春に奔る夢 ヒュンッと温い夏の夜風を斬った彼の写し身が刹那、僕が思い描いた理想の斬り様と重なったように見えた。当人にもそうだったのだろうか。残心のあと瞑目し、ふっと息を吐いて彼は写し身を鞘に納めた。何度も刀を振ったために息は荒かったが、その横顔は思いのほか凪いで静かに月光を浴びている。いつもと、何ら変わりがない姿だった。少なくとも、そう見えた。
――彼は明日、自らの拵を太刀から打刀のものに変えてから、初めて戦に出る。
しかし彼の来し方がそもそも、元は太刀だったものを磨り上げられ、打刀として帯びられるのに差し支えなくなっている、というのを僕も知っている。だから彼はおそらく、当初より打刀としても振舞うことも出来たのだろう。太刀として振る舞っていた理由を聞いたことはないが、彼がこの城に迎えられたとき、騎馬の戦の時代に敵が多く現れていた、というのが一つのように思われた。そして打刀の拵に変えた理由はその逆、徒の闘いの時代に敵が現れるようになったためだろう。そのうえ狭い市中とあっては、馬上から斬り下ろしたり突いたりする戦い方では圧倒的に不向きで、まして、敵は夜陰に紛れて現れる。彼はその点、僕よりも実戦的な――政宗公の色の濃い考え方をする付喪神なのかもしれなかった。
その、挑む戦場に適不適とはまた異なる話だが、彼が付喪神として真価を発揮するのはこれからなのかもしれない、とは、彼が慣らしをするのをぼんやりと見ていて思っていた。刃のそのものの冴えの話ではない。それに彼が――僕らが振るう刀は正真正銘の本体でなく、僕らを本体ごと霊的に呼ばうために打たれた依り代だから、それに降りた付喪神次第で変化するものだ。
つまるところ、付喪神としての力の話だ。
なにしろ、付喪神と成るためにはただ長い年月を経るだけでなく、人の思いも受けねばならない。神の末席とはいえ元は器物の精、人がいなければ生まれないモノだからだ。剣豪将軍に振るわれたともうぶであるともいう、あの天下五剣の優美な一振りが戦場であれだけの強さを発揮するのは、刀としての素晴らしさのほかにそういう道理がある。それを鑑みて、人の思いを受けた証の一つを世に残る記録とするならば、彼が磨り上げられてからのほうがその数は多いはずだった。