松田のその後 千暁はふと顔を上げた。
何かの声が聞こえた気がした――のだが、店内には相変わらず彼以外誰もおらず、ただ空調機器が唸るばかりだ。ガラス戸の向こうにも変わった様子はなく、五月雨の中をちらほらと人が歩いているのが見える。溜息をついた。
普段は常連一見問わず、営業時間中はたいてい誰かしら客がいるものなのだが、今日はどうも暇である。昨夜から降り出したこの雨のせいだろうか。店主である千暁の祖父はここ数日は買い取りに出向いているので、千暁に声をかける者がいたわけもない。
空調機器が保つ温度と湿度は本のためのもので、千暁にとってはやや肌寒い。すん、と鼻を鳴らして、彼は着ているカーディガンの襟元を直し、気のせいだったなと、視線を先ほどまで読んでいたページに戻した。
文字を追い、その意味を処理しながら、ちらりと思い返す。いや、このひと月、何度も何度も繰り返し思い出している。だからいっそう、忘れようとしても忘れられずにいる。
あのバスツアー。
帰り道の出来事さえなければとても楽しかったのだ。そう、帰り道の出来事――局地的だったらしい大きな地震、それから起きた事故。トンネルに響く悲鳴と泣き声、何かが一緒くたになって燃える嫌な臭い、血にまみれた凄惨な、死体。そのせいか、脱出途中で吐き気を覚えてからは、記憶すらもやや朧だ。
しかし、鮮明に覚えているものがある。何よりも忘れてしまいたいのはそれなのに。
――あの薄暗がりの中で見てしまったものは、何だったのだろう。
一度目は逃げ込んだ先の塔ではっきりと、二度目は戻ろうとしたトンネルの中に、ぼんやりとだが大量に。目玉と鱗を持つ、何か。これまで見たことのない、作り物とは到底思えない実感を持つ、何か。
背筋が更に寒くなり、思わずぶるりと身体を震わせる。あれは非日常だ。日常に戻った今は、もう出会うわけがないものだ。思い出には蓋をしてしまえ。いっそ全て、できることならなかったことのように忘れてしまうに限る。そのはずだ。
日常はこの、びっしりと壁を埋める本、古びた紙と革、埃の乾いた臭いの中にある。生臭さとは無縁なのだ。だから――
ぐるぐると巡る思考を抱えた彼の耳は、不意に店の出入り口が開いた音を捉える。今度こそ客かと顔を上げた千暁は、そのまま目を見開いた。
空調機器の作動音だけだった店内に、外の雨音が侵入してきている。