月光の悪戯【始春】雲外鏡は走っていた。
普段は、子供らしからぬ大人びた笑みを浮かべ部屋で静かに書物を読んでいるような子であった。しかし、今の雲外鏡は走らなければならない理由があった。
月野神社の先を進むと鬱蒼と茂る森へと続いている。そのもっと先を抜けた先に、月光に照らされる湖があった。
夜霧を集め、清廉な空気を多く含んだ湖は月の光を溜めこみどんなものでも清めてしまう力を宿していた。
雲外鏡は、その湖の水を求め走っている。
彼が住む社には、多くの妖が住んでいた。その中でも、妖の長となる黒天狐は神をも凌ぐ力を持つと言われていた。だが、その黒天狐もこの世に生を受けたばかりで、小さな体に巨大な力が暴走し、幾度となく熱を出しては寝込む始末である。
黒天狐が熱を出し寝込んでいる間は、決して部屋に入ることも傍へ行くことも許されない。それは、力の暴走により、弱い妖を傷つけてしまう恐れがあるからだ。と、大天狗に幾度となく釘を刺された。白天狐も、今は我慢してね。と、優しく頭を撫でてくれるのだが、雲外鏡は黒天狐のために造られ、顕現した鏡だ。
彼の傍にいたくて、少しでも力になりたくて。しかし、小さく、まだなんの力も持たない雲外鏡はその無力さに歯がゆさを感じていた。
そんなある日、書物庫の中で一冊の本を見つけ出した。
それが、月野神社の奥にある月光の湖である。
雲外鏡は、他の妖に気づかれぬ様にこっそりと社を抜け出した。
両手でやっと抱えられるような桶を背中に担ぎ、手には己の本体である鏡を抱え。
その湖は、いつもそこにあるわけではなく、満月の夜に一晩だけ現われる不思議な湖だと書物に記載されていた。とうに日は落ち、雲一つない夜空にぽっかりと浮かぶ真ん丸の満月。それが雲外鏡の足元を照らしてくれる。
社からどれほど遠いのかもわからない。しかも子供の足だ。急がなければ満月の夜が終わってしまう。
雲外鏡は何度もずり落ちそうになる桶を担ぎ直しながらも必死に森の中を走り続けた。
月明かりのみが照らす夜道を進み続けること、もうどれほど経ったか分からなくなってしまったころに、辺りを囲んでいた背の高い木がいつの間にか姿を消して、ぽっかりと広がる水辺へとたどり着いた。
月の光が反射してキラキラと水面が揺れる。
ようやく辿り着いた。
霊力をたっぷりとため込んだ湖は、近くに立っているだけでピンっとした空気を漂わせ、雲外鏡はプルリと体を震わせた。
「お水……、少しだけ分けてください。黒天狐様の熱が下がるように。清めの水を……」
あまりの美しさに茫然としていた雲外鏡は、ハッと我に返り手を合わせてから背中の桶に水を汲む。
たっぷりと桶に水を張り、持ち上げようとした瞬間だった。
思ったより増した桶の重みで、ぐらりと雲外鏡の体が傾いだ。
「あッ……っ!?」
とぷん。
雲外鏡の体が湖へと飲み込まれる。
必死に水の中で藻掻くが、着物は濡れ本体の鏡は水底へと沈んでいく。
鏡が無くては、雲外鏡は今の姿を保つことができない。深く深く潜って必死に鏡へと手を伸ばすがどうやっても届かない。
次第に息が苦しくなりゴポリと空気を吐き出してしまい、口の中に入り込んでくる水に雲外鏡はそのまま湖の底へと沈んでいった。
(黒天狐様……)
「ねえ大丈夫? どこか痛い?」
「お熱でもあるのかな?」
優しい声音に、雲外鏡は目を覚ました。
ゆっくりと目を開けると、鶯色の大きな瞳が四つ雲外鏡を見下ろしていた。
「ここ、は?」
「あ、目が覚めたんだね! う~ん。ここはどこなのかは実は俺たちも良くわからないんだ」
「ごめんね? 俺たちも気がついたらここにいて、どこなのかさっぱりで。ねえ、君は名前なんて言うの?」
年は同じくらいだろうか。それにしても、雲外鏡は動揺していた。目の前にいる二人が、全く同じ顔をしていたからだ。
一人は、見た目は人間と相違ないように見える。
もう一人は、黒く長い耳と、お尻に丸い尻尾が生えている。
兎耳の少年がゆっくりと雲外鏡の背中を支え、上体を起こすのを手伝ってくれた。
「えっと、俺は……雲外鏡って言います。鏡の妖です」
「うんがいきょう? 難しいお名前だね。俺は春。月野幼稚園の年長さんなんだ」
「俺も春って言うんだ。黒兎王国に住んでるの」
「君たちも『春』と言うの? あのね……実は俺、本当は真名を言ってはいけないことになっているんだけど、俺の真名も『春』って言うんだ」
真名を名乗ることは妖の中ではタブーとされていることだが、雲外鏡はこの二人になら名乗っても大丈夫だと確信していた。
なぜなら、人間の春も、黒兎の春も自分と同じ顔をしていたからだ。
「俺たち、なんで三人とも同じ顔をしているんだろう?」
「え? そうなの?」
黒兎の春が首をこてんと横に倒す。
「ほら、俺の鏡を覗いてみて。人間の春も」
雲外鏡は鏡を己に向け、左右に人間と黒兎の春を手招きして三人で覗き込む。
同じ顔が三つ。目を丸くして、ぱちくりさせて互いの顔を見比べた。
「本当だ、おんなじ顔だ。俺、鏡って初めて見た。俺ってこんな顔をしていたんだ」
「え? 初めてなの?」
「うん。俺のいる孤児院に鏡は無いんだ。鏡って高級品だし」
「高級品なの? 俺のところだと、百円ショップで買えるのに」
「「百円ショップ?」」
今度は人間の春が、あれえ? と首を傾げる。
「俺たちって、同じ顔なのに、生活が全然違うんだね」
「そう言えば、前にお父さんから聞かせてもらったことがあるんだけど、俺たちが住んでいる世界とは別の平行世界? ってところで、自分と同じ存在がいて、幸せになるために頑張っているんだって」
「本当? 面白いね。ねえ、もっと君たちの世界のお話を聞かせて?」
三人でぺたりと座り込み、自分のこと。どんなところで住んでいるのか。友達のこと。たくさんのことを夢中で話し合う。
どの世界の春も好奇心が旺盛で、聞く話に瞳を輝かせては自分のことも楽しく紹介していった。
「それでね、俺の一番仲の良い友達が始って言うんだけど」
人間の春が頬を赤らめ、嬉しそうに話す姿とその名前に驚き雲外鏡は目を丸めた。
「始? 人間の春の世界にも始と言う名の人がいるの?」
「うん! 大親友なんだ!」
ニコッと笑う人間の春に戸惑う雲外鏡だが、隣に座っていた黒兎の春も同じように動揺し瞳を揺らしていた。
「もしかして、黒兎の春にも始がそばにいるの?」
「お、俺のそばに始はいないよ……。でも、前に一度だけ一緒に遊んだことのある、俺の国の王様の名前が『始』って言うんだ」
「王様! 凄い! 始は王様なんだね! うんがいきょう? の世界の始はどんな人?」
キラキラとした瞳で顔を覗き込まれて、雲外鏡はびっくりして鏡で顔の半分を隠してしまうが、頭の中にある黒天狐の姿を思い浮かべ一生懸命に二人へと伝えた。
「黒天狐様は、神をも凌ぐと言われていて、将来、妖たちと世界の安寧を見守る役目を持っているんだ。今はまだ小さくて、力が暴走してしまうけど、それでも日々の鍛錬を怠らず真っ直ぐに前を向いている方だよ。って、黒天狐様!」
いきなり知らない世界で思いもよらぬ出来事が立て続けに起こり、すっかりと忘れ去ってしあっていたが、雲外鏡は自分が黒天狐のために湖を探していたことを思い出した。
「ど、どうしたの、うんがいきょうって、うわぁっ!?」
「春、迎えに来た」
「始くん!?」
いったいどこから現れたのか、鴉羽色の髪をした子どもが人間の春を後ろから抱きすくめた。
「春は俺のだ、連れて帰る」
「ど、どうやってここに!?」
「春を探していたら、いつの間にかここに来ていた。ほら、帰るぞ俺たちのいるべき世界に」
強引に人間の春を立たせた始が、雲外鏡と黒兎の春を見て目を丸くする。
「春……」
「お前は、うちの春だろう」
「は、始!?」
今度は、黒兎の春の番だった。
同じように黒く長い耳に、丸い尻尾が艶々とした始が黒兎の春の腕を引く。
「帰るぞ」
「君が、どうしてここに……?」
「国に必要な存在は王が連れて帰るのは当然だ」
有無を言わさず腕を引かれてどこかへと帰っていく二組の始と春を見送った雲外鏡は、知らぬ空間にポツンと残されてしまった。
「っふぅ……」
一人になったとたんに心細くなり、涙が込み上げてくるのを必死に堪えた。
自分はもとの世界に帰れるのだろうか。しかし、雲外鏡には迎えに来てくれる始がいない。
熱を出し、苦しんでいる黒天狐を思い出し、また涙が溢れそうになった。
「黒天狐、さま……」
とうとうぽろりと一筋の涙が零れた。
一粒、零れてしまえばその後は留まることを知らず、雲外鏡は小さな体をもっと小さく丸めて声を殺して泣いた。
「はじめぇ……、会いたいよう……」
「春っ!」
名を呼ばれ、勢いよく振り返る。
「は、はじ、めっ……ふぇっ……」
「春!」
息を切らした黒天狐が、強く雲外鏡を抱きしめた。
嗚咽を漏らす雲外鏡の背を優しくポンポンと撫でる。
「遅くなってすまない。力の暴走で、お前を見つけるのが遅くなってしまった」
「いいえ。俺が……黒天狐様に……ご迷惑をッ……」
「違うだろう春。お前、月光の湖を探してくれてたんだな」
ぐすぐすと鼻を鳴らす雲外鏡は、黒天狐の肩口に顔を埋めて小さく震えている。それを落ち着かせるために、何度も、何度も黒天狐は雲外鏡の背を撫で、髪を梳いた。
「帰ろう。俺たちの世界へ」
「はい……」
キュッと互いに手を強く握り、一歩先を歩く黒天狐に手を引かれながら歩み始める雲外鏡。
「あの……」
「どうした?」
「お身体は、もう平気なのですか?」
雲外鏡がまだ赤い目元を擦りながらも心配そうに黒天狐を見つめた。
「問題ない。春が、水を届けてくれたからな」
「え? 俺はなにもできてないです」
「いいや。寝所に置いてあった鏡から月光の湖の水が溢れだした。それを飲んで俺は今こうして春を迎えに来れたんだよ」
雲外鏡の鏡を経由して、黒天狐の寝所に置かれた鏡に無事、清めの水が届けられたと聞き、ほっと胸を撫でおろした。
「迎えに来てくださり、ありがとうございました……」
「当たり前だ。お前がたとえどんな世界にいようとも必ず見つけ出して迎えに行ってやる」
「はい」
パッと眩しい光に目を細めれば、知っている森の中。朝日が降り注ぐ小道へと出ていたことに驚き、雲外鏡が目を瞬かせる。
「朝だな。このまま、手を繋いで社まで帰っても良いか?」
「はい!」
もう一度、強く黒天狐の手を握り返し、二人は寄り添いながら社へと帰って行った。