鋼の望みの喜びよ 本丸御殿の御座の間で、政府に申し付けられた諸々の任務の準備と事後処理を行うのが、審神者としてまず為さねばならない日課であった。余程の例外、こちらが未踏の時代と地への遡行軍の進攻や検非違使の介入などのために対処がごたつき、猫の手も借りたいときほどしか、この業務には刀剣たちが携わることはない。近侍を置いてはいるが、おもに任せているのは雑務や他の刀剣たちとの仲立ちである。
そもそも一部を除いて、ここに召喚する男士たちは勘定や帳面とは無縁だ。なにしろ刀剣の付喪神たちであるのだからそれも道理で、ならばいっそ算盤や文房四宝の付喪神たちを頼みにしたほうが手早い。適材適所というもので、このために商家などで大事にされていた算盤や硯を譲り受けている。いわば、私設の秘書といったところである。
今日もそうした付喪神たちと共に諸々を片付け、近侍の燭台切が手ずから淹れた茶を飲み、ぼんやりと休息をとっていた。開け放した書院窓からは若葉風が薫る。時の流れから切り離されたこの城では、季節の移り変わりそのものは霊力による紛い物であったが、庭に植えられた木々や草花は木精も宿る本物である。戦の気配からはせめても遠く、心を和ませるようにと造った城は、こうして過ごす私自身の心をこそ慰めているのかもしれない。
やはり戦場にこそ彼らの本分はある、とは、帰陣した部隊を迎えるときに常々感じていることだ。雅を信条とする打刀ですら――否、彼は由来を思えば相当に血腥いにしても――そうなのだ。今は人の肉体を持っているとはいえ、付喪神に向ける言葉として正しいのかは分からないが、『生き生きと』している。水を吸った草がぴんと張るように、敵の肉を裂いて骨を折り、血を浴びてこそ、しゃんとする。血脂に塗れたままでは錆びてしまうにも拘らずだ。使ってこその道具とは、よく言ったものだった。
付喪神は、人ではない。
それも踏まえれば、千年を背負う太刀を筆頭にして、刀剣たちのこころはそうそう推し量れるものではない。ひとのこころすら隣にいたとて読めないものを、そもそも心の働きすらすこし違うらしい神の考えだ。資料が示すのは刀そのものの彼らでしかない。審神の力を持つとはいえ私は一介の人で、出来うる限り顔を合わせて言葉を交わしても、彼らそれぞれの記憶や来歴に慮るのはなかなかの苦労がある。
月の裏側のように、誰の心にも見せたくはない、踏み込ませたくはないところはあるものだ。人のみでなく、おそらくは神にも。たとえば今、下座に控えている黒尽くめの伊達男にしてもそうだ。眼帯の下がどうなっているのか、瑕疵の有無すら私は知らない。暴いていいものなのかも、まだ分からない。
――しかしそれでも、私はこの城の主であり、軍の帥なのだった。
迷いを茶で飲み下し、ここひと月の日誌と着到帳を開いた。遡行軍との戦勢は暫く拮抗している。鎌倉の昔――阿津賀志山の戦いまで進攻は確認されたが、歴史の改変そのものは未然に防ぐ、あるいは修復することが出来た。