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    庵ホノ「ソーシャルディスタンス」ソーシャルディスタンス章タイトルソーシャルディスタンス
    流行りというのは、心浮き立つものだけではないのだと、ホノオは苦々しく、自室の天井を眺めた。故郷から飛行機を使わないと辿り着けない土地に進学し、意気揚々と新天地で青春時代を謳歌しているはずが、自身の城となった、六畳の部屋に閉じこもっている。

    「暇だ」

    部屋にいるのは、ホノオ一人ではなく、クラスメイトの庵野秀明もともにいる。ホノオは自身の机で。庵野は焔が用意した客用のテーブルに焔のベッドに腰掛けながら、姿勢の悪さを物ともせず、一心不乱に紙に線を走らせている。ホノオがため息をついたら、おいどうしたやら、何処か悪いのかも言う気配はなく、ただただ黙々と、庵野は、長身痩躯の体を机に向かって折り曲げては、取り憑かれたように筆を走らせていた。
    六畳一間、密閉された空間に男二人きりだ。

    「庵野、腹減らないか?」
    「お、そうか」

    興に乗っているのか、庵野の返事はとりあえずのていだ。
    手が止まらない上、目も合わせようとしない。腹ただしいとホノオは下唇を噛み締める。なぜ俺は、この男と缶詰めになることを選んでしまったのかと。
    このところ、巷を混乱させている新型ウイルスのせいで、感染症の脅威は、世界中の人間が対象となり、大阪南部の田舎町の大学ですら、休校措置を取らされている。
    春の初めから始まり、季節もそろそろ夏の兆しを見る今まで、焔も庵野も、自宅待機のままだ。
    いい機会だと、ホノオは思っていた。芸術大学に通っているが、安穏とここで卒業を迎える気などない。
    むしろ、在学中に漫画で身を立て、漫画界の寵児となり、大ヒットという、かぼちゃの馬車に華麗に乗り込み、この傑作を描いたのは誰だ?俺です、などと脚光を浴びる日を夢見ていた。
    新型ウイルスで、通学も世間の流れも止まったままの今、己に向き合い、なにか傑作を生み出すチャンスなのだ。
    ホノオの所属しているバドミントン部は現在休止中だ。憧れているマネージャーのトンコにも、ホノオに気のあるそぶりを見せていた津田にも、部活動がない現在、会えない状況が続いているが、かえって会わない方が何かを生み出せるのではないかと、自宅待機中の当初、ホノオは思っていたはずだった。

    「俺はもう、何一つ浮かばん」

    ホノオの手は、現実を恋い焦がれるかのように、トンコに似たメーテルのような女の子、はたまたボーイッシュな津田に似た岡ひろみのような女の子を描いている。
    何か面白いものをと思いつつも、自分にとって、なにが面白いのかわからない。女の子たちなら、何かしら俺を導いてくれるだろうという期待だけがホノオの胸に積もるが、いまここには、優しく声をかけてくれて、優しく体を触ってくれる、女の子の実体がないのだ。いいのか、この路線で?俺は男の子なのにと、ホノオの体や心が叫ぶ。
    鈴虫のように恋をしコオロギのように刹那に生きる、青春時代。俺にも何かあっていいはずなのに、引きこもるなら、女の子を連れ込めばいいはずなのに、なぜ俺は、庵野秀明を、下宿に連れ込んだ?
    ホノオは頭を掻き毟った。

    「メシにするか?ホノオくん」

    焔の掻き毟ったボサボサの髪よりも、さらに整っていない髪型の庵野が、声をかけてきた。

    「食え。肉の味がするぞ」

    庵野が持参した鞄を開けて、寄越したものは、おおよそ、食事とは言えないものだった。

    「サッポロポテト、バーベキュー味……」
    「サッポロポテトは野菜も摂取出来るならな。どうだ?」

    庵野のメガネはホノオの部屋の蛍光灯をキラリと反射し、そのまま、庵野は大きな口を歪めてニッと笑った。


    庵野が施してくれたサッポロポテトを食しながら、ホノオは津田を思いトンコを想う。
    なにをどうしたいわけではないが、二十歳前のこの若さだ。なにかあってもいいはずなのにと、咀嚼とともに苦々しさを反芻する。
    ホノオの青春時代は、優しい両親と過ごした札幌の日々とさして変わらず、漫画以外に、ホノオの魂や感覚に強く訴えるものと結局出会えていないのだ。
    ホノオの口いっぱいに広がるサッポロポテトバーベキュー味が、ホノオの味蕾にこれでもかと迫りくる。やかましい。何が肉の味だ、ふざけるな。

    「泣いているのか?ホノオくん」

    焔の口中に、塩味が加味された時、庵野の呼びかけで、焔は自分が涙を流していることに気づいた。

    「……あんの」
    「どうした?」

    泣いているのだ、ホノオが。庵野はホノオ心配げに覗き込むと、ホノオは庵野の胸に飛び込み、叫び出した。

    「つまんねえ!つまんねえよお」
    「おいおい、下宿に僕を連れ込んだくせになにを……」

    弾丸のように庵野の胸の中に飛び込み、ホノオは泣きじゃくる。庵野はホノオを落ち着かせるため、自身が座っていた焔のベッドに、並んで座らせた。
    ホノオの頬を伝う涙とともに、ホノオの鬱屈が蘇った。
    漫画を描くために、物語を作るために、誰かの胸を打つために在る自分の命を、無駄に費やしているのではないか。
    男が男の胸で泣きじゃくる状況を、庵野はそのまま受け入れた。ホノオから人に気を使う性分ではないと思われていた庵野が、心配げに声をかける。

    「どうしたんだよ?急に泣き出してさ?」

    二十歳前のマグマのような煮えたぎるエネルギーを持つ身を、新型ウイルスから守るために、室内に閉じ込められているのだ。

    「あんの……」

    いくら、漫画に身を捧げたとはいえ、ホノオにとって、身体的にも精神的にも放出のかなわない今の状況は地獄に等しかった。

    「こんな部屋に閉じこもって!俺、何もいいことなくて!せめてお前なら、漫画の話が出来るかと思ったのに!お前、俺を置いてけぼりで、次から次と何か描きやがって」
    「あぁ、よしよし。悪かった悪かった。故郷の親にも、一緒にいる人を気にせぇって、ワイは怒られとるけぇ、悪かったなぁ」

    庵野の故郷のなまりなのだろうか?東北なまりに近いが、歌うような節だ。……なんか可愛いな。トンコや津田に持つ感情を庵野に向けそうになった時、ホノオは首を振る。
    いやいや。男だぞ、庵野は。
    だが、ホノオの予想に反し、庵野はホノオの肩を包むように抱き、心地よいリズムで背中をさすった。それは優しく温かい。何年以上前の感覚だ、これは?たまにトンコさんが俺の肩を触ってくれるが、ここまで濃厚に触れられることはない。

    「この辺にするか?」

    ふと標準語に戻った庵野を、ホノオは突き放されたかに感じた。

    「わかってるだろが、これは密だぞ?ホノオくん」

    言葉とは裏腹に、庵野は、自身の胸の中で、嗚咽としゃっくりが区別つかないくらいに泣きじゃくるホノオを抱き続けている。密というのは、この新型ウイルス流行時に避けるべき、密接行為のことだ。庵野は続ける。

    「会話をしたら、お互いの息遣いがわかる距離だ。君の口の中の体液と、僕の口の中の体液が、空気中に混ざり合って、体に入ってしまうんだよ。ソーシャルディスタンスが守られていない」

    泣いている俺を捨て置いて、わからんことを口走る男だ。焔は、ひとまわり大きい庵野の腕のなかで、なんだよと軽く呟いたあと、顔をあげて、庵野の首元にもたれて返事した。呼吸を吐き出しあう空気など、とうの昔に共有しているのだ。

    「……そんなに気にしなきゃいけないことなのか?」
    「ホノオくん。僕はだらしない人間だからさ。どこで、どんな病原体をもらってるか、わからないぞ」

    そう言えば。ホノオの記憶の中に、庵野の友人がぼやいていた姿があった。

    「赤井が言ってたぞ。庵野は絵を描き出したら、飯も風呂もまともにしないって。お前、本気でサッポロポテトバーベキュー味を、野菜や肉だと思って食ってるのか?」

    郷里の親に大切に育てられたホノオだった。寝食も風呂も忘れて、何かに没頭する行為は、人としての何かを喪うのではないかと訝しむ。
    だが、それほどまでに、創作行為に意識を潜り込ませねば、自身を追い込まねば、人の心をうつものなど作れないのではないか、時代の流れに乗れないのではないか、俺如きが、とも、ホノオは逡巡していた。
    いや。
    俺は成長途上だから、創作だけじゃないものを選んだのだ。バドミントン部に入って体を鍛えた、トンコにも出会い、時々逢う約束もしているし、約束せずとも逢いにいける。津田とも、部活以外に会う時間があり、会話を重ねた。リアルに充実しているじゃないか。
    俺は、創作だけじゃない、女の子ってものをある程度わかっている。焔は、机の上にある、自身が描いた、メーテルに似たトンコや、岡ひろみに似た津田を思い浮かべ、言葉を繋げた。

    「なぁ、庵野」
    「うん?」
    「サッポロポテトは野菜や肉じゃないし、絵に描いた女の子は本物じゃないぞ。たまには現実を振り返ったほうがいいんじゃないか?」

    漫画や創作に魅せられ、慈しんでくれた親から遠く離れ、気候も言葉も文化圏も違う地で、自分が何者かわからないまま暮らしているくせに、とホノオの胸が痛む。
    庵野は、ホノオの肩を包んだ手のひらを、今度はホノオの頭の上に載せた。ホノオは庵野の更なる愛撫に身をこわばらせたが、庵野のホノオよりもひとまわり大きい掌が、ホノオの髪を梳いていく感触が心地よく、庵野から与えられた人の体の熱を、ホノオは味わった。常軌を逸した部分があるが、人としての優しい部分を持ち合わせているのだと、ホノオは庵野の愛撫に身を委ねた。泣きぐせのついた鼻や口に、またツンとした熱さが刺さる。さきほどのサッポロポテトの時とは別の、涙だ。庵野は温かいやつなのだ。庵野は、少しタガが外れているだけだと、ホノオは庵野を好ましく思った。自身のベッドの上で、庵野に包まれ抱きしめれたままだ。


    「余計なお節介かもしれんが、庵野が心配でたまらなくなってきた」
    「優しいやつだな、ホノオくんは」

    何かと引き換えに、神の如き創作能力を持つ庵野は、ホノオにとって、破滅に向かって生きているように見える。

    「庵野、俺……」

    ライバルと庵野のことを認識していたが、俺のことを庵野はどう思っているのかと、ホノオの口から飛び出そうになった。言うのか、それを。
    身体は庵野に引き寄せられ、身長差はあるものの、お互いの心臓の位置が近い。見えもしない新型ウイルスなどに生命を左右されるのが嘘だと思うくらいに、お互いの心臓は昂りあう。
    何か起きてもいいはずの、二十歳前。新型ウイルスの流行のせいで、世間から隔絶され、ともに閉じこもる相手を選んだものどうしだ。トンコにも会えず、津田にも逢えず。人と人が接触することを避け、病を避けるのだとしても、自分をどうにかしたいという病はどうしたらいい。
    ホノオは庵野の腕の中で逡巡していると、庵野は出し抜けにホノオに語り出した。

    「僕は飯や風呂だけじゃなくて、女の子にもだらしないもんでね」
    「……なん、だと?」
    「どこで何を貰っているか、わからないのはそういうことだよ、ホノオくん。僕の体液には誰かに触れた名残があって、それを君に移してしまうかもしれないってことだよ」
    「えっと……、体液ってそんなに簡単に移るもんなのか?」

    ホノオは子犬のような瞳で庵野を見つめると、庵野は悲しげに笑った。

    「ホノオくん。君は今まで、どんなデートをしてきた?」
    「え?」
    「お前にも、女の子といた経験があるんだろう?」
    「あ、ああ」
    「女の子と、何もしないのか?」

    庵野とホノオは、今、六畳一間の密閉された空間で、密着密接している。庵野の腕の中に、ホノオが収まり、お互いの心臓が近い位置で、風呂に滅多に入らないという庵野の体の匂いを、ホノオの鼻が、少し甘いパンの匂いに感じとる。
    両親との記憶を別にして、他の誰かと、ここまで密になったことは、ホノオの記憶になかった。

    「も、もちろん!いっぱい話したり、将来の夢を語ったり、いろいろ遊んだりしているぞ」

    ホノオは再び、津田を思い、トンコを想った。友情と、なにかを付け足した感情しか持ち合わせていないのだ。……そういえば、トンコさんや、津田は、俺の話を面白がってくれたけど、俺は彼女たちの話を聞いていたのか?
    ホノオの心が、冷え出した。こうして俺が、庵野に抱かれているうちに、トンコさんも津田も、内緒で誰かと密になっているのでは?そんな事態になっているとすれば、新型ウイルスのせいか?いや、紛れもなく、それは……

    「ホノオくんは可愛いな。こんな浮かれた大学に来ているんだ。気にせず、ヤればいいのに」
    「へ?」

    ホノオの肩が戦慄いた。ヤるって言ったのだ、庵野が。俺はまだ、女の子に手を染めていないのに。

    「つまらないんだろう?」
    「お、俺はつまらなくないぞっ」

    つまらないと、庵野の腕の中で泣き喚いていたことを、自身の胸中にかすめながら、ホノオは顔をあげた。顔をあげると、庵野の顔が近い。
    無精髭が生えているものの、津田や岡ひろみのように引き締まった顎であり、油染みのあるメガネのレンズの奥の瞳は大きく切れ長で、メーテルやトンコさんのように引き込まれそうな雰囲気だ。手を伸ばせば、俺のものになったかもしれない女の子たちの影を、庵野は纏わせている。創作に身を捧げたと言いながら、どちらの殻も破れないでいる焔に、庵野の瞳は対峙した。

    「綺麗な目をしているな、ホノオくん。君のむこうみずなとこも、鼻息荒いとこも、人の言うことに馬鹿正直に反応してしまうとこも、全部面白いよ」
    「なっ……、庵野、お前、俺を馬鹿にしてるのか?」
    「君は、つまらなくないよ」
    「嘘をつけ」

    ホノオ自身が天才と認めた相手が、自分を面白いと言い出したのだ。

    「俺はどうせ、いろいろ詰まってるうえに、真っ白だよ!知ってるくせに」

    コンプレックスを口に出した。トンコにも津田にも、焔に対して関係を進めたいという仕草や言動を受け取ったことがあったが、俺には漫画があるからと、なにも進めなかったのだ。素材として、俺は面白がられている、庵野という天才に。

    「なんで、俺がお前と閉じこもりたがったのか、わからないのか」

    焔は、庵野に抱えられた姿勢から、何かをぶつけるように、庵野をベッドに押し倒した。庵野は、ホノオの動きに、抵抗なく身を委ねた。ホノオよりもひとまわり大きい体だが、創作と引き換えにしたように筋力に乏しい。

    「えっと……、庵野、すまん」
    「あっさり、我に帰るなよ、モユルくん」
    「下の名前で呼ぶなっ」

    庵野を見下ろしているのは、焔のはずなのに、焔は、庵野を押し倒している事実に居た堪れず、顔を伏せて赤面した。

    「焔が、僕と閉じこもりたがったのは、僕のことが好きだからだよね?」

    焔の下に組み敷かれている、庵野の方から手を伸ばした。ホノオの頬を指先で微かに撫でだす。その柔らかさとくすぐったさに、ホノオの見開いた目は少しずつ細くなっていった。

    「あ……」
    「そんな声出すんだ、ホノオは」
    「すまん」
    「僕は嬉しいよ?」

    やはり、慣れているのか?庵野は。自分と同じく真っ白だと思っていた同級生は、二歩も三歩も先を行っていた。

    「一つ聞く」
    「どうした、ホノオくん」

    庵野は、会話ごとに名前を呼ぶ。

    「女の子は、こういう時、どういう顔をしている?」
    「今の君とおんなじ顔さ」
    「からかうなっ」

    ホノオが、もとの表情に戻ろうとした瞬間、庵野はホノオの上着の下に、手を伸ばした。

    「んんっ!」

    親に見つかって、怒られた漫画の中の性知識。それをいま、自分が実体験している。

    「手が早くないか?庵野」

    庵野の手は、ホノオの胸筋の先をいじっていた。ボタンをかけては外すような仕草に、ホノオはため息を漏らす。庵野は、ホノオの体を惚れ惚れと見つめていた。

    「分厚い胸板だな、ホノオくん。運動しているやつの体だ」
    「乳首をつねるなっ」
    「痛いか?」

    その逆だ。ホノオは唇から吐息が漏れ出した。女の子のからだも、こんなふうに、感じ出すのだろうか?ホノオの体幹の中心が熱を帯びだし、骨盤の中央が切なくなりだした。

    「いやか?」

    ホノオは横に首を振る。ひとこと、ずるいと言い添えた。それを聞き、庵野は、唇を微かに歪めて笑った。サッポロポテトを食うかと言った、ぞんざいで荒削りな口調と、ホノオを丸呑みをせんばかりの、魅力的で大きな口だ。

    「あとで、モデル料出すよ。運動している男の体を、もっと触りたかったんだ」

    そういう扱いか。ホノオは苦笑いをした。本気じゃないから、俺に手を出せるんだ。

    「見せてくれよ。ホノオくんの胸」

    俺が頼めば、トンコさんや津田は、胸を見せてくれたんだろうか?俺の恋人は漫画で、自分に向けられないって、彼女たちはわかってしまったんだ。女の子は馬鹿じゃない。

    「見るなら見ろよ、ヒョロガリめ」

    ホノオは、庵野の体のうえで、上着を脱ぎ捨てた。

    「触れよ。ここが大胸筋で、ここが腹斜筋だっ」

    庵野の手を、ホノオ自身の胸や腹部のくびれに導いた。

    「あーあ。細い指して、俺より低い体温して、気持ちいいな、庵野の手は」

    ヤケっぱちのようにホノオは呟いた。庵野の手が、ホノオの腹をなぞる。なにやってんだ、故郷から遠く離れた田舎町で、親の目も届かないところで、男の指で、身をよじらせて。

    「お前ばっかり、すごいもの描いて、すごいって言われて。女の子だって居て……」

    親にも、見せたくない心情や表情を、六畳一間の部屋で、剥き出しにして。

    「庵野。ずるいわ、お前。俺、なにも経験してねえよ」
    「……やっぱり、君は面白いな」
    「うるさいっ。このまま、なにもなれない怖さが、お前にわかるのか?」

    庵野は、自身の身を起こすと、焔の肩を抱き、囁いた。

    「ホノオくんはくるくると表情や頭の中が変わるんだな。君はいいね。僕は人や自分の心なんて見てないから、だめだ」

    庵野は、無機質にホノオの耳元で呟いた。焔の鼓膜が、庵野の「だめだ」を捉え、ホノオは庵野が才能と引き換えにした何かを知った。

    「なあ、庵野。お前が可愛がってきた女の子たちは、どんな顔をしていた?」
    「急にどうした」
    「俺は恥ずかしかったけど、女の子は庵野のこと好きだったんだろう?女の子は幸せな顔をしてたか?」
    「ええっと……」
    「こたえろ、ひとでなしっ。女の子の方だって、こういう関係になる前に、一通りの感情やら覚悟やら未来やら考えたんだろう?」
    「……待て、そういう重たいのは必要なのか?」
    「いいから、俺を納得させろ!」

    ホノオは庵野の顎を掴んだ。庵野のメガネを外し、邪魔だと呟くと、ホノオは庵野の唇に自身の唇を合わせた。


    「いいのか、ホノオくん。僕にそこまでして?」

    庵野の唇は乾いていた。軽く触れ合うのみだったが、口づけは口づけだった。ホノオは、自身の唇に指を添えた。親ですら、ホノオにしたことがない行為だ。

    「庵野の唇は、柔らかい……」
    「そ、そうか?」
    「電流が走ったかのように、気持ちいい。漫画のこととか何もかも捨てろと言われても、捨てられるくらいかもしれん」
    「……大丈夫か、ホノオくん」
    「ソーシャルディスタンスのことか?」
    「脳みそだ、君の」

    ホノオの脳内に、トンコと津田の顔が、脳内に映し出される。優しかった両親が映し出される。好きだった漫画、自分の未来で待ち構える、ホノオの傑作。なにを俺は描こうとしていたのだと振り返る。ホノオの机の上の紙には、ホノオが描いたトンコと津田だ。俺はどうしたらいい?トンコさんや津田なら、俺を導いてくれるのか?いや、導くまい。俺は彼女たちよりも創作に逃げてしまったから。彼女たちでなければ、俺を導いてくれるのはなんなのだ?ホノオは自分の唇を指でなぞった。庵野の唇に触れた部分だ。

    「庵野」
    「どうしたんだ?言っていることがおかしいぞ?何もかも捨ててもいいとか、何より、君が漫画を捨ててもいいなんてな」
    「近すぎるのだ、庵野が」
    「さっきから、そうだよ」
    「お前は俺に近すぎる。トンコさんよりも、津田よりも、俺の親よりもだ。俺の心に近すぎるんだよ」
    「それなら、僕が君から離れた方がいいか?」
    「離れろとは言っていない!」

    勝手な男だ。お互いの心に、浮かんだ。庵野はホノオを興味深く、やや呆れて、ホノオ自身は、自身の心の面倒くささに自己嫌悪になっていた。

    「良かった。離れろと言われたわけじゃないんだな」
    「どういうことだよ、庵野」
    「離れろなんて言われたら、僕、君の顔が見えなくなるからな」

    庵野はおもむろにホノオの手首を掴み出した。華奢な体格に見えても庵野の肩幅は広く、指は長く、骨格は、筋肉質なホノオとは別の男らしさがあった。再び触れられた。手首を握られた困惑とともに、庵野と行為をした女の子の気持ちをなぞっているのかとホノオは胸を昂らせた。

    「……メガネ」
    「え?」
    「ホノオくん、僕のメガネ返してくれないか?」

    庵野が握った方のホノオの掌中には、庵野のメガネがあった。それに気づいたホノオは我に帰り、庵野にメガネを返した。

    「大事なメガネを……すまなかった」
    「構わない。僕とキスするとき、邪魔だったんだろう?」

    ホノオは先ほどの、庵野の唇を奪ったことを思い起こした。やってしまったと、ホノオは恥じるが、庵野は意に介さないようだった。

    「ホノオくん、君から僕はどう見える?」

    庵野は、ホノオから返してもらったメガネをまだ身につけていない。ホノオは繁々と、庵野を眺めた。庵野は女の子と行為をするときは、メガネは外すのか?それともせっかくの生きた資料だから、メガネをつけて、女体をくまなく見るのか?なによりも、メガネのない庵野の素顔は……

    「腹立つほど、ハンサムだな。庵野」
    「みんな、僕のことそう言うよ」

    岡ひろみのような引き締まった顎と、メーテルのように切れ長の瞳を持つ男が、美しくないわけがなかった。

    「さっき、君が僕に聞いた、女の子の顔の答えを言うよ。ホノオくん。僕と、そういう仲になった女の子たちはね、僕のことを、そんなに見ていない」

    ホノオには、庵野に聞きたいことがあった。庵野と行為をした女の子は、庵野のことを好いているはずだし、きっと、ホノオが経験したことがないほどに幸せな顔をしているはずだと。それでも、庵野自身は人や自分の心を見ないからダメだといい、生活も何もかもだらしがない。

    「生まれたところは田舎だからさ、他に娯楽がなくてな。そういうの、挨拶がわりみたいなもんなんだよ」
    「あ、あああ、挨拶がわり!?」

    好きとか嫌いとかを飛び越えた、庵野の返答に、ホノオは目を丸くした。

    「だってさ。僕に対して、そういう雰囲気になってる女の子に、好きじゃないからって、つっぱねられるかい?そっちの方が可哀想じゃないか?」
    「ちょっと、俺の理解を超えている……」

    創作以外はどうでもいい証なのか、人の心も自分の心も見ようとしないから、僕はダメだと庵野は自嘲していたのだ。ホノオの知らない人生を歩んできた庵野に、苦しげに告げた。

    「すまん、お前のことがわからん。俺は頭が固いのかもしれん」
    「君のそういうところ、ほんとに好きだぜ。ホノオくん」


    庵野が、ホノオにニッコリと笑って、自身のメガネをかけた。ホノオが知っている、いつもの庵野に戻っていた。

    「君は、いい漫画家になれるよ。いつもムキで頑固だからさ。僕は君より、一つ年上だけど、高校卒業してから、なにをしていいか分からなかったよ。来る女の子もみんな、僕に何かあると思ってはそうじゃないとがっかりして。僕は僕で、女の子なんて上っ面しか知らないよ」

    やってられないよなぁ、恋なんて。庵野はそう呟くと、ホノオの肩に手を乗せた。

    「僕ら、まだ何者にもなれてないよ、ホノオくん。今でも僕は、何をしたらいいかわからない。僕と同じく、楽しさに惹かれて、芸術大学に来たものの有り余る自由と時間に途方もくれている男や女が、どれだけいると思う?君のいう通り、何もかも近すぎるんだ、僕ら。だから……」

    庵野はホノオの肩から手を外し、ホノオの机の上の、トンコと津田が描かれた紙を手にした。……庵野が、俺の絵を見る。ホノオは一瞬身構えたが、ホノオの絵を目にした庵野は天上の恋のように優しい表情だった。

    「経験不足なんて、飛び越えてしまうくらいに、君も、君の描く作品も面白い。キスだなんだで、漫画や全てを捨ててもいいだなんて言うなよ。……僕にとって、君は……」

    続く言葉を濁すかのように、急に庵野は咳払いをした。

    「と、とと。君が描いた女の子たち、可愛いよね。この絵、もらっていいかい」
    「……いいけど」

    ホノオは訝しげに庵野を見つめる。自分の絵を褒められるのは嬉しいが、庵野がホノオに言った「僕にとって、君は」の言葉の続きが気になった。ふと、庵野が使っていた机をホノオが見ると、そこには、一人の青年が描かれていた。ホノオにとって見覚えのある青年だ。誰だ?

    「俺だ!」

    ホノオは驚きのあまり、口をパクパクとさせて、絵と庵野を交互に指差した。庵野は、自身が描いたホノオの絵を見つけた彼に気づくと、照れ臭そうに呟いた。

    「あーあ。気づいちゃったか。あげるよ、それ」
    「庵野、お前は俺を面白がっているのか?」
    「さっきからそう言ってるよ。でもね」

    庵野が再び、ホノオの肩に手を置く。振り返れば、上半身が裸だったと、ホノオは恥じると、庵野はホノオの体を引き寄せた。

    「どうでもいいやつと、一緒に居続けようなんて思わないよ。僕は、君が、一緒に閉じこもる相手に選んでくれたとき、嬉しかったなあ」
    「これは、密じゃないのか、庵野」

    ホノオの体を抱きしめた庵野を、ホノオは苦笑いで受け止めた。

    「密、だね。でもさ、ホノオくん。一緒にいたって、遠くにいたって、多分、君はいろんな人の頭の中や感情を、君色の面白さで染められる人だよ。新型ウイルスより、たちが悪い」

    庵野が、ホノオの裸の肩に顎を載せ、ホノオの背中を撫で続ける。ホノオは、大型犬のようにじゃれつく庵野にされるがままだった。
    庵野の掌が心地よい。耳元で、自身を全肯定してくれる言葉が、この上なく嬉しい。

    「風呂に毎日入ってる体って、いい匂いがするね」
    「入れよ」

    人としてアンバランスな庵野。庵野の型破りな才能を、観察し続けたら、自分のものになれるかもしれないと踏み、ホノオは庵野と一緒に、閉じこもることを選んだのだ。

    「庵野、サッポロポテトは飯じゃないぞ」
    「……作ったり食べたりがめんどくさくてさあ」
    「俺が作ってやる。ガリガリじゃないか、お前の体」
    「あ……、そこに手を伸ばすんだ、ホノオくんは」

    俺は庵野になれない。俺は俺にしかなれない。体を庵野と、どれだけくっつけても、別々の人間だ。それならば、いまある時間と、心の赴くまま、楽しむほかはない。
    ホノオは、腹を決めると、誰よりも強い瞳をする男だった。それにホノオは気づかず、庵野は気づいていた。


    「庵野。俺に、恋をする気分を教えてくれ」

    庵野は、ホノオの真剣な眼差しを見つめると、ホノオの唇に自身の唇を当て、お互いのソーシャルディスタンスを破り出したのだった。章タイトル
    こまつ Link Message Mute
    2020/06/28 12:25:44

    庵ホノ「ソーシャルディスタンス」

    #アオイホノオ

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