、草むらの中からのそりと現われたのは気配とは裏腹に、一匹な黒猫だった。
「こんばんは、ハジメ。今日はカツオ節だよ」
『なぁお~』
するりと春の足にすり付き甘えた声を出した猫に、始は眉間を寄せる。
「おい、なんでこいつの名前」
『ハジメ』と呼ばれた黒猫は、月明かりの下でもわかるほど艶々と美しい毛並みで、まるでしっとりと濡れているようだ。
春が差し出したカツオ節を上品に食べている。見た目はただの猫なのだが、どう見ても普通の猫とは決定的に違うところがあった。
「おい、春」
「この艶やかな毛並み。真っ黒でまるで始みたいだろう? 出会った時に始みたいだなって、思わず名前を呼んだら、お返事してくれたから。それ以降、この子もハジメって呼んでるんだ」
「名前の由来は分かったが、俺が聞きたいのはそこじゃない」
「気づいちゃった?」
「気づかないわけがないだろう」
カツオ節を食べ終わったハジメが、春の手に甘えるようにすりすりと額を押し付け、撫でろとせがむ姿はそこら辺にいる野良猫と何ら変わりはない。
「こいつ、どう見ても猫又だろう」
「そうなんだよねぇ」
のんびりと答える春に、始は頭を抱えた。
始たちは、魑魅魍魎と闘うハレ六家の人間だ。そんな人間が、こっそりと妖の世話をしているなどと、お上に知られたら大変なことになる。
「で、こいつをどうするつもりなんだ」
「うーん。できれば助けたい」
「助ける?」
おもむろに小刀を取り出した春が、指先をチクリと刺す。ぷくりと赤い珠が浮き出し、その指先をハジメへと差し出した。
「おい、お前まさか」
滴る血が零れぬうちに舐め始めたハジメがぶわりと毛を膨らませた。
「魔力を与えてどうするつもりだ」
「そうでないとこの子は、正気を失っちゃうから」
猫又は長年人間に飼われていた飼い猫が、ある日とつぜん尻尾が二又に分かれ妖怪へと変化する。そのまま飼い主ら人間を食い殺し、山へと逃げる。その言い伝えがあるゆえに、猫は長年飼ってはならぬと言われ、十年を過ぎた頃に山に飼い猫を捨てる地域もあると言われていた。
「猫又になる子ってさ、それだけ飼い主さんに大事にされていたってことじゃない? こんな山の中で、一匹で過ごしているなんて可哀そうだよね……」
切なそうにハジメを見つめる春の表情に、ギュッと心臓が締め付けられる。春も、弥生家ではいつも一人寂しく過ごしていたのだろう。もしかしたら、自分の人生と重ね合わせているのかもしれない。
「だが、こいつ、一人食ってるだろう」
「うん。そうだね。きっとこの子を大切にしていた人だったのかな」
「わかるのか?」
「うん。初めてこの子に血をあげた時に少しだけ見えたんだ」
夜にも消えぬ灯り。花街の美しい景色。その格子付きの円窓。
見上げると優しい笑みで撫でてくれる優しい手。その顔はなんだか自分自身に似ていて、ゾワリと背筋が震えた。
美しい着物に身を包んだその人は、笑顔なのにまるで泣いているようで。
きっとこれはハジメの記憶だ。
『もう、あの人に会えないなら、いっそこのまま朽ちてしまいたい』
撫でる手はどこまでも優しいのに、見上げた薄萌黄色の瞳は悲しみに揺れている。
無気力にぼんやりと天井を見上げるその人に、ゆっくりと近づいたハジメの牙が、喉元に触れる。
『あぁ。ありがとう。君はどこまでも優しいね』
視界が赤に染まる。
染まる。
染まって、真っ暗な闇に消えた。
「この子もさ、きっとそろそろ終わりが近いことに気づいていると思うんだ」
語り終わった春が、優しくハジメの喉元を指先で掻く。
「お前がその役割を担うことはない」
「でも、出会ったのは運命だから。きっとこれは俺の手で終わらせなくちゃならないと思うんだ」
膝に乗って甘えていたハジメだが、徐々にフーフーと興奮したように尻尾を膨らませる。
瞳孔が細く弧を描き、隠されていた爪がズズズと音を立てながら現れていく。
「もう、この子の理性は消えかけている。このまま理性を失って、無秩序に人を食らう化け猫になってしまったら、俺たちが倒さなくちゃならない。そうなる前に、俺の手で終わらせてあげたいんだ」
「春。黙れ」
「アイタっ⁉」
ガツンと刀の鞘で春の頭を強く殴れば、目を白黒させながら始を見上げてきた。
「なにするのさ始!」
「お前が人の話を聞かずに突っ走るからだ。馬鹿。助けたいなら、ちゃんとこいつのことどうやったら助けてやれるのか考えてやれ」
涙目になりながら、殴られた自分の頭を撫でる春の膝からハジメを奪い取ると、始はおもむろに刀を抜いた。
「始!」
「こんなに強そうな相手。手合わせせずにいられるか」
ヒュっと風を切る音とともに、刀先がハジメを一刀両断にしたかと思えば、ひらりと綺麗に身を翻し、高い枝の上に降り立つ。
「なかなかやるじゃないか」
『なぁ~お』
まるで同じことを言っているような一人と一匹。緊張感の漂うピリピリとした空気に、春は息を飲んだ。
今度仕掛けたのはハジメの方からだった。
常人の動体視力では追いきれないほどの速さで枝から枝へと移動し、一瞬の隙をついてその爪が始へと降りかかる。
キーンっと爪と刃がぶつかる音とともに、その衝撃波で春の髪が揺れた。
「ははっ!」
『ふなぁ~』
月明かりの下、一人と一匹はまるで舞を披露するように美しく、そして激しくぶつかり合う。
春は、その一種の神々しさに見蕩れ、溜息を漏らす。
しかし、そんな時間は長くは続かなかった。
「はッ!」
『ぎゃぅっ!』
始の刃がハジメの尾を捉え。二又に分かれたうちの一本がボトリと地面へと落ちた。
何とか着地には成功したものの、ハジメはそのままフラフラと体を揺らし倒れ込む。
「ハジメっ!」
春が慌てて駆け寄りその体を抱き寄せると、息を荒くしたハジメが微かに『なぁ
』と甘い声で鳴いた。
「春、手を退けろ」
「そんな、こんな強引なやり方! 始だってどうやって助けるのか考えろって言ったじゃないか!」
春が守るようにハジメを抱え込もうとする腕を引きはがし、始が小さく術を唱える。
「始っ‼!」
ボッと燃え上がるハジメの体に、春が悲鳴に近い声を上げる。
しかし、ハジメの体は燃え尽きることなく、一瞬にして術の炎は消えてなくなった。
「え……?」
「止血しただけだ」
出血により気を失ったのかハジメはぐったりと春の腕に体を預けている。
「始……、これ」
「前に母さんに聞いたことがある。猫又は尾が二又だから猫又なんだ。だから一本にすれば問題ないって」
「そ、そんなことって、ある?」
始の言い分に、目を瞬かせる春だが、腕の中のハジメから溢れだし始めていた邪気は明らかに薄くなっているようにも感じる。
「ほら、帰るぞ」
「え、あ、うん」
ハジメを抱えた反対の手を始に引かれ、来た道をゆっくりと歩んでいく。
「ちょうど明日は士官学校も休みだしちょうど良かったな」
「ちょうど良いって?」
「お前、こいつから溢れだしてた邪気、引き受けてただろ」
ぎくりと肩を揺らせば、始が胡乱な目つきで春を睨みつけた。
「わからないと思ったのか?」
「ご、ごめんなさい」
しゅんっとした表情の春の頬をむいっと始が摘まむ。
「いひゃい」
「俺以外の相手とデェトをしていた罰だ。浮気を許してやれるほど、俺は心の広い男じゃないからな」
「そんな、猫相手に、いててててごめんって!」
睦月の屋敷に着くや否や始の部屋に連れ込まれ、春がようやく出てこられたのは翌日のもう日も落ちる時間帯であった。
『んなぁ~』
「あれ、ハジメ。もう起きてきても大丈夫なの?」
それから数日が経ち、ハジメの傷もだいぶ癒えたのか、屋敷内を歩く姿をよく目にするようになった。
するりと春の足の間に体を摺り寄せ、匂いを付けるとひょいっと庭に舞い降りる。
『ふにゃ~』
どこからか、甘えたような猫の鳴き声が聞こえ、春がきょろきょろと庭に視線を動かすと、柔らかな日差しを集めたような暖かな毛色のふわふわの猫が一匹。
ハジメに向かって進んでいくと、すりすりと嬉しそうにその身を擦りつけ甘えて喉を鳴らす。
ハジメも、ふわふわの毛並みを堪能するように毛づくろいをしてやり仲睦まじく体を寄せ合っている。
「あいつがまだ起き上がれずにいるときから、庭に何度も訪れて鳴いてたやつがいてな」
「あれ、始。おはよう」
くありと眠そうに欠伸をした始が、縁側に座る春の横にドカリと腰を下ろした。
「だから、ハルって名付けてやった」
「え」
「似合いだろう? あの、癖っ毛でぶわぶわとまとまりのない毛が春にそっくりだ」
二匹の戯れる姿を眺め、目を細めた始がそのまま春の膝を枕にゴロリと寝転んだ。
「最近、お行儀悪くない、始」
「お前は少し、ワルい男の方が好きみたいだからな」
「なあにそれ」
膝の上に乗る綺麗な形の頭を撫でながら、くすくすと笑う春の笑い声を聞き、始はゆっくりと目を閉じる。
暖かな陽射しを浴びながら、二人と二匹は日向ぼっこを楽しむのであった。
終